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第三節 地上天国への道
99 生活の神
妄想的で空想的な信仰をする時代は過ぎ去った。観念的な神様を信じ、その理念のもとで生きる時代も過ぎ去った。骨と肉が心情に符合する基準をもって、神様を父と呼べる立場に立たなければならない。六千年の役事をしてこられた父の心情を、今日の私の心情に帰一させ、神様と父子の関係にあることを誇れる立場に立たなければならない。 (五九年七月二十六日)
神様を頭で理解する時代は過ぎ去った。頭で知るのではなく、心で知らなければならない。心だけで知るのではなく、体で知らなければならない。観念的な信仰の時代が過ぎ去り、心で信じ、体で体恤すべき時代となったのである。 (五八年三月九日)
信仰を通して崇め尊ぶ神様は、我々とは距離がある。我々には「生活の神様」が必要である。人間はみな、自分の事情や心情に符号した喜びを求めている。どんなに地位や名誉があっても、そこに自らの生活感情や心情や事情に符合する価値がないならば、何の意味もない。 (六五年一月三十一日)
漠然と空中に浮かんだ観念的な神様ではなく、「生活の主体」としての神様が必要な時となった。愛で共に戯れることのできる神様、理想的な主体と対象の関係を共に築ける神様、自由と平和と幸福の世界を抱きながら、同じ空気を共に吸って暮らせる神様が必要なのである。 (七五年五月六日)
神様は観念的な存在ではなく、実証的な存在である。信仰の対象でなく、「生活の中心」である。絶対者とそのような因縁を結んで生きる群れが、終わりの日に現れなければ、この世界は最後の難局を迎えるようになる。 (六一年二月十二日)
今まで人は、神様が私の良心の主体であり、私の体の主体であり、私の「生活の主体」であることを知らなかった。 (五九年五月十七日)
父に仕える者とはどのような者か。父を通して生き、父を通して死に、父を通して行動する者のことである。堕落した人間は自分を通して生きているが、神様に仕える終わりの日の聖徒は、父を通して生活し、父を通してすべての行動を取らなければならない。観念的ではいけない。実際的でなければならない。 (六一年二月十二日)
私自身が神様を体験しなければならない。神様がいるかいないかを論じるよりも、神様がいることを私が体験すればよいのである。観念的な神様は必要ない。「生活の主体」としての神様に仕えなければならない。そうでなければ、今日の科学世界において、その宗教は流れ去っていく。 (七六年二月一日)
今まで霊界は地上と関係を結ぶことができなかった。しかし今や、霊界自体が統一教会の生活圏に接することのできる段階に入った。神様は妄想的で、抽象的な方ではない。常に我々と共にある「生活の主人」である。共同的な愛を中心として、共同的な生活をしておられる神様である。 (八七年九月十三日)
神様は観念的な神様ではなく、「生活の中心」として顕現しなければならない。今そのような時が我々の目前に迫っている。それこそ人類が願ってきた希望の日であり、歴史的な勝利の日であり、万民解放の日であり、第二天国創建の日である。 (七二年三月六日)
宗教人は、「万民を救って、平和理想世界を実現する」という神様の真なる愛のみ旨に、完全に従わなければならない。宗教は現実に安住することなく、生きて働かれる神様と共に、真の愛と真の生命力あふれる対話をなす、生きた信仰の道を歩んでいかなければならない。 (九一年八月二十七日)
「神主義」を中心として、生活圏内で心と体が安息する喜びを得なければならない。「神主義」を通じて、神様の歴史的心情、時代的心情、未来的心情を体恤しなければならない。 (五九年十月二十五日)
統一教会は「神主義」である。その理念に通じた個人は、どこに出しても心情が通じる。 (七二年七月九日)
100 神が共にある
本来人間は、神様の実在を問う前に神様を感じることができ、神様を慕う前に、目前に現れる神様を感じることができ、神様に願う前に、自分の中に臨在する希望の実体を感じることができた。ところが人間は、情的な基準、理念的な基準、生命的な基準に到達することができずに、そのすべてを失ってしまった。それが人間の悲しみを生んだのである。 (五八年十月五日)
生きて働かれる天の心情と事情を知らず、天の願いを知らないのが堕落である。生きて働かれながら我々と因縁を結ばんとする天の心情! 未来の我々と共に栄光を享受せんとする天の願い! それらを失ったことが堕落なのである。 (五九年四月十九日)
