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《충주발전사, 이 영 著. 1933년》에서 명승고적과 임진왜란 부분, 원문과 번역문을 올립니다.
p131~ p150.
내용중에는 부정확한 내용이 눈에 띄입니다. 이는 일일이 손을 보고 고쳐야 했으나 가급적 원문에 손을 대지 않고 그대로 두고 의견을 달 예정입니다. 이 책의 성격이 일본어로 쓰이고 일본어 독자를 의식한 것이고 당대의 한계를 보여줌에는 틀림없습니다.
이런 여러가지가 지금 보는 사람들을 불편하게 하는데 그대로 노출시킵니다.
편의상 제목을 《충주의 명승고적(名勝古跡)과 임진왜란(壬辰倭亂)》으로 잡았습니다.
뒤에 임석재전집(任晳宰全集)『한국구전설화(韓國口傳說話』 와 『한국구비문학대계』에서 《계명산》과 《신립장군》전설을 소개하였습니다. 예전에 쓴 것인데 의견을 달았습니다.
<원문>
p131
第廿二章 名勝舊蹟
○忠烈祠碑
忠烈祠碑は忠州西方一里丹月里にあり此碑は全鮮九個所の內其一と稱し李朝正宗十五年、寛政三年、淸乾隆五十六年西曆一七九一年に建設せられ林慶業將軍を祀る碑なり林慶業は李朝第十六代仁祖王の時我國の後水尾天皇の御代元和年間に丹月里に生誕(一説には江原道原州郡彌勒山下に生れ幼時丹月里に移居せしとあり)幼時より隣里の群童を集め戰陣の遊を最も樂しとし常に群童よく之に從ふ成長の後は武官となり仁祖王に仕へたり此時隣邦には淸の始祖たる。愛新覺羅が滿洲に於て起り明國を擊破し一方朝鮮に侵入して降伏せしたり然れ共時の朝鮮の朝野は表面屈服の色を示居たるも內面に於ては屈せず暗に明國を援助して機會あらば淸を討たんと心懸け明國を援助せんとしは文祿役に明が朝鮮に援兵を
送つた恩德に報いんが爲なりと淸は明を攻擊せんとして朝鮮に兵を請ひたるに朝鮮にては已むを得ず林慶業將軍を遣はすこととす林將軍は密使を明に送つて其旨を通告し明兵と交戰の際は彼は常に去丸放銃して明と戰はす淸將之を開發見して林將軍を縛し淸王の下に送りしに林將軍は淸に屈する色なく數年後淸人も其忠義に感服し林を朝鮮に歸還せしめたり、歸國するや奸輩誣告の罪に依り獄に投ぜられたるが遂に獄中に於て死亡す其後數年の後忠臣なりし
p132
事判明すると同時に其の忠義の高さを感じ本祠に祀れるに至れりと謂ふ。
○法鏡大師碑
此碑は忠州を距ること約四里東方の東良面荷川里開天山の麓開天寺(淨土寺とも記しあり)跡にある。法鏡大師慈燈碑にして高麗太祖二十六年、我國の天慶六年後晉の天福八年。西曆九百四十三年に建設せられたるものにして其由來詳ならずと雖も要するに當時の高僧たる法鏡大師の功德を稱讚し永く後世に傳へんと欲し建設せられたるものと謂ふ尙同所には弘法大師の實相塔ありたるも大正四年十月國寶として京城景福宮內に移轉せられたり。
○釋迦像
釋迦像は現在本派本願寺忠州布敎所境內に安置しあり此像は元忠州邑東南六町の圃中にありしもと云ふ鐵造座像にして高さ三尺二寸五分乾隆三十五年の藥殿院修記には寺の創立は唐貞觀七年とあれごも此像は之れより後に出來たるものならんと云ふ此像は一名狂佛と稱す其由來を釋めるに或
p133
特志家が此佛像を雨露に晒すを遺憾とし堂宇建設したるに直に其堂宇は火炎に罹り其後佛前に香花を供すれば惡疾流行すとの流言を放ちたるが爲狂佛の名稱起りたるものの如し。
○中央塔
中央塔は北方一里二十四町可金面塔坪里(建設當時はい塔亭里にあり)此塔は今より千百四十五年前新羅朝の元聖十二年我國桓武天皇の御宇に建設せられ新羅の中央を示したる塔なり、此塔は當時同一健脚者を選んで南北に派遣し同時に出發せしめて此地で相會したるため中央塔と稱するに至れりと云ふ又一説には忠州に王氣あるを察して之を抑壓慰撫せんが爲め寺院を建て此塔を建設せしものなりとも云ふ塔は十二重の大理石造りにして古代藝術の粹を爲すものなり。
○南山城
南山は忠州東南に位する海拔標高六百三十餘米の高地にして今より約百三十年前までは錦鳳山と稱し山中には竹寺と蒼龍寺の二個寺あり竹寺には周圍に多くの竹林があり此竹林の竹實を含み雌雄
p134
一組の最も美しい錦の如き鳳凰巢を造つて棲みたりとて錦鳳山と稱し來りたるも竹寺は百二十幾年前に忠州邑に移築せられ營署となり周圍の竹林は伐採せられたるにより幾百年住み來りたる錦鳳も何所へか去れりと云ふ其後南山と改稱し蒼龍寺は今尙現存せられて境內に有名たる樂水湧出し夏季は來參者多し、南山上にある城壁は今より約一千四百五十五年前高句麗長壽王時代我國の雄略天皇の御代に築城せられたものにして當時國城と稱し來りたるを新羅新興王十一年が高句麗の勢力衰へ新羅の勢力範圍となるや直に城名を國原府築城を改築し城壁に蓮花を彫刻したる後此名を有す。一時は鎭營、監司、監營又は觀察府の有りし所と云ふ。
○鷄足山
鷄足山は忠州の稍々東北に位し標高七百七十五米と云ふ傳説に依れば昔は梧桐山と呼び梧桐繁茂して多くの百足棲息せりと云ふも新羅時代に南山城主たりし王族が藥城內館(內館とは今の普通學校の位置を云ひ婦人の住家と云ふ)に往復途中百足(蜈蚣)に危害を加へられ數日步行不絶と云ふ苦痛を感じ遂に百足退治の命あり附近住民は數日間退治從事したが絶滅を期する事を得ず梧桐
p135
山神を祀りたるに週日後夢の如く童顔白髪の老僧現はれ百足退治は人間力にて及ぶ所にあらず鷄を以てすれば立ち所に絶滅するとの一言全發して何所ともなく立ち去りたり住民は之ぞ神の使者ならんと直に數百の鷄を山中に放ちたる所數日ならずして百足の影を淚したるより其後百足の再來を虞れて此山中には常に鷄の跡が絶へずと云ふ附會より鷄足山と命名し今日に至たりと云ふ。
彈琴臺
彈琴臺は忠州を離る事三十町西北方南漢江と達川の合流點に海鼠の寢で居る樣な形の標高二百米突と云ふ山と云ふより寧ろ岳である、此岳こそは彈琴臺である。此山の有名になつたのは文祿の役に小西行長將軍に對し朝鮮勇將申砬が部下八千を以て背水の陣を敷き惡戰苦闘したる古戰場であるからである、昔忠州が高句麗の勢力範圍であつた頃南鮮より、(都城)(京城)に通ずる中央道即ち本道が此山の麓にあつて達川南漢江は共に水淸ければ深く舟筏の便なくば涉ることの出氣ないと云ふ難關所で當時此所の番人は相當權威を振つたそうで世人は番犬の居る關門山と稱するに至り遂に、犬門山と云ふ様になつた後、新羅第二十四代興王御代には高句麗の勢力衰へ新羅の勢力範圍となるや
p136
犬門山は俄に大門山と改稱せらるゝに至り今日日本名を大門山と云つて居る、彈琴臺とは我國の紀元千三百七十五年欽明天皇の御代今から千二百十五年前南朝鮮任那(別名伽倻國)には種種の琴を造つて伽倻琴と稱した之を彈ずること最も巧にして伽倻國第一人と讚へらるゝ于勒と稱する樂師が居たが嘉悉王の時に伽倻が將に亡びんとする事を豫知し樂器を抱へて新羅に歸化した。時の眞興王大いに之を愛して干勒の居所を忠州に定められ聖和、階古、萬德の三名を選拔して聖和には琴を階古には伽倻琴を萬德には歌舞の修習をなさしめられたので干勒は忠州に永住し餘暇あれば常に大門山に來て漢江の水面より百尺絕壁の風景を好み山頂の名石に座して琴を彈じ居たりと云ふ當時大門山附近には住む人稀であつたが干勒の彈ずる琴の音の妙なる調べをきき群り居を構へ住むものの數を加へ山麓の部落は琴を彈ずる臺の膝下にあるの故を以て膝琴里(今は柒琴里)と東方にある部落を琴腦里(現今は金陵里)西方部落を聽琴里(別名琴亭里とも稱す)と稱する部落が出現するに至り大門山を何時の間にか彈琴臺と云ひ馴らされたものである。
p137
文祿の役(壬辰倭亂)
尚ほ文祿の役については忠州郡庶務主任南外七君のお話を披露すれば左の通りであるが彈琴臺の名所なる所以實に有り々々である。
文祿の役は今より三百三十八年前我國の紀元二千二百五十二年後陽成天皇の御代豐公の命に依り水陸九軍帆船數百艘分乘して豐崎管發し濤を冒して進み文祿元年四月十三日未明第一陣たる小西行長の軍は釜山に上陸直に釜山城を攻擊せしに守將鄭撥は絶影島に出獵し不在中のことであつた鄭撥警を聞きて馳せ還りしを生擒にし斬首八千捕虜數百を得同日進んで東萊城を拔きて斬首三十捕虜數百人を得たりと云ふ小西の軍勢愈々振ひ翌日より梁山、密陽、大邱、仁同、尙州の各城に於て連戰連勝同月二十六日午頃咸昌を通過進軍中聞慶城には守將自ら城內に火を放ちて逃れたる者火焰を見つゝ酉の刻に聞慶城に到着、同夜は聞慶城外にて露營をなし露營中小西行長は側近の士宗義智、松浦鎭信、有馬義純、大村新八郎等を集め翌日よりの作戰就て次の軍議を凝したり。
大長小西行長曰く聞慶北方一里を過れば鳥嶺と稱する城あり眞に天險なり一夫關に當れば萬夫も
p138
聞く能はずと云ふ防禦には頗る好適地ありと聞く朝鮮軍も又必らず此處に陣するあらんと又朝鮮軍の過半は騎馬にして鳥嶺に於ては谷間の道路以外には進路なしと聞く依て明日地の進軍如何にせんやと諮りしに一同は斯の如き天險の要害に於て殊に敵軍の主力騎馬たる以上輕卒に谷間を進むは不利馬足の利用出來ざる高地陵線を利用して進軍するを有利なりとの意見一致し其夜は陣營に夢を結べり翌二十七日拂曉陣營發し小西は敵情搜索の爲二組の搜兵を開慶忠州道上に出し鳥嶺第一關門附近に派遣した然るに間もなく兩搜兵共鳥嶺第一關門附近には敵影を見ずとの報告を濟ました小西は搜兵の搜査を怪み更に附近の士に命じて第三の搜兵を差遺して再搜査なさしめしも矢張以前同樣隻影もなく嶺上には鳥鵲の聲も瀨りに聞え靑空には鳶が輪を描いて居るとの報告に接した此の時小西行長は陣頭に進み出で遙かに鳥嶺を眺むれば磐石感を擇へて峙ち老樹雲を拔きて聳へ寔に天險無比の地更に石を疊ねて谷口を塞ぐ關門あるを視る小西は輕卒を先行せしめて固く山谷を踏査せしめしも敵兵愈なし行西笑ふて曰く朝鮮の兵は我軍の勢に恐れて此所に要せず吾其能く爲す莫きを知るなりと一稿交へず五里と稱する鳥嶺の險を踰へて二十七日辰の刻(午前八時頃)其先頭が安堡里(今の溫泉里)に進出するを得た然し鳥嶺の險を棄てた朝鮮軍の情況を知らんが爲め小西は先づ安堡里谷間に於て集結をなすと共に敵事情察を怠らざりし朝鮮軍に於ては四月十三日小西軍釜山に上陸し釜
p139
山城の陷落せし敗報は四月十六日深夜都城(京城)に達し時の都城は柱渡憤怒と恐怖に襲はれ直に大臣及備邊司堂上賓廳に會し對を議ふ上許さずとあり(備邊司は軍部の會議所、堂上は原任大臣及時の大臣にして堂上大臣の軍務を知る者を以つて之を兼任せしむとあり或は我參謀本部の如きもの)
議ふ上許さずとあるは宣祖王は日本軍の連戰連勝に膽を奪はれ給ひ蒙塵の志牢固として拔くべからず己に其御支度中なりしを以つて大臣等に拜調を許し給はなかつたとの事である大臣は己む得ず伏請して李鎰を巡邊使となし中路を、成應一を左防禦使として東路を趙救を右防禦使として西路を下らしめ劉克良を助防將として竹嶺を邊境に鳥嶺を守らしむるなご又兵曹(陸軍省)は逸に選兵案を立て募集するに決せりと云ふ時の兵曹判書(軍務大臣)柳成龍は徵兵に努力せしも閻閭、白徒胥吏、儒生等多く募兵照檢に臨むや儒生は冠を具し試卷を持ち吏は平頂巾を載く而して自ら憩へて兵役を免せられんことを求むる者庭に滿ちて遣すべき者なし斯くすること二三日に及ぶも日々に接授するは南方よりの敗報のみ、茲に於て柳成龍は策を申碇に問へり申碇來りて敵兵己に曰く密陽を過ぎて將に嶺下に來らんとす先行したる李も孤軍に陷るならん此の際逸に猛將を馳せて後援せしむべし云々と暗に自ら體察使として南下せんものと色を示せり此時柳成龍は笑つて曰く公の言甚た是なるも赴
p140
くべき將無きを奈何せんと粒は此に應じて曰く國事方に急なり誰か赴く者からんと糺せば成龍は
申粒に對し公は許國の忠人の及ぶ可からざるなりと談じ自ら赴かんとする色を示せり茲に於て柳成
龍は第十四代宣祖王に謁し其の旨を奏したる處宣祖王大に嘉し給ひ直に申を御前に召し給ひ巡邊使
に任じ同時に寶劍及冠を賜へり宜く李鎰以下命を用ひざる者ある時は此の寶劍にて之を切れよ而し
て來襲の敵を逸に擊退せしむべしと申謹んで命を奉じ意氣揚々御前を退出し直に募兵に當り三日間
に及ぶも都城附近には應募者なし南方よりは日々に敗報來る都城は益々震動し早や遷都の議を起こす
ものあるを聞き申は斯くの如く遲延するは徒に都を危ふするのみ、逸に吾人の目的地に向はんと樞
府に入れば庭中に金應南等應募者の簇るを見金應南をして成龍に對し此の如き者は公が率ひ去るも
何の色をか爲さんや願はくば小官の副使となして行かんとせば成龍は申が武士の己に従はざるを
恐れるを知り笑つて曰く同じく國事なれば彼此分たんや公の出陣は急を要するなり故に吾が募りし
軍官は先づ率ひ去れよ吾は別に募つて伴ひ行くべしとして軍官名簿を申に授くれば申庭中を顧みて汝
等我に隨つて來れと命じ此を率ひて出づ該武士皆憮然として去る金應南も亦同じく去る而も意甚だ
樂まず云々と。
p141
申砬都城發せんとするや宣祖王謁を賜ひ宜はく敵勢猛進し來ると聞く、卿此の敵を料り其れ當
