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牧者たちへの道しるべ 成約時代の牧会者 李耀翰 |
Ⅰ 一九七七年代の説教 |
成約時代の説教者
教域長補習教育での説教 一九七七年 五月二十三日 中央修練所
説教は教会員の心霊の成長の糧を与えるものとして非常に重要なだけでなく、説教者自身のためにも重要なものです。
成長とは発展を意味します。成長を促す説教は教会員の心霊の発展を助けるだけでなく、自分自身も発展するものです。「発展させる説教者になろう」と思うなら、自分の身近な教会員に自分の説教の内容やジェスチャーを批評してほしいと、頼めなければなりません。自分のささいな身ぶり手ぶりが原因で食口が恵みを受けられないとなれば問題です。それを自分の妻がしてくれればさらによいし、さもなければ、信仰の長い食口がしてくれればもっとよいでしょう。その次は、「恵みとなった内容だとか心に啓示的だと感じられることを書き留めてほしい」と頼みながら、説教の勉強をしなければなりません。
こういったことを自分がしなければだれがしてくれますか? おそらく教域長たちがもっとそのような練習をしていたなら、今よりも発展していたことでしょう。しかし、今まであまりそうしてきませんでした。何が何でも勉強しなければならないという愛着心のある牧会者であったとしたなら、教会は発展するようになっています。
忙しい時に信仰を見失わないために
私たちは、教域長という忙しい仕事から離れてこの場に集められましたが、仕事が忙しい時であればあるほど注意しなければなりません。外的な仕事が自分の心霊の発展にプラスとなっていることを自覚しながら忙しくしなければなりません。なぜかというと外的な仕事よりも、内的な自分の心霊の成長のほうが急がれるからです。外的な仕事で忙しいからといって、その仕事にただ振り回されるようになれば私は“かかし”と同じです。自分が主体になり、その仕事を通して霊的な恵みを受けられてこそ、自分が発展するのですから「私が主体となって、その仕事をするのだ」と考えなければなりません。
仕事中心だけの生活になれば信仰がかなり行き詰まるようになります。自分の権威と存在位置によく合わせて行動してこそ発展することを知るべきです。対社会的活動に従事しながら、あまりにも社会のサイクルのままに合わせて時間に追われるようになると、かなり混乱してきます。
例えば私が行かなければならないのは、その人が私を理解できないから行ってあげるのですが、その人が私を必要とする時には、その人に来てもらうようにしなければなりません。そうしてこそ神が協助できるのです。また、その人が来ようとしない時は自分が行ってあげて、その人が必要とする時は自分は動かないで、その人に来てもらうようにしないといけません。なぜでしょうか? 相対基準を造成しなければならないからですね。
相手が喜んで自分を訪ねてくるようにするのがアベルの使命です。父が自分の幼い子供に「僕の役割」をなぜするのかというと、子供が「私のお父さんはこのような人だ」という心を植えつけてあげるためであり、成長したのちには、子供がお父さんの前にその恩を返さなければならないのです。ずっとお父さんが僕でいたのでは、植えておいた種が生命の役目を果たすことができません。子供が自分の両親について、「私のお父さんは習性的に自分のことを手助けする人だ」とだけ思うようになってしまうなら、結果において孝行の実を収めることはできません。
同様に、教域長が相手のほうに出張講義に行くのは、み言の種を植えてあげることであり、植えてしまったのちには、成長をよく助けることができなければなりません。神は、私の背後にいて、私が植えておいた種をよく芽生えさせ、よく育って実を結ぶことを願うため、常に協助されるのです。
自分(教域長)がなすすべてのことは、「神が働くために自分を立てられた」のであって、「自分がなそうとして神を立てた」のではないことをよく知らなければなりません。ゆえに自分のすることは、自分一人でするのではないので自分勝手にしてはいけません。信仰生活において、なぜ信仰の主体を見失うかといえば、このような原則性をよく知らないからなのです。
天の恵みを失わないために
