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全面的進撃を継続しよう
1969年1月1日零時
ソウル協会本部
一九六九年を期して、私達の教会では新しい体制を整え、出発するようになりました。その前までは我々の教会は家庭的でありました。しかし、一九六〇年度を中心として、聖婚式をして家庭を出発し、三年間にわたり一二〇家庭まで祝福しました。そのため我々の教会をみるとき、我々教会自体の他の一般教会と違うところは、家庭というものが結付されているという事実です。このため今までの教会の形態が一九六〇年度を中心として、新しい形態に変わってきた事実を我々はよく知っているのであります。
そして、第一次七年路程まで我々は目標を立ててやって来ました。初年は最高の実績を残す年であり、その次の年は、天の代身者になる年であり、その次の年には見せて誇ることのできる年として、心情的な標準を立てて来ました。その次には七年路程の四年を終えて、勝利的主管者という標語の下に今までやってきました。このようにして、第一次七年路程は完結されました。この期間に天的な、この内的背後で合わせてきたのは、個人的な基準から蕩減基準を立てて民族的蕩減路程の七年間を標準としてきたことです。このようにして、内的な条件を収拾して、天に指向するある標準まで我々が引き上げていかなければならないのです。
こうして、カインとアベルを中心としてみるときに国家と統一教会はそのような関係にあります。全体的な分野がそうではないが、我々統一教団を中心として、天的な観点に立脚したある程度の外的な環境造成の基準まで引き上げることによって、七年路程を終えて、今日この朝、一九六九年を迎えるようになりました。昨年新たなる二次七年路程の出発とともに、我々は天の日を決定したのであります。それ故、今日のこの日は神の日として、我々が記念することができる重要な日なのです。この日はその第一周年になる日です。特に歴史上にない日を決定し、歴史上にない新しい記念日をたてたのです。
一九六八年はどのような年であったかと申しますと、第二次七年路程の出発と同時に全面的な進撃の年であるという標語を立てて、今まで我々は押して来たのであります。この全面的進撃というのは、ある個人を中心として成されるのではなく、全面的内容において、全面的な進撃を中心として世界を動かしてくるというのです。我々の教会がそうであるように、我々の韓国がそのような時があったということです。韓国がそうであるように、アジアもそのような立場に立っていかなければならないし、世界もそのような立場でいかなければならないのであります。しかし世界やアジアや我が国が目的がなかったのであります。目的がないけれど、その時代に流れていく思潮にしたがって、そのような苦しみを経なければ、新しい問題を中心として個人的な面を全体的な動向に合わすことができない立場におかれることになるが、今日我々統一教会は天的な目的を中心として、全面的進撃という標語の下に歩んで来ました。
それでは、全面的進撃という標語を中心としてみるとき、この全面的な勝利を成就できない限り、「全面的進撃」という標語は残ることになるのであります。その為に、我々がこの全面的進撃の標語を中心として出発したが、その目的達成までには、まだ多くの過程が残っていることを知るのであります。これは、最小限度大韓民国であれば、大韓民国を中心として国家的に我々統一教会を全面的に是認することのできる基準までいかなければならないということです。その時までは我々が、このような作戦体制を続けなければならないという事実を知っているがため今年も又「全面的進撃」で第二次年度の標語にするものであります。そして、一九七〇年度までは、全面的な進撃という標語を中心として体制を強化し、活動を強化しながら、動くことをこの時間皆様の前に通告します。
全面的進撃しなければならない分野をおいて、我々教会の構成要素を一つ一つ分析してみるとき、第一に我々教会があるのであり、第二に家庭があるのであります。その次に我々教会を中心として、外的な活動体制を整えたのが何であるかといえば、勝共連合であり、原理研究会であります。そして事業分野があります。全部五つの分野です。このような体制を中心として我々教会の動きが構成されています。それでは、この全面的進撃という問題を中心としてみるとき、これらを総進軍させなければならないことは言うまでもありません。
現在我々の実情としては、これを立体的な面において全面的に進撃させなければならないことが、天の緊迫した要求であるが、現実的平面的にみるときは、まだ平面的な基準も完全に整えられていない、非正常的な環境におかれているのを知るようになります。いいかえれば、欠如した要件が介在しているのであります。
第一には何であるかというと、人的資源が不足していることです。
第二には、これを支える、経済的な後ろ盾が不足していることです。この不足した二つの要件が、この全体の活動に、これまで莫大な損害と莫大な支障をもたらしてきたことを、ここで考えざるを得ないのであります。そのために今年は我々が何をすべきかという問題を考えてみるとき教会内において、数的な問題を考えざるをえないのであります。統一教会なら統一教会を中心とし、どのぐらいの数が必要であるかというのです。外部から見る統一教会と、事実上の統一教会とはあまりにも差異があるということなのです。それでは今年中に、これをどのように■■■に内的な基盤を強化して、対外的な認識基準に平衡をなして、もっと進んでは主体的な権限をもって表われるかということが何よりも重要な問題であります。これをこのような決定的な基準にまで引き上げるためには結局、信仰基準が問題となります。
ここに第一としての問題になるのは、信仰基準を中心としてみるときも、この信仰の道は一般既成教会の教人達が信じていく教人達の信仰の道とは違うということであります。我々統一教会が原理に立脚して蕩減復帰の路程を歩んで行くこの道は、公式路程のようになっているので、信仰的なこの道においてどのような団体よりも、どのような宗教団体よりも■■■な基準をととのえると同時に■■■な思想の基準を中心とした基盤の上で数を確保しなければならないということです。しかし、ここにおいて何よりも先行されなければならないことは、信仰的な伝統、即ち、教会を中心とした伝統が問題になるのであります。この伝統を中心として、数を確保するのであって、伝統を無くして、数を確保したところで、これは烏合の勢にしかならないのです。それ故に、伝統に立脚した数の確保はいかにするかという問題が残ることになります。それがために、第一として教会を中心として伝統を整備しなければならないのであります。
第一次七年路程において、先生が強調したことは何であるかというと、伝統を立てることです。伝統を立てるにはどの面において伝統をたてるか、み言に対する伝統を立てなければならないのです。
統一教会のみ言はこうであります。このみ言は韓国において、韓国の統一教人や、あるいは日本の統一教人や米国の統一教人は、み言を中心として、み言を体得することにおいての統一した伝統をもたなければなりません。原理なら原理を中心として、その原理に立脚したそのすべての思考方式、その全ての基準、その全ての生活的な態度、これらが全部み言を中心として、一体化された伝統を立てなければならないのです。これが今まではよくできていなかったのです。それぞれ自分なりの伝統を立ててきましたが、これからは、韓国から日本を経て全世界にわたり統一された伝統を立てなければならないことが残されているのであります。
