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第二回「七・一節」
1992年7月1日
ソウル・本部教会にて
神様の永遠なる祝福
今回は若い人たちがたくさん集まりましたね。日本の食口たち、手を挙げてみなさい。その他は全部、韓国の食口たちですね。日本の食口たちは韓国語が全部分かりますか? (はい)。
きょうは何の日ですか? (「七・一節」です)。「七・一節」とは何の名節ですか? (神様祝福永遠宣布の日です)。それは何のことですか? 人間に与えられた神様の祝福は、未完成のまま今日まで延長されてきたのです。ですから、いつの日にか救いの摂理を通じて、約束の祝福を成就することを願ってきたのが、人類歴史を導いてこられた神様の希望でした。その終結を見なければ人類の幸福な世界、神様の理想の世界は実現できないのです。
神様が祝福されたことを再び活かして、永遠なる祝福を立てておかなければ、永遠なる人類の理想世界を探し求めることはできないのです。それゆえに、いつの日にか誰かがこのことを成さなければならないのです。その方は、他の誰でもなく、神様が選ばれた堕落しなかった本然の完成したアダム理想を成就する方であり、その方が来られることによって、それが可能になるのです。真の父母の顕現とともに、そのようなことが可能になるという結論になるのです。
統一教会はいかなる宗教かというと、真の父母に侍る宗教なのです。もし真の父母がいなければ、真なる子女は生まれてくることができません。そのように真に満ちた子女がいなければ、真に満ちた男も真に満ちた女も生まれてきませんし、真に満ちた家庭、真に満ちた民族、真に満ちた国家は形成されないのです。
神様の救援摂理は、復帰摂理です。完成できなかったことを再び探し求めて成就しなければならないのです。救いの摂理は復帰摂理であり、再創造摂理なのです。それゆえに、再創造摂理をしなければならないのです。それでは、復帰はどのようにするのかというと、そのまま復帰することはできないのです。蕩減復帰しなければなりません。
イスラエル民族がエジプトを去る時も、そのまま出ていくことはできませんでした。エジプトにいるすべての長子を打たなければならなかったのです。長子を打たずしては出ていくことができないのです。さらに羊をほふって、門にその血を塗らなければならなかったのです。これは条件なのです。そのような犠牲の条件を立てなければならないのです。イスラエルは、エジプトの長子たちが死ぬ代わりに、羊をほふり祭祀を捧げたその条件によって、血を見て死ぬ場を越えていくようになったのです。すべてに蕩減条件を立てずしては出発することができないのです。
もし私たちが罪を犯せば、この地でいつかは清算しなければなりません。自分で清算することができなければ、自分の子供を通じてでも清算しなければなりません。もし子供の代でできなければ、後世の歴史を通じてでもいつの日にか清算しなければなりません。そうしなければ永遠に解放できないのです。
この大韓民国の民族的反逆者は誰ですか? (李完用です)。もし李完用の後孫が生きているとすれば、その後孫はどうしても先祖から受け継いだ反逆者の後孫という立場から抜け出すことはできないのです。いつの日にか蕩減せずしては、解放される道がないのです。
それでは、誰が蕩減しなければならないのかというと、誰でもできるのではありません。直系の後孫が国家の前に公認されて解放されるまでは、歴史の汚点から抜け出すことはできないのです。これが人間世界における、歴史を通じた贖罪法なのです。それと同様に、天の国とサタン世界の間にも、もし過ったことがあれば必ず清算しなければならないのです。その清算が余りにも大きければ、宇宙史をかけて清算しなければならないのです。しかし、宇宙史全体を代身して清算することができなければ、条件を立てて成さなければなりません。そのために蕩減法というのがあるのです。例えば、ある人がたくさんの借金をして、そのお金を返すことができなければ、その債権者の喜びの日に贈物を精誠を込めて差し上げ、そこに集まったすべての人々の同情を受けることができるとすれば、その債権者は喜んで数千億の借金を数百億までも蕩減してくれるというのです。蕩減法とはそのようなものです。
このように見た時、人類の偽りの父母が生じたことによって神様の永遠なる祝福が成就できなかったことを、蕩減復帰するためには人類の真の父母が現れて、このすべてを清算し「永遠なる神様の祝福万歳を叫ぶことのできる位置に立ちました」と宣布できるようにならなければならないのです。それができなければ、その下にいるすべての子女、あるいは氏族、民族、国家、世界は、神様の前に堂々と立つことができないのです。ですから、この私が、神様の永遠なる祝福を再度宣布したのです。その記念の日が、昨年の七月一日なのです。
