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p1 ~ 105에서.
<원문>
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忠州發展史 李 英 著
第一章 概論
一、沿革
古來より忠州を論じた論客は決して少からず、中には筆技を凝らして冊子を編める著述業者もあり、或は口角泡を飛ばして忠北一帶の天地を巡遊し乍ら、忠州を天下に紹介せる現代有意の士もありて、その數ひ切れず。
仰づ其記者は茲に先輩の遺志を繼いで、忠州を論する論客たらん事を敢へて辭せぬ、それは忠州を愛するからである、忠州を慕ふからである、延ひては記者の持つ靈肉を産んで記者の持つ靈肉を培つて呉れた忠州を愛慕するからである。
故に苟くも籍を忠州におきたる糧を忠州に求むる、延いては籍を朝鮮におきたる糧を朝鮮に靈むる當代幽紅の士あらばそれは必すや記者の同志であらう記者は此の稿を草するに當つて、我が忠州の持つ滿天下の胞を 單に胞さ云はずして直ちに忠州邑黨と云つて稿を進めん事を思ふと共に、朝鮮の爲めに忠州を解き忠州の爲めに朝鮮を説いで、我が黨の持つ全使命を果さば記者の幸甚亦此の上無き事を信じて止まぬ。 然らば忠州なる邑號を冠せるは何時誰の時代からである乎、記者は先づ忠州地誌の沿革について
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述べてみる、忠州なる二文字が組立つて忠北忠州なる邑號を贏ち得る迄には隨分の波瀾曲折全經たもので、高麗朝太祖王三年頃は時恰も新羅の逆臣甄萱が反逆を企てゝ、雲霞の大軍、魚鱗の貌狹を以つて山を掩ひ野を塡めて四方の郡縣をその旗下に靡かせた時であると傳へられるが、當時の忠州は飽く迄も高麗朝に歸順して纔に甄萱の劍戟を免れて衆庶皆樂只として暮すを得たことは事實である、勿論その以前は忠州郡庶務主任南外七君を始め奧土居天外君等の主張通り檀君二千三百八十一年迄范長城と呼ばれ或ひは國原城或ひは小京府、四川省と呼ばれたかは何れの史蹟を探るも皆異論なく、記者はたゞ當時の忠州を偲び乍ら現今二萬餘の市民を容れて尙巍々として天外に聳ゆる南山城を思へば思ひ半にして暗淚に咽ばされずにはゐられない。 何故なれば昔忠州を范長城と稱して新羅の眞興王我が忠州を小京府又は四川省と改めたる時は既に忠州は朝鮮デカタン主義の巢窟となつて千載の肝黨跌屬し、其の上に王子王孫を始め六部豪族なるものが此の南山城下に移住してから、あらゆる暴動を擅にせる爲め千古萬古に掛けにて苦節の芳芬を傳ふる此の南山城が今は湟濠全く埋まり、殿堂梅門、輪換を極めし美も、今は全くその跡消へてたゞ昔日の壯觀を偲ばせる形見とのみなつゐゐる事を想像するからである。 若し當時の貴族子弟並に六部豪族なるものの子弟が今少し中庸本位の漢學思想を以つて國原京時
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代迄の百八十年間を史蹟保存思想並に鄕土愛等の精神を以つて斯土をよく經綸してゐて吳れたのだつたら、今の忠州は史實に於いても文化に於いても、今の平壤や慶州よりは遙に有名なる所となつてゐたであらう。 當時の忠州が一時に咲き誇る畫局の花園の如かりしを空間的に考察すれば美は美、善は善なりしに相違ないけれど、飜つてこれを時間的に考察すれば不美は不美、不善は不善なりしに相違ない。 故にそれから後新羅の景福王元年に四川省を中原京と改稱して忠州史上の黃金時代を誇りし時は忠州土人は皆忠州を以つて直に歌舞宴樂の土地と見放して遊蕩生活にのみ耽つてゐたと云ふのも決して無理はない様に思はれる。 中にもあの有名な伽倻國の樂師于勒が、國政の非なるを見て慨然と琴を抱いで山紫水明なる忠州に來りて彈琴臺にその餘生を送つたと云ふエピソードに徵するも當時の忠州が如何に浪漫的であつたかが窺はれるであらう。
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而して高麗朝に入りて太祖王が今の忠州なる邑號を冠せしめ成王の代に至りて忠州に道を配置し今の仰城面龍堂里に節度使及び昌化軍別抄軍三百人を置きて邊域に備はらしめたる時は既に浪漫氣息は漸々廢れて行つたのである、然るに其の氣氛が根絶されたのは高麗朝文宗王三十五年頃の事であらふ、それは文宗が特に忠州を都督府と改稱して牧使を置き軍務行政の任に當らしめたるを以つて見ると明確である。 斯くして漸く明月の光りに宿らんとせる忠州は時しも高麗朝高宗四十一年頃は文恬武熙、世は正に眞なる意味の泰平を謳はんとせる時しもあれ元の大軍は怒濤の如くに澎湃し來りて東進し鴨綠江以南の郡縣は悉く屠戮され、饑餓道に滿ちて一日に淚ぐましくも數萬の墓標が立つ時、忠州は倉正崔守が勇士を募りて敵金堂峴卽ち今の東良面に迎へてこれを擊破し防禦都監金允孝は朴達齒卽ち今の山尺面に伏兵を置きて敵を慘々、邀擊してその鼻帥を斬り旗を擧げて所謂北グルを追ひこれを塵殺して慶尙道以南の民をして戰亂の厄を免れしめたのである。 其の夜忠烈王三年には忠州城を改築して礎石に蓮花を彫刻せしめたるより、忠州を一名蘂城と稱
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してゐた事もあり降つて李太宗元年には高麗朝の郡名を襲ひ牧使を配置し行政區劃を忠清道と改めて特に忠州には左監司をおき世祖三年には築城を再び忠州鎭營と改稱して七邑則ち今の永春堤川丹陽淸風槐山延豊陰城等の軍務行政を管掌せしめたる時は城内は人煙稠密にして一時股肱を極めてゐたのであるがその後李太王建陽二年には舊韓國政府氣張つて行政改革の聲を擧げるや、忠州には忽ち觀察使をおきて忠淸北道行政の首腦地とされた爲一朝にして都城五百年の歴史は茲に一段の異彩と光輝を添へる様になつたのである。 殊に日露戰役後は内地人の往來するもの日に増し月に加はりて、前途の光明を祝福するの時に當り、明治四十年代韓保護條約が締結さるゝや、義軍を名とせる暴徒は忠州を中心として烽火を上げて蜂起し而して掠奪を擅にしたる爲め交通の危險も又名狀し難きものがあつたが、時に恰度守備隊が駐屯するに及んで住民はやつと其堵に安んずるを得てゐたけれど、誰をか知らん、李王隆熙三年觀察使を淸州に移すべき運命を枕にしてゐた事を。 斯くして忠州は全く燈火消滅し唯空のみ暗澹として闇く、槿花一朝にして凋落すべき運命は刻一
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刻と迫つて來たのである、その後大正三年中央鐵道布設の計劃成るや忠州住民は坊間にて騒ぎ而して地價熱の高騰に誘はれて來往者のみが雲の如くに集まりたる時、道路交通の完備と産業の發展は忠州に潑刺たる生命を授けたる爲め今や我が忠州は米産の忠州、黃色煙草の忠州として忠淸北道内はおろか朝鮮全鮮を通じて斷然頭角を現はしてゐるのは、何と云つても前途亦多慶なりと云はねばならぬ。 斯くして成れる忠州はその地勢忠淸北道の東北に位置し忠淸北道廳所在地淸州を距る事十七里二十七町にして北は鷄足山を負ひ西は漢江を吐いで其の間に連る忠州平野は弘々無涯、東の南山一帶は丘陵突兀として聳へ而かも南社稷山は松翠何時も濃かなる中に其の山麓を縫ふて流れる潺湲たる小流は、昔城廓の外濠なりしものゝ如くに傳へられてゐるが今や朝鮮鐵道株式會社の手に依つて、忠北線が開通されて忠州人は何れも皆朝鮮有數の都會地に向けて手を出せるを得たと共に、江原慶尙の奧地とは道路改修の恩惠によつて或ひはトラックの便を利用し或ひは陸運の便を利用して譯なく東西比隣の惠澤を蒙りつつある。
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亦市區改正と云ふ眼目から見ても忠州の市街は恰も京都のそれの如く或ひは平壤のそれの如く、何れも皆規矩短整として隆々發展の機運を促しつつある徴候は誰が見ても火を觀る樣な事實である 現に忠州市内は四區に分れて先づ本町を筆頭に榮町、錦町、大手町等を擁し何處に行かうとも商鋪は櫛比して正に中部朝鮮の大市場たる面目を恥ぢない位である。 郡は東西九里、南北八里而して總面積は五十七方里にして平野は西方に展開し耕地面積は二萬二千餘町步を算するに至つたのである、その上漢江の本流が忠州の中央部を貫流してゐるので奧地の民には舟楫の便をも與へてゐるのみならず、其の支流は郡内各地に通じてゐるので滅多に水害とか旱害とかの聲を聞く事も一寸難事であり、尙地味豊穰にして氣候溫和である故に何の不悶も感する能はざる朝鮮の寶庫であり且又日本の寶庫であり世界の寶庫である可きそのエドワスを大いに誇つて可なるべき所である。 現に内鮮人世帶戶數は二萬二千百四十三戶、人口は十萬五千九百七十九人を抱擁せる忠州は古來
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より行政機關の主腦都市として股肱を極めてゐるのであるが、何と云つても惜しい事は無限に華やかなりし忠州の運命が、明治四十二年に春花地に委して殘鶯聲漸く稀に、新綠陰深くして、杜鵑一聲愈々以つて懷蜀の情を唆らんとする時、道廳移轉問題が擡頭して忠州の天地を震騷して行つた事である。 それからの忠州は論するに言なくして寂寥たる一寒村と化したる如き一感無きにしもあらざりしたが、それも一時の事であつて永久の事ではなかつた、何故なれば當時は忠州に根氣強い人格者ばかりが蝟集してゐて、斯土の開發とその發展を期しつつあつたから。一寸名を擧ぐれば官海に湊信三徐晦輔 酒井文次郎 民間に原口一二、高村甚一、鈴木政一、宇野佐平、尹政求、鄭雲盆、皮海鵬、赤松時圓、宋錫均、洪夢華、福山忠太郎、原田長次郎等の諸星、何れも忠州の元老として將又開拓者として成功者として忠州市民にはおろか忠淸北道民に迄、その德を誦はれてゐたからである。 故に忠州の發展は如上先輩の奮鬪努力の産兒として今日に至る三十餘年間、何の問題なくぐんぐん育くまれて來たのである、だから今や一躍して中鮮に蔚然その頭角を現はしてあらゆる方面の
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文化的糧食を呑吐してゐるのも決して無理はない事であると言はねばならぬ。 其の上昭和三年度より忠北線の汽車は開通され其他交通運輸の便は慶北の豐基、尙州、聞慶、榮州を始め江原寧越、平昌、原州、旌善等に向けて愈々便は至便となりたる爲め忠州市民の利は巨利となつたのである。實に過去を聯想すれば隔世の感があつて直餘りある所と言はねばならぬ。 勿論忠州が今日の如き發展を齎した工程的理由は地の理の然らしめる所にして前に萬頃の良田沃野あり後に無限の石炭鑛あり、殊に歐洲大戰亂勃發以來水山面並びに沙味面の重石鑛は無盡藏の寶庫と稱せられ、忠州は斯企業家等の注目の焦點となりて市況遽かに活氣を呈した時もある。 此の當時を世界的に論じて成金時代と云へば此の當時を、忠州的に論ずれば忠州は直に人口増加時代と云はねばならん程に、素張らしい發展的趨勢を我が忠州人は眺め得ることが出來たのである、故に當時の忠州郡各面には市場が方々に新設されたのであるが中にも嚴政面牧溪及び利柳面大召院の兩市場の如きは何れも皆一箇年に六十八回乃至六十九回の開市を以て一箇年の賣買高四萬三千三百九十四圓の取引をなして商業上の勢力は遠く堤川原州平昌寧越等の各郡を抱擁、物資の移出入中
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樞地として市況殷賑を極めてゐたのは忠州市場と伯仲の間に列するを得たと共に廣茫五十七方里中の忠州邑、利柳面、周德面、薪尼面、老隱面、仰城面、蘇台面、可金面、金加面、嚴政面、山尺面の忠東面、沙味面の一邑十二面百四十二里の大部は愈々百年千歳の夢を貪り乍ら其の緒につかんとして第一步を投ずる様になつた。 日韓併合以來歷代總督の施政方針に基き當局の誘導提撕能く其効を奏し、農事の改良、殖林の獎勵道路の開鑿等治績大に擧り殊に殖林成績は全鮮に冠たるものもあつて滿目荒涼の赭山違かに靑裳綠衣を纏ひて新政を謳歌し蒼生孜々として、其の業を勸み疲勞困難せし民力は充實し納税成績は爾來忠淸北道中に於いて善中の首位を占めつつあるのである。 從來忠州人は民族階級の壓迫と酷吏の苛斂誅求に苦しんでゐたのが時に明るい新政の施政整然たるに及び民衆皆樂脊に安心じ鼓腹して天恩に感泣してゐるのは御同慶に堪へん次第と言はねばならぬ。 官公署の主なるものは公州地方法院忠州支廳、忠州警察署、忠州郡廳、忠州郵便局、專賣局忠州
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出張所、殖銀支店、煙草耕作組合、金融組合、公立農業學校、普通學校、小學校、忠州邑事務所、麴子製造組合、忠州學校組合等にして主なる會社は朝鮮鐵道株式會社忠州驛、朝鮮トラック會社、中鮮運送支店等である。 今忠州の概略を書いて見ると今の忠州は市內電話や電燈は既に設備されてゐるが上水道が未だ出來て居ないので衞生上何とか謂ふ人もあるが元來忠州川、校峴川に挾まれて居る市中の井戶水は案外豐富であり、水質は申分ない良好なものなので、現在では水道の必要を左程迄感じて居ない、これを以て過去歷代を考へて見ても正に時代の進步に對しては驚異の瞳を睜らねばならないが、今一つ物産を以て論じて見ても猶然りである。 忠州郡産のお米は今の所十萬石を越へないが忠州の商圈に屬する堤川郡、丹陽郡、寧越郡、平昌郡旌善郡の米が交通の便を慕つて忠州に集散されねばならぬ運命にある以上今後は何うしても汽車開通に連れて素晴らしく其の量を増して行かねばならんと云ふのも理の當然であると言はねばならぬ
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何故なれば從來は單に漢江舟楫の便に依つてやつと龍山方面へ縱のまゝ搬出されたものが昨年の如きは汽車の便の爲めに一躍五萬石以上に達してゐる點より見れば此の趨勢は今後飽く迄も幾何級數的に増加して行くべきものと斷言しても決して誇大であるまい。 黃色煙草は忠州が朝鮮に於ける最適地と見做されてゐるが其歷史は極めて新しいのであるにも拘らず、高級兩切煙草の原料として黃色煙草は忠州附近特産のもので今でも朝鮮內の需要を満たし得るは勿論內地の高級煙草材料としてでも今では絕對的必需品である爲めアメリカ産煙草輸入を阻止するに大動力を有してゐるのみならず、數年前よりは返つてアメリカへ逆輸入する豪氣さで每年忠州附近のもののみにて百二十萬圓を下つた事は無いと言はれてゐる。 大豆は小粒に屬するもので忠州及び其奧漢江の上流地方に産するものが粒の揃つてゐること、充實して居ること故各方面より徒らに龍山大豆とか或ひは仁川大豆とか云ふ飛んでもない名前を冠せられてゐる爲め、內地各地では餘りに有名なるものとされてゐるが之れも米と同様單に漢江の船運に便つて京城、龍山並に仁川方面に出てゐたものが其の數量僅か四萬石內外であつたが其の最後汽車の便を利用する爲め間斷なく輸送されるので商取引も從來に比して餘程圓滑に行き得るのみならず、
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丸忠の名を以て阪神地方は素より房總方面釀造界の寵兒として今や其の進運が開けんとしてゐる。 その搬出可能數量の如き問題に對しても尙今日の倍量に達せしめる事は極めて容易な事であると忠州邑インテリゲンチヤの口上に上つてゐる、養蠶はその歷史は極めて最近に屬してゐるが其の收獲量の如きも未だ誇るに足らないが現在忠州では三千五百石であるが昭和十一年迄には總督府の産繭百萬石計劃順じて現在の倍額迄はごうしても達せしめねばならないと其の筋では意氣込破ゐるから、何問題はないだらうが、此れに關聯して數年前から小規模の製絲業者簇出して忠北産業界に相當重要な役割を勤めるばかりでなく忠北製絲界の牛耳をとつてゐる様は何と言つても忠州人の持つ根氣強い魂の所致であると言はねばならぬ。 陸地綿も忠州に於ける最も新しい産業の一つであると言ふのは氣候の寒い土地に不向きな陸地綿が果して忠州で生育するかどうかが永年の間疑問とされた爲めに數年間忠州郡農會で耕作試驗を行つて近年漸く耕作可能性のあるものと認められて始めて生れて來たのであるが朝鮮南部では一番後進地と言ふ立場に置かれてゐるから今日も猶斯道の人等から注目の的になつてゐる譯である。
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然るに其の成績は全鮮反當平均六〇斤乃至八〇斤であるにも拘らず、先進地に撰んでで百斤乃至百五十斤に達し一躍朝一の名聲をほしいまゝにしてゐる、唯遺憾なのは未だ新しい爲め其の耕作面積が僅か五百町步に過ぎないので、今後はごうしても耕作面積の擴張に依つて實力ある進展を見ねばならない事である。 畜産物としては何と言つても牛が大宗をなしてゐる、現在居るだけでも八千六百五十餘頭に達してゐるから農家二戶に對して一頭強の平均率であり耕地二町六反に對して一頭當りの平均になつゐるからその大宗たる所以もつて知るべしである、然も數年間消耗と生産とが略々均等に行はれてゐるのであるから牛の生産地と云ふ事は出來ないが去りとて消費地と斷ずる譯にも行かぬ、何時だつたか記者が忠州畜産組合に、山田君を訪ねて其の腹案を叩いてみれば當局としてはせめて二町步に一頭と言ふ域迄はごうしても進ませ度いと言つてゐたから、それ位の事は近々問題なく實現されるであらう。
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忠州の土地が江原道、忠淸北道、慶尙北道の三叉路になつて居る關係上牛の集散地としては古くから有名であり又忠州市場の相場が他に牽制される事なく、寧ろ附近の市場を常にリードしてゐる點から見ても相當有力な牛市場である事は論より證據の事實である、近年何處の牛市場も取引數は非常域に減じ、好況時代に較べて半量の取引にも達しない狀態であり、從つて忠州市場も其餘波を多分に受けて居るが、それでも每年三千頭の取引を降らない。 林野方面至つては目下の處、專心殖林と砂防に全力を注ぎ物産を以つて採算出來る樣なのは寧ろ稀有に屬してゐる、恐らく百年の大計を以つて氣永に築き上げつつある愛林家と、各種の取締法規を以つて遠き將來を期待すると云ふ程度のものである。 忠州の果樹は極めて集約的であり其の面積も他に誇り得るものとは云へないが潑刺たる忠州果樹組合員の意氣を以つて其の生産が算術級數的に増加して、果實價格の暴落せる今日に於ても優に十萬圓の水揚を示して逐年收獲量を増加する動向にあるのは何と言つても嬉しい有難い動向の一つであると言はねばならぬ。
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次ぎには忠淸北道北部麴子組合なるものがある、北部とは則ち忠州、堤川、丹陽三郡を指すものでにして朝鮮酒釀造用の麴子を造り、酒造家に配給する役目を持つてゐるものであるが、其の製造高は麴子だけでも年産三十七萬個にして、それが朝鮮酒二萬五千石の釀酵源を爲すものであるが、其の品質の良好な事は少量の麴子を以て充分釀酵作用を遲しふし奧地産の酒類の聲價を高める唯一の誘因を爲してゐることを以つて見るも充分鏡岩の譽れがあつて餘りがある。 是等の忠州を彩る物産を以つて忠州邑民の實生活を左右する金融機關としては朝鮮殖産銀行忠州支店並に忠州金融組合の二箇所に過ぎないが其の兩者共時勢的不況に逆行して誠に確實な業績を表はして盤石の如き安固さを示してゐるのは忠州が財政的に相當信用すべき土地である事を雄辯に物語つてゐる現象の一つである。 昭和五年迄の兩者貸付高を警見して見ると殖銀支店が百四十四萬圓、金融組合が十萬圓位であるが之れは鐵道開通以前の様に物資の動きが極めて緩慢であつた方である、併し今の様に物資の集散取引が敏捷になつて見れば到底在來の金融機關のみにては其の肢軀を充分暢ばし得る譯はないか
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ら、結局自然に商業金融機關の必要が飽く迄も必然的に叫ばれて來るであらう、最近本店か否かは知らないが或る一部の市民が此の點に留意し覺醒した爲め寄り〜商業銀行か、都市金融組合の設立を要求せんとする氣運が擡頭して來た事は當然の理路であり且又當然の行路であると言はねばならぬ。 其の他又中央劇場なる劇場がある、よく床の間のない家には落ち付きがないと言ふ、こう云ふ意味合ひを以つて記者は劇場のない都市は都市として間を拔かした都市であると言ふを憚らない、幸ひ此の意味を善く解してゐた忠州草分けの一人鈴木政一君が多大の犧牲を排つて中央劇場を建てられた事は忠州人士に何れだけの慰安と梨を嚼む樣な柔らかな味を興へ得るもの乎、一々計り知れないものがある。 その構造は劇にもよし、キネマにもよし然も相當收容力もあるから當分忠州で不足は謂へないが忠州が今後隆々發展して此の劇場が狹ひと言ふ程度になれば忠州はもう成人したものであらふ。
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歷史的にざつと如上のごとく、論じ來たつて忠州を槪念的に眺むれば何と言つて遠い昔より忠州は暴徒草賊の巢窟であり民心粗暴にして狡點、狂躁、浮動の弊ありしは論より證據の事實、加之頑迷なる兩班、儒生は猜疑心を以つてあらゆる新風潮を呪ひ而して虛を避け實に着くの時代的敎訓を忽緒に附してゐたが官憲の不斷の注意と緩撫誘導の效空しからずして、今や上下皆新風潮を謳歌し鼓腹して業務に精勤し克く官憲の指導に從ひ、敎育に、農業に、産業に、逐年進步の跡を留め全く舊態を脫却して誠實款朴の美風を養つて飽く迄も根氣強く伸び行かんとするは記者が、斯邑に生れて此の方二十六年、その間の過去を聯想し乍ら槪論の筆を擱かんとすれば轉隔世の感もあり、超越の感もある大隔世の感もあり、大超越の感もある。
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第二章 詳論 一、
郡 行政
記者は前編槪論の卷に於いて忠州郡一班を至極槪念的に述べでおいた、それは意字が示す如く忠州郡の綜合論であつて部分論ではない、仍つて記者は今少し部分的硏究の部門に入つて郡內の行政並に敎育、警察、裁判、農業、商業、金融、通信、交通、風俗、宗教、思想等の各界に亘つて出來得る限り之れを史的に論じてみる積りである。 先づ郡行政に目を轉じてみると忠州郡一圓の民が忠州郡を代表して郡臨せる行政官にその郡劃的政治を受け創めてゐたのは何時、誰の時代からである乎。 それは李朝太宗元年に高麗朝の郡名を襲ひ牧使を配置して行政區劃を忠淸道と改めて前の忠淸南道廳所在地公州に右監司をおき而して前の忠淸北海道廳所在地忠州には左監司を置いた時からであらう。
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故に當時は今の忠南を忠淸右道と云ひ今の忠北を忠淸左道と云つてゐたのである、それから後世祖三年には特に忠州を忠州鎭營と改稱して七邑の軍務行政を掌理せしめてゐたのである。 だから今の行政官廳の廳格と今の行政官の官等とを徵比すれば、當時の監營と云ふものが今の道廳とほぼ同格のものであり、當時の鎭營と云ふものが今の郡廳に警察を一寸加味した位のものであるそして監營を統率せる監司が今の知事級位の所であり、鎭營を統率せる營將が今の郡守か警察署長位の所である。 其の後半李太王建陽二年に舊韓國政府が行政改革の聲を擧げるや監營は直に觀察府となり、鎭營は直に警務廳となつて、今の忠州郡を忠州府と改稱して牧使なる今の郡守級の行政官を以つて郡行政の任に當らしめたのが十餘萬の忠州郡民が郡劃政治を受け始めた喘矢時代である。 今若し忠州人にして當時の面影を偲ばんとするば先づ守備隊の廳舍と、郡廳會議室の淸寧軒を見ればよい、何故なれば今の守備隊廳舍あれが當時の鎭營廳舍の廢墟であり、今の淸寧軒それが當時の
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觀察使の廳舍であつたのである。 それから李朝末の政界風雲に乗じて、春風秋雨、幾星霜全經る中に代は變り星は移つて李王隆熙三年には此の觀察府が淸州に移轉されるや否や、同年八月二十九日に日韓合併の詔勅降つて忠州府は郡政改革なる總督府の施政方針に基きて郡廳所在地となり、而して爾來忠州郡とよぶ様になつたのである。 思へば正に梅花點紅の一興ありて其の崎々嶇々たる忠州郡の運命史は口筆を以て一々、名狀し難きものがある、勿論當時の忠州郡民はたゞ己れに土地あらば祖先傳來の農營方法に基きて耕耘或ひは播種して一年の家計を憂ふるのみで別に土地改良とか農事改良とかの潑刺たる進取の氣象は有してゐなかつたのである。 斯くしてやつと御冬の糧を得れば、後は唯悠々閑々と閉門誤坐して子弟の早婚を謀り或は鄕黨の霸を爭ふ等、實に言語道斷なる暮らし方をしてゐたのである、彼等は子弟敎育機關としては書堂を因
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襲的にも固守せんとしたものが郡民全部と云つてもよい位であつたが仕宜慾に燃ゆる一部の者のみが、學校敎育の必然を說いで官公吏に阿諛附着し出したのである、此の間にありて我が歷代の行政官は、よく其の中をとりよく其の和を成して、今日を見る魯春秋時代全實現せしめたのである。 今歷代の郡守と歷代の庶務主任並びに財務主任の名を擧ぐれば大略左の如くである。 郡 守 一 代 徐 晦 輔 二 代 尹 錫 弼 三 代 申 昌 休 四 代 李 敬 植 五 代 金 鴻 圭 六 代 金 基 善 七 代 崔 志 煥 八 代 金 錫 泳 (現任) 庶務主任 一 代 原 田 文 作 二 代 田 中 勳 三 代 原 田 文 作 四 代 澁 田 市 藏 五 代 島 倉 孝 太 郎 六 代 小 柳 榮 雅 七 代 山 本 幸 四 郎 八 代 秋 山 文 雄 九 代 水 野 精 二 郎 一〇代 南 外 七 一一代 吉 田 豐 次 (現任)
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財務主任 一 代 正 村 要 藏 二 代 尾 西 淸 三 代 綾 部 熊 男 四 代 近 藤 保 利 五 代 富 田 常 治 六 代 小 泉 柳 磨 七 代 林 良 之 助 八 代 芝 崎 恭 三 九 代 三 好 源 一 一〇代 長 谷 川 正 己 (現任) であるが君等は何れも皆北星の如き態様を以つて、よく斯土と斯民の利を經綸したる爲め郡政は日になり月に進んで今見る大忠州が巨然として聳へ而して中鮮の天地を瞰してゐるのである、中にも第一代の郡守徐晦輔君の如きは幕下の田中課長を激勵せしめて京城より大邱に通ずる一等道路に接續する道路を幹線として五間幅四線、延長六百二十間、四間幅十三線延長千六百二十一間、三間幅四線延長五百六十六間、二間幅三線延長、五百十八間、合計二十四線延長三千三百十五間の工事を進涉せしめて、市區を構造せしめたる如きは、千古萬古に掛けて朽ちざる顯績であり。而して降つて第二代郡守申昌休君は官紀の肅正を期せしめたる等々、實に其の功勞今になつて賞し難き感がある。
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然れ共第六代郡守金基善君の如きは忠州地方の各系思想靑年を抱擁する能わずして飛んでもない誤解を招きて斯腕を十二分に發揮し得ざりしは暮々も遺憾千萬である。 幸にして好漢第七代郡守崔志煥君がその後を跟いで赴任し、それ迄に出來上りたる郡內の畜産組合並に酒造組合、穀物檢査所、土木管區、學校費事務、果樹組合、鄕校財産整理等の萬般を郡政の主眼點に歸一せしめて、よく統制しく指導したる爲め、郡政は茲に一新し公立農業學校の創設を筆頭に、忠北線開通並に郡廳舍新築、忠州養鷄組合等の創者として一でも二でも郡守と云ふ所まで郡政のすべては刷新せられて來たのである。 それは勿論當人の行政的手腕に預つて力があつたからでもあるふか、其の左右翼にゐて忠州邑外十二個面の庶政並に財政を執掌して其の大化を企圖し而して郡政の發展を促して止まざる現任庶務主任南外七君並に財務主任長谷川正己君等の熱誠溢れる努力に俟つものと云ふも亦至當なる忠州論據の一條であるものと云はねばならぬ。
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第三章 警 察
次ぎに忠州郡內の警察を論ぜんとするや、何してか、暗淚濳々として流れ來たるを覺へて止まね知るものはよくこれを知るとは云へ、先づ諸條を據へて曰はば、 一は日韓併合以後の警察力に依つて忠州郡內の産業が振興されたる爲め民心漸く靜謐に歸せし 所以を思つてであり
二はあの武斷警察が民衆警察なる看板に革つて來た事を想つてゐ根る、 思へば實に隔世の感があって餘りがある、何故なれば日韓併合以前の忠州に今の忠州を徵比してみるからである。 當時の忠州はそれこそ暴徒の踐定と政派思想の橫行によつて、一般時代民心は專ら狂躁にして浮動の弊あつたのみならず、官憲の苛斂誅求に苦しんだ爲め忠州に於ける十萬餘の民は一毛肢軀をもこれを伸ばして暮らすを得なかつたのである。 それが併合後、仁政の普及と共に警察力集中の必要上、忠州には警備機關として警察署を配置せる外、忠淸南道天安憲兵分隊の一區域として忠州憲兵分送所をおき、而して憲兵や補助員を配置せ
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しめてよく警察任務を遂行せしめたる結果、明治四十三年七月に憲兵警察が統─されて、愈々忠州憲兵分隊と改稱するに至つたのである。 そして分散的警備機關の配備と共に憲兵分隊を以つて警察代へ、忠州憲兵分隊長をして公州地方法院忠州支廳の檢事事務を兼攝せしめてゐたのである。 由來、歷代の憲兵分隊長は常に新附同胞の窘撫誘導に努めた結果たるや民心全く一變して、歷代總督の文化政治を謳歌するに至れる時であつたが、當時忠州憲兵分隊の管轄區域は忠州郡丹陽郡及び槐山郡の一部則ち今の延豊等にして丹陽延豊には分遣所をおいで、即決處分並に民事訴訟の調停、執達吏事務の遂行等を取扱はしめてゐたのである。 今當時の記錄を蒐めて即決事件の最多なるものを擧ぐれば、先づ賭博罪がその首位を占め、次ぎは警察犯處罰規則、暴行罪、(刑法第二百八條)屠獸規則並に民籍法違反等であつたが、無論當時の一般郡民は其の處斷敏速にして且公正なりとて正式裁判を要求しなかつたのは、仁政に徵するも然りであるが、又一般記錄に徵するも亦然りである。 彼等三郡二十八餘萬の民草をして斯く迄、薰陶育成せしめた歷代分隊長の名を擧ぐれば大略左の如くであるが、今記者が遺憾とする所を茲に拔撰して左記すれば、記者が連日此の稿を草する爲め
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忠州署に出で、あらゆる記錄を探つて見るも、歷代分隊長に關する墨魂としては一をも見當らなかった事である。 仍つて記者は後進の不本意なりしを宇田署長に告げて歸らんとするや、幸ひ宇田署長は記者の襟を grabbed で曰く、 『余は實は大正二年の春に忠州憲兵分隊の一員として著任にして燻度の夢を貪つてゐた關係上歷代分隊長の署歷は知らぬが其の名前だけは知つてゐる云々』と呵々一笑しつゝ筆をとつて敎へて吳れたのである、若し彼れ 宇田亮太郎君が茲ゐゐなかつたの立つたら歷代分隊長並に其の遺魂は何處に飛んで行くべきであつたらふ乎。 實に記者は多恨多謝の一意を血湧く衆庶の葛胸裡に歷代分隊長の名を一枝の梅として左記して止む、 分 隊 長 第一代 憲兵大尉 玉 井 八 十 彥 第二代 憲兵中尉 野 中 政 一 第三代 憲兵大尉 有 馬 精 秀 第四代 憲兵大尉 池 上 勝 登 第五代 憲兵大尉 荻 原 茂 夫
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氏等にして其の後警察制度の改革に伴ひ人文發達の必然勢力に従つて大正八年八月二十日には朝鮮總督府令第一百三十六號により此處茱萸庵忠州の地に芽出度も忠州警察署の設置となつたので、同日郡席に於いて忠州憲兵分隊より事務の引繼を受けて忠州憲兵分隊の廳舍内則ち前忠州邑事務所に普通警察事務を開始する樣になると共に大召院、龍院、連河、龍堂、牧溪、松亭、早洞、武陵、塔坪等の各憲兵分隊出張所が廢止され、同時に警察官駐在所を同日同地に設置したのである。其の最後度か 警察事務の改革が行われて今見る民意暢達を大眼目とする文化警察が生れて來たのである乎。 初めは忠州署管內に忠淸北道內訓第八號によつて警察官を配屬せしめたる事其の數七十六名なりしと雖、就中三十名は憲兵を道巡査に轉ぜしめたるものにして、忠州署の管轄區域は忠州本署が忠州面並に金加面を管轄區域とせるの外、、 大召院駐在所 (利柳面、周德面一圓) 龍院駐在所 (薪尼面一圓) 連河駐在所 (老隱面一圓) 塔坪駐在所 (可金面一圓) 龍堂駐在所 (仰城面一圓) 牧溪駐在所 (嚴政面並に蘇台面一圓) 松亭駐在所 (山尺面一圓) 早洞駐在所 (東良面一圓)
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武陵駐在所 (沙味面一圓) となして大正八年十月二十六日に第一代の署長として道警部小松淸之助君が赴任するや否や、萩原憲兵分隊長より警察事務の引繼を了して職員全部と共に忠州邑吾妻町所在 忠州蠶業組合蠶繭乾燥場を假廳舍として警察事務を開始してゐたのである。 因に忠州郡金加面が忠州署管轄の域を免れて一個の駐在所所在地となりしかば、大正九年三月一日にして其の親忠州署の職員配置は大正九年五月四日の總督府內訓第八號を以つて警部は內鮮人各一名警部補は內地人三名朝鮮人一名、となつて翌年六月一日には駐在所名を所在地面名と同一に改稱するに至つたのである。 而して蘇台面福灘洞並に周德面新中里に駐在所が設置されたのは大正九年六月一日の事にして、其の最後道巡査の定員七、忠淸北道內訓によつて八十三名となると共に、大正九年八月十五日には牧溪に警察官出張所を設置して牧溪洞及嚴政面論江里を受持區域として、內地人巡査一名を配置してみたものである。 それから警察事務は續々槿花の域に異彩を放つて、發展達成せられ大正十年二月十三日には現在
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廳舍の周圍の土地を寄附せられて、新築落成し同日移轉後同年四月十一日に落成式を挙行した。 越へて大正十一年二月一日には人事相談所を設置して、哀れな者の相談相手になるを怠らず、延ひては同年四月には、六檻房より成る留置場を改築起工して同年五月下旬に落成したる爲め、當時事に於ける地方警察としては誠に威風堂々たる外觀を備へてゐたのである。 それから以後大正十三年十二月となるや例の行政整理の季節風は此の署にも洩れずして、容赦なくやつて來た爲め、忠淸北道內訓第二號に依り道巡査の定員を左の通り改正配置したのである。 本署 (三十名) / 嚴政 (五名) / 仰城 (五名) / 利柳 (七名) 金加 (三名) / 可金 (三名) / 蘇台 (三名) / 老隱 (三名) 沙味 (四名) / 山尺 (四名) / 薪尼 (四名) / 東良 (四名) 合計七十五名であつた。 斯くして此等警察官に尙武の精神を練磨せしめんが爲め同年四月には忠淸北道知事朴重陽君の承認を得て、忠州邑有志原口一二外三十名より一金七百圓の寄附を受けて從來使用し來れる訓授室を改
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築して之れを武道場に代用してゐたのである。 斯くの多數綿々一而も勇々たる警察事務第一線に立ちて力戰苦鬪せる歴代の署長等は誰であり、而して歴代の署長等は我が忠州の爲めに何を殘して行つた乎 今記者は歴代署長の名と其の膝下にあつて奮闘し歸れる歴代警部の名を挙ぐれば、左の如くである。 歴代の署長 第一代 小松清之助 (內地に隱居) 第二代 古川貞吉 (平壤警察署長) 第三代 幾世橋幸助 (全北警務課長) 第四代 牧田之夫 (死去) 第五代 田中嘉吉 (新義州警察署長) 第六代 小山定雄 (內地に隱居) 第七代 松尾倉之助 (在任中死去) 第八代 鮎川榮司 (忠北保安課長) 第九代 桑原金右衛門 (忠北高等課長) 第十代 宇田亮太郎 (永同警察署長) 第十一代 末富佐輔 (現任) 歴代警部並に警部補 第一代 鄭雲弼 第二代 野崎靜馬 第三代 古賀益藏
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第四代 金龜培 第五代 石渡信太郎 第六代 盧貞根 第七代 鮎川榮司 第八代 吳炳淳 第九代 金允照 第十代 境清次 第十一代 河相柳助 第十二代 植田利之助 第十三代 渡邊清五郎 第十四代 高尾繁次郎 第十五代 松本久吉 第十六代 內田吾三 第十七代 大浪濟之 第十八代 李桓雨 第十九代 遠藤元一 第二十代 森下主三 第二十一代 境清次 第二十二代 中島亮治 第二十三代 朴準顯 第二十四代 小池隆治 第二十五代 遠間重太郎 第二十六代 寺尾卯平 第二十七代 深田袈裟吉 第二十八代 池田榮次郎 第二十九代 松澤吉造
p33 ~ p42는 第 四章 黃色煙草다. 이미 다루었으므로 생략한다.
