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信仰生活シリーズ 3 聖書の中の心情圏 李耀翰 摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 |
冤痛と亨通の道を行ったヨセフ
統一神学校一学年の学生を対象にした原理講義
ヨセフの母親であるラケルを見てみましょう。ラケルは、本然の心情復帰の路程を歩まなければならなかったのであらゆる困難がついて回りました。しかし、レアとの葛藤と疎外の中で多くの成長をしました。これを見るとき、神が葛藤と疎外を感じるようにするのは、その人の心情を高める目的があるということを知ることができます。なぜ貴い、善なる人が苦痛と疎外の中で寂しく過ごさなければならなかったのでしょうか。
良い血統を受けて生まれたヨセフ
それは、横的に授受する人がいないからです。ラケルは、相当の期間子供をもつことができなくて苦痛を受けてきたと見ることができます。すなわち、十一番目のヨセフを生む時まで多くの苦痛の中にいましたが、ヨセフを生んだのちに心を落ち着かせました。
復帰路程を見るとき、多くの人物たちが失敗したことを知ることができます。そして、信仰の失敗というものは、主体者の意図とは何の関係もなく横的にぶつかり、疎外されることをいいます。
ところでヨセフは、母親の冤痛なる期間が終わり神との関係が回復されたのちに生まれた人物です。それで、ヨセフが受けなければならない多くの疎外と苦痛を母親が代わって受けてくれたのです。ですから、ヨセフは大変良い性稟を受けて生まれたのです。それは、ラケルが苦労でもって神のみ旨を正しく体得して心を安定させた後にヨセフを生んだからです。
父母が本然の心の基準をもつことによって、子女が福をもって生まれます。葛藤と疎外を受けても揺れることのない心をもち、縦的に忠実な人であってこそ幸多い子女を生むことができます。
ラケルの場合がそうです。レアと対立したとき失敗せず、神と心情的関係を結び、基準の高い素晴らしい心情をもってヨセフを生んだという点を貴く考えることができなければなりません。父も良くなければなりませんが、母がより円満であってこそ良い子供を生みます。ラケルの心情が以前より整理されたので性稟が聖別されたヨセフを生んだという事実を見ても、それが分かります。
レアの息子たちは善なる性稟をもつヨセフに対して良くない感情をもっていました。ヨセフは弟であるのに心情の基準が飛び抜けていますから兄たちとは比べものになりません。それで、従いもせず、問いかけもしませんから、兄たちは気分が悪かった様子です。そうであるのにヨセフは、父母の期待と愛着心が大きく、父母の愛をたくさん受けました。ですから、兄たちはヨセフを憎みました。
兄弟の中で父母に期待される子供がいるとき、生まれながらの子供の気質が父母の心をとらえるのでどうしようもないのですが、仕事やお使いも兄たちにのみさせるので、兄たちはしきりに憎みます。実に気の毒なことです。
エジプトに売られる
兄弟たちから憎まれたヨセフは、十七歳になったある日、夢を見たのでその夢の話をしました。日と月と十一の星が自分を拝み、兄たちの結わえた穀物の束が自分が結わえた束の前に拝礼する内容でした。この話を聞いて兄弟たちは、一致団結してさらにヨセフを憎みました。
ある日ヨセフが野原で兄たちに会うことになるや否や兄弟たちは、この機会にヨセフを殺そうとしました。しかし、兄弟の中でルベンは「手を下すのはやめよう」と言いました。その時、イシマエルびとの商人が通りかかったのでユダが「ヨセフも我々の肉親なのだから殺すのはやめて売ってしまおう」と言って商人に売ってしまいます。兄弟たちは家に戻ってきて、ヨセフは悪い獣に食べられたと偽りの報告をします。ヤコブは、兄弟たちがやぎを殺してその血に浸したヨセフの服にすがって痛哭します。
ヨセフは、エジプトでイシマエルびとの商人からパロの侍衛長ポテパルに引き渡されて、その家に入ったのですが、実に運が良かったといえます。イシマエルびとの商人がなぜポテパルに売ったのかは研究されなければならない問題ですが、ヨセフの性稟が良くなかったならばエジプトで官職が高い侍衛長に紹介できなかったはずです。私たちも知ってのとおり貴い人は貴い人に紹介したいという心がにじみ出るように、イシマエルびとの商人がヨセフを買って接してみて、共にいたいという思いになったのだと思います。
