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そして、2011 3.11 大震災
このような経緯なので、父も私と一緒に生活することは耐え難かったのだろう。
4月の始めに父とこれからの相談 鹿島に帰って母と暮らすという気持ち
そこで私は、二人で生活することは絶対駄目だということ どうしてもというのなら
これから先 兄家族と行動を共にするというのなら、兄たちともう一度同居してくれと言って 兄に℡ 父の意向を伝える。 兄たちも仕事の関係で4/23日に戻ると言うことだったので、4/23 父と母を乗せて鹿島へ 母を父の所に置いてくるのは本当に心苦しかったけれど、仕方がない。山形に戻る。
その日の夜、千葉の石崎さんから電話
明日 相馬のはまなす館に鍼灸ボランティアに入るとのこと
4/24(日)11時に相馬のはまなす館へ 正面玄関に石崎さん 20年ぶりの再会
懐かしい。石崎さん達は関東方面の仲間と一緒にこの地へ 避難者のための鍼灸ボランティアに駆けつけてくれた。阪神淡路大震災 中越地震の時も出かけたとのこと。
普段は月2回 池袋の公園にテントを張り ホームレスの方々の鍼灸治療を継続している。TRST(東京路上鍼灸チーム) 石崎さんは同じ鍼灸の仲間で 20年前に一緒に中国へ勉強に行き 同室のよしみでその後、交流があった。
このはまなす館は相馬地方の東の沿岸部 磯部地域の方々の避難場所
早速 簡易テントを張り 簡易ベッド2台を入れて鍼灸治療 避難者の方々は体育館の冷たく固い上で寝ているため、身体のあちこちが痛くなったり、不眠症になってしまったりしていた。鍼灸治療は道具も場所もとらず、その場で治療が出来るのは本当に素晴らしい。それから毎週 5~6名の有志が土曜日に来て我が家に泊まり 日曜日ボランティアをして帰られた。本当に志の強い人達がいる。現在もお付き合いさせていただいている。
5/15(日)受洗
山形に来て2ヶ月 武藤牧師より学びを週2回継続していただき ついに洗礼式
何もわからない私は 武藤牧師の前にイエスキリストを救い主としてこころに迎えますと誓う。原町教会の高山さんご夫妻もご両親も駆けつけてくれて感謝でした。今、振り返ってみればまさに聖霊に満たされていたから キリストを頭として武藤先生ご夫妻 兄弟姉妹方の祈りがあったからと感謝いたします。
5/16 原町に戻る 母は少し元気そうだった。と言うのも・・
少し認知症の症状が出てきたのかもしれない。父のことがわからず、親切な人が来てくれていると話ししていた。防衛本能がそうさせたのか・いずれにしても暴言を吐かないことは良かった。 日曜日 はまなす館のボランティアが終わってからますみと相馬教会へ
相馬教会の後藤一子牧師から 礼拝をして頂く。5月末頃から 宮城県の山元町体育館へのボランティアを併用 相馬は仮設住宅の復興が早く 5月末には避難所が閉鎖された。
東京組は活動停止 6月から私とますみが中心になって山元町へ 他にもTRSTの有志のメンバー また、神戸から夜行バスに乗って駆けつけてくれる女性もいた。本当にありがたい。私もテントとベッドを購入し 朝8時には相馬教会で 後藤先生に早朝礼拝をしていただき山元町へ ここにもたくさんの方々が避難しておられた。体育館に入りきれず、外のテントや、阪神大震災の時に使用した仮設(立て付けが悪く居心地は良くなかったようだ)治療をしながら震災時の話を聞く。家族を亡くした方・いまだに行方不明の家族や友人 基礎だけになった我が家 津波が来たときのこと 津波に流される屋根を飛び乗りながら助かった人、津波に呑み込まれながら、何人もの人が海に引きずり込まれる様子を感じながら自分は陸にあげられた人の話 柱にしがみつき津波に耐え、傷だらけになりながら九死に一生を得た人・・避難場所に指定された野球場 津波が押し寄せ 野球場のポールによじ登った人だけが助かった話し等々・・ 半壊の家に片付けに行くと箪笥のなかのものがみんな盗まれているとのこと 船の中の魚群探知機や 無線等々金目のものは皆 盗難にあっているとのこと 更に驚くべきは、 盗人達が避難所に避難者をよそおい、昼は海岸線をうろつき金品をあさるという 更には死体の指を切り落とし指輪を盗んでいるというのだ。なんとも恐ろしい光景ではないか。光は閉ざされ罪が、暗闇がこの世を覆ってしまった。
それでも、全国から若者があつまり 津波で流された家屋の片付け 泥かき等々 汗を流してくれる。そんな光景を見ると日本も、若者達も素晴らしく まだまだ、日本はすてたものではないと感じる。また、国を超えての支援物資 更には、歌や踊りで心のケアをしてくれる方々が訪れてくれた。これは、ここだけでなく
あちこちの避難所に、それぞれ たくさんの賜物を持った方々がきてくださった。
本当に感謝なことでした。避難している方々はそれぞれ悲しみを背負っていたけれど、
明るく 希望を失っていなかった。私達も7/24(日)を持って活動終了。仮設住宅の準備が進みそれぞれ引っ越すことになる。
私は石崎さん達によってボランティアに参加することが出来 傍観者ではなく、震災を自分なりに見つめ 関わることが出来た貴重な体験であった。
この関わりがあり、その後、起きた熊本地震のボランティアに参加することが出来
また、ここでも多くの仲間と知り合うことが出来たことに感謝している。
原町教会は、まだまだ信徒の方も散らされていて礼拝は寂しかった。
勿来から金成先生 相馬から後藤先生が礼拝に駆けつけてくださりご奉仕していただいた。私は、毎週 母を迎えに行き 父と衝突しながらも 母を車椅子に乗せて教会に礼拝に出かけるようになる。母は普段の生活では寝たきりの生活のため 教会での礼拝は苦痛を伴ったかもしれないが、金成牧師 後藤牧師 信徒の皆さんに暖かく迎えられ、母は礼拝を守り続け 薬の依存も少なくなってきた。
そして 2012 3.11 なんと去年の震災から1年目の同じ日 母81才
金成牧師の司式の中 受洗
薬物依存からもほぼ 解放され 廃人のようだった母が人間に生まれ変わった。本当に嬉しく 感謝でした。
4月より 以前 ご奉仕されていた葛西牧師夫妻がもう一度 着任
私は、山形めぐみキリスト教会より転会 原町キリスト福音教会に転入
それでも月一度は 家内と共に山形の教会へ礼拝
武藤牧師の奥様からパッチワークを教えて欲しいと言われ 家内も教会に礼拝に伺うというめぐみを頂く。
2014 原町教会は 葛西牧師が奔走しリフォーム工事の準備 着工 その間10月まで 相馬教会で合同礼拝
2015 3月まで葛西牧師夫妻がご奉仕 その間 母は毎週 何事もなければ礼拝を守った。母も今年 84才 いつどうなってもおかしくない状況の中で 寝たきりの状態ではあっても礼拝を守ることが出来ていたのは幸いだった。
しかし、いつか最後が来るわけで 私は、母の意志を確認しておきたかった。