先生が外国を巡回するとき、このような点を一番重点的に強調するのであります。み言に対する世界的な伝統を立てなければならないというのです。その次には、今日、み言はみ言で、我々は我々で互いに決裂してはならないのです。み言と共に一体化することのできる人格を構成しなければなりません。いいかえれば、我々の審判には三大審判があり、第一は、み言審判、第二は、人格審判、第三は、心情審判があります。これが絶対的な基準となっています。
堕落とはなにか。み言が天との一致された立場に人を立てるのができなかったことが、堕落であります。取って食べてはいけないというそのみ言を絶対視して、それが伝統として立てられねばならなかったのでありますが、そうなれなかったので、今日復帰の運命を歩む人間においては、最後に現われる一つの真理のみ言を中心として、一体化されることのできる伝統を立てねばなりません。
天はそうであるが、今日、地上に住んでいる人はそうではありません。これが伝統になっておりません。若し、これが立たなければ、統一教会というものは、これまでの既成教会と同じく、数多い宗派として分裂される可能性があるというのです。いかに伝統化させるかというのが絶対的な問題として展開されるのであります。
その次には、このみ言は、み言のまま独立しているものではなく、そのみ言を中心として育てることのできる私の者になやなければなりません。この言葉が何の意味であるかというと、神と一つにならなければならぬということなのです。それでは、今日皆さんが知っている言葉は何でありましょうか。皆さんの言葉はサタンと関係のある言葉です。今日我々が使って、我々が今追求し、考え、我々がもっている体系というのは、サタンと関係のある世界を抜けられない立場であります。どんなものであろうとも、今日の全ての構成要素は、人間を主とした、即ち、堕落圏内を抜けられないものなのです。従って、このみ言でもってそれらの全てのものを革新させねばなりません。
それでは、その在来の言葉にそのまま同化して、共に歩むことができるかといえば、絶対にそうすることはできません。これは完全に決裂されなければなりません。完全に清算されなければなりません。今まで、サタン世界でもっていたサタン的な観念、サタン世界において信じていた全ての習慣までも、全部一掃されねばなりません。いいかえれば、絶対的な基準に該当することのできるみ言を中心として、伝統を立てねばならないということです。そして、先生がこのみ言を立てるとき信じたその心、その基準でもって、皆さんと接しなければなりません。皆さんがみ言を習うとしても、み言を習うその基準で信じるため、完全なものではありません。そのみ言の背後に伝統的な基準はかくれているのであります。そのような基準までも体得していかねばならないのです。それ故に、み言に対する伝統を立てていかねばならないのであります。
その次には人格を必要とするのです。人格は何であるか。その人格というのはサタンを屈服させることのできる人格でなければなりません。それでは、統一教会の教人達がいう個性完成の基準はどのような基準ですか。自分が統一教会の教人としてどの位になったといっても、それが統一教会でいう個性完成ではありません。その人格基準は、天が六千年間サタンによって苦しみを受け、サタンが天に苦痛を与えたこの億千万代にわたって許すことのできない、そのサタンを屈服させることのできるそのような人が、本来創造されて、堕落してはならない本然の人格基準であります。
それではサタンは何でありましょうか。天使長であります。神の前においての僕でありました。僕であると同時に天の息子と娘であるアダムとエバをまどわしたへびであります。神の僕は、息子の僕でもあります。しかし、そのような僕が今日、怨讐となって天の前に讒訴する条件をもってくる怪物になってしまったので、これを人格を中心として屈服させねばなりません。しかし、屈服は力だけでなるのではないのです。み言でもって屈服させねばなりません。そうであるので、イエスに対する試験もみ言でもってしました。み言を中心としてサタンと対決してゆく、サタンがサタンとなった動機から、そして歴史的な犯罪の事実も全部公的な立場で天の前に提示して、我々が検事の立場に立ち、サタンを批判屈服させる人間であってこそ、真にサタンを屈服させる人であります。サタンが今まで堕落した人間をひっぱって、天の前に、公判場に立たせ、全部地獄につれていきました。このようなサタンを屈服させる立場におかれている事実を知らねばなりません。勿論、人間には罪がありますがその動機からよく知っているサタンは、人間を天から隔離させるのに主導的役割をして来ました。
今日、人間達が本来は天の権限を中心とした息子、娘の権利を、このようなサタンも支配することができるようになったのが堕落であるので、堕落した基準を越えるためには、必ず本然のその権利を回復しなければならないので、その本然の権利を回復するためには天は大主宰であり、天地の公法を中心として天地の不義を判断しなければならない。そのようなお方であるため天を裁判長として立て、その前でサタンの全ての罪悪を暴露して、サタンをひっぱってきて、告訴できる検事の資格をそなえ持つことのできるそのような人間になって初めて天の前に立つことのできる人格を持つようになるのである。
宗教が追求するものは天のみ旨の前に一致しなければならない、結局は天のみ旨の世界に入らなければならない。即ち神の直接主管圏内に入らなければならない。従って、直接主管圏内に入るためにはサタンと完全に隔離されて、サタンと永遠に離別できる位置をもつことによって、天の直接的な主管を受けるようになり、そうすることによって我々の人格基準は、サタンを屈服させることができるのであります。そのために今日ここにきた統一教人達は、このような伝統を立てる為にサタンを屈服させ、サタンを主管することができる、このような伝統を立てなければなりません。そうするには歴史的なサタンをよく知らなければなりません。六千年歴史以来、歴史の背後において天の前に数多いどのような罪悪を犯したのか?とそのような事実を持ち出してでる時は、それ自体に頭を下げ、それを公認してそのみ言の前に屈服させることができる立場に立たなければならないのであります。皆さん世の中ではこのように殺人、強盗がいても、それがその環境、その世界である程度は隠れて住むことができます。良心上では若干悪いと思ったとしても、生活は依然としてなすことができます。しかしながら、三尺童子(幼い、無知な者の例え)でさえもその犯罪の真相を直接見て摘発して、いつ、どのような時、どこであなたがどのような犯罪したのを見たと、直告できる時は、その前に頭を下げるのと同じように、今日サタンがサタンとなった動機とすべての真相を我々がひとつひとつ知って、これを讒訴することのできる、すなわち、天の前に、これを告発できるような権限をもって現われる時、初めてサタンは屈服するのであります。
それではサタンを屈服させることのできる資格はどのような資格か? 天を中心としてアダムとエバが天使長と共に堕落したその立場まで我々人間達は越えなければなりません。アダムとエバも堕落する前には堕落というのを知りませんでした。それでは、その立場まで進んでいっては何を成さなければならないか、天を迎えなければなりません。これが第一としてやらなければならないことです。天を迎え、受け入れるためには、この世のすべての因縁を断ち切らなければなりません。断ち切るのは何で切るか。愛の問題でもって切らなければならない。そして又、社会的なすべての要件を否定しなければならない。完全に否定しなければならない。宗教は、否定から系統道が開かれるのであります。すなわち正道は、否定から始まるのです。偉大なる宗教であればあるほど、ある部分だけを否定するのではなく全歴史と現実を否定するのであります。キリスト教はイエス以前、旧約までも否定してきました。その為に、殉教の血を流しながら闘いながらも、今迄歴史過程において発展してきたのであります。それはなぜそうならねばならないか。人格基準が天の愛としては絶対的であり、天を中心とし、天を迎え、み言を、再びなさなければならないからである。