またここに集められたことは恵みです。恵みは、時をうまくとらえ、ありがたく歩むことができてこそ自分のものとなります。ですから恵みは「神が与えるもの」というより、自分がありがたく「受け入れなければならないもの」です。神お一人で恵みを与えられるのではありません。恵みは農業を営むのと全く同じです。春が来れば農夫が時に合わせ種蒔きをするでしょう。しかし、秋になってもじっとしていれば、自然に収穫されますか? 「時」をうまく利用するから多くの収穫が得られるのではないですか。もしその時を逃せば神が収穫してくれますか? この例えは与えられた時と環境を、ありがたく扱うことができるようにならなければならないということです。
時が私を見つけるのか、私が時を見つけるのか? 時を逃さないようにするには「恩恵に対する愛着心」をもたなければならず、愛着心があってこそ自分が恵みを所有するようになるのです。
また、時に対して関心をもたなければならないし、時を待たなければなりません。春は、冬が過ぎれば来るようになっており、それを待っていた人は夜明けから熱心に仕事をするのです。東に昇る太陽を見ようと思うなら、朝早く起きなければなりません。寝坊をしては時を逃します。太陽が中空に上がっていれば、時を逃したことになりませんか。
人も「待っていて会う人」と「来たから会う人」の二種類があるでしょう? 時に対しても、ある時期が来たからその時を迎えた人のその時間は、「自分の時」ではないのです。逃したのです。目が覚めてみると朝だというのは、既に自分の朝ではありません。「時」というのは、そのようなものです。
かつて預言者エレミヤは、吹雪が吹く時から柳を見つめていたといいます。それは柳を見ようとしたのではなく、木の芽を見ようとしたのです。時が来れば芽が出るからです。人が時をとらえるのであって、時が来たと知らせてくれるのではありません。
ですから、恩恵も自分が「ありがたく生活しなければならない」のであって、神が「これが恩恵だから、この恩恵を受けなさい」とは言いません。このように生活できないから私たちは疲れるのでしょう。事実、恩恵というものは、ちょうど海の中にいる魚が新鮮な水を探し回りつつ、海の恵みを受けることと同じであって、腐った水の中でじっとしていれば死んでいくのです。それと同じように、恩恵を受けることのできる人が習性的にじっと座って待ってだけいればそれを失い、かえって死んでしまうのです。
ゆえに信仰者は、事前に「慕いつつ待つ」ことができなければなりません。心がそわそわするのは、迎えなければならない新しい時が来たためです。のどが渇いた人は、水と出会うようになっており、おなかのすいた人は御飯を食べるようになっているのです。おなかのすいたことを見て時が来たのを知るのであり、また時が来て御飯を求めるから食べるようになるのであって、神がもってきてくれるのではないのです。
ですから「恩恵は自分がつくるもの」です。皆さんは平凡なことで忙しいという言葉を使ってはいけません。心霊が神への賛美に酔って生活する人であってこそ「忙しい」と言えるのです。感謝して生きる人が忙しい人です。心霊世界で忙しいということは、感謝する生活、酔って生きる生活、恩恵にあふれて感激する生活を指すのです。これが真に心霊を中心とした忙しい生活なのです。
「これもしなければならないし、あれもしなければならないから忙しい」というのは、仕事に自分が引っ張られていくことなので、「脱線」とみなさなければなりません。原理的にいえば「自己の位置を離れる」ことです。そのため精神的に行き詰まるようになります。このようなことが分からずただ忙しく焦ってだけいると、自己の存在位置を離れるようになり、自分の価値がよく分からなくなるため、ついには善悪の分別をするのが難しくなります。
家庭訪問の伝道の例を取ってみましょう。私たちが家庭を訪ねて伝道する時、その家の夫婦が恩恵を受けるようになると、続けてたびたび行かなければならないと思うのは、既に自己の位置を忘れている立場です。自己の位置を失い、「巻き込まれ」やすくなっているのです。ですから、彼らが恩恵を受ける時は、自分はそれ以上に一段階上がらなければなりません。原理を伝えてその人が自分より深く悟る場合、間違えば自分がその人の事情圏に巻き込まれていくようになるからです。