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第五章 敎 育 一、內地人敎育 先づ忠州に於ける內地人敎育から論ずれば記者は明治三十七八年頃に逆つて當時移住內地人等の所謂先見の明を樹てゝ奮闘努力したる勇氣と鐵肝とに敬服せざるを得ない、見よ當時の忠州は京釜線なる鐵道沿線より離れてゐること二十三里の僻邑で而も交通は至つて不便であり且又危險な時代であつたにも拘らず明治四十二年には今の學校組合の核子であつた忠州日本人會を創立して天地自然の遺利拾得すべき敎育問題を中心にして諸方面に手を出した事もあり。 明治四十年前頃には暴徒討伐の爲め忠州に大隊本部を置き守備隊の駐屯するに及びては愈々內地人敎育の機關設置を最大最急なる一大問題として公立小學校の設立を京城理事廳に請願した事もあつて、その焦眉の急を以つて東奔西走せる先輩諸星の努力に對しては實に〜敬服せざるを得ない、勿論當時京城理事廳當局が公立小學校設立問題を却下してゐたのは學齡兒童の數が規定の數に滿たなかつた爲めの却下ではあつたらしいけれど、矢張當時內地人子弟は敦明學校なる私立朝鮮人學
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校に入つて同校初代の內地人敎師であつた原口一二君(現忠淸北道會議員)に哮嘔の薰陶を受けてゐたのである。 其後は兒童數の激增に伴ひ明治四十四年二月には時の公州地方法院判事湊信三、忠州憲兵分隊長玉井八十彥、忠州郵便局長酒井文次郎、漢湖農工銀行忠州出張所長赤松時圓氏を始め其他民間有志側では水野彌吉氏を筆頭に高村甚一、鹽田禎介、宇野佐平、原口一二、堀井本傳次氏等皆々濬漲して糾合しあひ終に學校組合を組織して明治四十四年三月十七日には芽出度も公立忠州尋常小學校を設立するに至つたものである。 其後校舍は止むを得んとろから南門外草茫々の地にある農工銀行の所有家屋を借受けて寺小屋式の敎育を施してゐたものであるが矢張進める時代人の頭にては到底滿足する事が多來なかつたので當時の學校組合管理者宇野佐平氏は直ちに總督府補助金及公募寄附金を以つて三千圓の工費を投じて現校舍を新築し且時勢の要求に逼られて大正四年四月二十九日には高等科を併置して爾來忠州公立尋常高等小學校と改稱するに至つたのである。
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延ひて大正十一年七月には二敎室を増築すると共に昭和三年十一月には曠古の御大典を記念して校庭三百三十六坪を擴張して總坪數實に一千百三十六坪に達する大校庭を構へて二百餘の兒童を養ふステップたらしめた。 學級數の變遷から言ふても開校警時は僅かに十一學級であつたのが今は五學級二百名となつて來たのみならず卒業生も大正元年には僅か三名に過ぎなかつたのが今や毎年三十餘の卒業生を出してゐるから先づ忠州市民はその蔓を握つて奮闘し來たれる有志諸氏をはじめ歴代の敎育家諸氏に向つて篤く謝して酬ゆる所がなければならぬ。 今原口一二氏並に現任校長吉田一太氏の所論を借りて忠州に於ける內地人敎育の唯一機關である小學校の陣容とその附隨憲獻者諸氏を列記すれば略々左の如くである先づ歴代校長の氏名を挙ぐれば 一代 佐野泰次郎 二代 木藤周三郎 三代 西尾衍平 四代 田立俊一 五代 兒島正廣 六代 水越順
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七代 森 憲次 八代 豊田 操 九代 田中善右衛門 一〇代 吉田一太 (現任) 一般忠州市民を始め各學校父兄が歩を運んで敎室事務室へと進めばあちらこちらに芳しい香を放つて列せられてゐる寄贈品中には 大鐘あり (山本正德氏寄贈) 半鐘あり (竹下克明氏寄贈) 傘あり (星野竹治氏寄贈) 各敎室に兒童文庫あり (鹽田禎介氏寄贈) 右文庫中には中村孝嗣氏等が寄贈せる新刊兒童讀物も百種を越えて輝き見るものをして正に此れ氣澄みた二百の健兒對する前途光明祝福の感を惹起せぜずにはおかない數々の meがある。何と言つても忠州唯一の內地人敎育機關である忠州公立尋常高等小學校は誠に最大最幸なる園生の中であると言つてもよい位だ。 二、鮮人敎育 次に忠州に於ける鮮人敎育を論するも亦隔世の感があつて餘りがある、從來朝鮮の敎育は書堂より鄕校に進み鄕校より四學に進んで成均館に入つて始めて最高の學問を修むるを以つて順序とし
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た、故に專攻科目が儒學であつた爲め所謂敎授の式は何時も寺小屋式であつた。 其中から卵殼を破つて初めて學校敎育と云ふ菌林蕙澤に解放されたのは忠州に於いては明治三十九年頃であつて今の忠州公立普通學校がその時に生れて來たもので當時性に於ては同校が嶄然忠北內の頭角であり且又公立學校としての嚆矢であつた。 今でこそ千餘に長ける在籍兒童數を以つて忠北初等學校中に於ける一番大校と呼ばわるが此の學校が初め敦明學校と呼ばれ、而して敦明學校が公立小學校と呼ばれで、出世せし時は在籍兒童數僅か二十名 water を以つて忠北道內公立學校の冠位とされてゐるから見るもの聞くもの誰しも其肢軀發展に驚を洩らさずにはおかないであらう。 勿論忠州公立普通學校が明治年間に於いて或は公立小學校と呼ばれ或は敦明學校と呼ばれた際敎授科目は專ら漢文のみであつたので敎育者の被敎育者對する精神も延ひては手段も共に偏知注 split 主義であつた
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それが明治三十九年九月に普通學校令實施と共に公立普通學校と改稱するに至り始めて知德相一致と言つた樣な敎育を施す樣になつて來たので學校衛生と云ひ或は學校訓練と云ふ眼目からしてその舊校舍であつた韓國政府が築造せる廢物樓を捨てゝ明治四十一年二月に內地製材を用ひで校舍を新築落成し而して忠州公立普通學校と改稱して移轉されたものであるが學校敎育の結構進歩に伴ひ大正二年十月二十三日には敎育に關する勅語謄本を拜戴して棟樑砌礎の功を奏し延ひては大正四年四月には同校卒業生を中心にして地方民度を益々向上せしむべく中原館なる舊韓國時代の一伽藍を改修して公立簡易農業學校を附設して農村生活に於ける必須科目と認むる普通農事の知識を授けて巢立たしめた事もあつた忠州に於ける鮮人敎育の機關としては斯校は偉勳者であり且又樞府でもある。 大正九年四月には學年を六箇年修業程度に延長し越えて大正十五年四月には高等科を併置して鮮人敎育も內地人敎育に何等遜色ない程度に嚮進したのであるか今此の學校卒業生等の就職狀況を一瞥すれば實業從事が男五百六十三名女百二十名にして官公吏が男百六名女七名で皆忠州郡を中心に
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して社會的職業戰線に立つて働いてゐるのである彼等を育くめる同校歴代の校長を挙ぐれば 一代 趙 漢 嵩 二代 鹿 田 哲 吉 三代 徐 晦 輔 (郡守兼任) 四代 原 田 甚 內 五代 杉 泰 六代 前 田 牧 次 七代 桑 原 慶 永 八代 服 部 富 枝 九代 末 廣 國 司 十代 田中善右衛門 (現任) 中にも前田牧次氏は最も奏勳者であつて學年延長を筆頭に簡易農業學校の附設、後援會の設置、運動場の擴張等一々枚擧に違がない位である。 今學父兄にして同校學務委員である人等と後援會幹部の職にある人等の氏名を挙ぐれば左の如くであるが中に後援管理事金雄起君の如きは活字引として厚く各方面に信頼せられてゐるので今や忠州公立普通學校は校舍だけ新築せられ養鷄組合の成績だけ申分なき程度迄進めばその幸運萬福正に天下物品たるを恥ぢない 學 務 委 員 李春雄、李淳昌、朴綺陽、金盛洙、崔洪基、李種浩
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後援會幹部 會長 劉錫禧 副會長 趙命奎 理事 金雄起 評議員 鄭夷熙、吳基澤、陰在亨、朴來鉉、千永河、嚴章煥、金東輝 である記者は願はくば好漢諸君よく其の誠を致して斯業斯意の爲めに一層奮闘せられん事を望んで止む。 其の他忠州には四、五の稚兒を敎ふる朝鮮ヤソ敎會の經營にかゝる私立幼稚園があり上には農業中堅青年を出す公立農業學校があつて忠州市民子弟訓陶の爲めに中等敎育を施しつゝあるが農學校は設立されてまだ間もないが現任校長丸山浪吉氏は朝鮮實業敎界に於ける巨星であり且功勞者であるから今後斯校の發展上達たるや日全經ずして期し得られる事は火を見る樣な事實でなくてはならぬ。 四、中等敎育 忠州公立農業學校、今を去る三年前は實に斯校胎生の紛糾時代であつた、忠州市民を中心として忠北道民が斯校創設の榮を忠州にやるべくあらゆる同情を寄せた事もあり或ひは或る時局問題の計上費繰越金を中心にして或一部の者は道立病院の設置を叫んだ事もあり或一部の者は實業學校の設
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立を叫んだ者もあつて之が爲めに數回開かれた市民大會並に郡民大會の席上に於いては兩派何れも犬猿獅々而かも異論滔々として舞上り終に忠淸北道當局の責任を問ふて道幹部の藏首問題を崩した等實に言語道斷なる紛糾奔走の一時代を経て曉鷄鳴くや漸く我が忠州に設置された忠州農業學校である。
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第一代の校長丸山浪吉氏を全北全州より招きにして第一回の生徒三十名を道內各初等學校より拔粋して芽出度く開校式を擧行せるは覺へ易くして忘れ難き昭和五年五月五日であつた。
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初回の生徒募集に就いては無論應募者の學力も學力であつたが特に同校は丸山校長の初陣に布ける左記の使命に依つて各郡並に警察・面等の確實な推獎を俟つて將來興農輔國の英才たるや否やを問ふて然る後に入學を許可したものである即ち何ぞ曰く。 一、吾等は自家營農に依りて國家社會に貢獻せん事を期す。 二、吾等は農村の中堅人物たらん事を期す。 三、吾等は農事改良の先驅たるべき事を期す。 等にして初めは校舍がなかつた爲め彈琴街路のアカシヤ並木の下に鶴舍を占めて農論を吐いたり或
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ひは郡の援助を借りて層れ殘れる乾繭場の一室を敎室に當てたりして敎師は以つて鞭を磨き生徒は以つて德を磨いたのであるが岑藥營蒲の頃昭和五年七月には現校舍竣へて九月一日には新校舍に父子母子相手に手をとつて巢變りをしたものである。 現校舍は四間幅に五間の長さを以て成り生徒の敎室が三敎室職員室が一室であるが校舍の背後には茫々無涯なる彈琴平野を控へて職員の住宅並に生徒の寄宿舍があつて此處こそ紅塵萬丈の市醜を離れた別天地ではあるまいかと思はれるばかりにすべては壯にして嚴にして職員は元より支那の林和靖にはあらねご四町五段餘の實習地に立てゐる五穀の梅を知舊とし八方に躍る百餘の學徒我子として幼々非々たる聲を上げ乍ら人生を幸に捧げてゐるのは忠州の爲めにも將又國家の爲めにも其の前途亦多慶なりと云はねばならぬ。
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校長丸山氏は溫厚篤實の士で而も勤儉質素生徒にも其の範を垂れて現に同校在籍の生徒には一個月七圓五十錢以上の學資を嚴禁し全部寄宿舍に入れて職員と一緒に食事萬端を共にする等これより見れば忠州農業學校は一農業學校に非ずして一農業家庭と云ふも敢て不可なく忠州平野に溢るゝ大自然味は單なる大自然に非ずして忠州各農家を育くむ一營養舍であると云つてもよい
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第六章 金 融 忠州に於ける金融機關の主なるものは殖産銀行忠州支店並に、忠州地方金融組合があるのみである、先づ殖銀支店の橫面並に縱面を記するに當つて記者は殖産銀行の起りと朝鮮の財政經濟及び産業の開發に對し一大革新興へたる其經路を辿つて今は他界せる故目賀田財政顧問の偉大なる功績を見逃す事は出來ぬ、目賀田氏の財政經濟政策としては幾多の方法を起案されてゐるが、就中産業金融政策の樹立は最も特筆大書すべき偉業である事は記者の記憶も又新なるものがある。
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第一地方金融の梗塞を緩和せしむ可く明治三十八年十月には各地に政府倉庫を設置し財務官をして動産又は不動産の擔保貸付取扱はしめたのであるが、忠北も亦其選に洩れずして政府倉庫の設置を見たのが忠州に於ける金融機關の濫觴である。
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越へて明治三十九年三月には農工銀行條令が制定せられたので明治四十年代三月には芽出度も忠州農工銀行の設立を見るに至り政府倉庫の業務一切を擧げて農工銀行に移し次いで同年六月には漢湖
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農工銀行と合併して漢湖農工銀行忠州支店となりたるも農工銀行は全鮮を通じて六行と四十五箇所に亘りて農産工業の低利資金融通を計りその萬全を期するに當つては其規模が甚だ貧弱であつた
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全部を合して資本金は僅か二百六十萬圓であり拂込資本金も僅か百四十七萬圓その他債券發行額も僅か三百萬圓に過ぎなかつたので當時俄然として發達の機運を崩す朝鮮の農産工業を助成する唯一の金融機關としては餘りにも微弱であつたに鑑み朝鮮殖産銀行令を發布したので多數の設立委員は一瀉千里的勢をもつてその準備に活躍し而して同年六月には全鮮の農工銀行全部を合併して資金一千萬圓の朝鮮殖産銀行を築き上げて大正九年二月には第二回の株主總會に於いては資本金を一躍三千萬圓に増加すべき重大案が滿場一致で可決された等は如何に其當時の朝鮮の一般産業が急速に進步しつゝあつたか觀られるであらう。
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斯くして全鮮中には五十 七箇所に支店を配置し其他東京並に大阪の如き內地の重要都市にも支店を置きて今や內外二百五十四箇所の爲替取引銀行と相提攜して盤石の如く堅實なる內容の基礎が確立し洋溢たる信用を博してゐるのみならず朝鮮開發の先驅者としてその任を果たしつゝある。
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北部五郡を始め江原道南部を吞吐して思ふまゝに地方大郡に亘り農産商工業の助成機關として活躍し忠州地方の發展と共に益々業務の進展を見つゝあるが今昭和五年度下半期の概要を示せば大略左の如くである。 一、産業資金貸出期未殘高、 一、四六二、四三三圓七一 二、商業資金貸出期未殘高、 一五〇、一一一圓三一 三、當半期替資金受拂、 三、二三二、六三五圓六一 四、當半期現金出納高合計、 二二、三〇六、一八九圓〇〇
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以上の數字を以つて見れば地方の金融機關としては相當喜ぶべき業績を擧げてゐるが今逆上つて之れを大正五年頃の營業狀況に比すれば之れも亦隔世の感があつて餘りがある。
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尙大正五年當時は金融界の濫觴が反つて一般經濟界に惡影響を及ぼしその前途を悲觀せずにはゐられなかつたが、その後幾多の銀行家が銀行事業に携はつて日夜其大化改正に努めたる結果爾後漢湖農工銀行時代より流通資金は比較的潤澤にして金利は年次低落の傾向を辿つてゐた、そして其業
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務は確實なる農工資金の擔保貸付爲替手形其他商業手形の割引諸會社銀行又は商人の手形代金の取立爲替及び荷手形諸預り金或は金銀貨、貴金屬及び諸證券の保護預かり貨幣の交換公共團體に對する擔保貸付等であつた、其他忠州特産黃色煙草耕作乾燥者に對しては特に低利の資金融通して産業の啓發に貢獻せる所が載く小なかつた。 記者は大正五年漢湖農工銀行當時の營業狀況を左記して讀者諸氏の御覽に供する。 一、定期預金 八千圓 一、當座預金 一萬九千圓 一、小額預金 四萬一千圓 一、其の他の預金 一千餘圓 一、農工資金貸付 六萬一千餘圓 一、農業資金貸付 八萬一千餘圓 等であつて之れを前後相對照して時代の推移と人心の流動を斟酌し乍ら忠州に銀行事務が行はれてこなた三十餘年間それを時間的に考察すれば他に比して誠に新しい而して最も短い間に出來たものであつたかは知らぬ。
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然れ共之れを空間的に考察すれば此銀行事務は有形無形に或ひは陰に陽に何程忠州を中心とする各地方の發展に貢獻してゐるかを聯想着々裡に把握する事が出水る幸にして今や殖産銀行忠州支店中には最も青年社交家の好典型として忠州人士の欣慕の的に上つてゐる井村定省君を始め秋滿淸治君等がるて共に意氣藹々裡に斯業の發展と地方の開發に供せんとしつつあるから殖銀忠州支店も忠州邑二萬四千の市民と共にその前途誠に多慶に富めるものと云はねばならぬ。
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其他忠州金融組合は明治四十二年五月十四日の設立にして爾來地方小農民の金融を緩和し農業の發達圖るにありて積年の秕政に困憊せし細民は漸く生計の余裕を得て孜々として躬行力營各其事業についてはいそみ開墾、排水、灌漑及び土地、土質の改良其他植林事業等の農業の振興と産業の仲暢とは致富成業の基礎を固め勤儉貯蓄の美風を養成するに至つた。 就中牧溪金融組合理事孫德鳳君は農村振興の先鞭として地方青年をよく抱擁し而してよく指導し大召院金融組合理事吳在赫君は忠州の新井武夫君と共に金融經濟の研究蘊蓄に富んでゐるから今後忠州は斯漢等活動の如何によつてその運命が左右せらるべきものであると云ふても敢へて過言ではない願はくば好漢等よくその任に堪へられよ、
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第七章 交 通 忠州の交通も白馬山をアリランの馬子唄で越へたのは昔の夢で悠暢な朝鮮趣味を味はふことは出來ないが地勢上四通發達の忠州は門扉一步を出づれば汽車あり自動車あり而して市內自動車あり馬車あり人力車あり、忠北線の汽車汽笛に和して十七里二十七町の山勢を切り擴けて忠州まで蜿蜒廣轄、淸忠間の二等道路はポプラ並木の上に平坦而も砥石の如く、忠北線レールの上を走るあの大蟒汽車の聲と共に忠北交通界に於ける王位を占めるものと云ふべき尙京城より長湖院長湖院より忠州忠州より尙州法經て大邱に通ずる一等道路はあの史蹟に香る聞慶、鳥嶺を外にして毎日數十臺の自動車が往來してゐるのは忠州郡附近の愚民に何程の驚異と至便の利を與へてゐるもの乎、又此の道路に添へる槐山郡水安堡は忠淸北道唯一の溫泉場て遠くは慶北、江原、京畿地方よりの浴客絡繹として直絶へないのみならず近くは忠州の有志星野竹治君が此の溫泉場を個人經營にして君の所業である星光館に自家用の自動車を据附けて浴客案內すべく色々計劃中である。
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其他十一里に亘る忠州堤川間の三等道路は大正四年の起工にして朴達嶺の難工を悲觀せしはたゞ
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愚嘆の夢であつて今や朝鐵の旅客自動車並に陸運會社トラック會社の貨物自動車が毎日數十臺づゝ人力馬車を後にして驅けてゐるのは一壯觀である。
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北の忠堤道路の路線を延長して這般成れる江原江陵線は忠北忠州を朝鮮の東海岸に結び付ける一つの楔子であるのみならず將來は忠北線の汽車を導く一つの先導兒たるべき事もうたがひを容れざる所である。
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其上昭和四年には多年忠州市民の頭上を走る大懸案であつた忠州丹陽間の忠丹道路も愈々開け今や忠州を基點として隣郡接地何處に行かうとも忠州は忠州の持つ實を運ばれんと云ふ事もなく或は運んで來られんと云ふ事もなく實に東西比隣、交通文化の惠澤は邑々面々に亘つて輝くものと云ふも敢て不可なく忠州を基點として其の周圍にある陰城、槐山、堤川、丹陽、寧越、聞慶あたりは又互に相交驛して第二段の交通力を釀成しつつあるから忠州交通延ひては忠北の交通は全いく忠州を中心として發展達成せられたものと云ふも又不可はない。其處に忠州市民にとつては最も新しい而して最も珍らしい汽車が汽笛の聲を上げ乍ら交通歷史上に一新紀元を劃すべきやつて來たものは例の忠
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北線である、黒煙濛々と吐き立てて萬雷直に笛化せる如きあの汽車の姿を始めて見受けた忠州郡民等の始めての驚異の罐はさう云ふものであつたらう乎、
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忠州に着いた其の汽車が昭和三年十二月二十九日以降、毎年平均二萬五千人以上の乗客を有してゐるのみならず貨物の紓より以つてしても出荷が毎年平均四十二萬噸以上であり、入荷が毎年平均五萬一千噸以上に達してゐる現象を以つてするも、忠州交通並にその覇王たるべき忠州驛の陣容は推して以つて知るべしである、今忠州驛について一瞥すれば驛員は全部二十五名にして何れも活々たる態度で忠州驛の土臺を築き上げつゝある事は彼我相携わる意味に於いて御同慶に堪へないものと云わねばならぬ。 次に忠州にはトラック會社がある、トラックが忠州に出馬したのは忠州附近産の黄色煙草を陸輸送にして其完きを期せんが爲めであつたが今は全國を通じてトラック業者の遭難時代と言嗾されてゐる時期柄でもあるので、忠州のトラック會社も大正十年十月にトラック組合を創立されて以來全く忠州を中心とする三道即ち京畿、忠北、江原諸道交通の爲に幾度か血と涙を拂へる一つの犠牲であつた。
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トラック組合が株式組織になつて新陣客を整へたのは昭和四年一月であるが、その營業線は往年寺內總督時代に國際聯運會社の線路をもらひにして從來在住の運送業者が春川、原州、京城、利川方面に向けて運搬せる肥料雜貨、煙草、穀物等を運送業者より二割増の運賃で輸送してゐるが、それも結局達觀すれば二割減の運賃で輸送する馬車運送よりも運送を託する顧客の利益が頗る莫大であると一般に言はれる所以は馬車で煙草や穀物等を運ぶ事になると車が行く度毎に何人かの監視人を附けねば途中煙草の抜き取り事故が起つたりする不意な不祥事があるので資格のない普通運送業者に向けてその責任を問ふても彼我相啞然として默忍せねばならなかつたと云ふ一例が二割高い運賃で營業してゐるトラック會社の長所である現に營業所用の貨物自動車數は總數二十臺を越へ營業線區域は江原道內の寧越、平昌、春川、原州の奧地を始め京畿は長湖院、利川、忠北道內に於ては忠州を中心として堤川、丹陽、清州、報恩、鎭川等であつて全營業マイル數は實に四百九マイルに達してゐるのみならず今や忠州トラック會社は中鮮交通界に於ける王位をしめるものと云ふても敢て不可なく寧越、堤川、京城、清州に支店を設けてそれ/\各自の使命を果してゐるのは忠州發展を彩る一色點と云つてもよい位である、今トラック會社の重役の名を留めて之れを江湖に推すれば
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大略左の如くである。 社 長 竹井三郎 專務取締役 山下佐太郎 支 配 人 森實島治郎 報恩支店長 鄭壽弘 寧越支店長 相藤加一 京城支店長 赤司忠 堤川支店長 伊藤加一 利川支店長 李銀雨 清州支店長 姜斗植
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次に忠州の交通を語るに於ては特に特筆大書すべき一箇所があるぞれと云ふのは朝鮮鐵道株式會社忠州自動車營業所である。
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何故ならば忠州に始めて自動車が這入つて來た大正二年五月二十九日には織居加一氏が清州、鳥致院間自動車の營業許可を得て直に一臺を忠州に走らせて當時の忠州人を驚かせ延いては大正四年三月には忠州邑內に直營路線を延長したからである、そして時勢の推移並に營業の發展に連れて當然織居自動車部が朝鮮運輸株式會社となつた時即に同營業所は當時忠北服部自動車部と織居自動車
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部とが營業所得の利を爭つて相反目せる秋に際して既に、よく交通業者としての使命を全うしたゝめ大正十二年五月には服部と織居は相提携する意味に於いて兩自動車部は壊れ茲に合同の議相成り忠州の交通たるのみならず忠北の交通亦統一されて行つたとの事である。
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其の微現營業所看板を贏ち得て遠くは大邱方面を始め京城方面並に江原道方面に迄も自動車の交通網を張る様になつたのは昭和三年十二月二十五日に朝鮮鐵道が忠州に開通される様になつたその日からであるが如上の如く忠州の交通も現今の狀態を醸して來る迄には實に有意人士の莫大なる努力と熱誠によつて生れて來た事を忘れては不可ない
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第八章 商 業
往昔經濟思想幼弱にして貨幣制度の行はれざりし時代に於ける物々交換の遺習は今猶依然として其跡を斷たず一定の日に市場を開設して商取引を行ふを以つて忠州人の常習としている。
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忠州市場は昔日の隆盛を夢想し能はずと雖其勢力は遠く堤川、丹陽、槐山、聞慶の各郡に跨がり一箇月六回五、十の日を以つて定例開市日としてゐる。商品の主なるものは農産物、織物、煙草、畜類其他日用雜貨等にして一市一年間の取引額は二十一萬九千圓以上に達してゐる。
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市場はもと本町筋に開設せしが大正八年當局の市區改正實施に際し道路取締上支障勢からざるを以つて今の大手町筋に移轉したのであるが商業勢力の中堅は勿論內地人商人にして年次其の驥足を伸べ市街美と風光美とに活ける忠州は農産物海産物が四海より轉輸し來り市況活發にして儼然として都市の面目は此の度の邑制實施と共に相俟つて一新し來たる譯である。
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市街最も目拔きの場所は本町通りにして商舗櫛比し頗る殷賑を極めてゐる商業機關としては朝鮮人側に商務會なるものがあり、內地人側には商業組合なるものがあつて圓滿に商取引が行はれゝある事は誠に喜ぶべしである。
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今忠州人の經營する商業店舗にして最も代表的なものを擧ぐれば先づ日用雜貨に原口商店、起雄商店、千永河商店、坂光商店、李淳昌商店、日光商店、大成商店、朴昌烈商店等があり、吳服店には水野吳服店、木崎吳服店、食用雜貨には高見商店、原口本店、金物には阿部仁平商店、佐藤商店洋服店としては水野洋服店忠一洋服店、村上洋服店等にして藥種商として最も主なるものは山本藥局、尹政求並に金盛洙乾材藥局、李春子藥局、山村藥局、中島藥局等にして、菓子製造は牛田菓子吉村辰藏、阿部正治店、次いで魚物店には絹谷五三郎商店、宮野魚店、大堀魚店、柳京漢魚店、李源錫魚店、綢緞布木店としては支那人の經營する同勝公が先づ其の規模最も大なるものに屬し次が金駿熙、李淳昌等であり材木商長山材木店、趙文華材木店、土木請負業者には忠州否忠北の土木王として或ひは忠州建築界の恩人として一般に謳はれてゐる本部由三郎氏外鈴木組、水黑源一、宮本彌六氏等がある果樹園經營者には粟田農場、中川農場、熊谷農場、平野農場、權重協、堀井佐傳
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次氏等にして、製糸業には宇野伊三郎、宮澤寅男、宮本興三郎、中村藤一、松川武夫、小川豊吉氏等にして亦代表的醫院には先づ忠一醫院、鈴木醫院、曾根醫院、忠州醫院、尹成龍齒科、山村齒科江頭齒科等があつてそれぞれ忠州社會の輪換美を醸成しつつある。
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就中忠州の原口商店は明治四十二年よりの商店にして取引先も廣く又お得意先も廣い、店主原口一二氏は商人肌と云ふよりも政治肌の人格と手腕を有し忠州在住實に三十有餘年間に亘つて粒々辛苦且又精々奮闘せる諸々の事績を見れば教育に産業に慈善に多大の貢獻をなし來れる爲め今や大忠州建設の先達であると迄一般に言はれてゐる。
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尙同氏をつくりな人格と手腕を以て英雄よく英雄を知つた調子で而も相當な資金あり且又信用もある、忠州起雄商店の店主李春雄氏は內に入つては老母を養い農畜を勵み外へ出ては堂々と政論を吐き商業を業として農蠶具、陶器、雜鑛地金、理髮器、雜貨メリヤス、帽子二ューム製品、セメント石灰、硝子、和洋紙文房具一式の大店舗を擴充しつゝ公益にいそしんでゐるのは一寸出籃の譽があつて餘りある所と言はねばならぬ。
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曩に忠州普校講堂建築費の豫算行詰りを目擊した際は忠州普校後援會長劉錫禧氏と共に相抱き相泣いて自ら三千圓の寄附を申込んで來た等忠州人としては刻骨難忘の社會事業の奉仕者と云わねばならぬ。
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次に忠州の商業を論ずる上に於て今一つ記者が見逃して居るのがある、それと云ふのは忠州錦町にある忠州の運送店代表大和田運送店である大和田運送店は銃砲火藥店を兼營して忠北道北部堤川、丹陽、陰城、槐山等の各郡に銃砲火藥を供給し尙運送部は忠北線が忠州に開通されたので一層の繁忙を極め店員及運搬人夫の多數何時も門前市をなして居る。
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店主大和田熙氏はその性格丸で明鏡止水の如く誠實篤行の策士にして從來忠州の面政にも大なる貢獻を爲し來り今後の邑政史上にも一般に期待されつゝある。幽紅の士だ。忠州の商業がその大勢に於てざつと如上の如き故今や首尾よく相止まる所に止まり各自相噛み付く可き所に噛み付いてゐるから一步を上れば千石領一步を下れば地壇駄である事は云ふ迄もない、それは經濟組織の一大