お葬式はどうする? と、聞くと母は教会でしてもらいたいとハッキリと意志を示した。母の願いは3つあった。1つは一日も早く我が家に来たかったこと、二つめはキリスト教での葬儀 3つめは先祖代々のお墓に入るのではなく私のお墓に入りたいと言う願い
一つめの願いはすぐに叶う願いだったが・・(私は家内と相談し、いつでも母を引き受けるから・また、もしここで介護出来なくなって施設にと考えているなら家で引き取るからその前に言って)と話をしていたが・・父は反対 兄もいずれ施設にと考えているという。治療に行くたびに母が家に来たい来たいと言うので 私の家は津波で流されてないんだよ!今 家を作っているからね。出来たら呼ぶからね。と嘘をついていた。 私は、母が震災後、兄たちと同居してから 歯のない母の食事と治療を兼ねて週に3回出かけた。寝たきりだったので関節が固まらないように運動と針治療をした。本来ならば介助をして台所まで歩行させ一緒に食事をすればどんなに良かったか・父は出来る限り誰の力も借りずに母の介護をしたかったのか兄たちにも介助をお願いしませんでした。それは主役の母にとっては決して良いことではなかったと思います。おしめの交換 トイレの始末 母は、父の乱暴な介護に(その頃は最初の認知の状態ではなく父をはっきりと認識し とにかく触るなやめろ!顔を見れば帰れ!ばかりでした。父とだけの会話で世の中から遮断されていました。息をしているだけです。社会との断絶 それはある意味 「死」です。それで父は良いと言うのです。だから私が母を教会に連れていくことを反対していたのです。
父は、実家から朝 8時頃兄の家に来て夕方 私のところにまわり治療をして帰りました。その後 母はずっと一人で過ごすのです。私はそれがかわいそうでした。家に来ればみんなで食事を囲み 話をしていられるのです。
二つめのキリスト教での葬儀についても何度も父と兄に相談しましたが、絶対駄目!という返事です。3つめの私のお墓に入りたい。これは私もまだ、お墓を作っていませんし何と言っても仏式の葬儀となればそのまま 先祖のお墓に入ることになるので、それは私も無理だと思っていましたが・・母には わかったよ!と、言っておりました。
3月 葛西牧師夫妻 退任され札幌へ
4月から 東頭 戌牧師夫妻が相馬と原町の兼牧としてご奉仕
この頃から母の体調は弱ってきました。それでも何とか礼拝に出席
私は毎日 食事を持って顔を出しました。父からの食事を受け付けなくなってきていました。
5/10(日)反対する父を押し切り 母を教会へ
この日が教会での最後の礼拝となりました。 その後、葛西牧師からのアドバイスで 東頭牧師夫妻に母の所に来て頂き お祈りをしていただきました。お祈りをして頂くと母の目はきらきらと輝き 聖霊に満たされたようすで感謝でした。
しかし、ついに食事が喉を通らず かかりつけの医師にお願いし訪問看護
点滴を始めることとなりました。
5月末 もう一度、父にお願いしました。本人の望みでここに来たいと言っているのだからと言うと 兄たちの顔がたたない・・ばあちゃんの言っていることは定かではないなどと・予想はしていたものの、今この世を去っていく人の願いよりもまわりのことを優先する父に怒りと失望を感じました。武藤牧師に母の状況を伝えると本当に愛のこもったメッセージをいただき 祈りましょう!と、私もただ祈るより方法がありませんでした。しかし、祈ってもどうにもならないだろうなとあきらめていました。また、遠く離れた葛西牧師からも心配とアドバイスをいただき本当に感謝でした。
6月 兄夫婦と父と家族会議 点滴も入らなくなり、これからの母の治療(遺漏)については先生と相談するとのこと その後のことについてもう一度、母が望んでいるのだから家で介護したいと言っても兄も父もそれは駄目だということでした。もう一度葬儀についても母の願いだからどうかキリスト教でと言ってもそれも駄目だということ。主に委ねる以外にない。ただただ、お祈りするばかりでした。
6/11遺漏をするかどうか診断のため 病院へ 兄嫁から℡あり
肺炎を起こしているので入院とのこと。夜、病院へ 意識朦朧としている様子
しかし、ここには医師も看護師さんもいて一人ではない。
家に連れて来ることが出来ないのなら、最後はここで迎えて欲しいと願いました。
6/14(日)
夕方 もう一度家族会議 午前中 父と兄たちは遺漏をしないことに決めてきたとのこと。そこで、もう一度 もし、肺炎が良くなって退院することになったらどうするか?と言う話で 勿論 父と兄は家に連れて来るという。
私はこれが最後だから何とか我が家でひきとらせてくれとお願いするも駄目だと言う。沈黙の末 兄嫁が 「ばあちゃんがとっちゃんの所に行きたいといっているのだから」と、初めて賛同してくれ、兄が了解し、父を説得 不本意ながら了承することになりました。
6/20(土)
母 退院 兄と父に連れられて我が家へ やっと願いが叶う。
13時 看護師さんが点滴に来てくれる。夜 薬を飲んで就寝 至福の時間だろう。
6/21(日)
母は昨日とは違い すっきりしていた。すると「お腹が空いた。何か食べたい」と、
ビックリした。1ヶ月以上 何も口から食べていなかったのに・・
おもゆをスプーンに3杯 アクエリアスを少しづつ飲む。奇跡のようだ。
「ここはどこ?」「俺の家だよ」「ずっとここにいられるの?」「ああ・ずっとここにいるんだよ」安心した様子に涙が出た。この頃はもう、目がよく見えない様子だった。
家に来てから朝と夕方 母の枕元でお祈りする。その時は、私は心から祈ることは出来なかったけれど・・母に言った。今まで、じいちゃんがばあちゃんの面倒を看てくれたのだから、きちんとお礼を言わなければ駄目だよ」と言ってお祈りを捧げた。
母は、少しずつ食べられるようになる。点滴は一日おきにするが、 微熱があり、痰もからんで苦しそうだ。看護師さんから痰の吸飲の指導をして頂く。
7/2 ばあちゃん 家に来て初めての便
微熱 痰が絡んで苦しそうだが 少しづつ食べる。
7/8(水)兄の長男 突然の病死の連絡あり 37才
7/9(木)
父は、毎朝 やってきて午後帰るのだが、母の目に触れると と、言っても良く認識できない様子なのだが、声を聞くと父と認識し 顔が険しくなり 「帰れ!」とすごい剣幕なのだ。それでも父は 自分の治療方々 毎日来ていた。
昼 母の所にいた父が、ばあちゃんが、ばあちゃんがと号泣してやってきた。なんと、母が 父に感謝の言葉を伝えたとのこと 「じいちゃん 今までありがとう あとどれくらい生きられるかわからないから言うけど じいちゃんは優しかったな ありがとう」って
いやいや ビックリした。じいちゃんの苦労も報われ歓喜の涙 母も父も救われた。
しかし、その後 父が声をかけると古い人に戻り「なんだ! おまえまだいたのか!早く帰れ!」と・・ しかし 1回でよい 感謝の言葉を言うことが出来た。奇跡だ!
