最近になって「モノプソニー」という言葉が少しずつ知られるようになっている。ゴールドマン・サックスで日本経済のアナリストだったデービッド・アトキンソンが「モノプソニー」(monopsony)という概念を使って、日本の賃金が低く抑えられている現状を説明しようとしていることの影響だろう(「日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける」を参照)。ここではまず、この概念そのものについて解説し、ついで彼の主張についても検討したい。
「モノポリー」と「モノプソニー」
実は、筆者は自分が運営している「21世紀龍馬会」のサイトにおいて、「「モノプソニー」(monopsony)解体論の重要性」という記事を2019年3月17日にアップロードした。ゆえに、アトキンソンのいう「モノプソニー」について以前からずっと考えている。
簡単にいえば、モノプソニーは「一人の購買者と多数の販売者からなる市場」を意味している。「需要独占」と訳すことも可能だ。これに対して、よく知られている「モノポリー」(monopoly)は「多数の購買者と一人の販売者からなる市場」を意味し、「供給独占」を示している。独占状況での反トラストは、独占価格による割高の消費者への価格押しつけから消費者を救済するために供給側の構成要素の分解を行おうとする。
拙著『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)のなかで指摘したように、ネットワーク型インフラの場合、通常、発電や石油・ガス採掘にも送電網やパイプライン網の整備にも莫大な固定費がかかるので、参入が難しく、規模の経済性が働きやすいといった特徴がある。このため、政府が介入せず、自然に任せておくと、「自然独占」という供給独占が生まれやすい。
「売ってやるから、安く卸せ」
QualityHD / Shutterstock.com モノポリーの例としては、米スタンダードオイルが有名だ。米最高裁は1911年にスタンダードオイルを34社に分割するよう命令を出した。これに対して、モノプソニーの例としてわかりやすいのは、米小売りチェーンのウォルマートだろう。全米中に販売ネットワークを構築したウォルマートは、のみで削るように供給者から「ちょろまかす」ことでいまでも約25%のグロス・マージンを維持しているとされている(Wired.comの記事参照)。
わかりやすく言えば、「売ってやるから、ウォルマートに安く卸せ」と「恫喝する」わけだ。マンゴーからリーヴァイスのジーンズまでありとあらゆる商品について「ねじで締めあげる」ように交渉して安く納品させるわけである。より小さな小売業者を「えぐる」ためにウォルマートが利用しているのが「大量販売してやるから割り引け」という方法ということになる。
こうして、供給者は需要の栓が抜かれて、ものが売れなくなる恐怖にかられて、惨めながらもウォルマートの要求に屈するしかないという状況に陥っている。ゆえに、ウォルマートがモノプソニーの事例にあてはまるとみる見方(Foreign Policy2013年4月29日付)は多い。
他方で、ウォルマートで買い物する顧客は、比較的安い価格でものやサービスを購入できる。しかも、品ぞろえも多いことから、顧客の多くは自分の選択に基づいてあくまでも自主的な購入選択が可能と誤解している。しかし実際には、ウォルマートにとって利益につながる商品・サービスが店頭に並べられて、顧客はその範囲内で選択を迫られているにすぎない。商品・サービスが本当に適正な価格で販売されているかどうかは疑わしい。
モノプソニーと労働市場
ウォルマートと同じく、「雇ってやるから、多少、賃金が安くても我慢しろ」というのが労働市場でモノプソニーがとる行動パターンということになる。労働力の買い手が圧倒的な優位にあるため、労働力を提供する側は雇ってもらえなくなっても代わりがいくらでもいる状況から、多少、賃金が低くても失業するよりはましとして、その低賃金を受けいれざるをえない状況に置かれていることになる。
アラン・マニングは2003年にプリンストン大学出版会から、Monopsony in Motion: Imperfect Competition in Labor Marketsという本を刊行した。これ以降、モノプソニーという概念を、不完全競争を前提とする実際に近い労働市場に適用して問題点を検討するようになったのである(同じタイトルの論文を参照)。
モノプソニーによる搾取を抑止するための最低賃金制
このモノプソニーは、不利な状況に置かれた労働者の賃金を低く抑えることで利益につなげることができる。モノプソニーによる労働者への「搾取」を抑止するための方策として、政府は最低賃金を決め、それ以下の低賃金で労働力を買い叩くことができないようにしてきた。その意味で、モノプソニーと最低賃金制の導入は密接な関係がある(「モノプソニー理論」を参照)。
ただし、日本ではモノプソニー概念が広まっていないため、最低賃金の引き上げと失業者の増加との関係だけが問題化されてきた。よく聞くのは、「最低賃金の引き上げは失業者増につながる」というものだ。この議論はおかしい。モノプソニーが享受している搾取分の削減をもたらすのはたしかだが、だからといって雇用主であるモノプソニーが雇用を減らすかどうかはわからない。一部の利益が減るからといって、労働者を馘首してしまうと、仕事がうまく回転せずより大きな利益減をもたらしかねない。
むしろ重要なのは最低賃金の引き上げが、最低賃金以下で働いてきた人々の賃金の上昇をもたらす点である。これにより、モノプソニーの搾取分を大きく減らすことができる。この搾取分はいわば「独占利益」であり、政府がこの部分に介入し、収奪の対象となっている低賃金労働者の賃金を引き上げることはモノプソニー抑止のうえからも望ましいと考えられる。
