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第三節 献金生活の生命化
(一) 真のお父様の万物観
今日、この地上に広がっている万物は、とてもかわいそうな立場にいることを、皆さんは知らなければなりません。神様の希望の中でつくられた万物だったのであり、神様があらゆる精誠をすべて込めてつくった万物でしたが、人間が堕落することによって、万物は、人間の代わりに贖罪の過程を経なければならなかったのであり、悲しく犠牲にならなければなりませんでした。人を祭物にして祭祀を捧げることはできないので、万物を祭物とし、犠牲の祭祀を捧げてきたというのです。(一六―二五九、一九六六・六・一九)
祭物とは何でしょうか。真なる人々の行く道を、開けてあげるためのものです。万物は、そのために犠牲になってきたというのです。このような観点から、「万物の日」を迎えた今日、万物がこの人類復帰運動に、そして再創造の歴史時代に、どれほど偉大な貢献をしたか、どれほど偉大なことを成したのかを知らなければなりません。時が来たならば、神様の代わりに愛の心をもって、万物をしっかりと握って、「お前は、どれほど苦労したか」と、泣いてあげられる心が流れてこなければなりません。
紙切れ一枚でも、これはすべて、歴史過程に私たちの祖先たちが血と汗を流して祭物を引き継いできた、一部分なのです。ですから、それを抱いて愛してあげることができなければなりません。
道端に落ちた紙切れも、何気なく通り過ぎることはできないという、主人の資格をもつ心情的主人の行動をするようになるとき、歴史的に犠牲になった祭物たちが皆さん一人を見て、「私たちの怨恨を解くことができ、神様の愛に接近できるように橋になってくれるので、ありがたい」と言うでしょう。そのような万物圏を周辺に迎えて生き得る皆さんにならなければなりません。そうなってこそ、祭物を犠牲にさせた私たちの祖先、数多くの宗教の犠牲の代価を有効に引き継ぎ得る、後代の相続者としての資格を備えられるということを、はっきりと知らなければなりません。(一六六―七二、一九八七・五・二八)
一九六〇年代、先生がたくさんのお金を使わなければならないとき、お金が一銭もありませんでした。だからといって、「お金がない」という話はしませんでした。「献金しなさい」という話もしませんでした。ひとえに神様に精誠を尽くしたのです。民族に恨が宿ることを心配し、「お父様、この民族をお赦しください。私が今後、受けるべき試練と苦痛は、これより数十倍残っていますが、私が受ける試練と苦痛は何でもありません。これからこの民族が、このような経済問題のために、世界に手を広げて物乞いをする乞食の立場になってはいけないではないですか」と言いながら、自分を同情する前に民族を同情する心で祈祷したのです。(三三―一七八、一九七〇・八・一一)
人が精誠を尽くしたものは、精誠で受けなければなりません。受ける人は、与えた人が精誠を尽くした以上の精誠を尽くし、その代価を払ったあとに受けなければなりません。先生自身も、いい加減には扱わないというのです。
その人が精誠を尽くし、千里の道も、万里の道も遠くないと思ってやってきて捧げたものなのに、あるいは一年間精誠を尽くして捧げたものなのに、因縁を結んだからといって、すぐにそれを食べることはできません。十ウォンのもののように扱うことはできず、百ウォンのもののように扱うことはできないのです。必ず祈祷し、それを食べるときは、その人の精誠を台無しにしないよう、神様の愛で祝福をしてあげてから食べなければなりません。
あなたたちは、そのようにしていますか。目をむいて「献金していない人はいないか」と考えていれば、それはただの物を願っているというのです。そのような群れになってはいけません。(六八―六九、一九七三・七・二三)
私は、お金をむやみに使いません。私は、月給をもらっていません。誰かが献金をすれば、お母様にも、手を出してはいけないと言います。それは、毒薬よりも恐ろしいものです。その人たちが、涙を流し、血と汗を流し、精誠を尽くしたものに対して、自分がそれ以上の精誠を捧げようとしています。このように、いつも負債を負わないようにしようとしています。(一七六―一二六、一九八八・五・三)
世界を動かすお金を稼ごうとすれば、世界の誰よりもたくさん精誠を捧げなければなりません。寝ても覚めても、ますます精誠を捧げなければなりません。ですから、私がお金を稼いでも、自分では使いません。それは、天のための公的な理念を中心として稼ぐものであり、天運に従い、天運が支える天の解怨と人類の解怨を成就するために稼ぐお金なので、それはいくらでも天が協助してくださるのです。ですから、「お金を下さい」と祈祷する必要はないのです。今まで私は、「お金を下さい」と祈祷したことはありません。一度もないというのです。天運が共にある、このような内容さえ備えておけば、栄えるようになっています。(一五八―二〇五、一九六七・一二・二七)