恩恵を授けたり受けたりする時は、自分が神との関係をもっと高めてこそ自己の位置を守ることができます。ですから、自分の精誠とその人の精誠を合わせて、自分が神との関係をより深く結んでいってこそ一段階心情的に神に近づくようになるのです。
自分が他人に恩恵を与え、その恩恵でよりプラスにしてこそ、神と自分との関係が一段階高められて、自己の位置を守ることができるのです。それを知らなければ脱線します。
恩恵を与えた自分は神との関係を失い、脱線してしまうのです。注意しなければなりません。
使命の大きい人たちは、恩恵を受けたのちに失敗する場合が多いのです。洗礼ヨハネも恩恵を受けたのちに脱線しました。牧師たちも恵みを受けたのちに脱線した人が多いでしょう。それと同様に、私たちも恵みを受けて、その恵みゆえにうっかり神が自分に求められる位置を見失い、後退するようになる場合が多いのです。ですから称賛されることを恐れなければなりません。もてはやされる時は恐れなさい。なぜでしょうか? 自分の立場を失うようになりやすいからです。他人から称賛を受け、もてなされて自己の位置を失うその人は、本来自分に感謝が来るべきではなく、実は神に感謝が行くべきものなのに、自分に来るものと錯覚するため自己の位置を失ってしまうようになるのです。
成約時代の説教のテーマ
成約時代の説教は、訓話や教訓よりは、聞く人の心に「創造主の心情や怨恨を植えてあげるもの」でなければなりません。皆さんは、教訓や助けになる話だけを扱いやすいのですが、成約時代の説教は先生が宣布された創造主の秘密、つまり創造主の心情解怨を宣言するところに焦点を合わせなければなりません。
一般的に説教のテーマは、大衆を教育するための訓話や正しい信仰生活の強調であると思われがちです。しかし成約時代は信じる時代でなく、心情の時代であり、再臨主によって創造主の怨恨を解く、解怨のみ言を宣布する時代であるため、「神の事情を体験させ、神の心情を明らか」にして、まず深い感銘を与えなければなりません。
訓話や教訓のように「私たちはこうでなければなりません」式に説教してはいけないというのです。「天の父の事情がこうだから、このような怨恨を私たち人間を通して晴らそうとするのだ」と話してあげなければなりません。教訓や訓話の性格、また私たち自身の生活に助けになる話などは、すべて道徳的な話です。今日の仏教や他の宗教界、そしてキリスト教会の説教は、一つの道徳的な教理的な訓話を扱っていますが、私たちはそれとは異ならなければなりません。天の父の悲しい事情を宣べ伝える性格と内容が盛られていなければなりません。
そのような性格をもつ説教をしてこそ、多くの人の心霊にとってそのみ言が復活の原動力となり「ああ! 神様がそのような事情であったのか!」と共感をもたせるようになり、多くの新しい生命を真の神の子女に成長させることのできる説教となるのです。
蘇生期の食口の復活とイエス様
説教の対象が教会に初めて通い始めたような蘇生期の教会員の場合、信仰生活の基盤をしっかりと築くために怠ることなく礼拝や集会に出席するようにさせ、その次には十分の一献金などの献金をきちんとするように指導しなければなりません。そういうことを通して「神の前に従順であること」を教えなければなりません。
復帰摂理の歴史を見ると、神が人間に対して祭物をささげさせたり、儀式や法則を作って従順に従わせ守るようにしたのはすべて、それまでに結ばれた歴史的な問題を解きながら、自己の自犯罪までも清算させるところにその目的がありました。「法に従順に従わせる」ということは、自ら自分自身を束縛して放縦に流れさせないようにすることによって、自然に、見聞きすることや思うことをそのままに生きようとする堕落性から離れられるよう、正しく指導するためです。
また蘇生期にいる人には、食事をする時や寝る時には必ず祈祷をするように指導してあげながら、三年を一区切りとして、しっかり育てなければなりません。そうして、次第に「従順に行ってみると果たしてこのように変わった」と悟り感謝し復活して、成長することができるように指導しなければなりません。復活は正にこのようにしてなされていくのです。
