家庭生活の中心的責任を担う女性
きょうの題目は「女性解放」です。このような内容でお話してみましょう。
今日、歴史を通じて苦労してきた人々がいるとするならば、もちろん、男性もいるけれども、女性達がたくさん苦労してきたのではないかと思います。歴史もそうだけれども、一つの家庭においても、生活に直接責任持っている人が誰かと言うと男性達ではありません。女性達です。衣食住を中心として生活して行く中心的すべての責任を持つ人は女性達です。男性と女性が異なる点は、男性は外的活動をし、女性は家庭において、内的な家庭の責任をもって子女達を教育することにおいて、重要な責任を持っていることです。
このように見る時、男性も女性も、生涯を共にすることは簡単ではありません。一家庭が、社会やある国家に属して、その国家と共に、その社会の複雑多端な環境を乗り越えて、その社会において、同じ歩調を合わせながら生活をしていくのは簡単ではありません。どんなに家庭が内的に平和であっても、社会が外的に混乱すれば、必ず家庭にその影響を及ぼすのです。また国家が外的に混乱すれば、やはり家庭もそこに動揺するのです。もっと拡大して言えば、一つの世界を中心として見る時、世界の外的な面が大きく動揺すれば、動揺するすべても、家庭に波及するのです。又摂理史においても、摂理史が平坦な道を行かないで、蕩減の道を行くようになれば、その蕩減の道は家庭にまでも影響を及ぼすのです。
このように、家庭というもの自体は、分立されているのではなく、社会の中に在るし、国家の中に在るし、世界の中に在るし、天と地の中に在るのです。では、家庭において生活の中心は誰かと言えば、もちろん、男性達もいるけれども、主に女性達が家庭の中ですべての責任を持って生活しているのです。まず、衣食住を中心とした生活の前線で直接責任を持っているのが女性達です。そして、家庭に困難があるとすれば、困難を直接最初に感じるのは、もちろん男性もいるけれども、女性達が直接感じることでしょう。
男性よりも多くの涙を流してきた女性
今日までの人類歴史を探ってみると、人類歴史は戦争史でした。歴史時代を経て多くの戦争があったけれども、その戦争の中で、より難しい戦争が何かと言うのです。国の中で色々な戦争があるでしょうし、アジアの中で色々な戦争があるでしょうし、世界的にも一次、二次、三次大戦など色々あるけれども、そういう戦争よりも、一番難しいのが何かと言うのです。それは家庭において夫婦同士が不和になること、父母を中心として、子女が不和になることなのです。問題は、男女を中心として、最初に生活の基盤となる家庭において、分裂、闘争、あるいは紛争というような問題が、外的な世界のすべての問題よりも難しいというのです。そのように、各家庭の人々の心に大きな傷を与えるのは夫婦の不和であり、父母を中心とする子女関係の不和であります。
故に、女性達が生活しながら、歴史を経て生活する中で多くの涙を流しました。もちろん男性も涙を流したけれども、涙を流した大多数の人々は女性達です。また、女性達は、大体お祖母さんやお母さんや自分の妻や、この女性達は根が一つではありません。この歴史的女性世界が、男性と一体となったその家庭の背後を見ると、お祖母さんの根も異なるし、自分の母の根も異なるし、自分の相対の根も異なっています。故に、お祖母さん、お母さん、自分の妻と、このように結ばれているけれども、横的な面においては、血統的な関係は連結されていません。故に、どんなに立派な女性であっても、離婚すれば、その家とは関係がなくなり、分かれるのです。お祖母さんもそうだし、母も、自分の妻も同じです。このように見る時、涙をたくさん流す人が誰かと言うと、男性よりも女性です。女性達が涙を流す動機の根本が何かというと、男女関係です。愛の問題のために女性達が涙をたくさん流すのです。故に、女性は歴史以来、愛を中心としてたくさん悩んできたのです。しかし、それで終わるのではありません。
男性達は、社会の環境の中で自由に活動できるけれども、女性達は、制限された家庭の垣根から脱することが簡単ではありません。何か困難があれば、男性達は母(妻)に任せて自由に活動できるのですが、女性達は、難しい環境の中でも、自分の家族や子供達を中心としてそこで自由になることは難しいのです。
故に、男性と女性を比較してみると、人類歴史を通じて、誰がたくさん涙を流したかと言うと、これは男性ではなく、女性であることは間違いありません。
蕩減の責任を持つが故に流された女性の涙
では、これらを総轄的に見る時、人間世界で、このような生活をしている女性達を認めてくれるある団体がありましたか。今までありませんでした。女性としての自分の苦しみや、悲しみを解放できる国や団体がありませんでした。責任的立場で見ると、女性が重要な責任を持っているけれども、その家庭でも、それを保護できる体制がないし、社会や国家にも体制ができていません。これは何故ですか。蕩減時代を経て来たので、女性達の蕩減の道が、東西南北、上下左右に全部連結されているのです。一つの四方、即ち、前後、左右、上下の全体、球形的な面において、女性が蕩減の道を責任を持ってきたので、女性を保護することができる体制がなかったのが、今までの歴史だったのです。
