精誠を込めた塔がすぐに崩れようか
統一教会の文先生は、神を売って、原理を売って生きている人ではありません。理論と言えば、誰にも負けない程の理論を持っております。皆さんは先生に出会って良かったでしょうか、良くなかったでしょうか。(「良かったです。」)
宗教人は苦行をしなければなりません。よく食べたくてもよく食べてはなりません。また、肉のおかずを食べてはならないから、菜食をしなければなりません。菜食も、一日三食をすれば身体が重くなるので、二食あるいは一食だけせよ、というのです。
そして、お祈りをしなければなりません。先生が昔祈祷する時には、膝にたこができるほどでした。今もたこが残っており、それが取れません。
最近先生は、そのように祈祷する必要がありません。祈祷したとしても、簡単にします。私が祈祷する時は三分以内に短縮してします。今は完全に専門家となったのです。昔のような不自然な、あるいは複雑にする必要を感じないのです。
しかし、皆さんはまだ、祈祷を複雑に、長くしなければなりません。皆さん、そのように祈祷しますか。そのように祈祷しない統一教会の人達はでたらめです。祈祷もしないで何をしようとするのですか。祈祷を熱心にしなければなりません。祈祷する時には、十二時間は標準として設定しておいてやります。普通、七時間以上は精誠を込めなければなりません。世界の問題をおいて祈祷する時とか、国の問題をおいて祈祷する時には、数分だけして終えてはなりません。少なくとも七時間は祈祷しなければなりません。
こういう話は初めて聞くでしょう? 何故、不思議に思いますか。精誠を尽くした塔は決して倒れないというのです。そういう精誠がないならば、今日の統一教会の文先生が、文先生となることは決してできませんでした。統一教会の文先生がなすことは、誰でもできる、そういうような平凡なことではありません。
ここにいる誰でも、「統一教会の先生をしてみなさい」と言えば、恐らく誰も絶対にできないでしょう。たった一時間もできないでしょう。私でなくては絶対に、誰でもできることではありません。正しいですか。(「はい。」)私がやることは複雑ですよ。統一教会の人達は一番言うことを聞きません。こういう人達が最も素晴らしいのです。しかし、私の言葉を聞くようになっていますよ。
肉身を主管する方法が何かと言えば、まさに苦行です。それで、イエス様は『死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ』と言いました。これは、身体が願うことを全部切ってしまわなければならない、ということです。学生達、「劇場に行くな」と言えば、行くべきでしょうか、行かなくていいでしょうか。(「行ってはなりません。」)悪い村があるとすれば、その村に行って生活したらいいでしょうか、生活しなくてもよいでしょうか。生活してはならないでしょう? そういう所には、行くこともしないで、見ることもするなと、いうのです。でたらめな所には、行くなというのです。このように、身体が願うことを全部取り除かなければなりません。
では、恋愛をしてもいいでしょうか、してはならないでしょうか。(「してはいけません。」)男性がどれ程愚かであるからと言って、女性に「私の命にかけてあなたを愛します」と言うのでしょうか。そういうのが男性ですか。天地の男性たる男性が、天下を主管すべき男性が、どこに女性がいないからといって、そういうことを言うのでしょうか。
エデンの園で、男性が女性の後ろに付いて歩いていって堕落したでしょう? それだから、堕落の継承点が女性の後ろだと言うのです。
神の愛の真の味を知らなければ
統一教会では、女性達が「文先生に惚れました」と言います。しかし、女性が私に惚れたのかどうか、どうなっているのか、私はよく分かりません。それは、女性達に尋ねて聞いてみなければなりません。私は今まで、誰かに付いて歩きながら、愛したことがないからです。男性がでたらめで、「あなた故に、私は死にたい」と言ったらいいのでしょうか。そのような男性がいれば、何ができますか。逆さになって死んでしまわなければなりません。
私には今まで女性達が先に立つ役事が沢山ありました。ベルトをつかまえて泣き出す女性がいたり、とにかく、あらゆる女性を皆見ました。私は女性がどれ程怖いかということを、よく知っています。「大人しい犬が先に台所の上に上がって行く」という話がありますね。あらゆる姿を見ながら、今まで来ましたよ。そのような女性が、死ぬ程付いて来たことはありますが、私がそのようにしたことはありません。皆さんの中に、私がそのようなことをするのを見た人がいますか。
女性達、先生が好きですか、嫌いですか。(「好きです。」)何故好きですか。世の人達のように悪い意味で好きであってはなりません。真心で先生を愛するということは、即ち神を愛するというのと、相通ずるのです。
先生を愛さなければならない立場に立てたのは、神を愛することのできる方法を教えるための一つの方法なのです。先生は、皆さんに世界の人間を愛せる方法を教えてあげるための一つの教材であります。このような教材として使うために、「先生を愛せよ」と言うのです。