蘇生復活の方法は「制度を通して人を教育する」ことです。礼拝の時間には、厳しくても権威をもって、時間をうまく進行させ、教会長は新しく入ってくる人にそういう規則を教育して、蘇生復活するように助けてあげなければなりません。信仰を初めて出発する人は、霊界を経験しておらず、体面上、目に見える儀式のみに従おうとします。他人が献金をいっぱいすれば自分もいっぱいするし、他人が着飾れば自分も着飾ろうとします。そのような教会員には、教会儀式によく従うことによって復活することを味わわせてあげなければなりません。
牧会者はまた確認もしてあげなければなりません。「実際そのようにしたならどうなりましたか。献金したなら家にお金ができましたか? 献金しない時と、どのように違いますか?」とすべて尋ねながら、神が自分を記憶しているようだという体験をするように指導してあげなければなりません。
教会長の言うとおりにしなかったなら戒めを受けるというのは、蘇生復活圏内においても体験できます。背後から霊界が協助します。牧会者を助けるのです。牧会者の言葉を聞かなかったなら、霊界から必ず干渉されるのです。日曜日の礼拝に出席しない食口に「聖日を守らなければいけませんよ」と指導したのにその人が聖日を守らない時は、家が損害を受けるとか、事故が起きるとかいう事件が起こります。それを実感するように指導しなければなりません。
蘇生期では霊界がよく協助してくれます。ですから蘇生期にいる時は、教会長の指導を守らなかったなら戒めを受けるということを教えてあげなければなりません。
旧約時代は「エホバの神は恐ろしい方」として知られていたように、統一教会でも蘇生期の人に対しては、神を恐ろしい方と思うようにしなければならず、霊界が恐ろしいことを分からせる教育的な説教をしなければなりません。
霊的に皆さんの心霊の級位を見れば教域長の中にもまだ長成期に上がれないでいる人がいます。私たちは復帰摂理の完成時代に生きているので子女圏(蘇生級子女圏)内にありますが、教域長は蘇生期の教会員を育て上げてこそ長成期に上がれるのです。
牧会者も内的に長成期に入るのは難しいのです。蘇生期の食口を育て上げれば教域長自身が長成期に上がるようになります。しかし蘇生期の食口を育てられなければ自分も上がることができないのです。
ちょうどイエス様が、自分の使命の対象者としての洗礼ヨハネが不信したので洗礼ヨハネの失敗を執り成し、世を去られたのと同じ立場です。イエス様は、この地に来て蘇生級の復活摂理をし、十字架で亡くなり、そして復活したのちに、霊的にペテロを訪ねてなされたことが、長成期の復活摂理です。イエス様は、旧約時代の人、あるいはイスラエル選民ですらない人を弟子とされたために、彼ら以下に下りていって苦労されましたが、生きたまま、肉身をもっては長成期に上がれませんでした。
十字架で亡くなったのちに、復活して霊的に長成期に上がりました。イエス様は、息子の役割をなせませんでした。言い換えれば「選民の前では神の息子としてもてなされなかった」ということです。皆さんも十分に理解しているかもしれませんが、このような事実から見て、今日統一教会の教域長の中で、長成期の教域長がどのくらいいるでしょうか? 長成期の教域長がいたなら、神が今まで以上に協助してくださるでしょう。
完成期の内的復活の道
長成期の教域長には、霊的にすべて協助してくれるのです。蘇生期にも協助してくれたのではないですか? 今の既成教会では蘇生期の復活もありません。なぜでしょうか? 倫理道徳のレベルに世俗化してしまったからです。イエスの名でキリスト教は生まれましたが、蘇生期にすら入れませんでした。蘇生期の復活がなされたなら、先生がいかなる人か霊的に分かるようになっています。蘇生期の復活をすることで、自分より恩恵を受けた人を霊的に知るようになっているのです。
悟りの道にあって任務をよく果たしている人は、自分より愛を受けている人がだれなのか分かるようになっています。しかし他の宗教を「異端だ」などと言うのでは、その人たちの心霊基準が非常に低いに違いありません。そのため、今日の多くの宗教は、倫理道徳は扱っても心霊の復活の問題は扱えないのです。私はこう思います。
蘇生期の復活をした人の内的な性稟、つまり統一教会の神の愛の原理により、蘇生期の復活をするようになれば、内的に「ある本性をもつ」ようになるということを、“原理人”は説明できなければならないのです。
