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六五〇〇双特別集会
1992年5月8日
日本のメンバーは全員古くなりましたから、韓国語は大体解読できるでしょう。韓国語を解読できる者、手を挙げてください。韓国語を理解できる者? うん、何ですか、これは。大変ですね。今、何年目ですか? (「三年目です」)。三年の間ですか?
言葉が理解できなかったら何もすることはできません。今は大戦争期です。世界大戦よりもっと大変な宇宙大戦争時代です。霊界と地上が総動員して闘う時代です。その使命を果たすには時間がありません。生来の習慣どおりに生きていけばいいという考えでは通じません。
縦横無尽という言葉があります。そのような拡大的活動をして使命を果たさなければいけないのです。使命を果たすより、勝利を果たさなければならないのです。各自の使命があり、天宙的勝利をなさなければなりません。各自の使命を完成することによって、それを全体化することによって、全体的勝利圏を得るのです。
摂理時代から見ても、またこの世的な世界情勢から見ても、今後の世界の未来の道はありません。先進国家群自体が非常に苦悶しています。それをいかに打開するかという問題で、知識者やそういう者たちはいろいろと研究していますが、霊界を知らない以上、研究の成果を上げることはできないのです。
そのような最中、統一教会が世界の眼目となっています。統一教会は、今からどのようにやっていきますか?
東洋の一角、韓国に生まれた文という一人の男を中心として、種々の世界の文化を激動させ、刺激を与え、全体を統合して、反対されてきた苦難を乗り超えてきました。今や反対した先進国家群が、自分を顧みて恥ずかしく思う立場になりました。その反面、レバレンド・ムーンは、想像もつかないような勝利圏を持つようになり、国家圏を超えるような方向に向かって驀進しています。
それを眺める世界の指導者はもちろん知識者たちも、注目せざるをえません。指導者の背後につながる組織的サミットクラブやPWPA(世界平和教授アカデミー)、ICUS(科学の統一に関する国際会議)など、世界的な知識人や有名人たちを組んで、彼らを中心として連結し、各国の全体圏における方向をまとめつつ、レバレンド・ムーンの思想でなければならないという方向的な基準が立つようになってきました。そのような現状です。
日本と韓国を全部合わせても二億にもなりません。小さいですから。世界五十億の二十五分の一、二十五分の一にもならないのです。その東洋の一角に、アダム国家、エバ国家と名乗るようになってきました。アダム国家、エバ国家、それは一体何でしょうか? だれがそれを決めたのか、考えてみなさい。だれがアダム国家、エバ国家と決めたのでしょうか?
日本を考えてみましょう。なぜ、日本がエバ国家ですか? いろいろと自分なりに考えているでしょう。何と言っても、日本はアジアにおいて覇権を持つ指導的な立場に立っています。日本だけエバ国家というのは、地政学から見ても、大陸を中心として相対的になっているのは島国だからです。日本は島国です。
日本人は蕫島国根性﨟と言われるのを、いちばん嫌がります。(笑い)それは、自分の満たす方向は一方しかなく、東西南北に通じないという話です。大陸といえば島国には行けません。島国は、横的に見た場合には東西南北に突き当たってしまいます。南北が見えます。限界が見えます。しかし大陸はそうはいきません。いくら走っても走っても限界がないのです。無限に東西南北を中心として拡大しうる、無限に通じる方向を各自が持つような立場に立っています。大陸から見れば、島というのはちっぽけな存在です。島国根性というのは話にならないものであるというのです。そう思いませんか? そのような日本人という考えを持っていると、気持ち悪く思うでしょう。それはいけないことです。どうしてですか?