るべきやと、粒舊く敵は兵を知らず豈孤單深入して敗れざる者あらんやと奉答すれば王は本兵最も
適し難しと邊將常に日ふ卿何ぞ之を言ふ事易きやと宣ふ、粒旣に辭し出で實廳に詣で將に階を下ら
んとするや頭上の紗帽忽ち地に落つ、見る者色を失す人或は其心己に亂れたるにあらずやもの疑ふ
とあり斯くにして申砬は僅かの從者を率ひ都城發し出陣に決し中央道を南進して忠清道至れば住
民喜ぶ募兵せば立ち所之應じ約八千人と過牛の馬を得る至るを以て更に進んで鳥嶺に陣し小西
軍を激擊せんものと進出し全軍を率ひて鳥嶺の最高地に達し申砬は馬より下り樹木陰に腰を下し
て少時休息をなしたりし時に尙州城は破れ守將李鎰死せりと敗報に接し(或一説には李鎰退き
て鳥嶺を守らんとせしも申砬忠州在るを聞き遂に忠州去る云々)申砬勇氣衰ふと共に部下將
卒の顔には李鎰の敗報を聞き以來處なく士氣沮喪の色が漂へるを感じた申砬尙考ふるに鳥嶺は
天險要塞防禦に好陣地なるも此の地陣する時は半復たる山路響を並べて進軍能はず決戰如何なる
も計り難し今日三十明日五十の小軍に日を費し一進一退遂に持久戰入るは必然なり然る時は日本
軍は訓練ある精銳其上遠く海を隔て死を賭して遠征にして釜山城以北の各城は連戰連勝破竹の勢
を以て抜き來れる者なれば士卒彌が上にも勢擧り全土を覆すを一念として他を顧みず然るに我軍の
p142
兵は訓練なきのみならず多くは鄉土よりの應募者なるを以て後方勤務者は自然鄉土を愛し實家に殘
置の父母妻子を慕小者、又是等の者重病危篤死去等の悲報に接すれば歸鄉を願ひ出づる者或は此等
の爲め逃亡者를出すの慮あり斯る時は決戰交へずして敗報の已むなきに至るべし又我軍の過半は騎
馬日本軍の多くは徒歩兵なるを以て山地の戰闘は不利なり之に反して忠州彈琴臺は西に達川北に漢
江連續して共に水深數十尺に及べるを以て舟筏の便なくば渡涉不可能なり又臺の西南地區の一帶は
深田にして徒歩兵と雖も步行困難なり、其上に鳳上川の障礙あるに依り此地に陣する時は部下の掌
握容易なるのみならず東南忠州平野は徒步の日本軍に我軍の馬足を以て對戰せば勝算必然の地なり
と決する處あり直に部下に號令發して出發することゝせり騎士は鞍の上り步する者は武器を正し
く持したりと。
此の時童顔白髮の老僧出て怖るゝ色もなく申粒の馬前に進み出で沈痛なる語調を以て將軍貴下は
何處まで軍引回へさんとするか所謂一夫關に當れば萬夫も開く能はずと云ふべき天險は此地を除
きて地なし此地こそ比ひなき好陣地なるべし勝を誇る倭軍が押し寄すとも地の利により奇兵を放つ
て戰はば彼れを粉齏する事易々たるものなるべし將軍此の地を退いて何處へ行かんとするかと請小
p143
るが如く嚴策すれば申砬は靜かに老僧の語るを聽き餘ろに無言のまゝ左右を顧みて全軍將士の意氣
を觀察したるに氣勢銷沈し生氣のぞしきを感じ得し其の眼老僧に廻らしたる老僧の燃ゆるが如き
兩眼は爛々として輝き居たり、申砬は少時眼を閉ぢて沈思稍久ふしたりしたが再び開きて徐ろに老僧
に曰く貴僧の御注意は感謝す然れども申砬は別に考ふる所あり直に忠州彈琴臺に退き敵と一戰試
むんとす背水の陣を布きて敵を破りし韓信の故事に慣はん老僧は憮然として強ひて諫止するに由なし
申砬は鞭を上げて行進を命す八千餘騎の兵は鳥嶺を踰えて彈琴臺に至る、彈琴臺に着するや五隊に
區分して配備をなし背水の陣を布きたり又一説には鳥嶺を捨てたるにつき次の如き傳説あり。
俗說聞女鬼鬼聲。移陣千忠州彈琴臺云々立旗岩名、至今遺傳とあり、後日。明の時李如松は鳥嶺
の姑母城を過ぎて嘆じて曰く險あること此の如し而して守ることを知らず何ぞ申將軍の無謀なりし
やと嘆息措かずと又文人黃綠先生が彈琴臺に至り嘆じて左の一詩を賦す。
東風東望彈琴臺、戰地愁雲鬱未開、天地無功君背水、江山有恨客含盃、漁村暮帆忠州入、海成春
烽島嶺來、落日不見申壯士、平沙漠々白鷗廻。
安堡里(今の水安堡)に於ける小西軍は彼天險無比なる鳥嶺の險を捨てたる朝鮮軍の情況を探知
せんものと苦心中運よくも忠州方面より歸來の住民の言に依りて申軍の作戰企圖配備せし陣地陣形
p144
忠州附近的地形等詳細に知り得たるに依り行長大いに喜び敵兵過半が騎兵との上は馬足自由ならざ
る方面丹月驛より主力を向け一部を以て速に本道上より忠州北端に進出該地を領して揚次するに決
し宗義智に一部を附して本道上を忠州北端に差遣し行長は主力を率ひて陣頭に立ち歸來の住民を案
內者として岩石雜然たる達川に沿ふ難路を丹月驛に向ひて進軍を始めしは辰の刻を過ぎたりと本道
を進みし宗軍午の刻忠州北端に現出せしに此時申砬彈琴臺上に馳せ登り臨みて曰く倭軍は愈々我術
中に陷入りたり之にて我軍の勝算必然なり倭軍臺下に攻め來る頃全軍出擊に轉ずる時は大部分は我
軍馬足の蹂躙に任せん何等の武器を用ひずして敗滅に陷るべしと豪語し部下の志氣を鼓舞し居たり
と云ふ部下また丹月方面よりの主力の來襲には夢想もせざりしため氣付かず何故忠州方面の倭軍來
らずやと將卒共に專心忠州方面に意を傾注し居ること數時なりし此の時丹月驛(彈琴臺南方一里)
に主力の集結を了し萬端の準備を整へたる小西の軍勢は落照西に燃ゆるが如き夕景色に山も何かも
人もし朱に塗られたる頃法螺貝の聲緩く重く繼續して響き殺氣野山に橫溢天江次第に褪せて薄紫
となり聽て黃昏達川に沿ひて追軍す此の時申軍第一線右翼部隊の兵此れティ發見して申砬に報ずれば
將軍再び臺上に勇躍し眺めて曰く倭軍進路を誤り我本陣を知らずして進み來れるものなれば何ぞ恐
るゝに足らん今に見よ鳳方川附近全來らば涉るに橋なく進むに道なく進路の誤れるを知り切齒して
p145
我が降伏を誓ふべしと見よ彼等手にする武力は五尺に足らざる黒色の棒狀の如きものなり多分槍と
信す槍にては我陣地に對し投するに近よらず突く事も不可能なり之に反して我軍過半の武器は弓矢
にして此の臺上より臺下に對する矢の効力は壓然たり然るに小西軍漸次接近し來りて鳳方川左岸
地區に達し陣形を取り射擊に移らんとした此の陣形を臺上より見たる申砬將軍は笑つて曰く見よ我
將卒よ倭軍愈々進むに道なく退けば我軍弓矢の標的となるを覺り跪きて我に降伏を誓ひつゝあるに
あらずやと豪語の言葉未だざるに前面に黑煙張り異樣の音響轟きて飛び來る彈丸に流血淋漓悲鳴
と共に斃るもの簇出せり此の普響に驚きて飛び出さんとする軍馬谷間に秘する主力のざよめきを見
たる申砬將軍日本軍の所持せる銃器を專ら刀槍と誤認せしは天命盡きたる所なり吾人の運命あれ迄
だと部下の斃るる際に冠地に落つるを見俄に不吉の豫感に胸騷ぎたりそ實廳に於て將に階を下ら
んとする時頭上の紗帽地に落ちたるを奇しき緣ならんと深く思ふところありたるも口外せず誓ひ默
考したりしに部下は今にも出擊命令下らん懸命に敵彈避るべき進路を作りつゝあり忠州北端より
宗軍も漸次迫るを見て申砬劍を按じて馬に鞭ち自ら戰わんと叫嗟に下す進軍の令に八千の全軍皆一
時に振り起こち鯨波を作つて小西軍主力に向つて幕地に突進、臺腹下る時飛來る敵彈に驛者は射落さ
れて逃廻る馬擊たれて斃れるなど味方の踏に爛られて擧げる悲鳴なざ恰も修羅の卷と變じ須ち八千
p146
の大軍雜然として進退に窮し將卒深田に陷る。
斯る所過牛(達川右岸の一隊)より小西軍の一隊吶喊の聲天地を震はし臺上目懸て攀登る正面の小
西軍亦曳々の聲發して攻め擊たん鳳方川渡濟す相擊つ聲は硝煙の中に頻々たり、申將軍吾人の
運命是迄だと我死すべき所こそ來れり空しく敵刀に斃れんより自ら處決せんものと干勒の現今を彈
せし絶壁千仞の個所に幕進此地より水深知らざる漢江に飛込みたり續いて飛び込むもの無量一千七
百と云ふ(彈琴臺戰客觀記には萬雷一時に轟くが如くとあり此地に於ける始めての銃聲には如何に
住民が驚きしかを窺ふに足る)續いて起る叫聲煥聲一時は山野に滿ちて物凄く勝に乗じて酷く追ひ
迫る小西の軍勢猛然として包み擊ち喚き戯ふ鮮軍を大刀を揮ふて首を祈りしは三千餘騎捕虜數百と
稱し殘軍潰滅し斯くして彈琴臺は小西行長の占領する所となれり。
* * * *
江に投身したる申砬は息尙絶えずして數町下流(今は可金面倉洞)左岸岩壁に這ひ上り右手食指を
噛み剪り臨終の像を畫きて再び江に渡せりと云ふ、岩壁には今尙肖像ありて赤色たるを世人之れ申砬の血痕と稱して追慕の念今尙去らず時折草花を手向ある者あり。
申砬の旣に南下せるや都人は日に捷報の來れるを待ちて四月二十九日午後六つの時氈笠三人馬を
p147
馳せて崇仁門より城內に入る城內の人爭ふて申軍の消息を問ふ答へて曰く巡邊使運官の申砬は忠州
彈琴臺於て敗戰し部下は潰滅申砬は遂に江投じ死す吾等は單身を逃れて來る家人にて報じ
て逃避の策を講しめんと欲する者なりと都人大に驚き過ごぐる所傳へて相告げ相語りて時間を移さずし
て滿城直に震ふ初夜の頃宣祖王は諸大臣を召して車駕西巡即ち遷都蒙塵の計を議せしめられ泣くも
の募ふもの慘然其の極に達し遂に三十日午前三時京城出發車駕西巡に決定云々と文祿の役中彈琴臺
の戰闘は最も朝鮮軍の打撃を蒙りたる戰闘はなかりしと聞く。
加藤清正は遂に二十八日忠州に着し本戰闘に参加せずと雖も其の夜小西行長會して爭論百出し
內地出發に當り豐臣氏は兩氏彼地に至れば互に先鋒を取れとの示達に對し貴公は今日迄連日の先鋒
を以て進まれ捕者に一回の先鋒を興へざりしに依り都城を攻むる先鋒は捕者に讓られたしと談ずれ
ば行長驚きて答ふ其は貴公鮮地へ上陸の遲延に依るものにあらずや戰は刻一刻を爭ふもの我軍貴公
の上陸を待ち徒に時日の遲延する時は今日あるや否やを疑ふものなり然るに唯今の言聞き捨てな
らずと立腹すれば清正又熟す激論破れて雙方將に刃を以て爭はんとの氣勢を表す時に加藤軍從軍
の鍋島直茂立つて兩將に告ぐ今日迄の戰勝に依つて豐公の目的を達成したるものにあらず未だ都城
には大軍ありと聞く唯今の爭論大軍を控へて武將として最も愼むべき事にあらずや之より都城に
p148
は兩道ありと聞く兩將和合して先鋒取られては如何と告ぐれば兩將互に折合ふ直茂の語更に續く此
兩道中西南道は平易なるも道遠し北方道は道近しと雖も漢江に沿へるを以て峻險なり何れ選はるゝ
やと談ずれば清正曰く捕者の部下は小西の如き弱輩は一人もなし至極健體健脚の士たるにより道峻
險なるも進軍路を選ぶと自ら定めて兩軍其の夜は忠州西方臺上に於て幕營の夢を結び翌二十九日
忠州發都城に向ひたりと云ふ。
無常
私一人が斯く迄なるには相當恩人もあるであらふが、今は皆分散風を負ふて何處に行つたであ
らふ乎。無常の嵐とは云ふ。吹き寢ぶ嵐そのものも程がなければならね。
(舊稿の中より)
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○丹月臺
丹月臺は忠州邑を離れる南方一里の地にあり、忠清北海道報恩俗離山より源發したる達川江の沿
岸にして三南に通じたる一等道路の邊に凡そ三層の山岳形を以つて成れる石臺が丹月臺それである
今古老の説に依れば昔は其の石臺の上に一庵の寺刹がありてそれを達岩寺と呼んでゐたとは云ふも
のの今では其の形跡をさへも辨じ難い。
此の達岩寺は朝鮮の勇將林慶業が幼少の頃村童を指揮して軍事敎練をなす時、其の軍律の烈然た
るは旣に當時の人をして肅々兎置の感を深うせしめたりと云ふ。今此の林將軍に絡る一插話を縮い
てみると、或る日の事林將軍は何時もの如く村童を集めて點檢を爲した所一人の村童が來てゐなか
つたと云ふ、仍つて林將軍は人使はして之れを捉へ來たり、其の軍紀に背したる罪を糾彈して終
に重刑を課したので群がりし村童等は益々其の指揮には無一言。無一句のまゝで服從してゐたと言
ふ、達岩寺は其の當時此の鼻雄が武を練り劍を磨いた地であると云ふ。
然るに此の山名は俗在大林山と稱してゐるが其の山たるや江に沿ひたる絶壁は險又咀、碧流は橫
下して時に鷗は雲を蹴つて飛ぶ。
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當時つ忠州は軍事上の要地であつただけに地理上此の地だけは特に咽喉視されてゐた事が推測される、見よ、壬辰の役に於いて加藤、小西兩軍が鳥嶺なる難險を越へて此處大林山下に會商して軍を兩路に分ち申軍を彈琴臺に迫りて左右を挾擊したので王城も玆に漸折し國王も遂ひに義州にて蒙塵の厄全會つたと云ふではない乎、其の當時若し申軍が一部の軍を鉉丹月臺に伏せしめてゐたら其の防禦上如何に有利であつたらふ。
丹月臺、今はい三層の築趾のみ殘る。
* * * *
○忠州八景
岳海圍繞、平野展開せる忠州には忠州八景なるものがありて、觀光來客は燦然たる忠州の美を讚へてゐる。八景とは何ぞ、則ち曰く。一、彈琴臺の落雁。
。二、南山地の朝燉。三、中央塔の梵鍾。四、社稷山の夕照。五、六角堂の秋月。六、鷄足山の暮雪。七、逢峴城の夜雨。八、達川の歸帆がそれである。
<번역문>
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제22장 명승구적(名勝舊蹟)
□충렬사비 (忠烈祠碑)
---정식 명칭은 어제달천충렬사비(御製達川忠烈祠碑)다.