このように見るとき、男性達と離れることのできない相対関係を持ちながら、苦しい立場で涙を流す人は、男性より女性達です。悲しみのシンボルとして表すのが涙であり、苦しみのシンボルとして表すのが涙であるとしたら、これは、女性達が、今まで歴史時代を経ながら残した遺物、即ち特権的な遺物だったのです。そのために、お祖母さんの涙、母の涙、妻の涙、姉の涙、このように見ることができます。一家族は、大体、四代まで、お祖母さんとお祖父さん、母と父、自分、息子・娘の四段階と三段階に連結されているのです。四数、三数で連結されているのです。
このように、一生涯の暮らしの中で平面的に見ると、女性達がたくさん涙を流してきたのは何故でしょうか。人間は知らなかったけれども、神の摂理から見れば、歴史の発展過程において蕩減の責任を持っていたので、涙をたくさん流したのです。また、宗教的な面で見ると、宗教を信じる人と信じない人を見ると、宗教を信じる人は、普通宗教を信じない人よりも多くの涙を流さなければなりませんでした。
洗礼ヨハネが現れて、イエス様の降臨を証す時、「悔い改めよ。天国は近づいた」と言いましたが、「天国が近づいたので解放される」と言ったのではなく、「悔い改めよ」と、言ったのです。悔い改めは、涙を流さなければなりません。故に、一般社会の男性世界と比べて、宗教界の男性は涙をたくさん流さなければなりません。それは何故ですか。蕩減があるからです。
では、男性達が宗教的な面で責任をもって蕩減することと、女性達が家庭の中で責任をもって蕩減することを見ると、摂理史的な立場において、男性達が涙を流すのは、男性の解放のためです。今までの歴史は、男性解放圏に向かって前進してきたのです。その解放圏は、外的な苦しみや内的な苦しみを克服して、人間は家庭を越えて、氏族、民族、国家を越えて、世界まで越えて、理想郷を目指して、世界を越えて行くのです。外的な世界の男性と、宗教圏の男性と比べてみると、宗教圏の男性の方がもっとたくさん涙を流さなければなりません。故に、真なる宗教指導者は、涙の生活をしなければなりません。何故ですか。蕩減があるためです。この二つの面を見る時、女性達は、家庭で涙をたくさん流し、宗教を指導するすべての男性達は、その教会を中心として、対社会で涙をたくさん流します。
メシアこそ男性・女性解放の総責任者
このように見る時、宗教を中心として、男性達が涙を流し、女性達は家庭や、様々な生活の中で涙を流す立場で見ると、悲しい人は誰かと言うと、もちろん男性も対社会で競争する中で、悲しいけれども、それより、女性達の方がもっと悲しい立場に立っているのです。宗教の内的な面を見ると、男性・女性ですが、歴史的にすべて宗教を頼って、その外的な面までも広げることのできる動機となったのは男性であるとしても、宗教を中心として悲しい涙を流した男性達と、もっと悲しい涙を流した女性達が一緒になって今まで宗教を形成してきたし、引っ張ってきたのです。その代表的な宗教がキリスト教です。キリスト教は何の宗教ですか。新婦宗教です。又、それは誰のための新婦ですか。新郎のための新婦です。では、今日のキリスト教において、新郎を迎えるための新婦達が、今まで涙を流しながら蕩減の道を経てきた一つの目的は何でしょうか。それは真なる新郎に出会うためです。
では、新郎が現れる時はいつですか。一時です。新郎に出会う目的は何であるかというと、解放されるためであり、蕩減の道を切り抜けるためです。それは、女性一人では切り抜けることはできません。何故、女性一人では解放されることができませんか。お金がないので解放できないのではないし、知識がないのでできないのではなく、権力がないためにできないのではありません。真の愛と、真の愛の因縁を持たないためです。真の愛によって解放されるため、新郎を待ち望むのです。真の愛の新郎に出会うことによって、そこで解放される時が始まるので、男性自体も宗教から解放されなければなりません。宗教の悲しい環境から解放されると同時に、女性も一緒に解放されなければなりません。その総責任者であるメシアが来なければなりません。
メシアが誰かというと、神の真の愛を持ってきて、神の真の愛を中心として、男性も、女性も、解放しなければなりません。男性達は、宗教から解放されなければなりません。今までの宗教の歴史において、女性達が主導してきた宗教はありません。たいてい男性達です。男性達が悪なる世界と闘争してきたのです。故に、宗教指導者達の殆どは、大抵受難の道で犠牲になったのです。その代表的な人がイエス様です。その時、政治の環境を開拓しなければなりませんでした。男性を代表した宗教指導者は、いつもその国の主権者と闘争してきたのです。また、宗教は、より大きい国の主権者と闘争し、家庭においても女性達は男性達と闘争したのです。歴史を見ると、女性達は、愛を中心として男性達と闘争したのです。故に、家庭では、女性達が男性を中心として愛の解放を追求してきたのです。また、男性達は、対社会の悪魔、即ち、愛を破綻させる悪魔と闘ってきたのです。数千年の歴史を経ながら、その闘いに勝利した版図をもったことがありましたか。どんなに涙を流しても、女性が解放され、男性達が真なる愛の主人の立場に立つために、悪魔から愛を取り戻すための蕩減の道から解放されたかというと、今まで解放されずに、戦争を続けて今日まで来たのです。
