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第二十三章 人格
忠州郡守 崔志煥 君 本籍 慶尚南道山清郡
忠州郡守崔志煥君は苦味走りたる好男子である、複雑なる感情の交錯を示せる眼光に五分の虚隙なく、閉ぢたる唇に果断の色ほの見へ、眉宇の間に一脈の爭氣不斷に動く。 而かも美しく櫛の目を入れたる頭髪は其の眉その眼、その唇の聯かばかりの噲を掩ふて一見瀟洒なる壯年紳士的好典型たるを思はしむ。 彼は明治十五年五月慶尚南道山清郡山清面玉東里に生れ幼より學を好み最も國語に精通し二十六歲にして既に韓國政府の警部となり三十三歲の時には當時の警務部長たりし前憲兵司令官前田少將の知遇を受け內地留學の鵬志を拋てねばならぬ迄に餘儀なくされ、大正六年には平壤の警視に、同九年に忠北警察部に轉じ、翌十年九月出でて陰城郡守となり永同郡守となり昭和三年十二月に忠州郡守となる、其の間、彼の治績は一々枚擧し難しと雖、就中、郡廳舍の新築、農學校の創設、普
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通學校校舍の新築、養鷄組合の起案等は現任庶務主任南外七君と共に郡民に謳歌されつつある一大巧績である。 彼が今忠州官界に於いて宇田忠州署長、石川全州專賣支局收納課長と並び稱せられて壯年紳士の三輻對と讚へらるものは蓋し尋常凡介の士に非ざるを證するものであらふ、彼は今參與官候補の一人として各方面より指目されつつある所以も亦こゝにあらずんばあらず、彼の幸運は愈々これから開け龍躍鳳舞の境に入らんとす其の行く所幸ひ大なりと云ふべし。
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忠州警察署長 宇田亮太郎 君 本籍 廣島縣沼隈郡
君は武勇の士として溫乎の士として一般に知られてゐる、而して其の衣食住の如きも極めて儉約質素にして毫も輕佻浮薄の跡なく、誠に古人の梯を秘存する思ひあり、邈莫、君は忠州に尙武會を組織して自ら會長に任じ忠州署構內に現代的色彩を帶びたる道場を創建し其の落成式を擧ぐ、巍峩たる此の道場こそ君が忠州に残して行く、意柱たり將又玉髓の響れでなければならぬ。
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して事に躊躇する事なく、只唯々として事を爲し事を遂ぐ、如何なる場所に出るとも紙片に其の腹藏を記して限局的に談ずる事なく、何事も簡單明瞭にして而かも知略を綿密にす。 此れ全く君の性格を代表する一言である元より武を愛するものは文に疎く、文を愛するものは武に疎しと云ふ、然れども君のみは文武兼備の彬ずたるを愧ぢない、君は大正二年に憲兵として渡鮮而して忠北の邊境に身を入れて勇奮刻苦、僅か十有幾年の中に今日の成巧を收めたる一大動因なりと云はねばならぬ、君は昭和五年四月に報恩署より忠州に來り其の間、左も腐心したるは地方青年の敎化と國粹精神の鼓吹だ、今や君は地方新聞の論壇に何時も大書特筆される如く昇進榮進の噂に滿ち〜てゐる。君ありて始めて忠州は春風駘蕩、天下正に太平なりと云はねばならぬ。唯來るべき日の青天旭日を今より鶴首して待たんのみ。
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忠州邑會議員 劉錫禧 君 本籍 忠州
忠州には政論の客が極めて多い、而かも頭腦の明晰なる點に於て、金錢に清潔なる點に於て堅忍
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不撓の政論を掩藏せる點に於て恐らく何人も劉錫禧君の右出づるものはゐないであらふ、君は誠に廉直なる潔士だ。 されご君は全然邑政或ひは道政を度外視して校幌河畔の茅屋に閉雲野鶴を伴侶とし風月を吟詠して餘生を娛まん程衰へたる野心を有せず、否君の野心は正に火よりも熾んなるものがある、若しそれ風雲の會に際せば一躍權柄を把握するの意氣燃ゆるが如しと雖、惜まねばならぬ彼は頭腦の明晰なる丈け果斷に乏しく金錢に清潔なる丈社交界の不潔なる空氣になつまず、廉直なる秀士であるだけ一身の榮達を後にして社稷の興廢を前にす。 蓋し政論の客として尤も必要なるは度量の潤大襟度の灑落なるにある、而して更に傍人より見て時に頭腦の不透明なるが如く、判斷力遲鈍なるが如く思はしむる程の一味の呆氣不鮮明なる態度を必要とす、彼れ劉錫禧君は此の點に於いて餘りに銳角である、錐の穗は當るものを悉く碎き去るべしと雖以て海 glance の如く總てを包含するを得ない、これ卽ち彼が掩藏せる政論を實行に行ふべからず、碌々として現に忠州邑會議員として低級なる位置に止まる可く餘儀なくせられつつある所以である 彼劉君の京城に遊學したるは明治四十年の頃であつた、此の意味を以つて彼は忠州に於いては正に時代の先覺者であり且又新知識の急鋒である、そして彼が雙頰の紅未だ消へざりし時は仁川の期
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米市場等を徘徊し乍ら一擲千金の夢を貪るに餘念が無かつた時もあつたときく。其の後は有りと有らゆる人生の波瀾曲折を経て漸く一安以て具堵し而して司法代書業從事しつつ其の能腕を四方に揮ひつつある、就中、昭和五年に忠州公立普通學校後援會長に推選されてからは、同校々舍の腐朽頹廢を憂ひて此れが新築案を樹立すると共に同校講堂建築費として僅か數箇月の中に一萬圓餘の寄附を受けて千餘の在籍兒童敎養に專念してゐるが如きは全く彼たらずんば到底期し得られる可き事でなかつたのである。
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忠州麪子組合理事 金在皓 君 本籍 清州
渺たる掌大の忠州にも上下三千載の歴史はある。熱々人格を推して以つて忠州なる世の興亡治亂の跡を尋ねる上に顯官より下は庶民に至る迄、何等の紳士道なく、理想人格の現れとして我等が見る可きものは一つもないと言つてよい、只忠州に籍をおいて、長敬者に阿附媚從してその庇護を
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賴み姑息の小康に安心じて自得愉悅したるに過ぎなかつたのだ。 それが現在に於いては勿論、時代の趨勢と云ふ點から見てもごうせ當然ではあらふが、ありし昔のそれに比すれば隨分趣きを異にして來たから、一寸考ふるに芳しい餘りの動向ではあるまい乎、見よ、忠州紳士を代表する各界の紳と士を?…… 就中、今茲に述ぶる所の忠州麪子組合理事金在皓君は利慾の爭ひを忌む事大、朋黨を構へて眩を決し牙を鳴らして眼前寸尺の事を追ふては只一人遑々たる忠州人の一大惡癖を痛罵する事亦大にして一見雅々たる志操家の様にも見受けられる。君は嘗つて幼少の頃東都に遊びて早稻田大學文科を終へ爾來、忠清北道各郡の郡屬を歷任し大正十二年に報恩郡守に拔擢されて其の行政手腕を十二分に發揮してみた秀才だ。平南に緣故ありて平南に出向し而して平南の郡行政を司る事二年有半、きく所によれば、北鮮に於いても其の雅々たる君の志操を讚へないものは殆んどゐないと言はれてゐる。 君は常に往訪の記者に斯く語る『人間が萬一アナクレオニズムの權化めいた人格者になつては駄目だ。何故なれば飄々として風と共に揚がり翩々として定まる所がないからだ、だから、二十世紀以後の人は先づ何よりも識見と節操がなければならない云々』と。
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誠に然り。君こそ今一麪子組合の理事と云ふ尾官末職に腰を據へて晏如たる態度をとるも其の志す所は雲外の青天でなければ何であらふ。池中の一傑益々修德成功せられん事を記者は祝福するのみ。
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公州地方法院忠州支廳 檢事 上田實 君
よく紙上に於いて名檢事上田と云ふ事を見るが此れ全く紙評通りの名檢事だ。其の風丰如何にも優秀、而して溫雅端麗、よく青年の前途を打開せしめて國家の礎石と爲す。 聞けば君は日蓮宗の篤崇家として名門の人であると云ふ。流石は家門ある君だけに職を執る事謹嚴、殆んど天賦の檢察官なるかの如くに思はれる。よく世人は言ふ、司法官は世態人情に通ぜずと然れ共君は明らかに其の例外の一人だ、純情一片神の如き態度を以て見るも將又言々句々皆淚を呑む樣な生來の性格を以て見るも、君は餘程の波瀾に觸れて或は折れ或は暢びて來たのに違ひはない。斯くあればこそ君はよく法律其のものを活かして使つてゐるのだ。則ち寬嚴其の節に合する故に如何なる獰猛の兇徒も君の前に立てば知らず識らずの間に衷心の悔悟を餘儀なくされると言ふのだ。
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思ふに君は夕陽滄江の上に暮れて孤舟早泊するに宜なる道理の國士ではあるまい乎。
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忠清北道評議員 李春雄 君 本籍 慶北 大邱
現に忠清北道評議員として將又大田電氣株式會社相談役として中鮮各地の民に其の德望を謳歌されてゐる君は清礎なる財界の巨頭にして兼ねて該博深遠なる機略なり、人に接しては極めて快々、然れども濫りに語るを好みます、始めて咳を交へたる者と雖。その溫雅なる風丰と謙讓なる社交的態度に魅せられて自ら欽仰の念を起こさない者はない。されごこは外觀より一瞥したる半面にして其の家庭にあるや短慮性急、家人を叱咤して憤怒の舌火を浴せ、時には或は沈鬱懊惱、連日に亘りて一語をも吐かざる等の奇癖ありときく。 嘗つては失意不遇にして 內地に螢屏せんが爲めに、大邱なる君の故鄕より飄然煙りの如くに消へ鄕に歸らざる事十有幾年であるが、其の間鑽つて解けざる愁眉を以つてよく學を修め業を習ひて錦を纏ふて鄕に歸つたのだ、爾來、君は忠州に居を定め而して恒産を爲し恒心を爲すに餘念なかり
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しが今を去る十餘年前に始めて忠州北門外の一隅に商鋪を構へて百貨を賣り而して今日に於いては忠州邑屈指の百萬長者と迄言はれてゐる。 さらばとて君は決して富を知つて貧を知らざる世の冷情者ではない、よく萬燈を提げて廢園の寒腸を照らす溫宥的人格者なんだ。 故に君は今や衆望一身に集まり其の赴くところは何處を問はず萬花皆競ひ咲く如く天下繚爛感を深うせしめるものがある。誠に君の收めつつある成功の餘滴は大且又高と云はねばならぬ、尙ほ君は過般忠州公立普通學校校舍の狹隘を感じて千餘の在籍兒童が暮鷄の如くに迷ふ際これを救ふ一策にで同校講堂建築費として率先三千圓の寄附を申込んで來た等は最も有名なる一挿話である。
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忠州公立農業學校長 丸山浪吉 君 本籍 長野縣
忠州彈琴街路に宏然として建てゐる校舍あれが多年忠州郡民の胸を騷がせてゐた農業學校である、何故郡民は騷いた乎、それは此の農業學校を設立すべく諸方面に向けて忠州邑有意の士が熱血を注
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いでゐた時、他方面よりは異論紛議共に湧き來りて甲論乙駁を事として郡民同志が黨を組んで闘つてゐたからだ、其の當時に於ける有意の士の顔觸れを擧ぐれば、曰く原口一二、曰く尹政求、曰く劉錫禧、曰く大石長作、曰く孫海成、曰く韓仁錫、曰く鈴木政一君等で、其の奇々怪々たる各自の論法劃策は今尙ほ忘れ難きものがある、此の靈動恍惚恰かも醉へるが如き一時代を蹴つて、恰かも曉天の星の如き態度のまゝに、此の農業學校初代の校長として赴任して來たのは誰れであつた乎、それは目下、現代の世相に鑑當し併行して流俗の間に聲高々と謳はれつつある丸山浪吉君その人だ。 君は藥繭栽培法の權威として全國を通じての有名なる學者であるだけ其の說く所は平にして難難にして平の一感を抱かしむるのみならず。其の言々句々は家々として聞く者の肺腑を貫く故に百餘の敎へ子よりは慈父の如くに仰がれ二萬四千の市民よりは長兄の如くに敬慕されてゐる。 此の點のみが死學を說く腐儒とは大いに其の趣きを異にしてゐる所以だ、君の持つ趣味は惟散策一つのみである。流石實業敎育界に於ける巨星である丈に林間或は田園を徜佯するを好むのも道理は道理の様に思はれるがよく家族打連れて忠州邑處岩池のほとりを訪ふて清爽なる空氣を吸ふては歸つて行く。 おもふに、君は山中風雪の夜、春色茅廬に在るを知る國士ではなかからふ乎、然り國士、永遠に幸
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ひ大なれ。
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忠清北道評議員 原口一二 君 本籍 佐賀縣唐津
忠北一道九十萬道民を睥睨してゐる原口一二君は佐賀縣が生める忠州の恩人であり且又忠北の恩人である。あれこれ公職にありて地方開發にいそしめる所は今更ら摘記する必要をも感じない、再論すれば浸潤の讚に陷りて體を缺くるの虞れがあるからである。 君は明治四十年に渡鮮、京城全經て忠州敦明學校の敎員として忠州に來り敎鞭を執る事二年にして實業界に入りて今日に至る、爾來奮闘約二十年にして今日に見る巨萬の富と園林の譽れを瀛ち得たのである。 其の語る所は常に嗚々然として而かも纏々縷々、要を得たるに於いて或ひは徹底したるに於いて、道評議員會の席上のみならず、如何なる會合に於いても君の右に出る者はない。 それだけ君は雄辯家であり、それだけ君は智謀百出の士だ。單に辯に於いてのみならず、事を爲
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すに當つても、剛毅果斷にして、自己所信の域を離れず、徹頭徹尾飽くを知らざる勇士たり將又策士なのだ。其の聲望は今正に隆々、天下を壓するの槪ありて郡民等しく、君を敬慕しないものは一人もない。
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忠州水利組合長 鈴木政一 君 本籍 山梨縣北巨摩郡
雍々たる端容、敬愛すべき鈴木政一君は明治Forty年六月に渡鮮、直ちに忠州に居を定め而して農事經營の傍ら米穀商を營みつつ、着々其の地盤を築き上げた、有優の逸士である。 君は爾來、忠州水利組合長として、將又忠州消防組頭として、忠清北道農會特別議員として、或ひは面協議員として或ひは道評議員として委曲獻身の勞を惜しまなかつた中堅人物である。君一度會合に立ちて咆哮すれば、山雨正に臻らんとして風樓に滿つる時と雖、四周ただ快々と晴れ渡り、滿堂の聽衆皆醉いたる如くにもなり、或ひは醒めたる如くにもなる、これが君の人物たるゆゑんの所以でなければ何であらふ。君は忠州に於いて一大成功を收めてゐるだけ忠州に於ける鮮人青年を愛
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する事恰かも、獅子が其の子を千仭の崖に落すが如く。よく惡を去らしめ又よく善を取らしむ。 誠に君の志氣は高明且つ大なり云はねばならぬ。今を去る二年前よりは忠州に於ける無賴青年の徒輩を集めてこれを一團となし而して名付けけてこれを勤勞實行會と云ひ、而して田地を讓借して改良農事を勵行せしめてゐるが如きは肉親の親が其の子を思ふ心より尙ほ深きものがある。 切切たる社會奉仕の念が大旦又高なればこそ斯く迄も偉大たり得るのだ。今や君は原口一二君と共に忠州內地人中の靑龍全對する白龍と謳はれてゐる由以の物も、蓋し茲に存するものと思惟して止まないのである。
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現全州專賣支局收納課長 前京城專賣支局忠州出張所長 石川芳三郎 君
忠清北道忠州郡一圓外槐山郡陰城郡提川郡四郡三十餘箇面の黃色煙草耕作者を督勵するに常に量目主義、或は品質向上主義にて前後六箇年間に亘りよく忠州の特産物である黃色煙草を培つてみた石川芳三郎君……君は今忠州全去りて全州なる雲外の地にゐるも、其の篤實なる人格と相俟つて幾
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多の功を奏してみた、その片影を思ひて、現に六十餘名の職員が其の舊芳を唱へつつある事を以つてみれば。君の偉大さが如何程であつたか窺はれるのである。 君は內地に於ても前後十三年間、朝鮮に於ても前後十三年間、始終一貫して、此の煙草の畑で堅實なる奉公をしてゐたから、其の人の人たる所以が窺はれではない乎。 正に君は肅々たる濟士たり將又馳公たるの面目を愧ぢぬ、濟士よく自重加嚴せられよ。
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京城專賣支局 忠州出張所長 茂木四郎 君
前任所長佐貫君の後を追ふて榮轉し來つた茂木四郎君は如才なき社交家だ、そして黃色煙草の耕作を指導するに量目主義を以てせず、多數耕作者の福利增進主義を以て、自ら鍬も取れば算盤もとると云つた樣な、如何にも碎けた明るい一人の紳士だ、尙君は文にも上、談にも上て今や六百餘の耕作者に敬慕されてゐる、それはそれだけ人が出來てゐる譯だ。 宜なる哉、君が斯くなる迄には言語に立てない其の何物かがあったであらふ、
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峻噲金玉の如き忠州邑長秋山文雄君は寡言默行の潔士として二萬四千の市民に敬慕されてゐる。 君は嘗つて東都に於いて官海生活を爲す事二十箇星霜、大正九年四月忠北なる一把の地に緣故ありて渡鮮直ちに忠清北道土木課長次席に任じ、一廉の土木専門家として山國九十萬道民爲めに土木行政を掌りて、幾多の功を奏し、而して間もなく土木課長に昇進した灼灼たる人である。 事を爲すに當りては常に一歩を他に讓るも其の腹中には千里的明見旣に樹ちて、萬雷今將に起らんとするも直ほ、自若泰然として、すべてを一笑に附する度胸誠に洒落だ、よく酒を飲み、よく人に對して時局を語る。昭和四年十二月に。忠州邑民の懇望を容れて、忠州指定面長となりて赴任し爾來、種種の忠州繁榮策を講じつつあり人或は言ふ。此の邑長に依つて製絲工場を創設せんとか、或は高等普通學校を創設せんとか、或は道立病院を設置せんとか、とて流言を吐く者もあるが、其の機到來して始めて一歩を投じ一言を吐く君の事なれば、容易に徒勞を弄する事を嗜まないのも理の當然であると云はねばならぬ。
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忠州忠一醫院長 東京醫學士 鄭奭熙 君
忠州杏林中に於ける紅一點として忠州郡民にはおろか忠北五郡の民に其の德を謳はれてゐる君は今三十前後の─靑年であるが其の身を持つこと鳥が雋翼を以て飛ぶ如く其の心を練ること長白の天限に似たるものありてそれ正に時代の尖端を走る愛らしい寵兒であり且又最も雄々しい俊秀の士でもある。 君は本年四月忠州面が朝鮮地方制度改正に伴ひ當然邑に昇格するや君は二萬四千の生靈が目下農村經濟の沒落に喘ぎつつあることを痛歎して大聲疾呼して之が救濟策を講ずべく忠州邑有憂の諸氏と共に東奔西走せしが知己に勸められて邑會議員立候補の檄を八域に飛ばせしに邑民は一呼百諾、讚全決しても君全當選せしめたものである。 爾後君は其の閑にありて往訪の記者に曰く『天地間の一太極、一陰一陽、均賦の資を以て互に義扶、義助すべき秋は來れり』と、此れが君の人格そのものを如實に表現する一句でなく何であらふ故に君が懸命擲身して働いた結果は直ちに忠州の享有する結果であり邑民の享有する結果であると
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言つてもよい。 人生一單身と生れて來たからには誰しも皆斯くあり度いものだ、よく田舍の藪醫者には有得ることであるが、所謂醫海の自由なる空氣に觸れて徒らに豪奢を貪り而して、慘鼻の極なるサーフを遇しない、然れ共君だけにはそれが絕對無。再論すればそれが君の君たる所以だ。豈偉異に非ずや、君たるもの益々發奮努力せよ。
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第二十四章 紫玉黃玉白玉一束
忠州郡庶務主任 南外七 君
何でも持つて來い、吾輩がや義て見せると云つた樣な豪膽なる萬能肌の傑物で正に伐柯丁々たる氣槪を持つのみならず。文にも能、談にも能、事にも能、物にも能と云つた樣な時代的快男だ。
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忠州郡財務主任 三好源一 君
一見して數學者の樣に見える君は亦一見して大銀行家の樣にも見受けられる礎礎たる紳士で、最も義理に篤く其の頭案は如何にも明鏡止水の如きものがある。常に杲々たる明を抱いて人に對するので君と會するものは誰しも尊崇の念を起こさないものはない。
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忠清北道第二土木管區主事 末繼要作 君
君は果斷性に富みたの全以て事を成すに優柔不斷に陷る事なく勇往邁進して眼下無人の態度をとる所之れ正に大和男子の眞面目を躍如たらしめてゐる。一介の潛龍である。好漢よく奮闘せられよ。
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忠州邑副邑長 趙命奎 君
君の腦裡には常に明星煌々として輝き事を爲すに當つては常に孜々營々、これ君が忠州を代表する一介のピヂネスマンとして諸方面に謳はるゆゑんのものである。よく上に事へよく中に和しく下を愛して邑政の第一頁を麗飾せんとす。邑民の信頼も亦大なるものがある。
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忠州公立普通學校長 田中善右衛門 君
君は溫厚篤實の士にして山中扶蘇の如く、尙ほ荷華の芳香を放つ所これ正に近代じみた吉士たり終日乾々惕々として敎壇の上に立つ事二十餘年間、今や忠北道內に於ける初等敎育家の好典型として一般に敬慕されつつある。
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忠州公立普通學校敎務主任 金雄起 君
君は稀に見る秀才である。知略に富み且又研究蘊蓄に深く、大膽を構へて萬人を睥睨するも尙ほ油然として憚らざる所あり、よく一身を賭して旁旁と育英に餘念なき所が靑年紳士として將又模範敎員として邑民に仰がるゝ所以である。
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忠州金融組合理事 新井武夫 君
君は修養家である。故に陶陶たる駟介に氣をやる事なく、常に其の思ふべき事を思ひ、其の爲すべき事を爲し、其の視るべき所を視る、君子タイプな人である、平常其の閑暇にありては花卉の栽培に餘念なし、よく會よく談する人である。
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牧溪金融組合理事 孫德鳳 君
君は京都帝大の出身、漸らく君の鄕里なる大邱にて敎鞭を執りしたが拔擢されて忠北に來り而して金融組合聯合會に勤めしたが昭和五年牧溪金融組合理事に補せらる。よく地方の農村靑年を鞭撻して勤農氣風を養成し地方發展の爲めに一身を犧牲にす。今や牧溪地方民の信頼彌高し、其の前途誠に幸大だ。
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殖産銀行忠州支店長 井村定省 君