충렬사비는 충주 남쪽 1리(원문엔 忠烈祠碑は忠州西方一里丹月里にあり로 나오나 忠州南方一里가 맞다. 여기서 一里는 일본에서 쓰던 단위로 3,927m다. 관아공원에서 충렬사비까지 직선거리를 재보면 정확히 1里다.) 단월리에 있으며, 이 비석은 조선 전체(全鮮) 9개소 중 하나로 칭해지고 이조 정조(正祖) 15년, 관정 3년(寬政, 光格天皇 재위), 청 건륭(淸乾隆) 56년 서력 1791년에 건설되어 임경업 장군을 모시는 비석이다.
임경업은 이조 제16대 인조왕 때 우리나라(일본) 후미즈노오 천황(後水尾天皇) 시대인 게조(元和) 연간에 단월리에서 탄생(1594년 27년 탄생, 일설에는 강원도 원주군 미륵산 아래에서 태어나 어린 시절 단월리로 이주했다고 함)하여, 어린 시절부터 인근 마을의 아이들을 모아 진을 치고 싸우는 놀이를 가장 즐거워하였고 항상 아이들이 잘 따랐다. 성장한 후에는 무관이 되어 인조왕을 섬겼다. 이때 이웃 나라에는 청의 시조인 애신각라(愛新覺羅, 아이신기오로)가 만주에서 일어나 명나라를 격파하고 한편으로는 조선에 침입하여 항복시켰다. 그러나 당시 조선의 조정과 백성들은(朝野) 표면적으로는 굴복하는 빛을 보였으나 내면에서는 굴하지 않고 암암리에 명나라를 원조하여 기회가 있으면 청을 치려고 마음먹었으니, 명나라를 원조하려 한 것은 만록의 역(文祿役, 임진왜란) 때 명나라가 조선에 지원군을 보낸 은덕에 보답하기 위함이었다. 청이 명을 공격하려 하여 조선에 군사를 청하자 조선에서는 어쩔 수 없이 임경업 장군을 보내기로 하였다. 임 장군은 밀사를 명나라에 보내 그 뜻을 통고하고, 명나라 군사와 교전할 때는 항상 탄알을 제거하고 총을 쏘아(去丸放銃) 명나라와 싸우지 않았다. 청나라 장수가 이를 발견하여 임 장군을 포박해 청나라 왕에게 보냈으나, 임 장군은 청에 굴하는 빛이 없었으므로 수년 후 청나라 사람도 그 충의에 감복하여 임 장군을 조선으로 귀환하게 하였다. 귀국하자마자 간신배들의 무고한 죄에 의해 감옥에 투옥되었으나 끝내 감옥 안에서 사망하였다. 그 후 수년 뒤 충신이었다는
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사실이 판명됨과 동시에 그 충의의 높이를 느껴 본 사당에 모시기에 이르렀다고 한다.
□법경대사비 (法鏡大師碑)
이 비석은 충주에서 약 4리 떨어진 동쪽 동량면 하천리 개천산 기슭 개천사(정토사라고도 기록되어 있음) 터에 있다. 법경대사 자등비(慈燈碑)로서 고려 태조 26년, 우리나라(일본) 덴경 6년, 후진 천복 8년, 서력 943년에 건설된 것으로 그 유래는 자세하지 않으나, 요컨대 당시의 고승인 법경대사의 공덕을 찬양하고 영원히 후세에 전하고자 건설된 것이라고 한다. 또한 같은 장소에는 홍법대사의 실상탑이 있었으나 대정 4년(1915년) 10월 국보로서 경성 경복궁 내로 이전(移轉)되었다.
□석가상 (釋迦像)
석가상은 현재 본파 본원사(본원사파) 충주포교소 경내에 안치되어 있다. 이 불상은 원래 충주읍 동남쪽 6정(町) 거리의 밭(圃中)에 있었다고 하는 철조 좌상으로, 높이는 3척 2인치 5분이다. 건륭 35년의 약전원 수기(修記)에는 사찰의 창건이 당나라 정관 7년이라 되어 있으나, 이 불상은 이보다 뒤에 만들어진 것일 것이라고 한다. 이 불상은 일명 ‘광불(狂佛)’이라고 칭한다. 그 유래를 설명하자면, 어떤
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뜻있는 이(特志家)가 이 불상이 비바람에 노출되는 것을 안타깝게 여겨 전당(堂宇)을 건설하였으나 곧바로 그 전당이 화재를 입었고, 그 후 불전에 향과 꽃을 바치면 악질(전염병)이 유행(流行)한다는 유언비어가 퍼졌기 때문에 ‘광불’이라는 명칭이 생겨난 것으로 보인다.
□중앙탑 (中央塔)
중앙탑은 북쪽으로 1리 24정 거리인 가금면 탑평리(건설 당시에는 탑정리에 있었음)에 있다. 이 탑은 지금으로부터 1145년 전 신라조 원성왕 12년, 우리나라(일본) 간무 천황 시대에 건설되어 신라의 중앙을 나타낸 탑이다. 이 탑은 당시 동일한 건각을 뽑아 남북으로 파견하여 동시에 출발하게 하여 이 땅에서 서로 만났기 때문에 '중앙탑'이라 칭하게 되었다고 한다. 또 일설에는 충주에 왕기가 있음을 감지하고 이를 눌러 아우르기(抑壓慰撫) 위해 사찰을 세우고 이 탑을 건설한 것이라고도 한다. 탑은 12층 대리석으로 만들어졌으며 고대 예술의 정수를 이루는 것이다.
□남산성 (南山城)
남산은 충주 동남쪽에 위치한 해발 고도 630여 미터의 고지로, 지금으로부터 약 130년 전까지는 금봉산(錦鳳山)이라 칭하였고 산중에는 죽사(竹寺)와 창룡사(蒼龍寺) 두 사찰이 있었다. 죽사 주변에는 많은 대나무 숲이 있었는데, 이 대나무 숲의 대나무 열매를 품고 암수
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한 쌍의 가장 아름다운 비단과 같은 봉황이 둥지를 틀고 살았다고 하여 금봉산이라 불러왔으나, 죽사는 120여 년 전에 충주읍으로 이축되어 영서(營署)가 되었고 주변의 대나무 숲은 벌채(伐採)되었기 때문에 몇 백 년 동안 살아온 금봉도 어디론가 떠나갔다고 한다. 그 후 남산으로 개칭되었고, 창룡사는 지금도 현존하고 있으며 경내에는 유명한 약수(樂水)가 솟아나 여름철에는 찾아오는 방문객이 많다. 남산 위에 있는 성벽은 지금으로부터 약 1455년 전 고구려 장수왕 시대, 우리나라(일본) 유랴쿠 천황 시대에 축성된 것으로, 당시 국성(國城)이라 불러오던 것을 신라 진흥왕(新羅新興王: 원문의 新興王은 眞興王의 오기) 11년에 고구려의 세력이 쇠퇴하고 신라의 세력 범위가 되자 즉시 성 이름을 국원부(國原府) 축성으로 개축하고 성벽에 연꽃을 조각한 후 이 이름을 갖게 되었다. 한때는 진영, 감사, 감영 또는 관찰부가 있던 곳이라고 한다.
□계족산 (鷄足山)
계족산은 충주의 약간 동북쪽에 위치하며 표고 775미터라고 한다. 전설에 의하면 옛날에는 오동산(梧桐山)이라 불렀으며 오동나무가 무성하여 많은 지네(百足)가 서식했다고 한다. 그러나 신라 시대에 남산성주였던 왕족이 예성내관(蘂城內館: 내관이란 지금의 보통학교 위치를 말하며 부녀자의 거처라 함)으로 왕래하던 도중 지네에게 위해(危害)를 입어 며칠 동안 보행을 할 수 없는 고통을 느끼자 마침내 지네 퇴치 명령을 내렸다. 인근 주민들이 며칠 동안 퇴치에 종사했으나 전멸을 기할 수 없어 오동
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산신에게 제사를 지냈더니, 일주일 후 꿈과 같이 동안백발의 노승이 나타나 지네 퇴치는 인간의 힘으로는 미칠 바가 아니며 닭을 이용하면 즉시 전멸할 것이라는 한마디를 남기고 어디론가 떠나버렸다. 주민들은 이야말로 신의 사자라 여겨 즉시 수백 마리의 닭을 산중에 놓아주었더니 며칠 되지 않아 지네의 자취가 사라졌다. 그 후 지네가 다시 올 것을 두려워하여 이 산중에는 항상 닭의 흔적이 끊이지 않았다고 하는 견강부회(附會)로부터 계족산이라 명명하여 오늘에 이르렀다고 한다.
□탄금대 (彈琴臺)
탄금대는 충주를 떠나 30정 서북쪽, 남한강과 달천의 합류점에 해삼이 누워 있는 듯한 형상의 표고 200미터라 하는, 산이라기보다는 오히려 봉우리(岳)이다. 이 봉우리가 바로 탄금대이다. 이 산이 유명해진 것은 만록의 역(임진왜란) 때 고니시 유키나가(小西行長) 장군에 대해 조선의 용장 신립(申砬)이 부하 8천 명을 이끌고 배수의 진을 치고 악전고투한 옛 전쟁터이기 때문이다. 옛날 충주가 고구려의 세력 범위였을 무렵, 남선(남조선)으로부터 도성(경성)으로 통하는 중앙도 즉 본도가 이 산기슭에 있어서, 달천과 남한강은 모두 물이 맑고 깊어 배나 뗏목의 편이 없으면 건널 수 없는 난관이었기에 당시 이곳의 파수꾼은 상당한 권위를 부렸다고 한다. 세상 사람들은 '개(番犬)가 있는 관문 산'이라 칭하게 되어 마침내 '견문산(犬門山)'이라 부르게 되었다. 그 후 신라 제24대 진흥왕 대에 이르러 고구려의 세력이 쇠퇴하고 신라의 세력 범위가 되자
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견문산은 급기야 대문산(大門山)으로 개칭되기에 이르러 오늘날 일본명으로 대문산이라 부르고 있다. 탄금대란 우리나라(일본) 기원 1375년 긴메이 천황 시대, 지금으로부터 1215년 전 남조선 임나(별명 가야국)에는 여러 가지 가야금을 만들어 가야금이라 칭했는데, 이를 연주하는 것이 가장 교묘하여 가야국 제1인자로 찬사를 받던 우륵(于勒)이라 하는 악사가 있었다. 가실왕 때 가야가 장차 망할 것을 예지하고 악기를 안고 신라에 귀화했다. 당시의 진흥왕이 이를 매우 어여삐 여겨 우륵의 거처를 충주로 정해주고 계고, 만덕, 법지(원문의 聖和는 法知의 오기) 3명을 선발하여 계고에게는 가야금을, 법지에게는 노래를, 만덕에게는 춤을 익히게 하였으므로 우륵은 충주에 영주하며 여가가 있으면 항상 대문산에 와서 한강 수면으로부터 100척 절벽의 풍경을 좋아하여 산정의 명석에 앉아 가야금을 탔다고 한다. 당시 대문산 부근에는 사는 사람이 드물었으나 우륵이 타는 가야금 소리의 오묘한 가락을 듣고 무리 지어 집을 짓고 사는 이들의 수가 늘어났다. 산기슭의 마을은 가야금을 타는 대의 무릎 아래에 있다는 이유로 슬금리(膝琴里: 지금의 칠금리), 동쪽에 있는 마을을 금뇌리(琴腦里: 현 금릉리), 서쪽 마을을 청금리(聽琴里: 별명 금정리라고도 칭함)라 부르는 마을이 출현하기에 이르렀고, 대문산을 어느덧 탄금대라 불러 익숙해진 것이다.
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□임진왜란 (文祿の役)
또한 임진왜란에 대해서는 충주군 서무주임 남외칠(南外七) 군의 이야기를 선보이면 다음과 같지만, 탄금대가 명소가 된 까닭이 진실로 생생하게 담겨 있다.
임진왜란은 지금으로부터 338년 전, 우리나라(일본) 기원 2252년 고요제이 천황 시대 도요토미 공(풍공)의 명에 의해 수륙 9군, 범선 수백 척에 분승하여 나고야(豐崎)를 출발해 파도를 헤치고 전진하여, 문록 원년(1592년) 4월 13일 미명 제1진인 고니시 유키나가의 군대는 부산에 상륙, 즉시 부산성을 공격했는데 수장 정발은 절영도에 출사냥을 나가 부재중이었다. 정발은 경보를 듣고 달려 돌아왔으나 생포되어 베임을 당하고(斬首) 8천 명의 전사자와 포로 수백 명을 얻었다. 같은 날 진격하여 동래성을 함락하고 적의 목 30개와 포로 수백 명을 얻었다고 한다. 고니시의 군세는 더욱 기세를 올려 다음 날부터 양산, 밀양, 대구, 인동, 상주의 각 성에서 연전연승하고, 동월 26일 정오무렵 함창을 통과해 진군 중 문경성에는 수장이 스스로 성내에 불을 지르고 도망친 자들의 화염을 보며 유시(오후 6시경)에 문경성에 도착, 그날 밤은 문경성 외곽에서 노영(야영)을 하였다. 노영 중 고니시 유키나가는 측근의 장수 소 요시토시(宗義智), 마츠우라 시게노부(松浦鎭信), 아리마 요시즈미(有馬義純), 오무라 신하치로(大村新八郎) 등을 모아 다음 날부터의 작전에 대해 다음과 같이 군의를 모았다.
