世界平和統一家庭連合(世界基督教統一神霊協会「統一教会」)に関する年表
1940年
1941年
- 3月31日 - 午後2時10分 京城発 京釜本線 急行「ひかり」で10時間かけて釜山へ。
- 4月1日 - 午前2時40分 釜山発 関釜連絡線「昌慶丸」で日本へ。下関に到着。統一協会では4月1日を「日臨節」と呼び、例年記念行事を開催している。
- 4月2日 - 上京。
- 同月 - 「江本龍明」の名で、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科(夜間の各種学校)に入学。朝鮮人学生二、三名と新宿区戸塚二丁目(現・新宿区西早稲田一丁目)にある三橋孝蔵・イト夫妻の家の2階に卒業するまで下宿。昼は川崎の製鉄所や横浜の造船所、運送運搬、練炭屋のアルバイト、などのさまざまな日雇い仕事をしていたとする。
1942年
1943年
- 2月10日 - 日本併合下にあった朝鮮の平安南道 の安州郡の信里(現在は北朝鮮統治区域)で、洪順愛(ホン・スネ)は韓承運(ハン・スンウン)との間の子である韓鶴子を出産。
- 10月 - 卒業後すぐに半島に戻る。
- 12月 - 23歳の文鮮明が18歳の崔先吉(チェ・ソンギル、教団では「真の母」としての第一候補だったとされる)と婚約。「年齢は10代で、篤実なキリスト教徒であり、洗礼ヨハネの使命を果たす女性」という条件で文鮮明は選んだという。なお、崔先吉は母親と共に、大韓イエス教長老会(再建派)の信者であった。見合いだったともされる。崔先吉の実家は豪農であり、文鮮明は「早稲田大卒」と学歴詐称して結婚したとされる。見合いの日から3日間、崔先吉の実家に寝泊りし、性交したとされる。
1944年
- 5月 - 崔先吉と「聖婚式」を挙げる(「血分け」を行う混淫派とも言われる李龍道(イ・ヨンド)派の「イエス教会」の幹部である李浩彬(イ・ホビン)の司式により行われたとも言われる)。
- 10月 - 文鮮明が日本留学時の抗日運動の事実が発覚し、京畿道(キョンギドン)警察部により連行され、拷問を受ける。