ですから自分は「どのような性稟の所有者にならなければならないのか」ということも正しく分析できなければいけません。原理というものはよく切れる刃物のようでもあり、鏡のようなものでもあります。ゆえに原理で自分を裂いて分析し、次に原理に照らし合わせてみて、自分の心の状態を知らなければならないのです。
このように、自分の正体を正しく見分けることのできる人になれば本当に素晴らしいのですが、それができない統一教会の指導者は、自己も知らずに指導者になったため、人を見極めることもできません。平面的に、人情的に、あるいは「人間的」に自己の使命を考えやすいのです。それで、既成教会の牧師に似た現象がたまに起こってくるのです。蘇生復活をした自分は、どの程度の信仰者で、何のために闘わなければならない私なのかを知らなければなりません。
今度、面接の時間に話し合ってみたらよいでしょう。蘇生復活をすれば、どのくらい自分が改善され、またどのような性稟の獲得のために闘うべき自分なのか、という問題がはっきりしなければなりません。
長成期は「事情的な復活」といいます。つまり神の事情を中心として復活するのです。神の事情が私の事情のように思われ、神の事情が私の事情だと感じられれば自分に相続されます。
相続というのは、「神の事情を悟るようになった心が、復活した私の感情に接ぎ木された」ということです。そして完成期の復活とは「神の心情を相続して心情的に復活する」ことです。
これは実に難しいことです。私たちにとっては本当に困難なことです。神様という名称を今口にしていますが、果たして神の心情世界と通じている私なのか、考えてみなければなりません。祝福家庭がなぜ現れるようになったのかといえば、夫婦によって「僕の根性」を清算するためです。つまり夫婦を通して神様の養子になろうということです。夫は養子になり、妻は養女になり……。
私たちが受けている祝福は、本来長成期完成級の心霊レベルの行事です。摂理的に見れば長成期の完成級の摂理ですが、私たちは僕の域から脱することができません。夫婦を通して子女が生まれるようになっているため、夫婦を通さずには子女圏内に入ってこれないのです。子女は父母の事情と心情が通じる立場です。「真の子女」というのは、血統においていう言葉です。堕落の血統を受け継いだ私たちは養子でしかありません。しかし、本来神を中心として始まった子孫とは、真の子女なのです。
ちょうど昔は厳しく区別していた両班と常人とが共に現代の教育を経て階級を分けず結婚し、その後孫が続く中で、国のため公義のために思う心が変わらないので、今日に至ってはだれでも民主国家の主権者になれるのと同じです。しかし心情教育の機会をもてず結婚できなければ、血統的な転換が難しいのです。
効果的説教のために
説教には、聞く人の生活の糧となり、信条となり、座右の銘になる内容が含まれていなければなりません。ですから説教者は教会員がみ言を通してどの程度感銘と恩恵を受け、糧となったのか、祈祷をさせてみて確認してみなければなりません。
説教を通して心霊を復活させなければならないのです。そうするためには、常に教会員をよく見守ってあげなければなりません。それをしようともせず、そのままほっておくようならその人は牧会する人とはいえません。例えて言うなら、医者が薬を患者に与えたのちにその効きめがあったのか、なかったのかを調べるのと同じです。このように、説教者はしばしば確認しなければなりません。食口たちの生活において、教会長の説教が感銘深く、生活の中で祈祷する時も仕事をする時もみ言が常に思い出されるとするなら、これは効果のある説教といえますが、そうでない時は説教者自身が悔い改めなければなりません。
自分の説教が食口の精神世界における良薬になるようにと自分なりに語ったとしても、精神的に影響を与えられなければ、その説教は食口にとって良薬にならないわけです。こういう時は、すぐ食口たちの事情がどうなのか調べなければなりません。祈祷もさせ、面接もしなければなりません。
教会員の中でもその心霊や信仰の程度、入会年数などによって、自分が設定した牧会時間や内容が違うので、六カ月になる食口を中心とした牧会時間に三年になる人や七年になる人も交じっている時は、六カ月未満の食口を中心として牧会しながら、三年、七年になる人にも影響を及ぼさなければなりません。また、幼い食口を先輩食口にいつも紹介し、幼い食口の生活を証させ、この人はこのように恩恵を受けたと話しながら先輩食口を喜ばせ、精神的に力を得るようにしてあげないといけません。