奇麗な男だ。よく地方の四民を相手に爲すだけの事を爲し而して爲さしめるだけの事を爲さしめるから、君は一般に信望せられてゐるのだ。また不惑の坂にありて元氣旺盛、一見明るき正しき強き感じを與へてくれる。故に君の人格は今や市民欽慕の的になつてゐる。
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殖産銀行忠州支店長代理 秋滿清治 君
君は高遠なる理想を持つ襟度誠に大なる事務家だ。山川の美に醉ふては想を練り而して世を探輪す、偶々野球もやり蹴球もやり庭球もやる。槪論すれば君は新しい男の一人だ。一般に赤門出だけあると言はれてゐる。君の前途は誠に洋々卓々たるものである。
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忠州警察署警務主任 寺尾卯平 君
快々唯々、其の中を爲す君は忠北にゐて警察官たる事前後十五年。よく上に事へよく下を愛す過般宇田署長と共に尙武會を組織して其の會館を建設す。今や郡民の衆望を兩肩に擔ひて斯腕を十二分に發揮せんとしつつあり、其の抱負亦大にして前途尙ほ高明だ。
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忠州警察署高等主任 深田袈裟吉 君
太白山雲天を蔽ふ中に隱れて朝鮮獨立を口にしてゐた金用才の名も彌高いが彼れを驚して警察官の使命を全ふしたる我が平石君の名も、全く怒濤澎湃する樣だ本年鎭川署より轉任し來り近藤喜代治君と共に高等警察手腕を弄する事、全く池中蛟龍の如し、忠州の無事泰平意味なしとせざる所以實に茲にある。
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忠州警察署司法主任 朴準顯 君
君こそ忠北警察界に於ける活字引だ。何しろ前後二十餘年間を始終一貫して奉公してゐたから其の籠れる赤誠は推して以て知るべしだ。今や警視昇進或は郡守昇進説もある。よく柳田德二君と共に司法警察事務の萬全を期してゐる、至つて溫厚篤實な人であるのみならず、剛毅果斷にして沈着性を具してゐる所、一寸稀に見る粘液性的人だ。今や衆望一身に集まりて榮耀朝暾の如し。好漢益々奔鬪せられん事を。
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司法代書人 牧田公夫 君
君は前忠北保安課長故牧田之夫氏の令息で嘗つて大田中學を優秀なる成績で卒業し歸つては父君の代書を補助して孜々として倦まなかつた一人の健氣な靑年だ。頭腦至つて明析、而かも其の考ふる所は溫健着實にして毫も輕兆浮薄の跡なく立身揚名の酣夢に違がない。燕雀焉んぞ大鵬を知るも
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のと言はん哉、君は今後長するにつれて天々地々を振賑せずにはおかない池中の一傑と云ふても敢て過言ではあるまい。若き友よ、健氣な友よ、伸びよ雨後のポペラが伸びるが如くに。
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忠州邑會議員 水野彌吉 君
忠州邑會議員水野彌吉君は忠州の吳服王である、恭儉己を持せるものと云へば必らず市民は君を指ささずにはおかないであらふ。君は多年忠州面議學議等の公職にありて忠州農産商工業の開發に急しめる所多く、現に原口田鈴木鹽田と共に四大好々爺と迄云われてゐる。
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前忠州郵便局長 矢野祥助 君
忠州郵便局長矢野祥助君は朝鮮事情精通者として一般に知られてゐる、君は今を去る二十五年年前朝鮮に來りて通信事務に携はつてみたと云ふ終始一貫、精勵恪勤の士だ、其の間京城振出しに平壤
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義州、大田、釜山、鳥致院、義城、淸州等を経て忠州に來たものである、全鮮中に於ける郵便局長としては相當古參ではあるがまだ更春の坂にありて元氣旺盛、其の語る所は維々綬々として盡きる所がない。全くこれ君子の風斗だ。
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篤農家 塩田禎介 君
今を去る二十餘年前より忠州に來り而して鮮童を自邸に集めては學用品を供給したり或は敎鞭をとりて日鮮同化に盡粹せる所、其の功、其の德は今尙ほ記者の胸裡を往き來するものがある。君は全く慈善の爲めに生きてゐるサンタークロース爺だ。素より性質は至つて溫厚篤實である。一見羊を養ふ牧者の樣にも見受けられる。則ち忠州邑に生れた鮮人靑年にとつては忘れ難い一人の恩人だ。忠州邑民は決して君を忘れてはならぬ。君亦忠州邑民を忘れてはならぬ。而して昭和聖代に生れた今日の僥倖を共に頒ち共に酬ゆる可く一層奮發努力せねばならぬ。
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龍山里公立普通學校長 入江覺 君
君は義理一片で當る少壯有爲の敎育家だ。嘗つて忠北に來り永同、忠州、沃川等の各學校を経て今日に至りしものである。部下の敎員をよく拔導して其の研究部門を與へてゐる爲めに同校訓導蔣漢旭君の如きは先年朝鮮美術展覽會にも入選するが出來たと云ふ、一度同校を訪れば、校内の空氣如何にも緊張して精々しい氣氣に打たれる事がある。益々健鬪せられよ。
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忠州郡老隱面長 申昌均 君
朝鮮に於ける田舍の面長と云へば老いぼれた一人のでくの棒と思ふのは刻下正に時代錯誤の一端だ。それを雄辯に物語る忠州郡老隱面長申昌均君を見よ、將又前槐山面長柳會秀君を見よ、然らざれば現忠州邑副邑長趙命奎君を見よ君等は全く新進氣銳の士にして脫足刻苦を物ともせずに晝々夜々斯民の爲めに動いてゐる。何れ他の機會を得て之れを特筆大書する事にしよう。
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忠州邑會議員 崔翼煥 君
ともすると近代靑年にして豪奢を貪り贅言を弄して假幕の中に其の一生を安樂に暮さんとする弊害なきにしもあらざる今日、よく勤勞氣風を持つて家業に勵み。よく一身を賭して社會に貢獻せんとする君の樣な邑會議員を持つ忠州邑民は全くこれ一つの誇りだ。君は實に偉い。質實剛健にして親には有らん限りの孝養を盡し、友には有らん限りの信を盡す。而して其の身を修め其の家を齊し其の國を治めて天下を平にせんとす。爲んど君賢人吉士の中に入れざるを得ない哉。
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忠州邑會議員 陰在亨 君
君は忠州土地の靑年だ。幼にして嚴父に死に別れ獨り其の片母に事へつゝよく弟君在貞君を輔けて螢囊をとりて書を讀んでゐたのだ。今や君は忠州邑會議員として邑民の爲めに天下を論す豈之れ超凡の士たらざるを得んや。よく出藍の譽れと云ふ。宜なる哉である。
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第二十五章 丹陽を觀る
丹陽は記者が敎職一年の生活を試みてゐた第二の故鄕だ、今回約十年振でありし昔の故山に對しありし昔の舊友に邂逅す、誠に懷舊の情坐ろに起りてそれこそ全く感慨無量だ老ひは逝き幼は長ず此れを氣にして世の無常を嘆ずる者豈記人一人のみ謂はんかな。 一九三二、九月 丹陽羽化橋の畔りにて 李英生
丹陽郡は忠州邑の東端を占め、山嶽重疊、平野に乏しい、小白山脈以つて慶北と江原道に隣接し大華山、國望峯、兜率峯等は全山皆鬱蒼たる森林をなしてゐる。今を去る二年前金用才と云ふ兇賊が小白山の險峻によつて三道震駭した。彼は身長六尺、五人力を有し一夜に長驅三十里を疾走すると云ふ時代風の快漢であつた、朝鮮の獨立を標榜して手に二挺のモーゼル拳銃を捨てなかつた。と云ふドンキホーテであつた、當時丹陽警察署の警部補であり目下忠州警察署の高等主任を務めてゐる深田袈裟吉君は前後九晝夜、豪雨と饑餓とたゝかひ峻坂險路を突破して漸く此の兇賊を壹したのである、山に據つた兇賊討伐─いかにも山の國らしい話ではない乎。 此の丹陽には有名な丹陽八景がありて丹陽をして忠北の金剛の名を四方に馳せてゐる、八景は丹陽郡の中部を流れる漢江の上流にあり、其の流域は奇岩巨峯相連り、漢江の淸流その間を曲折し造
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詣は奇巧を擅にしてゐる、昔儒學の泰斗李退溪がこの郡の郡守となり吟賞を縱にしてその勝たる所以を世に顯著ならしめたものである。 邑内は上坊中坊下坊の三里に依つて成り盂盆の中の蓮花の如く此の中に一條の橋ありこれを羽化橋と云ふ、夜九時頃三々五々打ち連れて濤々と怒鳴る漢江の流れを聞くもよし、橋下に安々孤坐して釣を投げるもよし丹陽は正に佳遊の夢を貪り乍ら修養を積むに最適の地たらずんばあらず、官公署の主なるものは先づ郡廳、警察署、登記所、金融組合、郵便所、普通學校、小學校、面事務所等ありて、丹陽特殊の文化を醸成しつつあり、就中、郡守張勳君は、圓滿皎々の士にして淸廉潔白新任署長早田喜八君は質實剛健の士にして血あり淚ある剛柔兼備の士、民間には原田武男、池達三、李相台君等ありて丹陽地方の發展なら何でも骨身を惜しまない。 今や丹陽も馬に乘つて馬子唄を歌ひ乍ら旅行する事は昔しの夢で、丹陽忠州間丹陽堤川間、丹陽體泉間丹陽寧越間何處へでも自動車を驅つて自由に出入りするが出來得るのみならず、目下慶北店村より丹陽忠州を綱ぎ而して京鏡道の安城に通ぜんとする中央鐵道の敷設計劃が着々進行されてゐるから近い將來に於ける丹陽は一聲の汽笛に和して産業に民情に敎育に文化にあらゆる萬面の糧食を自由呑吐し得べき事も無難の事に屬するものと言はねばならぬ。
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尚ほ、漢江の水力を利用して電氣を起こし而して全鮮各都市に向つて其の所要電力を配給すべく朝鮮電氣事業調査會にて種々劃策を續らしつつあるから、これ亦近い將來には全く不夜城と化すべき事も疑ひを容れざる所である、尚ほ丹陽は世人の共に知る如く山間僻阪の地ではあるけれど、丹陽に住める人は誰しも皆、泣いて入つて亦泣いて出なかつた人は恐らくゐないであらう。これ程、丹陽郡に於ける巍幾たる山河は情實的であるのだ。
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第二十六章 名士の寄稿論文
新聞の使命に就いて
忠州郡守 崔 志 煥
新聞の使用に就ては吾輩が今更ら彼れ是れ謂ふ迄もない事ではあるが唯單に最も近い社會相を有りのまゝに實寫して吾人に精神的食量を供給して呉れるのみでは大衆は滿足しなくなつて來て居る 吾輩はその上に去就に迷つて居る社會人を指導して眞に木鐸たる使命に生きると同時に世に周知せられざる百般の事象を確實に然かも迅速に報導する事に今日の新聞人の天職感ずるものである。此の意味に於て李英君は略々理想に近い新聞人として推薦出來る靑年であると吾輩は信じて居る。
忠州に腰を據えて一本のペンを縱橫に揮ひ忠州を普く江湖に紹介した効果に對しては何人と雖も苟くも忠州に在住する人士は相當の敬意を表さな人はあるまい。
這回その通信中忠州に關係あるスクラップを取り纏めて小冊子として上梓すると云ふ事を聞いて吾輩は雙手を擧げて賛意を表した一人である。と謂ふのは新聞はその日その日でフイルムの廻轉する様に眼前を通過して了ふのに反して一旦冊子として編纂されると書庫に永く保存され不斷手に
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して此れを讀む事が出來亦新聞と異つた興味と實益を得へ得られるからである。
其の内容に至つては見る人の觀察に任せるとして大きな批判は避けたいが然し忠州の現況と沿革に就て槪念をキヤツチするのに手頃の冊子である事は斷言出來る。此の意味で土地に住む人及忠州を知らんとする人に本書を推奨するものである。
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我が忠州邑の現狀ご將來
忠州邑長 秋 山 文 雄
我邑は東西三里南北二里管内一巡里程十一里十九町面積五方里九二五町洞里の數二十二戶數四千三百八十九戶人口二萬二千四百十七人道廳所在地外の地としては可なり大なる邑制施行地なり元來忠州の土地たるや隨分古くより相當の都邑として全鮮に知られ李朝世祖莊憲王の三十一年(今より年前)には既に忠淸道を此地に置き爾來鎭管維新等府や縣の名稱に一時昇降格は四百八十ありたりとするも後又忠州と云ふ州名に復活せられたる點より考察するも當時我が忠州は今日以上人口を抱擁して京城以南にて大都會に屬して活躍したのが窺われるのである其の前後牧使や營將を置き相當殷盛を持續して來たりしことは舊記に徵しても明かである降つて明治四十一年五月觀察道
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が淸州に移轉して以來今日迄郡廳所在地として着々發展の道程を辿りつつある而して本邑は大正三年四月南邊北邊の二面を合して邑内面となり同六年九月忠州面改正せられ同十二年四月に指定面となり本年四月邑面制實施に依りて忠州邑と改稱せられたのである。忠州は往時より京城釜山間交通の要衝に方り北は漢江本流を控へ本道の首都として明治四十一年五月迄觀察道の所在地たりしは上述せる通りなるが往年京釜線鐵道の開通に依つて交通上に變化を來たし遂に交通不便と云ふ理由の下に古い歴史のある觀察道を遂に淸州に移轉せられるに至つたもので今より考ふれば誠に遺憾な次第である故に忠州住民は一時悲觀の状態に陷りしも大正元年黃色煙草の試作地となり其の特指定耕作地となりて今や耕作區域は本郡及隣接三郡に亘りて耕作面積一千六百餘町步に及び附近又鑛産物に富み大正五六年の頃は「タングステン」の産地として鑛業界に著名となつたのである其の他金や鐵等の鑛物も亦甚だ多く漸く天の時倒りたる昭和三年十二月忠北線鐵道の延長に依りて地の利は正に昔日の忠州となる實に本邑は忠北五郡の中心地たるのみならず堤川、丹陽及江原道寧越旌善平昌等の咽喉として水路は漢江本流を利用して遠く龍山仁川に至るべく陸路一等道路は京城釜山線二等道路は淸州鳥致院經て公州至る路線と堤川經て寧越平昌旋善江陵諸郡に通ずるもの及び丹陽經て慶尙北道豊基安東盈德の諸郡に尙ほ一線は牧溪經て江原道原州金化に至る各路線と
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を有し何れも我が忠州を中心とせざるはなし而して自動車は各等道路を利用して淸州鳥致院京城店村寧越原州等の多方面に頻繁に疾走往復して居る上述の如く實に四通八達の地として此外忠北線鐵道開通に依りて京釜本線と連絡し運輸交通上には誠に中分のない位である。又戶數人口の如きも逐年増加し商工業も相當繁榮を示して居る一般農産物も年々増加し移出入も逐次増加し順調に進展して居る今より二十年前の夫れと比較すると總ての點に於て格段の進步發達と云わねばならぬ又益々發達の道程を辿りつつあるのである本邑民の九割は農家にして住民は内鮮人を問わず資性純朴且つ溫良である兩班儒生も相當多く氣象が上品である故に邑民一般が溫良であるかを輕舉妄動する樣な憂も毫もない一昨年以來全鮮各地に彌漫せる學生騷擾の如きも我が忠州には皆無であつた又最近の萬寶山事件に伴ふ鮮支人軋轢等の不祥事を見ざりし點より察するも本邑民の氣象が窺われるのである。本邑に於ける教育は當局の指導宜しきと教育者の努力に依つて着々伸展して十數年前と比較すると眞に隔世の感がある。殊に近時邑民各自が教育に目醒めて來つつあるのは太だ萬足に思ふ此の調子で進めは本邑の百般に對する事が發達向上するは疑なしと思わる一例に過ぎざるが忠州公立普通學校の改増築の如き長い間の特別賦課の負擔を要し其の上同校講堂建築寄附の如き相當巨額な出費を要するも能く諒解し此の不況深刻時に於て些の泣言をも聽かす小學校々舍増築工事寄附金亦
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然りである是等は畢競教育者及學政に攜わる當局の眞劍な態度に因ると邑民各自が如何に子弟教育上に自覺しつつあるか窺知せられ喜びに堪へぬ所である。以上述べたる本邑の概況より觀て本邑の將來を案すれば我が忠州は會ては觀察道の所在地であり又忠淸道の首都として經古より諸事發達し兎に角他に知られたる所謂著名の土地柄なれば本邑は少くとも本邑と事情其の他の狀態を同じくする他の邑面に劣らぬ樣將來穩健なる進步發達を遂げなければならぬ是れが我が忠州邑民の義務にして權利なりと思ふ其の權利義務を履行するには各種各般の施設や問題も亦多種多様ならんも吾人の望む所は自治觀念の發達が優先であつて欲しい此の自治觀念が充分に具つて此の目的を達すれば他は自然に目的を達するのである此の目的を達せんには今日以上邑民各自が大に發奮して勤勞を尙び精神を向上して第一に我が家を富ませ同時に我が邑の富を増進しなければならぬ斯くするには邑民各自が今後益々教育を基礎とし所謂他力本願に依らず自力本願主義依つて精進せねばならぬ又斯くせんには先づ以て邑民各自が大に自覺し各自の職業に向つて格段の努力と奮鬪を要す斯くして初めて我が忠州邑の進步發達を遂げ得られるのと思ふ努力の前には雲散し露消ゆる如く遂には必ず報いられるものなりと確信して疑わず。
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一九五一年の忠州
南 外 七
忠州は忠淸北道主要の都市であつて戶數三千、人口一萬四千人あり忠北線鳥致院より江原道東海岸に通ずる鐵道と京城より大邱に至る中央鐵道の交叉する所であります。道路も慶北江原京城の三道に通ずので非常に股盛を極めて居ります。
官廳學校病院水道電氣等都市の施設完備し殊に朝鮮唯一の黃色煙草の大生産地である關係上專賣局の煙草製造工場があります。郡是製絲工場も繭の生産高増加に伴ひ漸次釜數を増加し本年は千二百釜を据え忠州を中心とする六萬石の繭を消化して居ります。
忠州より江原道に向ふ鐵道中特に目立つ驛は牧杏驛であります。此處は漢江水力電氣會社第一發電所の所在地であります。同會社資本金五千萬圓をもつて南鮮六道の電動力を供給する使命を以つて昭和十五年の設立係り農業工業及家庭に對して極端なる電化を試みつつありまして非常に安價な電力を供給して居りますから如何なる山間僻地に於ても今や電燈を見ない所はありません。
忠北線忠州驛から慢歩して忠州を一瞥して見ると右に忠州公園があり權現森から大神宮の大鳥居
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が隱顯して自づと襟を正さしむるものがある此の鳥居は二十數年前廣島縣人會(當時は僅々廿名以内)の同志によつて建立されたもので當時の會長水野彌吉氏──デパートミヅノの先代が非常に骨折つたと云ふエピソードは古老によつて傳へられて居る。
左側は純然たる工場地帶になつて居るが一キロワツト時僅かに一錢と云ふ東洋無二の安價な電力のお陰で茲四五年前から凄まじい勢ひで工業が勃發したものらしい。
稍々進むと馬頭觀音の立像がありそこからY字狀に彈琴臺へ通ずる道路があるゝこれから彈琴臺迄の約半里は學校街を爲して居る農學校、高普校、中學校、高女校、のうち農學校は最も古い歴史と特色を持つて居る。現に五百の卒業生が忠淸北道は勿論全鮮の中堅營業家となり did 非常な勢力を以つて農作物の多收穫を試み着々成功して居る。今日反當玄米二石五斗の收穫は何等不思議でないが農學校の出來た三〇年頃の總督府の統計では一石以内持つたと云ふから丸山校長の敎化の偉大さには大に敬意を表さねばならない体に丸山校長は本年五月五日の廿年在職祝賀會に七十歳的高齡を以つて猶且つ壯者を凌ぐ元氣をもつて卒業生を大喝したと云ふ事は全鮮的にセンセイションを起した敎育美談であり亦此の校長を有する事は忠州の誇りでなくて何であらう。
廻り右をして忠州邑の入口に幅十五間長さ三十間ネオンサインを以つて大きく大手町と書いた橋
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を渡れば忠州の歡樂境に入る。
中央劇場を始め中原座、塔坪俱樂部、民衆座などの大小常設館左測に並び和洋樂のコーラス耳をつんざくばかり快速の吸收を競つて居るが右側は警察署に至る約三町殆んど軒並みにカフェー。ビヤホール。レストラン。のコロニーである。そこには戀の歡樂もあるだらう悲戀に泣く自暴の巢窟もあるだらう。大手町から右に入る道路が三本ある第一は私娼窟第二は商店街第三は忠州銀座の名のある本町通りである。此處には二階三階の壯麗な一流商店及ホテル、ヒノマルなご軒を並べ居る。デパート水野と株式會社起確商社が兩端に座し原口商事會社、櫻井工作所、村上洋服問屋、牛田製菓會社、吉村菓子チェーンストア忠北總代理店、阿部金物卸問屋、等何れもショウウィンドウに娟を競つて居る。
官廳の主なるものは道廳地方法院專賣局支局稅務署郡廳警察署郵便局などであるが殘念なことには專門學校が一つもないので原口翁七十歳に垂んとする老驅を以つて此れが設立に目下奔走中である 邑民は原口翁が三十年以來道會議員として忠州のため日夜奔走しつつあることに絕大の信頼と敬意を拂つて居ることは勿論であるが聞く所によると近く實現の運となつて居るらしい。
龍山里の二大工場即ち中央麴子製造所と忠州煙草製造工場との中間が忠州の遊廓地帶になつて居
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るが此處には内鮮藝娼妓約二百名居るそうである。
今や邑民は府制の布かれんことを熱望し機會ある毎にそれが運動に狂奔して居る。
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右は昭和二十五年度發行の『忠州ガイド』と云ふ冊子から拔萃した me のである。
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敎 育 雜 感 一 二 題
前忠州普校長 末 廣 國 司
一、制服制帽
私は大正八年五月に初めて朝鮮に參りましたが、其の當時官吏は金筋入りの制服制帽と帶劍でガチャ/\歩いたものでした。これは至極威嚴もあり締りのあつた樣でした。夏休みに私はそれを着て威張つて歸鄕したのです。内地の方は警察の署長さんと間違えて荷車に乗つて橫着して居る人が飛び降りて馬形き立てたり、田舍のお婆さんが膚をぬいだ姿を見られて逃げ出したりした滑稽な事あつた。此の制服は九月から改正された、其の趣旨は官吏が威壓的な姿ではないかぬ、下人民
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と親しみある態度でなければいふのであつた。尙ほ外の理由としては不斷着だとか、他所行きの着物さては和服だ朝鮮服と二重三手の生活は堪へられない、姿や貌で政治や敎育はするものでない、こんな風でもかもはぬかつた樣なデモクラチックな思想・あつた樣でした。そうすると敎育界等では人格敎育といふ立場から制服がなければいかぬ等と度々校長會議等には問題が出た。それも其の筈だ敎員の制服が全く變つて活動寫眞の辯士かチャップリン的な服を着る者・あつた。帽子・鳥打中折平緣等でこれでは何處かで混亂するかと思はれる樣でしたが、自覺のある敎育家は盛春時代の時的好奇心であつた、そんな如何がはしい服装をした敎育家は見ぬ樣になつたのは眞に結構な事である。
二、敎育獎勵の矛盾