とにかく、天のみ言と共に一体になることを願っていらっしゃるのです。それでは、今日統一教会が歩まなければならない道はどんな道であるか。みなさんが、歩まなければならない道は可哀相な道です。その為に、天が立証することのできるみ言を完全に私のみ言として整えなければなりません。そのすべてのみ言の実況を私のものとして体得しなければなりません。み言と、一致された人格はどのようになりますか。天の息子であり、娘であるということなのです。天の息子と娘にならなければ僕に対して命令することができません。僕はサタンです。僕は天使長です。天使長は堕落によってサタンとなりましたが、天理の原則は自分がおかれている位置の基準を否定しては絶対にいけないのであります。そのために、天の息子と娘として、立つことができる位置はアダムとエバが堕落したその位置より高い位置です。言いかえれば、堕落する前のアダムとエバよりも高い位置なのです。天使長にも命令をすると、ハイと順応することのできる位置、天と随時子女の因縁をもってその栄光をたたえることのできる位置、そのかくれた愛を受けることのできる位置、そのような位置です。その故に、統一教会が挑戦する位置はどのような位置であるか! なにか信じて天国へ行こうというのではありません。天国に行く前に何をしなければならないか、このような問題を解決しなければ天国に行けないのであります。人格はどのような人格であるかと言えば、サタンを屈服させることのできる人格でなければなりません。それがある制圧された環境内ではなく天と地、霊界と肉界、いつどこででもサタンを屈服させることができなければなりません。皆さん自身にそのような信念がなければなりません。ところが問題は何であるかといえば、天を中心として天の側に立って、天の権威をひきついで、それでもって進まなければならないのです。そのようにして、今日、歴史発展は何を求めて行くのかといえば文化史を通じて発展して行くのです。文化世界を形成する背後の目的は、どこにあるか? 一つの人格を中心とした真理体! 真理を中心とした人格体であります。今迄歴史は真理を探し求めてきたのです。真のみ言、真の道理を探し求めてきたのです。主義とか思想は何でしょうか? 始めからある主義や思想はあってはならなかったのです。強いてその主義や思想に名前を付けるとすれば、それはアダム主義であり、アダムの思想であります。ではそのアダム主義はどんな主義でありますか。父母主義であります。共産主義や民主主義ではありません。本来、堕落しないで天を中心として出発したならば、天を父として生まれたその息子、娘として生まれたアダムとエバを中心とした主義は天の主義であります。そのようにして、そこから天を中心として生活するその主義は万民の良心が主体と和動することができ、全体を肯定することができ、全体を吸収することができ、自身を吸収することができるそのような主義として、そこには、派というものがあるはずがないのです。ところが、堕落したのでこれを再び探求して行く復帰の主義を何の主義かというと、それが即ち、復帰された天の主義です。それは又、天を中心とした息子と娘の主義です。統一教会は何を言っているかといえば天宙主義をいうのです。息子と娘を中心として、これが夫婦になり家庭になるのです。何故、天宙主義の宙という字を主という字で使わないかということを今まで一度もこれを問題にする人はなかったですね。それはなぜかというと宙は「家」という意味を含み、家というのは何をいうかといえば夫婦をいうのであります。その為に息子だけがきてはならないのです。すなわち、この地上にイエス一人だけこられてはいけないのです。なぜかといえば堕落は夫婦でしたからです。したがって今日復帰路程においては必ず夫婦が現われなければなりません。ちょうどアダムとエバがきたのと同じようにです。
ところがそのアダムとエバが堕落した為に完成したアダムとエバ、即ち善なる父母、完成した父母が現われなければならないのです。これがキリスト教でいう羊の宴で再臨主と彼を迎える新婦が会う席であります。その為にその人格は男子、女子合わせて男子も人格が構成されねばならないし女子も人格が構成されねばなりません。その構成される個性完成の基準はみ言でなければなりません。完成するにおいては、天の法度を離れてはなすことができません。人格に依り、サタンをいくら主管するとしても主管するのだけではなりません。主管するのにも天の息子、娘として主管を受けて、主管するときにはじめて永遠に主管することができるのです。何故かというとサタンも天の愛を受けたからです。サタンは人間が堕落することによって愛を独占しました。人間を創る時、愛の減少感を感じたのが堕落の動機になりましたが、アダムとエバが愛を受けるよりも長い期間を通じて愛を受けました。それが為にアダムとエバとの間は、愛そうとすれば或時間取って食べてはならぬという条件を守ることにより蕩減をすることができました。イエスも地上においてサタンを完全に屈服させることができませんでした。部分的には勝利してきたが世界的、全体的な面においては完全に屈服させることはできませんでした。なぜならば、人間が生まれてくる時、夫妻共々生まれて来たので夫妻の門を通過しなければならない為であります。その為にイエスは聖霊と共に天の愛を中心として三位神になって実体的にサタンを屈服させねばならないというのが天理の原則であります。ですから人格がいくら備えられても、心情、即ち天の愛を受けなければならないのであります。
人間は何であるかといえば、天がみ言で創られた体に天のみ言を入れることのできる実体であります。ところが堕落によって、天のみ言を受け入れられる実体になれなかったのです。これを復帰せんが為、キリスト教では新郎と新婦という言葉を中心として逆にもっていって合わせようとするのであります。これは絶対的であります。その為に皆さんも知っているように神の人格を構成することのできるみ言、天の心情を所有することのできる人格者これが信仰者の最後の願いです。その為にキリスト教は人間が歩む道の前に必ず真理の審判があります。個人が真理に符合しなければ、個人的に審判を受けることでしょう。家庭が真理に符合しないと家庭が審判されることでありましょうし、民族、国家、世界がこの真理の前に符合しないとそれらが審判されるのであります。その為にこのような審判からまぬがれる為に今日の歴史は何を探し求めてきたかといえば主義とか思想を持ち出してきたのです。
しかし、そのような主義や思想だけでは駄目なのです。カイン、アベルの主義から共産と民主が分かれた為に夫婦の主義が出なければならないのです。その夫婦の主義が何であるかというと家庭の因縁を中心とした父と母の主義であります。これが天宙主義であります。天宙主義を中心として伝統を残すことができるのは何かといいますと、み言と一体となることができる伝統をもってみ言と共に一体になることができる人格を中心として天が永遠に、宇宙の全部を相続することができる能動性ある主体性をととのえなければなりません。このような伝統を持たねばなりません。天宙主義の因縁を相続することのできる夫婦、これを中心としてみるとき統一教会が行く道はこのような要件を中心として伝統を立てねばならないのであります。そうする為にサタンを屈服させねばなりません。サタンを屈服させる為にはどのようにするか、あるいはどこで屈服させるかといえば世の中を全部蹴飛ばして行って勝利するところです。それではサタンとどのように出会うかといえば皆さんが生きている垣の中ではサタンに負けます。ここからとび出て行き、これを全部公認された一番頂上で出会うのです。これがちょうどサタンの一線であり、天の一線であり、又サタンの後方であり、天の後方であります。サタンの後方が何であるかといえば、皆さんが住んでいる家庭であります。サタンの一番前方がどこであるかといえば戦うところです。天と戦うところです。私はその全てを全部うち切り、三八度線を越えてゆくというその瞬間かが問題であります。その時点ではじめて決闘がおきるのであります。
