3/17から父との同居 父とはうまくいかなかった。一緒に生活してから3週間頃
これからのことを相談する。この当時は我々も南相馬に戻れるかどうかまだまだ・
わからない状況で もしかしたら家内の実家の千葉に行くことも選択枝に入れて考えていた。父は、これからはどんなことになろうと兄家族と行動を共にするとのこと。
そして出来れば早く鹿島に帰って母と暮らしたいとのこと
私は、母の意見はどうか聞かなければと言うと、父は母の意見は尊重しないと断言 言葉を失う。私が父との関係を良好な状態にしていたならば父も、私達と行動を共にしようとしたのだろうが・・今までの経緯を考えると、私の心の中で父を許すことが出来ないのが原因なのかもしれない。ここ数年は本当に父との関係は最悪だ。私は貝になり、ほとんど父と顔を合わせて話をしていない。週に2~3度治療に来ているにもかかわらず・
父は2006年暮れ頃まで 母と二人で暮らしていた。 父は兄のセブンイレブンの深夜のシフトを手伝っていた。2002年頃から母は頭痛と不眠症で悩みはじめ 薬を服用するようになり、だんだん薬の量も増え、近くの精神科に入退院をくりかえすようになり 昼間から雨戸を閉め 薬を飲み昼夜の区別がなくなって来ていた。
今、思えば17~8年前 この頃から母の薬について 父と意見が衝突し始めた。
私は、何とかして薬を減らすように父に進言してきたが、父は何故か 頑として受け付けなかった。それは母に薬を飲ませて眠らせていれば昼間、父は自分の好きなことが出来ることも一つの理由だった。また、母から薬、薬とせがまれればあげてしまうという悪循環であった。
そんななか、セブンイレブンの駐車場を広めるため今まで両親が住んでいた住居を壊すことになり2006年の暮れ 両親は兄家族と同居
父は相変わらず深夜の仕事 私は時折(月に2回ぐらい) 母の様子を見にいくと自分では身動き出来ない母の姿を見、これでは死んでしまう!
父に「家に連れて行く」というと、「いや、薬減らすから、もう1週間様子をみてから」 と、何故か 私の家に母を連れて来ることに反対しました。しかし、私は母を負ぶって車に乗せ強引に連れてきて、薬を調整しました。1週間ぐらい我が家に来ると自力で何とか歩くことが出来る状態でした。しかし、また父の所に戻るとすぐに薬漬けになり
意識朦朧とした状態でポータブルのトイレにも立てない状況となり、おしめをして
寝たきりの状態になってしまいます。私の家に連れて来たり戻ったりと1年
私は父にここにいて深夜の仕事していると、母の面倒をみることが出来ないから、じいちゃんも、もう高齢だし仕事は辞めさせてもらって鹿島に引っ越して(父の実家 誰も住んでいない状況)母と一緒に暮らすのが一番良いのではないかと説得
2007.暮れに鹿島に引っ越す
しかし・・事態は悪化の一途 夜、母に何度もおこされるからと 母の言うがままに薬を与える。確かに母は、頭が痛い 頭が痛いと言って薬薬と父を呼ぶらしい。
薬を飲んで眠れば静かになり、その間は父も自分のことが出来るので、昼間も薬
夜はおしめをかけベッドからはい出さないようにと身体を縛ってしまうと言う、母にとっては虐待されていると思いこむ状況であった。私は、いつでも家で看るからと言っても、父は頑として受け付けない。家内にも絶対 ばあちゃんの面倒を看るなんて言うなよ!と、念の入れよう。自分たちのことはかまわないで欲しい! と、何度 言われたことか・・ 何故?それほどまでに我が家に連れて来たく無かったのか・・今もわからない。、親にそんなことを言われるのはなんと悲しくさびしいことか・
実家に戻った両親 母は、ますます悪化し 昼間も部屋は真っ暗 戸を開けてみると
おしめを脱ぎ捨て 汚物まみれになっている母の姿はまるで廃人だ。人間とはいえない状態に愕然とする。
食事も一人で食べられず父に食べさせてもらう状況 しかし・・夜 ベッドに縛られて、母としては虐待を受けていると受け止めているのだろう。父のことを毛嫌いし暴言を吐き食事もあまり食べない様子で 聞くに堪えない暴言を吐くようになっていた。
そこで私は昼休み 母の食べられる食事を持って毎日 出かけ 母を無理矢理茶の間に連れてきてスプーンで自力で食事が出来るように介助した。父は、そこに連れて行くのは歩けないのだから 無理だ・無理だの一点張り いやいや・そんなことではどんどん悪くなるから少しでも改善しなければと言う私とはすべてにおいて意見が衝突
それならば、訪問介護をお願いしたらどうか・と言っても一度や二度では頚を縦に振らない・・何度も言ってやっと・ヘルパーさんをお願いする。
それでも月に一度は我が家に来るようになる。ここでも薬 薬 薬が切れてくると何とかベッドからはいずりだし 治療室のドアを叩いて薬 薬 完全に薬物中毒
世話をしてくれる家内にも私にも暴言を吐く 我が家に来たと思ったら、こんなひどいところにはいられない。鹿島に戻るからじいちゃんを呼べ! と、仕方なく鹿島に戻ると
30分も経たないうちに 迎えに来てくれと ℡のベルが鳴るたび胸が苦しくなった。本当に振り回される毎日 私は偽薬を作り与えることにした。毎日、200粒以上の偽薬を作り母に与えた。 鹿島と我が家を行ったり来たりの生活が震災の年まで続いていた。
父とはもう断絶状態 母が家に来ているときは毎日 10時頃来て夕方帰る。
母からは来るな。来るな 帰れ帰れ!と暴言 私も必要なこと以外何も話さない。
それでも、父の治療は無言で週に3回していた。