人は、印象が良ければ家庭のみならずどこに行っても恩人に会います。すなわち、家庭でかわいがられる子女が学校に行けば先生からもかわいがられます。また、先生が卒業を惜しむ学生は会社に行っても良い位置が与えられるようになります。会社の責任者たちがその人の徳化力とか印象を見て良い位置を与えようとするのは当然なことです。
このようにヨセフも行く先々で相手の人と心が通じ、考えもしなかったポテパルの家に入るようになったのです。これは、売られてきたヨセフとしては非常に運が良いのです。ヨセフが王宮に出入りするポテパルの家にいるようになることによって、パロの前に早く出ていくことのできる可能性をもつようになりましたから、良い主人に会ったということができます。
事実、ポテパルは、ヨセフに仕事をさせてみて大変に満足して、家計をすべて任せて、財政に対して一切干渉をしなかったというのです。ポテパルは、ヨセフを自分の息子のように思い大変喜びました。自分がすることを信じてしてくれますからとても喜んだのです。ヨセフがその家の財政まで引き受けて主人の心に気に入るようにしますから、ポテパルも良い働き人を手に入れたと神に感謝し、直ちにヨセフを管理人であり総務に定めたのです。
ポテパルのみならず夫人もヨセフには責任感があり、円満であるのを見て好きになるのです。性稟が良いわけですから誘惑を受けるようになるのです。夫人の誘惑がどのくらいの間あったのかは分かりませんが、相当あり、ヨセフはそれを常に避けてきました。
ある日、ポテパルの夫人に服をつかまれ、それを振り切って飛び出したのですが、上着が脱げました。夫人は、恥ずかしくて顔向けできないとなるとヨセフに罪をかぶせました。気の毒なことにポテパルも夫人の言葉を聞いて怒ってヨセフを監獄に入れてしまいました。
もし、ポテパルが彼の夫人の言葉を聞き入れなかったならば、獄中生活はなく、ポテパルの家で過ごしながら宮中に入り、直接パロに面接することができたのではなかったのかということが考えられます。
それゆえに一つの道で不信されれば苦痛の道を行き、信じてもらえれば栄光の道を行くのです。イエス様もユダヤ人が信じたならば栄光の主になったはずなのですが、不信されることによって十字架の道を行かれたのです。
善悪を見分けることだけで蕩減復帰がなされるのではなく、必ずしもサタンをふさぐことで蕩減復帰がなされるのでもありません。すなわち、その人に結ばれたものを解くには良い環境でも解くことができると思うのです。ヨセフの場合にも必ずしも獄中に入ってのみなされるのではありません。けれども、そういう苦労をしてみますと、もっと立派になることができました。
獄中生活を入れてヨセフがエジプトで過ごした期間を十四年と見るとき、サタンからの誘惑の数は大概二数ですからポテパルの家で過ごした約三年間のうち長成級を象徴することのできる期間である約二年間、ポテパルの夫人から誘惑を受けたと見ることができます。
監獄でも他人のために生きる
しかし、ヨセフは誘惑に落ちずに十余年間獄中生活をしました。獄中生活をしながらもヨセフは、行く先々で平和への影響力と言いましょうか、徳化力で慰労の中心になりました。いわばヨセフの生まれながらの性稟ゆえに多くの人たちがヨセフに相談することができましたし、ヨセフ自身も恵み多い生活をすることができました。
そうしてみますと、ヨセフは獄中でも仕事がたくさんありました。当時悪い人にも会ったでしょうが、気掛かりや心配事をもった人、無実の罪の人などたくさんの人に会うことができました。善悪の区別が分からずに引っ張られて入ってくる人に、知恵と予言でもって、「あなたはこのようにすれば解決することができる」とか、「あなたはどのくらいだけ辛抱すれば再び家族のもとに戻る」などと言い、それが的中しました。
今日、信仰者の目的が何なのかと言えば、ヨセフのように人格をもった人になることです。信仰する人が失敗するとかわいそうです。信仰することによって心霊が澄むようになれば、その人は心の位置を定めることができますが、これが難しいのです。しかし、ヨセフは無実の罪で監獄に入っても、自分のする仕事が多くてそのようなことにとらわれている暇がありませんでした。
人は公的な考えでいっぱいになっていれば、私的な心配や気掛かりが生じません。本来、公的な心配というものは、天運が共にしますけれども、私的であり利己的な考えは原理に反するので威圧感を受け、士気を低下させるのです。
