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信仰生活シリーズ 4 - 李耀翰
生活の中の心情復活
一人の人
一九八四年四月三日(火)統一神学校
この説教はチャペルの時間に語られたもの
聖書のローマ人への手紙五章12節から15節までを見ると、アダム一人のために多くの人が死んだが、イエス・キリスト一人のために多くの人が豊かな恩恵をただで受けるようになるという聖句があります。この聖句の中に「アダムー人のために……」「イエス一人のために……」という言葉がありますが、今日は正にこの「一人の人」という題目で考えてみようと思います。
自分の肢体を見てみると、足一つ、手一つ、またどこか肢体の部位一つのために不具になれば、全身が異常な人として扱われます。手一つが不具になれば、全身が異常な人として扱われます。手一つが不具になることによって全身が不具の体になるのです。このように解釈すると、本文を理解するのに助けになると思います。
一人の人の価値
一人の人のために家庭が不幸になったというのは、その一人の人がなくてはならない人であるときです。アダム家庭を見ると、神の全創造目的がアダムー人にあったということが、アダムー人のためにすべての人が死ぬようになった事実から分かります。アダムー人によって、神の創造目的が完全に失敗してしまいました。そのアダムー人のために神と関係のない後孫になってしまいました。
神とイエス様との関係を見るとき、イエス様はその関係において絶対的に本来のアダムの位置にいなければならない立場にあったわけです。そうであってこそ、それがイエス様一人によって全体が無罪となって解放され、神と父子の関係を結ぶことができる絶対的な理由になるのです。
このような原則を踏まえて見るとき、私たちは自分自身が家庭の中でなくてはならない存在であり、各自が与えられた責任の中で「一人」としての役目を果たさなければならないことが分かるわけですが、それはどのような関係ゆえにそうなのかということを問うようになります。自分の肢体の構造を見ても、手はなくてはならない手、指もなくてはならない指であるように、ある一つの存在というものは、一つだけれども全体を代身した一つであり、全体と関係を結んだ一つであるということを知らなければなりません。
このような関係を見ると、なくてはならない自分にならないかぎり、人との関係で、その人のゆえにこうなったとか、ああなったとか言えないわけです。人との関係の中でなくてはならない人ではなく、いてもいなくてもいい人であり、無視される人だとすれば、それは迷惑をかける人です。このようになるときには、かえっていないほうがいいと思いませんか。
イエス様は十二弟子を、なくてはならない存在として選んだのですが、イスカリオテのユダに対しては「あなたは生まれなかった方がよかったであろう」と言われました。彼は心配をかける存在だったということです。存在は存在ですが、必要と感じられない存在だったということです。
それゆえに、人は皆必要とされる人にならなければならないということに間違いはありません。いかなる分野であろうと、なくてはならない自分になろうということは、一瞬一瞬の生活の中でたゆまず責任を持って、二人」としての役目を果たそうということです。
一人の責任
すべての存在は、それぞれの創造目的のためにつくられたとおりに、ある役目を果たしています。機械一つとってみても、非常に小さい付属品の一つでも、もしそれがなければ力が出せません。本当にこれを見て驚きました。例えば、紙切れみたいなパッキングーつをはめて発動させると、とても力強く動きます。しかし、機械を長く使うと、そのパッキングも古くなってきてパッキングの役目が果たせなくなり、そのとき機械の発動は持続できなくなります。
人は心情の存在です。ところで心情の誘発は、とても小さなことを通してなされます。とても小さいことを通して心情を発動させなければなりません。心情を保って心情的な発動をさせるというのは、機械を発動させることよりも難しいことです。愛というのはもっと難しいものです。心情はお互いのサイズがきちんと合わないと発動しないようになっています。きちんと合うとき、あなたであり私であるという心情の発動が起こります。人間が作った機械も精密ですが、神が創造した人間においては、愛を持つべき存在として、どれほど精密につくられたかということを皆さんは推測できるはずです。
さあ、機械の小さな一つの付属品のように、自分はいかなる分野であろうとなくてはならない自分であり、どこまでも自分の存在位置で必要とされなければならない自分であることが分かります。
この責任を果たすことにおいては、自分を肯定することができません。人は一生、自分を肯定できません。全体との関係の中にあるので自分を肯定できないということを知らなければなりません。すべての機械が有機的な関係を持っているように、自分という存在は全体目的のためにある者として、自分が自分の責任を果たせなければ、無用の者です。自分の責任を果たせなければ、落ちて出ていってしまうのです。