それでは皆さん、神様の救いの摂理はどのように行われてきたのでしょうか? この世の中には多くの人々がいます。その五十億人類を種類別に区別すれば、何種類に分けることができるかというと、男と女という二種類しかありません。その中に何々の民族、何々の民族と、さまざまに入れておいたのです。そのように、世界のすべての人々は、この二人の男女を拡大した姿なのです。それは間違いありませんか? (はい)。
それでは、この二人が完成して、そこから生じた枝や葉や種を受けて、再び植えたものが、春夏秋冬と循環的に回っていって、今日の人類に拡大されてきたのです。結局、この二人の男女が完成していたならば、このように苦痛なる世界にならなかったはずです。しかしこの二人が過ったために、今日の世界のすべての万民が、塗炭の苦しみの中にあるのだということを知らなければなりません。
すべての存在は結果的なもの
皆さんの家庭を見ても全部、男と女の二種類ですね。おじいさんおばあさんも男と女であり、お父さんお母さんも男と女であり、夫婦も男と女であり、息子娘も男と女なのですね? (はい)。もし、この男と女たちが、「完全なる根本的公式がなければ生きることも死ぬこともできない」という絶対的な内容を知っていたならば、人間は今日このようにはならなかったのです。それが分からないので、このような世界になってしまったのです。それで、人間とは何かという絶対的な内容を知る人がいないのです。
哲学においても、人間はなぜ生まれたのかと問いかけているのですが、いまだに、それが分からないのです。ある人は猿が進化したと言うのですが、猿が人間になったのであれば、皆さんは気持ちがいいですか、悪いですか? (悪いです)。もし風格のよいおじいさんおばあさんに会って、「あなた方のおじいさんおばあさんは、猿なのでしょう?」と言ってみなさい。もし、そこに棒がなければ、斧を振りかざしてなぐられるのです。猿の子であると自称して喜んで生きるのような者は全部、道端に吐き捨てなければなりません。処断してしまわなければなりません。ですから、人間は絶対に猿の種になることができません。
私は皆さんに一つ聞きたいのですが、私たちが猿から進化するというならば、その前に雄と雌の概念があったでしょうか、なかったでしょうか? (ありました)。猿であっても発展しようとすれば、雄雌を通さなければなりません。この雄雌の概念は、アメーバが生じる前にもあったのでしょうか、アメーバが生じた後にできたのでしょうか? (生じる前にもありました)。すべての存在が始まる前に雄・雌、男・女、主体・対象、プラス・マイナスの概念があったのです。このことは、誰も否定することができません。
それでは、男と女はなぜ生まれたのでしょうか? 人間は他意によって生じたのであり、自意によって生じたのではありません。では、その他意とは誰によるものなのでしょうか? その名前は何であっても構いません。神様であれ、石ころであれ、岩であれ何でも構いません。第三者によって、この私は生じたというのです。では、その第三者とはいかなる方なのでしょうか?
人間自体をよく見れば、人間は神様の王宮なのです。人間一人を研究することによって医学博士たちが何百万、何千万名と増えているのです。そうですね。今後、もっと医学博士たちが増えていくことでしょう。それは、人間にいまだ多くの神秘に満ちた内容が隠されているからです。それらを皆、開発しようとすれば、さらに数千万の博士たちが誕生することでしょう。このように、人間とはいかばかり複雑であり、いかばかり膨大な存在でしょうか。そのような人間が一人でに生じたという人は狂った人です。
このコップが自ら存在したと言うならば狂った人ですか、正しい人ですか? このコップが、そのままここに来たと言う人は狂った人ですか、正しい人ですか? (狂った人です)。
すべての存在は結果的なものであり、原因なくして存在するものはありません。では、そのような原因は、悪なるところから出発したのでしょうか、善なるところから出発したのでしょうか? これが問題になるのです。すべての存在を見た時に、それが悪い原因によるものか、良い原因によるものか分からなくても、ペアになっているということには間違いありません。
鉱物世界にもプラスイオンとマイナスイオンがあって、相互に授け受けしながら運動しているのです。また、花の世界にもおしべとめしべがあります。では、動物の世界はどうでしょうか? 昆虫は雄だけですか、雌だけですか? どんなに雌が「私は、絶対に雄を必要としない」と言っても、既に雄は存在しているし、また雄が「絶対に雌を必要としない」と言っても、雌は既に存在しているのです。
では、雄と雌は永遠に闘争しながら生きるのでしょうか、くっついて喜びながら生きるのでしょうか、どうですか? もし、雄と雌を出発させた方が悪ければ、どうか知りませんが、善であり義なる方であるならば、互いにくっついて争い合うようにつくられたのでしょうか、くっついて面白く生きるようにつくられたのでしょうか? (くっついて面白く生きるようにつくられました)。そうです。雄と雌が額を合わせて生きる姿を皆さんは見たことがあるでしょう?