その為に、サタンを屈服させることのできる勝利の決定をどこから探すかとすれば皆さんの(居間)で探すのではなく熾烈な闘争が起きている交叉点なのであります。それ故にイエスはこのようなところを探されて出られたのです。すなわち、ゲッセマネ園がまさにそこであり、十字架上で綱を受けながら死と交叉する瞬間、死か生かというその瞬間、今一九六八年と一九六九年が交叉する瞬間、その瞬間を皆さんは感じてみましたか? 或いは見ましたか? すでに越えたことは越えたが感じてません。これがはじめの瞬間です。皆さんの一生を見てみると、個人にもそのような時間があり、家庭、教会、国家、世界にもみんなそのような瞬間があるが、皆さんは知らないで越えてゆくということです。知らなくてはならないのです。そして、我々統一教会はこのサタンを屈服することのできる権限を持つことができる人間をつくるためにどこに行かせるかといえば、一線に行かせるのであります。国家が反対し世界が反対し、誰一人も味方しないむつかしい所に行かせるのであります。
ちょうどイエスが「オオー、私だけが残りました」と感じたそのような立場に! その為に皆さんはこのような立場まで復帰する為には一線に行かなければなりません。少なくても三道(注‥道は日本の県にあたる)を越えて行かなければならないのであり、三郡を越え、三邑を越え、三部落を訪ねてゆかなければならないのです。そして又、三国家以上を越えてゆかなければならないのです。ですから統一教会は三大国家の試練を通って行かねばならないのであります。そして、日帝時代から、共産党から、民主世界から全部迫害を受けながら越えてきたのであります。皆さん達も個人個人がこのような伝統を立てて行かなければなりません。
それはそうとして、み言を宣布しようとすれば、身代わりになる人が必要であります。み言と共に死と戦うことのできる人が必要であります。生命をかけて、み旨に従おうと誓う人、その誓いは、サタンと勝負を決断するその瞬間にしなければならないのです。その前には誓ってはなりません。
その誓う立場を経て、自己の人格を天の身代に立てて天の心情を中心としてかたきを撃たねばなりません。天の心情世界においてのかたきを知って、これを屈服させる時、そしてみ言の仇であり、人格の仇であるサタンを一線で屈服させる権利をもって現われる時にはじめて審判を越えるようになります。これが今日統一教会の原理が教えている伝統であります。
この観点からみるとき、これまで七年路程が過ぎて、二次七年路程へと越え、行っているのに、私なんか、例外であるから、その伝統とは何のかかわりも無しに行くことができるのではないかという人もいるかも知れませんが、そういうわけにはいかないのであります。
それでは先生自体をみると、このみ言をたてる為にどのような道を歩んで来たか、霊界なら霊界のすべての戦いを中心としてサタンと決闘してきたのであります。肉界なら肉界のすべての迫害と前後左右から追われる立場で決闘してきたのであります。最高の一線です。個人的にそうであったし種族、民族、国家的にそうでありました。
このような立場で、伝統をたててならしてきたという事実を皆さんは知らねばなりません。だから皆さんはみ言を中心として一体化された伝統、心情を中心として一体化された中心の基準に立脚したかという問題をおいてみるとき、そうなるために天の代身者として天の心情をもって僕の体として人類を愛することのできるそのような心情を代身し、父母の心情をもたねばなりません。皆さん自体においてサタンと対決して〈はい、そうです〉という〈サイン〉をもらわなければなりません。サタンから、あなたは勝利したという領収書をもらわなければなりません。
このようにあまりにも大きな課題が残されているにもかかわらず、それが私に何のかかわりがあるか、私の先生にのみかかわりがあるといっているが、とんでもない話です。先生は国家的であり、世界的であり、天宙的な問題の範囲をもっているが、皆さんは一段階おくれた段階で責任をもたねばなりません。
このような観点から見るとき、皆さんがこのみ旨を知った立場に立って真なる意味で統一教会が成立されているか、それが一線おいて個人的に勝利されなければならないし、家庭的に勝利されなければならないし、種族的に勝利されなければなりません。少なくとも皆さんは種族的に勝利しなければなりません。である為に祝福された家庭は種族的なメシヤの使命を全うするのが二次七年路程である為、この二次七年路程において、伝統を立てなければならない使命が残されているのです。家庭の立場と種族、教会全体の伝統を立てることのできるここを中心として生き、ここを中心として死に、ここを中心として戦わなければなりません。即ち、勝敗の条件などが、ここを中心としてできるのであります。全面的で進撃もここを中心とするのであります。このようにチェンジしなければなりません。皆さんは、そのような立場に立って、この伝統を確立しなければなりません。
それでは今年に入って全面的な進撃が、それこそ第二次段階に入らなければならないが、この第二次段階が問題なのであります。第二次七年路程において必ず伝統を立てねばなりません。
第一次七年路程のはじめの標語が「生涯最高の実績を残す年になるようにしよう」というのであります。
それでは人間において、生涯最高の実績というのは何でありましょうか。それは個性復帰完成をしなさいという話です。即ち、個人的に天地の前においてサタンを屈服させて自身が解放されるのです。決してお金が多いといってその国の一部になるのが問題ではなく、権勢をもってその国の主権を掌握するのが問題ではないのであり、それらは全て流れていってしまうのであります。自己の生涯の目的とは関係がないのです。一時的生活と生活の目的にはなるかも知れませんが、生涯の目的とは何ら関係がないのです。
第一に生涯の目的が何であるかとすれば、天を中心として個性完成して、み言の一体化、人格一体化、心情一体化された、天の愛を受けることができる天の息子と娘になることです。それでは、その息子と娘になってからは何をするかといいますと天の代身者になることです。そうなるには男子一人だけでは駄目です。イエス様が一人でこの地上にいらして、天の代わりの立場に立ちましたが、新婦がいなかったのです。一人では絶対に駄目なのです。私の個体を中心としてみても、心と体が一つにならなければならないように、相対基準が造成されなければならないのです。そして男子、女子個体を見ても、完全に天の代身者となる為には堕落線を越えねばなりません。堕落を二人で即ち、夫婦がしたので、絶対に一人では越えることができないのです。これを経なければ天の代身者になることができないのです。
その次には何であるかといえば、みせて、誇ることのできる者になりなさいといいました。これはどういうことかといえば、四位基台をいうのであります。天の代身者として使命を果たして、その結果として現われた四位基台をいうのです。このように全部が家庭をさしていうのであります。娑婆に出ていって団体を構成して、その団体が国家に貢献するそれではなく家庭をさしていうのです。そうすることのみが、天の前にて四位基台を復帰することができるのです。四位基台を復帰して天と天上世界にも、そして万物世界の前にもみせることのできる、そのような立場に立ってこそはじめて主人になるのです。これが病気になってしまったので、この四位基台を復帰するまでは、その基盤からの勝利的主管者とならねばなりません。四方を主管できる人間、このような人間が勝利的主管者となるのです。