대장 고니시 유키나가가 가로되, "문경 북쪽 1리를 지나면 조령이라 칭하는 성이 있으니 진실로 천혜의 요새이다. 한 사나이가 관문을 지키면 만 명의 사나이도
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뚫지 못한다고 하는 방어에 자못 호적한 지형이 있다고 들었다. 조선군 역시 반드시 이곳에 진을 칠 것이며, 또 조선군의 과반은 기병이어서 조령에서는 계곡 길 외에는 진로가 없다고 들었다. 따라서 내일의 진군은 어떻게 할 것인가"라고 묻자, 일동은 "이와 같은 천혜의 요새에서 특히 적군의 주력이 기병인 이상, 가볍게 계곡으로 진격하는 것은 불리하다. 말의 발을 이용할 수 없는 고지 능선을 이용해 진군하는 것이 유리하다"는 의견으로 일치하여 그날 밤은 진영에서 꿈을 맺었다. 다음 날 27일 날해질 무렵 진영을 출발해 고니시는 적정 수색을 위해 두 조의 수색병을 문경-충주 도로상에 내보내 조령 제1관문 부근에 파견했다. 그러나 얼마 지나지 않아 두 수색병 모두 조령 제1관문 부근에는 적의 그림자도 보이지 않는다는 보고를 마쳤다. 고니시는 수색병의 수사를 이상하게 여겨 다시 부근의 무사에게 명하여 제3의 수색병을 파견해 재수사를 하게 했으나, 역시 이전과 마찬가지로 한 명의 그림자도 없고 고개 위에는 까마귀와 까치 소리만 요란하게 들리고 청공에는 쓸개가 원을 그리고 있다는 보고를 접했다. 이때 고니시 유키나가는 진두로 나아가 멀리 조령을 바라보니 반석의 감을 갖추어 우뚝 솟아 있고 고목이 구름을 뚫고 솟아 진실로 천혜 무비의 땅이며, 더욱이 돌을 쌓아 골짜기 입구를 막은 관문이 있는 것을 보았다. 고니시는 가벼운 병사를 먼저 보내 고요히 산골짜기를 탐사하게 했으나 적병은 끝내 없었다. 고니시는 웃으며 가로되 "조선의 병사는 우리 군의 기세에 공구(恐懼)하여 이곳을 지키지 못하니, 나는 그들이 능히 아무것도 하지 못함을 알겠도다" 하고 일각의 교전도 없이 5리라 칭하는 조령의 험준함을 넘어 27일 진시(오전 8시경) 그 선두가 안보리(지금의 수안보 온천리)로 진출할 수 있었다. 그러나 조령의 험준함을 버린 조선군의 상황을 알고자 고니시는 먼저 안보리 계곡 사이에 집결을 하는 동시에 적의 사정 탐지를 게을리하지 않았다.
조선군에 있어서는 4월 13일 고니시 군이 부산에 상륙하여 부
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산성이 함락되었다는 패보는 4월 16일 심야에 도성(경성)에 도달하여, 당시 도성은 조정 전체가 분노와 공포에 휩싸여 즉시 대신 및 비변사 당상관들이 빈청에 모여 대책을 논의하였으나 왕의 허락이 떨어지지 않았다. (비변사는 군부 회의소, 당상은 원임 대신 및 당시의 대신으로서 당상 대신 중 군무를 아는 자로 겸임하게 하였다고 함. 혹자는 우리 참모본부와 같은 것이라 함)
논의하였으나 왕의 허락이 떨어지지 않았다는 것은, 선조왕이 일본군이 연전연승함에 담을 빼앗겨 몽진(피란)의 뜻이 확고하여 바꿀 수 없어 이미 그 채비중이었으므로 대신들에게 배조(拜調: 조정에서의 영접/알현)를 허락하지 않으셨다는 것이다. 대신들은 어쩔 수 없이 엎드려 청하여 이일(李鎰)을 순변사로 삼아 중로로, 성응길(成應吉)을 좌방어사로 삼아 동로로, 조경(趙儆)을 우방어사로 삼아 서로로 내려보내고, 유극량(劉克良)을 조방장으로 삼아 죽령 변경에서 조령을 지키게 하는 등, 또 병조(육군성)는 급히 선병안(모집 계획)을 세워 모집하기로 결정했다고 한다. 당시 병조판서(군무대신) 류성룡(柳成龍)은 징병에 노력했으나 여염집 백성, 무지한 신분의 아전, 유생 등이 많이 모병 조검(검사)에 임함에, 유생은 갓을 쓰고 시권(시험지)을 들고 아전은 평정건을 쓰고 와서 스스로 쉬며 병역을 면제받기를 요구하는 자가 뜰에 가득하여 보낼 만한 자가 없었다. 이렇게 하기를 2~3일에 이르렀으나 매일 접하는 것은 남방으로부터의 패보뿐이었다. 이에 류성룡은 책략을 신립(申砬)에게 물었다. 신립이 와서 적병이 이미 밀양을 지나 장차 고개 아래로 오려 한다고 가로되, "선행한 이일도 고군에 빠질 것인즉, 이때 급히 맹장을 달려 보내 후원하게 해야 할 것입니다" 하여 암암리에 스스로 체찰사가 되어 남하하려는 빛을 보였다. 이때 류성룡은 웃으며 가로되 "공의 말이 심히 옳으나, 갈 만한 장수가 없으니 어찌할꼬" 하니, 신립이 이에 응하여 가로되 "국사가 바야흐로 급한데 누구인들 가지 않겠습니까" 하고 따지자, 성룡은
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신립에 대해 "공은 국사에 허신한 충절이 사람이 미칠 바가 아니오" 하고 담하여 스스로 가려는 빛을 보였다. 이에 류성룡은 제14대 선조왕을 알현하여 그 뜻을 아뢰자 선조왕이 크게 가히 여기시어 즉시 신립을 어전에 부르시고 순변사에 임명함과 동시에 보검 및 관을 하사하셨다. "마땅히 이일 이하 명을 따르지 않는 자가 있거든 이 보검으로 그를 베라. 그리하여 내침하는 적을 급히 격퇴케 하라" 하시니 신립은 삼가 명을 받들어 의기양양하게 어전을 물러나 즉시 모병에 당하였으나, 3일 동안이나 도성 부근에는 응모자가 없었다. 남방으로부터는 매일 패보가 오고 도성은 더욱 진동하여 벌써 천도의 논의를 일으키는 자가 있음을 듣고 신립은 "이렇듯 지연되는 것은 한갓 도성을 위태롭게 할 뿐이니, 급히 우리들의 목적지로 향하리라" 하고 (추부: 중추원)에 들어가니 뜰 가운데 김응남(金應南) 등 응모자들이 모여 있는 것을 보았다. 김응남으로 하여금 류성룡에 대해 "이와 같은 자들은 공이 끌고 간들 무슨 보탬이 되겠습니까. 원컨대 소관의 부사로 삼아 가게 하소서" 하자, 류성룡은 신립이 무사가 자기에게 따르지 않을까 두려워함을 알고 웃으며 가로되 "똑같이 국사인데 어찌 이것저것 나누겠습니까. 공의 출전은 급을 요하는 것이니, 그러므로 내가 모은 군관을 먼저 이끌고 가시오. 나는 따로 모아 동행하겠소" 하고 군관 명부를 신립에게 주니, 신립이 뜰 안을 돌아보며 "너희들은 나를 따라오라" 명하고 이들을 이끌고 나가니, 해당 무사들이 모두 무연히(멍하니) 떠났다. 김응남 역시 떠났으나 마음이 매우 즐겁지 않았다 하고 云云.
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신립이 도성을 출발하려 할 때 선조왕이 알현을 내리시어 가라사대 "적세가 맹진해 온다고 들었소. 경은 이 적을 헤아려 능히 당해낼 수 있겠소?" 하니, 신립이 아뢰기를 "적은 예부터 병법을 모르니 어찌 홀로 깊이 들어와 패하지 않겠습니까" 하고 봉답하자, 왕은 "이번 적은 가장 적대하기 어렵다고 변방의 장수들이 항상 말하는데, 경은 어찌 그것을 말하기를 쉽게 하시오?" 하고 말씀하셨다. 신립이 이미 하직하고 나와 실청(實廳)에 이르러 막 계단을 내려오려 할 때, 머리 위의 사모가 갑자기 땅에 떨어졌다. 보는 자들이 색을 잃고, 어떤 사람은 그 마음이 이미 어지러워진 것이 아닌가 의심했다고 한다. 이렇게 하여 신립은 근소한 종자를 이끌고 도성을 출발해 출전을 결의하고, 중앙도를 따라 남진하여 충청도에 이르니 주민들이 기뻐하며 모병을 하자 즉시 응하여 약 8천 명과 반 수가 넘는 말을 얻어 이르렀다. 그리하여 더욱 진격하여 조령에 진을 치고 고니시 군을 격퇴하고자 진출하여 전군을 이끌고 조령의 최고지에 도달했다. 신립은 말에서 내려 나무 그늘에 앉아 잠시 휴식을 취하고 있었는데, 이때 상주성이 파해지고 수장 이일이 죽었다는 패보를 접하고 (혹 일설에는 이일이 물러나 조령을 지키려 했으나 신립이 충주에 있음을 듣고 마침내 충주를 떠났다고 함云云) 신립은 용기가 꺾임과 동시에 부하 장졸들의 얼굴에는 이일의 패보를 들은 이래 사기가 저상(사기가 꺾임)된 빛이 감도는 것을 느꼈다. 신립은 다시 생각하기를 '조령은 천혜의 요새라 방어에 좋은 진지이나, 이 땅에 진을 칠 때는 산중턱의 산길에 대열을 지어 진군할 수 없어 결전을 어떻게 할지 기약하기 어렵다. 오늘 30명, 내일 50명의 소규모 군사에 날을 소비하여 일진일퇴 끝에 소모전(지속전)으로 들어가는 것은 필연이다. 그렇게 되면 일본군은 훈련된 정예에다 멀리 바다를 건너 목숨을 걸고 원정한 것이며, 부산성 이북의 각 성은 연전연승 파죽지세로 함락시켜 온 자들이므로 사졸들의 기세가 더욱 올라 온 땅을 덮는 것을 일념으로 삼아 딴 곳을 돌아보지 않는다. 그러나 우리 군의
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병사는 훈련이 없을 뿐만 아니라 대부분 향토로부터의 응모자이므로, 후방 근무자는 자연히 향토를 사랑하고 실가에 남겨둔 부모와 처자를 그리워하며, 또 이들이 중병, 위독, 사망 등의 悲報를 접하면 귀향을 청하는 자 혹은 이 때문에 도망하는 자를 낼 우려가 있다. 이러한 때에는 결전을 치르기도 전에 패보를 면치 못하게 될 것이다. 또 우리 군의 과반은 기병이고 일본군의 대부분은 도보병(보병)이므로 산지의 전투는 불리하다. 이에 반해 충주 탄금대는 서쪽에 달천, 북쪽에 한강이 연속되어 모두 물깊이가 수십 척에 달하므로 배나 뗏목의 편이 없으면 건너는 것이 불가능하다. 또 대의 서남 지역 일대는 깊은 논(深田)이어서 도보병이라 할지라도 보행이 곤란하다. 그 위에 봉방천의 장애가 있으므로 이 땅에 진을 칠 때는 부하의 파악이 용이할 뿐만 아니라, 동남쪽 충주 평야는 도보인 일본군에 대해 우리 군의 말발굽을 가지고 맞서 싸우면 승산이 필연적인 땅이다'라고 결정한 바 있어, 즉시 부하들에게 호령을 내려 출발하기로 하였다. 기병은 안장에 오르고 걸어가는 자는 무기를 바르게 들었다.
이때 동안백발의 노승이 나와 두려워하는 빛도 없이 신립의 말 앞에 나아가 침통한 어조로 "장군 귀하는 어디까지 군사를 끌고 돌아가려 하십니까. 이른바 한 사나이가 관문을 지키면 만 명도 뚫지 못한다는 천혜의 요새는 이 땅을 제외하고는 없습니다. 이 땅이야말로 비길 데 없는 좋은 진지일 것입니다. 승리를 자랑하는 왜군이 밀려오더라도 지형의 이점에 의해 기병을 풀어 싸운다면 그들을 가루로 만드는 것은 쉬운 일일 터인데, 장군은 이 땅을 물러나 어디로 가려 하십니까" 하고 청하
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듯 엄히 간언하므로, 신립은 조용히 노승의 말을 듣고 무언으로 좌우를 돌아보며 전군 장사의 의기를 관찰하였으나 기세가 소침하고 생기가 부족함을 느꼈다. 그 눈을 노승에게 돌리니 노승의 타오르는 듯한 양손(양눈)은 란란히 빛나고 있었다. 신립은 잠시 눈을 감고 깊은 생각에 잠겼다가 다시 눈을 뜨고 천천히 노승에게 가로되 "귀승의 주의는 감사하오. 그러나 신립은 달리 생각하는 바가 있어 즉시 충주 탄금대로 물러나 적과 일전을 시험해 보고자 하오. 배수의 진을 쳐서 적을 파한 한신의 고사를 흉내 내겠소" 하니, 노승은 무연히 억지로 간하여 말릴 길을 찾지 못했다. 신립은 채찍을 올려 행군을 명했다. 8천 여 기의 병사는 조령을 넘어 탄금대에 이르렀다. 탄금대에 도착하자 5개 부대로 구분하여 배치를 마치고 배수의 진을 쳤다. 또 일설에는 조령을 버린 것에 대해 다음과 같은 전설이 있다.
"속설에 여자 귀신의 소리를 듣고 진을 충주 탄금대로 옮겼다云云. 입기암(立旗岩)이라는 이름이 지금까지 전해 내려온다"라고 되어 있다. 훗날 명나라의 이여송(李如松)은 조령의 고모성(姑母城)을 지나며 탄식하여 가로되 "험준함이 이와 같은데도 지킬 줄을 몰랐으니 어찌 신 장군의 무모함이었단 말인가" 하고 탄식을 마지않았다고 한다. 또 문인 황록선생(黃綠先生, 원문엔 黃綠先生이라 했는데 字 四衍 號 漢案 又 綠此 長水人이다. 黃五나 黃綠此가 맞다.)이 탄금대에 이르러 탄식하며 다음의 시 한 편을 읊었다.