では、ハエにも雄と雌がいますか? (います)。このごろでは、細菌にも雄と雌がいるというのです。見えないそのような世界にも雄と雌がいるのに、見える世界、無限なる世界において雄と雌が自らの意志によって生じたのでしょうか、他の意思によって生じたのでしょうか? (他の意思によってです)。そうです。
ですから、私たちはどんなに素晴らしくても結果的な存在であり、第一原因的存在ではないのです。第二原因的存在なのです。人間は対象的存在にすぎないのです。そしてこの世界は、男と女だけの世界なのですが、とても複雑なのです。では、そのような男と女はなぜ生まれてきたのでしょうか? 哲学の世界に入って誰に聞いてみたとしても、ここで教えてもらっていることも知らないのです。「男はなぜ生まれましたか」と聞いても、「分かりません」と言うし、「女はなぜ生まれましたか」と聞いても、「分かりません」と言うのです。しかし統一教会の信徒に、「男はなぜ生まれたか」と言えば、「それは小学校の生徒でも知っていることなのに、なぜ聞くのですか」と言うのです。
真の愛を求めて
皆さん、男はなぜ生まれましたか? それは、女のゆえに生まれたのですね。誰か、この答えに反対することができますか? 間違っているという女がいれば手を挙げてみなさい。男は女のゆえに生まれたということが間違いだという男は手を挙げてみなさい。もし間違いであれば、凸も凹も皆、切ってしまわなければなりません。(笑い)凸は凹を必要とするのです。凹である女は、凸である男を絶対的に必要としますか、相対的に必要としますか? (絶対的に必要とします)。ですから男において、真理中の最高の真理は女なのです。どうですか、女は気持ちがいいでしょう? (笑い)男は女のゆえに生まれたと言えば、気持ちが悪いですか? 男の中の男ゆえに生まれたという男は一人もいないのです。
男は誰のゆえに生まれましたか? (女のゆえです)。それは、考えがそうなのですか、事実がそうなのですか、絶対的にそうなのですか? (絶対的にです)。ですから女において、最高の真理は何かというと男なのです。もし、五十億人類の中で全部が女であり、男がたった一人であるという時は、その男を中心として争いますか、争いませんか? (笑い)争いの場が展開されるのです。そして、五十億の中のチャンピオンになった時、その一人の男を占領することができるのです。その時、その女はどれほど幸福なことでしょうか? それでも争いを続けなければなりませんか、ストップしなければなりませんか、どうですか? 女たち、答えなさい。(続けなければなりません)。
そのように百戦百勝して最後のチャンピオンになって、男に侍ることのできる女となった時、その女はどんなに幸福なことでしょうか? (笑い)それは何か比較できるものがありますか、天地に取り替えることのできるものがありますか? (ありません)。再び争うのを恐れて、男も女もいない所に逃げて生活したいと思うようになるのです。
ですから、男にとっての真理は女しかありません。女にとっての真理が何かという時、何と答えますか? (男です)。それでは、男と女にとっての真理が何かという時、それは愛しかないのです。男と女はそのような愛のゆえに生まれたのです。では、そのような二人は何を中心として一つになるのでしょうか? 真なる男と真なる女が、真の愛を持って結婚するところにおいて、完全一体が起こるのです。
完全に統一された立場でのみ真の愛を探し求めることができるのであって、完全に統一されていない立場では、真の愛は存在することができないのです。では、完全統一された男と女はこの地上にいるのでしょうか? 一人もいません! ですから、この地上には、いまだ真の愛が現れなかったという結論を下しても、不平を言う人はいないのです。