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法則によつて大資本家は小資本家の附隨に依つて立ち小資本家は大資本家の扶直に依つて立たねばならん忠州人の持つ運命であるからである然らば記者は玆に忠州郡の商業を毎月毎日表示してゐる各市場の一覽表を左記する。 忠州市 一ヶ年開市六十六回 一ヶ年取引額は三十一萬九千圓、開市日陰五日、十日 大召院市 一ヶ年開市六十九回 一ヶ年取引額四萬三千圓、開市日陰四日、九日 龍院市 一ヶ年開市七十回 一ヶ年取引額一萬四千圓、開市日 一日、六日 立場市 一ヶ年開市六十七回 一ヶ年取引額七千圓、開市日 三日、八日 江泉市 一ヶ年開市六十六回 一ヶ年取引額四萬八百圓、開市日陰一日、六日 龍堂市 一ヶ年開市六十六回 一ヶ年取引額六萬四千八百圓、開市日 二日、七日 內倉市 一ヶ年開市六十八回 一ヶ年取引額は九萬六千圓、開市日 三日、八日 牧溪市 一ヶ年開市六十八回 一ヶ年取引額一萬四千圓、開市日 二日、七日 德隱市 一ヶ年開市七十二回 一ヶ年取引額四萬圓、開市日 五日、十日、 此の統計に依り見れば忠州郡內に於ける各市場が一年間に於て六百十二回の開市日數を以て金融の便なき者は金融の便ある者に金融の便有る者は金融の便なきものにそれぞれ相扶け相和して經濟戰
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線に立つてよく現實の生活を開拓して行くからこれが大原動力となすのは何と言つても之等は前記の開市回數に依つて毎年四十四萬七千八百二十七圓の金額が忠州郡內の各市場を轉つてゐる惠澤に俟つものと云はねばならぬ。
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第九章 農 業 忠州郡內は沃野饒田に富み農業には最もよく適して居る氣候は概して溫和にして五穀よく豐穰し寒氣稍強しと雖麥類の如きは冬季作物としても枯損の憂なく生育極めて良好にして殊に四季を通じて空氣は乾燥してゐる爲め收獲物の品質は佳良中絶佳の域を占めて居る。
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尙水稻の如きは忠州水利組合並に大加味水利組合等が出來て灌漑の利便を興へてゐるので郡內一部落を除くの外は旱害水害の凶を蒙むることなく農民は道の施政方針に基き郡當局の指導に依り新知識を得農事の發達著しく始政共進會等に於ては郡內の農民にして本府より授賞せられた者も尠くない。
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殊に去る大正四年度より大正八、九年に至る間は農作物の價格が騰貴したる爲め郡民は未墾地開拓の美風を醸成して農民一般に優柔懶惰の舊態を脫せしめたる一觀もあり當時忠州にあった內地人農事改良組合は農事の改良及び鮮人農民を誘導啓發するを以て目的とし忠州の篤農家表彰式に於て
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閑院宮殿下より特別なる思召に依つて表彰せられたる鹽田禎介氏が農事改良組合長として盡瘁し範を新附の同胞に示してゐる爲め忠州面丹月里、薪尾面龍院里あたりには國有地小作人組合等が出來て郡の指導に従順し駿駿乎として改良進歩の實績を挙げつつあつた時代もある。
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忠州郡に於ては大正四年度に郡農會の計劃で各面に一町歩の模範採種田を設置し優良水稻の普及に努め且技術に堪能なる農業技師を各方面に配置して專ら之が進步發達に執掌してゐた時代もある現今郡の耕地面積は土地臺帳登錄耕地だけが九萬三千六百六十七町歩に及び土地臺帳未登錄耕地だけが三千五百十七町歩に及んで火田だけでも一千六百六十九町歩に達して居るそして其の面積內に産する普通作物の生産高は米六萬七千五百四十四石、麥七萬八百七十四石、大豆二萬九千百五十六石、粟一萬二千八百六十九石にして其の他の農作物は何れも六千石以上の收獲率を上げてゐる。
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其の他忠州郡內には鈴木政一氏並に尹致求氏等が中心になつて改良農事を實施せんとして出來上つた勤勞實行會を始め薪尾面や山尺面には米作多收獲を實地に研鑽する吳夏根氏や徐千淳氏等があつて農事改良を口辯の様に讃美する忠州郡守崔志煥氏の後援を得てそれ/\熱心に働き乍ら郡民に其
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の範を垂れてゐるから忠州郡は追つて近い將來にデンマーク型の村に化して行くいやも疑ひを容れざる所である。
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尙郡當局は直接農民に向つて餘暇を利用し繩叺製造を勵ましてゐる爲め一箇年の産額は少くとも四五萬圓を下らない養蠶業も施政以來極力獎勵の結果近年著しき進步發達を見たるも獎勵の餘地あるを以て大正十一年より先づ植桑獎勵の計畫を樹て大正十三年迄それが獎勵をなし大正十四年に於ては蠶家一戶當五十本の割にて四十六萬本を植栽せしめ其の後大正十四年度よりは本府で計畫せられた産繭百萬石の大方針に則り大正十五年より昭和十年迄十箇年間植桑可能戶數一萬四千六百二十五戶に植栽し得べき田十二萬八千九百四十一步に對して三十一萬二千本の植桑計畫を樹立し目下それが完成に向つて努力しつつあるから今後の忠州郡は養業の忠州に還らねば相濟まないであらう。
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其他郡內の畜産も家畜なると家禽なるとを問はずして從來其飼養法が不完全であつたにも拘らず其の生産巨額にして其の生育狀態も頗る良成績を見せてゐたので大正五年度には忠州郡畜産組合を設立して種々指導の勞と獎勵の誠を盡して來た爲め今や郡內の畜牛數は無慮九千頭以上を突破し農
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家百戶文對してその飼養率は五十頭の比率を見せてゐるから今後忠州郡內の農業と畜産と人物と土地の豐饒とに相俟つて益々上達して行く事は、指をさす様な事實でなくてはならぬ。
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第十章 宗 教
本郡の宗教は極めて寂寞たるものである、郡內に於ける社祠宗教の宗別を一瞥すれば、神祠ありて寺院一箇所に布敎者一人、寺刹ありて寺院二箇所に布敎者二人、其の他天理敎あり、金光敎ありキリスト敎ありて各宗信徒數無慮四千を數ふれども、彼等は其の名に於いて佛敎たり寺院たり僧侶たるに過ぎず、其の實は殆んど宗教として認む可き秋毫の價値をも有してゐない。 四千餘の各宗信徒が皆然りとはしないが其の大半は各寺院に附屬せる寺田、寺林に賴つて衣食し若は其餘瀝を嘗めて生活の資料とせる一種の寄生蟲である、故に朝鮮在來の佛敎には一人の信徒をも有してゐない。 又僧侶とても、單に寺院內に螢居し法衣をまとひて讀經を爲すも、毫も布敎傳道の思想なく知識なく信徒化導の能力なく、纔に所謂其の寺田寺林に由りて糊口し無意味の托鉢乞食を行ふて辛くも生活を持續する一種の遊民たるに外ならない。 元來朝鮮の佛敎は其の傳來甚だ古く三國鼎立の時代に於て先づ高句麗の首都に佛寺の創立されしを開端とし、百濟、新羅の領土に漸次流傳し、高麗の末年に至るまで相當に隆昌を極めしものであ
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る。現在各地の深山幽谷に宏莊なる大伽藍を見るは、概ね其の時代の遺蹟である。 然るに李朝に至り嚴に寺刹の新創を禁じ、度僧を制限し特に近古二百有餘年來良民の僧尼となるを禁ずる等、有形或ひは無形に政治上の抑壓其の極に達せしかば、僧侶は全く社會より葬り去られ布敎傳道は勿論、冠婚禮祭にも絕對に參與せず、單に寺院其の物の番人として僅に既得の寺田、寺林の收穫と托鉢に依て受くる市井の殘飯とに賴り、殘喘を今日に保ちつつあるのである。 爲に爾來僧侶となる者は凶惡無衝、身を世に容るる能わざるの徒輩は疾病不具にあらずんば眼を若干の寺有財産に注ぎ安逸の生活を貪らんとする橫着者のみとなり上下一般亦僧侶を輕侮した此の境遇に置かれし僧侶が何の色威を保ち何の新仰を持して何の布敎傳道をなし得べきぞ 併合後明治四十四年寺刹令實施されて羈束されし從來の種々の制限は解除され布敎の自由は許されご因襲の久しき未だ社會上僧侶の地位を認むるに至らず僧侶又多少興奮し來れる氣味なきにもあらねご其の興奮は心靈界の興奮にあらず名聞にあらずんば利欲のみ、彼等をして眞に宗教家としての躍路をなさしめんこと蓋し至難中の至難事なるべし、
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耶蘇敎は傳來は久からずと雖公然信敎の自由を許されしは今より二十七年以前の事にして爾來鮮
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人の進んで外國人居留地至り宣敎師に就き敎を求むるもの次第に増加し宣敎師亦傍ら學校を起し病院を創め恩と情とを以て彼等に滋みしかば由來外國人を一種の高級民族の如くに思惟せし民情と外人の袖に隱れて官憲抗せんとの私心と彼此相牽引して信徒なるものの日に其數を加へ現に郡內にある其の宗派五、敎會數二四、布敎師二一人 鮮人信徒のみにて一千二百三十七人を數へ其の信仰界に於ける地盤比較的堅牢なるものもある。
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內地人の布敎せるは神道の天理、金光二敎の布敎所に內地の布敎者二 信徒は內地人が百名あるのみである併し宗教としての勢の微々として鮮人は勿論 內地人間にも殆んど 何等の權威なく社會敎化上貢獻する所ありと認むる能はず、
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佛敎は二派三箇の布敎所と三箇の寺院を有し內地人の僧侶二人 信徒數千九百餘人 全部內地人にして專ら內地人に對する佛事葬儀、供養の事に従ひ居れり故に概して之を云へば僧侶も信徒も佛事葬儀に就ての僧侶たり信徒たるに過ぎず心靈界に於ける眞正の僧侶信徒は殆んど絕無の感なきを得ず、
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宗教界の現狀斯くの如くにして郡內鮮人二十餘萬の生靈は概ね本郡鮮人で同一の境遇に醉生夢死しつつある、由來佛敎は支那より朝鮮に渡來せしものなれば今に於て忠州の佛敎家は當年の舊誼に酬ゆべし又此二千萬民をして佛敎の慈光に浴するの故を以て帝國無二の良民たらしむべく挺身以て鮮人の布敎傳道に従事するの義務なきや 勇猛心なきや 新政以來茲に二十年 未だ全道一人の僧侶が敢然として此舉に出でしを聞かず 徒に對內地人蝸牛角上敎權の爭奪に日も亦足らざるの概あるは實に痛歎の至りである未だ一卷の經文も一首の和讚も一通の佛文章も朝鮮諺文に翻譯されしものあるを見ず 抑も是れ何等の懈怠ぞや 朝鮮は邦土にあらざる乎 鮮人は日本同胞にあらざる乎 此二千萬の同胞生靈を宙に迷はしむるは蓋し內地佛敎諸宗當事者の一大恥辱である明白な一種の怠業であり佛に對し將た邦家に對し之不忠と謂はずして何とか謂はん、口に不惜身命を唱ふるは易し言語の通ずる內地人に傳道するは難事にあらず眞に不惜身命の大覺悟を以て言語不通の鮮人に傳道すべき一生を捧ぐる僧侶が忠州に一人も無し云ふに至つては寧ろ呆然たらざるを得ない此の意味に於て編者は外人宣敎師の意氣を多とする。
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鮮人間別に天道敎及び侍天敎其の他數派あり其布敎所數四 布敎師五 信徒五百餘名を有して居る、宗教としての價値は兎角敎徒間の結合は相當に鞏固である。此他迷信に富める鮮人の事とて宗教類似の淫祠等多けれご一として列擧の價値なし
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敎會の鐘 ヤソ敎會の鐘が鳴る。ミレーの晩鐘を思つた時、若い夫婦の聖なる勞働の姿が何となく羨ましい。人の子として世に働くものは總べて斯くあらねばならぬ。 (舊稿の中より)
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第十一章 通 信 日本政府が朝鮮に通信事業を始めて施設するに至つたのは明治九年頃からである。即ち同年三月日韓修好條約が兩國の間に締結せられて釜山港が開市せられると共に、三菱會社の郵船が始めて同港に航路を開きたるを機とし時の驛遞頭、前島密氏の申請により、大久保內務卿より正院に稟議し其の允許を得て同年十一月一日釜山に帝國郵便局を創設したのが朝鮮に於ける通信事務開始の嚆矢である。 爾來航路の擴張と居留民の増殖とに伴ひ、郵便局は漸次各地に増置せられ、明治十三年四月十四日元山に、十六年十二月十六日仁川に、二十一年七月十一日京城に、三十年十一月十五日木浦に、三十二年八月一日鎭南浦に、同年十一月十一日群山に、同月十六日馬山に、三十四年三月十六日城津に、同年六月一日平壤に、孰れも帝國郵便局の設置を見るに至り、爾來各地に其の郵便局出張所或は郵便受取所等が設置せられゝあつたが就中我が忠州は明治三十八年六月十四日に京城郵便局忠州出張所として開局されたのであるが既に、我が忠州に於いては開局と共に郵便、爲替、貯金、電信の事務取扱つてゐたものである。
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然れ共當時の通信事業は設備不完全を極めたので民衆の信頼を失する虞れもあり且又内外國民の福利を増進すること能わざりしを以て明治三十九年七月一日には忠州郵便局と改定にして同年十月一日よりは韓國々庫金の出納を開始してゐたのみならず。明治四十一年六月一日には軍人軍振出無料通常爲替事務をも開始してゐたものである。 そして電話通信事務は明治四十一年二月一日に、警備電話。通信事務は明治四十二年十月二十五日に、軍用電話事務取扱は明治十四年四月一日にそれ/\開始されてゐたものであるが 就中玆に大書特筆すべきものは大正十年五月に忠州邑民の懇望を容れて市内電話事務を開始して市民の日常生活をコントロールしてゐることである。尙忠州郵便局廳舍は朝鮮古代の建造物を利用せしが土地の發展と時代の趨勢は通信機關の利用激増して廳舍の狹隘を告げ忠州郵便局新築問題は多年間の懸案であつたが大正十五年三月遂に事絃に運びて工を起こし六月二十八日竣工を告げ七月一日移轉し忠州局は忠州郡廳と共に本町の中央に巍然として九天に聳へにして忠州の發展を物語つてゐる。此の中には朝鮮事情精通者として一般に知られてゐる矢野祥助君がゐて目下簡易生命保険事務に貯蓄思想宣傳に倍舊の努力を拂つてゐるが今歷代の局長を推すれば左の通りである。 一代 酒井文次郎 二代 土田淸一郎 三代 小林要心 四代 小城原兵作 五代 矢野祥助 六代 近藤利男(現任)
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第十二章 裁 判 公州地方法院忠州支廳は舊韓國當時の明治二十七年七月刑曹を廢止せられ法務衙門となり明治二十八年三月法務部と改まり同年七月裁判所構成法發布せらるゝに及んで明治四十一年八月忠州區裁判所を設置し舊觀察道より裁判事務の引繼を受けて事務開始となり明治四十二年司法權委任の結果同年十一月統監府裁判所となり明治四十三年十一月更に朝鮮總督府裁判所と革め超へて明治四十五年四月一日公州地方法院忠州支廳と改稱して今日に至る當時裁判所は朝鮮古代の建造物にして廳舍の狹隘を告げ事務能率の向上を阻害せらるる狀態なりしが大正四年九月現在の新築を見るに至り次で登記事務の開始は大正六年一月府令第三號實施に依り同年三月一日より事務取扱を開始せり裁判所設置以來檢事々務取扱は忠州憲兵分遣所又は忠州警察署に於て取扱をなしたるが大正八年專任檢事を配置せらるゝに及び豫審事務の取扱を開始せり、尙ほ同廳の管轄區域について一瞥すれば明治四十一年八月忠州區裁判所として事務開始當時に於て忠州、淸風、延豊、陰城の四郡竝に槐山郡の一部なりしが同年十月十一日堤川區裁判所廢止せられ其管轄區域たりし堤川、永春、丹陽の三郡を併轄す超へて大正三年郡面廢合の結果永春は丹陽に延豊は槐山郡に淸風は堤川郡に各々編入
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せられるに依り現在に於ては忠州、堤川、丹陽、陰城四郡並に槐山郡の一部八箇所を合して總計四十七箇所を管轄區域とす、今歷代判檢事並に書記の名を認むれば左の通りである。 歷代判事 一代 李熙穆 二代 湊信三 三代 下志寧 四代 奧田勝太郎 五代 李愚正 六代 岡崎隆 七代 金翼鎭 八代 李春斗 九代 石橋義雄 十代 岩崎爲一郎 十一代 竹石德太郎 十二代 澤木國衛 歷代檢事 一代 土谷榮太郎 二代 黑岩覺一 三代 沖淸海 四代 上田實 五代 久保田順市郎 歷代書記 延秉國 李興瑄 姜錫夏 金進重 相野精一 井上正博 朴泰成 原野俊顯 金用沃 李起洪 池淳明 野原文雄 鄭奎轍 柳在春 增田次郎
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井上美之助 渡邊猛男 南輔元 岡又三郎 洪龍裕 岡田玉喜 陳泰龜 姜大吉 奧村敏求 趙泰魯 兪鎭翰 吳寧善 江上榮太郎 田中隆次郎 南澤珠 吳完圭 尾辻宗雄 柳翼泰 趙桂元 山本正德 山下種良 兪鎭翰 南澤珠 趙雲澄 大西金壽郎 米濱滿治 朴鶴鎭 兪濤澄 江上榮太郎 尹峻榮 菅野與次 南山多助 平井寅雄 鄭鳳模
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第十三章 邑 政 現忠州邑は大正三年四月に南邊北邊の二面を合して邑內面と稱し之れを設置したものであるが大正六年九月には面名を忠州面と改稱、而して大正十二年四月に指定面となり昭和聖代に花咲く昭和六年五月には朝鮮地方制度改正に伴ひ、當然雄名を以つて知られてゐた我が忠州面は忠州邑となりたるものである。 其の地勢たるや東は沙味面に西は利柳面に南は待林山脈の九峯を以つて沙味利柳兩面に堺し北は漢江を挟みた何時も山は森々水は溶々として流れ且又西は達川平野を控へて火水風土何れも天惠に富めるが故に籍おく二萬邑民をして坐ろ地勢開潤の情を起こさしむ。
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其の他忠州邑の土勢に就いて之れを一瞥すれば國有地が二百七十餘町、民有地が三千三百六十九町であるが之れ種別して其の實賣價格並びに標準地名を擧ぐれば概略左の如くである 沓は一段當り平均九拾圓 田は一段當り平均五拾圓
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家屋敷地は百坪當り平坪參拾圓 であるが、一等地を有する部落は先づ連守洞井に龍山里忠州邑等であり中等地を有する部落は先づ校峴里、鳳方里、漆琴里等であり下等地を有する部落は先づ牧杏里、宗民洞、楓洞等である、 之れが饒田靑圃に生ひ立ちて職を營む者の中には先づ農林牧業者が其の首位を占め次は商業及交通業工業、公務井びに自由業にして一番下位にあるものは朝鮮全道中忠清北道のみが海に面してゐない關係からして、漁業を業とする者や製鹽業を營む者がない事は理の當然である、 以上述べてたる忠州邑民の職業別を以つて邑民の教育程度を窺つて見れば農民にして國語を解し得る者は 十人中一人半弱の割合になつており、商人にして國語を解し得る者は十人中七人強の割合になつてゐる、だから我が忠州には現今あらゆる新聞井に雜誌の支社支局があの町この町に干板を氣高く掲げてゐるが朝鮮人にして大毎や大朝其の他中央公論、改造等の邦文雜誌を愛讀するものは百人に滿たないから、まだ/\邑民の敎育程度は牛歩の域を脫してゐない、 斯くの如く敎育程度が未だ發達してゐないから邑民の持つ生活意識も至つて幼釋である様に一般に見受けられてゐるものは決して無理からん事であると言はねばならぬ。然れども、今をさる二十餘年前に於ける 南邊北邊時代の民情遺俗に今日見る 民情風俗を對比してみれば暗雲霽れて明月
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晧々たる如き或ひは荒野に靑榮生へて雍々たる如き一感を抱かずにはゐられない。之れは專ら歷代邑面長氏が直接或ひは間接に面民と對し面民と會して其の手を取りてはとるべき所を敎へて呉れた偉大なる喞喞訓導の賜でなければならぬ。 斯くの如き我邑民爲めに夜な晝な寢ず起きずで勵んで呉れた指定面が度齋藤總督が半島統治の大任を遂げさせられ老驅止むなく退官せられるに際し特に多年の御理想であつた朝鮮地方制度を自治制度に變革せられたので今や我等の邑長秋山文雄君や趙命奎君等が邑政を掌りつゝある其の上に我等の邑會議員として一般に敬慕されてゐる十四氏の議員が百尺竿頭一歩を進めて堂々と邑民の福利爲めに鬪ひつゝある、今歷代の邑面長井に地方制度改正について一言述ぶれば、 一代 面長 鄭雲翻 二代 皮海鵬 三代 李完載 四代 原口一二(指定面以後) 五代 田中勳 六代 秋山文雄(邑昇格以後) 副長 一代 李完載 二代 鄭逸 三代 趙命奎(現任副邑長)
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然らば昭和六年四月以降より實施せられたる改良地方制度とは如何なるものである乎記者は茲に舊稿を縮き而して卑見を述べて識者の一粲に供せん 庚午四月 淸風寒碧樓に於いて。 忠北村地方課長と共に 李英 記す 抑も地方自治制度の確立は地方行政の向ふべき目標にして齋藤總督が最初に赴任せられた際既に聲明された所の重要政綱の一であつた事は自他共に今尙腦裡に深く記憶されてゐる事であるが之れは一般民衆の充分なる理解と地方制度の運用對する訓練とに相俟つて初めて可能と謂ふべき事は理の當然にして若しそれ民度に適合せざる制度は國民の福利増進に於ても將又地方制度運用上に於ても甚だ面白からざる結果を招致するのみならず名實共に自治制度の確立は一朝一夕に實現し得べきものではないと堅く信ずるのである。 故に大正九年に於ける地方制度の改正は將來自治制度を布くの階段とし或ひは準備訓練を目的として爲されたるものである事が今新に思惟されるものがある。 爾來十年之れが運用に就ても相當なる經驗を重ねたる結果地方制度の革新に更に一步を進ませて
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今回の新制度を制定せられたのだ、 故に此の度の改正地方制度に勿論之を以て完全なる自治制度であるとは一様に言
へないのであるが道府及邑に付ては自治制度として充分なる態様を具備するに至つたと謂ふ事は順來朝鮮の特殊事情として邑に於ては民度相當に高く近代都市を形成してゐるが面に於ては開化文明の程度も一樣でなく槪して日はば民度は比較的に低くして舊態を脫せざるもの多々ある狀態なる事は一般共に周知の事である故に、面に於ては此の改正制度の運用を愼重に考慮せねばならない、 何故なれば地方制度の改正に關しては各種の法令が公布せられたのであるが、何から何を探つて見ても制度改正の骨子は道府及邑に於ける從來の諮問機關を議決機關となしてゐるのみならず、邑面制は從來ありし面制の改正せられたものにして、面制に依る指定面と普通面とに對應して邑面制に於ては指定面を邑となし普通面を面となしたのであるが邑と面とは制度の上にも非常な差異を持つてゐるからである。其の差異とは從來の面は法令に依り面に屬せしめたる事務を處理して明らかに法人なることを規定せず、其の事務の範圍は頗る限定的であつたが邑面は明に法人なる事を規定し且又汎く法令の範圍內に於いて其の公共事務及法令に依り邑面に屬する事務を處理し得文字様になつたのである。
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從來の面には其の住民に關する規定なく從つて住民の権利義務に關しては何等明文の存するものなかつたのであるが此の度の改正制度には府と同様に之に關する規定が設けられたのである。尙ほ從來の面は規則制定權等は之を認められなかつたのであるが此の度の改正制度には邑面は邑面住民の權利義務又は邑面の事務に關し邑面の規則を設ける事が出來得るのみならず邑面稅、使用料、手数料及造營物の使用方法に關する邑面規則には十圓以下の過料を科する規定を設けて得のである。 邑には邑會をおき議長及邑會議員を以つて之を組織する事になり邑會は副議長を置かざる故に其の選舉を行ふことはないが法令に依りて其の權限に屬する選舉を行ひて邑に關する重要な事件を議決し或は邑の公益に關する事件に付いて意見書を邑長又は關係官廳に提出するの權限を有する様になつたので從來の指定面に比しては格段の進步と謂はねばならぬ。 面には從來の如く面協議會を置き議長及面協議議員を以つて之を組織する であるが此の面協議會なるものが邑會と異る點は此の面協議會は從來の如く諮問機關であるに止まり邑會は決議機關となつて來た點である。 故に此の差異に依り他の各種規定にも自然に差異を生ずる様になつて來るである。面の協議會
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も面の公益に關する事件に付ては、意見書を面長又は關係官廳に提出したり、又は官廳の諮問に答申したりする事等は從來に比して其の權限を擴張せられたものと見てよい。 然るに邑會議員及面協議會員は共に原則として從來の指定面に於ける面協議會員の選擧の手續と大體に於て同様な方法に依つて選擧せられるものであるが其の定員數は從來の如く八人乃至十四人であつて任期は從來に比し一年間延長せられ四年間となつたのである。 邑會議員及面協議會員の選擧權及被選擧權は大體從來の指定面協議會員の選擧權及被選擧權と大差はないのであるが從來面の協議會員は郡守に依りて任命せられて居つたものが選擧に改められた點は大なる進展と謂ふべきものである。 然し乍ら、其の選擧の手續が付いては原則として邑會議員の選擧に關する規定を準用する事に定められてゐる。面の實情に依り邑と同様にする事は困難な場合もある地方の實情に依り從來の慣習に從ひ道知事に於て總督の認可を受け適當の選擧方法を定め得ることになつたのである。
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其他官吏にして當選したる場合に處する規定邑面と請負の關係にある者の當選に關する規定幷に傍聽人取締等に關し詳細なる規定を設けられたのである。
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邑面長は從來の通り地方官制に依る待遇官吏であるが其の邑面代表者としての職務は相當擴張せられ從來郡守の有したる吏員の任免權を邑面長に移し吏員對する懲戒權をも有せしめ尙ほ此の外吏員の給與、名譽職の費用辨償額も郡守の職權を以て定めて居たものが邑面規則を以て定むる事になつたのである。邑會は旣述の通り極めて廣汎なる權限を有するのであるが邑會成立せざるとき招集に応ぜざるとき 會議を開くこと能ざるとき 又は議決すべき事件を議決せざるときは邑長に於て道知事の指揮を請ひ而して堂々と議決すべき事件を處分する事を得るのみならず邑會に於て議決すべき事件に關し臨時急施を要する場合を生じたるときは道知事の指揮を講ふことなく邑長に於て專決處分をなし得るのである面長に於ても略々同様の趣旨の下に斯る場合に於ては面協議會に諮問すべき事件を諮問せずして處分し得るのである。 從來の面賦課金は今回の制度改正の結果邑面稅となり其の種類を國稅及道稅の附加稅幷特別稅の二種とし從前特別賦課金として賦課徴收せられて未た車輛稅は附加稅として賦課することゝなつたのである。之等の賦課率の制度に付ては從來何等變更せられてゐたのであるが而して今回の改正に於て邑長制は勿論 使用料、手数料、過料の徴收及夫役現品の賦課に付賦課を受けたると者が違法
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又は錯誤ありと認めてゐる場合は之に對しては異議の申立を認められるのみならず營造物使用權に對しても異議の申立を認めらるゝに至つたことは著しい制度の進步と云ひ得べき點である。 監督としては第一次に郡守第二次道知事第三次に朝鮮總督にして之を監督する事は從前と同様である而して邑の重要なる事件に就ては邑會の議決を必要とするのであるが其の議決權限を超え法令に背き或は明に公益を害し又は邑の收支に關し不適當なりと認むる場合には再議に附し又は議決の取消を爲し得るのである面協議會は諮問機關であるが故に再議又は議決の取消等の規定は全然ないのである。
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前述の外邑面に基本財産を設くべき積極的規定を設け邑面稅賦課に關し必要なる場合に於ては當該面長又は吏員は家宅若しくは營業所に醫檢し又は帳簿物件の檢査を爲すことを得ると規定を設けられたが面賦課金を邑面稅と稱する外邑面稅賦課の要件に付いては變更はない meのである。
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第十四章 忠州に於ける電氣事業 忠州に於ける善男善女が燈火の光りをとりて一卷の古書を繙き或ひは衣に針を飛ばし乍ら營雪の功を積みし時は昭和今日の時代より見れば正に古代の逸話の如く思へられるが。此の光景を裏切つて市中俄かに朗々と輝き初め而して俄かに不夜城と化して來たのは今を去る七年前則ち大正十五年七月二十七日からだ、 市中、闇の忠州を光りの忠州に化せしめんがために忠州に籍をおく當代有意の諸氏は如何なる辛酸苦鬪を積けてゐたもの乎、曰く原口一二氏、曰く水野彌吉氏、曰く故宋錫均氏、曰く李春雄氏、曰く劉錫禧氏、曰く尹政求氏、曰く鈴木政一氏等が 寄り/\寄つては忠州の電燈架設を相語りつゝ之れが實現を期して諸方面に向けてあらゆる猛運動を續けてゐたのだ、 その至誠終ひに通ずる所があつて忠州電氣株式會社なる名に於いて生れて來たのが、今日我が二萬四千の市民が日常使用してゐる電氣の發端だ、資本金は十萬圓で一株の株金は五十圓であるが設立定時の拂込金額は十二圓五十錢であつたと云ふ。 現任重役は古谷修一氏外水野彌吉氏、原口一二氏、川島田三郎氏、靑柳八百造氏、李春雄氏、竹
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內淸二郎氏、西島寅吉氏等であるが其の營業狀況を一瞥すれば何時も年六分乃至一割の利益は配當されており其の點燈數の如きに至つても大年十五年開業當時は四百戸に對して僅か千餘個の點燈數に過ぎなかつたが、昭和二年四月末には四百二十二戸に對して千百九十三燈、同年十月末には千二百六十五燈、昭和三年四月末には五百四十六戸に對して千三百七十六燈、同年十月末には六百三十四戸に對して千六百八燈、昭和四年四月末には六百七十七戸に對して千八百四十七燈、同年十月末には六百八十戸に對して千九百十一燈、と云ふ素素晴らしい發展振りを示してゐたのであるが茲に至つては、從來使用してゐた五十馬力の發電能力を有する機關にては電力不足の一感を多々ならしめるのみならず、堤川地方に於いてもかねて猛烈な電燈架設運動をしてゐたので、忠州電氣株式會社に於いても萬止むを得ず、時勢の推移と營業の善處方針に基き大田電氣株式會社と同同の議を進め、而して昭和五年四月には愈々大田電氣と合併の上忠州の電氣會社は終ひに大田電氣株式會社忠州支店となりて一躍二百馬力の發電能力を有する重油肉燃機關を據へ而して營業擴充の衝に當つた結果 今では八百四十五戸の點燈戸數に對して二千百六十燈の點燈數を見るに至つたのである。 惟ふに目下朝鮮內に於ける各地の電氣事業は府營説或ひは邑營説に浮き彫れて世の注目を惹いてゐるが過般朝鮮電氣事業調査會に於いて總督府の諮問案に答申してゐる所を聞くと將來は何うして