先生を中心として考えてみなさい。先生は韓国人でもなければ、日本人でもなければ、その他の世界のだれにもなっていません。とっぴな人です。伝統的歴史から見た場合には、偶然に韓国の地に生まれましたが、その果たす使命というのは、歴史的であり、天宙的です。そこには神の摂理、人類歴史の解決、人類の救済をも含まれています。
サタン下にあって苦悶の中に、堕落圏にいる人類をいかに解放するか、その解放圏を見いださなければならないのです。解放圏は、ちっぽけなものではだめなのです。人類が今住んでいるこの地球以上の解放圏基盤を持って指導しうる内容を持たなければ、地上の人間も追ってきません。
そう見た場合に、だれがアダム、エバと決めたのでしょうか? 文先生です。昔、文先生は気持ち悪く思いましたが、アダム、エバに決めたのです。
アダム、エバというのはどんな関係でしょうか? それは難しい問題です。アダム、エバというのは、人類の第一先祖です。今は、世界が未来に向けて解決の方法を見いだせないために、人類の根本問題を中心として根を探し求める時代になってきました。人類の祖先の出発の原因は何かということを、歴史を通していろいろ考えるようになったのです。人類の先祖たる者は二双ではありません。一双です。一人の女と一人の男から生まれてきたのです。その男女は、丹念に生きる者と旧約何百年と生きる者という話がありますが、それは例外として、男女が生まれた当時、彼らがどうして同年齢の時代に生まれたかということはとても不思議なことです。
進化論者から見た場合には、初めに人になったのは女か男か、それが問題になります。しかし、アダム、エバがいかにして同時代に出生したかということを唱えること自体が間違っています。女が何代も続けて生命を保つようになってはいません。女は一人で女を生むことはできません。また、男が一人で男を伝統的に残し続けることができるかというと、それもできません。
男と女が愛の過程を通過しないと、男女は現れることはできないのです。愛の門を通過しない限り、男女は地上には現れないのです。愛の門を通過しないと決めるならば、その男と女は地上から消えていかなければなりません。
このように考えた場合、同時代にアダム、エバがいかにして生まれたか、それが問題です。猿から進化したと言いますが、そんな答えは今では話になりません。
アダム、エバの名前は、一体だれが決めたのですか? アダムが自分でアダムという名前を決め、エバという名前はエバ自体が決めたのです。そうでなければ、アダムがエバの名をつけてやり、エバがアダムという名前をつけてやらなければ、名前をつける者がいません。
人間の普通の家庭を考えれば、名前が自分から生まれる者はありません。だれか自分よりも年を取った第三者、歴史を担当している者によって、名前がつけられています。家庭では、子供が生まれたら、父母によって名前をつけられるのが常識です。
それをずっと元返していき人類最初の先祖に戻った場合、彼らに名前をつけるべき者は、人類の第一先祖のアダム、エバの親たる立場にいる者がつけるのが当然ではないかと思うのです。すると、「宇宙には主人がいなければならない」ということになります。そのような存在観念があるのです。アダムとエバは、アダム、エバを存在せしめたその者によって名前をつけられたに違いありません。人類の先祖たる一人の男にアダムと名づけ、一人の女にエバと名づけた者を、アダム、エバというのです。そのようにすると反対する者はいません。
それでは、アダム、エバはなぜ必要なのでしょうか? 種のためです。人類の第一先祖が必要なのは、人類を拡張して地上に拡大するためです。もし霊界があるとすれば、霊界にも地上に生まれた人間が入る所があることでしょう。霊界国民、天界の国民増殖の基盤を願うために、第一先祖が地上に生まれるようになってきたわけです。
それを拡大するには男一人ではいけません。男一人の世界はいたって簡単です。けんかして、一人残って死んでしまえばおしまいです。女がいたから問題です。また女ばかりで男がいなくても、女がけんか好きの悪魔の本性を受け継いだとしても、女のチャンピオンが戦えば、部落的な戦いから世界的な戦いになります。結局は二人残り、最後には一人残り、生命の限界がきて疲れて死んでもいいというのです。結局、一世紀以内に、地上にはだれもいなくなってしまいます。
ですから、人類を拡大して存在すべきその内容を求めるのに、地上に男女が絶対的にいなければならないというのです。ここには何の公式も必要ではありません。絶対的公式です。そういう意味で、女はそのために生まれたのですから、男と同等な権限があるのです。いくら男が多くても、女がいなければ、生命も価値もない者であると言ったら、気持ちが良くなります。(笑い)
男が必要とするのはどんな女でしょうか? 小さな声で話し、奢侈にふけり、贅沢なことばかりを好み、そして男に逆らうような美しい服を願ったり、化粧も毎日専門的にして、何の役にも立たず、自宅で座って何かをして生きる者ではありません。
男は反対の性質です。男が必要とするのは、後孫のため、世界歴史のためです。自分一人で死んでいくか、それとも自分の後孫を残し、歴史を残すかと聞いたら、自分としても後孫を残し、歴史を残したいと思うのです。そうであるならば、女たる者を受け入れなければならないという結論になるのです。そうですか?(「はい」)。そうですか?(「はい」)。え?(「はい」)。え?(「はい」)
ですから、いくら男が威張っても、女がいなければ無価値な者になってしまいます。無価値な者ですよ、多くの男たち。(笑い)女は、いくらおしゃれをして姿を誇りたくても、男がいなければ無価値の者になります!
