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第三節 救いの摂理
80 再創造
人間が堕落したその日から、願わざる苦痛と悲しみの歴史が始まった。それは神様が創造時に計画された本来の世界ではなかった。それゆえに神様は、そのような歴史を清算し、本来の願いである平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すために、堕落したこの世界を収拾してこられた。それが復帰の道であり、救いの摂理である。 (六四年五月三日)
堕落した偽りの父母から生まれた人間は、創造主と内的因縁を結び得る何ものもなくなってしまった。しかし、人間を創造したという因縁と、人間を完成させるという創造の法度があるがゆえに、神様は人間が再び責任を遂行できるように、「復帰摂理」という二次的な路程を立てられたのである。 (七一年三月二十七日)
我々が信じている神様は、歴史的な神様であり、時代的な神様であり、未来的な神様である。それゆえに神様が立てた目標もまた、歴史的な目標であり、時代的な目標であり、未来的な目標である。 (五九年八月九日)
今日、我々の知らない歴史的な心情があり、歴史的な事情があり、歴史的な願いがある。六千年前にもそのような内容があったし、四千年前にもそのような内容があったし、二千年前のイエス様の当時にもそのような内容があった。 (五九年四月十九日)
堕落とは何か。落ちたこと、病気になったことである。しかし、神様は絶対者であるがゆえに、その落ちた人間、病気にかかった人間を救わざるを得ない。回復運動、再創造の役事をせざるを得ない。 (八一年五月十四日)
今日、神様の立場から人間を見るならば、人間を洗いざらいなくしてしまうか、水の中につけて出すしかない。そのままにしておくわけにはいかない。とにかくけりをつけなければならない。しかし、神様は愛の神様であられるがゆえに、ご自身の子女を殺すわけにはいかない。そこで、再創造、手術をしなければならない。神様は外科医の立場にある。 (六四年六月二十日)
神様は歴史路程において、悲しみと呪いと惨めな環境にぶつかりながらも、一日たりとも我々を親不孝と思わず、むしろ我々を救おうと摂理してこられた。我々は、新しい希望の天国を夢見て救いの摂理をしてこられた神様の身になり、神様がなそうとすることを共になしていかなければならない。 (六七年二月十五日)
さかさまになった経路を反対にたどっていくのが蕩減復帰である。よって、さかさまになって生まれた人間は、みな反対に進んでいかなければならない。世の中が願うことと反対の道を行かなければならない。そのように進めば進むほど、堕落世界との関係が絶たれていくのである。 (六八年一月七日)
摂理を進めるにあたって、神様が一人で成すならば問題はなかった。神様は絶対者であるがゆえに、始めたならば成されないことがないからである。 (七二年六月五日)
復帰摂理の歴史において、神様はいまだに神様としての本分を発揮できずにおられる。 (七九年十月二十八日)
被造万物の中で、神様が最も好きなものは何か。人間である。人間が最も好きなのは何か。神様である。したがって、人は神様を尋ねゆく途上にあり、神様は人間を尋ねくる途上にある。 (六二年十二月十五日)
81 縦的摂理
神様の歴史的な願いは、人間がサタン世界と因縁を切って、神様と生命の因縁を結び、堕落以前の本然の位置へと復帰することである。 (七一年一月一目)
神様は、アダムとエバが堕落したとしても、原理原則の基準、約束した基準は無視することができない。彼らを再び探し立てなければならない。サタンを退けながら「この者たちは、本然のアダムとエバの立場に立った勝利的なアダムとエバである、私の愛を受け得る堂々たる息子、娘である」と主張できる基準を立てなければならない。 (八六年三月十五日)
落ちた人間を再び息子の位置へ引き上げることは容易でない。むしろ、再びっくり直すほうが楽である。歴史過程を経て、落ちなかった位置まで収拾していくには、数倍以上の受難の道を余儀なくされる。それにもかかわらず、神様は、今日まで無原理圏内に落ちた人間に橋を架け、引き上げる役事をしてこられたのである。 (七一年三月二十七日)
人間は堕落することによって、無原理圏の世界、原理のない世界、神様が干渉しようとしても干渉できない世界に落ちてしまった。神様が主体となり、動機となっていかなければ、人間自体では神様と関係が結べないという、恨のどん底に落ちてしまった。 (七一年三月二十七日)
人間は堕落することによって、神の子の立場から養子の立場に落ち、僕の立場に落ち、さらには、僕に仕える「僕の僕」の立場に落ちてしまった。神の子が「僕の僕」の立場に転落してしまったのである。神様はそれを復帰せんがために、六千年間の摂理をしてこられたのである。 (六八年十一月二十日)