ヨセフは、監獄に入る時は法的には罪人ですが、そこで自分のことより他人のための仕事が多く、信じるに値し、罪人というよりも監獄の要員たちに必要な人物であり、何か説明することのできない位置を確保しています。その人なしには雰囲気が散漫になる人と、その場にいてもいなくてもよい人がいます。これは、霊的雰囲気を自分の心に所有しているかいないかの差です。公的な実績をもっている人が運を所有しているという内容と一致するのです。
全体のために生きることの重要さ
ですから、文先生が韓国におられるだけでも韓国の地に天運が従うということは、公的な実績をもたれた方としてそれくらい雰囲気を左右なさるからです。家の中にも年の高い老人がいれば運が良いということを、若い夫婦たちは分かりませんから、いつも自分たちだけでどこかに行くようになれば不祥事が生じるようになります。
私的な生活をする人は、死亡の道が立ちふさがりますけれども、ヨセフのように公的な実績がある人は、険悪な獄中に入っても将来が開かれるということを知らなければなりません。
人は運をもたなければならないというとき、その運というものは、公的な生活観と実績を意味するのです。そうできないとき、その人の運はふさがれるようになることは当然なことです。
先生は、このような法則をご存じであり実践なさるのです。ですから世界に向けてのワシントン大会が終わったのち、モスクワまで行き神のみ言を宣布すると語られました。事実一九七六年度にモスクワ大会を宣言なさったのち、三年目にモスクワに宗教人と言論人を団体で送られたのです。
皆さん、共産党は、神はいないと言いながらも、全体のためには生命をささげて忠誠を尽くしています。私たちは、神はおられると言いながらも忠誠を尽くせずにいるのですが、どちらがより基準が高いですか? 神はいないとする一つの思想をもった共産主義のほうが、そのような面では基準が高いようです。
彼らは理念を中心として世界を救うと言いますから、宗教心ではありません。しかし、党のために生き、世界のために生命をささげる覚悟は徹底しているようです。彼らの積極性というものは大変に恐ろしいものです。
世界の至る所に共産党のゲリラたちがいるのですが、彼らは民主主義を滅びたものであると判断します。何も見るべきものがないというのです。民主主義の世界は、明らかに自分を中心としてのみ生きる利己主義の世界ですから許すことができないと言います。自分たちのように全体目的をおいて生きなければならないというのです。これは大変なことになるのです。そのようにしてソ連は、彼らの同盟国家に工作を展開させています。その工作員たちは、目的達成ができない場合は自爆をします。信仰であればどれほど徹底したものでしょうか。しかし、彼らが正しく転換された日には、神の前に絶対的に忠誠を尽くすはずだと先生は語られたことがあります。このみ言は、公的目的を強調なさった内容です。
ヨセフも公的な目的にのみ愛着心をもってみると、行く先々で生きがいを感じ、自分は必要な存在であるという思いが心を占めるようになったのです。そのようになるのは、純粋な性稟によるものであり、神が共になされたと知ることができます。
ヨセフの立派な信仰
母親が葛藤と疎外を清算して生んだヨセフですから、気分がむしゃくしゃするといって他人を憎んだり、憤慨する人ではありません。ヨセフは口惜しくなるような状況で売られましたが、ポテパルの家に入ってすぐに認められたのを見れば、ヨセフには二心がなかったのです。自分のことで心配をしていたならば、他人から認められません。ヨセフが僕として売られてきたその家で認められたのは、自分の家のことや兄たちに対する考えをきれいに断ち切ってしまい、現実に忠誠であったということを証明しています。
人というものは、どのようなことであっても過去の考えに執着したならば、現実に忠誠でなくなります。過去にとらわれず、現実において全力を尽くす人は望みがあります。以前の自分と、今の自分を比べていろいろと思うならば価値のない人になってしまいます。
ヨセフは、だれをも恨みませんでした。なぜならば、母親の胎内で堕落性を清算し、聖別して生まれたので他人に不平不満を言いませんでした。このようにヨセフの血が貞潔なことから、彼の母親がどれほど苦労したのかを知らなければなりません。普通にしていてヨセフのような息子をもつことができますか?