本当に聖霊に満たされたとしか言いようがない。
7/14(火)
母の熱は39.2分 看護師さんみえる 病院へ行くか自宅で過ごすかということで
様態が急変しても自宅で最後を看取ることをお伝えする。
7/15(水)
母は、意識が朦朧としてきている。熱は38.8度 点滴をしても身体が 受け付けず
こぼれてきてしまう。意識のある時は共に祈り、母に感謝の言葉を述べた。
夜、薬を飲ませようとしたが、飲めない。いよいよかと思い 私は、母の側のソファーに横になる。
7/16(木)土砂降り
3時半 母は目をパチッと開ける。目は見えないようだ。母の手を握り感謝の言葉をかけるが、反応はない。5時半 またぱっちりと目を開ける。
6時にますみと共におしめ交換 ますみは、からだをきれいに拭いてくれる。私は、顔をすってあげる。ベッドを起こして乾いた口にポカリを小さじ2杯 飲み込めずこぼれてしまう。目が左右に動き始め、しばらくすると目がうつろになり一点を見つめる。耳元で大きな声をかけるが反応がない。
いよいよかと思い 6時30分 父と兄に電話。
7時過ぎ だんだん肩で息をするようになる。次第に泣きじゃくるような呼吸
そして一定の間隔で呼吸をする。だんだん ゆっくりと深く・・7時36分 最後に大きな息をして眠るように召される。何という最後 幸せな最後 悲しみはない。
本当に良かった。主に感謝の祈りを捧げる。あの廃人同様だった母が人間として、生きながら救われ 神の元に帰ったのだ。本当に嬉しかった。
すると兄から思いがけない言葉
「長男の葬儀が終わったばかりでまた、隣組の方にお世話になるのは申し訳ないので、キリスト教で葬儀をしてくれ」
私は耳を疑った。あれほどキリスト教での葬儀を拒んでいた兄からの申し出
私は、すぐに東頭牧師に℡ 母が召されたこと キリスト教での葬儀をお願いしたいことを伝える。ますみは訪問看護師さんに℡ 担当者と医師が来てくださり死亡確認
東頭牧師夫妻がおいでくださり 母に祈りを捧げていただく。それから葬祭所の担当の方と葬儀の相談 会場が一杯だがなんと、チャペルが開いているとのこと チャペルでのお別れ会と決定。納棺まで時間があるので牧師夫妻とチャペルへ パイプオルガン ステンドグラス何もかも素晴らしい。ここで最後のお別れ会が出来るとは何と感謝なこと。
16時 納棺の予定 3時半 兄から血相を変えたような℡
キリスト教で葬儀をしてもその後の供養は先祖代々のお寺でやってもらう予定だったので、そのことを兄がお寺の住職に話すと
キリスト教で葬儀をしたなら先祖代々のお墓に入れることは出来ない。
どうしても入りたいのならもう一度 仏式で葬儀をしなければならないとのこと
兄はパニックになって℡をよこしたのだ。どうしたら良いんだと!
もう、納棺まで時間がない・ 私は もうすぐ東頭牧師がみえるから、どうするか相談したほうが良いから家に来て欲しいと伝える。牧師と相談 牧師はそれは遺族に任せるということで 兄は帰って父と相談 このままキリスト教で進めることとなる。
夕方、牧師のお祈りの中 納棺
7/19(日)18時より 前夜式 寿子先生の奏楽にあわせ賛美 東頭牧師の司式のもと前夜式を終える。
7/20(月)東頭牧師の司式にて お別れ会 13時半荼毘に付す。
先祖代々のお墓に納骨できないため そのまま我が家へ ずっと来たかった我が家に到着。私のお墓が出来るまで 1年間 ここで過ごす。
ますみには、本当に世話になった。ここにきてからというもの 毎日 下の世話 身体をぬるま湯で拭いてくれていつも清潔な状態ですごすことが出来た。
献身的な介護に心から感謝している。
母の叶わないと思っていた願いがすべて、黒い紙を剥がすように塗り替えられていく様子を目の当たりにして私は、こんなことがあるのかと人知を超えた神の御技に驚く。
それから 父は 一人鹿島で畑仕事をしながら暮らす。週に3度は治療に来るも
私は顔も見たくない。顔を見て話をしたことなどなくなっていた。とにかく嫌で嫌で仕方がなかった。それでも一人でご飯の支度をするのは大変だろうと来るたびに2品 3品を持たせるようにしていたし、1年分の米は届けていた。
礼拝には 教会の イベントの時に案内が来ると出席していた。交わりの時などは牧師に「お父さんも、道子さんのお墓に入るのでしょう?」と言われていたが、
私は、とんでもない。とても父と一緒にお墓に入るなんて考えるだけでも嫌だった。
しかし、父は 母の所に一緒に入りたい様子であった。
私はとても父のために福音が届くようにお祈りすることが出来なかった。
これは、クリスチャンとして大きな課題だと思っていた。到底無理なことで
死ぬまでそれは出来ないことだと思って過ごしていた。
そんななか、 私は、東頭牧師が原町教会に着任してから 牧師に聖書の学びをして頂きたいとお願いし 毎週木曜日の夜 聖書の学びをしていただいた。
聖書は一人で読んでいてもさっぱりわからなかった。牧師に御言葉を取り次いでいただき、少しづつ、靄がかかっていたのが晴れていくようだった。
そんな折り たまたま 参加者が誰もいないときに牧師と二人でお話しする機会を与えられた。「お父さんは、お母さんのお墓に入ると言っているのですか?」と、牧師
牧師は父に福音を伝え 救いに導くようにイベントの度に案内を出してくださっていた。先日も父が治療に来た際 ベッドにうつ伏せになりながら父が「じいちゃんも ばあちゃんのお墓に入らなくてはならないべなあ~」と、いや・先祖代々のお墓に入ったら良いんじゃないの!と言いたかったが口には出さず、何も答えなかった。
そんな言い方はずるいと思う。入りたいなら入りたい!と、はっきり言わなければならないと思う。そのことを牧師に話すと「な~んだ クリスチャンならそこで後押ししてあげなければならないよ」と、そこで私は父と母との関係 父と私とのこの10数年の確執
