本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と仰せられた
イエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
宗教と法
本文:出34:28、申4:13、ヨハ12:48、ヨハ8章
(参考:大韓民国憲法第20条第1,2項)
宗教も、人も、いろいろあり、法には、天の法と地の法があり、各国ごとに少しずつ異なる点がある。
イエス様は、律法を廃棄するために来たのではなく、成就するために来たのだと言われた(マタ5:17-18)。信仰人は、地の法と天の法、二つとも守らなければならない。
地では、地の法で審判され、天では、天の法で審判される。神様は、モーセ以前にあった事の概略をモーセに知らせた。それが、すなわち、創世記などのモーセ五書であり、このモーセ五書と、以後の各時代の預言者たちが、その時代に起こった事と、幻を見て聞いた事を記録したものが旧約聖書である。新約聖書は、イエス様以後に起こった事と、聞いた事を記録したものであり、新約の啓示録は、イエス様の昇天の後、弟子ヨハネが啓示で見て聞いた事を記録したものである。時代ごとに神様が遣わされた者を同じ宗教人の中で迫害する者たちがいた。彼らは、聖書も、神様の御心も良くわからない者たちであり、啓示も受けなかった、聖書に関して知識のない者たちであった。
大韓民国憲法には、宗教は自由であり、政治と宗教は分離されると記されている(第20条第1,2項)。だが、宗教人が政治家になる事で、政治家が宗教の指導者の話しを聞いて、偏って治めるので、宗教が悪化し、不法がはびこっている。これは二つの宗教だけではなく、二つの国民、二つの市民を作る事になる。
宗教は、神様からあるようになるものであり、神様は、以前の宗教が腐敗する時は、以前のものを終わらせて、新しいもので再び始められた。だが、神様は、預言せずに、新しいものを成し遂げた事がなく、預言によって知らせた後、約束した事を成し遂げられた。
新約時代の信仰人は、新約(新しい契約)に預言された約束の御言葉を悟って、信じて、待つべきであり、約束した預言が成し遂げられた時、見て聞いて信じる事によって救いがあるようになる。
現時代が腐敗する事によって過ぎ去り、新しい一つの時代が到来する度に、大きな変動と事件があったので、救いという言葉があるようになる。約4千年前、モーセの律法(出34:28、申4:13参考)があったように、生ける石であられる(Ⅰペテ2:4)イエス様の御言葉が新約の法になったのは、その御言葉がさばくからである(ヨハ12:48)。イエス様の新しい契約の御言葉は、新約、すなわち、啓示録であり、これを加減するならば、天国に行かれず、のろわれると言われたので(啓22:18-19)、これが新約の法になる。啓示録の成就の時は、啓示録が、すなわち、法であり、この地では、この地の法があるので、地の法に従って処罰される。
モーセとイエス様も、審判権を受けて、今日、イエス様が遣わされた牧者も、審判する権威(白い石)を受けて来たのである(啓2:17)。だが、この審判権は、地の働きを審判するものではなく、天の働き、すなわち、宗教の働きに対する審判の権威を受けたのである。地の審判資格も、六法全書に精通しなければならないように、天の審判者も、天の法の全書である聖書に精通するべきであり、啓示が通じなければならない。初臨の時、息子であるイエス様も父がなさる事を見て、そのように行われた(ヨハ5:19)ように、再臨の時、イエス様が遣わされた使者も、イエス様がなさる事を見て、そのように行うのである。従って、審判は恣意的な審判ではなく、主の御心通りにする事である。だが、殺す事より、生かす事を優先にしなければならない。
出典 : http://cafe.daum.net/scjschool
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