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ゲッティ
お口の健康は、全身の健康に影響します。「食べる」ことは、私たちの体と心の健康を維持するために大切なことであり、人としての尊厳を保ち、「健康長寿」につながります。ご自身の歯を守り、「かんで食べる」ことが、生涯にわたって健康を守る基本となります。
1989年から厚生省(当時)と日本歯科医師会は、「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動(ハチマルニマル運動)を進めてきました。20本以上の歯があれば、食生活にほぼ満足することができると言われているからです。
運動開始当初、80歳で20本以上の歯が残っている方は7%程度でしたが、2017年6月に厚生労働省が発表した「歯科疾患実態調査」(16年調査)では、51.2%となりました。日本人のお口の健康状態は、諸外国に比べても非常に良好になったと言えるでしょう。
仮に「8020」を達成できなかった方も、しっかりとかみ合い、きちんとかむことができる義歯(入れ歯)を装着して、お口の中の状態を良好に保つことで、20本あるのと同程度の効果が得られます。義歯を含めた歯で食べ物をしっかりかむことができれば、全身の栄養状態も良好になります。よくかむことで脳が活性化され、認知症のリスクが軽減するという調査結果も出ています。
一方で、高齢者の人口が増えるにつれて、歯が一本も残っていない無歯顎(むしがく)の人も増えています。無歯顎への対応としては、総義歯(総入れ歯)が使われてきました。総入れ歯は残っている歯にバネをかけて固定する部分入れ歯に比べると、安定性が悪く、不便を感じている方が多数います。
近年、インプラント治療が普及してきました。通常のインプラント治療では、なくなった歯があった部位のあごの骨にインプラント(金属のネジ)を埋め込み、人工の歯を固定します。インプラント治療は無歯顎の方にとって福音ではあります。しかし、加齢とともに骨がやせてくると、インプラントを埋め込めないことや、インプラントの本数が増えると治療費が高くなるなどの問題もありました。
インプラント治療には、もう一つ、ごく少数(通常2本程度)のインプラントを入れて取り外し式の総入れ歯の支えに利用するインプラントオーバーデンチャー(IOD)という方法があります。
IODのイメージ。前歯のあったあごに2本のインプラントを埋め込んで、取り外しのできる総入れ歯をネジでインプラントに固定する=宮崎さん提供なかなか安定しない総入れ歯
ある例をご紹介します。Aさん(82歳・男性)はIODによるインプラント治療を受けました。若い頃から歯が悪く、治療を繰り返しました。上あごの歯はどうにか入れ歯にならずに済んでいましたが、下あごの歯は、だんだんと抜かなくてはいけないことになり、50代で部分入れ歯を使い始めました。そして、とうとう65歳の時、最後の1本がなくなり、総入れ歯を使わなくてはならなくなりました。部分入れ歯とはすでに長い付き合いで、取り外しは煩雑ですが、慣れてしまえばおいしく何でも食べることができました。
しかし、総入れ歯になってからは今までのようにはいきませんでした。入れ歯が安定せず、満足にものが食べられなくなりました。さらにAさんを苦しめたのは、入れ歯の当たりどころによって不意に襲ってくる激痛でした。いくつもの歯科医院で入れ歯を作ってもらいましたが、極端にやせてしまった下あごに安定した入れ歯を作ることは難しく、Aさんは途方に暮れていました。
入れ歯の安定に有効
Aさんは67歳の時に、知人の勧めで受診した大学病院でIODによるインプラント治療を知り、手術を受けることにしました。2本のインプラントを総入れ歯の支えとすることで、入れ歯が安定し、痛みなく何でもおいしく食べることができるようになりました。
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3カ月に1度の定期的な受診は欠かせませんが、手術から15年たつ今でも不自由はありません。
手術後のエックス線写真。下あごの前方に2本のインプラントが入っている=宮崎さん提供
我が国の多くの高齢者が入れ歯を使用する中、下あごの総入れ歯に関しては、専門家が製作しても良好な安定を得られないことが多くあります。「入れ歯はやめて、たくさんのインプラントを入れて取り外しの必要ない歯を入れること」までは望まないが、「入れ歯のままでいいから、どうにかもう少ししっかりかむことができないか」という患者さんにとって、ごく少数のインプラントを取り外しのできる入れ歯の支台に利用するIODは最適な治療法の一つになるでしょう。
手術で埋め込まれた2本のインプラント=宮崎さん提供
従来の総入れ歯と比較したIODの利点として、
▽入れ歯の安定の向上
▽かむ能力の向上
▽食生活の改善による人生や生活の質(QOL)の向上
▽あごの骨の吸収防止
が挙げられます。下あごに歯が一本もない患者さんには、「2本のインプラントを利用したIODが治療の第一選択である」という国際的共同声明も出されています。日本においては、まだ一般的に普及した方法ではありませんが、IODがもっと知られるようになり、患者さんの治療の選択の幅が広がればよいと考えています。今後、日本の社会がさらに高齢化する中で、IODによって、取り外しのできる入れ歯でお困りの方が一人でも多く幸せになられればと考えております。
(宮崎隆・日本口腔インプラント学会前理事長)