中国の火星探査機「天問1号」は2020年7月23日、大型ロケット「長征5号」に搭載されて海南省の文昌宇宙発射場から打ち上げられ、予定軌道への投入に成功した。2021年2月に火星に到達する予定だ。ロケットには、着陸船、探査車(ローバー)、軌道船が搭載されており、火星の形態、地質学、鉱物学、宇宙環境、土壌や水氷の分布などを調査することをミッションとしている(「中国初の火星探査ミッション」を参照)。
すでに7月20日にアラブ首長国連邦の火星探査軌道船「ホープ」(Hope)が種子島宇宙センターから打ち上げられたほか、アメリカ航空宇宙局(NASA)の火星探査ローバー「パーセヴェランス」(Perseverance)を載せたアトラスVロケットが7月30日に打ち上げられた。火星をめぐって、宇宙でも米中の覇権争奪がスタートしたようにもみえる。そこで、火星探査競争の現状について地政学的に考察してみたい。
火星探査機「天問1号」の打ち上げ=2020年7月23日、中国・文昌宇宙発射場 MorrisonMike / Shutterstock.com 中国の宇宙戦略
ここでは中国について紹介したい。参考にするのは、2020年3月に公表された報告書である。米中経済・安全保障再検討委員会の審議を支援するために、米中経済・安全保障再検討委員会の要請を受けて作成されたものだ。
その分析によれば、中国共産党は権力の独占の維持を最優先目標として、宇宙での成果を通じてその正当性に資することを基本としている。そのために、中国共産党は文民と軍事の統合という戦略をとっている。有人宇宙プラットフォーム、信頼性の高い宇宙ロケットや人工衛星の開発・運用、さらに月面探査機の月の裏側への着陸などを通じて、宇宙技術の平和的かつ実用的な開発を行うと同時に、人道支援・災害救援での宇宙利用にも力を入れている。だが他方で、宇宙での最新技術開発が陸上、海上、空中での軍事的優位につながるように宇宙の軍事利用に余念がない。
ただし、米国政府もまた軍事と民事の二重利用を行ってきた。違いがあるとすれば、中国共産党が独占支配する中国では、圧倒的に軍事重視の宇宙戦略が幅を利かせてきた点にある。報告書にある、「中国政府筋によると、中国の国家宇宙計画の大部分は人民解放軍によって管理されており、中国の宇宙資産は危機や戦争が発生した場合に動員されるために、軍事または二重(軍事・民事)資産として割り当てられていると考えられる」という指摘は重要である。
中国国務院は 2000年、2006年、2011年、2016年に宇宙政策白書を作成したが、それを背後で牛耳っているのが人民解放軍ということになる。ゆえに、2016年に発表された宇宙活動白書では、宇宙計画の軍事的側面と国家安全保障の側面については言及されていないと報告書は指摘している。ただし、中国に言わせれば、2015年5月から、軍事戦略白書を発行するようになったので、こちらを見てほしいということかもしれない。
米国側が注視しているのは、潜在的な敵の宇宙利用を低下させたり拒否したりするための宇宙能力の開発である。具体的には、衛星ジャマ―や衛星攻撃兵器(ASAT)などの開発だ。中国は2025年までに有人宇宙ステーションを打ち上げ、軌道上で組み立て、運用することを計画しているから、そこで「宇宙ロボット」(空间机器人)の開発にも力を入れている。
こうした中国の宇宙戦略からみると、火星探査はずいぶんと先の話であり、今回の天問1号の発射は国威発揚の面が大きい。
米国の対中戦略アプローチ
こうした中国に対して、米ホワイトハウスは2020年5月、対中戦略アプローチを公表している。そのなかで、2017年12月に明らかにした米国家安全保障戦略(NSS)の四つの柱(①アメリカ国民、祖国、生活様式の保護、②アメリカの繁栄の促進、③強さを通じた平和の維持、④アメリカの影響力の促進)を守ることを前提に、米国の国益と同盟国にとっての有害な行動を、停止または削減するよう中国に強要することを対中戦略アプローチの目標としているとしている。
「中国政府は、貿易と投資、表現と信教の自由、政治的干渉、航行と飛行の自由、サイバーやその他の種類のスパイや窃盗、武器拡散、環境保護、地球規模の健康など、多くの分野で約束を果たしていない」として、中国と対峙する姿勢を鮮明にした。
米国の宇宙戦略
Shutterstock.com つぎに、米国の宇宙戦略をみてみよう。米国政府には、「国家宇宙戦略」(2018年)と宇宙政策指令1「米国の有人宇宙探査計画の再活性化」(2017年)という宇宙戦略がある。
2017年12月11日付のトランプ大統領による「宇宙政策指令1」署名後、副大統領と国家宇宙評議会は、2019年3月、国家宇宙評議会の会合で、同指令を拡大した。米国は2024年までに月の南極にアメリカ人を着陸させ、2028年までに月に持続可能な人類のプレゼンスを確立し、人類の火星探査のための将来の道筋を描くことを目指すとしたのである。まず、月に向かい、そこでの経験を将来の火星探査ミッションのための科学、資源利用、リスク低減に向けることにしたわけだ。
