(早川)まず、風化する被爆体験について考えます。
被爆者の高齢化が一段と進んでいます。広島、長崎の原爆による被爆者は全国で18万人あまり、その平均年齢は、ことし80.13歳と初めて80歳を超えました。この1年間に亡くなった人たちは9千人あまり。残された人生を考えますと、今のうちに被爆体験を語り継いでおきたいと焦りを募らせています。
石川さんは、こうした被爆者の思いをどう受け止めますか?
(石川)核実験の映像は幾度と見ましたし、核兵器の威力は取材の中で米ソの専門家から何度も説明を受けました。しかしその数字の凄まじさゆえに理解できないのです。広島の爆心地では3000度を超えるという破壊の凄まじさ、熱線、衝撃波、放射線、電磁波が人々に襲いかかりました。その原爆の非人道性を、身を以て体験した人間、被爆者の言葉以上に伝えるものはありません。
(早川)被爆体験を語り継いでいる当時中学生だった男性は、こどもたちに「みんな、朝ご飯を食べてきたかい?」と尋ねることから始めます。朝ご飯も満足に食べられずに学校に通っていた戦時下の生活から知ってもらいたいからです。「自分の話したことを本当にこどもたちが理解しているのか最近とみに不安に感じる」と話します。学校から送られてくる感想文には判で押したように「原爆の悲惨さがよくわかった」と書いてあり、「よくわからなかった」「もっと知りたくなった」という感想に出会えず、伝わっているのかよくわからないというのです。
原爆が落とされる前に、日本がアメリカと戦争をしていたこと、戦争でお互いを傷つけあっていたこと、そうした戦時下で、こどもたちはひもじい思いをしながら学校に通っていたことなど、実感が伝わっていないのではないかと言います。
NHKが行った世論調査で、広島と長崎に原爆が投下された日付について正しく答えられなかった人が全国で7割程度に上り、被爆体験の風化がうかがえます。
石川さん、こうした被爆体験は、海外にはどう伝わっているんでしょうか?
(石川)平和式典を見てあたかも突然空から原爆が降ってきたかのような印象を受けると言われたことがある。原爆で「日本人は第二次世界大戦の被害者である」という意識を持ったのではないか指摘もあります。
一方アメリカでは「原爆投下が日本の終戦を早め、上陸作戦に伴う多大な犠牲を避けた」と正当化する論理がいまだに一般的です。しかし日本の敗北は明らかで、軍事的には全く必要のないもので、戦勝国とはいえ許される行為ではありません。
原爆の威力を知るという核開発の論理とソビエトへの脅しという冷戦の論理が背景にあったのでしょう。原爆の非人道性を世界に伝えるためにも、なぜ8月6日の原爆の投下に至るまで戦争を終結できなかったのか、そもそもなぜ戦争を始めてしまったのか、歴史を直視して訴える必要があるでしょう。
(早川)たしかに歴史を直視することが大事ですね。
次に、いまだに解決していない原爆症の認定について考えます。
原爆症は、原爆で受けた放射線による影響で病気や障害があとになって発症した被爆の後遺症のことです。こうした放射線による人体への影響はハッキリとは解明されていません。直接被爆した人たちだけでなく、肉親を探したりするため、あるいは被害者の救援に当たったりするためにあとから被爆地に入った人たちの中にも、年を経て体調を崩す人が少なくありません。がんや白血病などの病気を発症した人たちが国に原爆症と認めてほしいと申請しましたが、国は原爆症と認定するには「科学的根拠」が必要だとしてきました。厳格な対応で申請を退けられた人たちが、被ばくの影響を総合的に判断して、原爆症と認めてほしいと集団で訴訟を起こしたのです。
(石川)早川さん。初期のアメリカの調査を見ますと、原爆の破壊力に関心が集中し、残留放射能については考慮されていません。地点ごとの放射線レベルなど初期のデーターも十分ではありません。病気と被爆との因果関係の証明は事実上困難だと思います。
(早川)ところが、国は「科学的根拠」にこだわり、訴訟に負け続けました。
これを受けて、6年前、国と被爆者団体との間で爆心地からの距離など一定の基準を満たせば、がんや白血病以外の病気も積極的に認定することで合意し、集団訴訟は一旦終結しました。その結果、被爆者全体の1%に過ぎなかった原爆症の認定者が5%近くに増えました。しかし、その後、基準の範囲内であってもなお国が原爆症と認定しないケースが相次いだため、再び集団訴訟が起こされ、今も裁判が続いています。この裁判でも国の敗訴が続いています。
(石川)高齢化を考えると一日も早い解決が必要ですね?