それで、三年になる食口を中心として牧会する時は、六カ月になる人や七年になる人など左右をすべて導いていきながら説教をどのようにするかというと、まるで一人の先生が三段階のクラスを一緒に教えるのと同じ立場になるでしょう。その時は幼い人には望みとなり、上の人には望みの中で後輩のためになすべき、にじみ出るようなみ言を語らなければなりません。
指導者に必要な内的復活
現在、私たちの教会を見ると、長成期蘇生級程度の信仰をもっている食口はいるかいないかです。復活の程度から見て、大多数の食口がこの程度にも至らないようです。
礼拝にほとんど出席しないような古い食口は、この程度の復活もできていない人だと言わざるをえません。復活している教会員なら、神の「戒め」があるので礼拝に出ずにはいられません。復活できていない人は、原理の理想を聞いて、うきうきして入ってきたけれども、原理の組織的な面や理論面に感銘を受けただけであって、人格的な面からは何の影響も受けなかった人です。そのような人は、外的にだけ神の主管圏内に来ているのであって、復活しうる主管圏内にいながらも、内的な感銘がなかったために内的、人格的な復活ができないでいるのです。
こういう人は、イスカリオテのユダのような人です。ユダはイエス様に従っていたけれども、内的には何も知りませんでした。イエス様のみ言を慕うより自分の恋人のあとについてきた結果、そうなりました。イエス様に反対すれば婚約状態にあったその女性が自分を捨てるだろうと思い、イエス様を積極的に信じるその女性のあとについてきたのです。外的な思いだけで従ったため、内的に信仰による復活ができずイエス様を売りました。
また、ペテロはイエス様が愛国者としての国を愛するところにだけ感動し、自己中心的に主を判断して、精神的、知的にだけ主に従ったために、イエス様の生前においては、霊的な復活ができませんでした。そして、イエス様が十字架で殺され、復活したのち、四十日間地上におられる時になって、ようやく霊的に復活しただけなのです。
もしその生前に復活していたならイエス様は十字架には行きませんでした。ペテロがイエス様の十字架以前に三〇〇デナリの油を注ぎながら慟哭した女性と共に復活していたなら、イエス様は十字架に絶対つかれなかったと思います。私たちの教会においても復活の原則から見ると、復活した指導者は多くありません。神の主管圏内に来ていながらも、復活した指導者はまれなのです。
復活した自分を見せて相手を復活させる時代
「そのように歩んでいればいつかは、くじける時が来るだろう」と、先生が言われました。私たちがまだ幼いので、み言を語ることができないそうです。幼い子供にそんな話ができますか? しかし先生は、私たちをみな先生の基準に引っ張り上げようと、私たちの身代わりになって先に立ち、私たちを背負って働かれるのです。先生は私たちに“お使い”のような小さな責任分担でもさせて、先生と共にしたという条件により、先生の基準に引き上げようとされるのです。
イエス様が「あそこに行き、ろばを解いて引いてきなさい」と言うと、弟子は「でもお金をやらなければならないでしょう」と言いました。「主が使われると言いなさい」と言うと、その時やっと何も言わずに行きました。
またペテロが「水の上を歩いてみなさい」と言われたとおり水の上を得意になって歩いたように、私たちも「復興会をしよう」と言われるので得意になり歩き回りましたが、私たちの個人を顧みると、先生の影響ゆえに我知らず大きな役事をしただけであって、私の実情はそのままなのです。
内的にはそのままで、外的にだけ復活圏内に来ています。「内なる人」が復活できず、各自が自分の事情圏内でぐるぐる巻きになっているのです。それで私たちの教会の状態を霊通する人に尋ねてみると、食口たちは大部分自分の心配にとらわれていて、その環境から抜け出すことが大変難しいというのです。ですから二世の子供の心霊が生まれつき渇くようになるそうです。それで霊界でとても悲しく思い、途方にくれるというのです。
霊界から火をつけることはできないのです。先生が来られて霊界は動員され地上に訪ねてきたけれど、相対して役事してあげる人がいないというのです。