宗教の目的は真の愛の理想的家庭を探すこと
宗教とは、また、家庭とは何を探すためですか。真の愛の理想的家庭を探すためです。真の愛の理想的家庭は宗教の終わりであり、女性達の涙の終わりです。故に、その時が、終末の時です。終末になればなるほど、どんな現象が起きるかというと、すべてが混乱します。男性が先か、女性が先か分からないのです。女性だけが涙を流すのではなく、男性も涙を流すのです。何故ですか。行くべき道が漠然としているからです。分かろうとしても分かりません。宗教自体も、宗教を指導する人だけが涙するのではなく、社会の中で住んでいる男性達も涙を流すのです。ですから全部が同じ立場に立っているのです。そのような時が混乱期です。宗教が宗教の立場を守ることができず、対社会のすべての歴史的な流れの、疲弊した風潮が教会を襲い、教会の疲弊したすべての流れが家庭を襲うのです。家庭の基盤も、宗教の基盤も自らの自律的な立場で、愛を中心として解放圏を持ったことは一度もありません。
では、過去から今日まで、数千年の歴史を経ながら、すべての人々が理想と平和を探し求めて来ましたが、その理想と平和を一致させて解放の門を開けるものは何でしょうか。お金でもないし、知識でもないし、権力でもありません。内的な家庭においても、すべての宗教においても、真なる愛だけが、宗教圏を克服できるし、家庭圏を克服できるのです。宗教とは、家庭を抱いていかなければなりません。男性を代表した宗教とは、家庭を抱いて行かなければなりません。宗教圏には数多くの家庭があります。ここに来た男性・女性の背後には、皆家庭があります。家庭を、いかに平和な状態にするかという宗教的な責任から見る時、仏教や儒教や回教やキリスト教など、その使命を完結した宗教がありませんでした。キリスト教は、男性宗教ではありません。新婦宗教です。
東西を中心として、西欧文明が今、アジアを探し求めてくるのです。アジアは男性的大陸地帯であり、アメリカ大陸は女性的大陸です。何故女性ですか。宗教と思想が、新婦宗教であるキリスト教文化圏であるからです。それで、どこを探し求めてくるかというと、男性的アジアを探し求めてくるのです。イエス様もアジアを訪ねて来るはずでした。しかし、アジアにおいて体を失ってしまったのです。これを蕩減復帰するために西欧文明が反対に回っていくのです。
本来、イエス様が十字架で死ななかったら、インドの宗教圏、仏教圏、儒教圏を、キリスト教を中心として統一していました。統一圏が最初に成されるのは宗教圏です。宗教圏の最高の指導者は霊界と通じて未来の天の行く方向を知るので、イエス様が国を収拾してローマから独立して、イスラエルの十二支派がカナンの福地に帰って、分配された土地が統一された時は、確かに、アジアが吸収されるのです。
どのように吸収されるかは、霊界で教えてくれるのです。霊界に行くと、宗教とは男性・女性を解放するためであることが分かります。何故かといえば、堕落したためです。宗教とは、男性・女性の解放です。総轄的な生活の舞台において男性・女性達が解放されて、天の愛と共に新しい出発をする時が終末です。故に、男性・女性が解放されなければなりません。何によって解放されるかというと愛によってです。どんなに生活が苦しくとも、どんなに難しいことがあっても、愛があれば克服できるし、愛するところに、被造万物すべては愛の本質の要素に吸収されるのです。故に、イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイによる福音書二十二章三十七節)と言われたのです。何故、愛さなければならないのかというと、神は、本質的愛の主体なので、愛を中心として万物を主管することは神の愛の相対的立場に立つからです。愛する心を持つと、プラスとマイナスが一つになるように一つになるのです。故に、愛が問題です。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」(マタイによる福音書二十二章三十九節)と言われたイエス様のように、自分を愛する以上に愛することのできる立場を越えないと、神の愛の圏内に入ることができません。歴史上あらゆる戦争や戦いが起きてきたのは、愛を探すことができなかったためです。このことをみても、堕落論を中心として、人間が堕落したという事実を否定することができないのです。それで、人間は愛を探し求めて喘ぎながら、今まで疲れ果て、飢えてきました。
今日、社会において、青少年問題の混乱の根本を探ってみると、お金でもないし、知識でもないし、力でもありません。愛の問題です。しかし一時的な愛は必要ありません。春夏秋冬、四季が異なっても、冬は寒いけれども寒い冬が愛を支配することはできません。寒い冬でも、愛をもう一度輝かすことができます。冬は縮むし、夏は拡張します。故に、季節の変化によって愛の本質を変質させることができません。このように世界全体を解放させることのできる主流の宗教があるとするならば、その宗教は、必ず、愛を本質とする内容をもった宗教でなければなりません。
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