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も漢江の水力を利用して全鮮各地に配電し得られる大規模な計劃を樹ててゐるから、若しそれ實現の曉がほの見へて來たら悠々たる漢江に取り卷かれてゐる我が忠州郡民は如何程、天惠にめぐまれた明るい生活を爲し得べきもの乎、 我が忠州郡民のみならず 奥に入りては堤川、丹陽果ては永春寧越居を構へたる我が里仁の友にとつても何れ程 甚大な幸福を與へ得るもの乎、 よく記者は井市に於いて忠州電氣の電燈料値下げ問題を耳にするが、何れ近き將來に於いては適價を適得して安々閑々と暮らし得られる日が到來するであらふ、今茲に同電氣會社の職員る摘記して擱筆する。 支配人 主任 技術者 高橋利吉 書記 川內彌吉 書記補 金碩泰 電工 方椿培 同 朴水長 工手 竹下文義 同 尹泳院 同 劉大仁 同 山本滿夫
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第十五章 忠州に於ける水利事業 漾々たる水を貯めて約四百餘町歩に亘る忠州平野に灌漑排水の便自與へてゐる忠州水利組合は大正十一年四月に設立されたのであるが今組合長鈴木政一氏の語る所を聞けば事業前に於ける地區の槪況並に其の事業の沿革は從來忠州邑に於ける集團耕地として第一位におかれてゐる忠州邑達川里外四箇所里の農民にとつて蒙利程度が如何に大なるものであるかゝ窺はれる。 其の蒙利區域內は今でこそ萬頃の良田として甲にも乙にも賞歎されてゐるが此の水利事業を開始せられし時は當地區は有名なる旱魃地ににして在來水源としては二箇の小堤堰と粗雜なる數箇の伏及湧水とがありて多少の排水灌漑の便與へてゐたとは云ふものの水量が至つて少い爲めに年々旱害を蒙り來りて達川平野に植付を見た年は一般に今年は大豊作だと直言された程で、平年に於いては概ね稻よりも蕎麥を多く見るの狀況であつたと言はれてゐる。 それが元來驛屯土所屬として現貯水地の跡であつた小堰堤則ち大堤及小堤は大正元年に國費を以つて一部の修築をなしたがあの有名なる大正五年六月の大雨に此の小堤が俄かに缺潰されてつたので其の後に於ける大旱害は終ひに農民を離散せしめねばならなかつたのである。
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故に之を目擊した忠清北道當局にては再三實地を調査した上、大正六年に驛屯土の兩堤を所管換を爲して之れを改築すると共に在來の狀を修理し併せて一大堤堰を新設すべき具體案を樹てて先づ水利穫なる一種の團體を組織し進んで水利組合を設置する方針の下に地主會を開きしたが説明獎勵に七日間を費し僅に同意者數名を得たるに過ぎなかつたのである。爾來之れが勸誘獎勵を怠らなかつたので漸く大正七年に至り忠州水利穫なるものを設立し而して連帶債務に依り當時の漢湖農工銀行より參萬五千餘圓の起債をなし地方費よりも貳千餘圓の補助を受け在來水源の改修工事に着手し大正八年四月に至り竣工し大に其の効果を認めしが水量少なく全區域を均霑する能はざりし爲め更に初期の通り一大堤堰を新設せんとして總督府に踏査を乞ひ其の結果忠州川より導水し小堤を根本的に改築して一大貯水池としたのである。 斯くの如き計劃により大正十一年四月には愈々水利組合の設立を見、大正十三年三月に至り組合工事を順調に完了して之れが維持管理期に入りしが大正十五年の洪水に狀の一部が缺潰したる事と一方には水量の余裕ある事に依つて災害を復舊せしめる事が分來たと共に區域の擴張を劃し同年十一月には之が認可を得て翌昭和二年には其の工事を完了して現在に至りしものである。 今此の水利組合管轄區域內に於ける虎岩堤及大堤の規模を分析してみると虎岩堤の水深は最大
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大二十九尺にして平均十三尺四寸となつており大堤は最大十五尺にして平均十尺五寸と云ふ深さになつてゐるが其の支配面積は虎岩堤が二百六十八町八百歩、大堤が八十七町歩になつてゐる。 尙ほ組合費負擔額に目を轉じて見ると、一等職が反當り七圓三十二錢、二等地が七圓二十錢、三等地が六圓九十錢、四等地が六圓三十錢、五等地が五圓七十錢、六等地が四圓八十錢、七等地が三圓六十錢、八等地が二圓十錢、九等地が一圓五十錢となつてゐて、工作物維持管理は常備人夫を置きて組合が之れを直營し用排水の管理は組合職員を其の指導者として常備人夫の外配水夫を三名乃至五名を臨時に傭入して管理に當らしめてゐる。 其の他此の水利組合には篤農精神の鼓吹者として一般邑民に敬慕されてゐる鈴木政一氏外栗山甫氏等が直接或ひは間接に農事の改良を勵行せしむべく奮面積二町二反歩に互る採種圃を設置して地區內三箇年更新の計劃を以つて昭和三年度より更新に着手せる外奮面積一反歩を以つて原種圃を設置し而して採種奮用に充て或ひは集合又は共同苗代をも設けて之れが指導獎勵に當る等極力奮闘の勞を惜しまざる次第であるから今後忠州に於ける水利事業は氏等多年の體驗知識と其の蘊蓄とに依りて益々達成向上して行く事は毛頭をも疑ひを容れざる所である。
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第十六章 思 想 元來忠州には思想運動の大人物と見らるべき人物が簇出した例がない事は一般邑民の共に周知してる事であるが近來漸く世界的に悩む世界市民的人心動搖に連れてあらゆる思想が色彩を帶び系統を立て我忠州に流れ込んで來たのは事實である。
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それは勿論大正八年即ち己未の年以後の事であつて己未の年前の事ではない果然忠州に於ける思想運動は大正八年の萬歲騷動を以て第一期と見ねばならぬ當時忠州富豪の子弟が內外に留學して漸くいろはにほへとを解せんとした際朝鮮の民族運動は火花を散らして有形無形にも燃へ上つた。
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それを大局的に論ずれば無論大局的な理由もあるであらうが之れを小局的に論ずれば忠州の思想運動は何等の意義を以つて生れたものではない 唯前後無分別の中等學生が或は京鄕にてたゞ何等の判斷も批判も加へずしてただ附和雷同的に騷ぎ立てゐたのが現今の忠州が持つ思想運動を崩した第一の原因である
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其證左には忠州生れの鮮人學生にして支那留學より歸れる者は直にギロチンかぶれで歸り東京留學より歸れるものは何れもアナキストかぶれとして或はボルセヴィキかぶれとして歸つて それ等の纖維組織に急しんでゐたのである。 則ちオールガナイザーの使命を果すべく過激な言動を吐いて流浪轉變したのである故に大正八年を忠州思想運動の第一期として論ずれば第一期たる大正八年の忠州は過渡期であったにすぎない則ち確乎たる信念と充實した生活意識とを以て死んでもなほ悔ひざる態度に出た傾向はない 即ちエロかグロかベルか何か知れない形ばかりの初産兒時代であったのである、それが漸々伸びでるに連れて初産兒の氣分は茲に滔漲し長上を敬ふを知らずして稍本能に近い行動で思想家は意馬心猿の如くに焦かれでゐたのである。
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それが大正十一年迄續いたであらうこれを記者に言わしむれば記者は此の時代を直に忠州思想運動史上に於ける第二期の氣氛時代であると謂ふを憚らないそれから以後氣氛は終に行動を産んだそして第三期時代を描いたのである而して從來胎兒呼吸の如き無形の思想と幼兒の本能的行動が此の第三期に臻つて始めて皆起立し得る事が出來たのである此の時代を記者は忠州思想運動の鼎立時代
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と云ふ則ち忠州の內鮮人青年間には民族主義者が誰であるとか無政府主義者が誰であるとか言ふ事は各自鼎立の姿を見て明かに辯別する事が出來たのである。
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順序なる哉此の鼎立戰線は終に思想家同志連に派爭の禍をやらねばならなかつた即ち A的地形立つてゐた者はB的地形に立つてゐるものをB的地形に立つてゐるものはA的地形に立つてゐるものを相呪ひ相鬪はねばならなかつた。
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此時代が忠州に於ける思想運動史上の第四期に屬する時代で專ら派爭を事にしてゐた時代である斯くの如く忠州のインテリゲンチヤ間に於ける思想の階段は上から上へ其長軀を伸ばして行くに連れて忠北忠州を中心として彼等思想青年が結べる秘密結社黒旗聯盟なる黨員一味が檢擧せられてよりその對黨たる一味の者は各々自散放浪して異域に悲憤慷慨の淚を排ひ乍ら外部の同志と脈絡を結んでゐた形跡もあったと言はれてゐる。
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そして彼等も何かに目覺めたかは知らないが入獄した者は出獄し放浪せる者は歸鄕して慰懇に派
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爭を續け乍ら共同戰線を構築すべく又相抱き相泣いて暗中劃策をめぐらしてゐたのである。それは大局的にその戰線を暗示する朝鮮新幹會と云ふものが彼等をさうせしめたものであろう
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即ち彼等が朝鮮の新幹會を慕つて從來の派爭を外にして相叫合せんとした理由は陰には民族主義思想に相共鳴して徐々にその黑白を論ぜんとしたのだそして彼等は此時期を第五期として民族單一戰線を兩手を擧げて讃美してゐたのである
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元より明るい朝鮮總督府政治の大眼目幷にその過去現在未來を誤解せずして半知半解に終れる未熟の朝鮮青年にとりてはともすると有り勝ち一時代現象であるとは言へ彼等は餘りにも李朝末の政界風塵雲とその當時の情勢如何に今の情勢如何を對比して見ない、故に彼等は一天萬乘の聖恩に向つて感泣する事がない、故に彼等は惡を作る事を知り善を作ることを知らんない、思へば實に敷かしい事である。
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幸にして忠州郡守崔志煥君を始め忠州警察署長宇田亮太郎君は良くその思想青年を抱擁しまよく指
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導したる爲め一般地方青年はその方向を轉換してゐるとの事だ 記者願はくば忠州邑有意の士は先づ以つて彼等が善道に心を碎き而して國家百年の大計を慮かられよ。
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第十七章 忠州に於ける江運
南 漢 江
南漢江は漢江の左支川にして流域は江原道、忠清北道、京畿道の三道に誇り南たには洛東江及錦江北方には北漢江の流域あり東方は東海岸に近き一帶の分水嶺を以つて其の水源を形成す、忠州より上流は、洛東江との分水嶺に妨げられ、遠く南方に延ぶるを得ずして一大彎曲をなす故に其の地形は縱橫大差なく其の源を五臺山に發し 南流して寧越附近に於て平昌方面より發する支川西江を合し流向を東に轉じ忠州附近に於て北漢江と合流して漢江となる。水深は處によりて異なり寧越より下流忠州に至る間は、渴水時一尺以下に及ぶ處あれごも忠州より下流は淺き處と雖も二尺を下らず、而して流域を三區に別てば 上流の部 水源より寧越迄 二一、六 里 中流の部 寧越より忠州迄 二二、八 下流の部 忠州より北漢江合流點迄 二四、三 中流部(寧越忠州間)毎年三月より十一月迄朝鮮航行す、其間淺瀨瀕四十 九ケ所あり。
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下流部(忠州高安間)結氷期を除くの外、大出水時に非ざれば毎日船航行す、忠州郡彈琴臺より龍山迄の航行里程は約三十五里にして、夏季水量多き時と雖、下航十二時間乃全十五時間、上航五日乃至七日間を要し、普通は下航三日上航十日乃至二週間を費すると云ふ、而して航行の時季は三月下旬より十一月下旬にして就中頻繁の時期は四月上旬より六月下旬とす上航には積載量制限され且つ數船相助くるに要する不便は北漢江と異ならず、旅客のみを營業とする船舶殆ごなく稍々定期に發著するものは、內國運通會社忠州出張所の所有船にして、其の下流には旅客も之を利用するもの多く、沿岸貨物は運賃の關係及道路改修完成せざる爲め、結氷期破除きては殆んど全部江の航運を利用す、而して移出品は移輸入品より遙かに多くして移出品の主なるものは煙草、穀物、薪炭等にして移輸入品は鹽、明太魚、石油及雜貨等なり、忠州より北漢江合流點に至る間の寄港地は 彈琴臺(忠州)、牧溪、泉浦、興湖、興州、梨浦、楊根等なり 船舶の種類は日鮮形帆船にして、積載量は四十石積最も多く、三十石積、五十石積、二十五石積、之れに次ぐ、要之忠州附近は物産に富み、移出品は移輸入品に比し遙かに大なれば河津に通ずる後方區域への交通道路の改修及農事改良等により、將來益々移出品の増加を來すは明瞭にして産業の興隆は漢江の水運に待つ所頗る大なり、若し夫れ航船障碍を除去し、忠州産業の開展を促進するや必せり。
<번역문>
《忠州發展史》이 영(李 英) 저. 1933년.
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제1장 개론 (概論)
一, 연혁 (沿革)
예로부터 충주를 논한 논객은 결코 적지 않으며, 그 중에는 문장력을 발휘하여 책자를 편찬한 저술업자도 있고, 혹 입거품을 물며 충북 일대의 천지(天地)를 순유(巡遊)하면서 충주를 천하에 소개한 현대 의식 있는 인사들도 있어 그 수를 다 헤아릴 수 없다.
우선 본 기자는 이에 선배들의 유지(遺志)를 이어 충주를 논하는 논객이 되기를 감히 사양하지 않는다. 그것은 충주를 사랑하기 때문이요, 충주를 사모하기 때문이며, 나아가 기자가 가진 영육(靈肉)을 낳아주고 키워준 충주를 애모하기 때문이다.
그러므로 진실로 적(籍)을 충주에 두고 식량을 충주에서 구하며, 나아가 적(籍)을 조선에 두고 식량을 조선에서 구하는 당대의 깊은 뜻을 가진 선비가 있다면 그들은 반드시 기자의 동지일 것이다.
기자는 이 원고를 집필함에 있어, 우리 충주가 가진 만천하의 동포를 단순히 동포라 부르지 않고 주저없이 '충주읍당(忠州邑黨)'이라 칭하여 원고를 진행하고자 한다.
아울러 조선을 위해 충주를 풀이하고 충주를 위해 조선을 설파하여, 우리 당이 가진 모든 사명을 완수한다면 기자의 다행함이 이보다 더할 수 없음을 믿어 마지않는다.
그러면 충주라는 읍호(邑號)를 쓰게 된 것은 언제, 어느 시대부터인가. 기자는 먼저 충주지지의 연혁(忠州地誌の沿革)에 대해
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서술해보고자 한다.
'충주'라는 두 글자가 조합되어 '충북 충주'라는 읍호를 얻기까지는 상당한 파란만장한 곡절을 거친 것으로, 고려조 태조 왕건 3년 무렵은 때마침 신라의 역신 견훤이 반역을 꾀하여, 구름과 안개 같은 대군과 어린(魚鱗)의 진형으로 산을 가리고 들을 채워 사방의 군현을 그 깃발 아래 복종시켰을 때라고 전해진다.
그러나 당시의 충주는 어디까지나 고려조에 귀순하여 겨우 견훤의 칼날을 면하고 주민들 모두 즐겁게 살 수 있었던 것은 사실이다.
물론 그 이전은 충주군 서무주임 남외칠 군을 비롯하여 옥토거 천외 군 등의 주장대로 단군 2,381년(서기 48년)까지 '범장성(范長城)'이라 불렸거나 혹은 '국원성(國原城)', 혹은 '소경부(小京府)', '사천성(四川省)'이라 불렸는지는 어느 사적을 찾아보아도 이론이 없다.
(원문은 勿論その以前は忠州郡庶務主任南外七君を始め奧土居天外君等の主張通り檀君二千三百八十一年迄范長城と呼ばれ或ひは國原城或ひは小京府、四川省と呼ばれたかは何れの史蹟を探るも皆異論なく、이다. 여기서 奧土居天外는 《충주관찰지(忠州觀察誌), 1931년》를 쓴 오쿠도이 텐가이(奧土居天外) 를 말한다.
신증동국여지승람 충주목 건치연혁(建置沿革)에 다음과 같이 나온다.
『 本高句麗國原城。一云未乙省,一云薍長城。新羅取之。眞興王置小京,徙貴戚子弟及六部豪民以實之。景德王改中原京。高麗太祖二十三年改今名。成宗二年置牧。十四年,置節度使,號昌化軍,隷中原道。顯宗三年廢爲安撫使,九年定爲八牧之一。高宗四十一年陞爲國原京,後還爲牧。本朝因之。世宗三十一年,以觀察使兼判牧使,尋罷之。世祖朝置鎭。
』 그러므로 범장성(范長城)은 완장성(薍長城)을 잘못 알고 있는 것이고 사천성(四川城)은 뜬금없는 얘기고, 소경부(小京府)도 진흥왕때 小京을 둔 것을 말하는 듯한데 경덕왕때 중원경으로 고쳤다. 한마디로 부실(不實)한 의견이다. 그런데 문제는 아직도 이런 부실한 私論을 高見으로 받아 들이고 있다는 것이다.)
기자는 그저 당시의 충주를 회상하며 현재 2만 여 시민을 품고 여전히 우뚝하게 하늘에 솟아 있는 남산성(南山城)을 생각하면, 생각이 반에 이르기도 전에 암울한 눈물에 목이 메이지 않을 수 없다.
왜냐하면 옛날 충주를 범장성이라 칭하고, 신라 진흥왕이 우리 충주를 소경부 또는 사천성으로 고쳤을 때는 이미 충주는 조선 데카당주의(데카당스, 퇴폐주의)의 둥지가 되어 천년의 장수와 벼슬아치들이 거꾸러졌고, 그 위에 왕자 왕손을 비롯한 6부 호족들이 이 남산성 아래로 이주해 온 뒤 온갖 폭동을 자행했기 때문이다. (위에서 언급했지만 범장성은 완장성을 잘못 알고 있는 것이고 고구려가 영토를 차지하고 붙인 이름이다. 진흥왕이 小京을 둔 것은 맞다. 하지만 사천성은 뜬금없다 했다. 신라가 충주땅을 차지하면서 온갖 폭동을 자행했다는 저자의 의견은 뜬금없다. 어느 정복전쟁이나 살상(殺傷)을 가져오며 지배자와 그 추종세력을 제거하거나 노예로 만들지 일반 백성까지 모조리 학살하는 일은 드물다. 그리고 마한이었던 땅이 고구려 땅이 되고 신라에 복속된 것은 진흥왕 때이다. 이를 신라가 삼국을 통일한 시기로 착각한 것은 유감이다. 그리고 南山城 운운하는데 이는 충주를 좁게 보는 견해다.)
천고만고(千古萬古)에 걸쳐 절개의 향기를 전하는 이 남산성이 지금은 참호가 완전히 메워지고, 전당과 대문, 화려함의 극치를 이루던 아름다움도 지금은 그 자취가 완전히 사라져 단지 옛날의 장관을 회상하게 하는 흔적만 남아있음을 상상하기 때문이다.
만약 당시의 귀족 자제 및 6부 호족 자제들이 조금 더 중용을 본받은 한학 사상을 가지고 국원경 시대
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까지의 180년간을 사적 보존 사상 및 향토애 등의 정신으로 이 땅을 잘 경영해 주었더라면, 지금의 충주는 역사적 사실에 있어서나 문화에 있어서나 지금의 평양이나 경주보다는 훨씬 유명한 곳이 되었을 것이다.
당시의 충주가 한때 화려하게 피어난 화원의 그림 같았음을 공간적으로 고찰해 보면 미(美)는 미요, 선(善)은 선이었음에 틀림없지만, 돌이켜 이를 시간적으로 고찰해 보면 불미(不美)는 불미요, 불선(不善)은 불선이었음에 틀림없다.
그러므로 그 후 신라 경덕왕 원년에 사천성을 중원경(中原京)으로 개칭하여 충주 역사상의 황금시대를 자랑했을 때, 충주 토착민들이 모두 충주를 가무와 연락(가무음곡과 잔치)의 땅으로 치부하고 유탕(유흥) 생활에만 빠져 있었다고 하는 것도 결코 무리가 아니라고 생각된다. (이 부분도 저자는 상당한 오류를 범하고 있다. 아무런 근거가 없는 것이다. 위에서 저자 스스로 밝혔듯이 식민지 조선에 온 일본인의 주장까지 무의식으로 받아 들였던 것으로 보인다. 일본은 전통적으로 백제와 친밀한 관계였다. 660년 백제가 멸망후, 663년 백제 부흥군과 연합하여 나ㆍ당연합군에 맞서 백강 전투를 벌인 것은 유명하다.)
그중에서도 저 유명한 가야국의 악사 우륵이 국정의 그릇됨을 보고 개탄하며 가야금을 안고 산자수명한 충주로 와서 탄금대(彈琴臺)에서 그 여생을 보냈다는 에피소드만 보더라도 당시의 충주가 얼마나 낭만적이었는가를 엿볼 수 있을 것이다.
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그리하여 고려조에 들어와 태조왕이 지금의 '충주'라는 읍호를 내리고, 성종 대에 이르러 충주에 도(道, 성종 2년에 牧을 설치했다.)를 배치하고 지금의 앙성면 용당리에 절도사 및 창화군 별초군 300명을 두어 변방을 대비하게 했을 때는 이미 낭만적인 기운은 점점 사라져 가고 있었다. (이 부분도 사료적 근거는 없다. 다만 대몽항쟁기에 충주 창정(倉正) 최수(崔洙) 등이 1253년(고종 40) 몽골의 제5차 침입 당시 충주 지역(금당협)에서 몽골군에 맞서 싸워 승리하였다. 이를 금당협 전투(金塘峽戰鬪)라고 하는데 금당(金塘)은 지금 여주시 금당리를 말한다. 고려시대 충주는 양광도(楊廣道)에 속했다. 고려시대 행정구역이 어떠했는가 조금만 살펴도 알 수 있는 일이다. 신증동국여지승람 여주목 산천 항목에 金堂川。在州東十里。原州界。라고 써 있다. 지금 여주시 북내면을 북에서 남으로 흘러 남한강에 합류하는 하천이 금당천이다.)
그러나 그 기풍이 뿌리 뽑힌 것은 고려조 문종왕 35년 무렵의 일일 것이다. 그것은 문종이 특별히 충주를 도독부(都督府)로 개칭하고 목사(牧使)를 두어 군무와 행정 책임을 맡게 한 것을 보면 명확하다.
이렇게 겨우 밝은 달빛에 잠기려 하던 충주는, 때는 고려조 고종 41년 무렵 문관은 태평하고 무관은 희하하여 세상이 참된 의미의 태평성대를 노래하려던 바로 그때, 원나라의 대군이 성난 파도처럼 밀려와 동진하여 압록강 이남의 군현이 모두 도륙되고, 기근이 길에 가득하여 하루에 눈물겹게도 수만 개의 묘비가 설 때였다.
충주는 창정(倉正) 최수(崔守)가 용사를 모아 적을 금당현(金堂峴) 즉 지금의 동량면에서 맞아 이를 격파하고, 방어도감 김윤효(金允孝)는 박달치(朴達峙) 즉 지금의 산척면에 복병을 두어 적을 참혹하게 요격하여 그 대장을 베고 깃발을 올려 소위 '북구(北雠)'를 추격하여 몰살시킴으로써 경상도 이남의 백성들로 하여금 전란의 액운을 면하게 한 것이다.
그 후 충렬왕 3년에는 충주성을 개축하고 초석에 연꽃을 조각하였으므로, 충주를 일명 '예성(蘂城)'이라 칭
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하기도 하였다. 내려와 조선 태종 원년에는 고려조의 군명을 따라 목사를 배치하고 행정구역을 충청도로 고쳐 특히 충주에는 좌감사(左監司)를 두었고, 세조 3년에는 축성을 다시 충주진영(忠州鎭營)으로 개칭하여 7개 읍 즉 지금의 영춘, 제천, 단양, 청풍, 괴산, 연풍, 음성 등의 군무 행정을 관장하게 했을 때는 성 안이 인가로 조밀하여 한때 중심지로서 극치를 이루었다.
그 후 조선 고종 건양 2년에는 옛 한국 정부가 배포 있게 행정개혁의 목소리를 높이자, 충주에는 느닷없이 관찰사를 두어 충청북도 행정의 수뇌지로 삼았기 때문에 하룻밤 사이에 도성 500년의 역사는 여기에 한 단의 이채와 광채를 더하게 되었다.
특히 러일전쟁 이후에는 내지인(일본인)의 왕래가 나날이 늘고 달마다 더해져 전도의光明을 축복할 때에 즈음하여, 명치 40년대(1900년대) 한일보호조약이 체결되자, 의병을 자처하는 폭도들이 충주를 중심으로 봉화를 올리고 蜂起하여 약탈을 자행했기 때문에 교통의 위험 또한 말로 다 할 수 없었다. 때마침 수비대가 주둔함에 이르러 주민들은 겨우 그 터전에 안심할 수 있었지만, 누구인들 알았으랴, 이왕 융희 3년(1909년) 관찰사를 청주로 옮겨야 하는 운명을 맞이하게 될 줄을.
이리하여 충주는 완전히 등불이 꺼지고 오직 하늘만이 암담하게 어두워, 무궁화가 하룻밤 사이에 시들어야 하는 운명이 일각(一刻)
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으로 다가온 것이다. 그 후 대정 3년(1914년) 중앙철도 부설 계획이 이루어지자 충주 주민들은 저자거리에서 소동을 벌였고, 지가 상승 열풍에 끌려 오가는 사람들만이 구름처럼 모여들었을 때, 도로 교통의 완비와 산업의 발전은 충주에 발랄한 생명력을 부여하였다. 그리하여 이제 우리 충주는 '쌀의 충주', '황색 담배의 충주'로서 충청북도는 커녕 조선 전역을 통틀어 단연 두각을 나타내고 있는 것은, 뭐니 뭐니 해도 앞날 또한 경사스럽다고 하지 않을 수 없다.
이렇게 이루어진 충주는 그 지세가 충청북도의 동북에 위치하여 충청북도청 소재지인 청주와는 17리 27정 떨어져 있고, 북쪽은 계족산을 등지고 서쪽은 한강을 토해내며 그 사이에 이어지는 충주평야는 넓고 끝이 없다. 동쪽의 남산 일대는 언덕이 우뚝하게 솟아있고, 남쪽 사직산은 소나무의 푸르름이 언제나 짙은 가운데 그 산기슭을 감돌아 흐르는 졸졸 흐르는 작은 시냇물은 옛날 성곽의 외곽 해자였던 것으로 전해지고 있다.
이제 조선철도주식회사의 손에 의해 충북선이 개통되어 충주 사람은 누구나 조선 유수의 도시 지대를 향해 손을 뻗을 수 있게 됨과 동시에, 강원·경상도의 오지와는 도로 개수의 은혜에 힘입어 트럭 편을 이용하거나 육운 편을 이용하여 어렵지 않게 동서 이웃의 혜택을 입고 있다.
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또한 시가지 개혁이라는 관점에서 보아도 충주의 시가는 마치 교토의 그것과 같고, 혹은 평양의 그것과 같이 모두 규격이 단정하여 흥왕 발전의 기운을 촉진하고 있는 징후는 누가 보아도 불을 보듯 뻔한 사실이다.
현재 충주 시내는 4구로 나눠져 우선 본정(本町)을 필두로 영정(榮町), 금정(錦町), 대수정(大手町) 등을 안고 있어 어디를 가더라도 점포들이 빽빽하게 들어서서 정녕 중부 조선의 대시장으로서의 면모에 부끄럽지 않을 정도이다.
군은 동서 9리, 남북 8리이며 총면적은 57방리로서 평야는 서쪽에 펼쳐져 있고 경지 면적은 2만 2천 여 정보에 달하게 되었다. 그뿐만 아니라 한강 본류가 충주의 중앙부를 관류하고 있어 오지의 백성들에게 배편의 편리함도 제공하고 있을 뿐만 아니라, 그 지류는 군내 각지로 통하고 있어 좀처럼 수해나 가뭄의 소리를 듣기도 어려운 일이다. 게다가 토질이 풍요롭고 기후가 온화하기 때문에 아무런 근심도 느낄 수 없는 조선의 보물창고이자 일본의 보물창고이며 세계의 보물창고라 할 수 있는 그 특산물을 크게 자랑해도 좋을 곳이다.
현재 내·선인(조선인과 일본인) 세대 호수는 2만 2천 143호, 인구는 10만 5천 979명을 안고 있는 충주는 옛날부터
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행정기관의 수뇌 도시로서 중심지 역할을 다하고 있는데, 뭐니 뭐니 해도 아쉬운 것은 무한히 화려했던 충주의 운명이 명치 42년(1909년) 봄 꽃이 땅에 떨어지고 잔여 꾀꼬리 소리 점차 드물어지며, 신록의 그늘 깊어 가고 소쩍새 한 소리에 더더욱 고향을 그리워하는 정을 자극하려 할 때, 도청 이전 문제가 대두되어 충주의 천지를 진동시켰다는 점이다.
그때부터의 충주는 말할 것도 없이 적막한 한 쓸쓸한 시골 마을로 변해버린 듯한 느낌이 없지 않았으나, 그것도 일시적인 일이었지 영구적인 것은 아니었다. 왜냐하면 당시 충주에는 끈기 있는 인격자들이 떼지어 모여 이 땅의 개발과 그 발전을 기약하고 있었기 때문이다.
잠시 이름을 들자면 관가에는 미나토 신조(湊信三), 서회보(徐晦輔), 사카이 분지로(酒井文次郎), 민간에는 하라구치 이치지(原口一二), 다카무라 진이치(高村甚一), 스즈키 세이이치(鈴木政一), 우노 사헤이(宇野佐平), 윤정구(尹政求), 정운분(鄭雲盆), 피해붕(皮海鵬), 아카마츠 지엔(赤松時圓), 송석균(宋錫均), 홍몽화(洪夢華), 후쿠야마 충타로(福山忠太郎), 하라다 초지로(原田長次郎) 등의 여러 별과 같은 존재들이 있었다. 이들은 모두 충주의 원로로서, 나아가 개척자로서, 성공자로서 충주 시민은 물론 충청북도 민에 이르기까지 그 덕이 송축되었기 때문이다.
그러므로 충주의 발전은 위와 같은 선배들의 분투 노력의 산물로서 오늘에 이르기까지 30여 년간 아무런 문제 없이 쑥쑥 자라났다. 그러므로 이제 일약 중부 조선에 울창하게 그 두각을 나타내어 모든 분야의
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문화적 양식을 삼키고 토해내고 있는 것도 결코 무리가 아니라고 말해야 할 것이다.
게다가 소화 3년(1928년)부터 충북선의 기차가 개통되고 기타 교통 운송의 편의는 경북의 풍기, 상주, 문경, 영주를 비롯하여 강원도의 영월, 평창, 원주, 정선 등을 향해 더욱더 지극히 편리해졌기 때문에 충주 시민의 이익은 거대한 이익이 되었다. 실로 과거를 연상하면 세대가 바뀐 듯한 감회가 있고도 남음이 있다고 해야 할 것이다.