それでは、第二次七年路程において皆さん達が全面的進撃はやるけれども、皆さん個人においては何をしなければならないかといいますと、個性完成です。個性完成をするのにはみ言が必要です。人格が必要です。心情が必要です。これでなければ全てが水泡に帰してしまうのであります。たとえ全面的進撃という標語を整えて、我々自体が進み出るとしても、これ全部がほらで終わってはならないのです。個性完成をした天の息子、娘として全面的な進撃をしなければなりません。全面的な進撃の為には、平和の福祉の園を作らなければなりません。平和の福祉園を建設する為には、自己の幸福の基盤を男子と女子の相対を中心として、天の祝福の家庭を成すことをいうのであります。全面的進撃の目的は何であるか? 家庭でならば家庭、その家庭を中心として、天が喜ぶことのできる平和と安息の基盤をそなえることです。第一次七年路程は先生を中心としてなすということです。一九六〇年度を中心として、七年路程をそのような観念を抱いて、そのような過程を経てきたのであります。
内的な基準を伴うためには、そのようなものを逆にするのです。外的な基準において、祝福の基準をたてたならば、内的に備えを全部していくのです。その為に、三年路程において四位基台を完成して越えなければなりません。それは先生を中心として成されたのであります。このような問題を中心としてそのような標語が生じたのです。そしてその家庭を中心として民族的相続権を求めて行かなければなりません。アベルがカインに殺されたその基準をふみこえて国家的に反対をされても彼らにかえって歓迎されることのできるそのような基準までにあがらねばなりません。従って原理の勉強はどうしてもせざるをえないのであります。私が皆さんに原理の勉強をしなさいという要求なしに自動的にやっていかねばなりません。
それ故、今日統一教会の理念を中心として、天宙主義の思想を整えて行く道は絶対的であります。これを皆様達が知らねばなりません。これが、我々教会において一番重要な問題なので、これを再び整備しなければならない時がきたのです。
これから数を拡大させ、将来において強固な基盤を確立する為には基盤的な伝統、伝統的な基盤、その基盤の上にたたねばなりません。それではその基盤が何であるかというと、これはみ言を中心として、人格と心情を中心として天と一体化し、これから中心存在と一体化し家庭とその全てが、天が認めることのできるその基盤の上で、伝統的実体として立つことができるかどうかが問題であります。み言の伝統、人格の伝統、心情の伝統、これは皆さんが実体をもった立場で、先生を代表してくれればいいのです。
このみ言を中心としてサタンと決闘し、勝利した基盤を整える為さまざまな苦役と、さまざまな苦難を克服しながら戦って勝利の標本をかたく打ちこみました。天と先生自身のみが知る心情の基盤を備えておきました。歴史以来どのような聖人、どのような哲人もなすことのできない実績と心情の基盤をきずいておいたのです。その為に統一教会はその教会自体が恐ろしいのではないのです。問題にされざるを得ないその内容が恐ろしいというのです。本当に問題視されざるをえません。その為、皆さんは自分がその立場に立って中心が指示する言葉を中心として、絶対的に従順でなければいけないのです。先生もやはり、天を中心として命令の前には絶対的であります。ここには、加減が絶対にないのです。ここには自己の事情とか願いとか心とか心情を超越して深刻に対さなければなりません。適当に自分なりに自己の責任だけをするかしないか、そういうふうにしてできると思いますか、絶対にできません。できるものだったらすでに六千年前に全てできていましたよ。このような問題を中心として徹底した伝統基盤をきずかねばなりません。従って、これを実現させるには何よりも家庭の責任が大きいのです。それにもかかわらず、家庭が力を失っています。祝福を安ものだと思って居るのです。
天を中心としてみると六千年間苦しみながら待ってきたのであります。それにもかかわらず、そのような家庭であるにもかかわらず事実を忘却しているのです。先生を中心としてみると四〇生涯それを探し求めてきたのです。さまざまな犠牲と歴史の全てを捨ててまでも、その土台をきずいてきたのであります。一国の君主であろうと民であろうと「サイン」するのは同じでありますが、その内容においては、天地の差異があるというのです。このように祝福というのも外的にみるとただ祈祷をしてあげて……何でもないようにみえますが、その内容と価値をみると皆さん、家庭達は覚醒しなければなりません。
イエスが来られる前までは、アベルが血を流しこの怨讐、悪党達を屈服させるための天の願いが其の日をたてて願いを成就する為に数多い民族的な路程を経て、祭物という条件を立てて成そうとしたのが、水泡に帰してしまったのです。億千万代に悔恨の根を植えつけてしまいました。これを一六〇〇年をおいて回復しようとアダムからノアまで来ましたが回復することができず、アブラハムを経てモーゼを経、イエスに至るまで四千年間、アダム家庭において、アベルを中心として探し求めてきた一人の男性の所望の基準が四千年間延長されてイエスが世界的に訪ねてきたにも拘らずイエスまでも晴らすことができませんでした。男性が解けなかったため、女性は勿論、言うまでもなかったのです。それ故にいっそう女子達が祝福を受けて責任を果たさねばなりません。そのように、男性一人探し求める為、四千年を「主よ、新郎である主よ、早くおいで下さい!」といったのですが、イエスがいらっしてみ旨を成さずしてなくなられた事によって、その後二千年間、これまで数多い基督教人達が行世をするようになったのです。死の道に当面しながら血をはきながらも、主よ来たれと叫びました。一人の女子が失策した恨み深き歴史の曲折(理由)を知るならば、今日女子達は、責任がより大きく悔い改めなければなりません。一人の男性が勝利する前にはいくら祈祷して苦労をしてもなすことができないのであります。
このような、曲折(理由)の歴史路程を経て六千年の終末時代において初めて統一教会というこの看板の下で、歴史にない新しいことが起こったのです。だから、私が知っている統一教会は、世界全部を呉れてもとり返すことができないのです。家庭の伝統を立てねばなりません。一人の男性が現われる為には六千年間数多い男性が血を流して来、数多い国がむちうたれてきました。そこから六千年の悔いの坂を越えようとしてふらふらしながら、自己も知らない涙とともに堪えきって来た群れを通じて、天が今まで男子として、立つことのできる道を開拓してきたのす。そのような解放の恩恵や特権、そのような解放の目的時代の座に無条件にもっていったのが、男子を祝福の席に立たせたのです。女子は価値がありません。
この家庭をもち出してくると、ここには天地の運勢もついていって離れることのできない因縁をもたねばなりません。天も、億千万代に長々と大事に大事にまもってきた先祖として、これを根の中の根、種の中の種であるとして貴い立場に立たせたいのが家庭であります。いいかえればエデンの園でアダムとエバが二人で堕落した人類の悪い父母の起源を越えて、今日我々は反対にたどっていって善なる父母の基準を決定し善なる世界、善なる祖先の権利をもって現われた、特権的な恩師をもって表われた夫婦なのです。その夫婦の喜びは天と地の喜びといえる、そのような家庭にならねばなりません。