普通學校の出來た最初は三月の學年末になると『新學年の準備として全職員は毎日の樣に入學勸誘に洞里を歩いた。それに警察の力をかりて半ば強制的に引張り出すといふ風であつた』大正八年に參りました私には先輩から聞かされた。最う其の頃は兒童入學は餘程の田舍を除いては心配はなかつたのだが毎年二月の末から部落に入學勸誘の講演に出た。あの舊式な幻燈機械を持つて學校から二里も三里も田舍に出かけて月のない晩廣庭に部落の人達區長さんの命令で集合してもらつ
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講演をやつたのであつた。
大正十二三年頃は入學志願者が各地とも多かつた。募集人員の三四倍の應募者で各學校は其の選拔に困つて、口述試験をやる人相を見る。年齢で制限をする、結婚者は入れぬ家庭を調べて選ぶとかいつた樣な事で兎に角三分の一二は入學難であつた。『或父兄は納税の切符を三四年分校長 seat の前に出して、私は只一人の此の子學校に入れたい爲めに今日迄他人の子を敎える爲めの學校費を一度も不納いたしません、今年やつと入學されていたゞきたいのになぜ入學が出來ませんか、私には一人しか子はありません、これが入學出來ねば私は毎年の税金は皆人の爲ですと。切符をかぢつて事務室で泣いて訴えた者もあつた』其の後學校の數も増して一面一校の實現する時代となつた。それによつて困つて居るのは學校經費の問題で就中授業料によつて學校經費の大部分を支へて居る事であらふ。普通學校の授業料は高い、授業料が出來ぬ爲に入學が出來ぬ者も多くなつた。國民敎育の基礎敎育である初等敎育を、授業料で行きつまらせるといふ事は一面一校主義も入學勸誘も其處に大なる矛盾が生ずる樣である。
三、卒業生の活動
現下半島の總ての方面に活動して居る人々は殆んど合併後の敎育によつて育てられた方であると
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いつてよい。即ち半島の伸展は此の新しい敎育を受けた人々に依つてよりよく日に改正されて行くのである。敎育者のやつて居る事を兎や角批難する人があるが、皮相の觀察で敎育の成績の分るものではない。敎育者も亦一年か二年やつて其の効果を認めて貰はらうとするのは、あまりに速効吹聽的で傾聽すべき價値あるものではない。敎育の事業は施した作用が十年二十年後に於ける卒業生の活動振にあると思ふ。
朝鮮の人は普通學校位卒業すると官吏になりたがるとか月給取りを目的とするとか、勞働をきらふとかいはれるが、合併當時は官吏にも採用せられ大正十年頃までは月給取に成れて居たのであるから希望する人も無理でなく勞働をせんでもよかつた。其の後卒業生が多くなつて現今は高等普通學校卒業生も就職口がないといふ樣になつた。そこで卒業生も事に社會から敎えられて來て自ら自らを開拓する道を講ずる樣になつた。近頃卒業生の狀況を調べて見ると地方にあるものは隨分眞面目に働いて家事をやつて居るものもある。其の内には勤勞の美談もある篤行の良風もある。兎に角敎育を受けたものはそれ丈け地方で一等質を拔いて居る事は確かである。之れは此の人々の十年二十年前の先生の敎育の中に現在の活動の萌芽が織り込まれてあつたからである。近頃はあまりに効を急ぎすぎる發表の爲め、獎勵の爲め自己名譽の爲めが多い、爲めにする敎育では成就せない、眞
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の敎育を施し得たら放つた樣でも成る卒業生活動狀況は十年二十年前の先生の敎育主義が彷彿として窺はれる。
我が忠州
忠州邑副邑長 趙命奎
我が忠州は昔時忠清左道觀察使を置き本道の首位都市として行政、警察、保安、司法、徵税、衛生、敎育、勸業の百般行政を行ひたる處にして其の文化的施設も往時は燦然たるものあり然るに一旦觀察使を淸州に置くこととなりたる以來地方の行政の德化並に文化的施設悉く漸次衰頹し前日の面影は殆んど消滅となりたる感ある處其後地方人士大に地方の爲めに意を用ひ市區改正を行ひ各等の道路を官の施設方針と相俟つて改修を爲し一面行政官廳の外司法官廳たる法院支廳や事業官廳たる專賣局出張所や金融機關たる金融組合殖産銀行支店を設置するに至り漸次地方都市の外觀を形成しつつ來たる處先年又も電氣會社を設置し照明事業を行ひたる結果本邑は不夜城に變て於茲面目を一新するに至れり
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本邑の地勢は東南方面は鷄足山や南山の山岳起臥屈伏し林相鬱蒼して恰も山水屛風を羅列したるが如く西北方面は達川平野と接續し七百步の良番沃土比列し漢江は東部奥地より發源し古戰場たる彈琴臺を抱き京城南海に幅注す水運の便あり春夏秋の時節には風帆雨檣常に連絡絶せずして乘客貨物の運輸を爲し來たるに先年忠北線鐵道の開通に依り多少水運の便を利用するもの減する至りたるもの一面奥地の物資を運輸する爲め尙水運は盛なり
達川江は南部奥地より發源して彈琴臺に至り漢江に注流す船舶の航行は稀少なれども魚族の繁殖は地方産物の一助と云ふべし
昔時の道路は奥地又は京淸方面の通路にて人馬の通行には差支なしと雖車類の通行は殆と出來得ざる所大正二年以後京釜線一等道路や忠原間淸江間忠盈間二等道路及三等道路が開通するに至るや車類の交通便利となり交通上四通八達の地區となりたり
鐵道は昭和三年朝鮮鐵道株式會社經營忠北線が開通するや各地の移入出物資の集散旅客の輸送至極便利となり地方の大動脈となりたり
敎育機關としては尋常高等小學校、普通學校、農業學校、幼稚園等ありて有爲人材の養成農村智識の普及に運びつつあり
p196
米作の進步發達を期する爲め忠州大加味兩水利組合を設置し其の灌漑面積忠州水利組合三百九十四町大加味水利組合六十二町に達し何れも堤堰貯水にして毎年旱害を知らずして産米の増收を計りつつあり
黄色葉煙草は忠州特産物として其の栽培面積廣大にして耕作方法の改善進步に依り耕作者の收益増加は勿論國産特殊品として名聲を擧げつつあるは之又忠州の譽と云ふべし
敍上の通り地勢天然的に良好にして文化的施設も漸次完滿を期しつつあり地方人士内鮮人共忠州發展の爲め専力を注ぎ平和團樂の裏に於て地方の發展を計畫しつつあるを以つて將來大忠州の建設は疑ひなし
吾人は一層地方の爲め延いては邦家の爲め奮闘する覺悟を以て健實の步を進めつつあり
私の感想錄より
金雄起
李英君のこの壯圖を祝して緒言にかへる、
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君は藥城に生れて中原に育ち、忠州に學びて又亦忠州に働いてゐる、この世の木鐸となりて。
君は三間の草の庵に小さきテーブルと一巻の詩集とを前にして、時に詩を詠み、時に酒を飲む君は學を好み、酒を愛し、又月を愛する「但願長醉不願醒」とか「但願長照金樽裡」と詠んだ、李白を、追慕して止まないのである、まるで李白そのままの李英君である、それこそ詩人ならでは味ひ得ない風流を持してゐる、李白去りて後の人、「李白騎鯨飛上天、江南風月閑多年」と。江南の風月のためにその寂寞たるを惜んだのであるが、今を去る千六百餘年前のその李白が、今我が藥城に李英となつて再現しやうとは、誰か夢見たものがあらうか。
李白は支那の南國の水鄕なる采石江に舟を泛べて、酒を飲んでは月を眺め、月を眺めては詩を詠み、詩を詠んでは又酒を飲んだのである、君は中原京古址なる藥城湖(虎岩堤)に小舟を泛べて、或は琴仙千勒の遊びし彈琴臺に臨み、時には榮へし昔を物語る南山線の麓にある草屋にて、「青天有月來幾時」我問停盃一問之」と、まるで李白そのままに。實に君は月の主人公であり又詩的主人公である。
人は云ふ「李英君は詩人なり」と。然り。「君は藝術家なり」と。然り。「君は音樂家なり」と、然り。「君はスポーツマンなり」と、然り。君は父「曲肱而枕之、樂亦在其中」といふ君子タイプまで具備してゐる實に稀に見る才子であり、且風流の士である。
p198
君と僕とは、これこそ竹馬の友である、同じ地に生れ、同じ窓に學び、嘗つては又同じ英育の道を辿つたこともある、今は進む道こそ違へごも、同じく此の地に居て些小なりとも、我を育ててくれたこの忠州のためにといふ覺悟を持つてゐるのである。
君は茲に忠州發展誌を發刊して、忠州を知らんとする人士のためには勿論、これで忠州の忠州たる歴史が、暗夜に燭を得た如く、明かになつて、我が忠州のために貢献するところが勘くないことを喜ぶのである。
竹馬の友である李君のこの壯圖に對しては滿腔の敬意を表し、且つ中心からの祝意を表したいばかりに、自分の貧弱さをも顧みずに貴重なる君の幾頁かを借りたのである。
每日毎時間、あの天眞爛漫なる子供達と暮してゐると、色色敎へられること、考へさせられることが多々ある、この數へられたこと、考へさせられたことを、私の感想錄に記しておくことに努めて來た。純眞なる彼らをして、如何にせば少しも傷けることなく、純眞そのままに導き得るものかと、時には行きつまつて悩み、時には意を得て喜びして常に「兒童」と「敎育」「學校」「家庭」といふ風なことを念頭から忘れない樣に努めて來た、そしてあの可愛い子供達を持つて居
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られる方々に機會があれば申したいことが多くあつた。然らばその一、二項を書拔く事にする
一 近時教育は餘程の發展を見てゐる、しかしそれはおもに學校教育であつて、家庭教育、社會教育はいまだ滿足が出來ない。 學校教育に於いては、近時兒童の心性を根據として、教育の目的、手段を考究されてゐる、飜つて、家庭を觀察するときは甚だ心細い、大抵は兩親が、現在の自己の心理を根本としてゐる 勿論中には望ましい聲も聞える。 「なるべくのんびりさせたい」、と。併し愛に溺れた場合が多い、「身體だけは健康に成長させたい」、と。徃徃指導の能力なきものゝ申譯の場合が多くはないだらうか。「上級の學校には是非入れてやりたい」、と。之も、兒童そのものを考へない單なる名譽心にかられてゐる場合自發現する。
家庭教育の必要は、單に兒童の二重生活を恐怖するばかりではない。家庭は人間本性の發現の場所であるからである。此の家庭教育が眞に濃厚になつて來れば學校教育の効果は累加されて行くべき筈である家庭教育不振のために、學校教育が甚しく阻害されてゐる事は私共が常に痛感してゐる
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處である。或人が兒童は乘客で、學校は人力車である敎師は先引であり、父兄は後押しであると。千古の名言ではなからうか。かくてこそ眞の教育の徹底を期する事が出來る實に教育は、敎師と父兄との協同に待たねばならぬ。家庭とは、學問的に、論理的に究明するならば頗る難解であらうけれどもこれを通俗的に、常識的に考察すれば。家庭とは親子兄弟が睦じく、協同して生活してゐる場所である。橋の下、又は破れかかった小屋其處に、水入らずに、親子夫婦が精神的に融合して寢食を共にしてゐるならばそれは立派な家庭が作られてゐるものと言つてもよからう。 彼の如く、只親子とバカチと鍋釜だけが我物の生活でも。貴い家庭だと彼は自信してゐるに違ひない。之と反對に、金殿玉樓、出づれば自動事あり、入りては酒肴の山海珍味ありとも、室の空氣が、精神的に冷却してゐるならば、それは家庭と云ふにはあまりに淋しいではないか。 兒童教育に最も大切な舞臺たる家庭こそは何處までも親子兄弟打揃つて笑顔の内、精神的、理想的結合であつて、一の中樞によつて統一されたものでありたい。敢て金殿玉樓を羨望するに足りない。
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一體小兒は家庭の花である、父母の幹枝である小兒は それに咲きし爛漫たる美化である、そして眞、善、美域全揮してゐる。如何に無愛敬な、鬚親爺でも赤子の天使の樣な微笑に接しては、顔面筋の微動しないものはない。一日の心勞も草花によつて勢せられる場合が勘くない。況して將來大なる創造を爲すべき人間の、いき/\した萠芽に接して快感を起さぬものはあるまい。實に小兒は、天眞爛漫なる無邪氣なる、一種の魔術者であると言つてよからう。實に小兒は家庭をして美化せしめる聖化せしむる大なる偉力の所有者である。
然るに、此の美花がいつの間にか萎縮して行くことである。將來敎師を困らし人から指さへれる强情な、無情な、喧嘩好きな、無性な兒童が醸成される事である。
cameこれ言ふ迄もなく、無定見な、非具案的な、非敎育的な動作や、習慣が、段々と性の奥底まで喰ひ持つて、いつ迄も美しかるべき家庭の色が、次第に浸蝕されて行つた結果ではないだらうか。
四
敎育者とは、月額四十圓頂いて、腰辨で靑くなって、聲をからして叫つてゐる我ばかりでありますまい。眞の敎育者とは我とは勿論、父母兄弟、一般民衆、尙擴大しては山川草木凡て、一として敎育者たらざるものはない。往々に「敎育は學校に一任する」と言ふ聲をきく。それも單なる
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知識の授與を意味することが多い、人間の本性をして益々向上せしむるため、學力を養ふ爲めには知識が必要であろう。しかし、知識のみ多く得たからと言つても、それが敎育の目的に到達したものとは言へないであらう。又「家庭に於いて學校敎育擁護の爲に知識の注入」にのみ努力する家庭もある。これも感心した家庭敎育とは言へない。兎に角お互が一日も早くこの家庭敎育に目醒めぬば朝鮮の敎育は行詰まるばかりである。今後に於ける、敎育改造の根本問題は、家庭敎育の改造にあることを思ふ。
五
それではこの家庭敎育改造を雙肩に擔ふべき人は誰か。その主任者はこうしても家庭の主婦であらねばならぬ。ここに女子敎育の普及の一日も早からんことを切望するものである。今日解放の運動が頗る盛んになつた、地に婦人の思想を高め、地位の向上をはかる事はこれ亦慶賀にたへない、それには虛榮心に藉られることなく眞の婦人の本性に立つて眞に表現すべきことに着眼し、健實に、周到に、眞面目に、理想的、自覺的でありたい。
六
最後に努力すべきは、家庭生活の特徴發揮をする事であらう。家庭は、敎育の根本的場所であ
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り。國家興廢の第一步の場所である。而して家庭は學校の企及し得ざる長所を有してゐる。之を意識し之全發揮する事に努力する事はやがて家庭敎育の改造になるのではなかろうか。その努力すべき點を列記すれば
一、家庭に於ては父母は眞の愛を以て敎育し、子女は自己の全生命をあげて父母を敬する處、實に敬愛の融合、二にして一體となり、眞に血流の交感する處、靈と靈との感應する處、之は外に見出す事ができない家庭敎育はあくまで此美點全發揮することに努力せねばならぬと思ふ。
二、父母を尊敬することは、既に先天的に刻まれてゐる、其處に服從が生ずる。其仰慕と畏敬。服從と犧牲とは、是亦他に見出すことが出来ない美點である。この點全發揮さす事が肝要ではないからうか、然るに往々兩親を侮蔑し反抗し、家庭に分裂の生ずる事は、家庭に於て父母が眞實表現を爲さざるによると思ふのである。
三、家庭敎育の尤も徹底することは、兒童の特徴を知りて養育し永き間共に起臥し共に飲食し、艱苦を共にするによる、故に家庭敎育に於いては、各自の特性に應じたなる敎育を施し、長を生活により精神的交際により良感化を與へねばならぬ。
單に不良の方面のみを觀察し、叱責し、以て萎縮せしめ、又長者の缺點短所を觀察するの機會を
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與へ、威嚴を損する樣な事があつてはならぬ。
1
從來敎師は隨分と重い荷を脊負はされてゐる、暑い時に暑いと言ふ事さへ不道徳な人間の様に解釋されてゐる。さうゆう様では敎師の資格の缺けてゐるものだとされてゐる。敎師は兒童の模範として奉つて吳れる所は結構だが、敎師は凡てが完全圓滿何一つ缺點のない道徳的品性を具へてゐなければならないといふことは餘りにも苦しい事ではないか。
敎師も止むを得ない。兒童に示すに吾の如くあれ、吾の如く爲せ、吾を見微へと努力してゐる、敎師の價値を定めるには、敎師その人の言行が、直に兒童の標準となるか否かによつて決定しようとしてゐる。缺點の多い人間「缺點の何一つもない神の如く表はれよ」と言ふのであるからその努力は一通りでない、結局缺點の一つもない人間になり得ないため、兒童に缺點を見せまいとする事に努力するより外仕方がないではないか。敎師の第一の努力は、自己の缺點をかくすと言ふ事が全力をあけた仕事となるのを如何せん。
3
老練な敎師とは、上塗や虛僞に上手なものへの讃辭である、けれ共人間生活をじつと考え見れ
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ば如何に敎師だと言つても自然の領域から脱する事は出来ない、神でない限り完全な圓滿な道徳的品性の所有者とはなれない缺點はザラに持つてゐる、ただ完成へと努力に努力はしてゐる。缺點がザラにある者に向つて、完全なれと要求される、之應じやうと敎師なるものは努める、其處に虛僞に走らざるを得ない悲哀がある。敎師が自己の内部を省察して、その空虛貧弱なるに驚き、且つ恐怖してそこを無難に又は糊塗的に過ごさうと努力してゐる、之が今の敎師氣質ではなからうか、吾は之を憎んで止まない me である。
4
玆に吾人は叫ぶ一般敎師の生活觀を立て替へるやう。敎師が我の如くなれとは、一面から考へれば極く低き理想を示すことになるのではないからうか、ひいては兒童の自我の成長を妨ぐる事となるのではないからうか、何處までも敎師自己は伸びつゝある一過程を示すものでなければならぬと思ふ。
こういふ人生の行き方には上塗りの必要もなく、又失望する事もないと思ふ、安心して自己の眞實の生活を兒童の前に提供することが出来ると思ふ。こう考へて見ると「眞に自己が人間として一切を善化せんとしての生活に努力してゐる人」ならば如何に缺點の多い敎師であつても適當な敎師
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と言つてよい譯である。
只人前を繕ふて自己の缺點をかくさうとする事に努力してゐる人ならば、如何に形式が善に見えても、眞の人間生活をしてゐるものでなく、又敎師としては、尤も不適當なその醜を極めてゐると言ひたいのである。
人生は、一面から見れば煩悶と苦惱である、又一面から見れば歡喜と法悅とである、この中に立つ自己は不完全と缺陷に充ちたものであることを思ふ。
苦惱をして歡喜に代へるのが人生の尤もよい行き方ではあるまいか、自己の不完全をより完全にするのが人生の步みである、苦惱があればこそ、不完全があればこそ、自己の内部に於ける、活き心力、伸びる力が活躍するのであると思ふ、これが私の生活觀であり、且つ一般敎師の生活觀もうありたいのである。
──苦惱から生れた貧弱なる敎師の生活觀の一端を。(をはり)
一九三二、一一、三〇、 中原京古址にて
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第二十七章 忠北道勢の烏瞰
地 誌
本道は朝鮮の略々中央に位置し東は慶尙北道西は忠淸南道南は慶尙北道及全羅北道北は江原道及京畿道と境しその面積は四百八十方里で概して山脈周匝土地高燥ではあるが漢江及錦江の沿岸には隨所に水平野發達し淸州及忠州附近には比較的大なる平野を有してゐる。
本道の戶數は一五七、三二六戶(內內地人二、一四四戶)人口は 八三二、〇六六人(內內地人七、七三五人)であつて主なる都邑は淸州及忠州でその人口は前者は一二、六一四人(內內地人二、八三二人)後者は一九、三四五人(內內地人九八二)である。
交 通
一、道 路
管內には一等道路二線、二等道路五線、三等道路三十一線あり之が改修狀況は左の通りで改修區間は何れも自動車を運轉して居る。
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等級道路の延長改修距離未改修距離延長に對する改修步合專用距離兼用距離延 長一一四四、二八一米-一四四、二八一米一一〇、五三五米三三、七四六米七割七分弱二二三〇、三二〇米二六、三七六米二五六、六九七米二〇一、八二九米五四、八六八米七割九分弱三六五五、一三三米二五九、九七九米九一五、一二二米四七九、三二八米一七四、八〇五米六割一分弱計一、〇二六、七三四米一三一、三五五米一、一八一、〇一七米七九一、六九二米三二七、〇五一米六割七分弱
二、河 川
管內の認定河川中、直轄河川が三線、その流路二百五十九軒、地方河川が一三線、その流路 二百五十一軒、他に準用河川で流路約八軒以上のもの三百四線此の蒙利面積は約一萬七千町步(全面積の二割五分)である現在挿航の便のあるものは漢江の一線であつて五個所の浦津があり奧地産の運出に便數くない。
三、鐵 道
管內の鐵道は道の南部三郡を通過する四十四哩六、停車場七個所を有する朝鮮鐵道株式會社の忠北線(鳥致院忠州間)の二線がある、忠北線中淸安忠州間二十九哩四は昭和三年十二月二十五日開通し管內中部地帶の交通を一新した。
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四、社會事業敎育
一、優良部落
昭和二年度以來道內各郡に二箇所宛の優良部落を設置し 産業の開發民風の改善等地方改良の目的を以て獎勵指導し來たるに其の成績見るべきものの有るに鑑み、昭和四年度於て更に 部落數を増加して地方改良の實績舉揚に努めつつある。
二、社會事業
(イ)窮民診療
貧困にして治療の資力なき窮民救濟の爲め、道立醫院に施療患者を收容して居るが、その成績顯著なるものがある、尙巡回診療班を組織して道內の貧民の醫療をなすと共に、一般民の診療をなしつつある。
(ロ)淸州博仁會
本會は大正八年四月淸州郡內有志を以て會員とし、恩賜救恤金地方費補助金等に依て經營し、郡內に於ける行旅病人收容施療、又は極貧者救助事業に盡し相當成績を舉げつつあり、特に畏くも宮內省より事業獎勵の御趣旨を以て數度御下賜金があつた。
(ハ)忠北有隣會
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免囚保護を目的として設立したるもので、出監者に對し衣服旅費の給與職業の紹介授産事業等をなし、成績の見るべきもの勘くない。
(ニ)勤農共濟組合
本道に於ける小農生産資金貸付事業は昭和三年度に於ては、本事業創始初年度の關係上趣旨の徹底と組合員の指導訓練に主力を注ぎ、道內各郡に三十組合を設置し、組合員九一七人對し資金總數一萬八千二百六十圓を貸付したるに、其の成績大體に於て良好であるのに徵し。昭和四年度に於ては更に九五組合を増置することにした。
(ホ)講演懇談會
通俗講演會を開催すると共に、小學校普通學校を中心とする保護懇談會、部落懇談會を開催して地方民の開發に資しつつあり。
(ヘ)中堅靑年講習會及內地觀察團
道內各郡より二名乃至五名の農村中堅靑年を選拔し、農村開發に即したる實科講習會を開催して地方農村の振興を策すると共に一面優良部落の中心人物を選擇して、內地先進地を觀察せしめ地方改良に資しつつあり。
(ト)月報の發刊
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昭和三年四月より忠北月報を發行し道內官公署民間に無償配付し、敎化宣傳の資に充てゝあり (チ)活動寫眞 道民をして文化の惠澤に浴せしめ、且つ生活改善民風の改良を計る目的を以て、地方課所屬活動寫眞班をして順次巡回映寫を實行して居る。 (リ)簡易圖書館 道民の知德向上の目的で簡易圖書館を置き隨意に閱覽せしめ、且つ巡回文庫を設けて道內に之を回覽せしめて居る。
敎 育
一、內地人敎育
小學校は現在學校數十四、學級數十二、兒童數千百四十名あり、その內鮮人兒童が二十名居る、高等女學校は大正十二年四月淸州に設置され、四年制であつて學級數四生徒數百八十名あり、その內鮮人生徒四十名である、