물론 충주가 오늘날과 같은 발전을 가져온 공정적 이유는 지리적 이점이 그렇게 만든 것으로, 앞에는 만 顷의 우수한 논밭과 비옥한 들판이 있고 뒤에는 무한한 석탄 광산이 있으며, 특히 유럽 대전란(제1차 세계대전) 발발 이래 수산면 및 사미면의 텅스텐 광산은 무진장의 보물창고라 불리며 충주는 이 기업가들의 주목의 초점이 되어 시황이 갑자기 활기를 띨 때도 있었다.
이 당시를 세계적으로 논하여 '벼락부자 시대'라 한다면, 이 당시를 충주적으로 논하면 충주는 바로 '인구 증가 시대'라고 해야 할 정도로 놀라운 발전적 추세를 우리 충주 사람들은 바라볼 수 있었던 것이다. 그러므로 당시 충주군의 각 면에는 시장이 여기저기 신설되었는데, 그중에서도 엄정면 목계 및 이류면 대소원의 두 시장과 같은 곳은 모두 1년에 68회 내지 69회의 장이 열려 1년 매매고 4만 3천 394원의 거래를 이루었다. 상업상의 세력은 멀리 제천, 원주, 평창, 영월 등의 각 군을 포용하며 물자의 반출입
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중추지로서 시황이 대단히 번창했던 것은 충주 시장과 우열을 가리기 어려울 정도였다. 아울러 넓디넓은 57방리 중의 충주읍, 이류면, 주덕면, 신니면, 노은면, 앙성면, 소태면, 가금면, 금가면, 엄정면, 산척면, 충동면, 사미면의 1읍 12면 142리의 대부분은 더욱더 백년 천년의 꿈을 탐하면서 그 단초에 들어서고자 첫발을 내딛게 되었다.
일한병합 이래 역대 총독의 시정 방침에 기초하여 당국의 유도와 계도가 잘 효력을 발휘하여 농사의 개량, 식림의 장려, 도로의 개착 등 치적이 크게 올라 특히 식림 성적은 전 조선에서 으뜸가는 것도 있어, 눈에 보이는 황량한 붉은 산이 어느새 푸른 옷을 입고 신정을謳歌하며 백성들은 부지런히 그 생업에 힘써 피로하고 곤란했던 민력은 충실해지고 납세 성적은 이래 충청북도 내에서 으뜸을 차지하고 있는 것이다.
종래 충주 사람은 민족 계급의 압박과 가혹한 관리의 가렴주구에 시달리던 것이, 밝은 신정의 시정이 정돈됨에 미쳐 민중이 모두 안심하고 태평성대를 즐기며 천은에 감격의 눈물을 흘리고 있는 것은 함께 경사스러움을 금할 수 없는 사정이라 하지 않을 수 없다.
관공서의 주요한 것으로는 공주지방법원 충주지청, 충주경찰서, 충주군청, 충주우체국, 전매국 충주
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출장소, 식산은행 지점, 담배경작조합, 금융조합, 공립농업학교, 보통학교, 소학교, 충주읍사무소, 누룩제조조합, 충주학교조합 등이고, 주요 회사로는 조선철도주식회사 충주역, 조선트럭회사, 중선운송 지점 등이다.
이제 충주의 개략을 써보자면, 지금의 충주는 시내 전화나 전등은 이미 설비되어 있지만 수도(상수도)가 아직 만들어지지 않아 위생상 뭐라고 하는 사람도 있다. 그러나 원래 충주천, 교현천에 끼어 있는 시내의 우물물은 뜻밖에 풍부하고 수질은 흠잡을 데 없이 양호하므로 현재로서는 수도의 필요성을 그다지 느끼지 못하고 있다. 이것을 가지고 과거 역대를 생각해 보아도 정녕 시대의 진보에 대해서는 놀라움의 눈을 떠야 하겠지만, 또 하나 물산을 가지고 논해 보아도 역시 그러하다.
충주군산 쌀은 현재 10만 석을 넘지 않지만, 충주의 상권에 속하는 제천군, 단양군, 영월군, 평창군, 정선군의 쌀이 교통의 편리함을 따라 충주로 집중되고 산출되어야 하는 운명에 있는 이상, 앞으로는 어떻게 해서든 기차 개통에 따라 경이롭게 그 양을 늘려가야 한다는 것도 이치상 당연한 일이라 하지 않을 수 없다.
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왜냐하면 종전에는 단순히 한강 배편의 편리함에 의존하여 겨우 용산 방향으로 마음대로 반출되던 것이, 지난해와 같은 경우는 기차 편 덕분에 일약 5만 석 이상에 달하고 있는 점으로 보아 이 추세는 앞으로 어디까지나 기하급수적으로 증가해 가야 할 것이라 단언해도 결코 과장이 아닐 것이다.
황색 담배는 충주가 조선에서의 최적지로 간주되고 있는데, 그 역사는 극히 짧음에도 불구하고 고급 양담배의 원료로서 황색 담배는 충주 부근의 특산물이다. 지금도 조선 내의 수요를 충족시킬 수 있음은 물론 내지(일본)의 고급 담배 재료로서도 지금은 절대적 필수품이기 때문에 미국산 담배 수입을 저지하는 데 큰 동력을 가지고 있을 뿐만 아니라, 수년 전부터는 도리어 미국으로 역수입하는 기개로 매년 충주 부근의 것만으로도 120만 원을 밑돌아 본 적이 없다고 전해진다.
대두(콩)는 소립종에 속하는 것으로 충주 및 그 오지 한강 상류 지방에서 산출되는 것이 알맹이가 고르고 충실하여, 각 방향에서 부질없이 '용산 콩'이라든가 혹은 '인천 콩'이라는 터무니없는 이름을 붙여 내지 각지에서는 너무나 유명한 것으로 여겨지고 있다. 이것도 쌀과 마찬가지로 단순히 한강의 배편을 이용하여 경성, 용산 및 인천 방향으로 나가던 수량이 겨우 4만 석 안팎이었으나, 마지막에 기차 편을 이용하기 위해 끊임없이 수송되므로 상거래도 종전에 비해 상당히 원활하게 이루어질 수 있을 뿐만 아니라,
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'마루충(丸忠)'이라는 이름으로 한신(오사카·고베) 지방은 물론 방총(보소) 지방 양조계의 총아로서 이제 그 진운이 열리려 하고 있다.
그 반출 가능 수량과 같은 문제에 대해서도 아직 지금의 배로 늘리는 것은 극히 쉬운 일이라고 충주읍 지식인들의 입에 오르내리고 있다. 양잠은 그 역사가 극히 최근에 속하여 그 수확량 등도 아직 자랑할 만한 수준은 못 되어 현재 충주에서는 3천 500석이지만, 소화 11년(1936년)까지는 총독부의 누에고치 백만 석 계획에 순응하여 현재의 배에 달하는 액수까지는 어떻게 해서든 도달시켜야 한다고 관계 기관에서는 기세를 올리고 있으므로 아무 문제 없을 것이다. 이와 관련하여 수년 전부터 소규모의 제사(실뽑기) 업자가 떨치고 일어나 충북 산업계에 상당한 중요한 역할을 할 뿐만 아니라 충북 제사계의 주도권을 잡고 있는 모습은 뭐니 뭐니 해도 충주 사람이 가진 끈기 있는 혼의 소치라고 하지 않을 수 없다.
육지면(목화) 역시 충주에서 가장 새로운 산업 중 하나라고 하는 것은, 추운 기후의 땅에 적합하지 않은 육지면이 과연 충주에서 생육할 수 있을지가 오랫동안 의문시되었기 때문이다. 수년간 충주군 농회에서 경작 시험을 실시하여 최근에야 겨우 경작 가능성이 있는 것으로 인정받아 비로소 태어나게 되었는데, 조선 남부에서는 가장 후진지라는 입장에 놓여 있기 때문에 오늘날도 여전히 이 분야 사람들로부터 주목의 대상이 되고 있는 까닭이다.
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그런데 그 성적은 전 조선 단당(100평당) 평균 60근 내지 80근임에도 불구하고 선진지를 제치고 100근 내지 150근에 달하여 일약 '조선 최고'라는 명성을 마음껏 누리고 있다. 다만 유감스러운 것은 아직 새롭기 때문에 그 경작 면적이 겨우 500정보에 불과하므로 앞으로는 어떻게 해서든 경작 면적의 확장에 의해 실력 있는 진전을 보아야 한다는 점이다.
축산물로는 뭐니 뭐니 해도 소가 으뜸을 이루고 있다. 현재 있는 수량만 해도 8천 650여 두에 달하므로 농가 2호당 1두 남짓의 평균 비율이며, 경지 2정 6단당 1두 꼴의 평균이 되므로 그 으뜸이 되는 이유를 알 만하다. 더욱이 수년간 소모와 생산이 대략 균등하게 이루어지고 있으므로 소의 생산지라고 할 수는 없지만 그렇다고 소비지라고 단정할 수도 없다. 언젠가 기자가 충주축산조합으로 야마다 군을 찾아가 그 구상을 물어보니, 당국으로서는 적어도 2정보당 1두라는 수준까지는 어떻게 해서든 진전시키고 싶다고 했으니, 그 정도의 일은 조만간 문제없이 실현될 것이다.
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충주의 땅이 강원도, 충청북도, 경상북도의 삼거리가 되는 관계상, 소의 집산지로는 옛날부터 유명하며 또 충주 시장의 시세가 다른 곳에 견제받지 않고 오히려 인근 시장을 항상 리드하고 있는 점으로 보아도 상당한 유력한 우시장임은 논할 필요도 없는 사실이다. 최근 어느 우시장이나 거래 두수는 대단히 줄어들어 호황 시대에 비해 절반 수준의 거래에도 미치지 못하는 상태이며, 따라서 충주 시장도 그 여파를 많이 받고 있지만, 그럼에도 매년 3천 두의 거래 아래로 떨어지지 않는다.
임야方面에 이르러서는 현재 전심전력으로 식림과 사방공사에 전력을 기울이고 있어 물산으로 채산성을 맞출 수 있는 것은 오히려 드문 편에 속한다. 아마도 백년대계를 가지고 느긋하게 일궈가고 있는 애림가와 각종 단속 법규를 가지고 먼 미래를 기대하는 정도의 것이다.
충주의 과수는 극히 집약적이며 그 면적도 타에 자랑할 만한 것은 못 되지만, 발랄한 충주과수조합원의 기세로 그 생산이 산술급수적으로 증가하여 과실 가격이 폭락한 오늘날에 있어서도 넉넉히 10만 원의 수입을 나타내며 해마다 수확량을 증가시키는 동향에 있는 것은 뭐니 뭐니 해도 기쁘고 감사한 동향 중 하나라고 하지 않을 수 없다.
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다음으로는 '충청북도 북부국자조합(麴子組合, 누룩조합)'이라는 것이 있다. 북부라 함은 즉 충주, 제천, 단양 3군을 가리키는 것으로, 조선주(막걸리·약주 등) 양조용 누룩을 만들어 주조가에 배급하는 역할을 맡고 있는 곳이다. 그 제조고는 누룩만으로도 연산 37만 개에 달하여 그것이 조선주 2만 5천 석의 발효원이 되는 것인데, 그 품질이 양호한 것은 적은 양의 누룩으로도 충분히 발효 작용을 시켜 오지산 술의 명성을 높이는 유일한 인인이 되고 있음을 보더라도 충분히 경암(鏡岩)의 영예가 있고도 남음이 있다.
이러한 충주를 빛내는 물산을 바탕으로 충주읍민의 실생활을 좌우하는 금융기관으로는 조선식산은행 충주지점 및 충주금융조합의 두 곳에 불과하지만, 그 둘 다 시세의 불황에 역행하여 참으로 확실한 실적을 나타내어 반석과 같은 견고함을 보이고 있는 것은 충주가 재정적으로 상당한 신용할 만한 땅임을 웅변으로 말해주는 현상 중 하나이다.
소화 5년(1930년)까지 두 기관의 대출고를 살펴보면 식산은행 지점이 144만 원, 금융조합이 10만 원 정도인데, 이는 철도 개통 이전처럼 물자의 움직임이 극히 완만했던 편이다. 그러나 지금처럼 물자의 집산 거래가 민첩해진 이상 종래의 금융기관만으로는 그 몸집을 충분히 기지를 펼 수 없을 것이므로
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결국 자연스럽게 상업 금융기관의 필요성이 어디까지나 필연적으로 부르짖어지게 될 것이다. 최근 본점인지 여부는 모르겠으나 일부 시민들이 이 점에 유의하고 자각했기 때문에, 차츰 상업은행이나 도시금융조합의 설립을 요구하고자 하는 기운이 대두되기 시작한 것은 당연한 이치이자 당연한 수순이라 하지 않을 수 없다.
그 외에도 '중앙극장'이라는 극장이 있다. 흔히 도코노마(장식장)가 없는 집은 안정감이 없다고 한다. 이런 의미를 담아 기자는 극장이 없는 도시는 도시로서 무언가 빠진 도시라고 말하기를 꺼리지 않는다. 다행히 이 의미를 잘 이해하고 있던 충주 개척자 중 한 사람인 스즈키 세이이치 군이 지대한 희생을 무릅쓰고 중앙극장을 세운 것은, 충주 인사들에게 얼마나 많은 위안과 배를 씹는 듯한 부드러운 맛을 줄 수 있을지 일일이 가늠할 수 없을 정도이다.
그 구조는 연극에도 좋고 영화에도 좋으며 상당한 수용력도 있으므로 당분간 충주에서 부족하다고는 말할 수 없겠지만, 충주가 앞으로 번창하여 이 극장이 좁다고 할 정도가 되면 충주는 이제 성인(성숙한 도시)이 된 것일 게다.
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역사적으로 대략 위와 같이 논해 오면서 충주를 개념적으로 바라보면, 아무리 그렇다 해도 먼 옛날부터 충주는 폭도와 도적의 둥지였으며 민심이 거칠고 박절하며 간교하고 광조, 부동의 폐단이 있었음은 논할 필요도 없는 사실이다. 게다가 완고한 양반과 유생들은 시기심을 가지고 온갖 새 풍조를 저주하며 허식을 피하고 실속을 취하라는 시대적 교훈을 소홀히 다루었으나, 관헌의 끊임없는 주의와 완화 유도 효과가 헛되지 아니하여 이제는 위아래 모두 새로운 풍조를謳歌하고 태평성대를 누리며 업무에 정진하고 관헌의 지도를 잘 따라 교육에, 농업에, 산업에 해마다 발전의 자취를 남기고 있다. 완전히 옛 태도를 벗어던지고 성실과 순박의 아름다운 풍속을 길러 어디까지나 끈기 있게伸び어 나가고자 하는 것은, 기자가 이 읍에 태어나 지금까지 26년, 그간의 과거를 회상하면서 개론의 붓을 놓으려 하면 도리어 격세지감이 있고 초월의 감도 있어, 대격세지감이요 대초월의 감회라 하겠다.
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제2章 상론 (詳論)
一, 군 행정 (郡 行政)
기자는 전편 개론의 장에서 충주군 일반을 지극히 개념적으로 언급해 두었다. 그것은 한자가 나타내는 바와 같이 충주군의 종합론이지 부분론이 아니다. 따라서 기자는 이제 조금 더 부분적인 연구 분야로 들어가지 않을 수 없어 군 내의 행정 및 교육, 경찰, 재판, 농업, 상업, 금융, 통신, 교통, 풍속, 종교, 사상 등 각계에 걸쳐 가능한 한 이를 역사적으로 논해 볼 작정이다.
먼저 군 행정으로 눈을 돌려보면, 충주군 일원의 백성이 충주군을 대표하여 군에 임한 행정관에게 그 군할적 정치를 받기 시작한 것은 언제, 누구의 시대부터인가.
그것은 조선 태종 원년에 고려조의 군명을 따라 목사를 배치하고 행정구역을 충청도로 고쳐, 전 충청남도청 소재지인 공주에 우감사를 두고 전 충청북도청 소재지인 충주에는 좌감사를 두었을 때부터일 것이다.
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그러므로 당시에는 지금의 충남을 충청우도라 하고 지금의 충북을 충청좌도라 불렀던 것이다. 그 후 세조 3년에는 특별히 충주를 충주진영으로 개칭하여 7개 읍의 군무 행정을 관장하게 하였다.
따라서 지금의 행정관청 관격(廳格)과 지금 행정관의 관등(官等)을 비교해 보면, 당시의 감영이라는 것이 지금의 도청과 거의 동격이고, 당시의 진영이라는 것은 지금의 군청에 경찰을 약간 가미한 정도의 것이다. 그리고 감영을 통솔하는 감사가 지금의 지사 급이며, 진영을 통솔하는 영장이 지금의 군수나 경찰서장 급이다.
그 후 이태왕(고종) 건양 2년에 구 한국정부가 행정개혁의 목소리를 높이자 감영은 즉시 관찰부가 되고 진영은 즉시 경무청이 되었으며, 지금의 충주군을 충주부로 개칭하여 목사라는 지금의 군수 급 행정관으로 하여금 군 행정 임무를 담당하게 한 것이 10여 만 충주군민이 군획(郡劃) 정치를 받기 시작한 효시(矢) 시대이다.
지금 만약 충주 사람으로서 당시의 면모를 그리워하고자 한다면, 먼저 수비대 청사와 군청 회의실인 청녕헌을 보면 된다. 왜냐하면 지금의 수비대 청사는 당시 진영 청사의 폐허이고, 지금의 청녕헌은 당시
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관찰사의 청사였기 때문이다.
그리고 이조 말의 정국 풍운을 타고 봄바람과 가을비 속에 여러 세월을 보내는 동안 시대는 바뀌고 세상은 변하여, 이왕(순종) 융희 3년에 이 관찰부가 청주로 이전되자마자, 같은 해 8월 29일에 한일병합 칙령이 내리어 충주부는 군정 개혁이라는 총독부의 시정 방침에 기초하여 군청 소재지가 되었고, 그리하여 이래로 충주군이라 부르게 된 것이다.
생각해 보면 참으로 매화에 붉은 점 하나를 더하는 일흥(一興)이 있어, 그 다사다난했던 충주군의 운명사는 말과 글만으로는 일일이 표현하기 어려운 점이 있다. 물론 당시의 충주군민은 단지 자신에게 땅이 있으면 조상 대대로 내려오는 농업 방식에 따라 경작하거나 씨를 뿌려 1년의 가계를 걱정할 뿐, 특별히 토지 개량이나 농사 개량이라는 발랄한 진취적 기상은 가지고 있지 않았다.
이렇게 겨우 겨울 식량을 얻고 나면, 그 후는 그저 유유자적 문을 닫고 앉아 자제의 조혼을 도모하거나 향리에서 패권을 다투는 등, 실로 언어도단인 삶을 살고 있었던 것이다. 그들은 자제 교육 기관으로
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서당을 습관적으로 고수하려 했던 사람이 군민 전체라 해도 좋을 정도였으나, 오직 실리를 탐하는 일부만이 학교 교육의 필요성을 설파하며 관공리에게 아첨하고 붙기 시작하였다. 이러한 가운데 우리 역대 행정관들은 그 중용을 잘 취하고 화합을 이루어, 오늘날 볼 수 있는 노춘추(魯春秋) 시대를 실현하게 한 것이다.
지금 역대 군수와 역대 서무주임 및 재무주임의 이름을 들면 대략 다음과 같다.
군수
1대: 서회보
2대: 윤석필
3대: 신창휴
4대: 이경식
5대: 김홍규
6대: 김기선
7대: 최지환
8대: 김석영 (현임)
서무주임
1대: 하라다 문사쿠 (原田文作)
2대: 타나카 이사오 (田中勳)
3대: 하라다 문사쿠 (原田文作)
4대: 시부타 이치조 (澁田市藏)
5대: 시마쿠라 코타로 (島倉孝太郎)
6대: 코야나기 에이가 (小柳榮雅)
7대: 야마모토 코시로 (山本幸四郎)
8대: 아키야마 문오 (秋山文雄)
9대: 미즈노 세이지로 (水野精二郎)
10대: 미나미 소토치치 (南外七)
11대: 요시다 토요지 (吉田豐次) (현임)
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재무주임
1대: 쇼무라 요조 (正村要藏)
2대: 오니시 키요시 (尾西淸)
3대: 아야베 쿠마오 (綾部熊男)
4대: 콘도 야스토시 (近藤保利)
5대: 토미타 츠네하루 (富田常治)
6대: 코이즈미 류마 (小泉柳磨)
7대: 하야시 요시노스케 (林良之助)
8대: 시바자키 교조 (芝崎恭三)
9대: 미요시 겐이치 (三好源一)
10대: 하세가와 마사미 (長谷川正己) (현임)
그러나 이분들은 모두 북극성과 같은 태도로 이 땅과 이 백성의 이익을 잘 경륜하였기에, 군정은 날로 달로 발전하여 지금 보는 대충주가 거대하게 우뚝 서서 중선(中鮮)의 천지를 굽어보고 있는 것이다.
그중에서도 제1대 군수 서회보 군 같은 이는 막하의 타나카 과장을 격려하여 경성에서 대구로 통하는 1등 도로에 접속하는 도로를幹線으로 하여 폭 5간 4선 연장 620간, 폭 4간 13선 연장 1,621간, 폭 3간 4선 연장 566간, 폭 2간 3선 연장 518간, 합계 24선 연장 3,315간의 공사를 추진하게 하여 시가지를 조성한 것은 영원히 썩지 않을 현저한 공적이며, 내려와 제2대 군수 신창휴 군은 관기 숙정을 기하는 등, 실로 그 공로는 지금에 이르러 치하하기 힘들 정도이다.
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하지만 제6대 군수 김기선 군 같은 이는 충주 지방의 각 계열 사상 청년들을 포용하지 못하여 터무니없는 오해를 불러일으키고 그 수완을 십분 발휘하지 못한 것은 참으로 유감천만이다.
다행히 호한(好漢) 제7대 군수 최지환 군이 그 뒤를 이어 부임하여, 그때까지 완성된 군 내 축산조합 및 주조조합, 곡물검사소, 토목관구, 학교비 사무, 과수조합, 향교재산 정리 등 만반을 군정의 주안점으로 귀일시켜 잘 통제하고 지도한 덕분에, 군정은 여기서 일신되어 공립농업학교 창설을 필두로 충북선 개통 및 군청사 신축, 충주양계조합 등의 창설자로서 군정의 모든 것이 쇄신되어 온 것이다.
것은 물론 당사자의 행정적 수완에 힘입은 바 크겠지만, 그 좌우익에 서서 충주읍 외 12개 면의 서정 및 재정을 관장하여 그 대화를 도모하고 군정의 발전을 촉진해 마지않는 현임 서무주임 미나미 소토치치 군 및 재무주임 하세가와 마사미 군 등의 열성 어린 노력에 힘입은 바라는 것도 또한 지당한 충주 논거의 한 항목이라 하지 않을 수 없다.
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제3장 경찰
다음으로 충주군 내의 경찰을 논하고자 하니, 어째서인지 암눈물이 줄줄 흘러내림을 느끼어 마지않는다. 아는 사람은 이를 잘 안다고 하겠지만, 먼저 여러 조목을 들어 말하자면:
한일병합 이후의 경찰력에 의해 충주군 내의 산업이 진흥되었기 때문에 민심이 점차 평온해진 점.
저 무단경찰이 민중경찰이라는 간판으로 바뀌어 온 것을 생각하는 점.
생각해 보면 실로 격세지감이 남음이 있다. 왜냐하면 한일병합 이전의 충주와 지금의 충주를 비교해 보기 때문이다.
당시의 충주는 그야말로 폭도의 유린과 정파 사상의 횡행으로 인해 일반 민심은 오로지 광조하고 부동하는 폐단이 있었을 뿐만 아니라, 관헌의 가렴주구에 시달렸기 때문에 충주의 10만 여 백성은 털끝 하나 몸 제대로 펴고 살 수 없었다.
그것이 병합 후 인정(仁政)의 보급과 함께 경찰력 집중의 필요상, 충주에는 경비기관으로 경찰서를 배치한 것 외에, 충청남도 천안헌병분대의 한 구역으로서 충주헌병분송소를 두고 헌병과 보조원을 배치 [26쪽] 하여 경찰 임무를 수행하게 한 결과, 명치 43년(1910년) 7월에 헌병경찰이 통일되어 드디어 충주헌병분대로 개칭하기에 이른 것이다.
그리고 분산적 경비기관의 배비와 함께 헌병분대로써 경찰을 대신하고, 충주헌병분대장으로 하여금 공주지방법원 충주지청의 검사 사무를 겸섭하게 하였던 것이다.
유래로 역대 헌병분대장은 항상 새로 귀순한 동포들을 댤래고 인도하는 데 힘쓴 결과, 민심이 완전히 일변하여 역대 총독의 문화정치를謳歌하기에 이르렀을 때였으나, 당시 충주헌병분대의 관할 구역은 충주군, 단양군 및 괴산군의 일부, 즉 지금의 연풍 등으로서 단양과 연풍에는 분견소를 두고 즉결처분 및 민사소송의 조정, 집달리 사무 수행 등을 취급하게 하고 있었다.
지금 당시의 기록을 모아 즉결 사건 중 가장 많은 것을 들자면, 먼저 도박죄가 으뜸을 차지하고, 다음은 경찰범처벌규칙, 폭행죄(형법 제208조), 도수(도살)규칙 및 민적법 위반 등이었으나, 무론 당시의 일반 군민은 그 처단이 신속하고 공정하다 하여 정식 재판을 요구하지 않은 것은 인정에 연유하기도 하지만, 일반 기록에 의해서도 그러하다.
이들 3개 군 28만 여 백성을 이처럼 훈도하고 육성한 역대 분대장의 이름을 들면 대략 다음과 같으나, 지금 기자가 유감으로 생각하는 바를 여기에 뽑아 적어보면, 기자가 연일 이 원고를 쓰기 위해 [27쪽] 충주서에 가서 모든 기록을 찾아보아도 역대 분대장에 관한 기록(墨魂)은 단 하나도 발견되지 않았다는 점이다.
이에 기자는 후진의 불본의함을 우다(宇田) 서장에게 고하고 돌아가려 하자, 다행히 우다 서장은 기자의 옷깃을 잡고 말하기를,
"나는 사실 대정 2년(1913년) 봄에 충주헌병분대의 일원으로 도착하여 일한 관계상 역대 분대장의 서력(署歷)은 모르지만 그 이름만은 알고 있다 운운" 하며 허허 웃으면서 붓을 들어 가르쳐 준 것이다. 만약 우다 료타로 군이 여기에 있지 않았다면 역대 분대장과 그 유혼은 어디로 날아가 버렸을 것인가!
실로 기자는 한스럽고 감사한 마음을 피가 솟구치는 가슴속에 담아 역대 분대장의 이름을 한 가지 매화로 아래와 같이 적어둔다.
분대장
제1대: 헌병대위 타마이 야소히코 (玉井八十彥)
제2대: 헌병중위 노나카 마사이치 (野中政一)
제3대: 헌병대위 아리마 세이슈 (有馬精秀)
제4대: 헌병대위 이케가미 카츠토 (池上勝登)
제5대: 헌병대위 오기하라 시게오 (荻原茂夫)
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이분들이고, 그 후 경찰제도의 개혁에 따라 인문 발달의 필연적 세력에 따라 대정 8년(1919년) 8월 20일에는 조선총독부령 제136호에 의해 이곳 수유암 충주의 땅에 경사스럽게도 충주경찰서가 설치되었으므로, 같은 날 군석(郡席)에서 충주헌병분대로부터 사무를 인계받아 충주헌병분대 청사 내, 즉 전 충주읍사무소에서 보통경찰 사무를 개시함과 동시에 대소원, 용원, 연하, 용당, 목계, 송정, 조동, 무릉, 탑평 등의 각 헌병분대 출장소가 폐지되고, 동시에 경찰관주재소를 같은 날 같은 장소에 설치한 것이다. 그 마지막 몇 번이나 경찰 사무의 개혁이 이루어져 지금 보는 민의 창달을 대안목으로 하는 문화경찰이 태어난 것인가!
처음에는 충주서 관내에 충청북도 내훈 제8호에 의해 경찰관을 배속시킨 수가 76명이었으나, 그중 30명은 헌병을 도순사로 전환시킨 것으로, 충주서의 관할 구역은 충주 본서가 충주면 및 금가면을 관할 구역으로 한 외에,
대소원주재소 (이류면, 주덕면 일원)
용원주재소 (신니면 일원)
연해주재소 (노은면 일원)
탑평주재소 (가금면 일원)
용당주재소 (앙성면 일원)
목계주재소 (엄정면 및 소태면 일원)
송정주재소 (산척면 일원)
조동주재소 (동량면 일원)
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무릉주재소 (살미면 일원)
로 정하고, 대정 8년(1919년) 10월 26일에 제1대 서장으로 도경부 코마츠 키요노스케 군이 부임하자마자 오기하라 헌병분대장으로부터 경찰 사무 인계를 마치고 직원 전부와 함께 충주읍 아즈마쵸(吾妻町) 소재 충주잠업조합 잠견건조장을 임시 청사로 하여 경찰 사무를 개시했던 것이다.
참고로 충주군 금가면이 충주서 직할 구역을 벗어나 하나의 주재소 소재지가 된 것은 대정 9년(1920년) 3월 1일의 일이며, 그 본 충주서의 직원 배치는 대정 9년 5월 4일 총독부 내훈 제8호에 의해 경부는 내·선인 각 1명, 경부보는 내지인 3명, 조선인 1명이 되어, 이듬해 6월 1일에는 주재소 이름을 소재지 면 이름과 동일하게 개칭하기에 이르렀다.
그리고 소태면 복탄동 및 주덕면 신중리에 주재소가 설치된 것은 대정 9년 6월 1일의 일이며, 최종적으로 도순사 정원이 7명, 충청북도 내훈에 의해 83명이 됨과 동시에, 대정 9년 8월 15일에는 목계에 경찰관출장소를 설치하여 목계동 및 엄정면 논강리를 담당 구역으로 하여 내지인 순사 1명을 배치했던 것이다.
그 후 경찰 사무는 계속해서 무궁화 강토에 이채를 발하며 발전 완성되어, 대정 10년(1921년) 2월 13일에는 현재
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청사 주변의 토지를 기부받아 신축 낙성되어 같은 날 이전한 후, 같은 해 4월 11일에 낙성식을 거행하였다.
해를 넘어 대정 11년(1922년) 2월 1일에는 인사상담소를 설치하여 불쌍한 사람들의 상담 상대가 되는 것을 게을리하지 않았고, 나아가 같은 해 4월에는 6개 감방으로 이루어진 유치장을 개축 기공하여 같은 해 5월 하순에 낙성했기 때문에, 당시 지방 경찰로서는 참으로 위풍당당한 외관을 갖추고 있었다.
그 후 대정 13년(1924년) 12월이 되자 예의 행정정리의 계절풍은 이 경찰서에도 누설 없이 가차 없이 몰아쳤기 때문에, 충청북도 내훈 제2호에 의해 도순사의 정원을 다음과 같이 개정 배치하였다.
본서 (30명) / 엄정 (5명) / 앙성 (5명) / 이류 (7명)
금가 (3명) / 가금 (3명) / 소태 (3명) / 노은 (3명)
사미 (4명) / 산척 (4명) / 신니 (4명) / 동량 (4명)
합계: 75명이었다.
이렇게 이들 경찰관에게 상무(尙武) 정신을 연마하게 하기 위해 같은 해 4월에는 충청북도지사 박중양 군의 승인을 얻어, 충주읍 유지 하라구치 이치지(原口一二) 외 30명으로부터 700엔의 기부금을 받아 기존에 사용해 오던 훈수실(訓授室)을 개축하여 이를 무도장으로 대용하고 있었다.
이처럼 수많은 유능하고 용맹한 경찰 사무 제1선에 서서 격전 고투한 역대 서장들은 누구이며, 역대 서장들은 우리 충주를 위해 무엇을 남기고 갔는가! 지금 기자는 역대 서장의 이름과 그 슬하에서 분투하고 간 역대 경부의 이름을 들면 다음과 같다.