先生を愛する程に神を愛し、先生を愛する程に人類を愛さなければなりません。そのために、「先生を愛せよ」と言うのです。言い換えれば、「神を愛し、世界人類を愛せよ」と言うのです。その後に、先生のために死にたければ死ねばいいし、死にたくなければ死ななくてもいいのです。
人間がまずしなくてはならないことは、神を愛さなければなりません。その後には、人類を愛さなければなりません。それを教えてあげるために、この地上の代表者として先生を立てたのです。それ故に、女性でも男性でも、「先生を愛せよ」と言うのです。
男性達は先生を愛しますか。男性達も、先生に会いたくて涙を流さなければなりません。ここ江陵に、そういう人がいますか。先生に会いたくて涙を流してみた人がいますか。流したことがない人は統一教会の本物の食口ではありません。偽物です。
不思議なことに、先生も男性ですが、男性が男性に会いたくて泣き出すのです。身の毛が立つ程会いたくて、泣く時があります。いくら激しい風が吹いたとしても、会いたくて尋ねて行くのです。皆さんはそういう体験をしてみましたか。
先生は男性でしょう? (「はい。」)神も男性格主体としておられるでしょう? (「はい。」)会いたい時にはそういう気持ちになるのです。本当に気が狂いそうな気持ちです。神様から漂うその味を、何で表現することができるでしょう。その味を皆さんが分からないことは、まだ幸いなことであって、もしその味を知るようになれば、世界のことをまともにできなくなりません。その味を味わったとすれば、続けてその味に酔って生きたいと願うのです。
それは阿片が問題ではありません。考えてみなさい。絶対者からの理想的な愛が、感覚的な阿片を味わうより劣るでしょうか。考えてみなさい。劣るでしょうか。劣るというならば、こういうことは全部投げ出してしまわなければなりません。私がそのようなことを知っているために、世間から追われたとしても、どのように回されたとしても、天下が何を言ったとしても、堂々と生涯をかけてこの道を今まで来ました。
男性達も先生を愛しますか。(「はい。」)どのように愛しますか。(「神を愛するように愛します。」)私も神を愛しました。蒔いたものを、そのまま収めるのです。神が懐かしくて、一週間に一睡もできないで夜を明かしたことが普通でした。ある時には、泣いて目が腫れて、光を見ることができないこともありました。このようなことを基準として見る時、統一教会の信者達がどれほど偽物であるかを知らなければなりません。
先生は神とそのような因縁を結んだ人であるために、神の為にやりがいのある道を行こうとします。それ故、精誠を尽くさなければなりません。ご飯をたきながらも、神に感謝しなければなりません。先生はソウルで豊かに暮らしています。だからと言って、「先生は豊かに生活しながら、私はこのように麦だらけのご飯を食べているのだ。その先生の奴、罰を受けよ」、こういう考えを絶対にしてはいけません。何故かというと、そういう道を、私が先に整えて来たからです。
皆さんには友達もおり、同志もおりますが、先生は友達もなく、同志もいません。生涯を歩みながら幾十星霜の風雪を皆経ながらも、友達がいません。教会長など多くの人々は、友達がいますが、ここにいる先生には友達がいません。皆さんは寂しい時、母、兄、姉などを訪ねて行って相談することができるでしょう? (「はい。」)そのように考えてみる時、皆さんは私よりも遙かに幸せなのです。
こういうことを知っている先生の心は、神と通ずるものであり、天倫と通ずるものです。したがって、皆さんは自分の舌を噛んで死ぬようなことがあったとしても、先生に対して「先生はご飯を食べて、私は飢えて死んでいきます。だから私は悔しいです」と言うようなことがあってはなりません。そういう意味において、先生はそれ以上の道を既に経てきたのです。
若い時には何でもできる人になりなさい
先生は誰かを踏みにじって、上がろうとすれば、その手段と方法を持ち、手腕と頭もあり、知力も持っていますが、そういうことを一度もやったことがありません。かえって、私が踏みにじられてきたのです。今も私は公の席に出ようとしません。数多くの群集の前に立って、話もよくできます。しかし、そこには弟子達を皆立たせます。何故そうするかと言えば、私は根と同じであるからです。根が現れるようになれば死んでしまいます。
神は全知全能な方であられるし、人類の全ての存在に対して、力と命の根源となられる方ですから、あまりにもた易くでしゃばってはならないのです。神はいるかいないか、千年万年苦労しながらも現れないでいるのです。それで、統一教会の信者達を苦労させるのです。皆さんは苦労しながらも何と言えばいいでしょうか。恨みますか、感謝しますか。(「感謝します。」)
私が誰かを羨ましがったことは、一度もありません。大韓民国において趙重勲さんが最もよい生活をしていますが、私は羨ましがりません。彼は歳月が過ぎれば流れてしまう一人の人にしかなりません。その人が、金があるといって、どれくらいありますか。私も金があります。私は金がないと思いますか。ないようですが、ありますよ。