わたしのこころはシベリアの永久凍土のようですと答えた。
牧師は、クリスチャンは この地上の命が終わる前に 過去の清算をしなければならない。過去に犯した罪を今・現在 清算することが出来るなら可能な限りしなければいけませんよ!」祈っていますと。
私はクリスチャンとしてこの世を終わるまでにきちんと向き合わなければならない大きな課題が二つ残っていた。どちらも自分の中では、この世を去るまでに解決出来ないと思っていた。一つは父との関係
もう一つは40年前にさかのぼる友人との関係であった。
青春時代の心の重荷だった。これは自分では解決することは出来なかったし、
その彼とも出来ることなら二度と会いたくなかった。
そのことから逃げよう 忘れようと蓋を閉めていた。しかし、そうすればそうするほど 昨日のことのように思い出される。自分では解決できない問題があった。
2019年 10月 青春時代 一緒に山登りなどをしていた家内と共通の友人 Tから連絡が入る。Iが難病で入院 脳の萎縮で全身が麻痺 かろうじて意識はあるとのこと
私は、彼の病状よりもさきに ああ・ また 彼氏と向き合わなければならないのか・・
また、40年前の苦い記憶を思い出さなければならないのか・
彼が死の淵をさまよっているにもかかわらず、家族がどれほどつらく悲しい思いをしているにもかかわらず・・私は自分のことだけを考え憂鬱になった。
家内にも話をする。家内は「いつ お見舞いに行く?」彼の所まで車で2時間強
私は出来ることなら行きたくなかった。しかし、偽善者である私は、一度は儀礼的であっても顔を出さなければなるまいと思っていた。
それから、1週間後 家内と病院へ 彼はベッドに横たわっていた。身体を動かすことは出来ないが右手を少し あと、目は見えるようだったが言葉を発することは出来なかった。変わり果てた姿に家内は涙していた。私は40年前からこころの中で彼を拒絶していた。
彼が難病の病人であっても こころは拒絶していることに変わりはない。
彼と目を合わせるのはつらく、言葉をかけてもそれは儀礼的なことで何とも空虚に聞こえたであろう。20分ほど 病室にいたがとても長くつらい時間だった。
病室を出て、私はこれで儀礼的なお見舞いは終わった。もう、二度とくることはあるまいと思っていた。しかし、本当の問題は全く解決していない。
それから毎日毎日 憂鬱な時間を過ごす。これでは身がもたない。
神様にお祈りする。助けてくださいと・頭の中ではクリアしなければならない問題だと思っているけれどこころが言うことをきかない・・
毎朝、主にお祈りする。聖霊に満たしてください。 きちんと向き合おうと、彼氏もいつまで命がもつかわからない状態なのだから・・それから3週間後、私は聖霊に満たしていただいた。彼と向き合おう。家内とお見舞いに行く。きちんと彼の顔を見て話しかける。9月に私と鈴木先生が出版した「すずめのコゼット」の絵本を持って行く。朗読はプロのアナウンサー BGM(擬音付き)ピアノとフルート
彼の耳にイヤホンを入れてあげて 私が絵本をめくると、彼は目で追い 嬉しそうに見ていた。もう言葉はいらなかった。私の心は平安になった。救われた。大きな課題を乗り越えさせていただいた。主よ! 感謝いたします。
モーセがエジプトからイスラエルの民を率いてカナンの地に入るまで40年
私も40年の歳月を経て救いのめぐみにあずかることができた。
すべてに時がある。神のご計画があるのだ。
12/15 友人のTも来福し3人でお見舞いに出かける。まだ、意識ははっきりしていて我々を認識することが出来た。
年が明けて2020年 1月 彼は召された。
さて、父との関係に戻ると
2018年 夏 お墓が完成 母 納骨式 東頭牧師夫妻司式のもと 相馬教会原町教会の兄弟姉妹方の賛美のなか 十字架のお墓に眠る
納骨式も終わり、きちんと父に話をしなければならないと思い、治療に来たときに話をする。「じいちゃんは、どっちのお墓に入るの?」またしても、「ばあちゃんの所に入らなくてはならないべなあ~」 と、いい加減 嫌になる。そうじゃなくて、自分はどうしたいの?ばあちゃんの所に一緒に入りたいの?と聞くと やっと「そうしたい」と、
だったら、そのようにしたいならきちんと、洗礼を受けなければ駄目だよ!と言う。洗礼を受けないでお墓に入っても魂は一緒にはなれないよ。牧師と相談した方が良いよ・と話をする。東頭先生にもその話をして、相談にのっていただく。
イベントだけの礼拝ではなく、定期的に礼拝をまもり、牧師と話し合いをして
ついに、12月に洗礼を受けることとなる。
私も10月頃から、不思議なことに嫌々祈っていた父の救いも、聖霊に満たされ
素直に祈れるように変えられた。
2018年 12月8日 父 受洗 (87才)
素直に感謝出来た。父も救われたが、私も救われた。死ぬまで背負っていかなければならないと思っていた重荷 石のように心の奥底に固まっていた頑なな心がすっかり軽くなった。本当に救われた。きちんと顔を見て話が出来るように変えられた。
それから、父は毎週 礼拝を守った。
2019年 1/18
父 救急車で市立病院へ
年が明けて 元旦礼拝 その後の礼拝にも出席していた父 その間も週に3回 火、木、土と治療に通っていた。1/15(火)午後治療に来る。
いつもなら木曜日に治療にくるはずの父が来ない。まあ 父もいろいろ用事もあり病院に行ったりしているのだろうと思っていた。明日は来るだろうと思っていたが・・・
来ない。ん・ どうしたのかな?と、少し心配になる。元気だと言っても88才
夕方、家内に様子を見に行ってもらう。と、家内から℡ じいちゃんが布団の上で倒れていて箪笥と障子の間に頭が挟まっていて身動きとれないと悲痛な℡ 救急車を呼んだとのこと。急いで実家へ ちょうど、救急隊員がみえて父の状態を見ていたときだった。