二、朝鮮人敎育
公立普通學校は現在學校數七十二、學級數三百四十 一、兒童數一萬八千名であつて、その內內地人
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兒童が十四名居る此の外私立普通學校が三校あつて學級數九、兒童數三百三十名を收容して居る。
高等普通學校は淸州にあり、五年制で學級數十生徒數四百五十名であつて、內地人生徒は四十名である。
公立農業學校は淸州にあり、五年制であつて學級數五生徒數二百四十名、內地人生徒が十名居る、此の外に農業補習學校二あり、學級數三生徒數八十名である、以上の諸學校に通學し能はざるものに對し、簡易なる初等敎育を施す爲めに私設の書堂竝私設學術講習會を設け、國語、算術、朝鮮語、漢文等を敎授して居る、現在書堂數八百、其の兒童數六千八百名、學術講習會數八、其の生徒數六百名である。
社 寺 宗 敎
一、神社及神祠
內地人の集團する所には神社又は神祠を設立してあり、現在其の數十四個所天照大神を奉祀し崇敬の誠を效して居る。
二、宗 敎
內地佛教寺院二、布敎所九、朝鮮佛教寺刹一、其の末寺三十五僧尼二百三十名を算して居る。其
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の他天道敎、侍天敎等の宗派あり、布敎所七十一、信徒四千人を有して居る、尙基督敎、布敎所九十九信徒數が八千三百人に及んで居る。
農 業
本道耕地面積は番七〇、三七三町歩田八八、四九八町歩計一五八、八七一町歩で農家戶數八一三六、二一九戶其の人口七二七、四二五人總戶數對する農家の割合は八割六分五厘に當る。
一、米 作
總生産高七十萬石であつて錦種が大半を占め、道外に移出せらるゝもの年二十萬石以上に達し、就中朝鮮中仁川、群山、釜山、三港と取引せらるゝもの、最も多く近年一部は內地阪神地方と直取引を開始するに至り、米の聲價は漸次認めらるゝに至つた最近に於ける作付、生産、移出の趨勢次表の通りである。
年別總作付面積總生産高優良品種生産高內譯移出總檢查高移出總檢查高錦多摩錦早稱力其 他昭和元年
町
六八,九三七,八
石
六三二,九二四
石
五〇九,七三四
石
二一九,四〇〇
石
五一,〇三六
石
五三,七六三
石
六一,五〇三
石二九,六五五九全 二六八,八〇三,四七三二,九二八六三〇,五六七五〇二,四六〇五三,九五八六六,八七三七二,七六六二二,一〇八一全 三六六,〇九二,一五四一,八四三四八六,三〇二四〇〇,三六一二六,九七四五一,五六三五四,四〇三二六,0000
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二、麥、大豆作
麥は總生産高約六十萬石であつて大麥小麥は「フルツ」及「カリフォルニヤ」種の普及計劃を樹て品種の統一を計ると共に肥料の增施耕種の改善を促しつゝあり大豆は其の生産高の二十萬石に次ぐ道外移出農産物であつて生産の二割は鮮內各地及內地に移出されて居る品種は忠北白、忠北黃其の大半を占め品種の統一耕種法の改善に依り一層優良品の生産に努めつゝあり最近に於ける麥及大豆の趨勢次表の通りである。
年別麥作付面積麥總生産高內 譯 (右)大豆作付面積大豆總生産高大豆移出檢査高大麥小麥裸麥昭和元年
町
八一,0六一,七
石
六0三,六七六
四九二,八八五一〇九,四五五一,四六六三四,三六九二0一,0七三三0,八0八全 二年八一,二三三,八五八六,七七三四七八,九九三一0九,四四三一,三二六三四,一七九三三,四五五三八,三四七全 三年八一,三六六,0四四五,二八三三七三,六一五八0,七七0七五一三三,九五0,五一四八,六四六二五,000
三、棉 花
棉花は本道の風土氣候に適應し收量多く品質優良且紡績價値の高い米國種陸地棉の栽培を獎勵して居る棉花は自家用を除く外全部共同販賣に附して居る尙道內に二個所の繰棉工場があつて、製棉
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せられ紡績の原料として主に大阪方面に移出されて居る。 昭和三年度に於ける總作付反別、生産額價格等を示すと左の通りである。
種別耕作者數作付反別收穫高同上價格陸地棉五0,三二六
町
一一,0二八,一
斤
九,八二六,三五九
圓
一,七六八,七00
在來棉三,九六四二九一,九一,一二七,五七五二0,六000計五四,二九0一二,三二0,0九,九六三,九三四一,七八九,三00
四、煙 草
本道管內に於ける現在煙草の耕作狀況は作付面積四千四百十五町餘步耕作人員十四萬六十五人、納付數量百六十萬二千八百八十五貫一百匁其の價格二百八十四萬六百二十五圓であつて殊に忠州、陰城、槐山の各郡は米國種黃色煙草の耕作に適し重要な物産である。
五、土 地 改 良
本道の番總面積八七一、0四九町五反步でその內灌漑設備を有する面積は四八、一三三、四反步である現在水利組合の設置せられておるものは義林地、明岩堤、蓮堤、忠州、梯岩堤、宮坪、池灘
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里、秋風嶺、大加味、陽山、鯉潭里の十一水利組合で其の總蒙利面積は二千八百四反步總事業費は九十六萬八千二百七十圓に及んで居る。之等各組合の反當平均收量は少きも二石二斗一升六合、多きは四石九斗六升(昭和三年度)に達し其の成績頗る良好である。
六、蠶 業
本道の蠶業は親近著しき進步を遂げ繭質の優良なるは勿論單位面積の産繭額は全鮮中の主位を占めて居る本年度の産繭額は春秋を通じ三萬餘石の見込である産繭の約八割は道內樞要地二十四個所で共同販賣の斡旋をなし各販賣所には大體乾繭裝置が完備して居る昭和三年の蠶業統計は次の通りである。
桑田反別養蠶戶數蠶種掃立數産繭額共同販賣數農家一月當收繭量
町
五,三0九,二
戶
六九,九九六
枚
五六,五二六
石
二七,七二一
石
一八,七九二
合
二0八
七、畜 産
(一) 畜牛
總數六萬一千頭であつて農家百戶當約四十四頭耕地面積二町六反步對し約一頭の割合である而
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して之が改良增殖の方法としては種牡牛の配置、保護料及種付獎勵金の交付を有し更に畜牛救濟事業として斃死牛に對する代牛購人資金の交付或は低利資金による耕牛貸付を行ひ著々其の効を奏して居る。
(二) 養豚
「バークシヤ」種を以て改良することゝし種豚の配付を行ふと共に一面産米地帶の無畜農家に對しては採肥と肥育を目的とする「バークシヤ」種の仔豚を貸付し養豚の獎勵に努めつゝあり現在豚數は四萬九千頭であつて近年著しく増加の趨勢を示して居る。
(三) 養鷄
總數十七萬二千羽內改良種五萬羽であつて從來白色「レグホーン」種名古屋種橫斑「プリマスロック」種「ロードアイランドレッド」種及三河種の五種を獎勵品種と定め之が改良に努めて居る。
林 業
本道に於ける林野は本道全面積の七割三分即ち五十四萬八百九十六町步餘を占め然も漢江及錦江の大河川の水源をなすが故に之が林野の改善は本道林政上極めて重要事項である茲に於て總督府施
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政以來殖林獎勵保護取締營林監督等林野の復舊に多大の努力を拂ひ養苗造林の獎勵を爲すと共に大正七年以降砂防工事を施行し之が爲め施政當時一年僅かに二十萬本內外の植裁本數が昭和三年には二千五百萬本に激増し又管內の需要すら充すに足らなかった、養苗が最近年々五百有餘萬本を他に搬出し得るやうになり殊に淸州郡芙江に於ける養苗事業は全鮮第一位として汎く世間に知られるゝに至つた尙管內に於ける林相は丹陽、堤川、槐山の一部を除く外概ね幼齡林であつて未だ利用さるゝに至らぬも永同郡上村面に於けるクルミ丹陽郡永春面に於ける平壤栗の如きは特殊の林産物としての價値を有し丹陽郡梅浦面に於けるコノテガシハの天然林は全鮮に見ることの出料ない美林であつて其種子も亦需要が頗る多い。
商 工 業
一、商 業
本道に於ける移入貨物の主なるものは織物、水産物及諸雜貨類であつて移出貨物は農産物及畜産物類を主とし內地及京城、仁川、釜山方面と取引せらる、而して各郡所在地及鐵道沿線の各驛は何れも小都市の形式を成し當時小取引が行はれて居るも一般の取引は管內五十五個所の在來市場に於て
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行はれて居る。
二、工 業
工業は其の原料の乏しい關係上時に見るべきものなきも堤川郡、丹陽郡及忠州郡の一部に於ける紙業は其の起源なく年産額約十八萬餘圓の多額に上り極めて有望なる事業である。尙ほ淸州郡北一面椒井里に天然炭酸水が湧出し朝鐵忠北線內秀驛を去る一里(自動車道路)の地點在て「クリスタル」及「サイダー」を製造して居る。源泉は一日優に六百石を湧出し又水質佳良なる事は東洋唯一と稱せられ一個年二百十萬箱其の價格一千萬圓の生産をなして居る淸州地方は近時順に工業地として發展し來り曩に繰棉工場製釜工場の設立あり更に製絲工場の建設を見又家庭工業として布帛工業及杞柳細工工業等であり何れも道の指導獎勵の下に良好の成績を收めて居る。
金 融
農業を産業の中軸とする本道に於ては農業資金の需要は決して少くない依て之が緩和を図らんがため各地適應の個所に金融組合を設け組合員の多くを中産階級以下の農民に求め之が經濟の助長圖りつゝあり其の數二十九、三面半に一組合の割合である現在組合員二萬四千餘名積立金六十二萬
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二千餘圓貸付金四百萬一千餘圓、預金二百五十十一萬四千餘圓であつて逐年堅實なる發達を遂げつつあり右の外金融機關として銀行支店三無盡會社一がある。
醫 療 機 關
道名病 院醫師限地醫師齒科醫師醫生産婆入齒營業種痘認許員看護婦マン鍼術灸術公立私立忠淸北道一一三七四三一五六二0三七九一六一0七
名 所 舊 蹟
本道には名所舊蹟が勘くない二千年前架せられた淸州石橋千年前の建立に係る淸州の鐵鐘文祿役の古戰場である忠州の彈琴臺山深く幽趣閑雅なる報恩の俗離山は最も著名なものである。
外に槐山郡靑川面華陽洞がある約三百年年前宋時烈が茲に居住したと云ふ所尙漢江流域にある丹陽八景は秀峯奇岩相連り淸流相應じその山水の美はすでに天下の絶景である。
번역문
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제23장 인격(人格)
충주군수 최지환(崔志煥) 군
(본적: 경상남도 산청군)
충주군수 최지환 군은 남성미가 넘치는 미남이다. 복잡한 감정이 교차하는 눈빛은 허점이 없고, 다문 입술에는 과단성 있는 기색이 엿보이며, 눈썹 사이에는 강한 승부욕이 끊임없이 감돈다. 단정하게 빗어 넘긴 머리카락은 그의 눈썹과 눈, 입술의 매력을 더욱 돋보이게 하여 한눈에 보기에도 산뜻하고 멋진 장년 신사의 전형을 떠올리게 한다.
그는 명치 15년(1882년) 5월 경상남도 산청군 산청면 옥동리에서 태어나 어릴 때부터 학문을 좋아하고 특히 국어(日語)에 정통하였다. 26세에 이미 한국정부의 경부가 되었고, 33세 때에는 당시 경무부장이던 전 헌병사령관 마에다(前田) 소장의 지원를 받아 일본 본국 유학의 큰 뜻을 접어야만 했을 정도였다. 대정 6년(1917년)에는 평양의 경시로, 동 9년(1920년)에는 충북 경찰부로 전근하였으며, 이듬해 10년 9월에는 음성군수, 이어 영동군수를 거쳐 소화 3년(1928년) 12월에 충주군수로 취임하였다.
그동안 그의 치적은 일일이 거론하기 어려우나, 그중에서도 군청사의 신축, 농학교의 창설,
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보통학교 교사의 신축, 양계조합의 기안 등은 현 임서무주임 남외칠(南外七) 군과 함께 군민들에게 송덕되고 있는 위대한 공적이다. 그가 지금 충주 관계(官界)에서 우다(宇田) 충주서장, 이시카와(石川) 전주전매지국 수납과장과 함께 일컬어지며 '장년 신사의 삼복쌍(三幅對, 세 쌍의 명작)'이라 찬사를 받는 것은 결코 평범한 인물이 아님을 증명하는 것이다.
그가 지금 참여관 후보의 한 사람으로서 각 방면에서 주목받고 있는 이유도 바로 여기에 있다. 그의 운은 이제 막 열려 '용약봉무(龍躍鳳舞, 용이 뛰고 봉황이 춤춤)'의 경지에 들어서려 하니, 그 앞길에 큰 행운이 있으리라 본다.
* * * *
충주경찰서장 우다 료타로(宇田亮太郎) 군
(본적: 히로시마현 누마쿠마군)
군(君)은 용맹한 장수이자 온화한 인품의 소유자로 일반적으로 알려져 있다. 그의 의식주 또한 극히 절약하고 소박하여 조금도 가볍거나 부박(浮薄)한 구석이 없으니, 참으로 옛사람의 가르침을 간직하고 있는 듯하다. 군은 충주에 상무회(尙武會)를 조직하여 스스로 회장을 맡았으며, 충주경찰서 구내에 현대적 색채를 띤 도장을 창건하고 낙성식을 거행하였다. 우뚝 선 이 도장이야말로 군이 충주에 남겨놓은 든든한 지주이자 옥같이 찬란한 결실이라 해야 할 것이다.
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일에 망설임이 없고, 오직 묵묵히 일을 행하고 완수한다. 어떤 자리에 나아가서도 종이쪽지에 속마음을 적어 제한적으로 말하는 법이 없으며, 무슨 일이든 간단명료하면서도 지략이 치밀하다. 이것이 바로 군의 성격을 대표하는 한마디다.
본래 무(武)를 좋아하는 사람은 문(文)에 서툴고, 문을 좋아하는 사람은 무에 서툴다고 하지만, 君만은 문무를 겸비하여 화려하면서도 실속이 있음에 부끄러움이 없다.
군은 대정 2년(1913년)에 헌병으로 조선에 와서 충북의 변방에 몸을 담고 용맹하게 고통을 견디며 노고를 아끼지 않았으니, 불과 10여 년 만에 오늘날의 성공을 거두게 된 큰 동인이라 하지 않을 수 없다. 君은 소화 5년(1930년) 4월에 보은서에서 충주로 왔으며, 그동안 가장 마음을 쓴 것은 지방 청년의 교화와 국수주의 정신의 고취였다.
이제 군은 지방 신문의 논단에 항상 대서특필되듯 승진과 영전의 소문으로 가득하다. 君이 있음으로 해서 비로소 충주는 봄날처럼 화창하고, 천하가 정녕 태평하다고 해야 할 것이다. 오직 다가올 날의 청천백일을 이제부터 목을 빼고 기다릴 뿐이다.
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충주읍회의원 유석희(劉錫禧) 군
(본적: 충주)
충주에는 정론(政論)을 펼치는 인사들이 매우 많다. 하지만 두뇌가 명석하다는 점, 금전에 청결하다는 점, 견인
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불발의 정론을 가슴에 품고 있다는 점에서 아마 누구도 유석희 군의 우측에 설(능가할) 사람은 없을 것이다. 군은 참으로 청렴하고 정직한 선비다.
그러나 그는 읍정이나 도정을 완전히 도외시하고 교현(校峴) 강변의 초가집에서 구름과 학을 벗 삼아 자연을 읊조리며 여생을 즐길 만큼 쇠락한 야심을 가진 사람은 아니다. 아니, 그의 야심은 정녕 불꽃보다 더 뜨거운 것이 있다. 만약 풍운의 기회를 만난다면 일약 권력을 움켜쥘 기세가 타오르는 듯하지만, 아쉽게도 그는 두뇌가 명석한 만큼 과단성이 부족하고, 금전에 깨끗한 만큼 사회의 불결한 공기에 물들지 못하며, 청렴하고 정직한 뛰어난 선비인 만큼 자신의 출세보다는 국가와 사회의 흥망을 우선시한다.
무릇 정론가로서 가장 필요한 것은 도량이 넓고 마음씨가 소탈한 데 있다. 나아가 남이 보기에 때로는 두뇌가 불투명한 듯, 판단력이 둔한 듯 여겨질 정도의 어수룩하고 불분명한 태도가 필요한 법이다. 하지만 유석희 군은 이 점에서 너무나 예리하다. 송곳의 끝은 부딪히는 모든 것을 부수어 버리지만 바다처럼 모든 것을 포용할 수는 없다. 이것이 바로 그가 품은 정론을 실행에 옮기지 못하고, 멍하니 현재 충주읍회의원이라는 낮은 위치에 머물 수밖에 없는 이유이다.
유 君이 경성에 유학한 것은 명치 40년(1907년) 무렵이었다. 이러한 의미에서 그는 충주에 있어서 참으로 시대의 선각자이자 새로운 지식의 선봉장이다. 그리고 그의 두 뺨에 붉은 기운이 남아있던 시절에는 인천의
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미곡 시장 등을 배회하며 일확천금의 꿈을 좇는 데 여념이 없었던 때도 있었다고 한다. 그 후 온갖 인생의 풍파와 곡절을 겪은 끝에 겨우 안정을 되찾아 사법대서업(현재의 법무사)에 종사하며 그 수완을 사방에 휘두르고 있다.
특히 소화 5년(1930년)에 충주공립보통학교 후원회장으로 추선된 이후에는, 교사의 부식과 퇴락을 우려하여 신축안을 세움과 동시에 동교 강당 건축비로 불과 수개월 만에 1만 엔 여의 기부금을 모아 1천 여 명의 재적 어린이 교육에 전념하고 있는 점 등은 참으로 그가 아니었다면 도저히 기대할 수 없는 일이었다.
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충주면자조합(麪子組合) 이사 김재호(金在皓) 군
(본적: 청주)
손바닥만 한 작은 충주라 할지라도 3천 년의 역사는 있다. 인격을 추앙하여 충주의 흥망성쇠의 자취를 찾다 보면, 고위 관료부터 서민에 이르기까지 어떠한 신사도(紳士道)도 없고, 우리가 이상적인 인격의 현신으로 볼만한 것이 하나도 없다고 해도 과언이 아니다. 단지 충주에 적을 두고, 아첨과 영합으로 권력자의 보호에 의지하며
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임시방편의 안일에 만족하여 스스로 즐거워했을 뿐이었다.
그것이 현재에 이르러서는 물론 시대의 추세라는 점에서 보아도 당연하겠지만, 옛날에 비하면 제법 양상이 달라졌으니 잠시 생각해보면 매우 향기로운 동향이 아니겠는가. 보라, 충주 신사를 대표하는 각계각층의 인물들을.
그중에서도 지금 여기서 기술하는 충주면자조합 이사 김재호 군은 이욕의 싸움을 극도로 싫어하고, 파벌을 지어 으르렁거리며 눈앞의 사사로운 이익을 좇는 충주인들의 큰 악습을 홀로 통렬히 비판하는 일 역시 대단하여, 한눈에 보기에도 고결한 지조를 가진 선비처럼 보인다.
君은 일찍이 어린 시절 에도(도쿄)로 유학하여 와세다대학 문과를 졸업하였고, 이후 충청북도 각 군의 군속을 역임하다가 대정 12년(1923년)에 보은군수로 발탁되어 그 행정 수완을 십분 발휘했던 인재다. 평안남도와 연고가 있어 평남으로 출향하여 평남의 군 행정을 맡아본 지 2년 반, 들리는 바에 의하면 북선(北鮮,북한) 지역에서도 그의 고결한 지조를 찬양하지 않는 사람이 거의 없었다고 한다.
군은 항상 찾아오는 기자에게 이렇게 말하곤 했다. "사람이 만에 하나 아나크레온(쾌락)주의의 권화 같은 인격자가 되어서는 안 된다. 왜냐하면 바람을 따라 나부끼고 정처 없이 흔들리기 때문이다. 그렇기에 20세기 이후의 사람은 무엇보다도 식견과 절조가 있어야 한다."
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참으로 그러하다. 군이야말로 지금 면자조합 이사라는 말단 관직에 자리를 잡고 담담한 태도를 취하고 있으나, 그 뜻하는 바는 구름 너머 푸른 하늘이 아니고 무엇이겠는가. 연못 속의 한 인걸이 더욱 덕을 닦아 성공하기를 기자는 축복할 따름이다.
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공주지방법원 충주지청 검사 우에다 미노루(上田實) 군
자주 신문상에서 '명검사 우에다'라는 문구를 보는데, 이는 참으로 신문 평가 그대로의 명검사다. 그 풍채가 매우 우수하고 온아 단려하여, 청년의 전도를 열어주어 국가의 초석으로 삼게 한다. 들리는 바에 의하면 君은 일련종(日蓮宗)의 독실한 신자이자 명문가 출신이라고 한다. 과연 가문이 뛰어난 만큼 직무를 수행함에 엄정하여, 거의 천부적인 검찰관인 것처럼 느껴진다.
흔히 사람들은 사법관이 세태와 인정에 어둡다고 말하지만, 군은 분명 그 예외 중 한 사람이다. 순정어린 신과 같은 태도로 보나, 한마디 한마디가 모두 눈물을 삼키게 하는 생래의 성품으로 보나, 君은 상당한 풍파를 겪으며 꺾이기도 하고 피어나기도 했음에 틀림없다. 이러하기에 군은 법률 그 자체를 생생하게 살아 움직이게 사용하는 것이다. 즉 엄격함과 관대함이 적절히 조화를 이루므로, 아무리 사나운 흉악범이라도 군 앞에 서면 자신도 모르게 마음속 깊이 회개하게 된다고 한다.
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생각건대 군은 석양이 푸른 강 위에 물들 때 외로운 배를 일찍 대기에 어울리는, 이치를 아는 선비가 아니겠는가.
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충청북도 평議員 이춘웅(李春雄) 군
(본적: 경북 대구)
현재 충청북도 평의원이자 대전전기주식회사 상담역으로서 충청 지역 각지의 주민들에게 그 덕망을 송덕받고 있는 군은 깔끔하고 단정한 재계의 거두이자 깊고 넓은 기략을 지닌 인물이다. 사람을 대할 때는 매우 유쾌하지만 함부로 말하는 것을 좋아하지 않으며, 처음 인사를 나누는 사람일지라도 그의 온아한 풍채와 겸손한 사교적 태도에 반해 스스로 흠모하는 마음을 품지 않는 이가 없다.
그러나 이것은 외관으로 본 단면일 뿐이며, 가정에서는 성미가 급하여 집안 사람들을 호통치며 불같은 화를 쏟아내기도 하고, 때로는 침울하고 번민하여 며칠 동안 한 마디도 내뱉지 않는 등의 기이한 습관이 있다고 한다.
한때는 뜻을 얻지 못하고 불우하여 타향(日本)으로 건너가 공부하기 위해 고향인 대구에서 연기처럼 훌륭히 사라져 10여 년 동안 고향에 돌아오지 않았으나, 그동안 풀리지 않는 근심을 안고서도 열심히 학업을 익혀 출세하여 고향으로 돌아왔다. 이래로 군은 충주에 정착하여 재산을 모으고 곧은 마음을 다지는 데 여념이 없었다.
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지금으로부터 10여 년 전 처음으로 충주 북문 외곽 한구석에 점포를 차려 백화점을 운영하였고, 오늘날에 이르러서는 충주읍에서 손꼽히는 백만장자라 불릴 정도가 되었다.