今日、統一教会は先生を中心として数多い霊通人達に会いました。そのように数多い霊通人達が、何故先生は証されるかということを、気にかけていますが、事実を知ってしまえばそうせざるをえないのです。ただ、道は一つしかないのであります。皆さん達は、知ることのできないほどの大きな問題がかくれています。
この道、ただ一つのため、先生は五〇生涯を捧げてきました。今日から五〇という看板がつきました。お父様の前に祈祷で悔恨の多い四〇の坂が早く近づくことを願ってきたのでありましたが、今五〇の坂を迎えて六〇まで一〇年期間にどのようになるのか、家庭なら家庭としての伝統を立てて使命を果たさねばなりません。家庭があるのは天のみ旨の為にあるのですし、み旨がなければ家庭は破滅するのです。それ故に、家庭を主として自分勝手に生きようとする人は亡びます。いくらあがいても、もがいても亡びます。我々統一教会自体が発展するその基準に従っていくしか道理がありません。これから天が天を中心として発展するその基準を絶対についていくことができないのであります。その家庭の発展、その家庭の恩恵のために、存在する天では絶対にありません。家庭が統一教会の恵沢を受けるのであり、決して統一教会が家庭の恵沢を受けはしません。それは何の話かというと、先生自身も家庭を立てて、恵沢を受けようとは絶対に思っていないということです。男子は右の足で、女子は左の足です。決して相衝があってはなりません。私が家庭について話すのは、家庭は尊いもの、もっとも聖なる至聖所と同じであります。それ故に家庭は恐ろしいのです。この家庭がまちがえれば将来、息子、娘を完全に亡ぼしてしまうのであります。男子また女子、どちらかが立派であれば、足りない分野を助けていけば良いのですが、両方まちがえば完全にだめになってしまうのです。
天の実りの種が春の園にまかれる時、まかれたその種が完全な種として育てば完全な結実をもたらすが、この種が不振な時には、その種さえまでも結実がないのです。家庭はアダム家庭においてアベルを立てて家庭を探そうとし、ノア家庭においてもアブラハム家庭においても皆同じでありました。それ故に、本当は祝福された家庭は楽しく暮らすよりは、悔い改めねばなりません。先生も、愛する妻子をすてて苦労をさせました。通りすぎる乞食(こじき)さえも無視するような苦労をさせながら、築いてきた土台であります。これは民族と国家が責任を果たせなかったためです。自分がいくら賤しい所にいるとしても、行動だけは天の家庭として責任を果たさねばなりません。丁度、嫁にいくと男子の家庭に従って、その家の伝統と法度を守らねば追放されるのと同じです。
しかし、皆さんの家庭達の中に天の家庭として体面と威信と天の伝統と法度を守って責任を果たしている家庭が何家庭ありますか。公的な家庭はご飯を食べる時も、道を歩む時も、呼吸をする時もそうでなければなりません。このような伝統を鉄石のように立てねばなりません。男子と女子が一心同体となっていかなければなりません。このようにして、最小限三年は特別精誠を尽くさねばなりません。
先生も四〇生涯において民族のまえでさまざまなくやしさと、さまざまな骨にきざみ込まれた恨みを抱いて、この道をきずいてきたのです。これを知らない人は先生の前に讒訴されます。天が六千年、イエスが二千年間苦労した公的がまた讒訴するのであります。このけたはずれの背後の重荷を背負っている、その重荷が私にもある、と思うと眠れないのです。冷水で身を清め、三年間至誠を尽くしても足らないのです。我々には公的な法度があります。
死んでも公的なことで死に、生きても公的に生きなければならない公的な基準があるのです。しかし、遊人(不定者)が多いんです。覚醒しなければなりません。私が地区長に今日から三日間を天の名節として過ごしなさいと命令したが、この事実を昨日は仏教系統の教主であるある方が、今日から三日間は世界人にない名節にしなさいと霊界から命令があったと私をたずねてきて証しました。このように我々が何をしているかを全部証しているのです。はなはだしくは、今度の韓日勝共大会にどんな人達が来て帰ったかを話してくれました。
時は来ました。先生はこの日まで家庭を振り返らないで来ました。皆さんよりも家庭を愛せないし、家庭の愛を知らずしてではなく、又皆さんよりも収拾出来ないからでもありません。これは民族と教会がいけなかったからそれを先生の家庭で蕩減しなければならないのを私は知っているので、私がそっくり受けているのであります。それが伝統であるなら、民族の権限と世界の権限だけあれば、その家庭がせおってふらつきながら歩み、父を呼びながら最後の勝利の終点に向かって走っていかねばならない宿題なのであります。
その家庭は、どのように伝統を立てていかなければならないかといえば統一教会の運命を中心としてみた時、この家庭は内的であります。内的であれば、むちを加えなければなりません。三千里半島と、世界にちらばっている我々家庭を祭物とならしめ、統一の群れを中心として、お父様! 息子を愛したまえ! 世界の人類を愛したまえ!と祈祷しなければなりません。イエスが、アバ、父よ、私の意志の如くではなく、父のみ旨の通りになさしめたまえ、と祈祷したのと同じように、自分の息子をおいていくらこの息子が苦労するとしても、万民を救い、万民を解放させることのできる祈祷をしなければなりません。それにも拘らず自覚して居りません。私も息子をつかまえて多情多感に愛することが出来ないのです。それは蕩減復帰の原則が、アベルはカインを立てなければアベルが決定されないからなのです。アベルはカインが決定されるまでに、カインを救わねばならないのであります。ですから皆さんも同じです。皆様の腹の中にいる子供を中心としてみるとき、この家庭がいく道にて子供が生まれたと、ああだ、こうだ、喜び上がって居ますが、以上のような背後の事実を知らねばなりません。そのようなお金があったら、み旨の道を歩む時にみ旨の為に使わなければなりません。先生はそんなことはできなかったのです。私は百日祭り(注‥子供が一〇〇日目になるときの祝いである)もしなかったし毎年の誕生祝いもしたことがありません。自分の腹の中にいる子供までも、三段階時代を経て来るので、カインの中にも三代カインを腹の中の子供に対しても屈服させることのできる因縁をもたなければその息子を愛することができません。家庭が歩む道においてこれがいきさつであります。腹の中の子供からエデンの園のアダムとエバを中心として、アダムとエバを造るときから天使長がそこで侍って僕としてつかえたのと同じように、その代表的な三人の息子を立てて腹中時代から侍らなければなりません。
その為に家庭がものすごいというのです。家庭においても信仰の三人の息子娘を立てて腹の中にいる子息達から整頓していかなければなりません。腹中にいる子供よ、早く誕生するようにといえるそのような信仰の息子と娘をもたねばなりません。完全蕩減にならないのです。先生もこれまで七年路程において、そのようなことをしたのであります。この子供が二〇歳を過ぎて結婚するまでそのようにしなければなりません。私の生命もあなたの為に捧げて、犠牲にしても感謝しますといえる息子、これを、イエスを中心としてみてみるとペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人息子です。そのような原則の下に三人の息子をつれて歩かれたのであります。そして、そのようにして何をするのか、将来新郎としてのイエスが新婦をむかえて結婚しなければなりません。イエスが結婚をして父となった時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人息子達、このおさなごを、二〇代になって結婚をするまで大事に育て無事保護して、復帰させなければなりません。エデンの園において、アダム、エバの前に天使長があやまったその後代の因縁が残っているので、その息子、娘を大事に大事に育てて、結婚させる前には絶対にねむることができないというのです。何故ならば、堕落する可能性があるからです。