神を中心とした立場で生活しない人は、放蕩息子の例えにもあるように、親不孝者です。二番目の息子が帰ってきたので子牛をほふって宴会をする時、長男のように「自分の誕生日には山羊一頭もほふってくれなかった」と思うようになれば、「父の立場」で生活しているとはいえません。神の立場にいない子女たちは、互いに不和になり恩恵が去るので神だけが悲しく、寂しくなります。先生も限りなく寂しがられるのです。
説教は、自分の教会員を本性的に復活させるところに目的があります。もちろん説教者自身もみ言の実体になり、見せてあげなければなりません。今まで私たちは神の立場を宣べ伝えてきました。しかし、これからは見せてあげなければならない時代に入ってきたのです。
自分を見せてあげたのちに相手を復活させなさいというのです。自分を見せてあげ相手を復活させる責任は統一教会の牧会者のみならず、祝福家庭、そして全食口にあります。
私たちは結実しなければならない責任があります。今の時代は、結実しなければならない時です。ですから説教は完成した個人を実現するのに助けとなる内容でなければならず、儀式的な礼拝だけでは教会に来たくなる心を誘発することができません。刺激を与えなければなりません。生活で刺激を得るとか、教会で受けた影響が原動力になって信者の生活に適用されるようにしなければなりません。
洗礼ヨハネはメシヤという存在ゆえに恩恵を受けたのであって、自分の実体ゆえに恩恵が満ちあふれていたのではありません。メシヤゆえに神が一時的に洗礼ヨハネをその時代の使命者として使われたのです。ところがメシヤを受け入れることができなかったため、その恩恵が去ったのです。
同様に今日の私たちも、先生の名前でみ言を宣布するので霊的にかなり地上の人々に圧力を加えることができたのです。今まで伝道しながら感じたことですが、霊界の役事がどれほど多かったことでしょうか? 原理講義をする時多くの人がどれほど恩恵を受けましたか? それは先生の名のゆえに、霊界が協助をしてくれたからです。
神の事情を中心とした自立
ところで、第三次七年路程に入ったのちは、先生の名で役事をする時代でなく、「私の名」で役事しなければならない時代に差しかかってきました。例えば、子供は結婚するまでは、親の財産の恩恵内で食べたり、着たり、お金も必要なたびに使うことができました。子供が子供としての役割を果たせないでも、親の主管圏内で、親の名において経済的な恵みを受けて過ごせますが、いったん結婚し、家を建て、所帯を別にもったのちは「これからは、自分の生活は自分でしろ」と独立させます。
それと同じで、今の時代は、私たちが自立しなければならない時代です。私を見て神様が「ああ! この者を協助してあげねばならない」と認めさえすれば役事してくださるため、私の名で役事できる時代です。ですからその地域の人たちはみな霊的に、幻や夢でも教域長の顔を見るようになっています。霊的に先生だけ見るのではありません。このように「実体時代」に入ってきたのです。第三次七年路程がこのような時なので、教域長に会いたくて来る教会にならなければならず、先生の写真を掛けておいて先生だけに会いたくて来る教会になってはいけません。
これからは、先生を私たちだけの生活圏内におられる方と見てはいけません。ちょうど、結婚したあとで「ああ! 私のお父さん、お母さんと一緒にいたい」と言って帰って住むことはできないように、結婚したのちは、夫婦二人が額をくっつけて愛し合いながら父母の立場に上らなければなりません。これと同じように、私たちが先生だけの名で恩恵を受ける時は過ぎ去りました。自分の実力と生活、そして勝利的な実績など、神が私たちを誇らしく思われる時、自分の生活が始まるようになっています。今の時は、そのような時なのです。
成約時代の蘇生期の復活とは、どのような立場でしょうか? 自分が自立しなければならないということです。今私は成約時代の蘇生復活と言ったのですが、それは旧約時代の蘇生復活とも、新約時代の蘇生復活とも内容が全く違います。それは、神の事情を中心として、自立しなければならない蘇生期だというのです。蘇生期は「忠誠の時」です。絶対従順でなければならない時です。私たちがこれをよくわきまえ、正しい方法で歩めば自動的に秩序ある生活になるのです。
蘇生、長成、完成時代にあって、各々蘇生期と言いましたが、それは小学校にも中学校にも大学にも一学年があるのと同じです。