前述した二つの方向性をもとに、2020年7月23日、ホワイトハウスは次世代の宇宙探査戦略として「深宇宙探査・開発の新時代」を発表した。そこには、①低地球周回軌道、②月へ、③火星へという三つの取組が記されている。
低地球軌道では、民間部門が収益創出活動を行い、微小重力下で研究を行うための規制上の障壁を取り除き、そのような活動に投資する企業が知的財産を完全に保持できるように政府が支援していく。
月へのミッション実現のための物流や輸送システムの技術は火星への人類の到達のために必要である。月面活動では、居住、生命維持、発電、送電、貯蔵、表面輸送、資源採取と利用のための手段をより長く、より信頼性の高いものにする。再利用可能な乗り物は、月面と月面ゲートウェイの間で宇宙飛行士や貨物を輸送する。
火星への人類到達というミッションの実現には、現在の推進能力では、火星への片道の移動に最大8カ月の深宇宙飛行が必要で、往復で2年以上もかかる。放射線と重力の低下による有害な影響を緩和する方法を探る必要がある。再生環境制御・生命維持システム、原子力発電機、加圧ローバーなどの利用も課題となっている。これらのシステムは月面でも必要とされ、まず月面で実証される。その際、ロボット利用がきわめて重大になる。
「米国が火星表面での長期の人類の存在を確立できれば、他の目的地を安全に探査するための技術と専門知識を実証したことになる。深宇宙をさらに探査し、資源を見つけて利用し、米国と志を同じくする国々が平和的に太陽系を探査・開発するための環境を確保することは、宇宙領域における米国の利益と価値を恒久的に確保することにつながる」と記述されている。ただし、新戦略の軍事的側面についてはまったくふれられていない。
米中二国だけに火星探査を自由に行わせていいのか
これまでの考察からは、火星探査が短期というよりも10年後、20年後の長期の問題と映るかもしれない。ゆえに、火星探査が宇宙の覇権争奪に直結しているようにはみえない。だが、バクテリアのような微生物や生命体が存在するかもしれない火星の場合、そこで得た表土を地球に持ち帰るといった計画があり、大きなリスクを抱えている。それだけではない。人間のつくった探査機が火星に行くこと自体、火星に生命体を持ち込むことを意味し、火星の「生態系」に打撃をあたえる可能性がある。
米国は2026年にももう一台の探査機を送り、サンプルを採取して火星軌道に打ち上げ、それを別の探査機が地球に運び、2031年に地球に持ち帰ることを目標にしている(ワシントン・ポスト2020年7月30日)。中国も同じようなことを計画しているだろう。持ち帰った生命体を使って、地球全体に脅しをかけることも可能になるかもしれない。そう考えると、国家主導で行われている火星探査が結果として地球全体の生態系そのものに何らかの影響をおよぼす可能性があることになる。そうであるならば、米中二国だけに火星探査を自由に行わせていいのかという疑問もわく。
Shutterstock.com 「宇宙戦争」の端緒
火星に行く前の低地球周回軌道では、すでに「宇宙戦争」とも呼べる事態がはじまろうとしている。2020年7月23日、米宇宙司令部広報室は「ロシア、宇宙ベースの対衛星兵器実験を実施」という発表を行った。7月15日にロシアが衛星「コスモス2543」から新しい物体を軌道上に射出した証拠があるというのだ。これは、別のロシア衛星に近接して放出されたもので、対衛星兵器の実験であった可能性がある。米側は、コスモスの査察衛星という名目が今回の実験と矛盾するものであるとみている。
おそらく低地球軌道では、衛星を撃墜する実験がすでに繰り返し実施されているのではないか。衛星攻撃兵器(ASAT)ミサイルには、宇宙発射型もあれば地上発射型もある。インドは2019年3月、地上発射型ASATであるミサイルによって軌道上の衛星を破壊することに成功し、ロシア、米国、中国に次ぐ4番目の国となった。
なお、中国は2003年、初の有人ミッションを打ち上げ、2007年には、ASATミサイルのテストに成功している(China’s Space and Counterspace Capabilities and Activities参照)。同年には中国の月面探査機が月を周回した。2008年には、中国の飛行士が同国初の宇宙遊泳を行った。2018年だけでも、中国は38機の宇宙ロケットの打ち上げに成功し、約100機の衛星を軌道に乗せた。
こうした現実があるからこそ、米国も宇宙軍を新たな軍隊の一部門として、また、米宇宙司令部を宇宙のための国家統一の戦闘司令部として確立することの重要性を気づいたわけである。
低地球軌道での迫りくる「宇宙戦争」が、火星探査という遠い将来の帰趨を決定づけてしまうのかもしれない。