そのようにして初めて、皆さんが天の前に息子、娘となって族譜に記録され、天国に行って登用されるのであります。そのような原則的なことを知ることができますか、腹中においての復帰、これは絶対的なものです。そのためにカインとアベルが兄弟同士で戦い、エソウとヤコブは腹の中で雙胎が戦ったのであります。こうして、腹中をさかのぼっていくのです。それ故に、戦っていたのを皆さん達は反対に侍らなければなりません。カインはアベルに侍らねばなりません。侍る基準をつくらなければ完全復帰はできないのでです。その為に天も六〇〇〇年かかったのでありました。
なに、信じて天国に行くんですって? 天国をとりちがえていたというのです。このような原則的な問題を解いてあげねば、皆さんも、サタン世界から解放されることができないのです。世界の主導的な息子、娘になる為には、この原則をはなれることはできないのです。この基盤を築かねばなりません。これから我々が何をなすべきかといえば原理生活の実現、これが何よりも重要であります。少なくとも統一教人であれば、自分がどのような位置にいるかを知らねばなりません。
原理生活の実現というのが何であるかといいますと、他の原理は全てなくなって創造原理のみが残るのです。良心がある為に創造原理を中心として統一されるのです。天もおっしゃるに良心があれば統一するといわれました。良心が向かうままに行えば統一は自動的にされるといっていました。従って、統一教会が良心のままに、良心の喜ぶ事をすることを毎日のように教えられるなら統一は自動的になるのです。良心は常に、自分が悪い方向に行くのに向かって讒訴しています。即ち、良心は悪いのを除去する役目をするのであります。良心はどのような人にも作用するのであります。善いようにすれば善く、悪いようにすれば悲しいのです。
それでは良心は何のためにそのようなことをしますか。これまでそれが未知数でありました。この良心のふくろは悪ければ悪いし善ければ善いという二つの事しか知らないのです。それは何故そうなのでしょうか? 良心は自然作用と同じであります。力は主体と対象がなくしてはその作用がなされないのであります。力はひとりでにでてくるのではありません。力は必ず主体がなければなりません。ひとりだけでは何にもなりません。私が悪いと思っても、主体がなければならないし、善いと思っても善いと感じることのできる主体がなければなりません。それ故に私達の統一教会の原理には二性性相というのがでてきます。
人はどのような所で生きなければならないか、とても幸福な所に暮らさなければなりません。一番理想的な世界で暮らさなければなりません。その世界はどのような世界であろうか、笑って踊って歌う所なのです。簡単です。即ち、善い風に酔って住む世界であります。統一教会でこれを感じなければ困ります。細胞までも笑っていると感じたことのない人は、あの世に行っても気の小さい男になるのです。我々の主体は天であるので、天と共に喜び、天と共に歌って天と共に踊ればどんなに善いでしょうか。
だから、我々の目的も天であります。それでは探し求めてゆく我々の人生の道は何でありますか。それは天を探し求めて行く道です。天は現実的な天です。本来の立場に帰って、何故心が喜びに満ちたり、悲しみに満ちたりするかを考えてごらんなさい。
我々統一教会人達は知らねばなりません。主体があれば必ず対象があって、四位基台を完成することによって、創造目的はなされるのであります。皆さんが知らねばならないのは統一教会は主体意識をもたねばならないというのです。何故主体意識をもたねばならないか、人間は徹頭徹尾なる思想がなければなりません。それは主体意識をもつ事です。その主体的意識が民族の為に、民族を愛するようになれば、民族を支配することのできる基準になるのであります。それが主体意識であってその主体の意識は必ず陽性の形態を整えねばなりません。この陽性の形態をもつにも孤立的ではいけません。挙国的な位置を立てねばなりません。即ち必ず私的な形態でなく公的でなければなりません。
それ故、国の為に忠誠を尽くす人は私的な事情を離れねばなりません。家庭なら家庭を中心とした公的な立場に立たねばなりません。公的な基準に立ち主体にならねばなりません。それは何という事かといいますと、主体性を公的に発揮せよという事です。絶対的な立場でしなければなりません。公的な立場とは天倫をさしていうのです。公的な基準を何ゆえ我々が要求するかと申しますと、公的は天を通過する関門であるからです。それは三千万民族と全人類が喜ぶものであります。それを原則としていればたとえ行うことはできなくとも好かれるというのです。それでは、どのような主体的意識をもたねばならないかといえば、絶対的な主体意識に似なければなりません。それ故に、世界的な人物、絶対的な人物、絶対的な義、絶対的な善、絶対的な愛、その全てのものの主体は天であります。それではどのようにしなければならないか、心は天と一つとなって絶対的な主体の前に私も主体となって、私の体を中心とし一つにならなければなりません。そして私の体までも、私自体までも主体にならねばなりません。
このようになって、男子は女子、女子は男子、このように正に一つになって、丁度一つの細胞と同じようになってこれが私的、あるいは公的な主体とならねばなりません。この公的に必ず夫婦の立場をもたねばなりません。これが社会生活までもその社会を中心として公的な天と一体になったならば、地上天国は実現されるのです。これが国家を越えて、世界にのびゆくとき、世界的なすべてのものは相対的なものになります。完全なる主体の前に完全なる対象が合わせられれば完全なる一つになるのです。
それ故に、これから我々統一教人達は、原理生活の実践をどのようにしなければならないかというと、どこに行っても、自分が完全なる主体的な立場に立つようになれば、自分が対するすべてのものは、完全なる対象となるが故自分の夫人のように思わなければなりません。即ち、第二の先生になって完全に授け受けて、一体化しうる、その基準を通過しなければ完全なる天のものにならないのです。こうなると、完全なる四位基台が成され創造目的を成すようになります。この世のすべてのものは、必ず四位基台法則を通じた哲学的なものであります。この宇宙の法度というものは、必ず授け受ける、この四位基台の法度基準を中心として、これを擁護し、これを育成する為であり又、天倫がそのようになっています。宇宙の力はこのようにして、生成され、回転して行くのであります。
それでは、良心の呵責は何故受けるのですか? 心が願わないのに体が動く為に、主体である心に対象である体にならないので、心自体としては疎外されるからです。このようになると価値の基準は減少され、だんだん少なくなっていくのです。
何故喜びがあるかというと、心が喜び体がその基準に応じて心と体が完全に主体と対象となって、四位基台の目的がなされるときはその心が願うままに体が動くのでそのような結果によってそういう基準の下に喜びが生ずるのであります。何故来るかといえばそれは宇宙の原則であり、天運が擁護してくれるので距離がだんだん短縮されて、その目的が天に会うことができる距離が近いので喜びが生ずるのであります。けれども心が良心の呵責をうけ心に相対要素がなくなってしまう時はないのであり、主体のみが現われて主体までも乱すのであります。その為にこの宇宙の原則は主体だけがあるとすれば、対象的な基準と反対になるとしても、必ず追い出す力が私の体に現われて、それが悲しみとして現われるのです。従って、喜びと悲しみというのは、私が主動となるのです。