(早川)たしかに、病気なのに裁判に耐えられる体力のある人だけが訴訟を起こしているという側面があります。
裁判に訴えている一人は、被爆当時生後5か月。母親とともに広島を離れて疎開していましたが、被爆の翌日、夫を探しに向かった母親に背負われて、広島に入りました。被爆者健康手帳には、母親より爆心地から遠い場所に入ったように記録されています。今となっては、事情はわかりませんが、手帳の交付を申請した父親が、被爆者への差別があった時代に息子が差別されないようにと控えめの申請をしたのではと考えています。二度にわたるがんの手術を乗り越え、今も通院を続ける身。「被爆体験を語れるだけの記憶がない分、気持ちを伝えきれず、もどかしい」と話しています。
【VTR】 被爆者 山口仙二さん 82年 国連軍縮特別総会
「ノーモアヒロシマ ノーモアナガサキ ノーモアウォー ノーモア被爆者」
(早川)この演説をきっかけに「ヒバクシャ」という言葉が世界的に知られるようになりました。被爆者の実相は長い間封印されてきました。この問題を石川さんに話してもらいます。
(石川)こちらの年表をご覧ください。米ソ核競争が始まるころ被爆者の姿や声が世界にはまだ伝えられていなかったのです。戦時下の日本そして占領下ではGHQの検閲によって悲惨な被曝者の状況が報道されませんでした。核独占を維持したいアメリカは、原爆の威力、破壊を軍事機密としました。被爆の実相は隠されたのです。
もしも被爆の実相がすぐに全世界に伝えられていたら、その後の核軍拡競争は起き出たでしょうか。世界の世論の抵抗はもっとずっと強かったはずです。
広島・長崎の直後に思いとどまる機会はあったのかもしれません。
アメリカ指導層でも核兵器の非人道性に対する疑念が生まれ、核は必要最小限に留め、核兵器の国際管理も提言されました。しかしその声は少数派で、核兵器開発は続けられました。
一方ソビエトはアメリカが先制攻撃をしてくるのではないかと疑い、核開発を急ぎました。「自衛のための核」という論理の誕生です。1949年ソビエトがアメリカの予想よりはるかに早く第一回の核実験に成功しました。核の独占は崩れ、米ソによる核軍拡競争が始まりました。
(早川)被爆者が核廃絶に向けて取り組むまでには時間がかかりました。立ち上がるきっかけとなったのは、1954年3月、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験でした。この海域で操業していた日本漁船およそ860隻が放射能を含んだ「死の灰」を浴び、このうち静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人全員が日本に帰ったあと入院し、無線長の久保山愛吉さんが半年後に亡くなりました。この事件で、国民の間に「原水爆禁止」の世論が盛り上がり、日本被団協が結成されました。当時を知る人は、「それまでじっと我慢し続け名乗りを上げられなかった被爆者が、世論の高まりに背中を押されて、被爆から10年たってようやく立ち上がることができた」と話しています。この時から世界に向けて声を上げ始めたのです。
(石川)核の均衡のもとで核兵器を増やし続ける米ソ両大国に対して、広島・長崎の声が「核戦争には勝者も敗者もなく世界は破滅する」という危機感を訴え続けました。そして米ソ両大国の指導者も共有するようになり、冷戦末期の核軍縮につながりました。
しかしこの70年間、世界のヒバク者の数は増えました。核実験場周辺に住む人々、また核兵器の材料となるプルトニウムを取り出す再処理工場周辺での汚染や、核物資が飛散する爆発事故も起きました。さらに原子力発電所でもチェルノブイリ、福島と二度の大事故によって放射能が飛散し、多くの住民が故郷を追われました。
(早川)原爆による被爆者も、初めから健康被害を受けたと認識できた人ばかりではありません。からだに目立った外傷がないのに健康がすぐれない人たちは、当時「ぶらぶら病」などと言われ、被爆を言い訳にしてサボっているだけだと差別を受けていた時代がありました。
(石川)私は核エネルギーという新たな発見に科学者が魅せられて、自ら進んで原爆から水爆へと核の巨大化に進んだ点を指摘したい。核分裂反応という科学的発見、それを軍事利用できると気が付き、政治家に提案したのは科学者です。科学の進歩が果たして人類に幸福をもたらすのか、そして道義的に正しいのか。核兵器がもたらしたこの問いに我々は答えたのでしょうか。
(早川)最後に、被爆70年の今、日本から何を伝えるべきなのか、石川さんはどう考えますか?
(石川)アメリカ、ロシアの代表は広島の式典に参加しました。しかしウクライナ危機の中で米ロの対立が深まり、核軍縮交渉は事実上止まっています。安倍総理は「核なき世界を実現するため核保有国と非核国との橋渡し役になる」と述べました。米ロに無条件に核削減交渉の再開を求めるべきでしょう。
被爆者が手記を書き、絵を描き、詩や小説を書き、地の底から湧き出るような声が世界に広島の実相を伝えました。その力が風化しないように引き継いでいくことが、戦争で原子爆弾を投下された唯一の戦争被爆国としての道義的な使命であり、責任であると思います。
(早川)平和宣言で広島市の松井市長は2020年をめざす核廃絶を決してあきらめないと述べました。しかし、この春のNPT・核拡散防止条約の再検討会議で合意に至らなかったようにその実現が難しくなっています。合意が先に延びた分、被爆者の間からは「生きている間に核のない世界を見届けるのが難しくなってしまった」とあきらめの声が聞かれます。しかし、あきらめてはいけない。70年間背負い続けてきた被爆体験、これを次の世代が引き継ぎ、世界へと発信し続けることで、国も市民も核廃絶につなげる努力を惜しんではならないと思います。
(早川 信夫 解説委員/石川 一洋 解説委員)