(二) 万物の願い
霊的に見れば、すべてのお金は不平を言っています。「私は、天のお金になる前に誰それのお金になるのは嫌だ」と言っているのです。ですから、天の前にお金を捧げて祭ればお金が解放されます。そのようにすれば、お金が「今まで、私たちを神様の前に連結させて祭祀をした人はいない」と言います。それで、レバレンド・ムーンが「おお、そうか。それでは、私たちのファンダレイジング・メンバーが、そのような祭祀に捧げるお金をそろえるために募金に行くので、彼らを待ちなさい」と言えば、「はい、待っています」と言うのです。
お金を集めに行くとき、誰が悪口を言っても絶対に逃げてはいけません。不平を言ってもいけないのです。それが祭物を準備する人たちの態度です。そして、すべて血を流さなければなりません。お金が血を流さなければならないのです。それを誰が流れるようにしてあげるのですか。私が流れるようにしてあげるのです。私たちが、流れるようにしてあげるのです。
それでは、この献金をどこから集めるのでしょうか。乞食からも集め、大統領夫人、僕、罪人、器量のいい人、ごみ箱を片づける人、ありとあらゆる人から集めます。それは何かといえば、全世界の悪いお金の中から、復活したお金として持ってくるというのです。その献金を私のものにすることはできません。祭祀を捧げる人は、一文でも手をつけてはいけないというのです。捧げたのちにこそ、所有が決定されるのです。献金とは何かといえば、世界のために、神様のために祭物として使うものです。
お金は、万物を身代わりするものなので、そのようにすることによって、すべての万物が嘆息することなく、天のみ国に行ける道が開かれるのです。それで、次第に天の側に分かれていくというのです。そうなれば、どのようなことが起こるのでしょうか。このお金を間違って使う家庭は、すぐに滅びてしまい、そのような国も、すぐに腐敗して、滅びの道を行くというのです。お金を間違って使えば、家庭が破壊し、あらゆることが起こってくるというのです。ですから、お金のために闘ってはいけません。(一二五―一八八、一九八三・三・二〇)
(三) 所有の決定
今日、すべての被造万物は、サタン圏内にいる、サタンの子女たちを通して主管を受けてきたので、サタンのものだという立場に置かれています。これをすべて、神様のものとして復帰させなければならないのです。復帰路程の原則的な基準から見るとき、万物はまず人類始祖のものにならなければなりません。もちろん、神様のものになるのは言うまでもありませんが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見るとき、人間始祖のものにならなければなりません。すなわち、堕落していない善の父母のものにならなければならないのです。(二三―三三〇、一九六九・六・一五)
私の体、私の心、私の理念、私の心情、このすべてのものは、私から始まったものは一つもありません。私自身を深く掘り下げて究明してみれば、先祖が連結されて出てくるようになり、この因縁に引かれて巻き込まれるような立場にいる私自身だということを考えるとき、自分をおろそかに考えてはいけないのです。
私自身は、私のもののようでありながら、私のものではありません。この民族の前には、民族のために送られた贈り物であり、家庭の前には、家庭のために送られた贈り物であり、夫婦においては、相対のために送られた贈り物であり、天地、全世界においては、各々それらのために送られた一つの贈り物だということを、皆さんは知らなければなりません。(八―一一、一九五九・一〇・二五)
私たちは、サタンのものになる前に神様のものにならなければなりません。それでは、統一教会は誰のものですか。これは先生のものですか。これは先生のものではなく、神様のものなので、これを「私のものだ」と言う人は、どろぼうです。神様のものになったあとに、アダムのものになるのが復帰です。ですから、皆さんは、すべてのものを神様に捧げなければなりません。昔、イエス様のところにパリサイ人たちが税に納めるお金を持ってきて、「これは誰のものか」と言った時、イエス様は、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ二二・二一)と言われました。
皆さんがもっているものは、誰のものですか。サタンの所有物なので、神様のものになるためには、物と人とが一つになって人の愛を受けるものにならなければなりません。そのようになってこそ、神様が主管するのです。本来は、堕落していない世界で、完成したアダムが、神様の愛を身代わりする主人になって愛してこそ、神様のものになるのです。
皆さんが知らなければならないことは、神様が愛し得る祭物に対して蕩減条件を立てなければならないということです。ですから、神様のものにするためには、この上なく愛さなければなりません。