とうとう結論に何の文句はないように静かになってしまうのです。(笑い)
だれがアダムとエバをつくったのでしょうか? それは、神様が、仮想的に考えてもかまいません。絶対的中心者として、根源の第一出発基点としてあるものがあるべきであったと仮定してもいいです。そういうふうにして、実証的な内容を考えてみなさい。
鉱物世界にはプラスイオンとマイナスイオン、原子世界には陽電気と陰電気、植物世界には雄しべと雌しべ、動物世界には雄と雌、人間には男と女というふうに、相対的になっています。
どうして相対になったのですか? 何を必要とするようになったのですか? 愛が必要だからです。愛が絶対的に必要なのです。その愛たるエッセンス、元素たるものが絶対的に必要だとするならば、人間が必要とするすべてのものの中心的な内容を持つものという結論になります。愛が絶対的なものとした場合には、そのものは、生来の男の生活、女の生活、男女の共同生活など、関係するすべての生活圏に属するものは、絶対なる愛に対して相対的位置を逃れることはできません。
ですから、そのような中核的な中心性に対して、相対的な客体圏はそれをつなぐ内容を持たなければなりません。愛の本質の中核に対して相対的内容を持つような因縁です。人間を中心としたすべてのものは、愛を中心として相対圏の内容を持たざるをえないのです。同質同位に立って一つになるのです。
女と男は、まるで性質が反対です。そうではありませんか? (「そうです」)。女は下に下がろう、休もう、休もうとしますが、男はそうではありません。男は上がろう、上がろうとします。高い山に登頂した者は、女ですか、男ですか?
夫婦同伴で山へ登ろうと言った場合に、女の子は、寒いし、一番低い所、引っ込んだ所に集まるようになっているのです。ですから、女は引っ込むものが好きです。また、引っ込むものを持っています。それは生殖器です。いいように思って、変な声を出したら困ります。男はてっぺんを狙いますから、出っ張っています。出っ張ったものと引っ込んだもの、ともに反対の内容がありますが、高い山になるには、高く高くそそり立つには、いちばん低く洞穴を掘り、どん底に入らなければなりません。高い山には谷がいっぱいです。
高い山というのは、相対的な位置において形成するのであり、てっぺん自体が偉いのでも、谷が悪いのでもありません。相対的内容を抱くことによって、高い山になるべきなのです。そうですか、そうではありませんか? (「そうです」)。「そうです」とは、韓国語では「『(ソ:牛)』です」ということになります。韓国語で「そうです」は「牛(:ソ)」です。笑っていますから、皆、記憶するでしょう。
そういう意味において、アダム、エバは、死にたくても死んではいけないし、離そうとしても離れてはいけないし、離そうとしても離してはならない因縁、絶対的な内容をともにはらんでいるのです。
それで何をするのですか? 突進した場合に、女の子は感情が上がったり下がったり、けった場合にはピーンと調子の中で転んでしまうような、話にならない情け深いものです。頼りになりません。ですから落ちるときに、しっぽが重いからしりから落ちるようになっているのです。女は頭より腰が大きいから、こっちがフーとなるのです。(笑い)。男は頭が大きいから反対に落ちます。皆、自然現象の相対圏の理想として一体圏に、調和がとれるような内容によってそうならざるをえないのです。
女は男を絶対必要とし、男は? 男は女を何ですって? 絶対。(「必要と」)。するのではありません。(笑い)。まあ、分かりましたね。そういう意味において絶対必要ですから、アダムとエバは、すべての万物の象徴的なその中核、核心として必要なのです。
アダムとエバ、その相対を標準として相対圏に立つには、自分たちもその形で整わなければならないので、宇宙創造物はペアシステムになっているのです。双双体制で存在しているのです。分かりましたか?