ラケルは自分の思いどおりにならず、夫やレアの前でうずくような苦痛を抱いて闘い苦労をしながらも、神の前で清算してヨセフを生んだのです。ですからヨセフが、過去を忘れてしまい現実に忠実であったことを見ても、素質がとても良かったということを知ることができます。
皆さんもいろいろな出来事を通して、自分の素質がどのようであるかを知ることができるのです。喜びや、寂しさを感じ、苦労をしてみることによって自分の素質を知らなければならないのです。
ほとんどの人は、環境が変わると夢をたくさん見るようになります。新しい家で眠っても夢を見るようになります。このことから、霊界が私たちに協助するということを知ることができます。時や場所が変わると霊界では心配して、もしかすると間違いが起こるのではないかと前もって知らせてくれます。霊界が常に私たちを覚え、担当して指導してくれるということを否認することができません。
皆さんが愛の実体であれば、霊界が担当しているのです。それゆえに皆さんは、父母の愛と兄弟の愛と霊界の先祖たちの協助を受けているのです。このようなすべてのことは、皆さんが復帰摂理に必要な人物になることを願って指導してくれるのだと見ることができます。
ヨセフは、性稟が良いのでパロの警護隊長だったポテパルの家に行ったとしても、彼の富と権勢をうらやましがりませんでした。特にヨセフは、夢を見たことに対する信仰が大変なものだったようです。すなわち、神の自分に対する期待とみ旨があると考えて、どのような逆境の中でも変わりませんでした。そのようなヨセフの信仰は、大変に立派だったのです。
ですから、ヨセフは無実の罪で獄中生活をしましたが、むしろ同僚たちから尊敬され、先生のような存在になったのです。ですからヨセフを通じて獄中で望みを得て出監した人もいましたし、ヨセフが語ったとおりに罰を受ける人もいましたが、彼の判断がずばずば的中したのです。
ところで、ある日パロ宮中の料理役の長と給仕役の長が入ってきました。ヨセフが彼らの夢を解いて予言しました。料理役の長は死刑を受け、給仕役の長は復職すると言い、パロ宮中に再び戻ったならば、あなたの夢を解いてあげた私のことを忘れないでほしいと頼みました。
果たせるかなヨセフの夢解きのとおりに成就されましたが、復職した給仕役の長はヨセフを忘れてしまいました。実に残念なことです。
世話になったことは覚え、世話したことは忘れる
今日、私たちも他人の世話になったことは忘れても、他人の手助けをしてあげたことは記憶しています。私たちは、このような思考方式を捨て、むしろこれとは反対にならなければなりません。
聖書にも他人に恵みを施すとき、右手がすることを左手が分からないようにしなさいとあります。私たちは、本当にそのようにしているのかと考えてみなければならないのです。
出エジプト当時、イスラエルの人々は、紅海を渡らせ、荒野でウズラとマナを降らせ、磐石から水を出した神の役事を忘れてしまいました。おなかがすくたびにエジプトで食べていた羊の肉のことを考え、エホバの神を不信するようになりました。神は、驚くべき奇跡を彼らと共になさったのに、彼らは不信しました。神の恵みを記憶して大切に思うことができなかったからです。
これは、当時のイスラエルの人にだけ該当することではなく、今日のだれにでも該当することです。言うなれば、幸いや貴いことは忘れてしまい、つらく、痛いことだけをもって不平不満を言うというのです。受ける愛の大きさとその過程の訓練によって生じる痛みとは比較ができません。ところが訓練のとき少し試練があるからといって今までの恵みをこぼしてしまうとすれば、その人はどれほどむなしいでしょうか。
生活の中でも、夫婦が共に生きるということは貴いことなのに、夫の月給が少ないと言って恥ずかしめ、軽々しくするならば、本当に貴い人を失うという失敗を犯すのです。小さいことでも血気にはやったり憎んだりしてはいけません。
ラケルとレアの場合も、夫や神との関係がどれほど重要だったでしょうか? 自分の子供をもつことができないからといってその関係を忘れてはいけないのです。幸いにもラケルがヤコブや神との関係が良く、神が夫と共になさるということを知っていました。