手足は動く 朦朧としているが話すことは出来る。血圧もそれほど異常というほどでもない。救急車に乗せる。話をきくうちにだんだん様子がわかってきた。
1/15 治療に来た後 家に戻り 風邪気味だと思った父が夕方 風邪薬と咳止めを飲んだとのこと、 早く良くなりたいと続けざまに何度も飲んだとのこと
布団に入ろうとしたが、おそらく意識朦朧としてそのまま倒れたのだろう。運悪く
箪笥と障子の隙間 30センチのところに頭だけがすっぽり入ってしまったのだ。
火曜日の夕方 仮に18時頃からだとすれば水 木 金とおよそ72時間 飲まず食わず
この寒い季節に倒れていたのだ。もう少し発見が遅かったら確実に召されていただろう。市立病院へ搬送 急性の細菌性肺炎 多臓器不全等の診断 2~3日が山場とのこと
私は、父が暮れの12/9に救われたこと まだ・1ヶ月とちょっと
もしかしたらこのまま召されるかもしれないと思った時に 自分の中で 父と和解できたことが 本当に感謝だった。
しかし、父の生命力はたくましく だんだんと回復 4月にリハビリ病棟へ
その後、腹痛を訴え転院 肝臓に膿がたまっているとのこと 肺にも水がたまっていて
1ヶ月の絶食 余談を許さない状況とのこと 膿をとるための管はおそらく今後とることは出来ないだろうと・・
父も悲嘆にくれ あのとき死んでしまえばよかったと・・
今までの私なら、入院している父を見舞うことなど考えられなかった。家族と共に行くことはあっても話などするつもりはさらさらなかった。
でも、今では一人で面会に行き 聖書の話をしたり、畑の種まきや植え付けなどの話をしたりと穏やかに笑って話をすることが出来た。本当に感謝だった。
6月には父もまた・驚くべき回復をみせ 内臓の治療はもう良いとのことで市立病院へ戻り、リハビリに専念 兄夫婦の意向で7月に福島市の介護施設へ
この頃には、伝い歩きぐらいの自力歩行が可能となっていた。介護施設でいろんな方との交流 介護師さんや看護師さんとのふれあいで表情もすごく明るくなり別人のようだった。我々も月に2回程度、面会に行って和やかに話をすることが出来た。人は一人では生きられないと感じる。そのように穏やかな施設での生活を続けていたが・
2020年 現在も世界を脅かしているコロナの影響で3月頃から面会謝絶となり
顔を見ることがかなわなくなった。5月 肺炎を併発し隣の病院へ入院 状態が悪化してきたため、家族は面会を許される。何度か面会に行くが次第に意識が朦朧という状態
6月に入ると更に症状が悪化 いつ召されてもおかしくない状況となり、4月から東頭牧師の後任でいらした姜デキョン先生に面会していただきお祈りをしていただく。
6/14(日)相馬教会で合同礼拝 4月から兼牧してくださっている勿来キリスト福音教会の住吉牧師と羹先生に父の状態を報告 もう、そんなに時間はないという思いで 葬儀のことについて相談することが出来て感謝 この後 1週間後に召されたのだから・・
住吉先生は1ヶ月に一度 相馬教会においでになられるので、次回は1ヶ月後
それがこの日に相談の機会を与えられることが出来たことは本当に感謝しかない。
6/20(土)午後 面会に行く 主が共にいてくださり 穏やかに最後の時が準備されている様子
6/21(日)午後8時39分 召天 88才の生涯を終える。
父とは、母の治療 介護のことで本当にいろいろ衝突があり お互いにつらい時間を過ごしてしまった。しかし、聖霊に満たされ 父の救いを祈れるようになり、父も受洗
お互いにわだかまりなく話をして別れることが出来たことは本当に私にとって何にも代え難い救いだった。
深夜 福島の施設から兄の家へ
葬儀はキリスト教でと決まっていたので、すぐに姜先生に報告 兼牧してくださっている住吉牧師と相談していただく。翌日 羹先生にお祈りして頂く。
コロナの影響で 家族葬とする。
6/25(木)小雨
住吉牧師司式のもと 厳かななかにも暖かみのあるお別れ会 兄の希望で母と同じチャペルでのお別れ会 火葬してそのまま母の眠るお墓へ 納骨式 父も最後の希望が叶い
さぞ、嬉しいことだろう。
しかし、これから私にとって本当の救いのための試練が用意されていた。
父の葬儀が終わり 兄が遺産相続のための書類を持ってきた。父は特別に私に対しての遺言はなかったようだ。長子の兄にすべてを委ねていたのだろう。
私は陶芸が趣味で 父の実家に作業場を設けていた。30数年になる。
納屋を貸してもらいそこを増築し 大 小 二つのガス窯 薪を使う全長6メートルの穴窯 ピザ窯 囲炉裏を作り 毎日のように作業場に通い 作陶
粘土もその他の材料も使い切れないほどある。作品もたくさんある。ここは、私の人生そのものの場所だ。生きてきた証しがある場所だ。
しかし、父はその場所を私には残してくれなかった。それは、肉の親子としてとても悲しく残念なことだ。自分では和解していたつもりでも父はどうだったのかな?と、思ってしまう。なんで?と、葛藤があった。それは、私がもつ物欲 執着心
毎日、夜 布団に入ると作業場が目に浮かぶ。今でも作業に行くけれど・・それらを目にし、手で触り ああ・ いずれこの場所は無くなってしまうんだ・と思うと本当につらい。
私が元気で陶芸が出来るまでは貸してくれるとのこと。
悶々とした日々を過ごす。そんな時 救いの証しというお話しをいただいた。
あれ、これでは証しが出来ない。自分の物欲 執着心が古い自分に引っ張られ
死んでしまう。10年前 折角 新しい命を与えられていながら、もう一度 死に至る道を歩むのか? 頭ではわかっても感情が整理できない。
そんな心で コゼット(保護したすずめ) あとでお話ししますが
このすずめの伸びてきた嘴を爪切りで切ってあげた。もう 3年もやっていることで一度も失敗したことはなかったのに、その時は心の中が波立っていた。