『 동풍에 동쪽을 바라보니 탄금대라, 전쟁터엔 근심 구름 鬱鬱히 걷히지 않네.
천지엔 공이 없어 그대 배수의 진 쳤건만, 강산엔 한이 남아 객은 잔을 머금노라.
어촌의 저녁 돛은 충주로 들어서고, 바다 같은 봄 연기는 조령으로 오는데,
지는 해에 신 장수는 보이지 않고, 넓은 사막 아득한데 백구만 돌아드네.』
※일제시대 나온 《대동시선(大東詩選》卷之九에 나온다. 이 시는 탄금대 정자에 걸려 있었는데 논란이 있어 떼어졌다. 문제는 판본(版本)의 문제다. 쉽게 춘향전도 여러 판본이 전한다. 아래는 대동시선에 실린 원문이다. 저자 李 英은 이 원문을 옮겼다. 탄금대를 읊은 漢詩는 다음에 소개할 것이다.
彈琴臺
東風東望彈琴臺
戰壘愁雲鬱未開
天地無功軍背水
江山有恨客含杯
漁村暮帆忠州入
海戍春烽鳥嶺來
日落不逢申壯士
平沙漠漠白鷗廻
---大東詩選
彈琴臺
東風東望彈琴臺
戰塵愁雲鬱未開
天地無功軍背水
江山有恨客啣杯
漁村暮帆忠州入
海戍春烽鳥嶺來
日落不逢申壯士
平沙漠漠白鷗回
---탄금대 시판 오류를 지적한 人士들의 주장.
彈琴臺
東風東望彈琴臺
戰壘愁雲鬱未開
天地無功軍背水
江山有恨客停盃
漁村兩帆忠州入
海戍星烽鳥嶺來
日暮不逢申壯士
平沙漠漠白鷗回
---최근에 출판되었다는 어느 책.
안보리(지금의 수안보)에 있던 고니시 군은 그 천혜 무비의 조령 험준함을 버린 조선군의 상황을 탐지하고자 애쓰던 중, 운 좋게도 충주 방면에서 돌아온 주민의 말에 의하여 신립 군의 작전 기도, 배치된 진지 진형,
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충주 부근의 지형 등을 상세히 알 수 있게 되었으므로 유키나가는 크게 기뻐했다. 적병의 과반이 기병인 이상 말발굽이 자유롭지 못한 방면인 단월역(丹月驛)으로 주력을 향하고, 일부를 가지고 조속히 본도 상으로부터 충주 북단으로 진출하여 해당 지역을 점령하여 양차(揚次: 기세를 올림)하기로 결정했다. 소 요시토시에게 일부를 딸려 본도 상으로 충주 북단에 파견하고, 유키나가는 주력을 이끌고 진두에 서서 돌아온 주민을 안내자로 삼아 바위가 잡연한 달천을 沿하여 난 길을 단월역을 향해 진군을 시작한 것은 진시(오전 8시경)를 지났을 때였다. 본도로 진군한 소 요시토시 군이 오시(오후 12시경)에 충주 북단에 나타나자, 이때 신립은 탄금대 위로 달려 올라가 내려다보며 가로되 "왜군이 드디어 우리 술중( 꾀)에 빠졌도다. 이것으로 우리 군의 승산은 필연이다. 왜군이 대 아래로 공격해 올 즈음 전군 출격으로 전환할 때는 대부분 우리 군 말발굽에 짓밟히게 될 것이니, 무슨 무기를 쓰지 않고도 패멸에 빠질 것이다"라고 호언하며 부하들의 사기를 북돋우고 있었다고 한다. 부하들 역시 단월 방면으로부터의 주력 내습은 꿈에도 생각지 못했기 때문에 깨닫지 못하고, '어찌하여 충주 방면의 왜군이 오지 않는가' 하며 장졸 함께 전심으로 충주 방면으로 뜻을 기울이고 있기를 수 시간이었다. 이때 단월역(탄금대 남쪽 1리)에 주력의 집결을 마치고 만반의 준비를 갖춘 고니시의 군세는, 석양이 서쪽에 타오르는 듯한 저녁 풍경에 산도 무엇도 사람도 모두 붉게 물들었을 무렵, 소라나팔 소리가 느리고 무겁게 계속해서 울려 퍼지고 살기가 야산에 횡일하며 천강이 차츰 바래어 옅은 보라색이 되자 황혼을 들어 달천을 따라 쫓아왔다. 이때 신립 군 제1선 우익 부대의 병사가 이를 발견하여 신립에게 보고하자, 장군은 다시 대 위에 용약하여 바라보며 가로되 "왜군이 진로를 오판하여 우리 본진을 알지 못하고 진군해 오는 것이니 어찌 두려워할 필요가 있겠는가. 이제 보라, 봉방천 부근에 이르면 건널 다리가 없고 나아갈 길이 없어 진로가 잘못되었음을 알고 이를 갈며
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우리에게 항복을 맹세할 것이다. 보라, 그들이 손에 쥔 무력은 5척에 못 미치는 검은색 막대기 모양 같은 것으로, 아마도 창이라고 믿어진다. 창으로는 우리 진지에 대해 던지기에도 미치지 못하고 찌르는 것도 불가능하다. 이에 반해 우리 군 과반의 무기는 활과 화살로서, 이 대 위에서 대 아래를 향하는 화살의 효력은 압도적이다" 하였다. 그러나 고니시 군이 점차 접근해 와서 봉방천 좌안 지역에 도달하여 진형을 갖추고 사격으로 옮기려 했다. 이 진형을 대 위에서 본 신립 장군은 웃으며 가로되 "보라, 우리 장졸들아. 왜군이 더욱 나아갈 길이 없고 물러서면 우리 군 활과 화살의 표적이 될 것을 깨닫고 무릎을 꿇어 나에게 항복을 맹세하고 있는 것이 아니냐" 하고, 호언장담의 말이 아직 끝나지도 않았는데 전면에 검은 연기가 깔리고 이상한 음향이 쿠쿵 울리며 날아오는 탄환에 피가 쏟아지고 비명과 함께 쓰러지는 자가 무더기로 나왔다. 이 소리에 놀라 튀어나가려는 군마, 골짜기에 숨겨둔 주력의 동요를 본 신립 장군은 일본군이 소지한 총기를 오직 칼과 창으로 오인한 것은 천명이 다한 까닭이다. "우리들의 운명은 저기까지다" 하고 부하들이 쓰러질 때 관이 땅에 떨어지는 것을 보고 문득 불길한 예감에 가슴이 울렁거렸다. 실청에서 막 계단을 내려오려 할 때 머리 위의 사모가 땅에 떨어진 것을 기이한 인연이라 깊이 생각한 바가 있었으나 입 밖에 내지 않고 맹세하며 묵고하고 있었는데, 부하들은 금방이라도 출격 명령이 내릴까 필사적으로 적탄을 피할 진로를 만들고 있었다. 충주 북단으로부터 소 요시토시 군도 점차 박두하는 것을 보고 신립은 칼을 잡고 말에 채찍질하여 스스로 싸우겠다고 외치며 찰나에 내린 진군의 명령에 8천 전군이 일시에 떨쳐 일어나 고래 고함을 지르며 고니시 군 주력을 향해 적지로 돌진했다. 대 중턱을 내려올 때 날아오는 적탄에 기병은 쏘여 떨어져 도망치고 말은 맞아 쓰러지는 등, 아군의 발에 짓밟혀 지르는 비명은 마치 아수라장으로 변하여 마침내 8천의
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대군이 잡연히 진퇴에 궁하고 장졸들은 깊은 논에 빠졌다.
이러한 때 과반(달천 우안의 한 부대)으로부터 고니시 군의 한 부대가 함성을 질러 천지를 진동하고 대 위를 향해 기어올랐다. 정면의 고니시 군 역시 함성을 지르며 공격해 와 봉방천을 건넜다. 서로 치는 소리는 초연 속에 빈번했다. 신 장군은 "우리들의 운명은 여기까지다. 내가 죽을 자리가 왔도다. 부질없이 적의 칼에 쓰러지기보다 스스로 처결하리라" 하고 우륵이 현금(가야금)을 타던 절벽 천 척의 장소로 매진하여, 이 땅으로부터 물깊이를 알 수 없는 한강으로 뛰어들었다. 뒤이어 뛰어드는 자 무량하여 1천 7백 명이라 한다. (탄금대전 객관기에는 '만뢰가 일시에 울리는 듯하다'고 되어 있어, 이 땅에서의 최초의 총성에 얼마나 주민들이 놀랐는가를 엿볼 수 있다) 뒤이어 일어나는 비명과 함성은 한때 산야에 가득하여 등골이 오싹하고, 승세를 타서 지독하게 추격해 오는 고니시의 군세는 맹렬히 둘러싸고 치며 고함치며 기뻐했다. 조선군을 대도로 휘둘러 목을 벤 것은 3천여 기, 포로 수백 명이라 칭하며 잔군은 궤멸하여, 이렇게 해서 탄금대는 고니시 유키나가가 점령하는 바가 되었다.
* * * *
강에 투신한 신립은 숨이 아직 끊어지지 않고 수 정 하류(지금의 가금면 창동) 좌안 암벽으로 기어올라가 오른손 검지를 물어뜯어 임종의 영정을 그리고 다시 강을 건넜다고(강으로 들어갔다고) 한다. 암벽에는 지금도 초상이 있어 붉은색을 띠고 있는데, 세상 사람들은 이를 신립의 혈흔이라 칭하며 추모의 정이 지금도 떠나지 않아 때때로 꽃을 바치는 자가 있다.
신립이 이미 남하하자 도성 사람들은 날마다 첩보가 오기를 기다리던 중, 4월 29일 오후 6시(유시) 전립을 쓴 세 사람이 말을
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달려 숭인문(東大門)으로부터 성내로 들어왔다. 성내 사람들이 다투어 신립 군의 소식을 물으니 대답하여 가로되 "순변사 운관(運官) 신립은 충주 탄금대에서 패전하여 부하는 궤멸하고 신립은 마침내 강에 투신해 죽었습니다. 우리들은 단신으로 도망쳐 온 가인(집안사람)으로, 소식을 전하여 피란의 책을 강구하게 하고자 하는 자입니다" 하였다. 도성 사람들이 크게 놀라 지나는 곳마다 전하여 서로 고하고 이야기하여 시간을 지체하지 않고 성 안에 가득히 즉시 진동하였다. 초저녁 무렵 선조왕은 여러 대신을 불러 차가서순(車駕西巡: 임금의 수레가 서쪽으로 피란함) 즉 천도와 몽진의 계책을 논의하게 하시니, 우는 자와 애원하는 자로 비참함이 그 극에 달해 마침내 30일 오전 3시 경성 출발, 차가서순으로 결정되었다云云. 임진왜란 중 탄금대 전투만큼 가장 조선군이 타격을 입은 전투는 없었다고 들린다.
가토 기요마사(加藤清正)는 마침내 28일 충주에 도착하여 본 전투에 참가하지 않았으나, 그날 밤 고니시 유키나가와 만나 쟁론이 백출했다. 내지(일본 본토) 출발에 즈음하여 도요토미 씨가 두 사람에게 "그곳에 도달하면 서로 선봉을 맡으라"고 지시한 것에 대해, (기요마사가) "귀공은 오늘날까지 연일 선봉으로 진군하고 본인에게 한 번의 선봉도 주지 않았으니, 도성을 치는 선봉은 본인에게 양보하라"고 말하자 유키나가가 놀라 대답하되 "그것은 귀공이 조선 땅 상륙이 지연된 까닭이 아니오? 전쟁은 각각 일각을 다투는 것인데 우리 군이 귀공의 상륙을 기다려 한갓 시일을 지연시켰다면 오늘날이 있었을지 어떨지 의심스럽소. 그런데 지금 한 말은 듣고 넘길 수 없소" 하고 성을 내자, 기요마사 또한 붉어졌다. 격론이 파하여 양측이 막 칼로써 다투려는 기세를 보이자, 이때 가토 군에 종군한 나베시마 나오시게(鍋島直茂)가 일어나 두 장수에게 고하였다. "오늘날까지의 전승에 의해 도요토미 공의 목적을 달성한 것이 아니오. 아직 도성에는 대군이 있다고 들었소. 방금의 쟁론은 대군을 앞두고 무장으로서 가장 삼가야 할 일이 아니겠소. 이로부터 도성으로
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가는 데는 두 길이 있다고 들었소. 두 장수가 화합하여 선봉을 나누어 맡으심이 어떠하오?" 하고 고하자 두 장수가 서로 타협했다. 나오시게가 말을 이어 "이 두 길 중 서남도는 평이하나 길이 멀고, 북방도는 길이 가까우나 한강을 따라 있으므로 험준하오. 어느 쪽을 택하시겠소?" 하고 담하자, 기요마사가 가로되 "본인의 부하는 고니시와 같은 약배(약한 자)는 한 명도 없소. 지극히 건체건각(건장하고 잘 걷는)의 무사들이므로 길에 험준함이 있더라도 이 진군로를 택하겠소" 하고 스스로 정하여, 두 군은 그날 밤 충주 서쪽 대 위에 막영의 꿈을 맺고 다음 날 29일 충주를 출발해 도성을 향했다고 한다.
무상 (無常)
나 한 사람이 이 정도가 되기까지는 상당한 은인도 있었을 터이나, 지금은 모두 분산되어 바람을 안고 어디로 갔을까. 무상의 바람이라고는 한다. 불어 잠재우는 바람 그 자체도 정도가 없어서는 안 된다.
(구고(舊稿) 중에서)
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□단월대 (丹月臺)
단월대는 충주읍을 떠나 남쪽 1리 땅에 있다. 충청북도 보은 속리산으로부터 발원한 달천강 연안으로서 삼남으로 통하는 1등 도로변에 대략 3층의 산악 형상을 이루고 있는 석대가 바로 단월대이다. 지금 고로(노인)들의 설에 의하면 옛날에는 그 석대 위에 한 암자의 사찰이 있어 그것을 달암사(達岩寺)라 불렀다고 하지만, 지금은 그 흔적조차 판별하기 어렵다.
이 달암사는 조선의 용장 임경업이 어린 시절 마을 아이들을 지휘하여 군사 훈련을 할 때, 그 군율의 엄열함은 이미 당시 사람들로 하여금 숙숙토치(肅肅兔置: 삼가 엄숙함)의 감을 깊게 하였다고 한다. 지금 이 임 장군에 얽힌 한 삽화를 줄여보면, 어느 날 임 장군은 평소와 같이 마을 아이들을 모아 점검을 하였는데 한 아이가 오지 않았다고 한다. 이에 임 장군은 사람을 보내 그를 잡아오게 하여 군기에 위배된 죄를 규탄하고 마침내 중형을 과하였으므로 모여든 마을 아이들은 더욱더 그 지휘에는 한마디 말도, 한 구절의 변명도 없이 복종하고 있었다고 한다. 달암사는 그 당시 이 웅걸이 무를 닦고 칼을 갈던 땅이라고 한다.