ハムの場合も言うまでもありませんでした。神が父ノアと共におられるということを洪水審判を通して知っており、それは酒に酔って裸になった事件とは比較にならなかったのです。しかし、自己中心的に考えたので失敗しました。
私たちも小さいことに関心をおき、執着して永遠なる価値を失ってしまうようなことがあってはなりません。ですから聖書には、朽ちるものを偶像視する群れ(ローマ第一章)ととがめられたのです。
今日、統一教会に入った私たちは原理を聞いて、死んでも恨みが残らないようにすることができるはずですが、皆さんはどうですか? 私が見る限りそうではないようです。原理を悟り、死んでも恨みがないという人が家庭的に祝福を受けることができるのです。祝福とは、家庭圏における神との最高に貴い約束です。歴史が始まって以来なかった神の家庭をいうのです。
ところが生活する中でその基準をみな忘れ、貧しさと試練に主管を受けるとするならば、神の心情はどうでしょうか? 夫婦はお互いに、私はあなたのために生き、あなたは私のために生きると約束したことを最後まで守らなければならないのです。互いに恨み合う関係に落ちてはいけないのです。自分がつらいからといって他人を恨むならば、つまらない感情やもののために永遠なる価値を投げ出す愚かしい人になることは明らかです。
マタイによる福音書第一九章で、一人の青年がイエス様のところに来て「私はどのような善なることをすれば永生を得るでしょうか?」と問いました。イエス様は「もしあなたが完全になりたいと思うなら帰ってあなたの所有を売って貧しい者たちに与えよ。そうすれば天に宝をもつようになるであろう。そして私に従いなさい」と語られました。しかし、青年は心配して立ち去ったと記録されているのを見れば、その青年は主を捨ててお金にすがったのです。人間はあまりにも無知なので神と永遠なる価値が分からず、すぐに朽ちてなくなるものだけを手に入れるというのです。
皆さんは、生命の道を捨てて死亡の道を選びたくないはずです。今日まで私たちの祖先たちはそのような過程を通ったとしても、私たちはそのような前轍を踏んではなりません。しかし、朽ちるものを貴重に思い、永遠なるものをつまらないもののように思う癖が、私たちの路程にもなくはないということを考えてみなければなりません。
解怨の道を勝利
ついにヨセフが獄中で善を行うこと十年余、三十歳の時、神はヨセフを救出する役事をされました。
ヨセフが監獄からパロの夢を解くために出ていきました。既に全国の魔術師や知者たちがパロの夢を解こうとしましたが駄目でした。最後に給仕役の長が忘れていたヨセフを思い出してパロに建言したのです。その間パロは、夢のゆえに悩み、眠ることができなかったのですがヨセフの明快な夢解きを聞き、直ちにヨセフを総理大臣に立てるほど喜びました。
総理大臣になったヨセフは七年の豊年の後に七年の凶年が来るので多くの糧穀を買い入れました。凶年の時に、ある事件を通してヤコブと兄弟たちをエジプトに呼び集めることによって、ヨセフの冤痛なる立場は終わりになります。兄弟たちと大きな声で痛哭する感激的な亨通の日が創世記第四五章に展開されています。糧穀を求めようとする兄弟に、私がまさしくヨセフであり、神が私をエジプトに送られたのであって、あなたたちが私を売ったのではないと語りました。まだ五年間の凶年が残っているから父母をお連れして全員エジプトへ入ってきなさいと語ります。
ヤコブの家族は、全部で七十名になりました。すなわち、レア自身の家族が三十三名、召使ジルパの家族が十六名、合わせて四十九名がレアの家族です。ラケル自身の家族が十四名、召使ビルハの家族が七名で全部で七十名がエジプトに入ってきました。
その後、ヤコブが十二人の息子たちをすべて祝福し(創世記第四九章)、ヨセフの息子たちであるエフライムとマナセを祝福します(同第四八章)。ヤコブの葬儀を行ったのちヨセフの死でもって創世記は終わります(同第五〇章)。
冤痛であったヨセフが解怨の道でもって勝利して亨通する日を迎えたというみ言です。