+神をたたえよう。主・キリストは わたしたちに聖霊を約束された アレルヤ。
今日は復活節第5金曜日です。
今日も皆さまのご家族の上に、まことに復活されたイエス様と、聖母マリア様、すべての聖人たちの大いなる祝福がありますように!また、守護天使さんのお守りをお祈りいたします。
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ヨハネによる福音
<互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。>
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ 15・12−17)
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ジョン・サムヨン神父 様の黙想文<真の愛は「服」になってくれること>です。
私が一人の女性を愛する時も、先走りしたり無茶して台無しになった憶えがあります。一人の女性が好きになって、早く恋人関係になることを望んでいたのです。そうしたら、その女性が少し困った顔をしながらこう言いました。
「自然体がいいと思います。」
つまり、今の私の行動が自然体ではないということです。まだ準備ができていないのに、あまりにも速く私の速度で追い込んで行こうとしていたのです。ご飯も一緒に食べたし、映画も一緒に見てて、コーヒーも一緒に飲んだので、それで相手も自分のことを愛しているのだと勝手に思いこんだ時がありました。
しかし関係において、「自然体でないのが暴力」ということです。一部の人は、女性が会ってくれないということで、その家に押しかけて被害を与えたりします。まだ受け入れる準備ができていないのに、無理に自分の意のままにしようとすることが暴力的なのです。
今日の福音でイエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言っておられます。私たちの愛のモデルは、キリストであられる必要があるということです。キリストはご自分の意志のままにむやみに追い込んだりするお方ではありません。果たして、キリストは私たちをどんな形で愛されたのでしょうか。
アダムとエバが罪を犯し、自分たちの体が恥ずかしくなるといちじくの葉で自分たちを隠しました。しかし、それにしても、恥ずかしさが隠れ切れませんでした。だから木の後ろに隠れてたのです。これは人間の力でいくらもがき隠す努力をして見ても、神様のみ前で、正義に立つことができないことを言ってくれるのです。救いは、私たちの努力の力でできるものではないのです。自分で自らを救うために階段を積んだことがバベルの塔であります。しかし、ヤコブのはしごのように天から降る救いだけが私たちを生かすことができます。
神様はご自分のみ前で恥ずかしがったり恐れる人間をご自分の家に置いておくわけにはいきませんでした。善と悪を知るようになる実を食べると必ず死ぬとおっしゃったが、このように自分たちの罪のせいで神様のみ前で堂々とでることができなくなる状態がまさに「死」であるのです。
だから、彼らをご自分の家、エデンの園から追い出しながらも、神様は彼らを隠してくださるため「革の衣服」を作って着せられます。革の服は、ある動物の死を象徴したりもします。すなわち、イエス・キリストの死で、私たちの恥が遮られなければ、私たちは神さまを対面することができないということを象徴するものです。
「神の子、小羊」であるイエス様は、同様に、御父のみ旨に沿ってご自分の皮で、私たちを覆ってくださるために来られました。イスラエルの民が子羊を屠ってその肉は食べ、その血で自分たちの家を赤くして、死の天使が自分の家に害を及ぼさないようにし過ぎ越すようにしたものです。神の小羊の犠牲を被った家は死の天使が一つも害することなく越したとして、それを「過越、パスカ」と言い、これが「ミサ」につながったのです。キリストの御体を食べて、その方を服着として着る人々だけが、神様に会う準備になるのです。まるでヤコブが自分の体に毛革を巻いて、エサウが受けるべきだった祝福を受けられたのと同じことです。
そうです。愛は強制的に相手を自分のボディに合わせるようにするのではなく、「自分が死んで」相手の体に合わせるべきです。キリストは御父のみ旨に従って、私たちの体に合わせられたように、私たちもまた、キリストの命令によって、私たち自身を隣人の体に合わせる必要があります。キリストの愛は、このように、私たちの体の服になって、隣人があなたがたの代わりに祝福を受けるようにすることです。
時には人を強制的に引っ張って、私たちに合わせようとするのが「愛」であると思うった時もあります。しかし、それは「愛」ではありません。「愛」は私たちが「隣人の服」になってあげることです。私たちは誰かを自分の服にしようとしているか、あるいはまことに私たち自分が誰かの服になってやろうとしているか、考えなければなりません。