역대 서장
제1대: 코마츠 키요노스케 (내지에 은거)
제2대: 후루카와 사다키치 (평양경찰서장)
제3대: 키세하시 코스케 (전북경무과장)
제4대: 마키타 유키오 (사망)
제5대: 타나카 카키치 (신의주경찰서장)
제6대: 코야마 사다오 (내지에 은거)
제7대: 마츠오 쿠라노스케 (재임 중 사망)
제8대: 아유카와 에이지 (충북보안과장)
제9대: 쿠와하라 키네몬 (충북고등과장)
제10대: 우다 료타로 (영동경찰서장)
제11대: 수에토미 사스케 (현임)
역대 경부 및 경부보
제1대: 정운필
제2대: 노자키 시즈마
제3대: 코가 마스조
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제4대: 김구배
제5대: 이시와타 신타로
제6대: 노정근
제7대: 아유카와 에이지
제8대: 오병순
제9대: 김윤조
제10대: 사카이 세이지
제11대: 카아이 류스케
제12대: 우에다 토시노스케
제13대: 와타나베 세이고로
제14대: 타카오 시게지로
제15대: 마츠모토 히사키치
제16대: 우치다 고조
제17대: 오오나미 세이지
제18대: 이환우
제19대: 엔도 모토이치
제20대: 모리시타 슈조
제21대: 사카이 세이지
제22대: 나카지마 료지
제23대: 박준현
제24대: 코이케 타카하루
제25대: 토오마 시게타로
제26대: 테라오 우헤이
제27대: 후카타 케사키치
제28대: 이케다 에이지로
제29대: 마츠자와 요시조
p33 ~ p42는 第 四章 黃色煙草다. 이미 다루었으므로 생략한다.
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제5장 교육
一, 내지인(일본인) 교육
먼저 충주에서의 내지인 교육부터 논하자면, 기자는 명치 37, 38년(1904~1905년) 경으로 거슬러 올라가 당시 이주한 내지인들의 이른바 선견지명을 세워 분투 노력한 용기와 철석같은 담력에 경복하지 않을 수 없다. 보라, 당시의 충주는 경부선 철도 연선에서 떨어져 있기를 23리나 되는僻邑(외딴 마을)으로, 교통은 극히 불편하고 위험한 시대였음에도 불구하고, 명치 42년(1909년)에는 지금의 학교조합의 모태였던 충주일본인회를 창립하여 천지자연의 혜택을 얻어야 할 교육 문제를 중심으로 다방면에 손을 대기도 하였다.
명치 40년 전후에는 폭도 토벌을 위해 충주에 대대 본부를 두고 수비대가 주둔함에 이르러서는, 마침내 내지인 교육 기관 설치를 가장 크고 시급한 일대 문제로 삼아 공립소학교 설립을 경성이사청에 청원한 일도 있어, 그 조미의 급함을 가지고 동분서주한 선배 여러 별들의 노력에 대해서는 실로 경복하지 않을 수 없다. 물론 당시 경성이사청 당국이 공립소학교 설립 문제를 각하했던 것은 학령 아동 수가 규정 수에 미달했기 때문이었던 것으로 보이지만, 역시 당시 내지인 자제들은 돈명학교라는 사립 조선인
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학교에 들어와 이 학교 최초의 내지인(일본인) 교사였던 하라구치 이치지(原口一二) 군(현 충청북도회의원)에게 효오(哮嘔)의 훈도를 받았던 것이다.
그 후에는 아동 수의 급증에 따라 명치 44년(1911년) 2월에는 당시 공주지방법원 판사인 미나토 신조(湊信三), 충주헌병분대장 타마이 야소히코(玉井八十彥), 충주우체국장 사카이 부농지로(酒井文次郎), 한호농공은행 충주출장소장 아카마츠 토키엔(赤松時圓) 씨를 비롯하여, 기타 민간 유지 측에서는 미즈노 야키치(水野彌吉) 씨를 필두로 고타무라 진이치(高村甚一), 시오타 테이스케(鹽田禎介), 우노 사헤이(宇野佐平), 하라구치 이치지(原口一二), 호리이 본덴지(堀井本傳次) 씨 등이 모두 뜻을 모아 마침내 학교조합을 조직하고, 명치 44년 3월 17일에는 경사스럽게도 《공립충주심상소학교(公立忠州尋常小學校)》를 설립하기에 이른 것이다.
그 후 교사는 어쩔 수 없는 사정으로 남문 밖 풀이 무성한 땅에 있는 농공은행 소유 가옥을 임대하여 서당식 교육을 실시하고 있었으나, 역시 진보하는 시대 사람들의 머리로는 도저히 만족할 수 없었으므로 당시 학교조합 관리자였던 우노 사헤이 씨는 즉시 총독부 보조금 및 공모 기부금으로 3,000엔의 공사비를 투입하여 현 교사를 신축하였다. 또한 시세의 요구에 따라 대정 4년(1915년) 4월 29일에는 고등과를 병설하여 이후 《충주공립심상고등소학교(忠州公立尋常高等小學校)》로 개칭하기에 이르렀다.
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이어서 대정 11년(1922년) 7월에는 2개 교실을 증축함과 동시에 소화 3년(1928년) 11월에는 전례 없는 대전(御大典, 일왕 즉위식)을 기념하여 교정 336평을 확장, 총 평수 실로 1,136평에 달하는 대교정을 갖추어 200여 명의 아동을 양육하는 기반을 마련하였다.
학급 수의 변천을 보더라도 개교 당시에는 겨우 1학급(원문 11학급은 오기인 듯함)이었던 것이 지금은 5학급 200명이 되었을 뿐만 아니라, 졸업생도 대정 1년(1912년)에는 겨우 3명에 불과했던 것이 이제는 매년 30여 명의 졸업생을 배출하고 있으므로, 충주시민은 그 기틀을 잡고 분투해 온 유지 여러분을 비롯하여 역대 교육가 여러분에게 깊이 감사하고 보답해야 할 것이다.
지금 하라구치 이치지 씨 및 현임 교장 요시다 이치타(吉田一太) 씨의 소론을 빌려 충주 내 내지인 교육의 유일한 기관인 소학교의 진용과 그 부수 공헌자 여러분을 열거하면 대략 다음과 같다. 먼저 역대 교장의 성명을 올리면,
1대: 사노 야스지로 (佐野泰次郎)
2대: 키토 주사부로 (木藤周三郎)
3대: 니시오 엔페이 (西尾衍平)
4대: 타다치 토시이치 (田立俊一)
5대: 코지마 마사히로 (兒島正廣)
6대: 미즈코시 준 (水越順)
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7대: 모리 켄지 (森 憲次)
8대: 토요다 미사오 (豊田 操)
9대: 타나카 제네몬 (田中善右衛門)
10대: 요시다 이치타 (吉田一太) (현임)
일반 충주시민을 비롯해 각 학교 학부모가 발걸음을 옮겨 교실과 사무실로 들어가면, 여기저기 그윽한 향기를 풍기며 진열되어 있는 기증품 중에는,
대종(大鐘): 야마모토 마사노리(山本正德) 씨 기증
반종(半鐘): 타케시타 카츠아키(竹下克明) 씨 기증
우산: 호시노 타케지(星野竹治) 씨 기증
각 교실 아동문고: 시오타 테이스케(鹽田禎介) 씨 기증
위 문고 중에는 나카무라 타카츠구(中村孝嗣) 씨 등이 기증한 신간 아동 읽을거리도 100종을 넘어 빛을 발하고 있어, 보는 이로 하여금 참으로 기운 찬 200명의 건아들을 향한 앞날의光明과 축복의 감정을 일으키게 하는 수많은 물품들이 있다.
뭐라고 해도 충주의 유일한 내지인 교육기관인 충주공립심상고등소학교는 참으로 가장 크고 행복한 동산이라고 해도 과언이 아닐 정도다.
2. 조선인 교육
다음으로 충주에서의 조선인 교육을 논함에 있어서도 역시 격세지감을 느끼지 않을 수 없다. 종래 조선의 교육은 서당에서 향교로 진학하고, 향교에서 사학으로 들어가 성균관에 입학하여 비로소 최고 학문을 수식하는 것을 순서로 삼았다.
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그러므로 전공 과목이 유학이었기 때문에 소위 교수 방식은 언제나 서당식이었다.
그중에서 알껍질을 깨고 비로소 학교 교육이라는 학문의 장으로 해방된 것은 충주에서는 명치 39년(1906년)경으로, 지금의 충주공립보통학교가 그때 태어난 것이다. 당시 성격에 있어서 동교는 우뚝 선 충북 내의 선두였으며, 공립학교로서의 효시였다.
지금이야 1,000여 명에 달하는 재적 아동 수를 자랑하며 충북 초등학교 중 첫째가는 대규모 학교라 불리지만, 이 학교가 처음 《돈명학교(敦明學校)》라 불리고, 그 돈명학교가 공립소학교라 불리며 출세했을 때는 재적 아동 수가 겨우 20명에 불과했음에도 충북도 내 공립학교의 으뜸으로 여겨졌으니, 보고 듣는 이 누구라도 그 눈부신 발전에 놀라움을 금치 못할 것이다.
물론 충주공립보통학교가 명치 연간에 혹 공립소학교라 불리거나 돈명학교라 불렸을 때 교수 과목은 오로지 한문뿐이었으므로 교육자의 피교육자에 대한 정신도, 수단도 모두 편협한 주입주의였다.
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그것이 명치 39년(1906년) 9월 보통학교령 실시와 함께 공립보통학교로 개칭되면서 비로소 지덕(知德)이 일치하는 교육을 실시하게 되었다. 학교 위생과 학교 훈련이라는 관점에서 한국 정부가 지었던 폐옥인 누각(구 교사)을 버리고, 명치 41년(1908년) 2월에 내지산 목재를 사용하여 교사를 신축 낙성하고 충주공립보통학교로 개칭하여 이전하였다.
학교 교육의 격식과 진보에 따라 대정 2년(1913년) 10월 23일에는 교육칙어 등본을 하사받아 초석을 다졌으며, 대정 4년(1915년) 4월에는 동교 졸업생을 중심으로 지방 민도를 더욱 향상시키고자 옛 한국 시대의 사찰 건물이었던 중원관(中原館)을 개축하여 공립간이농업학교를 부설하였다. 농촌 생활에 필수 과목으로 인정되는 일반 농사 지식을 가르쳐 배출하기도 하였으니, 충주 내 조선인 교육 기관으로서 이 학교는 위대한 공헌자이자 핵심 보루이다.
대정 9년(1920년) 4월에는 학년을 6년제로 연장하고, 대정 15년(1926년) 4월에는 고등과를 병설하여 조선인 교육도 내지인 교육에 조금도 손색없는 수준으로 발전하였다. 지금 이 학교 졸업생들의 취업 상황을 일몰하면, 실업 종사가 남 563명·여 120명, 관공리가 남 106명·여 7명으로 모두 충주군을 중심으로,
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사회적 직업 전선에 서서 일하고 있다. 이들을 키워낸 동교 역대 교장을 열거하면 다음과 같다.
1대: 조한승 (趙漢嵩)
2대: 시카타 테츠키치 (鹿田哲吉)
3대: 서회보 (徐晦輔) (군수 겸임)
4대: 하라다 진나이 (原田甚內)
5대: 스기 야스시 (杉 泰)
6대: 마에다 마키지 (前田牧次)
7대: 쿠와하라 요시나가 (桑原慶永)
8대: 하토리 토미에 (服部富枝)
9대: 수에히로 쿠니시 (末廣國司)
10대: 타나카 제네몬 (田中善右衛門) (현임)
중에서도 마에다 마키지 씨는 가장 공이 큰 사람으로, 학년 연장을 필두로 간이농업학교 부설, 후원회 설치, 운동장 확장 등 일일이 열거하기 힘들 정도다.
지금 학부모이자 동교 학무위원인 사람들과 후원회 간부 직에 있는 사람들의 성명을 열거하면 다음과 같다. 그중 후원회 이사 김웅기(金雄起) 군 같은 이는 '활자전(살아있는 사전)'이라 불리며 여러 분야에서 두텁게 신뢰받고 있으므로, 이제 충주공립보통학교는 교사 신축과 양계조합 성적만 만전의 상태에 이르면 그 만복과 행운이 참으로 천하에 부끄럽지 않을 것이다.
학무위원: 이춘웅(李春雄), 이순창(李淳昌), 박기양(朴綺陽), 김성수(金盛洙), 최홍기(崔洪基), 이종호(李種浩)
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후원회 간부
회장: 유석희 (劉錫禧)
부회장: 조명규 (趙命奎)
이사: 김웅기 (金雄起)
평위원: 정이희(鄭夷熙), 오기택(吳基澤), 음재형(陰在亨), 박래현(朴來鉉), 천영하(千永河), 엄장환(嚴章煥), 김동휘(金東輝)
기자는 모쪼록 여러 호한(好漢)들이 정성을 다해 이 사업과 뜻을 위해 더욱 분투해 주기를 바라마지 않는다.
그 외 충주에는 어린아이들을 가르치는 조선 야소교회(개신교) 경영의 사립유치원이 있고, 위로는 농업 중견 청년을 배출하는 공립농업학교가 있어 충주시민 자제의 훈도를 위해 중등교육을 실시하고 있다. 농학교는 설립된 지 얼마 되지 않았으나 현임 교장 마루야마 나미키치(丸山浪吉) 씨는 조선 실업교육계의 거성이자 공로자이므로, 향후 이 학교의 발전과 달성은 며칠 지나지 않아 기약할 수 있음이 불 보듯 뻔한 사실이다.
4. 중등교육
충주공립농업학교, 지금으로부터 3년 전은 실로 이 학교의 분란기였다. 충주시민을 중심으로 충북도민이 이 학교 창설의 영예를 충주에 주고자 온갖 동정을 보태기도 하였고, 혹은 어떤 시국 문제의 이월금을 중심으로 일각에서는 도립병원 설치를 주장하기도 하고, 일각에서는 실업학교 설립을,
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주장하기도 하여 이 때문에 수차례 열린 시민대회 및 군민대회 자리에서는 양파 모두 견원지간처럼 이론이 비등하여 마침내 충청북도 당국의 책임을 물어 도 간부의 사퇴 문제까지 불거지는 등 실로 언어도단인 분란의 시기를 거쳤다. 마침내 닭이 울고 날이 새듯 겨우 우리 충주에 설치된 것이 충주농업학교이다.
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제1대 교장 마루야마 나미키치 씨를 전북 전주에서 모셔오고, 제1회 학생 30명을 도내 각 초등학교에서 선발하여 경사스럽게 개교식을 거행한 것은 기억하기 쉽고도 잊기 어려운 소화 5년(1930년) 5월 5일이었다.
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첫회 학생 모집에 대해서는 응모자의 학력도 학력이었지만, 특히 이 학교는 마루야마 교장의 첫 출사표라 할 수 있는 다음의 사명을 바탕으로 각 군 및 경찰·면 등의 확실한 추천을 받아 장차 흥농보국(興農報國)의 영재가 될 것인지 여부를 물은 후 입학을 허가하였다. 즉 다음과 같다.
우리는 자가 영농을 통해 국가 사회에 공헌할 것을 기약한다.
우리는 농촌의 중견 인물이 될 것을 기약한다.
우리는 농사 개량의 선구가 될 것을 기약한다.
처음에는 교사가 없었기 때문에 탄금 가로의 아카시아 나무 아래 임시 거처를 정해 농론을 토하거나,
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혹은 군의 원조를 빌려 남아있는 건잠장(말린 누에고치 창고)의 한 방을 교실로 삼아 교사는 채찍을 갈고 학생은 덕을 닦았다. 그러다 소화 5년(1930년) 7월에 현 교사가 준공되어 9월 1일에는 새 교사로 부모와 자식이 손을 잡고 둥지를 틀 듯 이전하였다.
현 교사는 폭 4간(間), 길이 5간으로 이루어져 학생 교실이 3개, 직원실이 1개이다. 교사 뒤편으로는 끝없이 넓은 탄금평야를 등지고 직원 주택 및 학생 기숙사가 있어, 이곳이야말로 번잡한 도심을 벗어난 별천지가 아니겠는가 싶을 정도이다. 모든 것이 장엄하며, 직원들은 물론 중국의 임화정(林和靖)은 아닐지라도 4정 5단(약 13,500평) 여의 실습지에 서 있는 오곡을 벗 삼아, 각지에서 모여든 100여 명의 학도를 자식처럼 키우며 활기찬 소리를 내어 인생을 행복에 바치고 있으니, 충주를 위해서나 국가를 위해서나 그 앞날이 매우 경사스럽다 하지 않을 수 없다.
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교장 마루야마 씨는 온후하고 독실한 선비이자 근검절약하여 학생들에게 모범을 보였고, 현재 이 학교 재적 학생에게는 1개월 7엔 50전 이상의 학비를 엄격히 금지하며 전원 기숙사에 넣어 직원과 함께 식사 등 모든 생활을 함께하고 있다. 이로 보아 충주농업학교는 단순한 하나의 농학교가 아니라 하나의 '농업 가정'이라 해도 과언이 아니며, 충주 평야에 넘치는 대자연의 맛은 단순한 자연이 아니라 충주의 각 농가를 키우는 영양소라 해도 좋을 것이다.
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제6장 금융
충주의 주요 금융기관으로는 《식산은행 충주지점》과 《충주지방금융조합》이 있다. 먼저 식은(殖銀) 지점의 내외면을 기술함에 있어, 기자는 식산은행의 성립과 조선의 재정경제 및 산업 개발에 대해 일대 혁신을 가져온 그 경과를 되짚어보며, 지금은 세상을 떠난 고(故) 메가타(目賀田) 재정고문의 위대한 공적을 간과할 수 없다. 메가타 씨의 재정경제 정책으로 수많은 방법이 고안되었으나, 그중에서도 산업금융 정책의 수립은 가장 특필대서해야 할 위업으로 기자의 기억에도 새로이 남아있다.
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첫째, 지방 금융의 경색을 완화하고자 명치 38년(1905년) 10월에는 각지에 정부 창고를 설치하고 재무관으로 하여금 동산 또는 부동산 담보 대출을 취급하게 하였는데, 충북 역시 이에 빠지지 않고 정부 창고가 설치된 것이 충주 금융기관의 시초이다.
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이어 명치 39년(1906년) 3월에는 농공은행 조례가 제정되었으므로 명치 39년 3월에는 경사스럽게도 충주농공은행의 설립을 보게 되었고, 정부 창고 업무 일체를 농공은행으로 이관하였다. 이어 동년 6월에는 《한호(漢湖)
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농공은행》과 합병하여 《한호농공은행 충주지점》이 되었으나, 농공은행은 전 조선을 통틀어 6개 행, 45개 소에 걸쳐 농산업의 저리 자금 융통을 도모하기에는 그 규모가 매우 빈약하였다.
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전체를 합쳐도 자본금은 겨우 260만 엔이었고 납입자본금도 겨우 147만 엔이었으며, 기타 채권 발행액도 겨우 300만 엔에 불과했으므로 당시 갑자기 발달 기운을 탄 조선의 농산업을 조성하는 유일한 금융기관으로서는 너무나 미약했다. 이에 감안하여 조선식산은행령을 발포하니 수많은 설립위원이 일사천리로 준비에 활약하였고, 동년 6월에는 전 조선의 농공은행 전체를 합병하여 자금 1,000만 엔의 조선식산은행을 설립하였다. 대정 9년(1920년) 2월 제2회 주주총회에서는 자본금을 일躍 3,000만 엔으로 증자하는 중안이 만장일치로 가결되었으니, 당시 조선의 일반 산업이 얼마나 급속히 진보하고 있었는지 알 수 있을 것이다.
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이리하여 전 조선에 57개 지점을 배치하고, 기타 도쿄 및 오사카 같은 내지 주요 도시에도 지점을 두어 현재 내외 254개소의 환거래 은행과 제휴하여 반석과 같이 견실한 기초를 확립하고 드높은 신용을 얻고 있을 뿐만 아니라, 조선 개발의 선구자로서 그 임무를 다하고 있다.
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북부 5개 군을 비롯해 강원도 남부를 관할하며 지방 대군에 걸쳐 농상공업의 조상(助成) 기관으로 활약하고, 충주 지방의 발전과 함께 더욱 업무의 진전을 보고 있다. 소화 5년도(1930년) 하반기 개요를 나타내면 대략 다음과 같다.
산업자금 대출 기말 잔액: 1,462,433엔 71전
상업자금 대출 기말 잔액: 150,111엔 31전
당반기 환자금 수불: 3,232,635엔 61전
당반기 현금 출납고 합계: 22,306,189엔 00전
* * * *
이상 숫자로 보면 지방 금융기관으로서는 상당히 기뻐할 만한 실적을 올리고 있으나, 거슬러 올라가 이를 대정 5년(1916년)경 영업 상황과 비교하면 이 역시 격세지감이 있다.
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대정 5년 당시에는 금융계의 혼란이 오히려 일반 경제계에 악영향을 미쳐 그 앞날을 비관하지 않을 수 없었으나, 그 후 수많은 은행가가 은행 사업에 종사하며 일야로 개혁에 힘쓴 결과, 한호농공은행 시대부터 유통자금은 비교적 풍부해지고 금리는 연차적으로 하락하는 경향을 따라왔다. 그리고 그 업무는
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확실한 농공자금의 담보 대출, 환어음 및 기타 상업어음 할인, 제회사·은행 또는 상인의 어음 대금 수금, 환 및 화물어음, 각종 예금 및 금은화, 귀금속 및 제증권의 보관 보호, 화폐 교환, 공공단체에 대한 담보 대출 등이었다. 기타 충주 특산인 황색 연초 재배·건조자에 대해서는 특히 저리 자금을 융통하여 산업 계발에 공헌한 바가 결코 적지 않았다.
기자는 대정 5년 한호농공은행 당시의 영업 상황을 아래에 적어 독자 여러분께 선보인다.
정기예금: 8,000엔
당좌예금: 19,000엔
소액예금: 41,000엔
기타 예금: 1,000여 엔
농공자금 대출: 61,000여 엔
농업자금 대출: 81,000여 엔
등으로, 이를 전후 대조하여 시대의 추이와 민심의 흐름을 참작하면서 충주에 은행 사무가 시행된 지 30여 년간을 시간적으로 고찰하면, 타 지역에 비해 참으로 새롭고 가장 짧은 기간 내에 이루어진 것임을 알 수 있다.
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그러나 이를 공간적으로 고찰하면 이 은행 사무가 유형무형으로, 음으로 양으로 충주를 중심으로 한 각 지방의 발전에 얼마나 공헌하고 있는지를 연상할 수 있다. 다행히 지금 식산은행 충주지점에는 청년 사교가의 대표적 인물로 충주 인사들의 흠모를 받는 이무라 사다요시(井村定省) 군을 비롯해 아키미츠 세이지(秋滿淸治) 군 등이 있어, 함께 뜻을 모아 사업 발전과 지방 개발에 이바지하고자 하므로 식은 충주지점도 충주읍 24,000 시민과 함께 그 앞날이 참으로 경사스러울 것이라 하지 않을 수 없다.
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기타 충주금융조합은 명치 42년(1909년) 5월 14일 설립된 이래 지방 소농민의 금융을 완화하고 농업 발전을 도모하여, 누적된 폐정으로 곤폐했던 서민들은 점차 생계의 여유를 얻어 개간, 배수, 관개 및 토지·토질 개량, 기타 산림사업 등 농업 진흥과 산업 확장에 힘써 치부 성업의 기초를 다지고 근검저축의 미풍을 양성하기에 이르렀다.
특히 목계금융조합 이사 손덕봉(孫德鳳) 군은 농촌 진흥의 선봉으로서 지방 청년을 잘 포용하고 지도하며, 대소원금융조합 이사 오재혁(吳在赫) 군은 충주의 아라이 타케오(新井武夫) 군과 함께 금융경제 연구에 지식이 풍부하므로, 향후 충주는 이들의 활동 여하에 따라 운명이 좌우될 것이라 해도 과언이 아니다. 모쪼록 이들이 그 임무를 잘 완수하기를 바란다.
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제7장 교통
충주의 교통도 백마산을 아리랑 마부 소리를 들으며 넘던 것은 옛날 꿈이 되어 더 이상 유유자적한 조선 풍류를 맛볼 수는 없게 되었다. 그러나 지세상 사통팔달인 충주는 문밖을 한 걸음만 나서면 기차가 있고 자동차가 있으며, 시내 자동차, 마차, 인력거가 있다.
충북선 기차는 적막을 깨고 17리 27정의 산세를 갈라 열며 충주까지 굽이쳐 뻗어 있고, 청주-충주 간 2등 도로는 포플러 가로수 아래 평탄하기가 숫돌 같다. 충북선 레일 위를 달리는 저 구렁이 같은 기차 소리와 함께 충북 교통계의 왕위를 차지하고 있다고 해야 할 것이다.
또한 경성(서울)에서 장호원, 장호원에서 충주, 충주에서 상주를 거쳐 대구로 통하는 1등 도로는 저 역사에 향기로운 문경조령(문경새재)을 거쳐 매일 수십 대의 자동차가 왕래하고 있어 충주군 부근 주민들에게 얼마나 큰 놀라움과 편리함을 제공하고 있는가!
또 이 도로에 접한 괴산군 수안보는 충청북도 유일의 온천장으로, 멀리는 경북, 강원, 경기 지방에서 온 목욕객이 끊이지 않을 뿐만 아니라, 가까이는 충주 유지 호시노 타케지(星野竹治) 씨가 이 온천장을 개인 경영하여 자신의 성광관(星光館)에 자가용 자동차를 비치하고 목욕객을 안내하고자 여러 계획을 추진 중이다.
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기타 11리에 걸친 충주-제천 간 3등 도로는 대정 4년(1915년)에 착공하여 박달재의 난공사를 비관했던 것은 단지,
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어리석은 탄식에 불과했을 뿐, 이제는 조선총독부 철도국(朝鐵)의 여객 자동차 및 육운회사·트럭회사의 화물 자동차가 매일 수십 대씩 인력거와 마차를 뒤로하고 달리는 모습은 참으로 장관이다.
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북쪽의 충주-제천 도로 노선을 연장하여 이번에 완성된 강원 강릉선은 충북 충주를 조선 동해안에 연결하는 하나의 쐐기일 뿐만 아니라, 향후 충북선 기차를 이끄는 선도자 역할을 할 것임은 의심할 여지가 없다.
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게다가 소화 4년(1929년)에는 다년간 충주시민들의 숙원이었던 충주-단양 간 충단도로도 드디어 개통되어, 이제 충주를 기점으로 인접 군 어디를 가더라도 충주는 물산을 운반하지 못하거나 운반해 오지 못하는 일이 없게 되었다. 실로 동서 이웃 간 교통 문화의 혜택이 읍면 구석구석까지 빛난다고 해도 과언이 아니며, 충주를 기점으로 그 주변에 있는 음성, 괴산, 제천, 단양, 영월, 문경 일대는 서로 교류하며 제2단계의 교통력을 양성하고 있으므로, 충주 교통 나아가 충북의 교통은 완전히 충주를 중심으로 발전 완성된 것이라 해도 과언이 아니다.
거기에 충주시민에게 가장 새롭고 희귀한 기차가 경적을 울리며 교통 역사상 신기원을 열기 위해 찾아온 것이 바로,
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충북선이다. 검은 연기를 뿜어내며 벼락 치듯 경적을 울리는 기차의 모습을 처음 본 충주군민들의 놀라움은 참으로 어떠했겠는가!
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충주에 도착한 그 기차가 소화 3년(1928년) 12월 29일 이후 매년 평균 25,000명 이상의 승객을 수송할 뿐만 아니라, 화물 출하가 매년 평균 42만 톤 이상, 입하가 매년 평균 5만 1천 톤 이상에 달하는 현상만 보더라도 충주 교통 및 그 패왕이라 할 충주역의 위용은 짐작할 수 있다.
현재 충주역을 살피건대 역원은 총 25명으로 모두 활기찬 태도로 충주역의 토대를 구축해 가고 있으니, 서로 협력하는 의미에서 함께 경사스러운 일이라 아니할 수 없다.
다음으로 충주에는 트럭회사가 있다. 트럭이 충주에 진출한 것은 충주 부근에서 생산되는 황색 연초를 육로 수송하여 안전하게 운반하기 위함이었으나, 지금은 전국적으로 트럭 업자의 수난 시대라 불리는 시기이기도 하다. 충주의 트럭회사 역시 대정 10년(1921년) 10월 트럭조합을 창립한 이래, 완전히 충주를 중심으로 한 3도(경기, 충북, 강원) 교통을 위해 몇 번이나 피와 눈물을 흘린 하나의 희생양이었다.
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트럭조합이 주식회사 조직이 되어 새로운 진용을 갖춘 것은 소화 4년(1929년) 1월이다. 그 영업선은 과거 데라우치 총독 시절에 국제연운회사(國際聯運會社)의 선로를 인수받은 것으로, 종래 거주하던 운송업자가 춘천, 원주, 경성, 이천 방향으로 운반하던 비료, 잡화, 담배, 곡물 등을 운송업자보다 20% 비싼 운임으로 수송하고 있다.
하지만 결국 통찰해 보면, 20% 저렴한 운임으로 수송하는 마차 운송보다 운송을 맡기는 고객의 이익이 훨씬 막대하다고 일반적으로 일컬어지는 이유는 다음과 같다.
마차로 담배나 곡물 등을 운반하게 되면 차가 갈 때마다 몇 명의 감시인을 붙이지 않으면 도중에 담배를 빼돌리는 사고가 발생하는 등 불의의 불상사가 일어난다. 이에 따라 자격 없는 일반 운송업자에게 그 책임을 물어도 서로 아연실색하여 묵인할 수밖에 없었던 사례가 바로 20% 높은 운임으로 영업하는 트럭회사의 장점이다.
실제로 영업소용 화물자동차 수는 총 20대를 넘어섰으며, 영업선 구역은 강원도 내의 영월, 평창, 춘천, 원주의 오지를 비롯하여 경기는 장호원, 이천, 충북 도내에서는 충주를 중심으로 제천, 단양, 청주, 보은, 진천 등이며 전체 영업 마일 수는 무려 409마일에 달하고 있다.
그뿐만 아니라 이제 충주트럭회사는 중선(中鮮) 교통계에 있어 왕위를 차지하는 것이라 해도 감히 과언이 아니며, 영월, 제천, 경성, 청주에 지점을 두고 각각의 사명을 다하고 있는 것은 충주의 발전을 빛내는 한 포인트라 해도 좋을 정도이다. 이제 트럭회사의 임원 이름을 적어 세상에 알리면 다음과 같다.
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사장: 다케이 삼랑 (竹井三郎)
전무이사: 야마시타 사타로 (山下佐太郎)
지배인: 모리자네 시마지로 (森實島治郎)
보은지점장: 정수홍 (鄭壽弘)
영월지점장: 아이토 카이치 (相藤加一)
경성지점장: 아카시 충 (赤司忠)
제천지점장: 이토 카이치 (伊藤加一)
이천지점장: 이은우 (李銀雨)
청주지점장: 강두식 (姜斗植)
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다음으로 충주의 교통을 말함에 있어서는 특히 특필대서해야 할 곳이 한 군데 있다. 그것은 바로 조선철도주식회사 충주자동차영업소이다.
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왜냐하면 충주에 처음으로 자동차가 들어온 대정 2년(1913년) 5월 29일에 오리이 카이치(織居加一) 씨가 청주-조치원 간 자동차 영업 허가를 얻어 즉시 1대를 충주로 달리게 하여 당시 충주 사람들을 놀라게 했고, 이어 대정 4년(1915년) 3월에는 충주 읍내로 직영 노선을 연장했기 때문이다.
그리고 시세의 추이 및 영업의 발전에 따라 당연히 오리이 자동차부가 조선운수주식회사가 되었을 때, 이미 해당 영업소는 당시 충북 하토리(服部) 자동차부와 오리이 자동차부가
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영업 이익을 다투며 서로 반목하던 시기에 이미 교통업자로서의 사명을 잘 완수했기 때문이다. 대정 12년(1923년) 5월에는 하토리와 오리이가 서로 제휴한다는 의미에서 두 자동차부가 해체되고, 이에 합병 협의가 성립되어 충주의 교통뿐만 아니라 충북의 교통 또한 통일되어 갔다고 한다.
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그 미미했던 영업소 간판을 획득하여 멀리 대구 방향을 비롯해 경성 방향 및 강원도 방향에까지 자동차 교통망을 넓히게 된 것은, 소화 3년(1928년) 12월 25일에 조선철도가 충주에 개통된 그날부터이다. 위와 같이 충주의 교통도 현재의 상태를 이룰 때까지는 실로 뜻있는 인사들의 막대한 노력과 열성에 의해 태어났음을 잊어서는 안 된다.
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제8장 상업
옛날 경제사상이 유치하고 화폐제도가 시행되지 않던 시대의 물물교환 관습은 지금도 여전히 끊이지 않고, 정해진 날에 시장을 열어 상거래를 하는 것을 충주 사람들의 상례로 삼고 있다.
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충주시장은 옛날의 융성함을 상상할 수 없을 정도라 해도 그 세력은 멀리 제천, 단양, 괴산, 문경의 각 군에 걸쳐 있으며, 한 달에 6회(5, 10일)를 정례 장날로 삼고 있다. 상품의 주요 품목은 농산물, 직물, 담배, 가축 및 기타 일용잡화 등이며, 1개 시장의 1년간 거래액은 21만 9천 원 이상에 달하고 있다.