江陵地区の本部は、家がなくて借りて使っていると言いますね。しかし、買ってあげません。何故でしょうか。その金があれば大韓民国のために使うことでしょう。江陵にある統一教会のために使うのではなく、未来の大韓民国のために使わなければなりません。それで水澤里修練所のようなものが何千万元であっても、小切手を切って直ちに造るのです。しかし、我々の本部教会に行けばみすぼらしいでしょう? それを見て笑う人達がいます。
日本にある一人の老人が住んでいます。その老人は、韓国の一年の予算に近いお金を扱っている人です。その老人のビルディングに行けば、素晴らしいものです。
その老人と私は知り合いです。その老人の勧誘によって、そのビルディングに入ったりしたことがありますが、一度はその老人に、「我が家に来なさい」と言って招待したことがありました。私が住んでいる家は私達の教会の二階です。戸を開けて、私のベッドから何から全部見せてあげました。「日本では私が第一人者である」と自称している彼に、私がどのように生活しているか見せてあげたのです。後でどんな話しをするのか見てみようと思って何も言わず、昼食まで共にしました。世の中の人達は、豊かによく暮らす人にはへつらったりしながら生きています。しかし、先生は少しも卑屈になることはなく、「私はこのように生きている」と言いながら、全てを見せてあげました。
それで態度が変わるようだったら私はやっつけようと思いましたが、この老人も考えがある老人でした。日本に帰って「統一教会の文先生は非常に怖い」と言ったのです。その老人は我が家に来て、屈伏して行ったのです。
私は今も変装して街に出れば、ご飯も乏うて食べることができます。私は女装して、ソウルの街を歩いたこともあります。
統一教会の人達は、統一教会の文先生をよく知らなければなりません。若い人達は、三十歳になるまでには多くの苦労をしなければなりません。この中の三十代の若者達は、地方に行くようになれば、全員が、郡守とか警察署長と肩を並べなければなりません。郡守がジープに乗って行きながら、私達教会の信者達を案内することができるよう、私が準備しておきました。
基盤が整えられた統一教会
それで、以前ある人が私に、「人材は皆統一教会にいます」と言ったことがあります。皆さんが人材ですか。この江陵で名が通っていますか。郡で名が通っていますか。恐らく、他のことは知らなくても、よく話すことでは噂になっているでしょう? (笑い)とにかく、対社会的活動において既に歴史が輝いているのです。それで気持ちがいいのです。
我々は四年前に国民を対象として五百万名以上、勝共教育をしました。五百万名あれば大韓民国国民全体の六分の一でしょう? 今年にも、約二百万名の教育をすることでしょう。
このような事実を国民、議員達が知って、「韓国の反共体制を整えることにおいて、文先生が功労者になった」と、お互いが騒いでいます。青瓦台において功労勲章を与えるのに、国会議員達が大統領や国務総理に、「統一教会の文先生には何も賞を与えないのか」と言って抗議しています。「賞を与えようとすれば、統一教会の文先生に与えなさい」と言うのです。大韓民国は今まで詐欺師のような人達に賞を与えてきたのでした。私はじっとしているのに、彼等が私の味方になって、「統一教会の文先生に国家の第一である功労賞を授けなさい」と、宣伝するのです。そういう人が多く現れました。これは良い現象でしょうか、悪い現象でしょうか。(「良い現象です。」)
皆さんはそういう賞がいいのでしょうが、私はそういうことを願いません。少し経てば功労賞を与えずにはいられません。その時統一教会の文先生に賞を与えようとしても、私は受け取りません。しかし、「神様の息子、文先生に」と言えば受け取るでしょう。また、賞を受けたとしても、誰かを行かせて取ってくるようにするのであって、私が直接受け取りません。そのようになっているのです。
そういう人が、話にもならない者達の親分となって、この大韓民国の滅びる群れに追われ、悪口を言われ、中傷を受けて、あらゆる濡れ衣をかぶったことを考えてみれば、話にもなりません。しかし、そういう全てのことがかえって私に恵みとなったのです。私は骨無しではありません。[いつかは見てみよ。実力で対決しよう]と、私はしているのです。
大統領も、「統一教会の文先生が私に会おうとするのか。一度見てみよう」と言うでしょう。会おうとすればいくらでもできるのです。しかし、私は徒に、低姿勢の立場で会うようなことは決してしません。
今や、再び春の時期が訪れました。同じような段階に入ってきたのです。それで、若い人達にかなり強力な訓練をさせているのです。身体を維持することのできない程の訓練をさせる計画です。そして、その要員達を北に送ろうと思うのです。それでもいいですか。(「はい。」)あの北にいる怨讐達は、そのことをためらわずやっていますが、何故、私達大韓民国の若者達にはできないのかと言うのです。私はそれを成すことができるように訓練させます。
それで、私が今は香港に興信所を造ろうとして計画しております。興信所を造って何に使うのかといえば、統一教会が先頭に立って、韓民族の高貴な民族性を世界に誇ろうとするのです。それを皆さんも願いますか、願いませんか。(「願います。」)先生が今そういうことをしようとしているのです。
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