アダムは大きいプラス、万物は東西南北に広がった小さいプラスですから、皆、相対した場合には、人間と万物が共同されるのです。その共同された絶対的主体圏を中心とした基準において、平面をとった場合には、神様が垂直に臨在するようになるのです。神様は何のためにいすをつくったのですか。美人たる女の顔を見たいからつくったわけです。そうです、そうでありません? (「そうではありません」)
先生を初めて見る人、いますか? 手を挙げて。先生を見ない者はいませんね。
先生はいつも若い先生みたいに思うでしょう。先生みたいな年寄りだったら、舌も固くなって、韓国語や日本語を語っても三分の一は皆、流れてしまうような発音になります。しかし、若い人も及ばないような発音をするときもあります。若い青年と同じように発音する先生ですから、若いと思うのに間違いありません。気持ちいいですか、悪いですか? (「気持ちいいです」)
日本人は皆、年寄りが好きですか、そうではないでしょう? まあ、いいです。(笑い)
アダム、エバを絶対的存在とした場合、アダム、エバよりも偉い者がいるとしても、これを受け入れなければならないという結論になりました。
アダム、エバは一つの種です。一つの種は必ず二つの要素、右の要素とマイナスの要素を一つにカバーしています。種は皆、そうです。種は必ずそうなっています。それは宇宙創造の原則です。神様から始まったすべてのものは、神様の形をかたどっていますから、種には必ず一つの袋の中に二つのものがちゃんと入っているのです。それは胚芽でつなぐようになっています。そこに新しい芽生えが、穂先が生まれるようになっているのです。
それは大きな二つのプラス、マイナスのそれを食糧として吸い込み、二つにすると思えばいいのです。これが若芽として芽生えるようになります。種は一つの生命を養成するため、その後孫のために、本体のプラス的なもの、マイナス的なものをすべて投入して、完全に投入して消えていきます。新しい種の拡張を願うのが、種としての存在目的です。
夫婦は種と同じです。愛という袋の中にある種と同じですから、子供が芽生えた場合には、自分の一心一体を肥料として消化させて、りっぱな後孫の拡大圏を残していくという目的があるのです。それはすべての相対圏の愛を核心とし、中心としてつながるという目的です。
商売をする者は現金を投入しますが、マイナスになるのを願う商売はありません。そのような行動をする者は馬鹿者です。そのように気を遣って投入するのに、プラスをいろいろと関係を持とうと思うのは愚かです。何百倍ものプラスになるもの、代価がえられるならば、それを得るために、自体を犠牲にしても、いちばん欲しがった現金をポケットから出して全部投入するようになっているのです。分かりましたか?