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시장은 원래 본정(本町) 거리에 개설되었으나, 대정 8년(1919년) 당국의 시가지 정비(시구개정) 실시 당시 도로 단속상 지장이 적지 않아 지금의 대수정(大手町) 거리로 이전하였다. 상업 세력의 중견은 물론 일본인 상인으로서 해마다 그 세력을 확장하고 있으며, 시가지의 아름다움과 풍광의 아름다움이 살아있는 충주는 농산물과 해산물이 사방에서 수송되어 들어와 시장이 활기를 띠고 있다. 엄연히 도시로서의 면모가 이번 읍제(邑制) 실시와 더불어 일신되어 가고 있는 것이다.
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시가지에서 가장 번화한 곳은 본정통(本町通)으로, 상점들이 빽빽하게 들어서 매우 번창함을 극치에 이루고 있다. 상업 기관으로는 조선인 측에 상무회(商務會)라는 것이 있고, 일본인 측에는 상업조합이라는 것이 있어서 원만하게 상거래가 이루어지고 있는 것은 참으로 기뻐해야 할 일이다.
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지금 충주 사람이 경영하는 상업 점포로서 가장 대표적인 것을 꼽자면, 우선 일용잡화에는 하라구치 상점, 기웅 상점, 천영하 상점, 사카미츠 상점, 이순창 상점, 일광 상점, 대성 상점, 박창렬 상점 등이 있다.
포목점에는 미즈노 포목점, 키자키 포목점이 있고, 식용잡화에는 다카미 상점, 하라구치 본점이 있으며, 철물점에는 아베 진페이 상점, 사토 상점이 있다. 양복점으로는 미즈노 양복점, 충일 양복점, 무라카미 양복점 등이 있고, 약재상으로 가장 주요한 곳은 야마모토 약국, 윤정구 및 김성수 건재약국, 이춘자 약국, 야마무라 약국, 나카지마 약국 등이 있다.
제과업은 우시다 과자점, 요시무라 타츠조, 아베 쇼지 점포가 있고, 이어 어물전으로는 키누야 고사부로 상점, 미야노 어물전, 오호리 어물전, 유경한 어물전, 이원석 어물전이 있다. 비단 및 포목점으로는 중국인이 경영하는 동승공(同勝公)이 우선 그 규모가 가장 큰 축에 속하고 다음으로 김준희, 이순창 등이다.
목재상은 나가야마 목재점, 조문화 목재점이 있으며, 토목청부업자(건설업자)로는 충주는 물론 충북의 토목왕이자 충주 건축계의 은인으로 일반적으로 칭송받고 있는 본부 유삼랑(本部由三郎) 씨 외에 스즈키조(鈴木組), 미즈쿠로 Gen-ichi, 미야모토 야로쿠 씨 등이 있다. 과수원 경영자로는 아와타 농장, 나카가와 농장, 쿠마가이 농장, 히라노 농장, 권중협, 호리이 사덴지씨
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등이며, 제사업(실뽑기)에는 우노 이사부로, 미야자와 토라오, 미야모토 코자부로, 나카무라 토이치, 마츠카와 타케오, 오가와 토요키치 씨 등이 있다. 또한 대표적인 병원으로는 우선 충일병원, 스즈키병원, 소네병원, 충주병원, 윤성룡 치과, 야마무라 치과, 에가시라 치과 등이 있어서 각각 충주 사회의 조화로운 발전을 조성하고 있다.
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그중에서도 충주의 하라구치 상점은 명치 42년(1909년)부터 시작된 상점으로 거래처도 넓고 단골 고객도 많다. 점주 하라구치 일이(原口一二) 씨는 상인 기질이라기보다는 정치인 기질의 인품과 수완을 가지고 있으며, 충주 거주 실로 30여 년간에 걸쳐 애써 노력하고 정성을 다해 분투한 여러 업적을 보면 교육, 산업, 자선에 다대한 기여를 해왔기 때문에 이제 대충주 건설의 선각자라고까지 일반적으로 일컬어지고 있다.
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또한 그와 같은 인품과 수완으로 영웅이 영웅을 알아보듯 상당한 자금력이 있고 신용도 있는 충주 기웅상점의 점주 이춘웅(李春雄) 씨는 안으로는 늙은 어머니를 봉양하고 농축산에 힘쓰며, 밖으로 나와서는 당당하게 정론을 토하고 상업을 업으로 삼아 농잠구, 도자기, 잡광 지금, 이발기구, 잡화, 메리야스, 모자, 알루미늄 제품, 시멘트, 석회, 유리, 화양지 및 문방구 일체의 대형 점포를 확장하면서 공익에 힘쓰고 있는 것은 청출어람의 영예라 하기에 부족함이 없다고 해야 할 것이다.
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지난날 충주보통학교 강당 건축비 예산이 막힌 것을 목격했을 때는 충주보통학교 후원회장 유석희(劉錫禧) 씨와 함께 서로 껴안고 울며 스스로 3천 원의 기부를 신청해 오는 등, 충주 사람으로서 뼈에 새겨(刻) 잊기 어려운 사회사업 봉사자라고 하지 않을 수 없다.
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다음으로 충주의 상업을 논함에 있어 또 하나 기자가 간과하고 있는 것이 있다. 그것은 충주 금정(錦町)에 있는 충주 운송점의 대표 오와다 운송점이다. 오와다 운송점은 총포화약점을 겸영하여 충북 북부의 제천, 단양, 음성, 괴산 등 각 군에 총포와 화약을 공급하고 있으며, 운송부는 충북선이 충주에 개통됨에 따라 더욱 바빠져 점원 및 운반 인부들이 항상 문전을 이루고 있다.
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점주 오와다 히로시(大和田熙) 씨는 성품이 마치 명경지수와 같이 성실하고 덕행이 바른 지략가로서, 지금까지 충주의 면정(面政)에도 큰 기여를 해왔으며 향후 읍정 역사상에서도 대중의 기대를 받고 있는 그윽한 선비이다. 충주의 상업이 큰 틀에서 대략 위와 같으므로, 이제는 정당하게 머물 곳에 머물고 각자 물러서지 않을 곳에서 제 역할을 하고 있으니, 한 걸음 올라서면 천석꾼이요 한 걸음 물러서면 구르는 꼴이라는 것은 말할 것도 없다. 이는 경제 조직의 커다란
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법칙에 의해 대자본가는 소자본가의 부속에 의존해 서고, 소자본가는 대자본가의 도움에 의존해 서야 하는 충주 사람들이 가진 운명이기 때문이다. 그렇다면 기자는 이에 충주군의 상업을 매월 매일 표시하고 있는 각 시장의 일람표를 아래와 같이 기록한다.
충주시(忠州市): 1년간 개시 66회 / 1년간 거래액 31만 9,000원 / 개시일: 음력 5일, 10일
대소원시(大召院市): 1년간 개시 69회 / 1년간 거래액 4만 3,000원 / 개시일: 음력 4일, 9일
용원시(龍院市): 1년간 개시 70회 / 1년간 거래액 1만 4,000원 / 개시일: 1일, 6일
입장시(立場市): 1년간 개시 67회 / 1년간 거래액 7,000원 / 개시일: 3일, 8일
강천시(江泉市): 1년간 개시 66회 / 1년간 거래액 4만 800원 / 개시일: 음력 1일, 6일
용당시(龍堂市): 1년간 개시 66회 / 1년간 거래액 6만 4,800원 / 개시일: 2일, 7일
내창시(內倉市): 1년간 개시 68회 / 1년간 거래액 9만 6,000원 / 개시일: 3일, 8일
목계시(牧溪市): 1년간 개시 68회 / 1년간 거래액 1만 4,000원 / 개시일: 2일, 7일
덕은시(德隱市): 1년간 개시 72회 / 1년간 거래액 4만 원 / 개시일: 5일, 10일
이 통계에 의하면 충주군 내의 각 시장이 1년 동안 612회의 개시 일수를 바탕으로 자금 자통이 어려운 자는 금융 편의가 있는 자에게, 편의가 있는 자는 없는 자에게 서로 도우며 화합하여 경제 전선에
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서서 현실의 생활을 잘 개척해 나가므로, 이것이 큰 원동력이 되는 것은 뭐라고 해도 위의 개시 횟수에 따라 매년 44만 7,827원의 금액이 충주군 내 각 시장을 도는 혜택 덕분이라고 하지 않을 수 없다.
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제9장 농업
충주군 내는 비옥한 들판과 풍요로운 논이 풍부하여 농업에 가장 적합하다. 기후는 대체로 온화하여 오곡이 풍성하게 잘 익으며, 추위가 다소 강하다 해도 보리와 같은 겨울 작물도 말라 죽을 염려 없이 생육이 매우 양호하다. 특히 사계절을 통해 공기가 건조하기 때문에 수확물의 품질은 우수함 중에서도 최상의 영역을 차지하고 있다.
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또한 수두(벼)와 같은 것은 충주수리조합 및 대가미수리조합 등이 생겨 관개의 편리함을 제공하고 있으므로, 군 내 일부 마을을 제외하고는 가뭄이나 수해의 재앙을 입지 않는다. 농민들은 도(道)의 시정 방침에 기초하여 군 당국의 지도에 따라 새로운 지식을 얻고 농사의 발전이 현저하여, 시정공진회 등에서는 군 내 농민으로서 본부(총독부)로부터 포상을 받은 자도 적지 않다.
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특히 지나간 대정 4년(1915년)부터 대정 8~9년에 이르는 동안에는 농작물의 가격이 급등했기 때문에 군민들은 미간지 개척의 좋은 풍습을 형성하여 농민 일반이 우유부단하고 게으른 옛 태도를 벗어나게 한 일면도 있다. 당시 충주에 있던 일본인 농사개량조합은 농사의 개량 및 조선인 농민을 인도·계발하는 것을 목적으로 하였으며, 충주의 독농가 표창식에서
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간인궁(閑院宮) 전하로부터 특별한 뜻에 따라 표창을 받은 시오다 테이스케(鹽田禎介) 씨가 농사개량조합장으로서 진력하여 모범을 새로이 모여든 동포들에게 보여주었다. 이 때문에 충주면 단월리, 신미면 용원리 근처에는 국유지소작인조합 등이 생겨 군의 지도에 순종하고 시시각각 개량 발전의 실적을 올리고 있던 시대도 있다.
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충주군에서는 대정 4년(1915년)에 군 농회의 계획으로 각 면에 1정보의 모범 채종전을 설치하여 우수 수두의 보급에 힘쓰고, 기술에 능통한 농업기사를 각 방면에 배치하여 전적으로 이의 발전과 진보를 관장하게 했던 시대도 있다.
현재 군의 경지면적은 토지대장 등록 경지만 9만 3,667정보에 달하고, 토지대장 미등록 경지만 3,517정보에 달하며, 화전만 해도 1,669정보에 이르고 있다. 그리고 그 면적 내에서 생산되는 일반 작물의 생산량은 쌀 6만 7,544석, 보리 7만 874석, 대두 2만 9,156석, 조 1만 2,869석이며, 기타 농작물도 모두 6천 석 이상의 수확률을 올리고 있다.
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기타 충주군 내에는 스즈키 마사이치 씨 및 윤치구 씨 등이 중심이 되어 개량 농사를 실시하고자 만들어진 근로실행회를 비롯해, 신미면이나 산척면에는 벼 농사 다수확을 실지로 연마하는 오하근 씨나 서천순 씨 등이 있어서, 농사 개량을 말로써 찬양하는 충주군수 최지환 씨의 후원을 얻어 각각 열성으로 일하면서 군민에게 그
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모범을 보이고 있으므로 충주군은 머지않은 미래에 덴마크형 마을로 변모해 갈 것임이 의심할 여지가 없다.
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또한 군 당국은 농민들을 직접 향해 여가를 이용해 새끼와 가마니 제조를 장려하고 있기 때문에 1년간의 생산액은 적어도 4~5만 원을 하회하지 않는다. 양잠업도 시정 이래 극력 장려한 결과 최근 현저한 진보 발전을 보였으나 여전히 장려할 여지가 있으므로, 대정 11년(1922년)부터 우선 뽕나무 식재 장려 계획을 세워 대정 13년까지 이를 장려하고, 대정 14년(1925년)에는 양잠 가구 1호당 50주의 비율로 46만 주를 식재하게 하였다.
그 후 대정 14년도부터는 본부(총독부)에서 계획된 산치 백만 석의 대방침에 따라, 대정 15년부터 소화 10년(1935년)까지 10년간 뽕나무 식재 가능 가구 수 1만 4,625호에 식재할 수 있는 논 12만 8,941부(步)에 대해 31만 2,000주의 뽕나무 식재 계획을 수립하고 현재 그 완성을 향해 노력하고 있으므로, 향후 충주군은 양잠의 충주로 되돌아가지 않으면 안 될 것이다.
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기타 군 내의 축산업도 가축이든 가금류든 가리지 않고 종래 그 사육법이 불완전했음에도 불구하고 그 생산이 거액에 달하고 그 생육 상태도 매우 좋은 성적을 보였기에, 대정 5년(1916년)에는 충주군축산조합을 설립하여 여러 지도의 노고와 장려의 정성을 다해 왔다. 그 결과 이제 군 내의 소(牛) 수는 무려 9천 두 이상을 돌파하여 농가
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100호당 사육 비율은 50두의 비율을 보여주고 있으므로, 향후 충주군 내의 농업과 축산, 인물과 토지의 풍요로움이 어우러져 더욱더 발전해 갈 것임은 명약관화한 사실이어야 한다.
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제10장 종교
본 군의 종교는 매우 쓸쓸하고 적막하다. 군 내의 신사 및 종교의 종파별을 일몰해보면, 신사(神祠)가 있어 사원 1곳에 포교자 1명, 사찰이 있어 사원 2곳에 포교자 2명, 기타 천리교가 있고 금광교가 있으며 기독교가 있어서 각 종파 신도 수가 무려 4천여 명을 세지만, 그들은 이름만 불교이자 사찰이자 승려일 뿐, 그 실상은 거의 종교로서 인정할 만한 터럭만큼의 가치도 가지고 있지 않다.
4천여 명의 각 종파 신도가 모두 그렇다는 것은 아니지만, 그 대다수는 각 사찰에 부속된 절 논밭(寺田)과 절 산림(寺林)에 의존해 먹고 입거나 그 찌꺼기를 맛보며 생활의 자원으로 삼는 일종의 기생충이다. 그러므로 조선 재래의 불교에는 한 사람의 신도도 가지고 있지 않다.
또한 승려라 해도 단지 사찰 내에 은거하여 가사를 입고 불경을 읽을 뿐, 조금도 포교 전도의 사상이 없고 지식이 없으며 신도를 교화할 능력이 없어, 겨우 이른바 절 논밭과 절 산림에 의하여 목구멍에 풀칠을 하고 무의미한 탁발 구걸을 행하며 간신히 생활을 유지하는 일종의 놀고먹는 무리(遊民)에 지나지 않는다.
본래 조선의 불교는 그 전래가 매우 오래되어 삼국 대립 시대에 먼저 고구려의 수도에 사찰이 창건된 것을 시작으로 백제, 신라의 영토로 점차 전파되어 고려 말년에 이르기까지 상당한 융성함을 극치에 이루었던 것이다.
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현재 각지의 깊은 산 그윽한 골짜기에서 웅장한 대가람을 보는 것은 대개 그 시대의 유적이다.
그러나 이씨 조선 시대에 이르러 엄격히 사찰의 신설을 금하고 승려가 되는 것을 제한하였으며, 특히 근세 200여 년 이래 양민이 승려나 비구니가 되는 것을 금하는 등 유형 또는 무형의 정치적 억압이 극에 달했기 때문에 승려는 완전히 사회로부터 매장당했다. 포교 전도는 물론 관혼상제에도 절대 참여하지 못하고, 단지 사찰 건물 자체의 지킴이로서 겨우 기득권인 절 논밭의 수확과 탁발에 의하여 얻는 저잣거리의 잔반에 의존하며 겨우 목숨을 오늘날까지 보존해 오고 있는 것이다.
이 때문에 그 후 승려가 되는 자는 흉악하고 예의가 없어 세상에 몸을 담을 수 없는 무리이거나, 질병이나 장애가 있는 자가 아니면 눈을 약간의 사찰 재산에 돌려 안일한 생활을 탐하고자 하는 뻔뻔한 자들뿐이었으며, 위아래 할 것 없이 일반 대중 또한 승려를 경멸하였다. 이러한 환경에 처해진 승려가 무슨 위엄을 유지하고 무슨 신앙을 가져 무슨 포교 전도를 할 수 있겠는가?
합병 후 명치 44년(1911년) 사찰령이 실시되어 구속되었던 종래의 여러 제한은 해제되고 포교의 자유는 허용되었으나, 구습이 오래되어 아직 사회적으로 승려의 지위를 인정하기에 이르지 못했다. 승려 또한 다소 흥분한 기색이 없지는 않으나 그 흥분은 심령계의 흥분이 아니요 명예가 아니면 이욕(利欲)일 뿐이니, 그들로 하여금 진정 종교가로서 도약하게 하는 것은 참으로 극히 어려운 일 중의 어려운 일일 것이다.
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야소교(기독교)는 전래된 지 오래되지는 않았으나 공연히 신앙의 자유가 허용된 것은 지금으로부터 27년 전의 일로서 그 이래로 조선
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사람들이 다투어 외국인 거류지에 이르러 선교사에게 교리를 청하는 자가 점점 증가하였다. 선교사 역시 한편으로는 학교를 세우고 병원을 설립하여 은혜와 정으로서 그들을 자애롭게 대하니, 본래 외국인을 일종의 고급 민족처럼 생각하던 민심과, 외국인의 치마폭에 숨어 관형(관찰사·경찰 등 관변)에 항거하려는 사심(私心)이 서로 끌어당겨 신도의 수가 나날이 늘어났다. 현재 군(郡) 내에 있는 해당 종파는 5개, 교회 수는 24개, 포교사는 21명이며, 조선인 신도만 해도 1,237명에 달하여 그 신앙계에서의 기반이 비교적 견고한 것도 있다.
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내지인(일본인)이 포교한 것은 신도(神道)의 천리교(天理敎), 금광교(金光敎) 2개 교의 포교소에 내지인 포교자 2명, 신도는 내지인 100명이 있을 뿐이다. 그러나 종교로서의 세력은 미미하여 조선인은 물론 내지인 사이에서도 거의 아무런 권위가 없으며 사회 교화상 기여하는 바가 있다고 인정할 수 없다.
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불교는 2파 3개소의 포교소와 3개소의 사찰을 보유하고 있으며, 내지인 승려 2명, 신도 수 1,900여 명은 전부 내지인으로서 오직 내지인을 대상으로 하는 불사(佛事) 장례, 공양 일에 종사하고 있다. 그러므로 대개 이를 말하자면 승려도 신도도 불사 장례에 대해서만 승려이자 신도일 뿐이며, 심령계(정신세계)에 있어서 진정한 승려와 신도는 거의 전무하다는 느낌을 금할 수 없다.
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종교계의 현황이 이와 같아서 군내 조선인 20여 만의 생령(인구)은 대개 본군 조선인으로서 동일한 처지에서 취생몽사(醉生夢死)하고 있다. 본래 불교는 중국으로부터 조선에 전래된 것이니, 지금에 이르러 충주의 불교가는 당시의 옛 정에 보답해야 할 것이다. 또한 이 2천만 민중으로 하여금 불교의 자애로운 빛을 받게 함으로써 제국(일본) 무이의 양민(선량한 백성)이 되도록 전심전력하여 조선인 포교 전도에 종사할 의무가 없단 말인가? 용맹심이 없단 말인가?
새로운 정치(강점) 이래 이제 20년, 아직 전도(全道)에서 한 사람의 승려도 단연히 이러한 거사(조선인 포교)에 나섰다는 말을 듣지 못했다. 한한히 내지인을 상대로 와우각상(蝸牛角上, 달팽이 뿔 위처럼 좁은 세상)에서 교권을 다투기에 날이 새는 줄 모르는 기풍이 있는 것은 실로 통탄할 따름이다. 아직 한 권의 경문도, 한 읊조림의 화찬(和讚, 불교 찬가)도, 한 통의 불문장(佛文章)도 조선 언문(한글)으로 번역된 것이 있음을 보지 못했으니, 도대체 이것은 무슨 게으름이란 말인가!
조선은 국토가 아니란 말인가? 조선인은 일본 동포가 아니란 말인가? 이 2천만 동포 생령을 공중에 헤매게 하는 것은 대개 내지 불교 제종(諸宗) 당사자들의 일대 수치이다. 명백한 일종의 태업(태만)이며, 부처에 대하여 나아가 국가에 대하여 이를 불충이라 하지 않고 무엇이라 하겠는가.
입으로 불석신명(不惜身命, 몸과 목숨을 아끼지 않음)을 외치기는 쉽다. 언어가 통하는 내지인에게 전도하는 것은 어려운 일이 아니다. 진정 불석신명의 큰 각오를 가지고 언어가 통하지 않는 조선인에게 전도하는 데 일생을 바치는 승려가 충주에 한 사람도 없다는 데 이르러서는 오히려 기가 막힐 뿐이다. 이러한 의미에서 편저자는 외국인 선교사의 기개를 높이 평가하는 바이다.
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조선인 사이에는 별도로 천도교 및 시천교 기타 수개 파가 있다. 포교소 수 4개, 포교사 5명, 신도 500여 명을 보유하고 있다. 종교로서의 가치는 어찌 되었든 교도 간의 결속은 상당하게 공고하다. 이 밖에 미신에 빠진 조선인의 특성상 종교와 유사한 음사(淫祠, 정통이 아닌 사당/신당) 등이 많으나 어느 하나 열거할 가치가 없다.
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교회의 종
야소교(기독교) 회당의 종이 울린다. 밀레의 '만종'을 떠올렸을 때, 젊은 부부의 거룩한 노동의 모습이 왠지 부럽다. 사람의 자식으로서 세상에서 일하는 자는 모두 이와 같아야 한다. (원고 중에서)
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제11장 통 신
일본 정부가 조선에 통신 사업을 처음으로 시설하게 된 것은 명치 9년(1876년) 무렵부터이다. 즉 같은 해 3월 조일수호조규(병자수호조약)가 양국 사이에 체결되어 부산항이 개항됨과 동시에, 미쓰비시 회사의 우편선이 처음으로 동 항에 항로를 연 것을 기회로 삼아, 당시 역체두(驛遞頭) 마에지마 히사카(前島密) 씨의 신청에 의해 오쿠보 내무경으로부터 정원에 아뢰어 그 허가를 얻었다. 그리하여 같은 해 11월 1일 부산에 제국우편국을 창설한 것이 조선에서의 통신 사무 개시의 효시이다.
이후 항로의 확장과 거류민의 증식에 따라 우편국은 점차 각지에 증설되어, 명치 13년(1880년) 4월 14일 원산에, 16년 12월 16일 인천에, 21년 7월 11일 경성에, 30년 11월 15일 목포에, 32년 8월 1일 진남포에, 같은 해 11월 11일 군산에, 동월 16일 마산에, 34년 3월 16일 성진에, 같은 해 6월 1일 평양에 각각 제국우편국의 설치를 보게 되었다.
이후 각지에 우편국 출장소 혹은 우편수취소 등이 설치되어 가던 중, 특히 우리 충주는 명치 38년(1905년) 6월 14일에 경성우편국 충주출장소로서 개국되었다. 이미 우리 충주에서는 개국과 함께 우편, 환(爲替), 저금, 전신의 사무를 취급하고 있었다.
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그러나 당시의 통신 사업은 설비가 극히 불완전하여 민중의 신뢰를 잃을 우려도 있고, 또한 내외 국민의 복리를 증진할 수 없었으므로, 명치 39년(1906년) 7월 1일에는 충주우편국으로 개정하고 같은 해 10월 1일부터는 한국 국고금의 출납을 개시하였다. 뿐만 아니라 명치 41년(1908년) 6월 1일에는 군인 군(軍) 발행 무료 통상환 사무도 개시하였다.
그리고 전화 통신 사무는 명치 41년 2월 1일에, 경비 전화 통신 사무는 명치 42년 10월 25일에, 군용 전화 사무 취급은 명치 44년(※원문 '明治十四年'은 오기인 듯함, 문맥상 44년/1911년) 4월 1일에 각각 개시되었다.
그중에서도 여기서 대서특필해야 할 것은 대정(大正) 10년(1921년) 5월에 충주읍민의 간곡한 원을 받아들여 시내 전화 사무를 개시함으로써 시민의 일상생활을 컨트롤하고 있다는 점이다.
또한 충주우편국 청사는 조선 시대의 고대 건축물을 이용해 왔으나, 토지의 발전과 시대의 추세로 통신 기관의 이용이 급증함에 따라 청사가 협소해져 충주우편국 신축 문제는 다년간의 숙원 사업이었다.
다행히 대정 15년(1926년) 3월 마침내 착공에 들어가 6월 28일 완공을 알리고 7월 1일 이전을 완료하였다. 충주국은 충주군청과 함께 본정(本町)의 중앙에 우뚝 높이 솟아 충주의 발전을 말해주고 있다.
이 안에는 조선 사정에 정통한 자로 일반적으로 알려진 야노 쇼스케(矢野祥助) 군이 있어, 현재 간이생명보험 사무와 저축사상 선전에 배가된 노력을 기울이고 있다. 역대 국장을 꼽아보면 다음과 같다.
1대: 사카이 분지로 (酒井文次郎)
2대: 쓰치다 세이이치로 (土田淸一郎)
3대: 고바야시 요신 (小林要心)
4대: 오기하라 헤이사쿠 (小城原兵作)
5대: 야노 쇼스케 (矢野祥助)
6대: 콘도 토시오 (近藤利男, 현임)
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제12장 재 판
공주지방법원 충주지청은 구 한국 당시인 명치 27년(1894년) 7월 형조가 폐지되고 법무아문이 되었으며, 명치 28년 3월 법무부로 개편되고 같은 해 7월 재판소구성법이 발포됨에 미쳐, 명치 41년(1908년) 8월 충주구재판소를 설치하고 구 관찰도로부터 재판 사무를 인계받아 사무를 개시하였다.
명치 42년 사법권 위임의 결과 같은 해 11월 통감부 재판소가 되었고, 명치 43년(1910년) 11월 다시 조선총독부 재판소로 개혁되었다가, 명치 45년(1912년) 4월 1일 공주지방법원 충주지청으로 개칭하여 오늘에 이르렀다.
당시 재판소는 조선 시대의 고대 건축물로서 청사의 협소함을 고하고 사무 능률의 향상을 저해(阻害)하는 상태였으나, 대정 4년(1915년) 9월 현재의 신축 청사를 보게 되었다. 이어 등기 사무의 개시는 대정 6년 1월 부령 제3호 실시로 인해 같은 해 3월 1일부터 사무 취급을 개시하였다.
재판소 설치 이래 검사 사무 취급은 충주헌병분견소 또는 충주경찰서에서 취급하였으나, 대정 8년(1919년) 전임 검사가 배치됨에 미쳐 예심 사무의 취급을 개시하였다.
아울러 해당 청의 관할 구역에 대해 일언하자면, 명치 41년 8월 충주구재판소로서 사무 개시 당시에는 충주, 청풍, 연풍, 음성의 4개 군 및 괴산군의 일부였으나, 같은 해 10월 11일 제천구재판소가 폐지되어 그 관할 구역이던 제천, 영춘, 단양의 3개 군을 병합 관할하였다. 이후 대정 3년(1914년) 군면 폐합의 결과 영춘은 단양에, 연풍은 괴산군에, 청풍은 제천군에 각각 편입됨에 따라,
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현재에 있어서는 충주, 제천, 단양, 음성 4개 군 및 괴산군 일부 8개 곳을 합하여 총계 47개 곳을 관할 구역으로 한다. 이제 역대 판·검사 및 서기의 이름을 적어보면 다음과 같다.
역대 판사
1대: 이희목 (李熙穆)
2대: 미나토 신조 (湊信三)
3대: 시모시 야스시 (下志寧)
4대: 오쿠다 카츠타로 (奧田勝太郎)
5대: 이우정 (李愚正)
6대: 오카자키 타카시 (岡崎隆)
7대: 김익진 (金翼鎭)
8대: 이춘두 (李春斗)
9대: 이시바시 요시오 (石橋義雄)
10대: 이와사키 타메이치로 (岩崎爲一郎)
11대: 타케이시 토쿠타로 (竹石德太郎)
12대: 사와키 쿠니에 (澤木國衛)
역대 검사
1대: 쓰치야 에이타로 (土谷榮太郎)
2대: 쿠로이와 카쿠이치 (黑岩覺一)
3대: 오키 세이카이 (沖淸海)
4대: 우에다 미노루 (上田實)
5대: 쿠보타 준이치로 (久保田順市郎)
역대 서기
연병국 (延秉國)
이흥선 (李興瑄)
강석하 (姜錫夏)
김진중 (金進重)
아이노 세이이치 (相野精一)
이노우에 마사히로 (井上正博)
박태성 (朴泰成)
하라노 토시아키 (原野俊顯)
김용옥 (金用沃)
이기홍 (李起洪)
지순명 (池淳明)
노하라 후미오 (野原文雄)
정규철 (鄭奎轍)
유재춘 (柳在春)
마스다 지로 (增田次郎)
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역대 서기
이노우에 요시노스케 (井上美之助)
와타나베 타케오 (渡邊猛男)
남보원 (南輔元)
오카 마타사부로 (岡又三郎)
홍용유 (洪龍裕)
오카다 타마키 (岡田玉喜)
진태구 (陳泰龜)
강대길 (姜大吉)
오쿠무라 토시모토 (奧村敏求)
조태로 (趙泰魯)
유진한 (兪鎭翰)
오영선 (吳寧善)
에가미 에이타로 (江上榮太郎)
타나카 타카지로 (田中隆次郎)
미나미자와 타마 (南澤珠)
오완규 (吳完圭)
오츠지 무네오 (尾辻宗雄)
유익태 (柳翼泰)
조계원 (趙桂元)
야마모토 마사노리 (山本正德)
야마시타 타네요시 (山下種良)
유진한 (兪鎭翰)
미나미자와 타마 (南澤珠)
조운징 (趙雲澄)
오오니시 킨주로 (大西金壽郎)
요네하마 미츠지 (米濱滿治)
박학진 (朴鶴鎭)
유도징 (兪濤澄)
에가미 에이타로 (江上榮太郎)
윤준영 (尹峻榮)
칸노 요지 (菅野與次)
미나미야마 타스케 (南山多助)
히라이 토라오 (平井寅雄)
정봉모 (鄭鳳模)
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제13장 읍정 (邑政)
현재의 충주읍은 대정 3년(1914년) 4월에 남변면과 북변면 2개 면을 합하여 '읍내면(邑內面)'이라 칭하고 이를 설치한 것인데, 대정 6년(1917년) 9월에는 면 이름을 '충주면'으로 개칭하였다. 그리고 대정 12년(1923년) 4월에 지정면(指定面)이 되었다가, 소화 성대(聖代)에 꽃피는 소화 6년(1931년) 5월에는 조선 지방제도 개혁에 따라, 당당히 이름 높던 우리 충주면은 '충주읍'이 된 것이다.
그 지세를 보건대 동쪽은 살미면, 서쪽은 이류면, 남쪽은 대림산맥의 9봉을 가지고 살미·이류 양 면과 경계를 이루고, 북쪽은 한강을 끼고 있어 언제나 산은 울창하고 물은 도도히 흐른다. 또한 서쪽은 달천평야를 앞에 두고 있어 불, 물, 바람, 흙 어느 것이나 천혜가 풍부하므로, 이곳에 적을 둔 2만 읍민으로 하여금 자못 지세의 혜택에 마음이 열리게 한다.
* * * *
기타 충주읍의 토지 세력(토지 상태)에 대하여 일별해 보면 국유지가 270여 정보, 민유지가 3,369정보인데, 이를 종별하여 실제 매매 가격 및 표준 지명을 들면 대략 다음과 같다.
답(논): 1단(단보)당 평균 90엔
전(밭): 1단당 평균 50엔
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대지(집터): 100평당 평당 평균 30엔
1등지를 보유한 부락은 우선 연수동, 용산리, 충주읍 등이며, 중등지를 보유한 부락은 교현리, 봉방리, 칠금리 등이고, 하등지를 보유한 부락은 목행리, 종민동, 풍동 등이다.
이 풍요로운 논밭에서 생업에 종사하는 자 중에는 농림목축업자가 첫째 자리를 차지하고, 다음은 상업 및 교통업, 공업, 공무 및 자유업이다. 가장 하위에 있는 것은 조선 전도 중 충청북도만이 바다에 접해 있지 않은 관계로, 어업을 업으로 삼는 자나 제염업을 경영하는 자가 없는 것은 당연한 이치이다.