最低賃金引き上げ目安をめぐる会合が開かれた東京労働局の前で、引き上げを求める労組員ら=2020年7月21日、東京都千代田区 モノプソニーによる搾取が横行する日本
より深刻なのは、モノプソニーによって虐げられてきたのが長く女性や留学生を含む学生であったのことである。彼らの声は政治に反映されにくく、その結果として、長くモノプソニーによる搾取がつづき、結果として日本の労働者の低賃金の常態化につながっているという議論が可能である。
もちろん、最低賃金を引き上げれば、その結果として中小企業にとってそのコスト上昇分を価格に転嫁するのが困難という状況を生み出すだろう。一時的に多くの中小企業が倒産する事態も想定される。しかし、そうした痛手をかばうために何もしなければ、賃金全体の底上げができないまま縮小のスパイラルに陥ってしまうだけだ。
いまなすべきなのは、最低賃金を段階的に引き上げてモノプソニーの搾取を抑止すると同時に、中小企業などの業態転換を促す政策なのではないか。自民党は長く商工業者と結託して、これを保護する政策に重点を置いてきた。しかし、その結果、モノプソニーによる搾取が横行し、労働者だけが損を強いられる状況がつづいている。
頼みの労働組合は企業別を基本としているために、同じ職種で働く者同士の関係を希薄化し、自分たちの会社優先の労働運動を展開してきたにすぎない。パンデミック下で失業リスクが高まると、虐げられてきたパート労働者やアルバイト学生の苦悩を思いやることも難しくなってしまう。ここにつけこまれてしまっては、モノプソニーがもたらす問題を解決するのがますます困難となるだろう。
モノプソニーと労働市場
ウォルマートと同じく、「雇ってやるから、多少、賃金が安くても我慢しろ」というのが労働市場でモノプソニーがとる行動パターンということになる。労働力の買い手が圧倒的な優位にあるため、労働力を提供する側は雇ってもらえなくなっても代わりがいくらでもいる状況から、多少、賃金が低くても失業するよりはましとして、その低賃金を受けいれざるをえない状況に置かれていることになる。
アラン・マニングは2003年にプリンストン大学出版会から、Monopsony in Motion: Imperfect Competition in Labor Marketsという本を刊行した。これ以降、モノプソニーという概念を、不完全競争を前提とする実際に近い労働市場に適用して問題点を検討するようになったのである(同じタイトルの論文を参照)。
モノプソニーによる搾取を抑止するための最低賃金制
このモノプソニーは、不利な状況に置かれた労働者の賃金を低く抑えることで利益につなげることができる。モノプソニーによる労働者への「搾取」を抑止するための方策として、政府は最低賃金を決め、それ以下の低賃金で労働力を買い叩くことができないようにしてきた。その意味で、モノプソニーと最低賃金制の導入は密接な関係がある(「モノプソニー理論」を参照)。
ただし、日本ではモノプソニー概念が広まっていないため、最低賃金の引き上げと失業者の増加との関係だけが問題化されてきた。よく聞くのは、「最低賃金の引き上げは失業者増につながる」というものだ。この議論はおかしい。モノプソニーが享受している搾取分の削減をもたらすのはたしかだが、だからといって雇用主であるモノプソニーが雇用を減らすかどうかはわからない。一部の利益が減るからといって、労働者を馘首してしまうと、仕事がうまく回転せずより大きな利益減をもたらしかねない。
むしろ重要なのは最低賃金の引き上げが、最低賃金以下で働いてきた人々の賃金の上昇をもたらす点である。これにより、モノプソニーの搾取分を大きく減らすことができる。この搾取分はいわば「独占利益」であり、政府がこの部分に介入し、収奪の対象となっている低賃金労働者の賃金を引き上げることはモノプソニー抑止のうえからも望ましいと考えられる。
最低賃金引き上げ目安をめぐる会合が開かれた東京労働局の前で、引き上げを求める労組員ら=2020年7月21日、東京都千代田区 モノプソニーによる搾取が横行する日本
より深刻なのは、モノプソニーによって虐げられてきたのが長く女性や留学生を含む学生であったのことである。彼らの声は政治に反映されにくく、その結果として、長くモノプソニーによる搾取がつづき、結果として日本の労働者の低賃金の常態化につながっているという議論が可能である。
もちろん、最低賃金を引き上げれば、その結果として中小企業にとってそのコスト上昇分を価格に転嫁するのが困難という状況を生み出すだろう。一時的に多くの中小企業が倒産する事態も想定される。しかし、そうした痛手をかばうために何もしなければ、賃金全体の底上げができないまま縮小のスパイラルに陥ってしまうだけだ。
いまなすべきなのは、最低賃金を段階的に引き上げてモノプソニーの搾取を抑止すると同時に、中小企業などの業態転換を促す政策なのではないか。自民党は長く商工業者と結託して、これを保護する政策に重点を置いてきた。しかし、その結果、モノプソニーによる搾取が横行し、労働者だけが損を強いられる状況がつづいている。
頼みの労働組合は企業別を基本としているために、同じ職種で働く者同士の関係を希薄化し、自分たちの会社優先の労働運動を展開してきたにすぎない。パンデミック下で失業リスクが高まると、虐げられてきたパート労働者やアルバイト学生の苦悩を思いやることも難しくなってしまう。ここにつけこまれてしまっては、モノプソニーがもたらす問題を解決するのがますます困難となるだろう。
朝日新聞 WEBRONZA 2020年8月12日 記事引用