この宇宙が、全部運動の法則によって力の原則の中で作用してそこから始まったために、これが全部宇宙の拍子に合わすことのできる一つの天運、その天運の法度に合わせていくが、それが何であるかといえば、四位基台の法度に通じ得るその基準を全部吸収して擁護するが、その結果が許されねば不合格者になるのです。それ故に夫婦の間においても、いくら授受する夫婦であろうともここに結果物である子女がなければ不幸であります。何故不幸か。この宇宙法度の原則は四位基台を中心としてまわっているのに、この四位基台が三位基台にしかなってないので、永遠に回るその法度の前に、背馳になり、天を中心としたのをみるとき、その距離的な面で遠くなるために、自然に悲しくなるのです。
天を中心としてみるとき、天は永遠なるものです。何故我々が主体意識をもたねばならないかという事を知らねばならないのです。天は永遠であるためです。永遠というのはどのような(如何なる)干渉も受けないのであります。どのような存在世界もその限界圏内に入るのではありません。限界を越えたためです。我々は限界を越えるための存在の価値を探し求めて行くのであります。そして、存在の限界線を越えることのできる権限を持つことによって天と一体になるのであります。そうでなければ天が主体であるがために造られた全ての万物が天と一つになるには、天が主管することのできる思想と全ての心情基準を整えて、天が主管するこの宇宙において完全なる主体の前に対象の立場にある為にこれは必ず栄えて、世界を支配するようになるのであります。
そして天を中心として、これを永遠に連結させる為には力だけではいけないのであります。天の縦的な作用の力が愛であるが故に愛を中心として完全になし遂げる事ができれば、これは永遠に離すことができず、永遠に追い払うことができないものになる為に我々は天を中心として天の愛を結びつけるための戦い、即ち一生の行路をかけて戦いの道を歩むことを良心生活の中から確実に知らねばなりません。ここで生活的な法度というのは原理生活実現です。生活するのには必ず善と悪を明らかに知らねばなりません。その為に絶対に原則的な生活をしなければなりません。良心を中心としてみるとき、その良心のどの基準であろうとも少しでも助けになるようになればうれしいし、少しでもマイナスになると悲しいのです。良心は天倫の法度に従って動くものであるために良心はつねに善であれと命令するのです。
今日統一教会の教会員達は絶対に良心の呵責を受けてはなりません。良心は天よりも皆さん自身と共に直接的な関係を結んでいるのであります。このような観点からみるときみ旨の道を誰のために行かれないというのは話になりません。実は自分の歩む道が忙しいというのであります。みにくい人達は天法が整理するのであります。唯自分の行く道のみを一生懸命に行けというのであります。それでは、サタンは滅びる法度を支持するのであり、天は栄える法度を支持するのであります。これが善悪の分岐点であり興亡盛衰の分岐点になるのであります。このように四位基台の目的を中心として自分が何に対しても心で対するものは常に自分の息子、娘と同じように対することのできる心構えができれば、その人が行く道は天が運行させることのできる地上の基盤となるのです。
このような基準は家庭からなさねばなりません。夫婦が互に心が一つにならねばなりません。男子が主体であれば女子が対象になって、完全に授受して一日をなし、十年をなし、百年をなして一生を終えあの世に行くとき、悲しむ人は地獄行きであり、喜びが多かった人は天国行きであります。私達の心の中にはサタンとの一線があり、天との一線であるものがあるのです。
世界の哲学界においても統一原理を中心としたのが最高頂上をおさめるようになれば、その力の機関である政策機関も、宗教の立場をとらなければなりません。その上蕩減復帰というのをおいてみるときは政治あるいは学問、何でも宗教の立場をとらなければならないのです。このようにして、宗教の形態を持って行くのであります。それでは、宗教の形態を持つのにもどのように持って行くかといえば、一番下から上がって行かなければなりません。
こうして、今日、統一教会は悲しい歴史の運命的な歩みを歩んできたのですが、このような宗教の形態をとらざるを得ないのです。宗教という形態をとって、どのようにしなければならないか、全世界的な問題、政治的な問題、今日の社会的な問題を打開して、学問的な問題を打開して、これを発展させなければなりません。これをなすために教会の運動をするのであります。
そして、反共思想を我々は訴えて出る理由が何であるかとすれば、今日共産主義が世界的に大きく問題になっているので共産主義を我々がうちたおさなければなりません。そして、我々食口達が主動になって勝共連合を発足させたし、それを今日、我々民族の前に最高の基準にまで引き上げておきました。そして大学街では今、原理研究運動が活発に起きています。我々は総進軍しなければなりません。そして、勝共活動をより強化させねばなりません。勝共をするには攻撃をしなければなりません。即ち攻勢をとらなければなりません。そのようにして、勝共活動を中心として全国的であり、世界的である進撃をしなければなりません。今後大学側の活動は後代に責任をもつものであり、勝共活動は現代に責任もつためのものであります。そして、宗教は永遠を責任もつのであります。我々は唯、全ての方面にわたって前に進撃しなければなりません。
そして、第一の問題は教会内に於いて、家庭的な伝統と宗教的な伝統と経済的な問題を中心とした伝統を立てて基盤に確固たるものを築かなければなりません。
そして、一九七〇年迄には総進軍しなければなりません。国がほろびれば皆んなの財産と体が残ると思いますか? 我々は共に公的な立場におかれている為に、価値的な面から考えてみるとき、私は家庭のために死なねばならないし、家族は種族の為に、種族は民族の為に、民族は国家の為に国家は世界の為に犠牲にならねばなりません。
このような公式な路程を歩んで、天の前に行かねばならない至急な路程が残っている為に、時は忙しくまだ道が残っているのであります。皆さんの個人や全てのものは滅びても、決して国が滅びてはなりません。国が滅びたとしても世界が滅びてはなりません。この地上は滅びたとしても天が滅びてはなりません。より大きな公的なものの為に、小さいものは祭物となって、犠牲とならなければならない教えに順応しない人間は全部逆敵であります。
第二次七年路程においても三年が問題であります。より謙遜な態度をもって頭を下げてゆかなければなりません。悪いのを食べていたのが良い物を食べる人は幸福であるというが、良いものを食べていたのが悪いものを食べるようになった人は不幸な人です。その為、前者の立場をとって行く人は永遠に幸福になることができます。それ故に善いものを残すことのできる土台を作らなければなりません。
特に今年は全面的な進撃の年であるが為、我々統一教会の食口達は教会の伝統をより強固に確立しなければなりません。そして、原理研究活動をより強固に強化しなければなりません。ここに歩調を合わせ、自己の各分野において自分なりに各自努力して加わらなければ統一教人になれないのであります。
このように総動員して七〇年度を中心としたアジアの危機の前に我々が対備しなければならないこの天的な使命を完遂しなければならない問題が至急なる問題である事をさとり、これに対備して、皆さんは万全の準備と精誠をつくさなければ天の前に面目ないということを知らなければなりません。このように新しい歴史を創建するに当たり、我々が主役を担当していることを知り新しい覚悟と決心をしなければなりません。
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