つい、深く切りすぎてしまい、コゼットの嘴から赤い血が流れだした。コゼットはチュンとも鳴かず・・ただ、じっと目をつぶって私の手の中にいる。私は、コゼットの赤い血を見て、ああ・神様 コゼットを助けてください。もう、何もいりません。あの作業場も窯も何もいりませんから コゼットを助けてください!と祈りました。長く感じました。3分・4分 やっと 血が止まった。それからしばらくは あの作業場のこともあきらめていましたが、肉の欲望というのは本当に困ったものです。
コゼットが元気になると・・また、ああ・あの作業場が無くなってしまう。私の生きた証しが無くなってしまうと、またまた 悶々としてあきらめられない。自分ではどうにもなりません。なんで・ 父は あそこを私にくれなかったのか!と、お墓に眠る父を呪いました。
私は、毎日毎日 祈り続けました。主よ! 聖霊で満たしてください。私を救ってください。
12月に入り アドベント 礼拝の中でも住吉先生 姜先生を通して神の御言葉を与えられました。神は、愛するわが子を十字架にかけるためにこの世に送られた。キリストは父なる神から離れて罪の奴隷となっているこの世の人々
私を救うために、人の子として神の栄光を捨てて 飼い葉桶にお生まれになった。
そして、人としてあらゆる肉的 精神的な苦しみを味わい 最も残酷な死
十字架に付けられ、自分の罪のためではなく私の罪のために命を捨てるという使命を果たし、3日目に復活するという、永遠の勝利を獲得し私達に希望の福音を伝えていただきました。
私は、人のために命を捨てることが出来るだろうか・・そんなことが出来るはずありません。では人のために命ではなくとも、全財産を捧げることができるだろうか・・それも出来ません。キリストは、人として何も望まず、何も求めず、十字架にかかるために脱がされた服さえ与えられたキリスト
「人は たとえ全世界を手に入れても、じぶんのいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、ひとは何を差し出せばよのでしょうか。」
マタイ16-26
私の作業場の問題など、よくよく考えればとるに足りないことと思い知らされました。
そんな僅かなものに捕らわれて自分を死に至らせてどうするのかと。
父なる神は、私の肉の親を通して、このことを教えてくださったのです。
私のこころは、物欲という罪の鎖から解放されました。
私は青年時代に母の病気を通して「死」というものを自分のこととしてつきつけられました。恐れを感じました。何故?「死」が怖いのだろう。
自分が経験したことがないから・・自分の存在が無くなってしまうから・子ども達の成長をみれなくなってしまう・・自分がこれまで積み上げてきたすべてが無になってしまう・
死んだらどこにいく? 私は「死」の恐怖から逃れようと自分なりに「死」を消化したいと願い「死」に関する書物を集めました。仏教では、キリスト教では・「死」をどのように解釈しているのか・・
当時は全くわかりませんでしたが、今 聖書を手にすると
この問題に明確に答えが約束されています。肉の物欲 執着心 それらからの解放は
「死」の恐れからも解放される大きな救いであり希望です。今回のことを通して
実感として少しですが感じることができました。
「愛する者たち 私は勧めます。あなた方は旅人、寄留者なのですから、たましいに
戦いを挑む肉の欲を避けなさい」
ペテロの手紙第一 二ー10
「あなたがたは、こころを騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」
ヨハネ14-1~4 アーメン
もう一つ どうしても証ししたいことがあります。それは、先ほど少しお話ししたすずめの話です。
2017年 7/26の午後 私の治療院の待合室にいらした3人組のご婦人が
家から5メートルほど離れた場所にすずめの雛を見つけ拾って来ました。
まだ、目も開かず 羽も生えておらず、嘴は黄色で鳴くことも出来ず 今にも力尽きてしまいそうなヒナでした。それがコゼットとの最初の出会いでした。
私は、小鳥を育てたことはありませんでしたし、野鳥を飼ってはいけないことは知っていましたから もし、元気になったら外に放してやろうと思っていました。何か 食べさせてあげなければと ミルクにパンを浸し楊枝で少しづつ 少しづつあげると何とか食べることが出来ました。そして弱々しく
ぴいーと鳴きました。ティシュペーパーの箱に綿を敷いてベッドを作りそこに置きました。するとヒナはこともあろうにうつ伏せになって眠ったのです。次の日の朝 生きているだろうか?と、おそるおそる箱の中を覗いてみると生きているようです。
老犬のゴンと散歩に出かけ 途中 捕まえてきたミミズを少し切ってあげると
口を大きく開けてピイー ピーと言いながら食べたのです。
私は、このすずめを通して 神と人間との関係を疑似体験しているような思いをしています。この小さな命 はかない命 いつこの命が終わるのだろう? 明日は 次の日まで生きているだろうか? いつもそばにいて限りある命を実感することができる。
そして今も私の胸のポケットに潜り込んで眠っている。もう3年半が経とうとしている。
次の日 なんと患者さんで以前 すずめを保護したと言う方がみえました。そして練り餌の作り方 食べさせる道具まで持ってきてくれて指導してもらいました。
私は、餌を食べさせる前には、いつもオカリナを吹きました。すずめが元気になって外に放しても このオカリナの音色を聞いて顔を見せて欲しいと思ったからです。
ヒナは餌を食べだんだん元気になりました。いつものように餌をやろうとして顔を覗くとあれ! よく見ると右目がありません。眼球が無いのです。私は、胸が締め付けられる思いでした。祈るような気持ちで左の目を見ました。左目は 目の上に何かがついていてふさがっていました。何がついているのか 虫でもついているのだろうか?と思い、ぬるま湯に浸した脱脂綿で丁寧に拭きました。とても繊細な場所です。一度には出来ません。次の日も少しづつ拭きました。虫ではないようです。泥の固まりがついていたのでした。おそらく、親鳥が泥の付いた餌を運んで来ていたのでしょう。