그러나 이 산 이름은 속칭 대림산(大林山)이라 칭하고 있는데, 그 산인즉 강을 따른 절벽은 험하고 가파르며 푸른 물결은 비껴 흘러 때때로 갈매기는 구름을 차고 날아오른다.
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당시 충주는 군사상의 요충지였던 만큼 지리상 이 땅만큼은 특히 인후(목구멍)로 여겨졌음이 추측된다. 보라, 임진의 역(임진왜란)에 있어서 가토, 고니시 두 군이 조령이라는 난험을 넘어 이곳 대림산 아래에서 회상(모여 모의)하여 군을 두 갈래로 나누어 신립의 군사를 탄금대로 몰아 좌우에서 협공하였으므로 왕성도 이에 꺾이고 국왕도 마침내 의주에서 몽진의 厄(액)을 만나게 되었다고 하지 않는가. 그 당시 만약 신립의 군사가 일부 군사를 이 단월대에 엎드려 놓았더라면 그 방어상 얼마나 유리하였을 것인가.
단월대, 지금은 단지 3층의 축조 흔적만 남아 있다.
□충주팔경 (忠州八景)
산과 바다(강)가 둘러싸고 평야가 펼쳐진 충주에는 충주팔경이라는 것이 있어, 관광 온 객들은 찬란한 충주의 미를 찬양하고 있다. 팔경이란 무엇인가, 즉 가로되:
탄금대의 낙안 (彈琴臺の落雁)
남산지의 조돈 (南山地の朝燉: 남산의 아침 햇살)
중앙탑의 범종 (中央塔の梵鍾)
사직산의 석양 (社稷山の夕照)
육각당의 추월 (六角堂の秋月)
계족산의 모설 (鷄足山の暮雪)
봉현성의 야우 (逢峴城の夜雨)
달천의 귀범 (達川の歸帆)
이 그것이다.
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■계명산(鷄鳴山)
우리 고장 충주(忠州)에 지금 충주시(忠州市) 동쪽에 속해 있는 높은 산이 있는데, 그 산에는 예전에 하도 지네가 많이 나와서 지네와 닭은 상극(相克)인 까닭에 그 산 이름을 계족산(鷄足山)이라고 해서 불렀드니 지네가 전부 읎어졌드라 이런 이얘깁니다. 그런데 지금으로 와서 계족산(鷄足山)으로 부르고 보니 계족(鷄足)이라고 할 것 같으면 닭은 파헤치는 이런 성질을 가지고 있기 때문에 충주 지방에 재산가가 생기질 않는다, 즉 예전에 말하자면 부자가 나지 않고 대부(大富-큰부자)라고 할 수 있는 재벌이 생기지 않는 까닭에 근자에 와서 그 산에 이름을 다시 고쳐야 하겠다고 해서 그런 방면에 조예가 깊고 고명한 분들이 서로 모여 가주고서 최근에 와서 닭 계(鷄)자는 그냥 붙여가주구 닭이 운다는 울 명(鳴)자를 붙여서 계명산(鷄鳴山)이라고 지금 이름을 곤쳐 부르게 된 사실이 있습니다.
---1974년 10월 10일 중원군(中原郡) 엄정면(嚴政面) 미내리(美內里) 이효승(李孝承) (65세,남(男)
출전: 임석재전집(任晳宰全集)6 『한국구전설화(韓國口傳說話 충청북도편 충청남도편』에서
※이런 전설을 지명전설(地名傳說)이라고 합니다. 즉 계족산(鷄足山)이란 이름에서 사람들이 연상해서 지어낸 이야기를 말합니다. 전국에 계족산(鷄足山)이란 이름은 대전광역시에도 있고 강원도 정선군에도 있습니다. 또한 닭과 지네에 얽힌 설화는 널리 알려진 이야기로 닭과 지네가 쉽게 볼 수 있는 동물이고, 닭은 지금도 시골에서 많이 기르는 가금류이고 오랜 옛날 이 땅에 살았던 조상들이 일상생활 중에 쉽게 볼 수 있는 가축이 닭인 까닭에 닭발가락과 계명산의 산생김새가 비슷하다보니 연상해서 지어낸 산이름이고 전설이 됩니다. 실제 계명산에 올라보면 산이 사람인자 모양(人)으로 생겼음을 볼 수 있는데 산모양에서 지어진 이름이 계족산(鷄足山)이 됩니다.
■신립 이야기(1)
신립장군께서 소년시절에 모두 그때는 요새는 참 차로다가 여행을 하지만 그때 시절에는 모두 도보로 다닐 때여. 구경을 갔다가설랑 강원도 금강산을 들어갔단 말여. 그래 금강산에 들어가서 댕기다 보니까 날이 저물었는데, 어디인가를 찾다 보니까 동네를 찾으니까 큰 동네가 있는데 거기에 들어가니까 동네 사람이 하나도 없어. 그래 그 중 맨 가운데 가장 잘 사는 기와집에 가도 인기척이 없단 말여. 그래서 그 밖에서 주인을 찾으니까 대답이 없어. 그래 또 한 문을 열고 들어가서 또 찾아도 대답이 없어. 그래 아래 참 막다른 문에 들어가서 인제 찾으니까 과년한 처녀가 나오더니, "누구를 찾으십니까" 이렇게 해. "아니 그런게 아니라 나는 지나가는 사람인데 과객인데, 하루밤 자고 갈라고 그러는데, 아 왜 이 댁에는 주인이 없소? 왜 처녀뿐이요?" 그라는데 그 처녀 하는 말이, "아, 그렇습니까? 그래 주무시는 건 좋으니 조석(朝夕)은 해드려도 여기서 잘 수는 없으니까 다른데 가서 주무세요." 그래. "왜 그러냐?" 연고를 물으니 그 주인이 색시가 하는 말이, "그런 것이 아니라 저의 집은 흉중(凶中)에 있습니다." 그래. "오래도록 어떤 종놈 하나가 있는데 그놈이 저를 탐해 가지고설랑 색시를 탐해가지고설랑, 모든 집안 식구들 다 죽이구설랑 오늘날 저 혼자 남았었는데, 오늘 저녁에 그 놈이 부모의 삼년상이 있으니까 연기 연기하다가설랑, 오늘 저녁에 마지막 되는 날인데 그놈이 쫓아와서 나에게 해꼬지 하는데 내가 그놈한테 항거할 일이 없으니까 오늘 저녁에 죽을 테니까 자칫하면 그놈의 흉부를 만나서 당신이 여기서 죽을지도 모르니까 다른 데 가 주무시요." 그러더래. "아 거 어떤 놈인데 그럴 수 있느냐?"고 그랴. "가만 있거라. 그럼 걱정 말고서 저녁이나 해줘." 그래 저녁을 잘 차려 줬다고 그랴. 그래 그 안방에 촛불을 환하게 켜놓고서 혼자 앉았지. 색시는 옆방에 가 있고. 그래 한밤중이 되더니 문이 덜컥 열리더니 대문이 열리더니, "처녀 자느냐?"고. 소리를 냅다 지르더니 말여, 아 이 처녀는 아무 말도 없지. 아 안방에 문을 덜컥 열고 보니까 웬 놈이 앉았거든. 아 그래 신립장군이 그럴 줄 알고 철궁에다 화살을 메겨 가지고설랑 꼬노구 앉았다고 말여. 아 그래 들어오는 놈을 냅다 [활쏘는 시늉을 하며] 쏜단 말여. 아 쏘니까 눈이 따꼼해. "이 어떤 놈여?" 아 그래 기가 맥히잖아. 아 그래 기겁을 하고서 도망을 간다 이런 말여. 가는데 길은 산밑인데 아 여간 경력을 가지고는 뛰어 오르기가 어렵단 말여. 그런데 마침 보니까 어스름 달밤인데 말여 하 무슨 썩은 나무토막 같은게 [두 손으로 나무 선 모습을 하며] 이렇게 있단 말여. 아 그놈을 얼른 붙잡고서 냅다 담을 뛰어 넘어서 올라갔단 말여. 아 그런데 뒤를 돌아다보니까 쫓아오던 놈이 안 쫓아온단 말여. '아 이게 웬일인가?' 하고. 슬슬 내려가 엿보니까 말여. 아 큰 이무기란 놈이 이무기가 달밤에 대가리를 이렇게 [목을 길게 빼며] 내밀고 있었다고 그랴. 그래 이것이 나무토막같이 보였단 말여. 그것이 나무토막 같아서 엉겁결에 신립장군이 확 채면서 올라갔지만 말여. 그런데 이놈은 나중에 쫓아오는 사람이 있으니까 그래 저를 해꼬지하는 줄 알고서 덥석 덤벼 물어서 칭칭 감고 있었단 말여. 그래 다시 들어가서 보니까 처녀가 까무러쳤단 말여. 그런데 왜 예전에는 이렇게 다니는 사람이 상비약이 있어. 그래 얼마 뒤에 깨어났단 말여. 아 이 처녀 말이, "손님 은혜로다가설랑 제가 살았으니 이런 공이 없습니다."구. 아이 그라곤 아침을 잘 해 주고설랑, "나는 안식구도 없고 갈데도 없는 사람이니까 당신을 만났으니까 당신의 은혜를 몸으로나 갚을테니 그저 가서 종 노릇이나 작은 첩 노릇을 하드라도 그저 따라가겠습니다." 그런데 신립장군이 그랬다고. "나는 이미 장가를 들어 처자도 있고 부모가 있는 사람이니까, 지금 꽃같은 처녀로서 다른 마땅한 데가 있어서 시집을 가면 좋지 않느냐? 잘 살고." 하고 거절을 했단 말여. 그래 여러번 간청을 해도 거절을 하고 나오지. 나오다 동구(洞口) 밖을 쓱 나오니까 뒤에서 부른단 말여. "여보, 여보." 한단 말여. 세 번을 부르기에 이상스러워서 돌아다보니까, 집에다 불을 놓고서 지붕 꼭대기에 올라가서 타죽어. 아 그래 그랬단 말여. 어떻게 할 수 없으니까 그냥 왔지. 그가 누군가 하닌 권율(權栗) 권원수의 사위거든, 신립장군이. 그리고 오성도 그분 사위여. 맨끝에 사위는 거시기 정충란 정충신이고. 권율의 사위가 셋이야. 그래 어느날 장인의 생일이 되어 가지고서 그때 정충란은 정충신은 사위가 되지 않은 때지, 그래 사위형제가 오성하고 신립 신장군하고 권율이 장인이 그 생일날에 모두 모였단 말여. 그래 한토막 이야기는 그 창피해서 [손을 흔들면서] 빼놓겠어. 그래 오성의 이야기는 빼놓겠어. 그래 인제 그 신립장군더러, "그래 이번에 너희들 모두 어디 가서 놀다 왔나?" 그래. 오성도, "어디 가서 놀다 왔다."고. 그라고 그래, 신립 신장군도. "이따가서름에 강원도에 가서 이만 저만한 곳에 갔더니 그 처녀가 그렇게 혼자 있는 거를 그 흉한 놈한테 욕을 당할 것을 모면해 주었습니다. 그래 같이 살자고 하는 것을 버리고 온 일이 있는데, 오다가 부르는 소리가 나서 돌아다 보니까 그 처녀가 불을 놓고 지붕에서 떨어져 타 죽었습니다." 그때 권율 권원수가 있다가 하는 말이, "너는 체면없다." 요새말로 그래. 인제 오성은 어디 갔다 와서 그 여자 하나의 그 참 요구하는 것을 들어 주었는데 그 처녀가 죽었다 이런 말여. 그 자리에서 죽었어. 그랬더니 그 주인을 불러가지고설랑, "그래 그 처녀가 어떤 처녀냐?" 그라니까, "아유 놀라실 것 없읍니다. 그 처녀가 추물(醜物)이라 동네에 추물이라고 있는 거란 말여. 나이 삼십이 되도록 추물이라 시집을 못가구설랑 돌아다니는데 남의 여관집이나 이런데 문 열어놓았으면 그라면 겨(기어) 들어가서 그런 추태나 부리는 계집이올시다." "아 그러니가 죽었으니 어떡하느냐?" "아 죽었으면 잘 죽었지. 장사나 잘 지내주라."고. "그래 돈을 준 일이 있습니다." 오성더러 하는 말이 "너는 이 다음엔 잘될 것이다." 그래 신립장군이 그라구설랑 참 임진왜란이 나가지고설랑, "이 조령은 불리하니까 충주 탄금대에다 배수진을 치면 승전을 한다."고 귀신이 홀린단 말여. 그래 결국 그 처녀가 다른 게 아니라 그때 그 왜 구해 주었던 처녀가 자기를 구해 주지 않아서 도리어 악담을 먹고서 그랬다는 얘기여. 그래서 충주에다 배수진을 치고 결국 패전하고 자기 신(身)까지 바쳤다는 일화가 있어.
출전: 한국구비문학대계 충청북도 충주 ㆍ중원편 3-1, p71-75. 1980년.
제보자: 충주시 역전동 이용규(83) 1979년 채록.