大学を卒業したのち会社に入ると、人々から“ひよこ社員”と呼ばれます。大学生の時は最高学府の「長男」の立場だったのに、会社に行くとひよこ社員というのです。これは私たちの信仰の世界にもよく適用されることです。昌原の企業に工学部を卒業した人が大勢入社して、ひよこ社員がたくさんいるそうです。実技は少し劣っても機械の原理をよく知っているので何年も働いてきた人より、ほんの一年だけで数段上になれると、その将来性を見て採用したのですが、以前から働いている人たちは気分がよくないというのです。
「神の僕」の祈りと「神の実子」の祈りの違い
私たちには、蘇生期から完成期まで復活し成長する責任があります。この責任を果たせずにはこの時代を担う資格がありません。霊通する人たちは最近、「統一教会にも新しい人物が出なければならない」と言います。「古い人物は事情と古い慣習から抜け出せず、習慣的な信仰にとらわれている」というのです。
私たちは、古い習性を脱いでしまわなければなりません。新しい人物が出なければならないという言葉は、新しい人が出なければならないということではなく、「人が革新されなければならない」ということです。その人たちは、啓示を受けたそのまま、新しい人と思っていますが、革新しなければならないこととは知りません。「人を取り替えなければならないのではなく、霊人体が変わらなければならない」のです。復活すれば霊人体が違ってきます。古い習性と自分の事情にとらわれているので、その束縛から脱しなければなりません。
今回人事異動がありましたが、ある人が移動しながら自分の家の心配をしたといいます。その命令を神のものとして栄誉に思うなら、神はどんなに喜ばれるでしょうか?
では私たちをして神はどのように摂理されるのでしょうか。神が私を必要として使おうとされる場に出たなら、「はい」と言えばいいのです。死なんとする者は生きるという信仰をもつ人なら、家があるかないかが問題になりますか?
神の願いが、そして神の事情が本当にそうであるなら自分は何も言うことはありません。そうであってこそ「そうか、やはり私の子供は違うなあ。本当にこの世の僕たちとは違う」と神が感動し、喜ばれ、「やはりお前は私の子供だ」と言われるのではないでしょうか?
人事に際して、自分の家を心配するのは、既成教会の牧師たちが「統一教会に入れば給料はいくらもらえますか?」と言うのと全く同じでしょう。どこが違いますか。私の解釈は間違っていますか? その人としてはそれ以上の信仰がなくてそうなのでしょうが……。
それで神が見る時、「お前はその程度しかできないから、お前の言うことが正しい」と言われるのです。しかし子女はそうすることができません。僕の立場では可能です。しかし僕は父と呼ぶことができません。聖書にも、「御主人様いくら下さいますか」と聞くと、「一日働けば一タラント与えよう」と言いました。しかし、半分も働かない人にも一タラントをあげるのでその僕は、半分働いた人にもあのように一日分をあげるのだから私にはもう少しくれるだろうと思ったのですが、全く同じだけくれるのを見て気分が悪く、「なぜ、そうするのですか?」と質問しました。
僕は質問することができます。子供ならそんな質問はできませんが、僕はやましい思いも抱かずにできます。なぜでしょうか? 自分の事情を中心として主人を見るのであって、主人の事情を中心に考えて生活するのではないからです。ちょうどヤコブが「イスラエル」という祝福を受けたけれど、イエス様の信仰とヤコブの信仰はその質において比較にならないのと同じです。
「私を祝福してくだされば十分の一献金をささげます。神様が本当に私と共にいてくだされば、出かけていって勝利し、帰ってきて石の枕の上に聖殿を建てましょう」というヤコブの祈りは「僕の祈祷」です。僕の祈りであって子女の祈りではありません。イエス様の祈りはどうですか? 「私の思いのままにではなくみこころのままになさってください」というのです。「真の子女の祈祷」とはこのように違います。ヤコブがどんなに素晴らしくても僕です。ヤコブは条件を立てて祈祷したのです。
このように私たちは説教者として、自分自身が成長しつつ、従ってくる群れを従順にさせて生活を改善し、内的な復活をさせてあげることのできる、影響力のある説教をしているのかということを大きく問題視しなければなりません。