すずめは 春と夏に2回 4~5個の卵を産むそうです。このヒナは右目が無いため餌を食べることも困難で 食べられず もらおうと思った餌も泥が付いていて、その泥が目をふさいでしまったのでしょう。そしてだんだん弱り 自然の掟とはいえ 親鳥は自然界で生きていけないだろうと・・本能的に他の子ども達を強く育てようと巣から落としたのだろうと思いました。本当に切ない気持ちになりました。
3日目 ついに目をふさいでいた左の目があきました。しかし、完全にきれいに開いた訳ではありません。やはり、先天的に眼球がない未熟児として生まれたためか、左目の状態も完全とはいえない状態です。おそらくあまり見えていないと思いますが、初めて私とご対面です。鳥は特に(すりこみ)初めて目にしたものを親と認識するそうです。
私を親と思っているようです。順調に成長していきましたが、無い右目のあたりがかゆいのか・・鋭い爪で引っ掻いて浸出液(水)や血が出てきます。かわいそうで見ていられません。動物病院へ連絡すると、野鳥だから診察出来ないとのこと
仕方がないので、まづ、爪を切り 糞をこまめに掃除し 頭にヘッドギアならぬヘルメットを厚紙で作りかぶせるも嫌がってすぐに外してしまいます。仕方がないのでこまめに傷口を洗っていました。すると家に出入りしている機械の担当者 (実はこの方 以前は病院に薬をおろしていたとのこと)で、人間用の抗生物質の軟膏を少なめに塗ったら良いのではないかということで早速 軟膏を塗り様子をみると、すぐには良くはなりませんでしたが改善されていきました。そして・今度は素晴らしい鳥かごをプレゼントされます。このようにこのすずめは、時に叶って必要なものが満たされました。なんと感謝なことでしょう。成長に従って必要な知恵や道具が与えられました。もう、30年来の友人がアドバイスをくれました。
彼は、狩猟免許をもち、すずめを捕獲していて、自然の食物連鎖に精通していました。その彼が言うにはすずめは臆病な鳥だから群れで生活している。その群れから外れるとストレスですぐに死んでしまうとのこと・もう一つはすずめの雌雄は難しいということで、このすずめが雄か雌か彼にもわからないとのことでした。そこで、私は家の中から目の届く自転車置き場に籠を下げ、その周りにえさ台をたくさん置きました。仲間に来てもらうためです。朝、すずめを外に出すと 電線や屋根にスズメたちがやってきます。チュンチュン チュチュ 籠の周りに集まって餌を啄むと籠の中のすずめも、とても嬉しそうに鳴きます。それを見て、私は このすずめ 男だったらヨセフという名前にしようと思いました。
ご存じのようにヤコブの息子ヨセフは異母兄弟によってエジプトに売られてしまいます。しかし、それは神のご計画でしたね。いずれ来る飢饉に備えてヨセフが一族を救うための神の計画 今、この光景を見ると 片眼を失い生まれてきたこのすずめが一族を救っていると思いました。
しかし、外は危険もいっぱい ある日、とうとう猫に襲われてしまいました。鳥かごが傾いているのでどうしたのかと覗いてみると なんと羽が散らばっています。あっと思いすずめをみると命は助かりましたが・・尾羽がすっかりとられていました。危機一髪!
もう少しで猫の鋭い爪で、命を落とすところでした。このすずめは本当に守られていると感じました。このすずめは、片眼が無いし 左目も良く見えていない。一人では生きて行けない。台所にいても、沸騰した鍋や ストーブ 外に出せば、猫や烏 蛇 どこにいても危険がいっぱいです。いつもそばにいて危険から守ってあげなければならない。このすずめを見ていると・
ああ・・ 人間も神様から見ればこのようなのだとと思わされます。人間は、自分では一人で生きていると勘違いしているのではないでしょうか。いつも危険な場面に隣あわせでいることに気がつかないでいるのではないでしょうか。神様がいつもそばにいて、守ってくださっていることをこのすずめを通して知ることが出来ました。
9月 この地に鈴木先生ご夫妻がボランティアで滋賀県大津から来られました。
先生は、万葉集をモチーフにして創作 また・新美南吉の童話の挿絵を描いておられる日本画家 奥様は陶芸家です。
震災の翌年から、毎年 ここに来て絵と陶芸を展示し 来場者に似顔絵を描いていらした。ご夫妻は、この福島で何かお手伝いは出来まいかと、傷んだこころを癒すために足を運んでくださっていました。私は、このすずめを描いてもらいたいと会場に連れて行きました。
その時 名前はと聞かれたらと思い、今までは、ぴーとかぴーちゃんと呼んでいたけれど・・そうだ 名前を付けようと思い コゼットと名付けました。すずめの雌雄はわからないと言っていたが、私は勝手に女の子と決めてコゼットと付けました。
コゼット・それはレ・ミゼラブルに登場する孤児のコゼット 主人公のジャンバルジャンは、死にゆく母の願いを聞き 孤児となったコゼットを迎えに行く。コゼットは初対面のジャンバルジャン に何の疑いもなくすべてを委ね、胸に抱かれる。闇の中を歩んできたジャンバルジャンは、心から喜びを感じ幸福に満たされたとある。
私もこの小さなすずめが何の疑いもなく 私に身を委ねている。ああ・ジャンバルジャンの気持ちはこのようなものだったのだろうと思い、コゼットと名付けました。
そして、会場で鈴木先生ご夫妻とご対面 コゼットは先生の手や肩に止まり 羽を繕い
リラックスして、モデルをこなした。先生はすっかりコゼットの魅力にとりつかれてしまいました。12月 鈴木先生から℡あり コゼットを絵本にしたい 冨澤さん 福島の震災と怒り コゼットととの日常を書いて送ってくれ!