그렇다고 해서 君이 결코 부만 알고 가난을 모르는 세상의 냉정한 사람은 아니다. 등불을 들고 폐원의 쓸쓸한 마음을 비춰주는 온화하고 자애로운 인격자이다. 그러므로 군은 이제 민심을 한몸에 모으고 있으며, 그가 가는 곳은 어디를 막론하고 온갖 꽃이 다투어 피어나듯 세상에 화려함을 더해주는 느낌이 있다. 참으로 君이 거두고 있는 성공의 결실은 크고도 높다고 해야 할 것이다.
또한 君은 얼마 전 충주공립보통학교 교사가 협소하여 1천 여 명의 재적 어린이들이 갈 곳을 잃었을 때, 이를 구하는 일책으로 동교 강당 건축비로 솔선하여 3천 엔의 기부를 신청했던 일 등은 가장 유명한 일화 중 하나이다.
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충주공립농업학교장 마루야마 나미키치(丸山浪吉) 군 (본적: 나가노현)
충주 탄금대로변에 우뚝 서 있는 교사, 저것이 다년간 충주군민의 가슴을 졸이게 했던 농업학교이다. 왜 군민들은 동요했는가? 그것은 이 농업학교를 설립하고자 여러 방면으로 충주읍의 뜻있는 인사들이 열혈을 쏟고
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있을 때, 다른 편에서는 이론과 분쟁이 함께 일어나 갑론을박하며 군민들끼리 편을 갈라 싸웠기 때문이다.
그 당시에 뜻을 함께했던 인물들의 면면을 꼽아보자면, 하라구치 이치지(原口一二), 윤정구(尹政求), 유석희(劉錫禧), 오오이시 초사쿠(大石長作), 손해성(孫海成), 한인석(韓仁錫), 스즈키 마사이치(鈴木政一) 君 등이며, 그 기기묘묘한 각자의 논법과 책략은 지금도 잊기 어렵다. 이러한 혼란스럽고 마치 취한 것과 같았던 한 시대를 차버리고, 새벽녘의 별과 같은 태도로 이 농업학교의 초대 校長으로 부임해 온 사람은 누구였던가? 그가 바로 현재 시대상에 부응하며 세간에 명성이 자자한 마루야마 나미키치 군이다.
군은 잠사(누에치기) 재배법의 권위자로서 전국적으로 유명한 학자인 만큼, 그가 설명하는 바는 평이하면서도 깊이가 있어 듣는 이의 마음을 사로잡는다. 그의 말 한마디 한마디는 듣는 사람의 폐부를 지르므로 100여 명의 제자들로부터는 어버이처럼 앙망받고, 2만 4천 명의 시민들로부터는 손위 형처럼 경모를 받고 있다. 이 점이야말로 죽은 학문을 설파하는 부패한 유학자들과 크게 궤를 달리하는 이유이다.
君이 가진 취미는 오직 산책 하나뿐이다. 과연 실업교육계의 거성답게 숲속이나 전원을 거니는 것을 좋아하는 것도 당연하게 여겨지지만, 자주 가족들을 데리고 충주읍 호암지(虎岩池) 근처를 찾아 신선한 공기를 마시고 돌아가곤 한다. 생각건대 군은 산중 눈바람 치는 밤에도 초가집에 봄빛이 있음을 아는 지사(國士)가 아니겠는가. 그러하다, 지사여, 영원히 큰 행운이 있기를.
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충청북도 평議員 하라구치 이치지(原口一二) 군
(본적: 사가현 가라츠)
충북일도(忠北一道) 90만 도민을 눈아래로 굽어보는 하라구치 이치지 君은 사가현이 배출한 충주의 은인이이자 충북의 은인이다. 이것저것 공직에 있으면서 지방 개발에 힘쓴 부분은 이제 와서 새삼스럽게 적시할 필요조차 느끼지 못한다. 다시 논하자면 과장된 찬사에 빠져 본질을 해칠 우려가 있기 때문이다.
君은 명치 40년(1907년)에 조선으로 건너와 경성을 거쳐 충주 돈명학교(敦明學校)의 교원으로 충주에 와서 교편을 잡은 지 2년 만에 실업계에 입문하여 오늘에 이르렀다. 이후 약 20년 동안 분투하여 오늘날 보는 거만(巨萬)의 부와 사회적 명성을 얻게 되었다.
그가 말하는 바는 항상 당당하면서도 단정하고 명확하여, 요점을 파악함에 있어서나 철저함에 있어서 도평의원회 석상뿐만 아니라 어떤 모임에서든 그의 우측에 설(능가할) 사람이 없다. 그만큼 군은 웅변가이며, 그만큼 지모가 백출하는 인물이다. 단지 말변뿐만 아니라 일을 추진함에 있어서
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어려움에 직면해서도 강의하고 과단성이 있어 자신이 믿는 바를 벗어나지 않으며, 철두철미 만족할 줄 모르는 용사이자 기틀을 갖춘 책사(策士)이다. 그의 명성은 지금 정녕 드높아 세상을 압도할 기세가 있어 군민 중에 그를 존경하고 사모하지 않는 이가 단 한 사람도 없다.
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충주수리조합장 스즈키 마사이치(鈴木政一) 군
(본적: 야마나시현 기타코마군)
온화하고 단정한 품채의 경애할 만한 스즈키 마사이치 君은 명치 40년(1907년) 6월에 조선으로 건너와 곧바로 충주에 주거를 정하였다. 농업 경영을 하는 한편 미곡상을 운영하며 차근차근 기반을 다져온 우수한 인재이다.
君은 이후 충주수리조합장으로서, 또한 충주소방조두(소방대장)로서, 충청북도농회 특별의원으로서, 혹은 면협의원이나 도평의원으로서 헌신적인 노고를 아끼지 않은 중견 인물이다. 군이 한번 모임에서 목청을 높여 포효하면, 마치 산우(山雨)가 몰아치려 하여 누각에 바람이 가득 찬 때라 할지라도 주변이 이내 화창하게 개어 홀 안의 청중이 모두 취한 듯도 하고 깨어난 듯도 하게 되니, 이것이 바로 군의 인품을 나타내는 까닭이 아니겠는가.
君은 충주에서 큰 성공을 거두었을 뿐만 아니라 충주의 조선인 청년을 사랑함에 있어서는
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마치 사자가 그 새끼를 깊은 절벽에 떨어뜨려 단련시키는 것과 같다. 능히 악을 멀리하게 하고 선을 취하도록 인도한다. 참으로 군의 기개는 고명하고도 크다고 해야 할 것이다.
지금으로부터 2년 전부터는 충주의 무뢰한 청년들을 모아 한 단체를 만들어 이름을 '근로실행회'라 하고, 토지를 빌려 개량 농업을 힘써 행하도록 하였으니 이는 친부모가 자식을 생각하는 마음보다 더욱 깊은 것이 있다. 간절한 사회 봉사의 신념(念)이 크고 깊기에 이토록 위대할 수 있는 것이다. 이제 군이 하라구치 이치지(原口一二) 군과 함께 충주 내지인(일본인) 중 '청룡에 맞서는 백룡'이라 일컬어지는 이유도 바로 여기에 있다고 본다.
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현 전주전매지국 수납과장 (전 경성전매지국 충주출장소장) 이시카와 요시사부로(石川芳三郎) 군
충청북도 충주군 일원 및 괴산군, 음성군, 제천군 등 4개 군 30여 개 면의 황색 담배 경작자들을 독려함에 있어 항상 중량 위주 혹은 품질 향상 위주로 6년 동안 충주의 특산물인 황색 담배를 잘 육성했던 이시카와 요시사부로 군은 지금 충주를 떠나 전주라는 멀리 떨어진 곳에 있으나, 그의 성실한 인품과
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더불어 거둔 수많은 공적의 자취를 떠올리며 현재 60여 명의 직원들이 그의 옛 덕망을 칭송하고 있는 것을 보면 군의 위대함이 어느 정도였는지 짐작할 수 있다.
君은 일본 본국에서도 13년, 조선에서도 13년 동안 시종일관 이 담배밭에서 견실하게 봉직해 왔으니 그 인품을 짐작할 수 있지 않겠는가. 정녕 군은 엄정하고 품격 있는 선비이자 사명에 힘쓰는 인물로서 부끄러움이 없다. 선비여, 부디 자중하고 만전을 기하시라.
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경성전매지국 충주출장소장 모테기 시로(茂木四郎) 군
전임 소장 사누키(佐貫) 군의 뒤를 이어 영전해 온 모테기 시로 君은 싹싹한 사교가이다. 그리고 황색 담배 경작을 지도함에 있어 단순히 중량 위주가 아니라 수많은 경작자의 복리 증진을 위하는 주위로, 스스로 쟁기도 잡고 주판도 튀기는 등 매우 소탈하고 밝은 신사이다.
또한 君은 글이나 대화에서도 자주 거론되며 현재 600여 경작자들에게 경모를 받고 있으니, 그만큼 인품이 훌륭하다는 뜻이다. 과연 그러하다, 君이 이처럼 되기까지는 말로 다할 수 없는 노력이 있었을 것이다.
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충주읍장 아키야마 후미오군
(본적 구마모토켄 히카시테라바루마치 熊本縣 東寺原町)
우뚝 솟은 금옥(金玉)과도 같은 충주읍장 아키야마 후미오(秋山文雄) 君은 말수가 적고 묵묵히 행하는 청렴한 선비로서 2만 4천 시민들에게 경모를 받고 있다.
君은 일찍이 도쿄에서 관직 생활을 20년 동안 하였으며, 대정 9년(1920년) 4월 충북 지역과 인연이 닿아 건너와 곧바로 충청북도 토목과장 차석으로 임명되었다. 일군의 토목 전문가로서 산골 국토 90만 도민을 위해 토목 행정을 맡아 많은 공을 세웠고, 머지않아 토목과장으로 승진한 뛰어난 인재이다.
일을 처리함에 있어서는 항상 한 걸음 남에게 양보하면서도 가슴속에는 이미 먼 앞날을 내다보는 식견을 세우고 있어, 만뢰(萬雷)가 지금 막 치려 해도 태연자약하게 모든 것을 웃음으로 넘기는 배포가 참으로 소탈하다. 술을 즐겨 마시고 사람들을 대할 때 시국을 잘 논한다.
소화 4년(1929년) 12월 충주읍민들의 간곡한 청을 받아들여 충주 지정면장이 되어 부임한 이래 여러 충주 번영책을 강구하고 있다. 어떤 이들은 이 읍장에 의해 제사공장을 창설한다느니, 고등보통학교를 창설한다느니, 도립병원을 설치한다느니 하는 소문을 내기도 하지만, 때가 이르러서야 비로소 한 걸음을 내딛고 한마디를 내뱉는 군의 성품상 쉽게 쓸데없는 수고를 하지 않는 것도 당연한 이치라 해야 할 것이다.
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충주 충일병원장 (도쿄 의학사) 정석희(鄭奭熙) 군
충주 의료계의 홍일점으로서 충주군민은 물론 충북 5개 군 주민들에게 그 덕망이 송덕되고 있는 君은 현재 30세 전후의 청년이다. 그러나 그 몸가짐은 새가 강한 날개로 날아오르는 듯하고 그 마음을 단련함은 백두산 산맥과 같은 면모가 있어, 정녕 시대의 첨단을 달리는 사랑스러운 총아이자 가장 씩씩하고 뛰어난 인재이다.
君은 올해 4월 충주면이 조선 지방제도 개정에 따라 당연히 읍으로 승격되자, 2만 4천 생령이 현재 농촌 경제의 몰락으로 신음하고 있음을 통탄하며 대성질호하여 구제책을 강구하고자 충주읍의 뜻있는 인사들과 함께 동분서주하였다. 지인들의 권유로 읍회의원 입후보 격문을 사방에 날리니 읍민들은 일호백낙(一呼百諾)으로 만장일치 당선시켰다.
이후 君은 한가한 시간에 찾아온 기자에게 이르기를 "천지간의 한 태극, 일음일양의 고르게 받은 자질로 서로 도우며 살아가야 할 때가 왔다"라고 하였다. 이것이야말로 君의 인격 그 자체를 여실히 표현하는 한 구절이 아니겠는가. 그러므로 군이 목숨을 걸고 몸 던져 일한 결과는 그대로 충주가 누리는 결과이자 읍민이 누리는 결과라고
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해도 좋을 것이다.
인생에 단신으로 태어난 이상 누구나 이와 같기를 바랄 것이다. 흔히 시골 의원들에게서 볼 수 있듯 의학계의 자유로운 공기를 접하고 한갓 호사를 탐하며 처참한 환자들을 돌보지 않는 경우가 있으나, 군에게만큼은 그것이 절대 없다. 다시 말해 그것이 군을 군답게 만드는 까닭이다. 어찌 위대하고 비범하지 않은가. 군은 더욱 발분 노력하라.
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제24장 자옥·황옥·백옥 한 다발 (紫玉黃玉白玉一束)
충주군 서무주임 남외칠(南外七) 君
무엇이든 가져와라, 내가 해내어 보이겠다는 식의 호탕하고 만능 기질을 가진 인물로, 정녕 기상이 당당할 뿐만 아니라 문장에도 능하고 대화에도 능하며 일 처리와 사무에도 능한 시대의 쾌남이다.
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충주군 재무주임 미요시 겐이치(三好源一) 君
한눈에 수학자처럼 보이는 군은 또한 대은행가처럼 보이기도 하는 의연한 신사로, 의리가 매우 두텁고 두뇌는 마치 명경지수와 같다. 항상 밝은 지혜를 품고 사람을 대해 군을 만나는 이는 누구나 존경하는 마음을 일으키지 않을 수 없다.
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충청북도 제2토목관구 주사 수에츠구 요사쿠(末繼要作) 君
군은 과단성이 풍부하여 일을 이룸에 우유부단함에 빠지지 않고 용왕매진하여 눈앞에 거리낄 것이 없는 태도를 취하니, 이것이야말로 야마토 남자의 진면목을 유감없이 발휘하는 것이다. 한구석의 잠룡(潛龍)이니, 호한이여 부디 분투하라.
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충주읍 부읍장 조명규(趙命奎) 君
君의 뇌리에는 항상 샛별이 반짝이듯 빛나고 일을 행함에 있어서는 항상 부지런히 힘쓰니, 이것이 군이 충주를 대표하는 비즈니스맨으로서 각 방면에 칭송받는 이유이다. 위를 잘 섬기고 동료와 화목하며 아래를 사랑하여 읍정의 첫 페이지를 아름답게 장식하고자 한다. 읍민의 신뢰 또한 매우 크다.
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충주공립보통학교장 다나카 젠에몬(田中善右衛門) 君
君은 온후하고 성실한 선비로서 산속의 울창한 숲과 같고 연꽃의 향기를 내뿜는 듯하니 참으로 현대적인 고결한 선비이다. 종일 부지런히 근심하고 삼가며 교단에 선 지 20여 년, 이제 충북 도내 초등교육가의 모범적 전형으로서 일반의 존경을 받고 있다.
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충주공립보통학교 교무주임 김웅기(金雄起) 君
君은 보기 드문 인재이다. 지략이 풍부하고 연구와 학식이 깊으며, 담대함을 갖추어 만인을 굽어보면서도 거리낌이 없다. 스스로를 바쳐 육영 사업에 여념이 없는 점이 청년 신사로서, 또한 모범 교원으로서 읍민들에게 추앙받는 이유이다.
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충주금융조합 이사 아라이 다케오(新井武夫) 君
君은 수양가이다. 그러므로 화려한 호사스러움에 마음을 빼앗기지 않고 항상 생각해야 할 것을 생각하고, 해야 할 일을 하며, 봐야 할 곳을 보는 군자 타입의 사람이다. 평소 한가한 때에는 화초 재배에 여념이 없으며, 대화와 토론을 즐기는 사람이다.
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목계금융조합 이사 손덕봉(孫德鳳) 君
君은 교토제국대학 출신으로, 잠시 군의 고향인 대구에서 교편을 잡았으나 발탁되어 충북으로 왔다. 금융조합연합회에서 근무하다가 소화 5년(1930년) 목계금융조합 이사로 임명되었다. 지방의 농촌 청년을 격려하여 근농 풍토를 조성하고 지방 발전을 위해 몸을 희생하니, 이제 목계 지방 주민들의 신뢰가 더욱 높다. 그 앞길이 참으로 매우 밝다.
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식산은행 충주지점장 이무라 사다무(井村定省) 君
깔끔한 남자이다. 지방의 사민(四民)을 상대로 해야 할 일을 잘 해내고 또한 이행하게 하므로 군은 일반적으로 신망을 얻고 있다. 불혹(40세)의 나이에 혈기가 왕성하여 일견 밝고 바르고 강한 느낌을 준다. 그러므로 군의 인격은 이제 시민들이 사모하는 적이 되어 있다.
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식산은행 충주지점장 대리 아키미츠 세이지(秋滿清治) 君
君은 고원한 이상을 가진 도량이 매우 큰 사무가이다. 산천의 아름다움에 취해 구상을 다듬고 세상을 탐구하며, 때로는 야구도 하고 축구도 하고 테니스도 한다. 개론하자면 군은 새로운 사상을 가진 사람 중 한 명이다. 도쿄제대(아카몬) 출신답다는 말을 자주 듣는다. 군의 앞날은 참으로 양양하고 탁월하다.
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충주경찰서 경무주임 테라오 우헤이(寺尾卯平) 君
유쾌하고 시원시원하게 소임을 다하는 군은 충북에서 경찰관으로 지낸 지 전후 15년이다. 위를 잘 섬기고 아래를 사랑하며, 지난번 우다 서장과 함께 상무회를 조직하여 그 회관을 건설하였다. 이제 군민의 중망을 양어깨에 짊어지고 기량을 십분 발휘하고자 하니, 그 포부 또한 크고 앞날이 밝다.
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충주경찰서 고등주임 후카다 케사키치(深田袈裟吉) 君
태백산 구름 속에 숨어 조선 독립을 외치던 김용재(金用才)의 이름도 드높지만, 그를 놀라게 하여 경찰관의 사명을 다한 우리 히라이시(平石) 군의 이름도 파도가 몰아치는 듯하다. 올해 진천서에서 전임해 와 곤도(近藤) 군과 함께 고등경찰 수완을 부리는 것이 마치 못 안의 교룡 같다. 충주가 무사 태평한 의미가 결코 없지 않은 이유가 실로 여기에 있다.
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충주경찰서 사법주임 박준현(朴準顯) 君
君이야말로 충북 경찰계의 살아있는 사전이다. 어찌 되었든 전후 20여 년 동안 시종일관 봉직해 왔으니 그 안에 담긴 붉은 정성은 짐작할 수 있다. 이제 경시 승진 혹은 군수 승진설도 있다. 야나기다(柳田) 君과 함께 사법경찰 사무의 만전을 기하고 있으며, 지극히 온후하고 성실한 사람일 뿐만 아니라 강인하고 과단성이 있으며 침착성을 갖추고 있어 보기 드문 점액질(진중한) 타입의 사람이다. 이제 중망을 한몸에 모아 영예가 아침 해와 같다. 호한이여, 더욱 힘써 분투하라.
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사법대서인 마키타 기미오(牧田公夫) 君
君은 전 충북 보안과장 고(故) 마키타(牧田) 씨의 아들로, 일찍이 대전중학교를 우수한 성적으로 졸업하고 돌아와 아버지의 대서업을 보조하며 부지런히 게으름을 피우지 않은 대견한 청년이다. 두뇌가 매우 명석하며, 생각하는 바가 온건하고 착실하여 조금도 가볍거나 부박한 구석이 없으니 입신양명의 꿈을 이루어 낼 것이 틀림없다. 연작(뱁새)이 어찌 대붕(황새)의 뜻을 알리오
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라 말할 수 있겠는가. 군은 앞으로 성숙해짐에 따라 천하를 진동시키지 않고는 견디지 못할 못 안의 인걸이라 해도 감히 과언이 아닐 것이다. 젊은 벗이여, 대견한 벗이여, 비 온 뒤의 포플러나무처럼 쑥쑥 자라라.
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충주읍회의원 미즈노 야키치(水野彌吉) 君
충주읍회의원 미즈노 야키치 君은 충주의 포목왕(吳服王)이다. 공손하고 검소하게 자신을 지키는 사람이라 하면 시민들은 반드시 君을 손가락으로 가리킬 것이다. 군은 다년간 충주 면의회 및 학의회 등의 공직에 있으면서 충주 농산 상공업 개발에 급급히 힘쓴 바가 많아, 현재 하라구치(原口), 스즈키(鈴木), 시오타(塩田)와 함께 '4대 좋은 할아버지(四大好々爺)'로까지 불리고 있다.
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전 충주우편국장 야노 쇼스케(矢野祥助) 君
충주우편국장 야노 쇼스케 君은 조선 사정에 정통한 사람으로 일반적으로 알려져 있다. 君은 지금으로부터 25년 전 조선에 와서 통신 사무에 종사했다고 하는, 시종일관 정려각근(精勵恪勤, 정성껏 힘쓰고 부지런함)한 인재다. 그동안 경성을 시작으로 평양,
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의주, 대전, 부산, 조치원, 의성, 청주 등을 거쳐 충주로 오게 된 것이다. 전선(全鮮, 조선 전역) 우편국장으로서는 상당한 고참이지만, 아직 혈기 왕성한 나이로 성실하고 담담하게 이야기하는 바가 끝이 없다. 참으로 이것이 군자(君子)의 풍모다.
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독농가 시오타 테이스케(塩田禎介) 君
지금으로부터 20여 년 전 충주로 와서 조선 어린이들을 자신의 저택에 모아 학용품을 공급하거나 직접 가르치며 일선동화(日鮮同化)에 진수(盡粹)한 바, 그 공과 덕은 지금도 기자의 가슴속을 오가는 것이 있다. 군은 참으로 자선을 위해 살아가는 산타클로스 할아버지다.
본래 성품이 지극히 온후하고 성실하여 일견 양을 치는 목자처럼 보이기도 한다. 즉 충주읍에서 태어난 조선인 청년들에게는 잊지 못할 한 사람의 은인이다. 충주읍민은 결코 군을 잊어서는 안 된다. 군 역시 충주읍민을 잊어서는 안 된다. 그리하여 소화 성대에 태어난 오늘날의 행운을 함께 나누고 보답하기 위해 한층 더 분발 노력해야 할 것이다.
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용산리공립보통학교장 이리에 사토루(入江覺) 君
君은 의리 하나로 임하는 유망한 소장 교육가다. 일찍이 충북으로 와 영동, 충주, 옥천 등의 각 학교를 거쳐 오늘에 이른 사람이다. 부하 교원들을 잘 지도하여 연구 부문을 마련해 준 덕분에, 동교 훈도 장한욱(蔣漢旭) 군 같은 이도 선년(先年)에 조선미술전람회에 입선할 수 있었다고 한다. 한 번 동교를 방문하면 학교 안의 공기가 매우 긴장되어 있어 정성 어린 기운에 감동받기도 한다. 더욱 건투하기를 바란다.
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충주군 노은면장 신창균(申昌均) 君
조선의 시골 면장이라 하면 늙어 비틀어진 허수아비 한 마리로 생각하는 것은 시국상 정녕 시대착오의 일면이다. 그것을 웅변(雄辯)하게 이야기하는 충주군 노은면장 신창균 君을 보라! 또한 전 괴산면장 유회수(柳會秀) 君을 보라! 그렇지 않으면 현 충주읍 부읍장 조명규(趙命奎) 君을 보라! 이들은 참으로 신진기예의 선비로서 노고와 노력을 개의치 않고 주야로 민중을 위해 움직이고 있다. 언젠가 다른 기회를 얻어 이들을 대서특필하기로 하자.
