4カ月遅れの今季初戦 飯塚翔太、スケジュール帳白紙の理由
梅雨明けと同時に猛暑に見舞われた8月1日、自身の故郷でもある静岡の陸上県選手権(草薙総合運動公園)で、リオデジャネイロ五輪男子400㍍リレー(2走)で銀メダルを獲得した飯塚翔太(29=ミズノ)が今季初戦に臨んだ。
新型コロナウイルスの感染拡大によって、五輪選考会になるはずだった日本選手権も中止に。影響はどの競技でも大きい。しかし陸上のような記録競技にとって、選考会にピークを合わせた綿密なスケジュールを白紙にする痛手は大きい。五輪どころか、シーズンさえ始まらなかったこの数カ月の打撃は、はかり知れないほどの経験だったはずだ。
関係者の努力でようやく実践の場が設けられた形に、飯塚は「緊張や不安より、陸上を始めた頃のようにレース前にワクワクしましたね」と言う。本職の200㍍は予選1本で決勝は出場を取りやめたが、待望の今季初レースで20秒70(向かい風0.5㍍)の大会新記録をマーク(自己記録20秒11)した。2日には、100㍍にも出場し10秒13とこれも大会新記録に。17年にマークした10秒08にはにはまだ遠いが、昨年は虫垂炎、肉離れに苦しみ、今季はコロナウイルスと、かつてない長いブランクから重い1歩を踏み出した。
「スタートを切った瞬間にスイッチも入った感じでした。感覚が鋭くなったというか、血が巡り出した感じがする」と、東京五輪の標準記録20秒24への手ごたえは掴んだようだった。
本来なら、2日に行われるはずだった東京五輪の200㍍予選に合わせ、1日は全ての準備を無事終えて集中している頃だった。選手たちの五輪への思いやアスリートの教示を代表するように、飯塚は明かした。
「手帳も、カレンダーにも、五輪当日を目指したスケジュールは実際にびっしり書き込んでありました。気持ちの問題なんですが、新しい日程はあえて書き込まず、20年のオリンピックのレースが終わったら、すべて更新しようと思っていました」
2度目となる五輪1年前が始まり、飯塚のスケジュール帳はやっと更新される。
ささやかな日常の風景だが、スケジュール帳をずっと更新できなかったという本音に、選手の苦悩を改めて教えられるエピソードである。
新天地を求めた再スタートにかけるサニブラウン
100㍍で、日本人初の9秒台(9秒98)をマークした桐生祥秀(24=日本生命)も同じ頃、今季初戦に挑んだ。山梨・富士北麓公園陸上競技場で行われた北麓スプリント100メートルに出場し、決勝では10秒04(追い風1.4㍍)をマークして1着。予選の10秒12からタイムを伸ばし、昨年の9月以来とは思えぬ好調さを強くアピールした。
初戦から、まるでレースを重ねてきたシーズン終盤のような安定した走りで、自身19回目となる10秒10の突破(9秒台を含む)を果たしたが、「ベスト(9秒98)を狙って走ったので少し残念」と、不満な様子を見せる貪欲さも。初戦を終え、今後のスケジュール、課題が明確になったと手ごたえを示した。
9秒97の日本記録保持者、サニブラウン・ハキーム(21)も7月31日に、在籍している米フロリダ大の休学を発表した。ハキームが所属するマネジメント会社「UDN SPORTS」によれば、今後は同じフロリダにある「ダンブルウィードTC(トラッククラブ)」に所属し、コーチも変える。
高校を卒業後、フロリダ留学をする前に指導を受けていたレイダー氏に改めて師事し、新たな環境下で東京に向かって再スタートする。新しいクラブには、リオデジャネイロ五輪男子100メートル銅メダルのアンドレ・ドグラス(カナダ)、同三段跳び五輪2連覇のクリスチャン・テーラー(米国)ら世界のトップ選手がおり、「東京五輪が1年延期したことにより、新たな環境でトレーニングを行い、五輪に臨める準備をしていきたい」と、新天地を求めての決断だ。
陸上は、トラック種目、フィールド種目、ロード種目それぞれで、コロナウイルス感染予防のための厳しいガイドラインを作成している。大会出場前2週間、さらに終了後の2週間も体調管理を追跡する徹底したものだ。「オリンピックの華」と位置付けられ、記録という客観的な材料で準備状況を知る陸上選手たちが、7月下旬、8月上旬と本格的に再始動をした様子は、他競技の選手たちにもプラス材料となるはずだ。
今後1年、アスリートが抱えるトラウマとは
東京五輪のスケジュールを乗り越え、4年間をリセットし、再び五輪1年前からのカウントダウンに入る。選手たちが何とか心身を切り替えようとする姿には頭が下がる。しかし、いまだに切り替えられないという選手がいても、それは懸けた思いの強さの裏返しであり、驚きはない。
2日には、スポーツメーカーのデサントが、公募で寄せられた夢の実現を、選手が叶えるプロジェクトを発表した。そのオンライン記者会見に出席した、競泳の個人メドレーですでに東京五輪代表に内定している瀬戸大也(26=ANA)は、率直だった。
1年延期となった東京五輪について公式な場で話すのは初めてで、質問されると、「練習は再開したが、身が入らない日々が続いている。正直、自分が何を考え、何を目指すのか分からない苦しい状況にいます。正直自分を見失ったまま」と、笑顔を見せながらも苦悩を明かした。
オンライン会見でこうして率直な思いを披露するには勇気がいるはずだ。瀬戸は、延期後約半月、自身のSNSの更新をストップ。すぐに発信した選手たちのように、「気持ちを切り替える」といった言葉を使っていない。本来であれば、五輪後に、発展的に解消する予定だった梅原孝之コーチとの10年に及ぶ師弟関係にもピリオドを打ち、埼玉栄高校での同級生で指導歴のない浦瑠一朗(うら・りゅういちろう)コーチと組む大きな決断をした。
昨夏の世界選手権個人メドレー200、400㍍両種目を制覇し五輪代表に内定。その後も短水路(25㍍)の400㍍で世界記録を樹立するなど、金メダルへのレールを順調に加速していただけに喪失感を変化によって埋めようと考えたのか。
瀬戸を見守る関係者は、「もう一度、あれほどの集中力で、綿密なスケジュールをこなすには覚悟が必要でしょう」と話す。再びそれだけのトレーニングに没頭し、また中止を宣告されるショックを考えれば、トラウマを消せないとしても不思議はない。
表彰台まで金メダルのイメージトレーニングを積んだ五輪当日、瀬戸は「(五輪のレース日と)忘れていた」と、若手と泳ぎ続けたという。何かきっかけを掴みたかったはずだ。東京五輪金メダル最有力候補と言われたスイマーのこれからの動きに、注目している。
8月23日、国立競技場が完成して初めての陸上競技会として「セイコーゴールデングランプリ」が行われる。飯塚、桐生、ケンブリッジ飛鳥(ナイキ)、山縣亮太(セイコー)と、リオ五輪の400㍍リレーメンバーが揃う。陸上競技独特の、あの華やかなさが五輪スタジアムに息を吹き込むだろうか。
朝日新聞 WEBRONZA 2020年8月11日 記事引用