神様は生きている。昨日も生きて、きょうも生きて、明日も生きている。霊界は二十四時間眠ることはない。神様は永遠に生きておられる。 (八七年五月一日)
神様は私と共に生きようとされる。神様は生きておられ、私と共に活動する。よって、私にできないことは何もない。 (八五年二月二十五日)
我々は、死んだ立場にあるときは永遠に独りであるが、生きた生命の主権と共にあるときは独りではない。たとえ追い込まれる立場、哀れな立場、鎖につながれた身になったとしても、心の世界では独りでない。戦場で倒れて足げにされたとしても、「おい、私がいるから落胆するな」と言われる神様がいる。我々の行く道は孤独ではない。 (六〇年九月二十五日)
神様はすべての前に利をもたらす方である。我々が苦痛の中にあるときは慰めてくださり、事情を共にしてくださる方である。どんなに困難があっても、難しいからといって「もうおまえが嫌いだ」と離れていくような方ではない。 (八五年十二月十五日)
世界的な指導をする責任を担った先生は、今まで世界的な攻防戦をしながら、無数の反撃を受けてきたが、滅びなかった。それは神様が保護してくださったからである。神様は生きておられ、先生が監獄に入って呻吟する時も共におられた。神様が共にある歴史は、永遠の歴史であり、神様が共にある伝統は、永遠の伝統として人類史に定着する。 (八七年五月一日)
先生は細胞の一つIつが否定できないほどに、生きた神様を体験してきた。父母というものは、孝子が涙を流す前に先に涙を流すものである。先生ゆえに涙を流される神様であるということを、先生は知っている。 (八六年一月十九日)
先生は天の父に侍りながら、天の父が、先生を苦しい環境から抜け出させ、休ませようとしておられることを知った。かつて先生を訪ねてこられた神様は、今もなお先生と共におられる。統一教会の財産は正にこれである。 (六六年十月十四日)
先生は道を歩いていて孤独な気持ちになったとき、かつて神様が先生に「おい、私がいるではないか!」と語りかけてくれたことを思い出す。そうなれば、孤独な立場も問題にはならない。「私一人だと思っていたのに、あなたが共におられたのですね」と、力強く歩んでいくことができる。 (六一年七月十七日)
どんなに運命の曲折におかれていても、それを乗り越えて父の手を取り、歴史的な願いと生涯の願いを抱きながら、「わが父よ!」と最期の一言を残すまで歩んでいかなければならない。そのような道を駆け抜けながら、創造主であり絶対者である神様に向かって、「父よ!」と呼びかける群れが現れるとき、そこから神様の新たなる経綸が始まる。 (六一年二月十二日)
神様は万民の相談相手であり、万民の保護者であるがゆえに、万民の秘密を心に留めて守ってくださる。皆さんは心底から相談したいその方に会わなければならない。本当につらい思いをすべて打ち明けて相談したい、その方に会わなければならない。 (六〇年二月二十八日)
統一教会は、まず世界に向かって「神様は生きておられる!」と宣布しなければならない。 (六九年五月十八日)
先生は、生涯を通して神様の深い心情と愛を確認し、それを証してきた。よって、先生の神様は、想像の中の漠然とした神様ではない。生きておられる神様である。先生の心情と細胞の隅々に体恤された神様である。 (八五年八月二十日)
101 神と共になす
「神様はもともと私と一つである」という信念を持たなければならない。私が一歩行けば、神様は間違いなくついてこられる。私が神様と十歩の隔たりを持って生まれてくれば、神様は常に十歩を隔ててついてこられる。その距離を少しずつ縮めていかなければならない。 (七二年七月三十日)
誰も神様が生きておられるということを否定することはできない。私と神様が一体となっているからである。完全に一つになり、一体となっているがゆえに、触ることもできず、目で見ることもできないのである。一体となっているがゆえに感じられないのである。 (九四年二月十五日)
私に最も近い存在が神様である。神様と私には距離がない。 (七九年十二月十六日)
神様は私と一体となって、永遠に衣食住を共にし、永遠に苦楽を共になさる実体的な主人公である。永遠に変わらぬ愛の本体であり、永遠なる希望の化身体である。 (五八年三月九日)
神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様である。神様の喜びは、人間と共に喜びの出発をなし、終わりなき永遠に向かって進み続ける出発の起点を持つことである。 (六八年六月九日)