神様は、堕落した人間を僕の立場から養子の立場、子女の立場、父母の立場にまで押し上げてこられた。それは恨めしい堕落の因縁を切りすてて、神と人と万物が一体の因縁を結び、神の喜びが人の喜びとなり、人の喜びが万物の喜びとなることを、願われたからである。 (六二年一月三日)
神様は全神経を傾け、六千年という遥かな試練を経ながら摂理してこられた。それは直接的な天の家族、食口の因縁、父子の因縁を結ぶためであった。神様は今日もそのために、限りない苦労の峠を越えに越え、全力疾走をしておられる。 (五九年九月二十七日)
神様は息子と娘を探すために、僕の僕の立場から僕の立場、養子の立場、息子の立場を取りながら、今日まで摂理を進めてこられた。牧者のように、個人を集め、家庭を集め、国家を集め、世界を集めながら、自由な天国の環境をつくるために六千年の歴史を綴ってこられた。 (六八年七月七日)
神様が遥かな歳月をかけつつも訪ねてくださったのは、「おまえが私に背いたとしても、私はおまえの父である」という心があったからである。 (六〇年五月二十九日)
神様の愛の摂理は、六千年間号泣してこられた神様が苦痛も涙もすべて忘れ、「ああ、今まで摂理してきたのは、おまえのためであった!」と言えるほどに、天の父を切に求める心を再現させ、良心の根本をよみがえらせることにある。終末において、このような愛の摂理が残っているということを知らなければならない。 (六〇年十一月六日)
神様が摂理をされる最高の目的とは何か。それは「わが真の息子よ、わが真の娘よ!」と呼べる人間を探し出すことである。 (五九年七月二十六日)
82 横的摂理
全世界を一挙に救いたいのが神様の本望である。しかしながら、世界全体が神様のみ旨の前に立てる環境になっていない。そこで、個人・家庭・氏族・民族・国家・世界と、復帰の順序を経ながら、全体的な基準で摂理できるように環境や時代的背景を整えていって、復帰の目的を達成するのである。それが神様の救援復帰摂理である。 (六四年五月三日)
神様は、個人の目的や幸福を達成するために歩んでこられたのではない。全世界の目的を達成するために歩んでこられたのである。それゆえに、神様が個人を求めるのは、その個人を通して家庭を復帰するためであり、その家庭を通して氏族を復帰するためである。そのようにして、民族、国家、世界と次第に範囲を広げていくのである。 (七二年九月二十五日)
神様はいつの時代にも国を中心として摂理を進めてこられた。そのためには、国を動かせる全体的な責任を担える人物が必要であった。 (七二年一月一日)
神様は四千年間、一つの国を中心として準備し、その国の中でも全体的な責任を担える人物、すなわち、個人的な次元でも内的に一つになり、家庭的な次元でも内的に一つになり、氏族、民族、国家的な次元でも内的に一つになった責任者を必要としてこられた。そのような全責任者として送られた方が、まさしくイエス・キリストであった。 (七二年一月一日)
神様の願いは、息子や娘だけを探すことではなく、家庭を探し、国を探し、世界を探すことである。本来、人間が堕落しなければ、「神の家庭」が完成するはずであった。そうなれば、そこには「神の氏族」が形成され、この地は「神の地」となり、人は「神の人」となるはずであった。 (七一年二月十七日)
個人を救ったあとには、その個人を犠牲にしてでも家庭を救いたい神様の願いが残り、家庭を救ったあとには、その家庭を犠牲にしてでも氏族を救いたい神様の願いが残り、氏族を救ったあとには、その氏族を犠牲にしてでも民族を救いたい神様の願いが残り、民族を救ったあとには、その民族を犠牲にしてでも国を救いたい神様の願いが残っている。 (七二年六月五日)
神様は遥かな歴史を通して、人間を幸福の園へと導いてこられた。しかし、いまだにその目的は達成されていない。このような責任を担われた神様は、誰よりも不幸を痛切に感じる方であり、苦痛と悲しみを骨の髄まで感じる方であり、その事情から抜け出せない方である。 (六〇年七月三日)
83 宗教の摂理
神様は、汚れたこの地を回復するために、残った天使を通して、人間と関係を結ぶ救いの摂理を展開してこられた。聖なる神様に背いた人間、万物にも劣る人間、サタンに讒訴されて支配されている人間……、そのような人間を再び主管するために、架け橋を渡して役事してきたのが、旧約、新約の時代を経ながら今日に至った、救いの摂理である。 (五六年十二月十六日)
神様は今まで蘇生・長成・完成の三段階によって摂理を進めてこられた。それは旧約時代における僕の時代であり、新約時代における養子の時代であり、成約時代における真の子女、真の父母の時代である。これが復帰の路程である。 (六五年二月七日)
神様が摂理してこられた歴史時代には、数多くの宗教があった。世界的な代表として、僕の使命を担う宗教、養子の使命を担う宗教、息子の使命を担う宗教があった。 (七二年二月十九日)
救いの摂理には様々な形態がある。地球上には多くの民族がいて、文化や歴史、環境的な背景がみな異なる。それゆえに天は、それぞれに適した内容をもって歴史路程を摂理してこられた。 (六六年十二月十八日)