■신립장군 전설 (2)
원귀 때문에 참패한 신립
신립이라는 사람이 이 권율 권판서의 사위거던. [조사자: 예] 권율 맡사윈디--. 그 아주 권율이 관상을 잘 봐. 그래서 신립이가 원제던지 대장노릇을 할 줄 알았어. 그래서 사위를 삼은 겐디, 그래서 아주 일급 대장재목이니께 그 사위를 항상 여간 사랑하들 안 해. [청중: 그렇지.] 사랑을 허구-. 그래 인저 장인두 사위를 사랑허구 허니께 참 자기 부모보담두 더 친절하게 따르구, 장인한테두. 장인두 친자식보다두 더 사랑허구 이런단 말여. 그렇게 하다가 권율이 평양감사를 갔네. 평양감사를 갔는디, 그 자기 장인이 보고 싶어 견딜 수가 웂어. 그래 자기 장인을 보러 간기여 평양을. 평양을 가는디 그때야 보행이루 전부 걸어서 댕길 때니께 평양이 갈라믄은 평양이 오백 오십 리여 서울서. 그러니께 아무케도 한 닷새 엿새 걸리거든. 그래 한 번 가다가 보니께 아 해는 넘어가는디 인가가 웂어. 그래 인가를 찾을라구 가다가 보니께 집이 하나 있는데 큼직한 고루누각이 있는디 그 집을 찾어 들어가서 주인을 찾으니께 츠녀(처녀) 하나가 나와. "어짠 손입니까?" 묻거든. "그렁게 아니라 나는 질을 가다가 일모하구 황혼이 돼서 좀 하루저녁 유해 가자구 찾았습니다." "아, 들어오시라"구. 인제 방에 들어가 앉았으니께, 저녁을 해다 줘서 먹구 나니께, 상을 갖다 치우구 들어오더니 색씨가 하넌 말이, "인간 자리라구 찾어 들어오셨으나 오늘 저녁이 여기서 주무시덜 못합니다. 다른 데 워디 가서 주무시겨." 이러거든. "아 그게 무슨 소리냐"구. "이 사람 사는 집을 찾어왔다가 예서 저녁까장 먹구 했는디 예서 못 잔다는 말이 무슨 말이냐"구. "좀 자구 가야겄다"구. "아 그런게 아니라 여기서 주무시다가는 큰 환을 당합니다. 그러니께 못 주무십니다." "환은 무슨 환이냐"구. 그 내력을 좀 얘기하라는겨. 그러니께, "예, 저의 집이 한 이십여 명 식군디-, 저녁마두 식구 하나씩을 잡어갑니다. 그래서 이저 밤중만 되먼 그저 식구 하나씩을 잡아가구 잡아가구 해서 다 죽구 저 혼자 남았는디, 오늘 저녁이는 제 차례올씨다. 저를 잡아갈틴디 놀래실 거 아닙니까? 예서 주무시다가… 그러니께 다른 데 가서 주무시는 게 좋을 거 같아서 하는 말씀입니다." "그럴 수가 어딨냐"구. "걱정 말라"구. "뭐 그런 일 가지구서는 내 의심 안 하니께 걱정 말라"구. "자구 가야겄다"구. "아 정 그러시면 할 수 웂다"구. "주무시라"구. 아 그래서 자게 됐어. 근디 이렇게 인저 죽을 처녀니께, 각방 차릴 것두 웂이 아래 웃목이서 그냥 있는겨. 그 서루 잠두 못 자지. 샥시는 그날 저녁에 죽을 거니께 잠두 안 올거구 이이는 워떻게서 사람을 잡어가는 겐가 그걸 좀 볼라구 잠을 안 자구 지켜 있는겨. 그래 밤중쯤 되더니 배깥이 요란시러워. 그러더니 얼른 잡어내라구 호령소리가 난단 말여 배깥이서. 그렁게 한 놈이 문을 떡 여는디 보니께 몸뚱이가 깍짓동 같은 놈이 문을 열구 이렇게 디려다본단 말여. 그러더니, "아이쿠야 신립이 신대장 오셨구나." 허구 문을 콱 닫구 나가거든. "아 잡아내라니께 안 잡아내구 나오느냐"구. "아 뭐이가 왔길래 그러느냐"구. 또 한 놈이 문을 여는데 그놈두 그렇게 엄청한 놈이 그눔두 보더니 문을 열구 보더니 콱 닫구 나가더니, "어쿠 대장님 오셨다"구 나간단 말여. 또 한 놈이 "늬덜 뭣때미 그러냐"구. "내가 들어가본다"구. 아 문을 떡 열구 들어서는데 보니께 대가리가 싯이구 몸딩이가 그놈들보다는 더 엄청한 놈이 문을 열구 들어오더니 두 무릎을 꿇고 절을 너부죽이 하먼서 아이 대장님 오셨냐구 절을 한다 그거여. 그러니께 예서 호령을 했어. "너이가 도무지 뭣이가 사(邪)가 된 물건들이길래 와서 이러느냐"구. "예- 즤는 닭구신입니다." 닭구신이라는겨. 닭구신.. 그 집이서 그전이 굿닭을 많이 쳤다는겨. 닭구신인디, 굿안이서 전부 수백 마리 수천 마리가 죽었다는 게지. 그래서 그 분(憤)을 바람을 못 허구 거풍을 못 허구 해서 그게 모두 원귀가 돼 가지구 그 포수(복수)를 하러 왔는디 오늘 저녁이 샥시만 잡어가먼은 포수를 다 한다는겨. 그러니께 그 샥시를 달라는겨. "못 헌다"구. "늬들을 그 세상 바람을 쎄게 해 주구 늬를 거시기할 테니께 빨리들 나가라"구. 그러니께 이눔들이 모두 나갔어. 그래 보니께 색시는 벌써 죽었어 새파랗게 기함을 해서. 삭신을 전부 주물르구 이렇게 해서 깨난 뒤 인저 물을 갖다 멕이구 이렇게서 깨어났어. 그래 날이 샜어. 그래 샥시보구 물은겨. 어떻게 된 내력인가. 그 굿닭 치던 장소가 워디냐구 물으니께, "같이 가 보자"구. 그래 인저 거기 가서, 참 축문인가 뭘 써가지구 가서 그 혼신들을 닭 혼신을 전부 불러서 인저 거시키해서 원 풀구 가라는 그런 거시기를 져서 전부 제사를 지내주구 그러카구 간다구 나시네. 그렁게 그 샥시가 따라 나갈라구 같이 가자는 게거든. "아녀. 나는 벌써 취처를 한 사람이니께 필요웂다. 그렁게 나 혼자 간다." 아 그저 가서 종노릇이라두 한다는 게거든. 따라가서. "아 그것두 필요웂다"구 말여 내버둬 버리구 가는겨. 그러니께 이 새다리를 놓구 지붕 날맹이 올라가서 불르거든. 돌아다보니께 "잘 가라"구. "안녕히 가시라"구. 그라먼서 "나는 여기서 죽는다"는겨. "아 죽어두 모른다"구. 아 그 높은 지붕이서 떨어져서 타살이 나 죽어뻐려. 그러니 그 죽은거 뭐 가서 어떡할 수두 웂구 그냥 평양을 강겨. 그래 인저 평양을 가서 동헌에 들어가서 자기 장인을 찾아뵙구 절을 너부죽이 하니께, 아 그땐 인저 반갑게 "너 왔느냐"구. 반갑게 혀. 절을 하구 떡 앉으니께니, "너 오다 살해하구 왔구나." 그거여. 장인 말이. 응. "살해하구 왔다"구 말여. "살해하구 왔다"구 그려. 얘기를 하라는겨. 그래 사실 얘길 했단 말여. "일국 대장노릇이나 헐 줄 알었는디, 못 하겄다. 대장노릇 헐 사내 자식이 시상(세상)에 나서 일처일첩 못할 게 뭐 있어. 그런 사람을 쥑여!" 그래 "가거라 가." 아 그냥 대번 쫓아보내 그냥. 가라구. 이 사람두 또 훌륭하구 잘난 사람이니께 대장 재목이니께 또 아니꼬운 생각이 들어가거든. 장인이 박대하니께. 그냥 아버렸어. 그 뭐 밥 한 숟갈도 못 읃어먹구 그냥 온겨. 그냥 와서 그럭저럭 지내다가 임진란이 일어났쟎어? 임진란이 나가지구서는 참 대장으루 대장이 됭겨. 대장이 돼 가지구 참 일병을 대적하러 인저 용해 솔뫼기라는 데루 왔단 말여. 요기 문경새재 고기를 와서 진을 딱 치구 있는디 일본놈이 보니께 지도를 펴놓구 보구서는 거기를, 문경새재를 넘어갈라믄은, 거기서 진만 쳤으믄 게서 패진을 하겄단 말여. 그러니께 이놈들이 안 넘어와. 안 넘어오구서는 그 너머서 그냥 묵척거리는겨 메칠을. 그런디 한 적은 공중이서, "신립아, 신립아." 불르더니 "여기서 진을 치구 있다가는 네 패진을 할테니께 탄금대로 가거라. 충주 탄금대로 가거라." 사흘을 거듭 그라네. '아 여기서 아마 산신이 도우는게빈디, 탄금대로 가라나 보다.' 탄금대로 진을 옮겼어. 탄금대 가서 진을 치구 있단 말여. 그러니께 메칠을 지내가두 거시카구 인저 선진(先陣)을, 인저 보내 보니께 아무것두 웂거든. 그래 그냥 막 넘어오드라는겨. 그냥 막 그래서 이 충주루 이렇게 막 달라들어서 이렇게 오는디, [청중:그게 그때 그 죽은 귀신이…] 응. 그게 지지배 귀신여. 그게 "신립아 신립아 탄금대루 가라"는겨 그게. 그래 거기 가서 진을 치구 있으니께 거기를 가서 보니께니 여기는 강이지 저기는 산판이지 워디 갈 디가 웂어. 그래 교전이 됭겨. 교전이 돼가지구 막 그냥 거시기 하는디, 거기서 군사를 전부 전멸을 당했네그려. 전멸을 하구 보니께 독불장군이 됐어. 이 그 탄금대라는 데 바위가 있거든. 그래 활을 쏘구 통 이렇게 하다가서는 더워서 인저 땜(땀)이 흘루구 견딜 수가 웂으믄은 강물루 뗘들어가서 인저 목욕을 하구 올라와서는 또 거시카구 하니 젼딜 수가 있어? 그러먼서 인저 들구 싸우는겨. 왜적하구 인저 서루 칼을 들구 싸우는데, "신립아, 신립아." 이렇게 공중이서 부르는데 고개를 이렇게 번쩍 드니께 모가지가 똑 떨어졌다는겨. 신립이 모가지가…
출전:《한국구비문학대계 충청남도 대덕군편》4-2(대덕군), p133-138. 신탄진읍 1981년.
■처녀귀신 탓에 일본군에 패한 신립장군(3)
거 참 저 여게 참 뭐 여 떠돌아 댕기는 이얘긴데. 거 저 권, 권율장군이 그 사우(사위)를 모도 이래 골리는데, 그 첫번에 맏사우는 한음을 이래 보고 이거는 냉중에 참 이거 크게 될 사람이께네 맏사우를 골맀고, 그 다음에 사방 댕기며 참 조정에 벼슬하러 온 사람을 모두 골리보이 신립, 신장군이, 신립 신장군이 거 아주 참 상이 좋그던. 냉중 대장을 지낼 참 내 머식을 이을 그런 위치. 사람이 돼가주 있단 말이래. 그래 참 사우를 둘을 보고. 그래 있다, 한날은 이녁 생일을 해서 사우들이 모두 왔는데, [이야기르 바꾸어서] 생일을 하잖에 참, 신립 신장군이 말을 타고 전렵(戰獵)을 나왔그던요. 산에 이래 가다이 [큰 소리로] 아이 노루가 한 마리 고만 뛰 나간단 말이래. 이 노루를 곧 따라가다 보이께로 그거 잡을라고 가다 보이께로, 어데 고만 산은 짚으고(깊고) [빠르게] 고만 막막한데 냉중 고만 황혼이 돼가주고 돌아올 길이 없단 말이래. 날이 저물어서 돌아올 수는 없고 [본래대로] 그래 꼭 거서 산중에서 신음하고 있다이, 여, 뭐 갈 수도 진퇴양난(進退兩難)이래 있다보이. 그 건네 보이께로 반뜻반뜻그는 집에 불이 있그던. '저기 인가가 있으니 거게 찾아가 볼 수밲에 없다.' 그래 거기를 찾아가이 참 큰 기와집이, 기와집만 크단한게 있고 [강조하여] 적적한 고만 머식이그던. 그 산중에 집만 한 개 있단 말이래. 적적하게 손님을 불러도 아무 뭐 대답도 없고 그래 또 대문 하나를 열고 안에 들가서 글그이께로, 그래 처자 목성으로(목소리로) 나즉한 목소리로, "이쯤 산중에 어째 찾아오셨습니까? 여기는 머 참 비조(飛鳥)도 잘 오지 못하는 곳인데, 참 이래 오셨으이께로, 오셨다고." 인사를 그래, 그래 참 하이 여기 참 그 사실대로, 사실대로, "내가 전렵을 하다 보이께로 참 날이 저물어가주고 가지는 못하고 그래 어데라도 하룻밤 의질하고 갈라고 그래 왔다." 그이께로, "그러나 우리집에는 집은 모두 여 잘 집이 방이 많으나 여게는 잘 수가 없습니다." "아 그거 뭔 말이냐?"꼬. "내 거 뭐 어데라도 고만 하룻밤 저 요기는 안씨기도 좋고 하룻밤 여 고만 처마 밑에따나 나무 [말을 고쳐서] 산중에 자기보다, 자기보다는 여가 나으니 내가 찾아왔으이 어데라도 경과를 하겠다."고. 그러이께로, "그마 경과를 하실라만 천상 좋으나 혹 냉중에 그런 뭐 저 후회는 하지, 하시지 마라꼬." 그리이 뭔 곡절이 있는 긑그던. "그래 후회는 뭔 곡절이냐?" 그러이께로, "우리가 참 서울 큰 대가집에 있다가 시소(時騷)가 하도 시끄럽고 이래가주고 그 저 난리가 난 줄 알고..." 그 임진왜란이 곧 난다 그는게 온 세상이 고마 난리난다 난리난다 그만 그렇고 떠들어 재켜그던요. [큰 소리로] 그래 그 난리를 피해서 어느 정승이 무곡(무고)을 좀 해가주고 난리 피난가느라고 거 가서 아주 참 산중을 찾아가주고 집을 거 가서 [본래대로] 가마이 지 놨다 말이래. 지 놓고 거 가서 모도 몇년 사다 오면 평정이 된 뒤에 내 자손이나 보존한다고, 뭐 고만 사람이 다 죽는다고 고마 이래 캐서 머식이 되이, 그래 거 가서 지은게 종놈을 노비를 여럿 데루갔그던. [빠르게] 그래노이 이놈 종놈이 거 가이 무인지경이래서 기운 센 놈이 어른이라 말이라. 그래노이 뭐 종놈 있다 저찌리(자기들끼리) 싸워가주고 이래 고만 나가 많이 죽었부리고 고마 기운 센 놈이 고만 차질하고. 그래이께네 [본래대로] 한 놈이 제일 억센 한 사람이 제일 종놈 중에도 억센 사람이 있어가주고 [큰 소리로] 이게 고마 그 정승이 딱 죽고 나이께로 고마 지 차지가 됐부래. [본래대로] 아들 고마 약한 아들 외동아들이 있는데, 고마 지가 집권을 고만 다 했부리고 거서 장을 보만, 지가 고만 돈 내가지고 가서 먼데 가서 사가주고 이래 지고 와서 며칠씩 견디고. 