神様と人間は、愛を通してのみ一つになることができる。 (九六年九月十五日)
私が涙を流し、死と苦痛に倒れて悲しむ情景は、まさしく神様の悲しみと悲痛さが反映された情景である。 (六〇年十月十六日)
「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と言われたイエス様のごとく、自分の歩みよりも父の歩みが先んじなければならない。一挙手一投足が神様を中心としたものでなければならない。見ることにおいても、自分の目で見るのではなく神様の目で見なければならない。これが対象としての因縁が成立する基本原則である。 (七二年七月三十日)
生活において、いかに神様と共感するかが問題である。▽人でいるときも「父よ!」と思わず口に出て、神様が「どうした?」と返事をするような感覚にならなければならない。そんな生活圏内に入れば、神様がいるかいないかが問題ではない。神様が常に擁護して、導いてくださるのである。困難にぶつかっても神様に背くことはない。 (七二年七月三十日)
「天よ、この者たちを愛してください。私が奉献するには力不足です。私の犠牲だけでは力不足です。私の愛をもってしては力不足です。あなたの愛が必要なのです!」と、涙ながらに祈らなければならない。それでこそ神様が協助し、生きた神様が共にあることを知るのである。教えられて知るのではなく、体恤を通して知るのである。 (八一年四月二十五日)
我々は神様と共に喜び、神様と共に歌い、神様と共に踊らなければならない。我々の目的は神様を求ぬることである。人生の道も神様を尋ねゆく道である。神様は現実的な神である。 (六九年一月一日)
神様は「おまえと共に語り合い、おまえと共に働きたい」と待っておられる。我々はそのような神様の歴史的な心情を悟って、復帰摂理にいつ参加できるかと考えながら、神と共にある生活舞台を求めていかなければならない。神と共に考え、神と共に語り、神と共に行動する道を求めていかなければならない。 (六二年十月七日)
102 心情世界
人間一人一人の内面世界には、国籍を超越した一つの統一世界で生きたいという強烈な思いがほとばしっている。このような内なる叫びは、真なる人間の理想であり心情であり、神様の願いであり心情である。 (八一年十一月十日)
神様は個人の父であり、家庭の父であり、氏族の父、民族の父、国家の父、世界の父である。世界はそのような父の愛で結ばれることを願っている。全世界は家族同士のようにならなければならない。そうすれば神様に似た世界となる。そのような心情の基準が、新しい歴史的出発点となる。 (七七年十二月十八日)
心情を通して見るならば、万民は一つの兄弟である。 (七六年二月二十五日)
兄弟という観念を持って、「この地上の理念は、わが家の理念だ! 我々の心情は父母の心情だ!」と言えるようになれば、世界は一つになる。氏族を超越して一つになる。そのような世界を築かなければ、いかなる政治や理念をもってしても、みな無益である。終わりの日には、すべて砕け散ってしまう。 (五九年十二月六日)
「あなたも素晴らしき主の息子で、私も素晴らしき主の息子だ!」というときには、許せないことがない。主の御名においては、怨讐がみな溶ける。主の御名においては、兄弟でない人が兄弟以上に団結でき、家族でない人が家族以上に団結できる。地上でそのような感覚を体恤できない者は、新しい国の幸福な時代に入っていけない。 (六〇年五月一日)
私が一番愛するものは、私だけが愛するものではなく、民族が愛し、世界人類が愛し、天地のすべてが愛するものでなければならない。それはわが子でもなく、夫や妻でもなく、父や母でもない。誰も動かすことも変えることも引き離すこともできない、中心的な心情の主体、神様なのである。 (六一年一月一日)
神様は、私の体の永遠なる主人であり、私の心情の永遠なる主人である。それゆえに、本然の世界においては、夫が私よりも神様を愛しているからといって恨んだりはしない。妻が私よりも神様を愛しているからといって恨んだりはしない。それを見て喜ぶことのできる世界が天国である。 (五九年九月二十日)
天国は知識によって生きるのではない。霊界とは、どんなに優秀で立派な知識人がいたとしても、その知識を一週間以内に凌駕できる直感の世界である。心の光を通して見るので、そこに関係している因縁の世界を自動的に理解できるのである。心情を通してこそ相対的な関係が築けるのであって、知識や他の属性によって築かれるわけではない。 (九〇年十二月二十七日)