皆さんは、なぜ結婚しますか? 泣くために結婚をするのですか、喜ぶために結婚をするのですか? (喜ぶためです)。では、何を中心として喜ぶのですか。御飯を食べながら喜ぶのですか、愚痴をこぼして争いながら喜ぶのですか? どんなに大切な器を壊してもそこに、ただ一つ愛が残っていれば、壊れた器はころころと転がっていっても、もっと大きな器が出てくるのです。それゆえに、夫婦喧嘩をするほどに真の愛が大きくなっていくというのです。素晴らしいでしょう? (笑い)愚痴をこぼすほどに、幸福の刺激がもっと強くなるというのです。
例えば、運動選手を見ても、一〇〇メートル競走のチャンピオンには、できない運動は一つもありません。ボクシングもできるし、ありとあらゆる種類の運動ができるのです。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。一つの競技でも一等になるためにはありとあらゆることにパスしなければならないのです。そして、そのすべての比率が平衡に現れずしては、自分の相対理想圏を整えることができないのです。
この統一教会においても宗教圏での地位を確保する時が来るまで、統一教会を称賛した人がいたでしょうか? チャンピオンになって戦うというよりも引きずられながら戦ってきたのです。しかし最近では、私たちが「戦おう」と言えば、既成教会の牧師や神学者たちは皆、逃げていくのです。一発のパンチでノックダウンされるからです。ですから、宗教界でも政治の世界でも、私がチャンピオンなのです。
神様は、ブッシュ大統領と文総裁を交換するでしょうか、しないでしょうか? (交換しません)。それでは、アメリカの二億四千万の国民と文総裁を交換するでしょうか? (しません)。同じ人間であり、同じ眼があり、鼻があり、口があり、一日に御飯を三度食べているのに、彼らは称賛されているのに、文総裁は追われて逃げ回り、春夏秋冬、一年のうちにも休暇などもないのです。一生涯、悪口を言われて監獄に入ったり出たりしているのです。比較にもならないのです。ですから悪なる親分として、私の名前が残ったのです。
そのように皆、比較してみる時、文総裁を打って、無くしてしまおうとした人々が実に多くいて、私を負かそうとして数多くの理論闘争をしたのです。そのようにして、ありとあらゆる人々が皆、通過していったのです。神学博士も通過していきました。哲学博士も通過していきました。政治家も通過し、宗教家も通過していったのです。
今や、そのような戦いも終わり、このごろでは国会議員たちが、「文総裁、お会いしましょう」と言っているのです。今さらいいかげんにしなさいというのです。国会議員の中には、どれほど詐欺師が多いことでしょうか? 彼らは今まで皆、ありとあらゆることを行って反対してきたのです。
この私は堂々とした男でしょうか、できの悪い人間でしょうか? (堂々とした人です)。堂々としていたのに、しがない存在になったのですね。皆さん、それでもいいのですか? しがない存在の王様とは何か分かりますか? 私には、しがない存在の王様になる道しかないのです。王様はいつでもしがない存在なのです。誰か友達がいるでしょうか? 王族しかいないのです。また、王宮法がどんなに恐ろしいものかというと、王様の息子娘たちは踊りも自由に踊れないし、酒も自由に飲めないし、喧嘩も自由にできないのです。しがない存在の身上が王宮の中の王様なのです。そのようなしがない存在として、大きくなって万王の王になる道しかないということを知らなかったのです。文総裁はしがない生活をたくさんしたのですね。今もしがない存在ですか、どうですか?