神様は、天使的な宗教、カイン的な宗教、アベル的な宗教、庶子的な宗教、養子的な宗教、庶母的な宗教、養父母的な宗教、真の母の宗教、真の父の宗教……と、「真の父母」を復帰せんがために、多くの犠牲を払いながら多くの宗教を立てて摂理してこられた。 (九七年三月十日)
イエス様と聖霊は、選民の第二イスラエルに対して、民族的な父母の立場で摂理してこられた。ところが、六千年の復帰摂理を考察してみると、神様は人類に対して、宇宙的な父母の立場で摂理してこられた。 (五九年一月四日)
第一のイスラエル民族が失敗したがゆえに、神様は、第二イスラエルとしてキリスト教を創建して、歴史過程を収拾してこられた。しかし、その第二イスラエルが失敗するなり、神様は第三イスラエルを中心として摂理されるようになった。神様は統一教会にとどまるようになられたのである。 (六九年一月十九日)
神様は本然の個人、「本然の男性」を探しておられる。その本然の男性を通して、「真の父母」を立てようとしておられる。イエス様は、本然の愛を中心とした父母の因縁を結ぶために、「本然の男性」として、新郎新婦を求めてやって来られた。宗教は今まで、そのような枠組みの中で発展してきたのである。 (六九年一月一日)
神様は絶対者なので、ご自身が意図されたみ旨を必ず果たすために、すべてを収拾して、神様の愛を受け得る「本然のアダムとエバ」を再創造しなければならない。そうして、彼らを「真の父母」に立てて、そこに人類を連結し、「真の子女」へと復帰していかなければならない。 (八一年五月十四日)
神様は、六日間にわたって創造なさったすべてを取り戻すために、六千年の歴史を摂理してこられた。今日は、その六千年を中心として、七千年歴史に移行していく時である。キリスト教では「千年王国」と主張しているが、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。「千年王国」とは世界的な復活圏のことである。 (六八年七月十四日)
84 救世主
我々の願いは来るべきメシヤを迎えることであり、神様の六千年の願いは、メシヤをこの地上に送ることである。 (七五年十月十九日)
無形の神様は、実体を持った人間と直接的に関係を結ぶことができない。それゆえ、神様は、堕落によって神様がいるかいないか分からなくなった人間の前に、実体的な代表者を送らなければならない。それがメシヤである。 (六一年二月十二日)
神様の願いは、一人の男性として主人の役割を担うことであり、一人の女性として主人の役割を担うことである。そのためにメシヤ─真の父母を送るのである。 (七三年七月二十三日)
救世主を「僕」や「兄弟」として送るならば、神様は人間を「僕」や「兄弟」としてしか扱えなくなり、人間もまた「僕」や「兄弟」としてしか神様に対せなくなってしまう。では、それ以上の立場とは何か。それは「父」の資格で「子女」を探す立場しかない。救世主は正に「人類の真の父」の因縁をもって来られる。真の子女を探すために来られる。 (六七年十二月三十一日)
救世主は息子や養子や僕、あるいは兄弟や姉妹として来てはならない。人類を堕落させたのが父母(アダムとエバ)であるがゆえに、救い主は再び「父母」として来られて、父母が堕落したことを落城復帰しなければならない。「真の父母」の使命をもって、父母としてこの地の人類を救ってあげなければならない。 (六九年五月四日)
我々が求めるべき「本然の真の父」は、永遠の生命の主人であり、理想の中心であり、幸福の中心である。したがって、心に侵犯してくる悪を断ち切って、心おきなく父を呼び求め、父のみ旨を行えるようになれば、ほかに天国は必要ない。それゆえ堕落人間は、必然的に「本然の真の父」を求めるべき運命の道に置かれている。 (五七年九月十五日)
神様の愛を受けることのできる「真の父母」を待ち望むことが、求道者たちの目的であり、「メシヤ思想」である。神様は、それを達成しなければ「絶対的な神」になれない。それゆえに、どんな困難があっても果たしていかれる。 (九〇年二月四日)
「真の父母」の愛あふれるその胸に埋もれながら、解放と、自由と、復活の日を迎える喜びを味わえない人は、真の救いを受けることができない。ただ単にイエス様を信ずれば天国に行けるわけではない。 (六九年五月四日)
堕落した子孫が願うべきことは、子をたくさん生むことではない。自分に息子や娘があると誇ってはならない。父母や妻子があると誇ってはならない。最も恨み嘆くべきことは、神様が立てようとされた「真の父母」がいないということである。我々はそのことで号泣しなければならない。 (六〇年四月十日)
今や「眠れる人類よ、目覚めよ!」と叫ぶ時が来た。六千年前に失われた「真の父母」がこの地に再来した! 天はその父母を我々の贈り物として贈るために、サタンの鉄条網をくぐり抜け、地獄のどん底を突破し、先頭で血を流してこられた。鞭で打たれ、軽蔑され、限りなく悔しい思いをしながら号泣してこられた。 (六〇年四月十日)