이상 서술한 충주읍민의 직업별을 바탕으로 읍민의 교육 정도를 가늠해 보면, 농민으로서 국어(일본어)를 이해할 수 있는 자는 10명 중 1명 반이 채 안 되는 비율이며, 상인으로서 국어를 이해할 수 있는 자는 10명 중 7명 남짓의 비율로 되어 있다.
따라서 우리 충주에는 현재 온갖 신문 및 잡지의 지사·지국이 이 거리 저 거리에 간판을 고고하게 내걸고 있으나, 조선인으로서 대매(오사카 매일신문)나 대조(오사카 아사히신문), 기타 《중앙공론》, 《개조》 등의 일본어 잡지를 애독하는 자는 100명에 미치지 못하므로, 아직 읍민의 교육 정도는 우보(우직하고 더딘 걸음)의 영역을 벗어나지 못하고 있다.
이처럼 교육 정도가 아직 발달하지 않았기 때문에 읍민이 가진 생활 의식도 매우 유치한 것으로 일반적으로 받아들여지고 있는 것은 결코 무리가 아니라고 해야 할 것이다. 그렇지만 지금으로부터 20여 년 전 남변·북변 시대의 민정과 풍속을 오늘날 보는 민정 풍속과 대비해 보면, 먹구름이 걷히고 밝은 달이
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휘영청 밝은 것 같기도 하고, 혹은 황야에 푸른 싹이 돋아 화평해진 것 같은 느낌을 품지 않을 수 없다. 이는 오로지 역대 읍·면장 씨가 직간접적으로 면민을 대하고 면민과 만나 그 손을 잡고 가르쳐야 할 바를 가르쳐 준 위대한 타이름과 가르침(喞喞訓導)의 덕택이라 하지 않을 수 없다.
이처럼 우리 읍민을 위해 밤낮으로 자지도 깨지도 않고 힘써 준 지정면이, 지난번 사이토(齋藤) 총독이 반도 통치의 대임을 완수하고 늙은 몸으로 어쩔 수 없이 퇴관하실 즈음, 특히 다년간의 이상이었던 조선 지방제도를 자치제도로 변혁시키셨다. 그리하여 이제 우리의 읍장 아키야마 문웅(秋山文雄) 군이나 조명규(趙命奎) 군 등이 읍정을 맡고 있으며, 그 위에 우리의 읍회의원으로서 일반적으로 경모받는 14명의 의원이 백척간두에서 한 걸음 더 나아가 당당히 읍민의 복리를 위해 싸우고 있다. 이제 역대 읍·면장 및 지방제도 개혁에 대해 일언 언급하자면 다음과 같다.
역대 면장
1대: 정운숙 (鄭雲䎘)
2대: 피해붕 (皮海鵬)
3대: 이완재 (李完載)
4대: 하라구치 카즈지 (原口一二, 지정면 이후)
5대: 타나카 이사오 (田中勳)
6대: 아키야마 후미오 (秋山文雄, 읍 승격 이후)
역대 부장 (부읍면장)
1대: 이완재 (李完載)
2대: 정일 (鄭逸)
3대: 조명규 (趙命奎, 현임 부읍장)
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그렇다면 소화 6년(1931년) 4월 이후부터 실시된 개량 지방제도란 어떠한 것인가? 기자는 여기서 구고(舊稿)를 요약하고 비견(卑見)을 술하여 식자들의 한 번의 웃음거리(일찬)로 제공하고자 한다.
경오년(1930년) 4월, 청풍 한벽루에서 충북촌 지방과장과 함께, 이 영(李 英) 적음.
무릇 지방자치제도의 확립은 지방 행정이 나아가야 할 목표이자, 사이토 총독이 처음 부임했을 때 이미 성명했던 중요 정강 중 하나였음은 자타가 공히 지금도 뇌리에 깊이 기억하고 있는 바이다. 그러나 이는 일반 민중의 충분한 이해와 지방제도의 운용에 대한 훈련이 합쳐져야 비로소 가능하다는 것은 당연한 이치이다. 만약 민도에 부합하지 않는 제도는 국민의 복리 증진에 있어서나 지방제도 운용상에 있어서도 매우 바람직하지 못한 결과를 초래할 뿐만 아니라, 명실상부한 자치제도의 확립은 하루아침에 실현될 수 있는 것이 아니라고 굳게 믿는 바이다.
따라서 대정 9년(1920년)의 지방제도 개혁은 장차 자치제도를 펼치기 위한 단계이자 준비 훈련을 목적으로 시행된 것임이 이제 새롭게 생각된다.
이후 10년 동안 이에 대한 운용에 있어서도 상당한 경험을 쌓은 결과, 지방제도의 혁신에 한 걸음 더 나아가
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이번의 신제도를 제정한 것이다.
따라서 이번의 개정 지방제도가 물론 이것만으로 완전한 자치제더라고 일률적으로 말할 수는 없으나, 도(道)·부(府) 및 읍(邑)에 대해서는 자치제도로서 충분한 태양(態樣, 형태)을 갖추게 되었다고 말할 수 있다. 그간 조선의 특수 사정으로서 읍에 있어서는 민도가 상당하여 근대 도시를 형성하고 있으나, 면(面)에 있어서는 개화 문명의 정도가 일정하지 않고 대개 민도가 비교적 낮아 옛 태도를 벗어나지 못한 것이 많은 상태라는 것은 공히 숙지하고 있는 바이다. 그러므로 면에 있어서는 이 개정 제도의 운용을 신중히 고려해야 한다.
왜냐하면 지방제도 개혁에 관해서는 각종 법령이 공포되었으나, 이것저것 찾아보아도 제도 개혁의 골자는 도·부 및 읍에서의 종래 자문기관을 의결기관으로 만들었을 뿐만 아니라, 읍면제는 종래 있던 면제의 개정된 것으로서, 면제에 따른 지정면과 보통면에 대응하여 읍면제에서는 지정면을 '읍'으로 하고 보통면을 '면'으로 하였으나 읍과 면은 제도상으로도 엄청난 차이를 가지고 있기 때문이다.
그 차이란, 종래의 면은 법령에 의해 면에 속하게 한 사무를 처리하되 명확히 법인임을 규정하지 않았고 그 사무의 범위가 매우 한정적이었으나, 읍면은 명확히 법인임을 규정하고 또한 넓게 법령의 범위 내에서 그 공공 사무 및 법령에 따라 읍면에 속하는 사무를 처리할 수 있게 된 점이다.
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종래의 면에는 그 주민에 관한 규정이 없었고, 따라서 주민의 권리 의무에 관해서는 아무런 명문 규정이 존재하지 않았으나, 이번 개정 제도에는 부(府)와 마찬가지로 이에 관한 규정이 마련되었다.
또한 종래의 면은 규칙 제정권 등이 인정되지 않았으나, 이번 개정 제도에서는 읍면 주민의 권리 의무 또는 읍면의 사무에 관해 읍면 규칙을 제정할 수 있을 뿐만 아니라, 읍면세, 사용료, 수수료 및 조영물(영조물)의 사용 방법에 관한 읍면 규칙에는 10엔 이하의 과료(過料)를 부과하는 규정을 둘 수 있게 되었다.
읍에는 읍회(邑會)를 두고 의장 및 읍회의원을 구성원으로 조직하게 된다. 읍회는 부의장을 두지 않으므로 그 선거를 실시하지 않으나, 법령에 의해 그 권한에 속하는 선거를 실시하고 읍에 관한 중요한 사건을 의결하거나, 읍의 공익에 관한 사건에 대하여 의견서를 읍장 또는 관계 관청에 제출하는 권한을 갖게 되었으므로 종래의 지정면에 비해서는 격단의 진보라고 하지 않을 수 없다.
면에 대해서는 종래와 같이 면협의회를 두고 의장 및 면협의위원을 구성원으로 조직하게 되나, 이 면협의회라는 것이 읍회와 다른 점은 면협의회는 종래와 같이 자문기관에 머무르고 읍회는 의결기관이 되었다는 점이다.
따라서 이러한 차이에 따라 다른 각종 규정에도 자연히 차이가 생기게 된다. 면의 협의회
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역시 면의 공익에 관한 사건에 대해서는 의견서를 면장 또는 관계 관청에 제출하거나, 관청의 자문에 답신하는 등의 일은 종래에 비해 그 권한이 확장된 것으로 보아도 좋다.
그런데 읍회의원 및 면협의원 모두 원칙적으로 종래 지정면에서의 면협의원 선거 절차와 대체로 동일한 방법에 의해 선거되는 것이나, 그 정원 수는 종래와 같이 8명에서 14명이며 임기는 종래에 비해 1년 연장되어 4년이 되었다.
읍회의원 및 면협의원의 선거권 및 피선거권은 대체로 종래 지정면 협의원의 선거권·피선거권과 큰 차이는 없으나, 종래 면 협의원이 군수(郡守)에 의해 임명되었던 것이 선거로 개정된 점은 큰 진전이라 해야 할 것이다.
하지만 그 선거 절차에 대해서는 원칙적으로 읍회의원 선거에 관한 규정을 준용하기로 정해져 있다. 면의 실정에 따라 읍과 동일하게 하기 어려운 경우도 있으므로 지방의 실정에 따라 종래의 관습에 따라 도지사가 총독의 인가를 받아 적당한 선거 방법을 정할 수 있게 되었다.
* * * *
기타 관리로서 당선된 경우에 처하는 규정, 읍면과 청부(도급) 관계에 있는 자의 당선에 관한 규정 및 방청인 단속 등에 관해 상세한 규정이 마련되었다.
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읍면장은 종래대로 지방관제에 의한 대우 관리이지만, 그 읍면 대표자로서의 직무는 상당하게 확장되어 종래 군수가 가졌던 이원(직원)의 임면권을 읍면장에게 이관하고 이원에 대한 징계권도 갖게 하였다. 또한 이 외에 이원의 급여, 명예직의 비용 변상액도 군수의 직권으로 정하던 것을 읍면 규칙으로 정하게 되었다.
읍회는 서술한 바와 같이 매우 광범위한 권한을 가지는데, 읍회가 성립되지 않을 때, 소집에 응하지 않을 때, 회의를 열 수 없을 때, 또는 의결해야 할 사건을 의결하지 않을 때는 읍장이 도지사의 지휘를 청하여 당당히 의결해야 할 사건을 처분할 수 있을 뿐만 아니라, 읍회에서 의결해야 할 사건에 관해 임시 긴급을 요하는 경우가 발생했을 때는 도지사의 지휘를 청할 것 없이 읍장이 전결 처분을 내릴 수 있다. 면장에 대해서도 대략 같은 취지 하에 이러한 경우 면협의회에 자문해야 할 사건을 자문하지 않고 처분할 수 있다.
종래의 면부과금은 이번 제도 개혁의 결과 '읍면세'가 되어 그 종류를 국세 및 도세의 부가세 및 특별세의 2종으로 하고, 종전 특별부과금으로서 부과 징수되어 오던 차량세는 부가세로서 부과하기로 하였다. 이들 부과율 제도에 대해서는 종래 아무런 변경이 없었으나, 이번 개정에서 읍장제는 물론 사용료, 수수료, 과료의 징수 및 부역 현물의 부과에 대해 부과를 받은 자가 위법
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또는 착오가 있다고 인정하는 경우에는 이에 대해 이의 신청이 인정될 뿐만 아니라, 영조물 사용권에 대해서도 이의 신청이 인정되기에 이른 것은 두드러진 제도의 진보라고 할 수 있는 점이다.
감독으로서는 1차적으로 군수, 2차적으로 도지사, 3차적으로 조선총독이 이를 감독하는 것은 종전과 같다. 그리하여 읍의 중요한 사건에 대해서는 읍회의 의결을 필요로 하지만, 그 의결 권한을 넘어서거나 법령에 위배되거나 혹은 명백히 공익을 해치고 또는 읍의 수지에 관해 부적당하다고 인정되는 경우에는 재의(再議)에 부치거나 의결 취소를 할 수 있다. 면협의회는 자문기관이기 때문에 재의 또는 의결 취소 등의 규정은 전혀 없다.
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전술한 것 외에 읍면에 기본재산을 두어야 한다는 적극적 규정을 두고, 읍면세 부과에 관해 필요한 경우 해당 면장 또는 이원은 가택 혹은 영업소에 임검(臨檢)하거나 장부·물건을 검사할 수 있다는 규정이 마련되었으나, 면부과금을 읍면세라 칭하는 것 외에 읍면세 부과의 요건에 대해서는 변경이 없다.
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제14장 충주의 전기 사업
충주의 선남선녀가 등불 빛을 받아 한 권의 고서를 읽거나 혹은 옷에 바느질을 하면서 형설의 공(형설지공)을 쌓던 시절은, 쇼와 오늘날의 시대에서 보면 참으로古代의 일화처럼 생각된다. 이러한 풍경을 뒤엎고 시내가 갑자기 밝게 빛나기 시작하여 불야성으로 변하기 시작한 것은 지금으로부터 7년 전, 즉 대정 15년(1926년) 7월 27일부터이다.
시가지, 어둠의 충주를 빛의 충주로 바꾸고자 충주에 적을 둔 당대의 뜻있는 여러 인사들은 어떠한 신산과 고투를 거듭했던가. 하라구치 카즈지(原口一二) 씨, 미즈노 야키치(水野彌吉) 씨, 고(故) 송석균(宋錫均) 씨, 이춘웅(李春雄) 씨, 유석희(劉錫禧) 씨, 윤정구(尹政求) 씨, 스즈키 마사이치(鈴木政一) 씨 등이 모이기만 하면 충주의 전등 가설을 논하며 이를 실현하고자 여러 방면으로 온갖 맹운동을 지속했던 것이다.
그 정성이 마침내 통한 바가 있어 《충주전기주식회사》라는 이름으로 탄생한 것이 오늘날 우리 2만 4천 시민이 일상 사용하는 전기의 시작이다. 자본금은 10만 엔이고 1주의 주금은 50엔이었으나, 설립 당시 1차 납입금액은 12엔 50전이었다고 한다.
현임 임원은 후루야 슈이치(古谷修一) 씨 외 미즈노 야키치 씨, 하라구치 카즈지 씨, 카와시마 타삼보(川島田三郎) 씨, 아오야기 야오조(靑柳八百造) 씨, 이춘웅 씨,
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타케우치 세이지로(竹內淸二郎) 씨, 니시지마 토라키치(西島寅吉) 씨 등이다.
그 영업 상황을 일별해 보면 언제나 연 6푼에서 1할의 이익은 배당되고 있으며, 점등 수에 이르러서도 대정 15년 개업 당시에는 400가구에 대해 겨우 1천 여 개에 불과했으나, 소화 2년(1927년) 4월 말에는 422가구에 1,193등, 같은 해 10월 말에는 1,265등, 소화 3년 4월 말에는 546가구에 1,376등, 같은 해 10월 말에는 634가구에 1,608등, 소화 4년 4월 말에는 677가구에 1,847등, 같은 해 10월 말에는 680가구에 1,911등이라는 놀라운 발전 모습을 보여주었다.
에 이르러 기존 사용하던 50마력의 발전 능력을 가진 기관으로는 전력 부족의 느낌을 갖게 되었을 뿐만 아니라, 제천 지방에서도 겸하여 맹렬한 전등 가설 운동을 하고 있었으므로, 충주전기주식회사로서도 어쩔 수 없이 시세의 추이와 영업 선처 방침에 따라 대전전기주식회사(大田電氣株式會社)와 논의를 진행하였다.
그리하여 소화 5년(1930년) 4월 드디어 대전전기와 합병한 끝에 충주의 전기회사는 마침내 대전전기주식회사 충주지점이 되어, 일약 200마력의 발전 능력을 가진 중유 내연기관을 갖추고 영업 확충의 책임을 담당한 결과, 지금은 845가구의 점등 가구 수에 대해 2,160등의 점등 수를 보기에 이르렀다.
생각건대 현재 조선 내 각지의 전기 사업은 부영(府營)설 혹은 읍영(邑營)설로 부각되어 세간의 주목을 끌고 있으나, 지난번 조선전기사업조사회에서 총독부의 자문안에 답신한 바를 들으니 장차 어떻게 해서든
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한강의 수력을 이용하여 전선(全鮮, 조선 전역) 각지에 배전할 수 있는 대규모 계획을 세우고 있다고 한다. 만약 그 실현의 날이 어렴풋이 보이기 시작한다면, 유유히 흐르는 한강에 둘러싸인 우리 충주군민은 얼마나 천혜를 받은 밝은 생활을 누릴 수 있을 것인가!
우리 충주군민뿐만 아니라 더 깊이 들어가 제천, 단양, 나아가 영춘, 영월에 터를 잡은 우리의 어진 이웃 친구들에게도 얼마나 심대한 행복을 줄 수 있을 것인가!
기자는 시중에서 충주전기의 전등료 인하 문제를 자주 듣곤 하는데, 머지않은 장래에 적정 가격을 얻어 안한(安閑)하게 살아갈 수 있는 날이 도래할 것이다. 이에 해당 전기회사의 직원 명단을 적어 두고 붓을 놓는다.
지배인 겸 주임 기술자: 타카하시 리키치 (高橋利吉)
서기: 카와우치 야키치 (川內彌吉)
서기보: 김석태 (金碩泰)
전공: 방춘배 (方椿培)
전공: 박수장 (朴水長)
공수: 타케시타 문기 (竹下文義)
공수: 윤영원 (尹泳院)
공수: 유대인 (劉大仁)
공수: 야마모토 미츠오 (山本滿夫)
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제15장 충주의 수리 사업
출렁이는 물을 가두어 약 400여 정보에 달하는 충주평야에 관개 배수의 편의를 주고 있는 충주수리조합은 타이쇼 11년(1922년) 4월에 설립되었다. 지금 조합장 스즈키 마사이치 씨가 말하는 바를 들으면 사업 전 지구의 개황 및 사업의 연혁을 통해, 종래 충주읍에서 집단 경작지로서 제1위로 꼽히던 충주읍 달천리 외 4개 리 농민들에게 혜택의 정도가 얼마나 큰지 가늠할 수 있다.
그 수혜 구역 내는 지금에야 만경의 문전옥답으로서 갑으로나 을로나 찬탄받고 있으나, 이 수리 사업을 개시할 당시 해당 지역은 유명한 가뭄 지역으로서 기존 수권(수원)으로는 2개의 작은 제방(보)과 조잡한 수 개의 복류수 및 용천수가 있어 약간의 배수 관개 편의를 주고 있었다고는 하나, 물량이 매우 적었기 때문에 해마다 가뭄 피해를 입어 달천평야에 모내기를 본 해는 일반적으로 '올해는 대풍년이다'라고 곧장 말할 정도였으며, 평년에는 대개 벼보다는 메밀을 더 많이 보는 상황이었다고 전해진다.
본래 역둔토(驛屯土) 소속으로서 현 저수지 터였던 작은 제방, 즉 대제(大堤) 및 소제(小堤)는 대정 원년(1912년) 국비를 통해 일부 보수를 하였으나, 그 유명한 대정 5년(1916년) 6월의 대우(큰비)에 이 작은 제방이 갑자기 터져 무너졌기 때문에 그 후의 대가뭄은 마침내 농민들을 이산하게 만들었던 것이다.
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이를 목격한 충청북도 당국에서는 재삼 실지를 조사한 후, 대정 6년(1917년)에 역둔토의 두 제방을 소관 전환하여 이를 개축함과 동시에 기존 상태를 수리하고 아울러 하나의 큰 제방을 신설할 구체안을 세웠다. 먼저 '수리계'라는 일종의 단체를 조직하고 나아가 수리조합을 설치할 방침 하에 지주회를 열었으나, 설명과 장려에 7일을 소요하고 겨우 동의자 수 명을 얻었을 뿐이었다.
이후 권유와 장려를 게을리하지 않았기에 겨우 대정 7년에 이르러 '충주수리계'라는 것을 설립하였고, 연대채무에 의해 당시 한호농공은행으로부터 3만 5천 여 엔의 기채를 일으키고 지방비로부터 2천 여 엔의 보조를 받아 기존 수원의 개보수 공사에 착수하여 대정 8년 4월에 이르러 완공하였다. 크게 그 효과를 보았으나 물량이 적어 전 구역에 골고루 혜택을 주지 못했기 때문에, 다시 초기 구상대로 큰 제방을 신설하고자 총독부에 답사를 요청하였다. 그 결과 충주천으로부터 물을 끌어들이고 소제를 근본적으로 개축하여 하나의 큰 저수지로 만든 것이다.
이러한 계획에 따라 대정 11년(1922년) 4월 마침내 수리조합의 설립을 보았고, 대정 13년 3월에 이르러 조합 공사를 순조롭게 완료하여 유지 관리기에 들어갔다. 그러나 대정 15년(1926년) 홍수로 제방 일부가 터진 점과 한편으로는 수량의 여유가 있어 재해를 복구함과 동시에 구역 확장을 도모할 수 있게 되어, 같은 해 11월 이에 대한 인가를 얻어 이듬해 소화 2년(1927년) 그 공사를 완료하여 현재에 이르렀다.
지금 이 수리조합 관할 구역 내의 호암제(虎岩堤) 및 대제의 규모를 분석해 보면, 호암제의 수심은
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최대 29척, 평균 13척 4촌으로 되어 있고, 대제는 최대 15척, 평균 10척 5촌이라는 깊이로 되어 있다. 그 지배 면적은 호암제가 268정 800평(보), 대제가 87정보로 되어 있다.
아울러 조합비 부담액으로 눈을 돌려보면, 1등지가 단(단보)당 7엔 32전, 2등지가 7엔 20전, 3등지가 6엔 90전, 4등지가 6엔 30전, 5등지가 5엔 70전, 6등지가 4엔 80전, 7등지가 3엔 60전, 8등지가 2엔 10전, 9등지가 1엔 50전으로 되어 있다. 공작물 유지 관리는 상비 인부를 두어 조합이 직영하고, 용배수의 관리는 조합 직원을 지도자로 하여 상비 인부 외에 배수부 3명~5명을 임시로 고용하여 관리에 임하게 하고 있다.
기타 이 수리조합에는 독농(篤農) 정신의 고취자로서 일반 읍민에게 경모받고 있는 스즈키 마사이치 씨 외 쿠리야마 하지메(栗山甫) 씨 등이 직간접적으로 농사 개량을 독려하고자, 면적 2정 2단보에 달하는 채종포(採種圃)를 설치하여 지구 내 3개년 갱신 계획을 가지고 쇼와 3년(1928년)부터 종자 갱신에 착수한 외에, 면적 1단보의 원종포(原種圃)를 설치하여 채종용에 충당하거나 혹은 집합 또는 공동 모내기 자리를 마련하여 지도 및 장려에 힘쓰는 등 극력 봉사의 노고를 아끼지 않고 있다. 그러므로 향후 충주에서의 수리 사업은 이분들의 다년간의 체험과 지식 및 그 웅축된 힘에 의해 더욱 달성되고 향상될 것임은 조금도 의심할 여지가 없다.
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제16장 사 상
원래 충주에는 사상 운동의 거물이라 볼 만한 인물이 속출한 예가 없다는 것은 일반 읍민이 공히 숙지하고 있는 바이나, 근래 들어 세계적으로 고민하는 '세계시민적 인심 동요'에 따라 온갖 사상이 색채를 띠고 계통을 세워 우리 충주에 흘러들어온 것은 사실이다.
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그것은 물론 대정 8년, 즉 기미년(1919년, 3·1 운동) 이후의 일이지 기미년 이전의 일이 아니다. 과연 충주에서의 사상 운동은 대정 8년의 만세 소요를 제1기로 보아야 한다. 당시 충주 부호의 자제들이 내외(일본 및 외국)에 유학하여 겨우 글자를 깨치려 했을 즈음, 조선의 민족 운동은 불꽃을 튀기며 유형 무형으로 타올랐다.
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이를 대국적으로 논하자면 물론 대국적인 이유도 있겠지만, 소국적으로 논하자면 충주의 사상 운동은 아무런 의미를 가지고 태어난 것이 아니다. 단지 사리 분별 없는 중등학생들이 경성(서울)과 시골에서 아무런 판단도 비판도 가하지 않고 그저 부화뇌동적으로 소동을 피운 것이 현재의 충주가 가진 사상 운동을 형성한 첫번째 원인이다.
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그 증좌로 충주 출신의 조선인 학생으로서 중국 유학에서 돌아온 자는 즉시 길로틴(단두대/무정부주의 계열)에 물들어 돌아오고, 도쿄 유학에서 돌아온 자는 하나같이 아나키스트(무정부주의자)에 물들거나 볼셰비키(공산주의자)에 물들어 돌아와 그 조직을 급조하는 데 급급했던 것이다.
즉 오거나이저(조직가)의 사명을 다하고자 과격한 언동을 토하며 유랑하고 변절했던 것이다. 그러므로 대정 8년(1919년)을 충주 사상 운동의 제1기로 논하자면, 제1기인 대정 8년의 충주는 과도기에 불과했다.
즉 확고한 신념과 충실한 생활 의식을 가지고 죽어도 후회하지 않을 태도로 나온 경향은 없었다. 즉 에로인지 그로(그로테스크)인지 벨(변혁)인지 뭔지 모를 형태만의 첫산모(초산아) 시대였던 것이다.
그것이 점점 자라남에 따라 첫산모의 기분은 여기서 비등하여 어른을 공경할 줄 모르고 다분히 본능에 가까운 행동으로 사상가들은 방황하고 애태우고 있었던 것이다.
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그것이 대정 11년(1922년)까지 지속되었다. 이를 기자가 말하자면, 기자는 이 시기를 가리켜 충주 사상 운동사상의 '제2기 분위기 시대'라 부르기를 주저하지 않는다.
그후 분위기는 마침내 행동을 낳았고 제3기 시대를 그렸다. 그리하여 종래 태아의 호흡과도 같은 무형의 사상과 유아의 본능적 행동이 이 제3기에 이르러서야 비로소 모두 일어설 수 있게 된 것이다. 이 시기를 기자는 충주 사상 운동의 '정립(鼎立)시대'라 부른다.
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즉, 충주의 내선인(일본인과 조선인) 청년들 사이에서는 민족주의자가 누구이며 무정부주의자가 누구인가 하는 점을 각자 정립(鼎立)한 구도를 통해 명확히 식별할 수 있었던 것이다.
순서인즉, 이러한 삼립 전선은 결국 사상가 동지들 사이에 파벌 싸움의 화를 부를 수밖에 없었다. 즉, A적 지형에 선 자는 B적 지형에 선 자를, B적 지형에 선 자는 A적 지형에 선 자를 서로 저주하고 싸워야만 했다.
이 시대가 충주의 사상운동사상 제4기에 속하는 시대로서, 오로지 파벌 싸움을 일삼던 시대이다. 이처럼 충주의 지식인층(인텔리겐차) 사이에서 사상의 단계가 위로 위로 그 기다란 몸집을 늘려감에 따라, 충북 충주를 중심으로 이들 사상 청년들이 결성한 비밀결사 '흑기연맹'의 당원 일당이 검거되었다. 그 대립 세력에 속한 자들은 각자 흩어져 방랑하며 타향에서 비분강개의 눈물을 훔치면서도, 외부 동지들과 맥락을 맺고 있던 정황도 있었다고 전해진다.
그리고 그들도 무언가에 눈을 떴는지는 모르겠으나, 입옥했던 자는 출옥하고 방랑하던 자는 귀향하여 은밀히 파벌 싸움을 계속하면서도
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공동전선을 구축하고자 다시 서로 껴안고 울며 암중모색을 꾀하고 있었던 것이다. 그것은 대국적으로 그 전선을 암시하는 '조선 신간회'라는 것이 그들로 하여금 그렇게 하도록 만든 것이리라.
즉, 그들이 조선의 신간회를 모방하여 종래의 파벌 싸움을 뒤로하고 서로 손을 잡으려 한 이유는, 뒤로는 민족주의 사상에 상호 공명하여 서서히 그 시시비비(흑백)를 논하고자 함이었다. 그리고 그들은 이 시기를 제5기로 삼아 민족단일전선을 두 손 들어 찬양하고 있었던 것이다.
본래 밝은 조선총독부 정치의 대안목 및 그 과거·현재·미래를 오해하지 않고, 어설픈 지식(반지반해)에 그친 미숙한 조선 청년들에게는 자칫 있기 쉬운 일시적 시대 현상이라고는 하나, 그들은 너무나도 이씨조선 말기의 정계 풍진과 그 당시의 정세가 어떠했는지, 지금의 정세가 어떠한지를 대비하여 보지 않는다. 그렇기 때문에 그들은 일천만승(임금)의 성은에 감격하여 눈물 흘릴 줄을 모르고, 악을 만드는 법은 알아도 선을 행할 줄은 모른다. 생각하면 참으로 안타깝고 슬픈 일이다.
다행히 충주군수 최지환 군을 비롯하여 충주경찰서장 우다 료타로 군이 이들 사상 청년을 잘 포용하고
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잘 지도해 준 덕분에, 일반 지방 청년들은 그 방향을 전환하고 있는 중이라고 한다. 기자는 바라건대, 충주읍의 뜻있는 인사들이 먼저 그들을 선도하는 데 마음을 쏟고, 국가 백년대계를 염려해 주기를 바란다.
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제17장 충주의 강운(江運)
남한강
남한강은 한강의 좌측 지류로서 유역은 강원도, 충청북도, 경기도의 3도에 걸쳐 있다. 남쪽으로는 낙동강 및 금강, 북쪽으로는 북한강 유역이 있으며, 동쪽은 동해안에 가까운 일대의 분수령으로 그 수원을 형성한다. 충주보다 상류는 낙동강과의 분수령에 가로막혀 멀리 남쪽으로연장하지 못하고 크게 곡류한다. 때문에 그 지형은 세로와 가로의 차이가 크지 않으며, 그 원류를 오대산에서 발원하여 남쪽으로 흘러 영월 부근에서 평창 방향에서 발원하는 지류 서강을 합류하고, 흐름을 동쪽으로 틀어 충주 부근에서 북한강과 합류하여 한강이 된다. 수심은 곳에 따라 다르며 영월 하류에서 충주에 이르는 구간은 갈수 기에 1척(약 30cm) 이하에 이르는 곳도 있으나, 충주 하류는 얕은 곳이라도 2척 밑으로 내려가지 않는다. 유역을 3구역으로 나누면 다음과 같다.
상류부: 수원 ~ 영월 (21.6리)
중류부: 영월 ~ 충주 (22.8리)
하류부: 충주 ~ 북한강 합류점 (24.3리)
중류부(영월~충주 구간)는 매년 3월부터 11월까지 운항한다. 그 사이에 여울목(여울)이 49곳 있다.
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하류부(충주~고안 구간)는 결빙기를 제외하고는 큰 홍수 때가 아니면 매일 배가 운항한다. 충주군 탄금대로부터 용산까지의 운항 리수는 약 35리이다. 하계 수량이 많을 때라도 내려가는 데(하항) 12시간 내지 15시간, 올라가는 데(상항) 5일 내지 7일이 걸리며, 보통은 내려가는 데 3일, 올라가는 데 10일 내지 2주일이 소요된다고 한다.
운항 시기는 3월 하순부터 11월 하순까지이며, 그중에서도 가장 빈번한 시기는 4월 상순부터 6월 하순까지이다. 올라갈 때는 적재량이 제한되고 여러 배가 서로 도와야 하는 불편함은 북한강과 다를 바 없다.
여객만을 영업으로 하는 선박은 거의 없으며, 비교적 정기적으로 발착하는 것은 내국운통회사 충주출장소 소유의 배이다. 그 하류에는 여객도 이를 이용하는 경우가 많으며, 연안 화물은 운임 문제 및 도로 개수 공사가 완성되지 않은 관계로 결빙기를 제외하고는 거의 전부 강 운송을 이용한다.
이출품(반출품)은 이입품(반입품)보다 훨씬 많으며, 주요 이출품은 담배, 곡물, 땔감 및 숯(신탄) 등이고, 이입품은 소금, 명태, 석유 및 잡화 등이다. 충주에서 북한강 합류점에 이르는 사이의 기항지는 다음과 같다.
기항지: 탄금대(충주), 목계, 천포, 흥호, 흥주, 이포, 양근 등
선박의 종류는 일선형(일본·조선식) 돛단배이며, 적재량은 40석 적재 선박이 가장 많고, 30석, 50석, 25석 적재 선박이 그다음이다.
요컨대 충주 부근은 물산이 풍부하고 이출품이 이입품에 비해 훨씬 크므로, 나루터로 통하는 배후 지역으로의 교통도로 개수 및 농사 개량 등에 의해 향후 이출품이 더욱 증가할 것은 명확하며, 산업의 흥공은 한강의 수운에 의지하는 바가 매우 크다. 만약 항선 장애 요인을 제거한다면 충주 산업의 발전을 촉진할 것이 분명하다.