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충주읍회의원 최익환(崔翼煥) 君
자칫 근대 청년으로서 호사를 탐하고 허세를 부리며 헛된 막사 안에서 일생을 안락하게 보내려는 폐해 없지 않은 오늘날, 부지런한 기풍을 가지고 가업에 힘쓰며 몸 던져 사회에 공헌하고자 하는 君과 같은 읍회의원을 둔 충주읍민은 참으로 하나의 자랑이다. 군은 실로 훌륭하다. 질실강건하여 부모에게는 있는 힘껏 효도를 다하고, 벗에게는 있는 힘껏 신의를 다한다. 그리하여 그 몸을 가다듬고 가정을 정돈하며 나라를 다스려 천하를 평정하고자 한다. 참으로 군을 현인과 고결한 선비의 반열에 넣지 않을 수 없구나!
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충주읍회의원 음재형(陰在亨) 君
군은 충주 토박이 청년이다. 어릴 때 엄한 아버지를 여의고 홀로 어머니를 모시면서 동생 재정(在貞) 군을 도우며 형설의 공을 쌓아 글을 읽었다. 이제 군은 충주읍회의원으로서 읍민을 위해 천하를 논하니 어찌 초범(超凡)한 인재가 아니겠는가. 흔히 '출람(出藍)의 영예'라 하니 과연 그러하다.
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제25장 단양을 보다
단양은 기자가 교직 1년의 생활을 체험했던 제2의 고향이다. 이번에 약 10년 만에 옛 고향 산천을 대하고 옛 친구를 만나니, 참으로 회고의 정이 절로 일어나 그야말로 감개무량하다. 늙은이는 가고 어린이는 자라나니, 이를 계기로 세상의 무상함을 탄식하는 자 어찌 기자 한 사람뿐이라 하겠는가.
— 1932년 9월 단양 우화교(羽化橋) 강가에서 이영생(李英生)
단양군은 충주읍의 동쪽 끝을 차지하고 있으며, 산악이 겹겹이 쌓여 평야가 드물다. 소백산맥을 경계로 경북 및 강원도와 인접하고 대화산, 국망봉, 도솔봉 등은 온 산이 모두 울창한 산림을 이루고 있다.
지금으로부터 2년 전, 김용재(金用才)라는 흉적이 소백산의 험준함에 의지하여 삼도(三道)를 진동하게 했다. 그는 키가 6척에 다섯 사람의 힘을 가졌으며, 하룻밤에 30리를 질주한다는 시대풍의 쾌한이었다. 조선 독립을 표방하며 손에서 두 자루의 모젤 권총을 놓지 않았던 돈키호테 같은 인물이었다. 당시 단양경찰서 경부보이자 현재 충주경찰서 고등주임을 맡고 있는 후카다 케사키치(深田袈裟吉) 군은 9일 밤낮동안 폭우와 기아와 싸우며 험한 고개와 험로를 돌파하여 마침내 이 흉적을 제압하였다. 산에 의지한 흉적 토벌—과연 산골 나라다운 이야기가 아니겠는가.
이 단양에는 유명한 단양팔경이 있어 단양으로 하여금 '충북의 금강산'이라는 이름을 사방에 날리게 하고 있다. 팔경은 단양군 중부를 흐르는 한강 상류에 있으며, 그 유역은 기암괴석과 거대한 봉우리가 이어지고 한강의 청류가 그 사이를 굽이쳐 돌아 절경을 이루고 있다.
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옛 유학의 태두 이퇴계(李退溪) 선생이 이 군의 군수가 되어 시를 읊으며 그 경치의 빼어남을 세상에 알린 바 있다.
읍내는 상방, 중방, 하방의 3개 리로 이루어져 항아리 속의 연꽃 같으며, 이 안에 한 자루의 다리가 있으니 이를 우화교라 한다. 밤 9시경 삼삼오오 짝을 지어 도도히 울부짖는 한강 줄기를 듣는 것도 좋고, 다리 아래 유유히 홀로 앉아 낚싯대를 던지는 것도 좋다. 단양은 정녕 아름다운 유람의 꿈을 즐기며 수양을 쌓기에 최선의 적지라 아니할 수 없다.
관공서의 주요 기관으로는 군청, 경찰서, 등기소, 금융조합, 우편소, 보통학교, 소학교, 면사무소 등이 있어 단양 특유의 문화를 조장하고 있다. 그중에서도 군수 장훈(張勳) 군은 원만하고 원숙한 선비이자 청렴결백하며, 신임 서장 하야타 기하치(早田喜八) 君은 질실강건한 선비로서 피와 눈물이 있는 강유(剛柔)를 겸비한 인재이다. 민간에는 하라다 타케오(原田武男), 지달삼(池達三), 이상태(李相台) 군 등이 있어 단양 지방의 발전이라면 무엇이든 몸을 사리지 않는다.
이제 단양도 말을 타고 마부 노래를 부르며 여행하는 것은 옛날의 꿈이며, 단양~충주 간, 단양~제천 간, 단양~예천(醴泉) 간, 단양~영월 간 어디로든 자동차를 몰아 자유롭게 왕래할 수 있을 뿐만 아니라, 현재 경북 점촌에서 단양, 충주를 잇고 경기도 안성으로 통하고자 하는 중앙철도 부설 계획이 차근차근 진행되고 있어 가까운 장래의 단양은 우렁찬 기적 소리에 맞추어 산업, 민정, 교육, 문화 등 모든 방면의 양식을 자유롭게 받아들일 수 있게 될 것임이 틀림없다.
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또한 한강의 수력을 이용해 전기를 일으키고 조선 각 도시에 필요한 전력을 배급하고자 조선전기사업조사회에서 여러 구상을 이어가고 있으므로, 이 역시 가까운 장래에 완연한 불야성으로 변할 것임에 의심의 여지가 없다. 단양은 세상 사람들이 모두 알다시피 산간 오지의 땅이지만, 단양에 산 사람치고 울며 들어왔다가 울며 나가지 않은 사람은 아마 없을 것이다. 이만큼 단양군에 있는 우뚝한 산하는 정겨운 곳이다.
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제26장 명사의 기고 논문
신문의 사명에 대하여
충주군수 최지환(崔志煥)
신문의 사명에 대해서는 필자가 이제 와서 왈가왈부할 필요도 없는 일이지만, 단순히 가장 가까운 사회상을 있는 그대로 실사하여 우리에게 정신적 식량을 공급해 주는 것만으로는 대중이 만족하지 않게 되었다.
필자는 그 위에 갈 바를 몰라 방황하는 사회인을 지도하여 진정한 목탁(木鐸)으로서의 사명에 보람을 느끼는 동시에, 세상에 알려지지 않은 온갖 사상을 확실하고도 신속하게 보도하는 것에 오늘날 신문인의 천직이 있다고 느낀다. 이러한 의미에서 이 영(李 英) 군은 거의 이상에 가까운 신문인으로 추천할 수 있는 청년이라고 필자는 믿고 있다.
충주에 자리를 잡고 한 자루의 펜을 마음껏 휘둘러 충주를 널리 세상에 소개한 효과에 대해서는 누구라 할지라도 충주에 거주하는 인사라면 상당한 경의(敬意)를 표하지 않을 사람이 없을 것이다.
이번에 그 통신문 중 충주와 관계있는 스크랩을 모아 소책자로 간행한다는 소식을 듣고 필자는 두 손을 들어 찬성의 뜻을 표한 사람 중 한 명이다. 신문은 그날그날 필름이 돌아가듯 눈앞을 지나쳐 버리는 데 반해, 일단 책자로 편찬되면 서고에 오래 보존되어 언제든 손에 들고
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읽을 수 있어 신문과 다른 흥미와 실익을 얻을 수 있기 때문이다.
그 내용에 이르러서는 보는 이의 관찰에 맡기기로 하고 큰 비판은 피하고 싶으나, 충주의 현황과 연혁에 대해 개념을 파악하는 데 적절한 책자라는 점은 단언할 수 있다. 이러한 의미에서 이 지역에 사는 사람 및 충주를 알고자 하는 사람에게 본서를 추천하는 바이다.
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우리 충주읍의 현상과 미래
충주읍장 아키야마 후미오(秋山文雄)
우리 읍은 동서 3리, 남북 2리, 관내 일순 리정 11리 19정, 면적 5방리 925정, 동리 수 22개, 가구 수 4,389호, 인구 22,417명으로 도청 소재지 이외의 지역으로서는 상당히 큰 읍제 시행 지역이다.
본래 충주라는 땅은 매우 오래전부터 상당한 도읍으로 전선(조선 전역)에 알려져 이조 세조 장헌왕 31년(지금으로부터 약 480년 전)에는 이미 충청도를 이 땅에 두었고, 이래 진관 위신 등 부나 현의 명칭으로 일시 승·강격이 있었으나 후에 다시 '충주'라는 주명을 부활시켰다는 점으로 미루어 보아도 당시 우리 충주는 오늘날 이상으로 인구를 안고 경성 이남의 대도시로 활약했음을 짐작할 수 있다. 그 전후로 목사나 영장을 두어 상당한 번창을 지속해 온 것은 구적을 통해 보아도 명백하다.
나아가 명치 41년(1908년) 5월 관찰도가
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청주로 이전한 이래 오늘날까지 군청 소재지로서 차근차근 발전의 길을 걷고 있다. 본 읍은 대정 3년(1914년) 4월 남변·북변의 2개 면을 합하여 읍내면이 되었고, 동 6년(1917년) 9월 충주면으로 개정되었으며, 동 12년(1923년) 4월에 지정면이 되었다가 올해 4월 읍면제 실시로 충주읍이라 개칭되었다.
충주는 옛날부터 경성~부산 간 교통의 요충지에 위치하고 북쪽은 한강 본류를 끼고 있어 본 도의 수도로서 명치 41년 5월까지 관찰도 소재지였음은 앞서 언급한 바와 같다. 그러나 지난날 경부선 철도의 개통으로 교통상 변화가 생겨 결국 '교통 불편'이라는 이유로 오래된 역사를 지닌 관찰도를 끝내 청주로 이전하게 되었으니, 지금 생각하면 참으로 유감스러운 일이다.
그 때문에 충주 주민들은 일시 낙담 상태에 빠지기도 했으나, 대정 원년(1912년) 황색 담배 시작지가 되고 특지 정경작지가 되어 지금은 경작 구역이 본 군 및 인접 3개 군에 걸쳐 경작 면적이 1,600여 정보에 달하고 있다. 부근 또한 광산물이 풍부하여 대정 5~6년 무렵에는 '텅스텐' 산지로 광업계에 유명해졌다. 그 외 금이나 철 등의 광물도 매우 많아, 마침내 천시가 도래한 소화 3년(1928년) 12월 충북선 철도의 연장에 따라 지리적 이점은 정녕 옛날의 충주로 돌아오게 되었다.
실로 본 읍은 충북 5개 군의 중심지일 뿐만 아니라 제천, 단양 및 강원도 영월, 정선, 평창 등의 길목이며, 수로는 한강 본류를 이용해 멀리 용산, 인천에 이르고, 육로 1등 도로는 경성~부산선, 2등 도로는 청주, 조치원을 거쳐 공주에 이르는 노선과 제천을 거쳐 영월, 평창, 정선, 강릉 제군으로 통하는 것, 단양을 거쳐 경상북도 풍기, 안동, 영덕의 제군으로, 또 한 노선은 목계를 거쳐 강원도 원주, 김화에 이르는 각 노선이 연결되어 있어
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모두 우리 충주를 중심으로 하지 않는 것이 없다. 그리하여 자동차는 각 등급의 도로를 이용하여 청주, 조치원, 경성, 점촌, 영월, 원주 등 다방면으로 빈번하게 질주·왕복하고 있다. 위에서 기술한 바와 같이 실로 사통팔달의 지역으로서, 이 외에도 충북선 철도 개통에 따라 경부본선과 연락되어 운수·교통상으로는 참으로 흠잡을 데가 없을 정도이다.
또한 가구 수와 인구도 매년 증가하고 상공업도 상당한 번영을 보이고 있다. 일반 농산물도 해마다 증가하고 물자의 이출입(移出入)도 차츰 늘어나 순조롭게 발전하고 있다. 지금으로부터 20년 전의 그것과 비교하면 모든 점에서 격세지감의 진보·발달이라 하지 않을 수 없으며, 또 더욱 발달의 길을 걷고 있는 중이다.
본 읍민의 9할은 농가로서 주민은 내선인(일본인과 조선인)을 막론하고 성품이 순박하고 온화하다. 양반 유생도 상당히 많아 기상이 품위가 있으므로 읍민 일반적으로 온화하며 경거망동하는 식의 우려도 전혀 없다. 재작년 이래 전선(조선 전역) 각지에 미만했던 학생 소요(동맹휴학 등) 같은 것도 우리 충주에는 전무하였다. 또한 최근 만보산 사건에 따른 선·지인(조선인과 중국인) 알력 등의 불상사를 보지 못했던 점으로 미루어 보아도 본 읍민의 기상을 짐작할 수 있다.
본 읍의 교육은 당국의 올바른 지도와 교육자들의 노력에 힘입어 차근차근 신전(伸展)하여 10여 년 전과 비교하면 참으로 격세지감이 있다. 특히 최근 들어 읍민 각자가 교육에 눈을 뜨고 있는 것은 매우 만족스럽게 생각한다. 이 조치로 나아간다면 본 읍의 온갖 분야에 대한 발달과 향상이 의심할 여지없이 이루어질 것으로 보인다.
한 예에 불과하지만, 충주공립보통학교의 개증축처럼 오랜 기간의 특별부과 부담을 요하고, 그 위에 동교 강당 건축 기부와 같이 상당한 거액의 출비를 요함에도
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잘 이해하여, 이 심각한 불황기에 조금의 불평도 내비치지 않았으며 소학교 교사 증축 공사 기부금 역시 그러하였다. 이것들은 결국 교육자 및 학정에 종사하는 당국의 진지한 태도에 연유하며, 읍민 각자가 자녀 교육상 얼마나 자각하고 있는가를 엿볼 수 있어 기쁨을 금할 수 없는 바이다.
이상 서술한 본 읍의 개황으로 보아 본 읍의 미래를 생각해 보면, 우리 충주는 한때 관찰도 소재지였고 또 충청도의 수도로서 옛날부터 모든 일이 발달하여 어쨌든 타지에 알려진 이른바 유명한 고장이므로, 본 읍은 적어도 본 읍과 사정 및 기타 상태를 같이하는 다른 읍면에 뒤처지지 않도록 향후 온건한 진보·발달을 이루어야 한다. 이것이 우리 충주읍민의 의무이자 권리라고 생각한다.
그 권리와 의무를 이행하려면 각종 각반의 시설이나 문제도 다종다양하겠으나, 우리가 바라는 바는 자치 관념의 발달이 우선시되는 것이다. 이 자치 관념이 충분히 갖추어져 목적을 달성한다면 다른 것은 자연스럽게 목적을 달성하게 된다. 이 목적을 달성하려면 오늘 이상으로 읍민 각자가 크게 발분하여 근로를 숭상하고 정신을 향상하여 첫째로 나의 집을 부유하게 하고 동시에 우리 읍의 부를 증진해야 한다.
이렇게 하려면 읍민 각자가 향후 더욱 교육을 기초로 삼고 이른바 타력본원에 의존하지 않고 '자력본원주의'에 의거하여 정진해야 한다. 또한 이렇게 하려면 우선 읍민 각자가 크게 자각하여 각자의 직업을 향해 격단의 노력과 분투를 요한다. 이렇게 해야 비로소 우리 충주읍의 진보·발달을 이룰 수 있다고 생각하며, 노력 앞에는 구름이 흩어지고 이슬이 사라지듯 마침내는 반드시 보답받는 것이라 확신하여 의심치 않는다.
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1951년의 충주
남외칠(南外七)
충주는 충청북도 주요 도시로서 가구 수 3천, 인구 1만 4천 명이 있으며 충북선 조치원에서 강원도 동해안으로 통하는 철도와 경성에서 대구에 이르는 중앙철도가 교차하는 곳입니다. 도로도 경북, 강원, 경성의 3도로 통하므로 매우 번창함을 극치하고 있습니다.
관청, 학교, 병원, 수도, 전기 등 도시 시설이 완비되어 있고, 특히 조선 유일의 황색 담배 대생산지인 관계상 전매국의 담배 제조공장이 있습니다. 군시(郡是)제사공장도 누에고치 생산량 증가에 따라 점차 부수(솥의 수)를 늘려 올해는 1,200부를 설치하여 충주를 중심으로 하는 6만 석의 누에고치를 소화하고 있습니다.
충주에서 강원도로 향하는 철도 중 특히 눈에 띄는 역은 목행역(牧杏驛)입니다. 이곳은 한강수력전기회사 제1발전소의 소재지입니다. 동 회사는 자본금 5천만 엔을 가지고 남선(남한) 6도의 전동력을 공급하는 사명을 띠고 소화 15년(1940년)에 설립되어 농업, 공업 및 가정에 대해 극단적인 전화(電化)를 시도하고 있으며, 매우 저렴한 전력을 공급하고 있으므로 어떠한 산간 오지라 할지라도 이제 전등을 보지 못하는 곳은 없습니다.
충북선 충주역에서 느린 걸음으로 충주를 한눈에 둘러보면 우측에 충주공원이 있고 권현(權現)의 숲에서 대신궁의 큰 도리이(鳥居)가
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보일 듯 말 듯 하여 절로 옷깃을 여미게 하는 것이 있습니다. 이 도리이는 20여 년 전 히로시마현인회(당시는 겨우 20명 이내) 동지들에 의해 건립된 것으로, 당시 회장이었던 미즈노 야키치 씨 '데파트 미즈노'의 先代가 매우 애를 썼다는 에피소드는 고로(古老)들에 의해 전해지고 있습니다.
좌측은 순전한 공장지대가 되어 있으나 1킬로와트시당 겨우 1전이라 하는 동양 무쌍의 저렴한 전력 덕분에 요 4~5년 전부터 무서운 기세로 공업이 발발(勃發)한 듯합니다.
조금 더 나아가면 마두관음(馬頭觀音) 입상이 있고 거기서 Y자 모양으로 탄금대로 통하는 도로가 있습니다. 여기서부터 탄금대까지의 약 반 리(2km)는 학교가를 이루고 있으니 농학교, 고보교(고등보통학교), 중학교, 고여교(고등여학교) 중 농학교는 가장 오래된 역사와 특색을 가지고 있습니다.
현에 500명의 졸업생이 충청북도는 물론 전선의 중견 영업가가 되어 매우 큰 세력으로 농작물의 다수확을 시도하여 착착 성공하고 있습니다. 오늘날 반(反, 300평)당 현미 2석 5두의 수확은 조금도 놀라울 것이 없으나, 농학교가 생긴 1930년경 총독부 통계에서는 1석 이내였다고 하니 마루야마(丸山) 교장의 교화의 위대함에는 크게 경의를 표하지 않을 수 없습니다.
사실 마루야마 교장은 올해 5월 5일 20년 재직 축하회에서 70세라는 고령임에도 여전히 젊은이를 능가하는 기운으로 졸업생들을 호통쳤다는 사실은 전선(조선 전역)적으로 센세이션을 일으킨 교육 미담이며, 또한 이러한 교장을 모시고 있다는 것은 충주의 자랑이 아니고 무엇이겠습니까.
우로 가향하여 충주읍 입구에 폭 15간(약 27m), 길이 30간(약 54m)의 네온사인을 크게 '오오테마치(大手町)'라 적은 다리를
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건너면 충주의 환락가로 들어섭니다.
중앙극장을 비롯해 중원좌, 탑평클럽, 민중좌 등의 크고 작은 상설관이 좌측에 늘어서서 화양악(東洋音樂과 西洋音樂)의 코러스가 귀를 찢을 듯 대단한 흡인력을 겨루고 있으나, 우측은 경찰서에 이르는 약 3정(약 300m)이 거의 빽빽하게 카페, 비어홀, 레스토랑의 콜로니(촌락)입니다. 거기에는 사랑의 환락도 있을 것이요, 비련에 울며 자포자기하는 둥지도 있을 것입니다.
오오테마치에서 우측으로 들어가는 도로가 3본 있습니다. 첫째는 사창가, 둘째는 상가가, 셋째는 '충주 긴자'라는 이름이 있는 본정통(本町通り)입니다. 이곳에는 2층, 3층의 장려한 1류 점포 및 호텔, 히노마루 등이 줄지어 서 있습니다. '데파트 미즈노'와 주식회사 기쿠(起熊)상사가 양끝에 자리 잡고 하라구치 상사회사, 사쿠라이 공작소, 무라카미 양복 도매상, 우시다 제과회사, 요시무라 과자 체인스토어 충북 총대리점, 아베 금물(철물) 도매상 등이 저마다 쇼윈도에서 화려함을 겨루고 있습니다.
관청의 주요한 것으로는 도청, 지방법원, 전매국 지국, 세무서, 군청, 경찰서, 우편국 등이지만 안타깝게도 전문학교가 하나도 없으므로 하라구치(原口) 옹이 70세에 가까운 늙은 몸으로 이의 설립을 위해 현재 봉사 중입니다. 읍민들은 하라구치 옹이 30년 이래 도회의원으로서 충주를 위해 일야로 봉사하고 있는 것에 절대적인 신뢰와 경의를 표하고 있음은 물론이지만, 들리는 바에 의하면 조만간 실현될 운명인 듯합니다.
용산리의 2대 공장, 즉 중앙국자(누룩) 제조소와 충주 담배 제조공장 중간이 충주의 유곽 지대가 되어 있는데
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이곳에는 내선(일본인과 조선인) 예창기 약 200명이 있다고 합니다.
이제 읍민들은 부제(府制, 시 승격)가 실시되기를 열망하여 기회가 있을 때마다 그 운동에 매진하고 있습니다.
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※ 위 글은 소화 25년(1950년)도 발행의 『충주 가이드』라는 책자에서 발췌한 것입니다.
(※ 주: 이 기사는 작성 당시 미래인 1950~1951년의 충주 모습을 상상하여 쓴 가상의 유토피아적 미래 스케치 글입니다.)
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교육 잡감 1, 2제
전 충주보통학교장 스에히로 쿠니시(末廣國司)
1. 제복 제모
저는 대정 8년(1919년) 5월에 처음으로 조선에 왔습니다만, 그 당시 관리는 금줄이 들어간 제복·제모와 차검(칼을 참)으로 철깍거리며 걸었던 것이었습니다. 이것은 지극히 위엄도 있고 단정했던 것 같았습니다. 여름휴가에 저는 그것을 입고 자랑스럽게 귀향했습니다. 일본 본국 쪽에서는 경찰 서장님으로 착각하여 우마차에 타고 버릇없이 굴던 사람이 뛰어내려 말을 세우기도 하고, 시골 할머니가 상의를 벗은 모습을 보고 놀라 달아나기도 했던 우스꽝스러운 일이 있었습니다.
이 제복은 9월부터 개정되었는데, 그 취지는 관리가 위압적인 모습이 아니라 하민(민중)과
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친근감 있는 태도여야 한다는 것이었습니다. 나아가 다른 이유로는 평복이다, 외출복이다, 나아가 화복(일식)이다 조선옷이다 하며 2중 3중의 생활은 견딜 수 없다, 모습이나 외모로 정치나 교육을 하는 것이 아니다라는 식의 민주주의적인 사상이 있었던 것 같았습니다.
그렇게 되자 교육계 등에서는 인격 교육이라는 입장에서 제복이 없으면 안 된다는 등 자주 校長회의 등에서 문제가 나왔습니다. 그도 그럴 것이 교원의 제복이 완전히 바뀌어 활동사진의 변사나 채플린 같은 옷을 입는 사람도 있었습니다. 모자도 도리우치(새잡이 모자), 중절모, 평모 등으로 이래서야 어디서 혼란이 오지 않을까 싶을 정도였으나, 자각 있는 교육가는 혈기 왕성한 시절의 시기적 호기심이었을 뿐, 그런 의심스러운 복장을 한 교육가는 보이지 않게 된 것은 참으로 다행스러운 일입니다.