心情世界で授受できない人は、すぐに疎外され、相対基準を結べずに審判を受けるでしょう。今日私たちの家庭、社会、国家、世界においても、あるいは心情の世界においても、授受できなければ埋もれてしまいます。だれも相対しないというのです。
信仰者には限りない自己発見が必要
今日この世は、心情の責任とか心情の法に対しては全然知らない世界で生きていますが、復帰の信仰路程を行く私たちは、果たしてどれほど自分を発見し、どれほど復帰された自分なのかを知らなければならないのです。自分自身がどのような自分なのかを知らなければなりません。
ある関係の中で、なくてはならない自分なのかどうかということは、主体と対象の相対関係を通じて感じるようになっています。復活したとか、新生したとか、あるいは自分の心が喜び、希望を得たというのは、自分個人として得たものではありません。それは何かによって得たものです。心情の発露というのは必ず「~によって」というものであり、相対基準を結ぶとき現れるのを見ると、自分個人のものではないということを知ることができるのです。自分がだれかによる自分であるのに、自分一人で考え、決定を下すというのは強盗と同じです。それゆえイエス様もそのような人たちを指して、強盗だと言いました。イエス様は神を独占したかたとして、ご自身から離れて自分かってに関係を持ったと思われる人は強盗だとみなしました。そのように言われたことを踏まえてみると、理解しにくいみ言ですが、心情の世界では分かるのです。
信仰の道において喜びがあり、望みがあり、意欲があるという時、それが自分のものなのかというのです。自分のものでもないのに、自分のものとして扱うので、それが強盗でなくて何でしょうか。喜び、望み、意欲というのは相対的関係から生じるものです。
私たちは自信があるというとき、その自信をだれによって得たのかというのです。それが自分のものだと思い、かって気ままにしようとするのですね。ここですでに堕落性が再発してはいませんか。私たちは腹が立ったり、あるいは無視されたりしたとき、「私はあなたでなければだめだというのか。私はあなたがいなくてもいい」と背反するような性質を持ってはいませんか。その人が自分になくてはならない人なのに、いなくてもいいというように言ってしまうのです。
これは自分を肯定することです。その人が、自分になくてはならない人であることだけは間違いないので、私はあなたがいなくてもいいという言葉が出てくるのです。本当に関係がないなら、どうしてそのような思いが出てくるでしょう。本当に関係がないのに、どうしてそのような反感が起こるのかというのです。反感とは、すでにその人でなければだめなのに、その人が自分を無視するので、それに反発して生じるのではありませんか。反感を抱いてはなりません。反感を抱くときは自分が滅ぶのです。
ですから、私たちが人の過ちを記憶したり、反感や不快を持つことは、自滅行為なわけです。いかなる逆境においても自分を殺さないためには、自分を肯定するなというのです。これは本当に大きな問題です。それゆえ、関係において必要とされないなら悔い改めなさいというのです。無視された、疎外された、お互いにぶつかったというたびに悔い改めなければなりません。なぜか。自分がその環境の中で必要とされないという証拠が現れたからです。必要とされるなら無視されるでしょうか。
必要とされうる実績があるのに必要とされないときには、問題があるといえます。自分でなければだめなはずなのに無用のものとして扱われたり、無視されたり、いてもいなくてもいい人として扱われるようなことが生活の中にあります。全体目的の中での自分を肯定しようとしたのですが、主体者が喜ばしく思わずにそうするのですね。では、このような場合にはどうしたらよいでしょうか。
神はしばしば自己否定する人をさらに否定してみます。本当に本物なのか、それとも偽物なのかというのです。自己否定したのに、神がさらに否定するのですから、これは差し迫った問題です。自分としては自己否定し、全体目的のためにある自分を対象として主体者を肯定しているのに、その主体者が自分を疑う、このようなときはちょっとやるせないでしょう。全体目的のために全力を尽くして愛着を持ったのに、主体者がどうしてもやるせなくしようとするとき、寂しく思う人は偽善者です。そのように無視され、やるせないような目に遭いながらも、黙々と行く人は義なる人です。
一人の人の役割
自己を否定することについては、ヤコブ路程やモーセ路程を通してたくさんの教訓を得ることができます。イエス様もそうでした。自分は一パーセントも間違いなく、天とみ旨のためにこの民族を愛したのに、神が知らないと否定する立場に置かれたので、もはやだれを信じたらよいのか、自分の行く道はどこなのか分からなくなったと、普通なら言える立場ではないでしょうか。十字架への道を歩みながら、どれほど心が暗かったでしょうか。考えてみてください。
イエス様は生まれたときから悲しい路程を歩み、み旨のために逆境と謀略の中を誤解と迫害を受けながら、命をささげて三十年余りの生涯を過ごしました。そのみ旨のために苦労するイエス様に能力を下さった因縁の深い神だったのですが、最後の場でイエス様を否定したとき、主はどれほど驚いたでしょうか。それを否定として受け取らなかったイエス様は、本当に驚くべきかたです。