皆さんの家庭であれば、家庭のすべてのものを代表して、私の家のものは神様のものであると考えなければなりません。この上なく愛してこそ、堕落しなかったアダムの主管圏内にある物と人間が一つになり、万物が、「死ぬとしても、主人の前で死のう」と言うのです。これが原則です。それでこそ、神様のものになるのであって、万物が「ああ、主人が私の首を切ろうとする」と言って、足で主人を蹴るようなことがあれば、それは祭物になれません。(七四―三二五、一九七五・一・一)
(四) 献金の意義と捧げる姿勢
夫婦が一つになれば、神様がその家庭に臨在されるようになります。また、父母と子女が一つになれば、その父子の間に神様が臨在されるのであり、また家庭を中心として氏族が一つになれば、そこに神様が臨在されるのです。主体と対象が一つになれば、その圏内が広がります。
そのような責任を、皆さんが漠然と知っていてはいけません。実質的な生活において、そのような関係を結ぶ心の姿勢と、生活の姿勢を備えなければなりません。そこで、結実として何かを完全に捧げなければならないのですが、それが献金です。(八二―二四五、一九七六・一・三一)
どの宗教でも、祭物のない宗教はありません。その祭物を過って捧げれば、必ずサタン世界、すなわち低級な霊界と連結されるのです。皆さんは献金をしますが、それは祭物の代わりです。それが私たち人間の生活では、礼物として現れるのです。(六五―三一二、一九七三・三・四)
私たち人間を中心として見てみるとき、体はサタンが主管していて、心は神様が主管しています。体は、いつも外的な土台としてサタンの足場になっていて、サタンの舞台になっています。ですから、祭物を捧げるということは、自分がこの外的な土台を犠牲にするのと同じです。希望をもって犠牲にし、神様を愛しながら犠牲にし、神様の生命を欽慕しながら犠牲にしたので、その犠牲にした物は、祭物ですが祭物ではないというのです。自分の体の延長と見るのです。
なぜですか。私たちの体というものは、万物によって受け継がれたものだからです。ですから、万物を祭物として捧げるということは、体を打つことと同じことになるのです。誰が打つのでしょうか。自分が自分を打って犠牲にするのです。
このような観点から考えてみるとき、サタンの血とサタンの愛とサタンの生命を打つ人は誰でしょうか。それは「私」なのです。その「私」とは誰でしょうか。堕落したアダムの立場です。サタンの生命とサタンの愛を受け継いだ私の体が生じたので、自分自身を誰が打たなければならないのですか。アダムが打たなければならないのですが、アダムの立場を身代わりする私自身が打つ立場に立とうというのです。それが祭物を犠牲にすることだということを、私たちは知らなければなりません。(四七―二八五、一九七一・八・三〇)
祭物は、精誠を尽くした物でなければなりません。祭物という物は、最も多くの精誠を尽くした物でなければならず、最も愛する物でなければなりません。それを惜しんではいけません。惜しめば、そっくりそのままサタン世界の物として残るのです。この世的な未練をもち、「これは私が必要だから駄目だ」という思いをもってはいけません。絶対にいけないというのです。何よりも愛している物を無慈悲に否定する立場に立ち、それを一度に除去する立場に立たなければ、神様に認められ、捧げられる祭物として現れることはできないのです。(四七―二八五、一九七一・八・三〇)
子供たちが聖日の朝に教会に行くとき、「お父さん、お母さん、献金、献金」と言えば、いくらかのお金をあげて、「おいおい、献金だ。日曜学校でこれを献金しなさい」と言っています。神様は乞食ですか。教会の牧師は乞食ですか。そのような牧師、そのような教会は滅びます。終わりの日に、すべて滅びるのです。自分の財産の核を捧げなければなりません。
天に捧げるものは、自分の金庫の一番奥の所に入れておくのです。ですから、捧げようと思えば、あらかじめ金庫を準備しておかなければなりません。収穫の秋になれば、すべて穀物を倉庫に入れるように、献金するお金や十分の一献金のお金を別に積んでおかなければなりません。自分が出せなければ、息子、娘や一家が一つになって精誠を捧げ、愛の心を込めて祭物として捧げなければならないのです。その村の誰よりも愛の心を加えて、それを祭物として捧げなければなりません。これを犠牲にすることによって自分が天の所有になる、このような姿勢で捧げてこそ、その献金を神様が受け取られるのです。(一六六―七〇、一九八七・五・二八)
精誠を尽くし、恩恵を受けていく代価として感謝献金をするのです。父母がポケットに入れておいたそのようなお金を、そのまま捧げることはできません。そのようなお金は天が願わないのです。自分で三日間以上身に付けて、聖別してから献金しなければなりません。(一六六―三一八、一九八七・六・一四)