2. 교육 장려의 矛盾
보통학교가 처음 생겼을 때는 3월 학년말이 되면 '신학년 준비로서 전 직원이 매일같이 입학 권유를 위해 마을을 돌아다녔다. 거기에 경찰의 힘을 빌려 반강제적으로 끌어낸다'는 식이었습니다. 대정 8년에 온 저에게 선배들이 들려준 이야기입니다.
제가 왔을 무렵에는 아동 입학이 아주 시골을 제외하고는 걱정이 없었으나 매년 2월 말부터 부락에 입학 권유 강연을 나갔습니다. 그 구식 환등기 기계를 가지고 학교에서 2리, 3리 떨어진 시골로 나가 달이 없는 밤 넓은 뜰에 부락 사람들을 구장님의 명령으로 집합하게 하여
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강연을 했던 것이었습니다.
대정 12~13년(1923~1924년)경은 입학 지원자가 각지 모두 많았습니다. 모집 인원의 3~4배의 응모자로 각 학교는 그 선발에 애를 먹어 구술시험을 보거나 관상을 보거나, 연령으로 제한을 하거나, 결혼자는 넣지 않거나, 가정을 조사해 뽑거나 하는 식이라 어쨌든 3분의 1 내지 2는 입학 난이었습니다.
'어떤 학형(부형)은 납세 수표를 3~4년 치를 교장 책상 앞에 내놓으며, "나는 오직 한 명인 이 아이를 학교에 넣고 싶어 오늘날까지 남의 자식을 가르치기 위한 학교비를 한 번도 체납하지 않았습니다. 올해 겨우 입학시켜 주셨으면 하는데 왜 입학이 안 됩니까? 나에게는 자식이 하나밖에 없습니다. 이것이 입학이 안 된다면 나의 매년 세금은 모두 남을 위한 것입니다"라며 수표를 물어뜯고 사무실에서 울며 호소했던 사람도 있었습니다.'
그 후 학교 수증가하여 '1면 1교'가 실현되는 시대가 되었습니다. 그로 인해 애를 먹고 있는 것은 학교 경비 문제로, 특히 수업료에 의해 학교 경비의 대부분을 충당하고 있는 점일 것입니다. 보통학교 수업료는 비쌉니다. 수업료를 내지 못해 입학을 못 하는 자도 많아졌습니다. 국민교육의 기초교육인 초등교육을 수업료 때문에 막히게 한다는 것은 1면 1교 주의도, 입학 권유도 거기에 큰矛盾이 생기는 것 같습니다.
3. 졸업생의 활동
현재 반도(조선)의 모든 분야에서 활동하고 있는 사람들은 대부분 병합 후의 교육에 의해 양육된 분들이라고 해도 과언이 아닙니다.
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즉 반도의 신전은 이 새로운 교육을 받은 사람들에 의해 보다 좋게 날마다 개정되어 가는 것입니다.
교육자가 하고 있는 일을 이렇다 저렇다 비난하는 사람이 있으나, 피상적인 관찰로 교육의 성적을 알 수 있는 것이 아닙니다. 교육자 역시 1년이나 2년 해보고 그 효과를 인정받으려 하는 것은 너무나 속효성 자랑 위주라 경청할 만한 가치가 있는 것이 아닙니다. 교육 사업은施한 작용이 10년, 20년 후의 졸업생들의 활동상에 있다고 생각합니다.
조선 사람들은 보통학교 정도 졸업하면 관리가 되고 싶어 한다든가 월급쟁이를 목적으로 한다든가 노동을 싫어한다고 일컬어지지만, 병합 당시에는 관리로도 채용되었고 다이쇼 10년경까지는 월급쟁이가 될 수 있었으므로 희망하는 사람도 무리가 아니었고 노동을 안 해도 되었습니다. 그 후 졸업생이 많아져 현재는 고등보통학교 졸업생도 취직할 곳이 없다는 식이 되었습니다.
그리하여 졸업생도 스스로 사회로부터 배워 개척하는 길을 강구하게 되었습니다. 근래 졸업생들의 상황을 조사해 보면 지방에 있는 이들은 상당히 진지하게 일하며 가사를 살피는 이들도 있습니다. 그중에는 근로의 미담도 있고 독행의 양풍도 있습니다. 어쨌든 교육을 받은 사람은 그만큼 지방에서 뛰어난 인재임이 확실합니다. 이것은 이 사람들의 10년, 20년 전 선생님의 교육 속에 현재 활동의 싹이 들어가 있었기 때문입니다.
근래에는 너무 효과를 급히 서둘러 발표하기 위해, 장려하기 위해, 자기 명예를 위한 것이 많습니다. 남에게 보여주기 위한 교육으로는 성취할 수 없습니다.
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참된 교육을 시킬 수 있다면 가만히 두어도 이루어지는 졸업생의 활동 상황은 10년, 20년 전 선생님의 교육주의가 방불하게 엿보입니다.
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우리 충주
충주읍 부읍장 조명규(趙命奎)
우리 충주는 옛적 충청좌도 관찰사를 두고 본 도의 수위 도시로서 행정, 경찰, 보안, 사법, 징세, 위생, 교육, 권업의 온갖 행정을 행하던 곳으로 그 문화적 시설도 왕년에는 찬란한 것이 있었습니다. 그러나 일단 관찰사를 청주에 두게 된 이래 지방 행정의 덕화 및 문화적 시설이 모두 점차 쇠퇴하여 옛날의 면모는 거의 소멸된 감이 있던 차, 그 후 지방 인사들이 크게 지방을 위해 마음을 써 시구 개정을 행하고 각 등급의 도로를 관의 시설 방침과 상응하여 개수를 하고 한편 행정관청 외에 사법관청인 법원지청이나 사업관청인 전매국 출장소나 금융기관인 금융조합, 식산은행 지점을 설치하기에 이르러 점차 지방 도시의 외관을 형성해 오던 차, 선년 또 전기회사를 설치하여 조명 사업을 행한 결과 본 읍은 불야성으로 변하여 이에 면모를 일신하기에 이르렀습니다.
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본 읍의 지세는 동남 방면은 계족산이나 남산의 산악이 솟아있고 굽이쳐 숲이 울창하여 마치 산수병풍을 늘어놓은 듯하고, 서북 방면은 달천평야와 접속하여 700보의 비옥한 토지가 펼쳐져 있으며 한강은 동부 오지에서 발원하여 고전장인 탄금대를 안고 경성, 남해로 흐르는 수운의 편의가 있어 봄, 여름, 가을 계절에는 돛단배와 배들이 항상 연락이 끊이지 않고 승객과 화물 운송을 해왔으나, 선년 충북선 철도 개통에 따라 多少 수운을 이용하는 자가 감소하기에 이르렀으나 한편 오지의 물자를 운송하기 위해 여전히 수운은 성합니다.
달천강은 남부 오지에서 발원하여 탄금대에 이르러 한강으로 흘러 들어갑니다. 선박의 운항은 희소하나 어족의 번식은 지방 산물의 일조라 할 수 있습니다.
옛적의 도로는 오지 또는 경성, 청주 방면의 통로로서 사람과 말의 통행에는 지장이 없었으나 차류의 통행은 거의 할 수 없었던 바, 다이쇼 2년(1913년) 이후 경부선 1등 도로 및 충주~원주 간, 청주~강경 간, 충주~영덕 간 2등 도로 및 3등 도로가 개통되기에 이르자 차류의 교통이 편리해져 교통상 사통팔달의 지역이 되었습니다.
철도는 소화 3년(1928년) 조선철도주식회사가 경영하는 충북선이 개통되자 각지의 이출입 물자의 집산과 여객 수송이 지극히 편리해져 지방의 대동맥이 되었습니다.
교육기관으로는 심상고등소학교, 보통학교, 농업학교, 유치원 등이 있어 유위한 인재의 양성과 농촌 지식의 보급에 이바지하고 있으며
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벼농사의 진보 발달을 기하기 위해 충주·대가미 양 수리조합을 설치하고, 그 관개 면적은 충주 수리조합 394정, 다가미 수리조합 62정에 달하여, 모두 제방과 저수지로 인해 매년 가뭄 피해를 알지 못한 채 산미(産米)의 증수를 도모하고 있다.
황색 엽담배는 충주 특산물로서 그 재배 면적이 광대하여, 경작 방법의 개선·진보에 따라 경작자의 수익 증가함은 물론 국산 특제품으로서 명성을 얻고 있는 것 역시 충주로서의 자랑이라 할 수 있다.
서술한 바와 같이 지세가 천연적으로良好하여 문화적 시설도 점차 완비를 기하고 있으며, 지방 인사 및 내선인(내국인과 조선인) 모두 충주 발전 위하여 전력을 기울여 평화와 단란함 속에 지방의 발전을 계획하고 있으므로, 향후 '대(大)충주'의 건설은 의심할 여지가 없다.
우리들은 더욱 지방을 위해, 나아가 국가를 위해 분투할 각오로 건실한 걸음을 진행해 나가고 있다.
나의 감상록에서
김웅기(金雄起)
이영(李英) 군의 이 장대한 계획을 축하하며 머리말을 대신한다.
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군(君)은 예성(蘂城)에서 태어나 중원(中原)에서 자라고, 충주에서 배워 또다시 충주에서 일하고 있다, 이 세상의 목탁이 되어.
군은 세 칸짜리 초가집에 작은 테이블과 한 권의 시집을 앞에 두고, 때로는 시를 읊고 때로는 술을 마신다. 군은 학문을 좋아하고 술을 사랑하며 또 달을 사랑하여, "단원장취불원성(但願長醉不願醒, 그저 오래 취해 깨지 않기를 바랄 뿐)"이라든가 "단원장조금준리(但願長照金樽裡, 그저 오래도록 금잔 속을 비추어주길 바랄 뿐)"라고 읊었던 이백(李白)을 추모해 마지않는 것이다. 마치 이백 그대로의 이 영 군이다. 그야말로 시인이 아니고서는 맛볼 수 없는 풍류를 지니고 있다. 이백이 떠난 후의 사람이 "이백이 고래를 타고 하늘로 날아가니, 강남의 풍월이 수년 동안 적막하구나(李白騎鯨飛上天, 江南風月閑多年)"라며, 강남의 풍월이 적막해진 것을 아쉬워하였는데, 지금으로부터 1600여 년 전의 그 이백이 지금 우리 예성에 이영이 되어 재현하리라고는 그 누가 꿈이라도 꾸었겠는가.
이백은 중국 남국의 물의 고장인 채석강(采石江)에 배를 띄우고 술을 마시며 달을 바라보고, 달을 바라보며 시를 읊고, 시를 읊고는 또 술을 마셨다. 군은 중원경 옛터인 예성호(虎岩堤, 호암지)에 작은 배를 띄우고, 혹은 금선 탄금대에 임하여, 때로는 번창했던 옛날을 이야기하는 남산선 기슭의 초가집에서 "청천유월래기시(靑天有月來幾時, 푸른 하늘에 달은 언제부터 있었나)" 내가 잔을 멈추고 한번 물어보노라, 마치 이백 그대로의 모습으로. 실로 군은 달의 주인공이자 시적 주인공이다.
사람들은 말한다. "이 영 군은 시인이다"라고. 그렇다. "군은 예술가다"라고. 그렇다. "군은 음악가다"라고. 그렇다. "군은 스포츠맨이다"라고. 그렇다. 군은 "구굉이침지, 낙역재기중(曲肱而枕之, 樂亦在其中, 팔베개를 하고 누우니 즐거움이 또한 그 안에 있도다)"이라고 하는 군자 타입까지 구비하고 있는, 실로 보기 드문 재사(才士)이자 풍류객이다.
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군과 나는 그야말로 죽마고우이다. 같은 땅에서 태어나 같은 창문 아래에서 배웠으며, 한때는 같은 교육의 길을 걸은 적도 있다. 지금은 나아가는 길이 다를지라도, 똑같이 이 땅에 머물며 아주 적게나마 나를 키워준 이 충주를 위해 일하겠다는 각오를 가지고 있다.
군은 이에 『충주발전지(忠州發展誌)』를 발간하여, 충주를 알고자 하는 인사들을 위함은 물론, 이것으로 충주의 충주다운 역사가 어둠 속에서 촛불을 얻은 것처럼 밝아져, 우리 충주를 위해 공헌하는 바가 적지 않을 것임을 기뻐하는 바이다.
죽마고우인 이 군의 이 장대한 계획에 대해서는 가슴 가득한 경의를 표하고, 또한 마음속 깊은 축하를 보내고 싶은 마음에, 나의 부족함을 돌아보지 않고 군의 귀중한 몇 페이지를 빌린 것이다.
매일 매 시간, 저 천진난만한 아이들과 함께 생활하다 보면, 여러 가지로 배우게 되는 점, 생각하게 되는 점이 많다. 이 배우고 생각하게 된 것들을 나의 감상록에 기록해 두려고 노력해 왔다. 순진한 아이들을 어떻게 하면 조금도 상처 입히지 않고, 순진함 그대로 이끌어 줄 수 있을까 때로는 막혀서 고민하고, 때로는 뜻을 얻어 기뻐하며, 항상 '아동'과 '교육', '학교', '가정'이라는 것을 염두에서 잊지 않도록 노력해 왔다. 그리고 저 사랑스러운 아이들을 두고 계신 분들께
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기회가 있다면 말씀드리고 싶은 점이 많았습니다. 그렇다면 그중 한두 항목을 뽑아 적어보기로 하겠습니다.
1 요즘 교육은 상당한 발전을 보이고 있지만, 그것은 주로 학교 교육일 뿐이며 가정 교육과 사회 교육은 아직 만족스럽지 못합니다. 학교 교육에서는 최근 아동의 심성을 근거로 하여 교육의 목적과 수단을 연구하고 있으나, 돌이켜 가정 교육을 관찰해보면 매우 마음이 놓이지 않습니다. 대부분의 부모는 현재 자기 자신의 심리를 근본으로 삼고 있습니다. 물론 그중에는 바람직한 목소리도 들립니다. "가능한 한 느긋하게 있게 하고 싶다"라고요. 하지만 애정에 눈이 먼 경우가 많습니다. "몸만이라도 건강하게 자라게 하고 싶다"라고요. 이는 가끔 지도 능력이 없는 이들의 변명인 경우가 많지 않을까요? "상급 학교에는 꼭 진학시키고 싶다"라고요. 이 또한 아동 그 자체를 생각하지 않는 단순한 명예심에 사로잡힌 경우를 자주 발견하게 됩니다.
가정 교육의 필요성은 단순히 아동의 이중생활을 두려워해서만이 아닙니다. 가정은 인간 본성이 발현되는 장소이기 때문입니다. 이러한 가정 교육이 진정으로 충실해지면 학교 교육의 효과도 누적되어 배가되어야 마땅합니다. 가정 교육의 부진 때문에 학교 교육이 크게 저해되고 있다는 점을 저희는 항상 뼈저리게 느끼고 있습니다.
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어떤 사람이 "아동은 승객이고, 학교는 인력거이며, 교사는 앞에서 끌고 부모형제는 뒤에서 미는 것이다"라고 말했습니다. 천고의 명언이 아니겠습니까? 이래야만 참된 교육의 철저를 기할 수 있으며, 실로 교육은 교사와 부모형제의 협동에 의존해야만 합니다. 가정이라는 것은 학문적, 논리적으로 규명하고자 한다면 매우 난해하겠지만, 이를 통속적이고 상식적으로 고찰해봅시다. 가정이란 친족과 형제가 화목하게 협동하며 살아가는 장소입니다. 다리 밑이나 혹은 허물어져 가는 오두막이라 할지라도, 그곳에서 타인의 방해 없이 친자와 부부가 정신적으로 융합되어 고락을 함께하고 있다면 그것은 훌륭한 가정이 이루어진 것이라 말해도 좋을 것입니다. 저처럼 비록 친자와 냄비, 솥단지만이 제 밑천인 삶일지라도, 스스로 귀한 가정이라 자부하고 있음에 틀림없습니다. 이와 반대로, 궁궐 같은 집에서 나가면 자동차가 있고 들어오면 산해진미의 술과 안주가 있더라도, 방 안의 공기가 정신적으로 냉각되어 있다면 그것은 가정이라고 부르기에 너무나 썰썰하지 않겠습니까? 아동 교육에 있어 가장 중요한 무대인 가정이야말로 언제까지나 온 가족이 다 함께 웃는 얼굴 속에서 정신적, 이상적으로 결합되어 하나의 중추에 의해 통일된 것이기를 바랍니다. 감히 궁궐 같은 집을 부러워할 필요가 없습니다.
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대체로 어린아이는 가정의 꽃이다. 부모라는 줄기와 가지에 활짝 피어난 만발한 아름다운 꽃이며, 진·선·미를 완전히 발휘하고 있다. 아무리 무뚝뚝한 수염 많은 아버지라 할지라도 아기의 천사 같은 미소를 접하면 얼굴 근육이 미동하지 않는 사람이 없다. 하루의 노고도 화초로 인해 씻겨 나가는 경우가 적지 않다. 하물며 장차 큰 창조를 이뤄내야 할 인간의 생생한 싹을 접하고 쾌감을 느끼지 않을 사람은 없을 것이다. 실로 어린아이는 천진난만하고 무사안일한, 일종의 마술사라고 해도 좋을 것이다. 실로 어린아이는 가정을 아름답게 하고 거룩하게 만드는 큰 위력을 지닌 소유자이다.
그런데 이 아름다운 꽃이 어느새 위축되어 가는 것이다. 장차 교사를 난처하게 만들고 남들에게 손가락질받는 고집 불통의, 무정한, 싸움 좋아하는, 게으른 아동이 양성되는 것이다.
이것은 말할 것도 없이, 무정견하고 비구체적이며 비교육적인 동작이나 습관이 점점 성품의 깊은 곳까지 침투하여, 언제까지나 아름다워야 할 가정의 색채가 점차 침식되어 간 결과가 아니겠는가.
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교육자란 월급 40엔을 받고 샐러리맨으로 얼굴이 파랗게 질려 목소리를 높여 외치고 있는 우리들뿐만이 아닐 것입니다. 진정한 교육자란 우리들은 물론 부모 형제, 일반 민중, 나아가 확대하여 산천초목 모든 것이 하나라도 교육자가 아닌 것이 없습니다. 왕왕 "교육은 학교에 일임한다"는 소리를 듣습니다. 그것도 단순한
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지식의 수여를 의미하는 경우가 많습니다. 인간의 본성을 더욱 향상시키기 위해, 학력을 지르기 위해서는 지식이 필요할 것입니다. 그러나 지식만을 많이 얻었다고 해서 그것이 교육의 목적에 도달한 것이라고는 말할 수 없을 것입니다. 또한 "가정에서 학교 교육을 옹호하기 위해 지식의 주입"에만 노력하는 가정도 있습니다. 이 역시 바람직한 가정교육이라고는 할 수 없습니다. 어찌 되었든 서로가 하루라도 빨리 이 가정교육에 눈을 뜨지 않으면 조선의 교육은 막다르기만 할 것입니다. 향후 교육 개조의 근본 문제는 가정교육의 개조에 있음을 생각합니다.
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그렇다면 이 가정교육 개조를 양 어깨에 짊어져야 할 사람은 누구인가. 그 책임자는 아무래도 가정의 주부여야만 합니다. 여기에 여자 교육의普及이 하루속히 이루어지기를 절망(切望)하는 바입니다. 오늘날 해방 운동이 자못 성행하게 되었고, 이 땅에 부인의 사상을 높이고 지위 향상을 도모하는 것은 이 역시 크게 축하할 일입니다. 그러기 위해서는 허영심에 사로잡히지 않고 진정한 부인의 본성에 서서 진실로 표현해야 할 점에 착안하여, 건실하고 주도면밀하게, 진지하게, 이상적·자각적이어야 할 것입니다.
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마지막으로 노력해야 할 것은 가정생활의 특징을 발휘하는 일일 것입니다. 가정은 교육의 근본적인 장소이자,
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국가 흥망의 첫걸음이 되는 장소입니다. 그리하여 가정은 학교가 미치지 못하는 장점을 가지고 있습니다. 이것을 의식하고 완전히 발휘하는 데 노력하는 것은 곧 가정교육의 개조가 되지 않겠습니까. 그 노력해야 할 점을 열거해 보면,
첫째, 가정에서는 부모가 진정한 사랑으로 교육하고, 자녀는 자신의 모든 생명을 바쳐 부모를 존경하는 곳, 실로 경애의 융합, 둘이면서 일체가 되고, 진정 피가 교감하는 곳, 영과 영이 감응하는 곳, 이것은 외부에서 찾아볼 수 없으며, 가정교육은 어디까지나 이 미점을 완전히 발휘하는 데 노력해야 한다고 생각합니다.
둘째, 부모를 존경하는 것은 이미 선천적으로刻인되어 있고, 거기에 복종이 생겨납니다. 그 앙모와 외경, 복종과 희생은 이 역시 다른 곳에서는 찾아볼 수 없는 미점입니다. 이 점을 완전히 발휘시키는 것이 중요하지 않겠습니까. 그런데 왕왕 양친을 멸시하고 반항하여 가정에 분열이 생기는 것은, 가정에서 부모가 진실된 표현을 하지 않기 때문이라고 생각합니다.
셋째, 가정교육이 가장 철저할 수 있는 것은 아동의 특징을 알고 양육하며, 오랜 기간 함께 자고 일어나며 함께 먹고 마시고 고락을 함께하기 때문입니다. 그러므로 가정교육에서는 각자의 특성에 맞춘 교육을 베풀고, 어른은 생활을 통해 정신적 교류를 통해 좋은 감화를 주어야 합니다.
단지 불량한 면만을 관찰하고 질책하여 위축시키거나, 어른의 단점·결점을 관찰할 기회를
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주어 위엄을 손상시키는 일이 있어서는 안 됩니다.
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종래 교사는 자못 무거운 짐을 짊어져 왔습니다. 무더울 때 덥다고 말하는 것조차 부도덕한 인간처럼 해석되어 왔습니다. 그런 식이면 교사의 자격이 부족한 것으로 여겨졌습니다. 교사를 아동의 모범으로 받들어 주는 것은 좋으나, 교사는 모든 면에서 완전무결하고 하나도 결점이 없는 도덕적 품성을 갖추고 있어야 한다는 것은 너무나 고통스러운 일이 아니겠습니까.
교사도 어쩔 수 없이 아동에게 "나와 같이 되라", "나처럼 행하라", "나를 보라"고 노력하고 있으며, 교사의 가치를 정할 때 교사 그 사람의 언행이 직접 아동의 표준이 되는가 여부에 따라 결정하려 하고 있습니다. 결점이 많은 인간에게 "결점이 단 하나도 없는 신처럼 나타나라"고 요구하니 그 노력은 보통이 아닙니다. 결국 결점이 하나도 없는 인간이 될 수 없기 때문에, 아동에게 결점을 보이지 않으려고 노력하는 수밖에 없지 않습니까. 교사의 첫째 가는 노력이 자신의 결점을 숨기는 일에 전력을 다하는 작업이 되는 것을 어찌하겠습니까.