ですから、子供をたくさん生むべきでしょうか、生むべきではないでしょうか? 女たちよ。(「たくさん生むべきです」)。何人くらいですか? (「百人」)。(笑い)。三十人よりもっと、五十人もどうですか? (笑い)(「百人」)。百人? よろしゅうござんす。(爆笑)ですから、夜、昼、休まずともに抱え合って繁殖圏を拡大するのは悪いことではありません。
君たち、女たちは男を何と言いますか? 韓国には、犬みたいな男という言葉がありますが、日本でもそういうことを言いますか? 韓国には犬みたいな男という言葉があります。犬は、雄と雌がいた場合、雄は間違いなく、家を離れて雌の所に行き、け飛ばしたりすすり合ったりいろいろやります。放っておいたら大変です。
男が女を引っかけようとするのはいいことですか、悪いことですか? ん? 本当のことを言いなさい。自然現象から見た場合、男が女に近寄ろうとするのは悪いことですか、良いことですか? ああ、いいこと、悪いこと? これ、女の子、エバ国の大女、先生が大きい声で言うからいいことだと答えたら大間違いです。それはいいことになっているのです。
年を取った女の子が、天下一品の美人として東西南北から見上げられる者として一人で座っていても、一人の男も現れないという場合には、泣きますか、笑いますか? (「泣きます」)。どのくらい泣きますか? 声を出して泣きますか? かわいそうな女を助ける男でも現れたら、つかんでかみついて離さない、そういう悲惨な立場です。そういう立場に立てば、女は生きることができません。それっきりです。それがなせなかったら死んでしまったほうがいいと言うのは、そういう法則からです。一方きりの立場に立ち寄った女の分相応です。分かりますか? たくさんのものでした。
しかし、男はそうではありません。女がピーンとやってきます。向こうもまたピーンと、向こうはそれが違うのです。女が慕う人を失った場合には自殺する者が多いですが、男はそうではありません。東西南北、男は三面です。女は男の後ろです。一面しかありません。男の後ろに歩くとしても、小さいです。西洋人に比べたら、日本人みたいに足が小さいです。こういう余計なことを言い出したら時間がありません。(笑い)しかし、余計なことは、それはご飯が出る前に、デザートとかいろいろなものが出るでしょう。そういう果実を出して、準備運動が必要なのです。準備運動として少し語ってみました。先生に向けて、一方きりの環境になってしまいましたから、今から気合をかけてもいいではありませんか?
日本がエバ国家であることについて、自然現象から、また地政学上から見てみましょう。島はいつも大陸を慕うものです。そうではないと思う者、手を挙げてみなさい。一方きりです。港に船が来れば、その船が大きくても小さくても、島に住んでる者は皆、「何だろう?」と集まってきます。権限も意志もなく、「船を下りて来る者が自分の家のお客さんでもあればいい」と思います。それは女の生涯に通ずるものです。「旦那さん、帰って来ないかなあ」と、かばんを持って出勤する男の後ろ姿を見て、一日中待ち望むのが女の姿ではありませんか。生涯通じます。それとそっくりです。ですから、島国はエバ国を象徴するという話は、いかに大声で言ってもいいし、天皇でも「そうでござんす」と答えなければならない内容です。それ以外のものは一方向に片づけてしまいます。
大陸は違います。これを地政学上から考えてみましょう。韓半島というものは、女に向かう一番近いものです。それは引っ込んだものですか、出っ張ったものですか? 男のいちばん女に近いもので出っ張ったものは何ですか? (笑い)。皆、結婚する者で、恥ずかしがることはありません。子供を生んだ者は何が恥ずかしいですか。歴史にないことを言うのではありません。自然現象の当然あるべき姿を言っているのです。何かおかしいように思い、異常な目で「先生があんなこと言うかね」と見るのですか? 聖人というものは、自然的な百パーセントの基準で中心的な立場に立つ者を聖人というのです。先生だから便所に行かないと思うのですか? (笑い)
宗教は間違うのです。現実を離れた宗教には理想をつなぐ道はありません。現実を逃れて理想は通じません。そういう意味で、二十世紀における新しい宗教として権限を持つようになったのは統一教会以外にありません。現実的であり、未来的です。そのような二重性を持っているのです。「死ぬと思ったのに生きる、生きると思ったのに死ぬ」というのです。生きるというのは、統一教会に入って気持ちよく生きようとするのです。これは、先生が気合をかけて、迫害して、下の者には上がれ、上がれとするのです。下に押すと、向こうはポーンと上がります。
高くなりたい者はいますか? 高くなりたい者、手を挙げてみなさい。皆、偉く、高くなりたいでしょう。醜い顔で、何の価値も内容も持っていない女でも、内心においては、それが悪いほど反対に高くなりたいのが女の心情です。そうではありませんか? そうです。先生が「そうか」と言ってそう思っているよりも、君たちがそうだから先生が「そうよ」と言うのです。
それは相対的です。プラス、マイナス、上がったり下がったりするところに面白味があります。
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