「先生、野鳥は飼ってはいけないのですよ! 100万以下の罰金 警察に逮捕されてしまう。絵本なんて駄目ですよ!静かにこっそりと飼っていたい」と、言いました。
でも、先生はあきらめず とにかく文章を書いて送って!ということで、コゼットとの出会い、成長記録 そして震災の様子を書いて送りました。
翌年 また、先生ご夫妻は福島へいらした。今度は、出版社の社長ご夫妻も一緒にいらした。私の作業場の囲炉裏で、コゼットに対面 コゼットは社長の服部さんの肩に止まったりと愛嬌が良い。服部さんご夫妻も顔がほころぶ。
いよいよ 話が決まる。しかし、鳥獣保護法 これがネックだ。
服部さんは母校の獣医学部の教授と連絡をとってくださり、問題ないとおっしゃってくれた。年が変わり 2019 3月 鈴木先生 大津より来福 我が家に泊まり込みコゼットのスケッチをして帰られる。
しかし、その時すでに病に冒されていて帰ったら即入院という状況の中であった。先生は、癌の大手術 6月に退院 8月の初めまでに挿絵を完成しなければならない。その間に転倒し左手を骨折 これは間に合わないかと思い℡をすると
「大丈夫だよ!右手は動くから 頑張って描く」と、本当に不屈の精神で描き上げてくださった。本当に命を削る思いで描いてくださったと思う。
何故?先生はそこまでして コゼットを絵本にしようと思われたのか?感謝しかない。
震災は人々に悲しみ苦しみ そして家族の絆までも奪ってしまった。
それは、人々を絶望に追いやり 自死する人 賠償金によって心まで汚染されてしまった人々も数知れない。本当に闇に覆われてしまった。
しかし、人間本来の良心 神が与えてくれた良心ある方々の支援
そこで繋がった出会い
鈴木先生ご夫妻は、支援を継続して福島に通い続けていただいた。そして
2017年 9/7 13時30分 鈴木先生ご夫妻とコゼット対面
これは偶然だろうか? いや違う。気の遠くなるような神様のご計画
私達、人間には計り知れない 神の御技 どこかで誰かの人生が狂っていたら、コゼットの先祖が繋がっていなかったら・・考えれば考えるほど・奇跡的な出会い
先生が去年でボランティアを止めていたら・・
我々にはわからないがすべてのことに時があり、神の計画に従っているとしか考えられない。そうして、必然的にこの絵本が出来た。この絵本の未来はどうなって行くのか考えただけでも楽しく、嬉しい。
9/17土砂降りの雨 大勢の皆様のご参加の中「「すずめのコゼット」出版記念会
これで、コゼット物語は終わりかと思っていたら、何と続きがあったのだ。
驚くべきめぐみ
2020 8.11朝 畑から帰ってきて、えさ箱を見ると 何か 入っている。
なんだこれは?と思い、よく見てみると何と 卵
えっ! コゼットが卵を産んだ? そんなことがあるのだろうか・・雄もいないのに・
驚いた。3年目の誕生日を迎え卵を産んだ。コゼットは女の子だった。
そして、15日 21日 23日 9月に入り4日 9日 11日 10月に入り9日と合計8個も産んだのだ。自然界では年に2回 毎日1個づつ 4~5個産むそうだ。
コゼットはなんと2ヶ月を要し8個も産んだ。
その半分は、出産に立ち会うことができた。寝るときはいつも私の隣に籠を置いて寝ている。毎晩 一緒に 1時間聖書のメッセージを聞いて寝る。いつもそばにいるので、コゼットの様子がすぐにわかる。3年も一緒にいると 言葉を交わすことは出来ないが、鳴き声で判断することが出来る。チュンチュンチュチュとおしゃべり チュ~ンチュ~ンチュチュチュと甘える声 ピイー ピーと私を呼ぶ声 チューンピピピ ピルルルルと音楽に合わせ歌う声 チュチュチュ チュチュチュチュと嘴をつつきながら 眠たい声等々
そんな感じなのでコゼットの急変を察することが出来る。
陣痛が始まり、口を開いてハツ ハッとまるで 人間のようだ。意外と簡単に産むこともあるが、卵を産む間が短い時は本当につらそうだ。
一歩 歩くたびに転んでしまう。私の手の中で1時間以上も上を向き 目をつぶり痛みに耐えていることもしばしばだった。あれ・・死んでしまうのかと本当に心配した。それでも産むときになるとよろよろと立ち上がり,羽を広げからだ一杯使って卵を産み落とす。
本当に素晴らしいドラマを見せてもらった。涙が出る。神様はなんと・・この小さなすずめに命を与え、今・こうして新しい命を生み出してくださるのだ。
自然界でのすずめの寿命は1~2年。コゼットは3才
もうとっくにこの世を去っていても不思議ではない年齢 それが新しい命を産み出す。
何という奇跡 何というめぐみ
しかし、私の浅はかな考えは・・ああ・こんなに卵を産んだら体力を消耗して死んでしまうのではないかと・
でも、神の創造物であるコゼットは神の手の中にあると委ねる他にありません。
私はコゼットを通して、本当に救われました。悲しいときつらいとき 本当に癒されました。コゼットと私 私と神様 神様とコゼット 神様と私との関係を実感する体験を与えていただきました。心から感謝いたします。
今回 救いの証しをさせて頂き 改めて10年間を振り返ったときに何という救いに預かったかと改めて感謝致します。
すべてが新しく展開されました。まさにキリストが今も生きておられ 私と共におられ
新しい未来へ導いてくださったとしか言いようがありません。
もし、10年前に 武藤牧師に導かれ洗礼を授からなかったなら キリストに繋がれなかったとしたらどんな歩みをしていたでしょうか・・暗闇の中を鎖に繋がれ人を呪い絶望の死への道を歩んでいたことでしょう。生きながら死んでいたでしょう。
私達の地上の生活では、必ずしも期待した結果が得られることばかりではありません。
最初に震災の悲惨な状況を見たとき
神はおられるのか? と、叫びたいと言いました。今も、答えはわかりませんが、
キリストは全世界の誰よりも、不条理な死を受け入れられたのです。父なる神は、愛するひとり子を最も残酷な十字架にかけられることを許したのです。
愛する子を十字架の死に付けるという誰よりもつらい悲しみを受けたのです。
それはどんな苦しみの中にいる人でも、一人も救いの手からこぼれることの無いために、すべての人を受け入れらることが出来るようにです。
私達は、 それぞれに与えられた試練 不条理と思われることがらを、すべて納得して生きていくことは出来ないでしょう。しかし、この地上の生活がすべてではなく永遠の御国が用意されていると主が言われます。そこでは、今の私達が計り知ることの出来ない問題がすべて解決されることを信じます。
「 わたしの兄弟たち 様々な試練にあうときはいつでも、このうえもない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐がうまれます。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすればあなたがたは何一つ欠けたところのない成熟した完全なものとなります」 ヤコブの手紙一 2~4
これからの地上での生涯の中で、出来ることなら経験したくない試練や困難
しかし、キリストにあって 共に歩んでいくならばその試練さえも益と変えられていくという希望、すべてを主に委ね最善が成されることを確信できる希望は何という幸いでしょう。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」 ルカ九ー23
アーメン