今やアメリカの国務省も、私に会いたいと言って来ています。北韓のことで会いたいというのですが、私は会うことを延ばしているのです。このような話を、なぜ冗談を交えながら話すのでしょうか? 今日は何の日ですか? (「七・一節」です)。
人類始祖の堕落
神様が七数を越えられなかったことが堕落なのです。六数を失ってしまったのです。昨年の七月一日は歴史的な日でした。ご覧なさい。堕落することによってどのようになったのですか? これはサタンです。(先生が前にある花を示して語られる)これはまだ咲いていないので、アダムなのです。アダムは堕落することによって誰に従っていきましたか? (サタンです)。アダムはサタンの前に立ったのでしょうか、後に立ったのでしょうか? (後に立ちました)。では、エバはアダムの前に立ったのでしょうか、後に立ったのでしょうか? (アダムの後です)。それではカインはどこに立ったのですか?(その後に立ちました)。アベルは、本当に大きいのです。新婦とは何でしょうか? これは何の花ですか? (百合です)。新婦は百合を好むのです。百合がなぜ新婦かというと、この花の香りは深いところにあるからです。香りを広くまき散らすために、このような型に生まれたのです。ラッパのような花は全部、香りがいいのです。ですから百合は女の象徴なのです。新婦の象徴なのです。
それで神様はどのようになったのでしょうか? その後には、従っていく人がいないのです。それでどこへ行くのかというと皆、地獄へ行くのです。人類始祖は堕落した後に神様が保護されて、エデンの園から追い出されずに良い五官で生活できたのでしょうか? アーメンですか、ノーメンですか? (ノーメンです)。エデンの園から追い出されましたか、エデンの園に残ることができましたか? (追い出されました)。
それでは、追い出されたアダムとエバは子供を生みましたか、生みませんでしたか? (生みました)。子供を生んだということは、二人が一緒に結婚生活をしたということです。では、誰を中心として結婚生活をしたのでしょうか? 神様ですね? (サタンです)。追い出されて結婚生活をしなかったというのが、既成教会の考え方なのです。ここに既成教会を信じてきた人がいますか? 手を挙げてみなさい。この者め! (笑い)
アダムとエバは堕落して、結婚生活をしましたか、しませんでしたか? 二人が喜ぶのは結婚生活でしょう? これが分からない無知な人とは相対できません。無知には完成がないのです。それは廃品でしかありません。
さあ、アダムとエバは追い出された後に、神様がついて行って保護してくれましたか、くれませんでしたか? (……………………)。男たちはそういうこともわきまえずに動き回っているのですか? 追い出されて二人は結婚生活をしたのですね? (はい)。五十億人類はそこから増えてきたのですね? (はい)。二人が仲良くしたので子供が生まれたのであり、そのようにして息子娘を生み増やしてきたのです。既成教会はそれも分からないのです。それが分かれば、聖書を見る観点も違ってくるのです。そのことさえ分かったならば、今日、統一教会が出てくる必要もないのです。その一言だけが分かったならば、統一教会で先生が教えてきた原理の八〇パーセントは分かるのです。みんながそうならなければ復帰できません。
では、堕落しなかった本然のアダムとエバはどこに行ったのでしょうか? 神様の願いである堕落しなかった父母はどこに行きましたか? どこにもいないのです。それは皆、切り捨てられたのです。それで、神様はこれを放っておかれるでしょうか、再び探し求めようとされるのでしょうか? (探し求めようとされます)。理想的アダムの実体は何もありませんが、神様が創造した構想のアダム型は神様と共にあるのですね。それで神様は後に従っていかれましたか、滅びてしまえと放っておかれましたか? (後に従っていきました)。もし息子が死ねば、父母、兄姉の誰もが泣きながら従っていくのです。神様も同じです。涙を流して従っていったのです。それは痛哭なことです。天地も滅びます。神様ご自身までもが堕落するような位置に立っているのです。このように従っていったのです。
神様が従っていこうとすると、サタンがその頭を全部握って、父、母、長子、次子まで全部を引っ張っていくので、神様は誰にすがって事情を訴えるのでしょうか? 頭のほうですか? 頭にはアダムとエバがいるし、中間には長子がいるので仕方なしに神様は後に残ったアベルに向かって、「おい、アベルよ。アベルよ。私をちょっと見なさい、私をちょっと見なさい」と言ったのです。ですから、神様は人間世界に訪ねてこられて、次子を中心として救援摂理をしてこられたのです。このような伝統的歴史を知らなければなりません。分かりますか? (はい)。
再び次子を探し求めて教育して、長子を後ろ向きにしなければなりません。その次に回れ右をするのです。堕落した後に、アダムとエバは争う息子娘を抱いてどこへ行ったのでしょうか? 母を中心として息子娘を連れて地獄へ行ったのです。地獄なのです。神様の創造理想である天国とは関係のない、一八〇度違う地獄へ離れていったのです。
本来、天国に行かなければならない民として神様がつくられた息子娘が地獄へ行ってしまったので、再び引き戻すために救援摂理をせざるを得ないのです。そこで、弟を中心として教育するのです。「お前は、サタンについて行ってはいけない。この世の中に従って行ってはいけない」と言って、これらを全部否定させてきたのです。さまざまな文化的背景の中でサタン世界の愛に失敗し、一人息子は死に、希望の持てないこのような脱落者たちを、廃品のような者たちを収容し、訓練し、教育して方向を変えてきたのです。それが宗教者たちなのです。
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