自分はその人のためにいるのにその人が私を否定する、この峠を越えるのが本当に難しいのです。人の気分は環境によってよく誘発され、刺激も受けますが、このような自分であっては「一人」の役割を成し遂げられないわけです。ですから、自分の本質をよく知らなければなりません。
アダム一人が全体目的を挫折させたことを見るとき、神が彼一人に抱かれたその願いの基準は、とてつもないものだったことが分かるのです。そして、アダムがどのような本性とどのような資格を備えた姿であったのかということが想像できるでしょう。ただ環境によって左右され、ああだこうだと言う人を、一人の人として立てることができたでしょうか。
家庭において一人の人というのはだれのことですか。それは心情一体化した夫婦です。一人の人といっても、一つの個体をいうのではありません。一人の人というのは、心情の原動力により、主体と対象が授受して一つになった心情のポイントを指すのです。夫婦の立場での一人の人というのは、なくてはならない夫婦、距離があってはならない夫婦、無視しても愛であり、悪口を言っても愛という立場です。夫婦で生活しながら、お互いによく気を遣います。ご飯はおいしいかと問いながら、不満なことはないかと見ます。このようにお互い気を遣って夫婦が心情の一体化をなし、距離がなくなることを一人の人というです。
自分の存在位置において、なくてはならない一人の人の役割を果たす人は、神に捕まります。モーセも神に召されたときは行かないと言ったのに、パロ王の前に出るようになりました。これを捕まったと表現してみましょうか、拉致されたと言いましょうか。愛によって関係を持ったことなので、拉致という言葉は使えませんが、なくてはならない価値のある人は神に捕まるのです。
私たちの先生も神に捕まって苦労しています。人のことがかわいそうだと泣きに泣いて、神に出会うようになりました。二日でいうと、泣き疲れて神に捕まったのです。このように神の前に記憶される人物は、捕まったら許しがありません。しかし無用なものはサタンも持っていかないし、神も持っていかないのですね。
さて、一人の人に対するみ言の内容は分かりましたか。アダム一人によって全体が罪人になりましたが、イエス様一人によって万民が神の息子になることができるということが理解できますか。その内容を実感するぐらいよく理解できたなら、今自分はどのような関係の中で、どのような一人の人を通して修正されるのか、すなわち自分の価値が決定されるのかということを知らなければなりません。
自分は生涯、主体者一人との関係を生命視しなければならない自分だというのです。それゆえ心情的な関係を通して、いかに一人の人とよく授受し、心情的な復活をするのかということが重要なのです。一人の人との関係は、その基準が高くなれば全体と通じるときがあるように、主体者一人の前になくてはならない、必要とされる自分となることが一人の人としての役割を果たすことだ、という意味でお話ししました。
〈祈祷〉
一人の人、一つの家庭を通して、天の星と地の砂のように神の国、愛の園をつくろうとされた父の願いを私たちは知っております。一人の人と共に住むことのできる園、一人の人と同じ国をつくり、個性自体が全体の前になくてはならない愛の肢体を、この地上に繁殖しなければならないということを思わされます。
今日この世は、二人いれば二人、三人いれば三人が一つのごとく調和することのできない不信の姿になり、そこから生じた悩みと苦痛の家庭や国家や世界であるということを考えてみるとき、自分は一つの父母によって、一人の人によって、なくてはならない私にならなければならないということを知りました。
非常に多くの民の群れが住んでいますが、なくてはならない国民として、自分の位置において自分の責任を間違いなく行うことにより、全体が一つのようになるのであります。愛の社会と国家と世界がなされるとはとても想像できない世界に、私たちは住んでおります。しかし、これからは真の父母によって万民が子女となり、真の父母の真の愛によって全体が一つになれる望みを、私たちは見いだすようになりました。
今日私が自己の存在圏内で、家庭なら家庭、ある所属ならその所属圏内において、なくてはならない自分になるためには、一つの父母の愛をもって連結されなければならない私であることを知るようになりました。
ここで神学を学ぶ息子・娘たちが、学ぶことを通して自分自身の個性を見つけ、真理としての自己の本性を見いだし、日ごと心情の力を得て力強く育つ息子・娘となり、将来どこへ行ってもなくてはならない人物として備えられ、完成されうる愛の実体になるようにしてください。
光はどこに行こうとなくてはならないように、心情の本体として、行く先々でなくてはならない自分であり、愛を生む自分であり、心情の原動力をなす自分として再創造され、この学生時代をまじめに、責任を持って成し遂げることのできる姿として導いてください。真の父母のみ名を通してお祈り申し上げます。アーメン。