小さな封筒を先生に捧げようとして、会うことができないので、トイレで待っていて、「先生、献金です」と言ってくる人がいます。献金しようとすれば、分からないようにしなければならないでしょう? またある人は、先生にネクタイを一つ買ってきて、先生に会うと、「いつ見ても、先生は、私が買ってあげたネクタイをしていませんね。どうしたのですか」と言う人もいたというのです。捧げればそれで十分であって、それを管理する責任まであるのですか。それが本当に「ために生きる」ことですか。それは自分が入っているというのです。(一九四―二六七、一九八九・一〇・二九)
どのように経済問題を解決してきたのでしょうか。信徒たちによって、信徒たちが自分の生活費をいくらか削り、捧げる、このようなことをして解決してきました。しかし、自分が使うところから、いくらかを献金して、それによって教会を支えるというのは、とても良いことのようですが、とても良くないことだと私は考えるのです。神様の前に捧げるものは、何よりも先に、自分の生活よりも先に捧げなければならないのに、その何パーセントを捧げるというその観念によって、自分の生活が主であり、神様が次の段階に立つようになることが常習化しやすくなるのです。神様が二番目になり、最後になってしまうというのです。(九六―一〇〇、一九七八・一・二)
祭物を捧げるときは、汚れていないものを捧げますか、使い古したものを捧げますか。清いものです。なぜそうしなければならないのでしょうか。サタン世界の汚れていないものを取ってこなければならないからです。天の世界の汚れていないものを、誰が奪っていきましたか。サタンが奪っていったのです。ですから、神様の前に精誠を尽くすとしても、汚れていないものをおいて精誠を尽くさなければなりません。そうしてこそ、神様と関係を結ぶのであって、使い古したもので精誠を尽くしてはいけません。
ですから、祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そのような息子は、祭物にはならないのです。一番良い息子でなければなりません。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。(四八―八四、一九七一・九・五)
十分の一献金は何かというと、「一」をもって「十」とみなすのです。もし皆さんが、父母の誕生祝いや還暦祝い、あるいは王の誕生日を迎えて祝賀してさしあげるために、牛を屠り、豚を屠り、あるものないものすべてつくって捧げたとき、その方たちがそれをすべて食べますか。食べません。受け取ることはすべて受け取りますが、すべてを食べることはできず、ほんの一部しか食べられません。しかし、このように少ししか召し上がらなくても、すべて召し上がったという条件が立てられるのです。
これと同じように、十分の一献金は、所有している物の十分の一を神様に捧げることによって全体を捧げる、という意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を、精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱えるようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。(三一―二三九、一九七〇・六・四)
皆さんが十分の一献金をするとき、精誠を尽くして十分の一献金をしてみてください。絶対に飢え死にしないというのです。その子孫が物に関して窮乏しないというのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を尽くすのです。それが信仰の本質です。適当にやればよいだろう、それは通じません。祭物は、自分の命の代わりに捧げるものです。ですから、一番貴いものを捧げなければならないのです。服を捧げるとき、自分が数百種類の服をもっていたとしても、その中で一番貴いものを捧げなければなりません。(六三―三三八、一九七二・一〇・二二)
統一教会では、十分の三献金をします。これは何でしょうか。地上で負債を負えば、それがそのまま霊界まで連結されます。それを解決するためには、早く負債を返さなければなりません。その負債を返すのを待ってあげる条件として、十分の三献金をしなさいというのです。負債は、いくら難しくても、それを清算しなければ自分が恥ずかしいのです。それは、実績においてゼロであり、マイナスになります。(二三八―九五、一九九二・一一・二一)
十分の三献金というものは何でしょうか。まずは教会のために、次には国のために、その次には世界のために使うものです。このように、教会と国と世界のために使うのが十分の三献金です。万民がすべてそのようにすることによって、飢餓状態で死んでいく二千万人の人を救済できるのです。(二三八―一〇二、一九九二・一一・二一)