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노련한 교사란 겉치레나 거짓말에 능숙한 이에 대한 찬사입니다. 하지만 인간 생활을 가만히 생각해 보면
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아무리 교사라고 한들 자연의 영역에서 벗어날 수는 없습니다. 신이 아닌 이상 완벽하고 원만한 도덕적 품성의 소유자가 될 수는 없으며 결점은 수두룩하게 가지고 있습니다. 다만 완성을 향해 노력에 노력을 거듭하고 있을 뿐입니다. 결점이 수두룩한 사람을 향해 완벽해지라고 요구하니, 이에 응하고자 교사라는 존재는 애를 씁니다. 거기에 거짓으로 흐를 수밖에 없는 비애가 있습니다. 교사가 자신의 내부를 성찰하고 그 공허함과 빈약함에 놀라며, 또한 공포를 느껴 그 상황을 무사히 넘기거나 땜빵식으로 수습하려 노력하고 있습니다. 이것이 지금의 교사 기질이 아니겠습니까. 나는 이것을 증오해 마지않는 바입니다.
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이에 우리들은 외칩니다. 일반 교사의 생활관을 바로잡아야 한다고. 교사가 "나처럼 되라"고 하는 것은 한편으로 생각하면 지극히 낮은 이상을 제시하는 것이 되지 않겠습니까. 나아가 아동의 자아 성장을 방해하는 일이 되지 않겠습니까. 어디까지나 교사 스스로는 성장해 가고 있는 하나의 과정을 보여주는 것이어야 한다고 생각합니다.
이러한 삶의 방식에는 겉치레도 필요 없고 낙심할 일도 없다고 생각합니다. 안심하고 자신의 진실된 삶을 아동 앞에 제공할 수 있다고 생각합니다. 이렇게 생각해 보면, "진정 스스로가 인간으로서 모든 것을 선화(善化)하고자 삶에 노력하고 있는 사람"이라면 아무리 결점이 많은 교사라 할지라도 적당한(훌륭한) 교사라 할 수 있을 것입니다.
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라고 말해도 좋은 셈이다.
단지 남 앞을 겉치레하고 자신의 결점을 숨기려고만 노력하는 사람이라면, 아무리 형식이 선(善)해 보일지라도 진정한 인간 생활을 하고 있는 것이 아니며, 또한 교사로서 가장 부적당한 추함을 극에 달하고 있다고 말하고 싶은 것이다.
인생은 한편으로 보면 번민과 고뇌이며, 또 한편으로 보면 환희와 법열이다. 이 가운데 서 있는 자기 자신은 불완전과 결함으로 가득 찬 존재임을 생각한다.
고뇌를 환희로 바꾸는 것이 인생의 가장 좋은 삶의 방식이 아니겠는가. 자신의 불완전함을 보다 완전하게 만드는 것이 인생의 걸음이다. 고뇌가 있기에, 불완전함이 있기에 자기 내부의 살아있는 마음의 힘, 성장하는 힘이 활약하는 것이라고 생각한다. 이것이 나의 생활관이자, 나아가 일반 교사의 생활관이기도 하기를 바란다.
──고뇌에서 태어난 빈약한 교사 생활관의 일단을. (끝)
1932년 11월 30일, 중원경 옛터에서
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제27장 충북 도세(道勢)의 조감
지지(地誌)
본도는 조선의 거의 중앙에 위치하여 동쪽은 경상북도, 서쪽은 충청남도, 남쪽은 경상북도 및 전라북도, 북쪽은 강원도 및 경기도와 경계를 이루고 있다. 그 면적은 480방리(方里)로, 대체로 산맥이 둘러싸고 토지가 고조(高燥)하지만, 한강 및 금강 연안에는 수시로 수평 야화(평야)가 발달하여 청주 및 충주 부근에는 비교적 큰 평야를 가지고 있다.
본도의 호수는 157,326호(내지인 2,144호)이며, 인구는 832,066명(내지인 7,735명)이다. 주요 도시(도읍)는 청주 및 충주로, 그 인구는 전자가 12,614명(내지인 2,832명), 후자가 19,345명(내지인 982명)이다.
교통
1. 도로
관내에는 1등 도로 2선, 2등 도로 5선, 3등 도로 31선이 있으며, 이의 개수(改修) 상황은 다음과 같다. 개수 구간은 모두 자동차를 운행하고 있다.
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(표 내용)
1등 도로: 연장 144,281미터 / 전용 거리 110,535미터 / 겸용 거리 33,746미터 / 개수 거리 144,281미터 / 미개수 거리 - / 연장에 대한 개수 비율: 7할 7전 약
2등 도로: 연장 256,697미터 / 전용 거리 201,829미터 / 겸용 거리 54,868미터 / 개수 거리 230,320미터 / 미개수 거리 26,376미터 / 연장에 대한 개수 비율: 7할 9전 약
3등 도로: 연장 915,122미터 / 전용 거리 479,328미터 / 겸용 거리 174,805미터 / 개수 거리 655,133미터 / 미개수 거리 259,979미터 / 연장에 대한 개수 비율: 6할 1전 약
합계: 연장 1,181,017미터 / 전용 거리 791,692미터 / 겸용 거리 327,051미터 / 개수 거리 1,026,734미터 / 미개수 거리 131,355미터 / 연장에 대한 개수 비율: 6할 7전 약
2. 하천
관내의 인정 하천 중 직할 하천이 3선(유로 259구), 지방 하천이 13선(유로 251구), 기타 준용 하천으로 유로 약 8구 이상인 것이 304선이다. 이의 몽리(蒙利, 혜택을 입는) 면적은 약 1만 7천 정보(전체 면적의 2할 5전)이다. 현재 삽항(舟航, 배 운항)의 편의가 있는 것은 한강의 1선으로, 5곳의 포구가 있어 오지 산물의 운출에 편의가 적지 않다.
3. 철도
관내의 철도는 도의 남부 3군을 통과하는 44.6마일, 정거장 7곳을 가진 [경부선]과 조선철도주식회사의 충북선(조치원~충주 간) 2선이 있다. 충북선 중 청안~충주 간 29.4마일은 쇼와 3년(1928년) 12월 25일 개통하여 관내 중부 지대의 교통을 일신하였다.
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4. 사회사업 및 교육
(1) 우량부락
소화 2년(1927년)도 이래 도내 각 군에 2곳씩의 우량부락을 설치하여 산업 개발, 민풍 개선 등 지방 개량의 목적을 가지고 장려·지도해 온바, 그 성과가 볼만한 것이 있음에 감안하여 소화 4년(1929년)도에 더욱 부락 수를 증가하여 지방 개량의 실적 거양에 노력하고 있다.
(2) 사회사업
(가) 궁민 진료: 빈곤하여 치료 자력이 없는 궁민 구제를 위해 도립병원에 치료 환자를 수용하고 있는데, 그 성과가 현저한 것이 있다. 또한 순회 진료반을 조직하여 도내 빈민의 의료를 행함과 동시에 일반민의 진료를 행하고 있다.
(나) 청주 박인회(博仁會): 본 회는 대정 8년(1919년) 4월 청주군 내 유지들을 회원으로 하여 은사 구휼금, 지방비 보조금 등에 의해 경영되며, 군 내 행려병자 수용 치료 및 극빈자 구호 사업에 힘써 상당한 성과를 거두고 있다. 특히 황송하게도 궁내성으로부터 사업 장려의 취지로 수차례 하사금이 있었다.
(다) 충북 유린회(有隣會):
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출옥자 보호를 목적으로 설립된 것으로, 출감자에 대해 의복·여비 지급, 직업 소개, 수산(授産) 사업 등을 시행하여 볼만한 성과가 적지 않다.
(라) 근농 공제조합: 본 도에서의 소농 생산자금 대출 사업은 소화 3년(1928년)도에는 본 사업 창시 첫해인 관계상 취지의 철저와 조합원 지도 훈련에 주력을 기울여, 도내 각 군에 30개 조합을 설치하고 조합원 917명에 대해 자금 총액 1만 8천 2백 60엔을 대출하였는데, 그 성과가 대체로良好함에 비추어 소화 4년(1929년)도에는 더욱 95개 조합을 증설하기로 하였다.
(마) 강연 간담회: 통속 강연회를 개최함과 동시에 소학교·보통학교를 중심으로 하는 보호 간담회, 부락 간담회를 개최하여 지방민의 계발에 이바지하고 있다.
(바) 중견 청년 강습회 및 내지 관찰단: 도내 각 군으로부터 2명 내지 5명의 농촌 중견 청년을 선발하여 농촌 개발에 부응하는 실과 강습회를 개최함으로써 지방 농촌의 진흥을 도모함과 동시에, 한편으로 우량부락의 중심인물을 선택하여 내지(일본 본토) 선진지를 관찰하게 하여 지방 개량에 이바지하고 있다.
(사) 월보 발간:
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소화 3년(1928년) 4월부터 『충북월보』를 발행하여 도내 관공서 및 민간에 무상 배포하여 교화 선전의 자료로 충당하고 있다.
(아) 활동사진: 도민으로 하여금 문화의 혜택을 누리게 하고, 생활 개선 및 민풍 개량을 도모할 목적으로 지방과 소속 활동사진반으로 하여금 순차적으로 순회 상영을 실행하고 있다.
(자) 간이 도서관: 도민의 지덕 향상을 목적으로 간이 도서관을 두어 자유롭게 열람하게 하고, 순회 문고를 설치하여 도내에 회람시키고 있다.
교육
1. 내지인(일본인) 교육
소학교는 현재 학교 수 14개, 학급 수 12개, 아동 수 1,140명이 있으며, 그중 조선인 아동이 20명 있다. 고등여학교는 대정 12년(1923년) 4월 청주에 설치되었으며 4년제로 학급 수 4개, 학생 수 180명이 있고, 그중 조선인 학생은 40명이다.
2. 조선인 교육
공립보통학교는 현재 학교 수 72개, 학급 수 341개, 아동 수 18,000명이며, 그중 내지인
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아동이 14명 있다. 이 밖에 사립보통학교가 3교 있어 학급 수 9개, 아동 수 330명을 수용하고 있다.
고등보통학교는 청주에 있으며 5년제로 학급 수 10개, 학생 수 450명이고, 내지인 학생은 40명이다.
공립농업학교는 청주에 있으며 5년제로 학급 수 5개, 학생 수 240명, 내지인 학생이 10명 있다. 이 밖에 농업보습학교가 2개 있어 학급 수 3개, 학생 수 80명이다. 이상의 여러 학교에 통학하지 못하는 자들에 대해 간이한 초등교육을 실시하기 위해 사설 서당 및 사설 학술강습회를 설치하여 국어(일본어), 산술, 조선어, 한문 등을 가르치고 있다. 현재 서당 수 800개, 아동 수 6,800명, 학술강습회 수 8개, 학생 수 600명이다.
사찰 및 종교
1. 신사 및 신사(神祠) 내지인(일본인)이 집단으로 거주하는 곳에는 신사 또는 신사를 설립하여 두었으며, 현재 그 수는 14곳으로 아마테라스 오미카미(天照大神)를 봉안하여崇敬의 정성을 다하고 있다.
2. 종교 내지 불교 사찰 2곳, 포교소 9곳, 조선 불교 사찰 1곳, 그 말사 35곳, 승려 및 비구니 230명을 산출하고 있다. 그
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밖에 천도교, 시천교 등의 종파가 있으며, 포교소 71곳, 신도 4,000명을 보유하고 있다. 또한 기독교는 포교소 99곳, 신도 수가 8,300명에 달하고 있다.
농업
본도의 경지 면적은 밭 70,373정보, 논 88,498정보로 총 158,871정보이며, 농가 호수는 136,219호, 그 인구는 727,425명으로 총호수에 대한 농가의 비율은 8할 6전 5전에 해당한다.
1. 미작(벼농사) 총생산량은 70만 석으로 금종(錦種)이 대반을 차지하며, 도 외로 이출되는 것이 연간 20만 석 이상에 달한다. 특히 조선 내 인천, 군산, 부산 3개 항구와 거래되는 것이 가장 많고, 최근 일부는 내지 한신(阪神, 오사카·고베) 지방과 직거래를 개시하기에 이르러 쌀의 명성이 점차 인정받게 되었다. 최근의 재배, 생산, 이출 추세는 다음 표와 같다.
(표 내용)
쇼와 원년(1926년): 총 재배 면적 68,937.8정보 / 총생산량 632,924석 / 우량 품종 생산량 내역: 금(錦) 509,734석, 타마니시키(多摩錦) 219,400석, 하야쇼리(早稱力) 51,036석, 기타 53,763석 / 이출 총검사량 61,503석 (기타 29,655석)
쇼와 2년(1927년): 총 재배 면적 68,803.4정보 / 총생산량 732,928석 / 우량 품종 생산량 내역: 금 630,567석, 타마니시키 502,460석, 하야쇼리 53,958석, 기타 66,873석 / 이출 총검사량 72,766석 (기타 22,108석)
쇼와 3년(1928년): 총 재배 면적 66,092.1정보 / 총생산량 541,843석 / 우량 품종 생산량 내역: 금 486,302석, 타마니시키 400,361석, 하야쇼리 26,974석, 기타 51,563석 / 이출 총검사량 54,403석 (기타 26,000석)
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2. 맥작(보리·밀) 및 대두(콩) 농사 보리·밀은 총생산량 약 60만 석으로, 대맥(겉보리)과 소맥(밀)은 '풀츠(Fultz)' 및 '캘리포니아' 종의 보급 계획을 세워 품종의 통일을 도모함과 동시에 비료 증시와 경작 방법의 개선을 촉진하고 있다. 콩은 생산량 20만 석으로 그 뒤를 잇는 도 외 이출 농산물이며, 생산량의 2할은 조선 내 각지 및 내지로 이출되고 있다. 품종은 충북백, 충북황이 대반을 차지하며 품종 통일과 경작법 개선을 통해 더욱 우수한 제품 생산에 노력하고 있다. 최근의 보리·밀 및 콩의 추세는 다음 표와 같다.
(표 내용)
소화 원년(1926년): 보리·밀 재배 면적 81,061.7정보 / 보리·밀 총생산량 603,676석 (대맥 492,885석, 소맥 109,455석, 나맥[쌀보리] 1,466석) / 콩 재배 면적 34,369정보 / 콩 총생산량 201,073석 / 콩 이출 검사량 30,808석
소화 2년(1927년): 보리·밀 재배 면적 81,233.8정보 / 보리·밀 총생산량 586,773석 (대맥 478,993석, 소맥 109,443석, 나맥 1,326석) / 콩 재배 면적 34,179정보 / 콩 총생산량 33,455석 / 콩 이출 검사량 38,347석
소화 3년(1928년): 보리·밀 재배 면적 81,366.0정보 / 보리·밀 총생산량 445,283석 (대맥 373,615석, 소맥 80,770석, 나맥 751석) / 콩 재배 면적 33,950.5정보 / 콩 총생산량 148,646석 / 콩 이출 검사량 25,000석
3. 면화(목화) 목화는 본도의 풍토와 기후에 적합하여 수확량이 많고 품질이 우수하며 방적 가치가 높은 미국종 육지면의 재배를 장려하고 있다. 목화는 자가용을 제외하고는 전부 공동 판매에 붙이고 있다. 또한 도 내에 2곳의 조면(조면기) 공장이 있어, 제면
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하여 방적의 원료로서 주로 오사카 방면으로 이출되고 있다. 소화 3년(1928년)도 총재배 단별(면적), 생산량, 가격 등을 나타내면 다음과 같다.
(표 내용)
육지면: 경작자 수 50,326명 / 재배 면적 11,028.1정보 / 수확량 9,826,359근 / 가격 1,768,700엔
재래면: 경작자 수 3,964명 / 재배 면적 291.9정보 / 수확량 1,127,575근 / 가격 20,600엔
합계: 경작자 수 54,290명 / 재배 면적 12,320.0정보 / 수확량 9,963,934근 / 가격 1,789,300엔
4. 담배 본도 관내의 현재 담배 경작 상황은 재배 면적 4,415정보 여, 경작 인원 140,065명, 납부 수량 1,602,885관 100돈, 그 가격은 2,840,625엔이다. 특히 충주, 음성, 괴산의 각 군은 미국종 황색 담배의 경작에 적합하여 중요한 물산이 되고 있다.
5. 토지 개량 본도의 밭·논 총면적은 871,049정 5단보이며, 그중 관개 설비를 갖춘 면적은 48,133.4단보이다. 현재 수리조합이 설치되어 있는 곳은 의림지, 명암제, 연제, 충주, 제암제, 궁평, 지탄
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리, 추풍령, 다가미, 양산, 이담리의 11개 수리조합으로, 그 총 몽리(혜택) 면적은 2,804단보, 총 사업비는 96만 8,270엔에 달하고 있다. 이들 각 조합의 단보당 평균 수확량은 적게는 2석 2두 1승 6합, 많게는 4석 9두 6승(쇼와 3년도)에 달하여 그 성과가 매우 양호하다.
6. 잠업(누에치기) 본도의 잠업은 근래 눈부신 진보를 이루어 고치 품질의 우수함은 물론 단위 면적당 고치 생산량은 전 조선 중 으뜸을 차지하고 있다. 본년도의 고치 생산량은 봄·가을을 통틀어 3만 여 석으로 예상된다. 생산 고치의 약 8할은 도 내 주요 지역 24곳에서 공동 판매 알선을 하고 있으며, 각 판매소에는 대체로 건고치(乾繭) 장치가 완비되어 있다. 쇼와 3년(1928년)의 잠업 통계는 다음과 같다.
(표 내용)
뽕밭 면적: 5,309.2정보
양잠 호수: 69,996호
누에씨(잠종) 씨받이 수: 56,526장
고치 생산량: 27,721석
공동 판매 수: 18,792석
농가 1달당 고치 수확량: 208합
7. 축산
(1) 축우(소) 총수 6만 1천 두로, 농가 100호당 약 44두, 경지 면적 2정 6단보당 약 1두의 비율이다. 그
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개량·증식 방법으로는 씨수소 배치, 보호료 및 씨붙이기(교배) 장려금 교부가 있으며, 나아가 축우 구제 사업으로서 폐사우(폐사한 소)에 대한 대체 소 구입 자금 교부 또는 저리 자금에 의한 일소(耕牛) 대출을 실시하여 차츰 그 효과를 거두고 있다.
(2) 양돈 버크셔(Berkshire) 종으로 개량하기로 하고 씨돼지 배포를 실시함과 동시에, 한편으로 쌀 생산 지대의 가축이 없는 농가에 대해서는 거부(비료 수집)와 비육을 목적으로 하는 버크셔 종 새끼돼지를 대출하여 양돈 장려에 노력하고 있다. 현재 돼지 수 커버는 4만 9천 두로 최근 현저한 증가 추세를 보이고 있다.
(3) 양계 총수 17만 2천 마리 중 개량종이 5만 마리이다. 종래 백색 레그혼, 나고야 종, 횡반 프리머스록, 로드아일랜드레드 및 미카와 종의 5종을 장려 품종으로 정하여 이의 개량에 노력하고 있다.
임업
본도의 임야는 본도 전체 면적의 7할 3전, 즉 54만 896정보 여를 차지하며, 한강 및 금강 대하천의水源을 이루기 때문에 임야의 개량은 본도 임정(林政)상 극히 중요한 사항이다. 이에 총독부 시
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정 이래 식림 장려, 보호 단속, 영림 감독 등 임야 복구에 다대의 노력을 기울여 묘목 양성 및 조림 장려를 행함과 동시에 다이쇼 7년(1918년) 이후 사방공사를 시행하였다. 이로 인해 시정 당시 1년에 겨우 20만 본 안팎이던 식재 본수가 쇼와 3년(1928년)에는 2,500만 본으로 격증하였다. 또한 관내 수요조차 충당하기 부족했던 묘목 양성이 최근 매년 500여 만 본을 타지로 반출할 수 있게 되었으며, 특히 청주군 부강에 위치한 묘목 양성 사업은 전 조선 1위로서 널리 세상에 알려지게 되었다. 한편 관내 임상은 단양, 제천, 괴산의 일부를 제외하고는 대체로 어린 나무 숲(유령림)이어서 아직 이용하기에 이르지 못했으나, 영동군 상촌면의 호두, 단양군 영춘면의 평양 밤과 같은 것은 특수 임산물로서의 가치를 지니고 있다. 단양군 매포면의 눈측백나무(측백나무) 천연림은 전 조선에서 볼 수 없는 아름다운 숲으로서 그 씨앗 역시 수요가 매우 많다.
상공업
1. 상업 본도의 수입(도 내 들여오기) 화물의 주요 품목은 직물, 수산물 및 잡화류이며, 수출(도 외 보내기) 화물은 농산물 및 축산물류를 위주로 하여 내지 및 경성, 인천, 부산 방면과 거래된다. 각 군 소재지 및 철도 연선의 각 역은 모두 소도시의 형태를 이루어 당시 소규모 거래가 이루어지고 있으나, 일반적인 거래는 관내 55곳의 재래시장에서
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이루어지고 있다.
2. 공업 공업은 원료가 부족한 관계로 딱히 볼만한 것이 없으나, 제천군, 단양군 및 충주군 일부 지역의 제지업은 그 유래가 깊어 연간 생산액이 약 18만 여 엔이라는 다액에 달해 극히 유망한 사업이다. 또한 청주군 북일면 초정리에 천연 탄산수가 용출되어 조철(조선철도) 충북선 내수역에서 1리(자동차 도로) 떨어진 지점에 위치하여 '크리스탈' 및 '사이다'를 제조하고 있다. 원천은 하루에 넉넉히 600석이 용출되며 수질이 뛰어난 것은 동양 유일이라 칭해지고 있어, 1년에 210만 상자(가격 1,000만 엔)의 생산을 올리고 있다. 청주 지방은 근래 순차적으로 공업지로 발전해 오고 있어 일찍이 조면 공장, 제마(마직) 공장의 설립이 있었고 나아가 제사(실뽑기) 공장의 건설을 보았으며, 가내 공업으로 포백(직물) 공업 및 고리버들 세공 공업 등이 있어 모두 도의 지도·장려 하에 양호한 성과를 거두고 있다.
금융
농업을 산업의 중축으로 하는 본도에서 농업 자금의 수요는 결코 적지 않다. 이에 완화를 도모하고자 각지 적절한 장소에 금융조합을 설치하고, 조합원의 대부분을 중산층 이하의 농민에서 구하여 이들의 경제 증진을 도모하고 있다. 그 수는 29개로 3개 면 반에 1개 조합 비율이다. 현재 조합원 2만 4천 여 명, 적립금 62만
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2천 여 엔, 대출금 400만 1천 여 엔, 예금 251만 4천 여 엔에 달하여 해마다 건실한 발달을 이루고 있다. 이 밖에 금융기관으로 은행 지점 3곳, 무진회사(계 모임 형태의 금융사) 1곳이 있다.
의료 기관
(표 내용)
도명: 충청북도
병원: 공립 1곳 / 사립 1곳
의사: 37명
한지의사(한정된 지역에서만 영업하는 의사): 43명
치과의사: 15명
의생(한의사): 620명
산파: 37명
의치 영업자: 9명
종두 인가원: 16명
간호사: 10명
침술·구술(침뜸): 7명
명소 및 구적(유적)
본도에는 명소와 유적이 적지 않다. 2천 년 전 다리를 놓았다는 청주 석교, 1천 년 전 건립에 따르는 청주 철당간(철종), 임진왜란의 옛 싸움터인 충주 탄금대, 산 깊고 그윽한 운치가 한가롭고 아담한 보은 속리산이 가장 유명하다.
그 밖에 괴산군 청천면 화양동이 있다. 약 300년 전 송시열이 이곳에 거주했다고 전해지는 곳이다. 또한 한강 유역에 있는 단양팔경은 빼어난 봉우리와 기이한 바위들이 이어지고 맑은 물줄기가 어우러져, 그 산수의 아름다움은 이미 천하절경이다.