心情の歴史というものは、肉体と関連した基盤を中心として語られるものではない。根源も天情、過程も天情、結果も天情という内容でなければならない。したがって、本然のアダムとエバのように、神様の血統を受け継ぐ因縁を持たなければ、心情的な勝利の基盤を持つことができない。 (七一年四月三十日)
愛なる神様が、我々人間を真実に愛する場はどこか。それは人情と天情が結合する場、神様と人間が父子の因縁を結ぶ場である。 (七二年三月四日)
裕福だということに何の意味があろうか。父母の心情から流れ出た愛が、骨髄に染み入る場こそ、人間がとどまる最高の幸福の基点、心の故郷となる。 (六九年五月十八日)
私の体の永遠なる主人である神様の懐、神様の園にいられれば、死んでも本望である。神様が、私の心の永遠なる主人、私の心情の永遠なる主人であれば、それだけで十分である。それ以上何を望もうか。 (五九年九月二十日)
103 天国創建
歴史上の聖賢たちは、必ず神様を崇拝してきた。神様を崇拝しない聖賢はいなかった。彼らは必ず天の道理を教えてきた。天道を中心として天情を人倫化し、人道と人情の道理を人類に説いてきた。聖賢たちは民族主義者でなく、世界主義者である。 (七〇年十一月一日)
母国を犠牲にしてでも他国の人を生かしてあげなければならない。そうでなければ世界主義者になることができない。統一教会は世界主義者になる道を説く。 (六七年五月十四日)
人間は本来、世界主義者である。皆さんは「この天地は私のものである」と言える主義を持たなければならないし、「この世界に散在している全人類は私の兄弟である」という観念を持たなければならない。それでこそ、神様が父としての役割を担うことができる。 (五九年十二月六日)
神様は今まで、息子、娘が悪なる勢力に蹂躙される姿を見つめながら憤慨してこられたが、いつまでもご自身が悲しみの中にいることを望まれない。一日も早く、悲痛や悔しさから抜け出して、喜びの日を迎えることを望んでおられる。 (五八年一月五日)
父母の心情と僕の体をもって、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しながら、父の恨を解く歴史的な十字架を担ったことを忘れずに、救世の道を前進しよう。これが我々の使命である。 (九〇年三月三十日)
統一教会であれ、先生であれ、自分自身のために動員されていると考えよ。そのように思って自分の仕事をせよ。先生の仕事、統一教会の仕事ではなく、自分自身の仕事である。私自身が世界を救い、天国を築かなければならない責任があるがゆえに、自らの仕事をしているのである。堕落の経路を取り除けるように、自らの仕事をしているのである。 (八一年一月二十五日)
堕落人間の願いはメシヤに出会ってから死ぬことである。メシヤに出会えば死んでも悔いがないというのである。とすれば、メシヤと共に働いて死んだならばどうなるだろうか。それほど素晴らしいことはないだろう。 (七四年八月十六日)
神様は旧約時代には祭祀を行うところにおられ、キリスト教時代には祈祷するところにおられた。そして今、統一教会時代には出て闘う所、生活圏内におられる。それゆえに、地上に天国を築くことができるのである。 (七八年四月三十日)
とがき
人生の歩みは、「神様がそうであるから、子である私もそのようにする」という、神様を動機としたものでなければならない。しかしながら、知らぬ間に流されてしまうのが現実である。そこで必要となるのが、公式(み言)である。ことわざや格言のように頭に残っていれば、いざというときに、その言葉を思い出して自らを省みることができる。悪を分別できる百戦百勝の武器こそ、「み言」であると言えよう。
今回、多忙な日本の読者の方々のために、携帯用、護身用の書として、格言タイプ(一文・四行以内)の編集を試みた。偉大な真理を短くまとめるにあたり、人間の手を加えざるを得ないという、障害があったことは事実である。しかし、この書が、心の手術とまではいかないにしても、心の常備薬となることを確信してやまない。心情の指針、統一家の銘、真の父の訓戒として、読者の皆様の座右に置いていただければ幸いである。さらなる明確な真理探究のためには、出所となった原書『神様、私の神様』や、その出典である『文鮮明先生のみ言選集』を参照されたい。