이런 지경인데. 그래, "그래 오늘 저녁에 그분이 와서 내한테 강요를, 혼사 강요를 하고 있다. 혼사 강요는 인제 다리이도 통 다 그 사람한테 이러 저리 병들어도 죽고 거 고마 머식을 해서 항걸 하지 못하다가 말짱 고만 돌아가셨부리고 그러이께로 그걸 머 내가 살 수는 업고, 내가 오늘 자살할 챔이래. 자살할 챔인데 그, 그분이 완 내가 참 종의 머식을 모르만 모르지만 알고는 거기 지낼 수가 없으니, 그 소실이 될 수가 없으니 천상에(부득이) 이거는 뭐 내가 자결을 할 챔이니 이런 걸 보고 여기 잘 수가 있느냐?" 그이께, "그러면 그거는 관계 마라꼬. 그래 원제쯤 오노?" 그이께네 "밤이 인제 몇 시 되면 요 넘에 가서 저는 오두막을 짓고 고(거기) 사는데 이쯤 찾아온다." 이러그던. 그래 참 시간이 돼, 그쯤 되니께. "그 벽자아(벽장에) 가서 숨어 앉았으라." 이래거든. 벽자아 가서 숨어 앉아서 저놈이 오만 [강조해서] 활을 그쿠 잘 쏴이께로, 활을 고마 메어가주고 딱 바라코 문구영을 둛어가주 내다보고 있으이, 아 이놈이 오는데 참 산악긑은(산같은) 놈이 와서 고만 그래 머식을 하그던. 그래 뭐 처자가 안 들을라 글 수도 없고 글쎄 뭐 곧 거 술상을 갖다 놓고 지체를 하고 그래 그이께로, 저놈이 참 술이 머식 지낸 뒤에 만족한 기분으로 인제는 뭐 이역 참 소실로 알고 그를 적에 퉁두란가 활을 미아가주고 탁 쏴부랬다 말이지. 탁 싸이 [웃으면서] 저놈이 고마 [청중: 신대장이?] 그래 신대장이 탁 싸이 저놈이 고마 뭐 뭐 화살을 정통으로 맞아가주고 고마 거서 꼬꾸래지이, 저놈을 고만 처치해부리고. 그날 나올라 그이께로, 이 처자가 있다가, "난 죽어도 참 선생님을 따라가지 내가 그냥 여기 살 수도 없고, 하이께로 나를 어째든동 소실로, 장개를 가셨다 그께로 소실로 나를 데루 가달라고." 그러그던. "내가 참 뭐 범절간이고 우리 가정 신분을 생각해서 내가 소실은 안주 둘 처지가 못되이 여 고마 나는 여 사는 대로 당신이 사다가 다른 데로 가면 가지 나는 가정형편이 못된다." 그이, 대고(계속) 거서 애걸을 하는 거를 거 참 가정형편을 생각해 가주고 띠좄부렜그던(떼어버렸거든). 띠고 고만 나왔단 말이래. 띠고 나오께로, "그러먼 정 가실라먼 저 저게에 산을 넘어 가다아, 말강(산마루?)에 올라가가주고 내 소리를, 나를 한번 돌아보고 가시라." 그그던. 그래 거 참 말을 타고 천천히 이래 가다, 가이께로 고마 장작을 놓고 그 기와집에 올라가서 불을 싸질러 버리고, 거서 고마 여게 타서 죽는다 말이래. 돌아보라 그려 돌아보께로, "서방님 거 섰이라." 그디마는 고만 불에 끄슬리 고만 죽었버리그던. [큰 소리로] 그걸 보고 나오니 기분이 고마 아짝한게 말이래. [헛기침] 그래가주고 고마 아짝한게 고마 다시 고마 앞이 캄캄한게 그래가 왔단 말이지. 와서 그기 [큰 소리로] 늘 고만 자도 고마 생각케이고 생시에도 생각케이고 [본래대로] 수심이 고마 크 고마, 본게 고마 심기에 고만 곧 누에 고만 심기가 찌고 그렇단 말이래. 그래가주고 그 생일에 참 그 뭐 저 한음하고 그 신립하고 떡 갔그던. 그러이께로 [더듬거리며] 권장군이사 그 모도 상을 잘 보고 하이께로. 예전에 글쿠(그렇게) 화려한 상이고 전부 좋은 상이 워짼동 고마 상이 좋잖단 말이래. [청중: 수심이 만발하고] 수심이 만발하고 그렇기 때문에. "니가 그래 뭐, 그런 니가 암맨 보께로 수심이 많은상 부르이(싶으니) 니가 뭐 요새 뭔 관계가 있으이께, 바로 내한테 바로 얘기를 해다고." 그러께로, "수심될 거는 별로 없는데..." 그런 얘기를 며칠 전에 한 얘기를 쫙 하이께네, "니가 크게 못된다 말이지. 그래서 사람을 살려놓고 와봐야 뭔 일이라도 되지. 사람이 인생이 어째 죽는 걸 니 보고 그래는고?" 그른단 말이지. 그래가주고 냉중 참 뭐 그런 무과급제를 하고 그래께로 냉중 장군으로 봉해가주고 참 임진왜란이 떡 일어났는데 [강조해서] 그래 하이께네 여 와서, 조령(鳥嶺)재에 여 와서 참 진을 쳤그던. 여 조령재에 와서 진을 쳤는데, 아 그러이께네 여 저 일본군들이 상주(尙州)를 고만 점령을 하고 거서 싸우다가 조령재를 넘다 보이께로 도저히 본래 산악과 거기 가서 단 백명만 지켜도 천 명 가지고도 못 올라갈 지경이라. 그리이 거서, 모도 거서 진을 치고 있다가, 하 꿈에 여자가 현몽을 해가지고 말이지, "아 그저 워짼동 그저 퇴진을 하라"꼬. "퇴진을 해서 그저 배수진을 치라." 그그던. 그래 그짜는 배수는 충주까지밖에 강이 없그던. 거 가서 참 배수진을, 이녁도 가만 깨서 생각해 보이께로 [큰 소리로] '이것 뭐 참 나를 도와주는 일이다 말이지. 꿈에 현몽을 하고 도와주이께로 내가 가서 배수진을 치만 뒤우로는 군대가 물이 있으이께로 갈 수가 없고, 적이 오이께로 가지끈(힘껏) 싸움을 해가주고 우리가 이긴다'는 걸 그걸, 착각을 해가주고, 그래 거 가서 충주 가서 고만 탄금대에 그 저 머식을 놓고, 것다 진을 치다가, 그리이 일본군이 여 올라갈라고 거서 보께이네 엄두를 못하고 있다가 냉중에 보께네 소래이(솔개)가 그 빙빙 돌아댕기디만 소래이가 하나도 없단 말이지. 공중을 쳐다보이께로. 그래 일본놈이 일본대장이 있다가, "소래기가 사람이 있으만 저기 음식이 있어가주고 소래기가 어젠동 도디마느 오늘은 보이께로 아무 소래기가 적적한 걸 보이께로 이거 퇴진, 어데로 진을 옮겼다." 그래 척병(斥兵)을 것다 보내 봤단 말이지. 과연 가보이께로 모도 솥 걸린 데와 진친 데가 있고 모두 퇴진해 버렸그던. 그래 와서, "약세하게 그렇더라." 그런께로, "그러먼 이거 전쟁은 고마 이겼다. 전쟁은 이겼으께로 넘어가자." 고마 속히 넘어가 가주고 거 가 충주 거 가서 진을 치고 있그던. 지금 그리이 대소 강약이 부동이고 여기는 몇천명이고 거기는 몇백 명 되던 게 거서 몰살을 해서 다 죽었단 말이지. 그래가주 막지를 못해가주고 쫙 올라오며 사무(계속) 서울꺼짐 내려왔다 그러는, [웃으며] 그런 얘기가 있어요. 그르이께로 사람도 어짼동 여자가 고마 마귀를 덮어 쓰이서 고마 그 현몽을 시켜줬단 말이지.
출전: 《한국구비문학대계 경상북도 예천군편(1)》용문면 7-17, p518-523. 1988년
■충주전설민담-신립장군과 원녀(寃女)(4)
신립장군이 젊어서 도총도사로 있을 때의 일이다. 나라일로 인해서 동분서주 하다가 지금의 양주 근처에서 날이 저물었는데 밤길을 걷다가 어두워서 하룻밤을 쉬어가려고 인가를 찾다 보니 산중에서 등잔불이 반짝이는 것을 발견하게 되었다. 반갑게 달려가 보니 고래등 같은 기와집이었다. 신장군은 대문간을 들어서며 주인을 불렀는데 여러 차례의 재촉을 받고 나타난 것은 한 어여쁜 처녀였던 것이다. 신장군이「나는 과객인데 일모하기에 하룻밤을 쉬어 가고자 하는 사람이오」하고 승락하기를 청하니 그 처녀는 한 마디로 거절을 하고 나서는 구슬같은 눈물을 흘리고 있었다. 의아하게 생각한 신장군은 다시 말을 이었다.「어른들은 어디 갔기에 소녀가 나왔으며 눈물을 흘리는 연유가 무엇인고」하고 다구쳐 물었다. 처녀는 입술을 깨물고「저의 집은 행복한 가정이었습니다. 그런데 얼마 전부터 밤중이면 괴물이 나타나서 가족을 차례 차례로 잡아 갔습니다. 그리고 오늘 밤이 홀로 남은 소녀의 차례입니다」하고 흐느껴 울어댔다. 신장군은 자못 기이한 일인지라 한참 눈를 감고 섰다가 소녀보고 울음을 그치라고 하더니 두 눈섭을 곤두세우며 말을 이었다.「걱정말라 그것은 오늘밤 내가 처치해주마」하고 장담을 하며 대문안으로 들어가 마루에 앉아서 상세한 내막이야기를 듣게 되었다. 밤도 오래되니 괴물이 나타날 시간이 가까워 왔다. 신장군은 투구를 갖춘 후 문 옆에 잠복하고 서 있었다. 과연 야심경이 되자 닭의 홰 치는 소리가 나면서 공중으로부터 거대한 괴물이 나타나더니 온 집안을 한바퀴 돌아서 소녀가 있는 방을 향해서 덤벼드는 찰라였다. 신장군은 때를 놓칠세라 장도를 빼어들고 비호같이 덤벼들어 내려치니 괴상한 소리와 함께 마당 복판에 나 뒹구는 것이 있었다. 그것은 다름아닌 한마리의 닭이였던것이다. 신장군의 몸에서도 비지땀이 흐르고 있었다. 방안을 들여다보니 처녀는 실신을 하고 누워있다. 신장군이 처녀를 소생시키고 나서 다시 닭의 내력이야기부터 시작되었다. 이 집에서 수십년간 길러온 암닭이 있었는데 알도 못낳고 보기도 싫고 잡아먹지도 못하겠고 해서 강물에다 버린 일이 있었는데 얼마 후에 그 닭이 다시 찾아 들어 왔더라는 것이다. 그래서 다음번엔 깊은 산속에다 버린 일이 있었다는 것이다. 아마도 그 닭의 보복이 아니었나 하는 추측이었다. 원인이야 어쨌던 흥분과 감격으로 밤이 밝았다. 신장군은 처녀의 등을 어루만지며 부디 굳세게 사라고 당부를 한 다음 길을 떠나려고 하였다. 그때 처녀는 갑자기 신장군의 손을 잡고 또 울어대기 시작했다. 그리고는 이 몸은 이미 죽은 몸이온데 생명의 은인에게 수족이 되겠아오니 같이 데려가 달라고 애원을 하는 것이었다. 신장군은 그 당시 권율장군의 사위였는데 명문가로서의 엄한 교훈도 있었거니와 천하명장으로서 한 소녀에게 관심을 기우린다는 것은 대의명분이 서지 않는다고 생각했기 때문에「나는 이미 처자가 있는 몸이다. 처녀의 갈길을 찾아라」하며 냉정하게 떠나고 말았다고 한다. 그리고 얼마쯤 가자니까 뒤에서「장군님! 장군님!」하는 애달픈 목소리가 들려왔다. 신장군이 조급히 돌아보니 그 집은 화염에 싸여 있고 그 처녀는 지붕에서 손을 흔들며「장군님은 나를 버려도 나는 죽어서도 장군님을 따르겠습니다.」한마디를 남기고 분신자살을 했다고 한다. 그후부터 신장군에게 무슨 애로가 있을 때면 그 처녀가 꿈에 나타나서 암시를 해주므로써 의사결정에 가끔 도움을 받아 왔다고 전해진다. 그런데 선조 25년에 임진왜란이 일어나자 신장군이 도순변사로 임명을 받고 국토방위의 중책을 지게 되었었는데 신장군은 관군과 충주지방의 의병을 규합해서 파죽지세로 몰려오는 소서행장부대를 조령에서 분쇄하려고 작전을 세우고 있을 때였다. 조령에 포진을 하고 하룻밤에 꿈을 꾸니 역시 그 처녀가 나타났다. 장군님 어찌 그 험산에서 포진을 하려고 하십니까. 저 넓은 충주평야로 적을 유도해서 초개처럼 섬멸시키는 것이 천하명장의 기개라고 생각되옵니다.」이 꿈을 깨고보니 사실 이 오합지졸을 데리고 산중에 풀어 놔봐야 도주자가 생기는 등 대열에 질서만 깨질것 같으므로 탄금대에서 배수진을 치기로 작정하고 조령을 철수한 것인데 결국 패전을 하고 신장군 이하의 수천의 장병이 장열히 전사하고 말았으니 그 원망은 그 처녀에게도 한 몫이 간 것이다.
출전:임석재전집(任晳宰全集)6 『한국구전설화(韓國口傳說話 충청북도편 충청남도편』 에서
※전설과 민담은 여러가지로 해석이 가능합니다. 마치 《전설의 고향》을 연상하게 하는데 임진왜란 탄금대전투 패배는 충주사람만 아니라 전국의 백성들에게도 엄청난 충격을 주었던 모양입니다. 당시의 백성들은 무언가 패배의 이유를 찾아야 했을 것입니다. 그리고 수많은 사람들이 트라우마를 겪었을 것입니다.
야심한 밤에 산중에서 처녀를 만나는 이야기부터가 현실이 아닌 환상입니다. 꿈의 세계이자 신화의 세계입니다. 꿈에서 집은 꿈꾸는 사람의 신체를 나타낸다고 하는데, 초라하고 낡은 집은 꿈꾸는 사람의 심신이 피폐함을 의미한답니다.
고래등 같은 기와집은 부와 권력을 상징합니다. 한 어여쁜 처녀는 꿈에 나타나 의사결정에 암시를 주니 영매이자 무녀이고 닭은 괴물로 나오나 제물입니다. 처녀가 이미 죽은 몸이라 하는 것은 망령이 든 것을 암시하고 집이 화염에 싸였다는 것은 전란을 예고합니다. 망령은 머리에 들어오므로 원한 품은 처녀는 당시의 썩은 위정자들을 민초들이 우회하여 표현한 것으로 볼 수 있습니다.
이 민담에서 원한을 품은 처녀는 서양의 세이렌이나 로렐라이의 요정을 연상시키는데 여성이 파괴자( 팜므 파탈)의 모습으로 나타납니다. 애끗게도 나약한 처녀를 희생양 삼은 전설이라 하겠지만, 이 땅의 힘없는 민초들의 신립장군에 대한 원망이 서려있고 스토리에는 죽은 원혼을 달래는 무속이 반영되어 있습니다.
