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世界への神の希望
5. 神のみ言による審判
韓国から、はるばるアメリカにやってまいりましたが、神はずっと以前からここアメリカに私を駆り立ててこられました。私がもし何か新しいことを明らかにするのでなければ、皆さんにお話しするために、わざわざここにやって来はしなかったでしょう。皆さんが既に御存じの事柄を繰り返すだけなら、私がどうしてここに来なければならないでしょうか? 私は、皆さんと私のために、神の霊が私たちの心の中に直接語りかけてくださるように、心を開いてこの時を共に過ごしたいと思います。イエス様は、山上の垂訓でこう教えられました。
恐れ入りますがどうか今夜は、皆さんが心の貧しい人になってくださるようにお願いします。柔和であってください。義に飢え渇く人になってください。そうすれば私たちは、共に天国を見るでしょう。そして私たちはみな満ち足りるでしょう。さあ、それでは始めましょう。
クリスチャンとキリスト教自体が、越えなければならない最後の峠があります。聖書の預言によると、クリスチャンたちは世の終わりを通過し、大いなる恐るべき主の日に火の審判を受けなければなりません。聖書は、終わりが近づくにつれて、天にも地にもたくさんの異変を見るようになるだろうと言っています。
イエス様は、再臨を約束された時、非常な切迫感をお伝えになりました。イエス・キリストが昇天された日からクリスチャンたちは、彼が地上に再び帰られるのを待ってきました。過去2000年の歴史の中で、キリストの再臨を見ることがすべてのクリスチャンの希望でした。しかし、この劇的な出来事は決して起こりませんでした。多くの人々は待つことに疲れてしまいました。ある人々はついに、この再臨は文字どおりには起こらないのだと決めてしまいました。彼らは、「これは神が私たちの注意を喚起するための方策の一つにすぎない」という考えに至ったのです。
キリスト教のみならず、世界の他の多くの宗教も何らかの世界の終わりを予言しています。しかし、それを予言したとしても、彼らには世界の終わりの明確な定義がありません。だれもが、自分たちの宗教や教派の創始者に従って世界の終わりの定義をしているのです。だれが、本当の意味で普遍的な理解を示しているのでしょうか?
私たちは、聖書が預言している世界の終末の意味を明確にしなければなりません。私たちはまた、時が満ちて主が来られる時に、いかに再臨されるかということも知らなければなりません。
まず第一に私たちが知らなければならないのは、神は破滅させるために世界を創造されたのではないということです。神は常に善なる世界が永遠に続くように計画されました。永遠のために創造されない神なら、全知全能の神ではあり得ません。しかしながら、「現在の」世界は、終わりを迎えなければなりません。なぜならば、堕落が悪の歴史を出発させたからです。世界の終わりは不可欠です。なぜならば、私たちはまだ、神が計画された善なる世界を完成していないからです。善なる子女になる代わりに、私たちは悪なる被造物になってしまったのです。
アダムとエバはエデンの園で堕落しました。彼らは当時、まだ神のみ意を十分に理解する位置にいませんでした。彼らは混乱状態に陥り、間違った選択をしました。彼らは、善なる世界をもたらしたであろう神への忠誠と、実際に堕落をもたらしてしまったサタンへの忠誠の、どちらを取るかを迫られました。二つの明確な選択のうちで、アダムとエバは誤ったほうを選んでしまいました。彼らは悪をこの世にもたらしたのです。神の本来の願いは理想の世界――神が永遠に存続させようとした善なる繁栄の世界を創造することでした。しかし人間が堕落し、神の善なる世界は突然終わりを告げ、人類歴史は間違った方向に出発したのです。
それゆえに、世界の歴史は悪の歴史です。神は善の種を蒔き、そして善の実を刈り取るつもりでした。しかし、神の実が熟する前にサタンが盗んで、悪の実を刈り取りました。人類の歴史は雑草の実なのです。
では、終末がいつ来るのか調べてみましょう。これは私たちにとって非常に重要です。福音書は、終末には神が羊と山羊を分けるであろうと言っています。これら二種類の動物の違いは何でしょうか? 羊は羊飼いである主人を識別しますが、一方山羊は飼い主に従いません。今日、皆さんは、世界が二つの対立する陣営に分かれていることを知っています。一つは民主主義世界であり、もう一つは共産主義世界です。私たちの自由主義世界は、「神がおられる」と言い、飼い主を受け入れます。共産主義世界は「神は存在しない」と言い、主人を否定します。このように、自由主義世界は羊によって象徴され、共産主義世界は山羊によって象徴されるのかもしれません。このような二つの対立するイデオロギーの世界が形成される時、私たちは終末に処しているのだと知ることができるのです。
終末のもう一つの印は、甚だしい不道徳です。サタンは不倫の愛のゆえにサタンになりました。愛はサタンの非常に恐るべき武器です。サタンに打ち勝つために、人はより偉大で、より良心的な愛で武装しなければなりません。サタンは常に、安っぽい愛で人々をだまそうとしています。しかし、天の愛は美しく、犠牲的に与えることにおいて建設的です。サタンの愛は頼りなく、短期間しか存続しませんが、天の愛は永遠に不変です。
最終的にこれら二種類の愛は、終末において互いに対立し、ぶつかるのです。アメリカは正に今、終末に直面しており、私たちはこの国において二つの極端な愛を見ることができます。つまり、フリーセックスという肉欲的な汚れた愛と、良心的な人々によって今宣布されつつある、深い所に根差した天の愛です。世俗的な愛と天的な愛が、ここアメリカにおいて互いに対立しているのです。サタン的愛の領域がより広くなるにつれて、一層の破壊が生じるでしょう。家庭は崩壊し、人々は堕落するでしょう。人生は惨めなものになり、より多くの人々が自殺するようになるでしょう。しかし、天的な愛が拡大するにつれて、私たちの人生はより豊かになります。これら二つの愛の世界を分ける審判の一線があり、皆さんはどちらか一方の側に立たなければなりません。両方に立つことはできないのです。
終末は、善悪を分別する時であり、着実に、より混乱していくのです。イエス様に対して最も信仰的な信者や、地上で最も良心的な教会でさえも、自分たちが絶対的にサタンや罪を分別しており、イエス様が彼らに行うように言われたとおり、正確に従っているということを誇りをもって宣言することはできないのです。だれも、苦しみも涙もない理想世界において完全な愛の中に生きていると言うことはできません。どの教会も、クリスチャンのだれも、そのようなことを言うことができなかったのです。
これは、他のあらゆる所と同様に、教会内にもサタンが存在しており、また、世界中に罪が存在するように、教会にも罪が存在していることを意味します。もしこれが真実であり、もし、教会の人々が愛したり憎んだりしていることが、世の中の人々が愛したり憎んだりしていることと何ら違いがないとすれば、世の中と教会との間には、ほとんど違いがないということになります。サタンは、教会と世の中のどちらに、より一層楽しみを見いだすでしょうか? サタンは教会の罪のほうをより好みます。なぜならば、彼らを基盤にして、サタンは神に向かってこう反抗できるからです。「教会にいるこれらの人々を見てみなさい。彼らはお互いを愛していません。それどころか、彼らはお互いに憎み合っています! 彼らはまた信仰的でもありません。これは私の教会に違いありません」と。もし教会がこのような状態のままでいるならば、終末には、悪なる世俗世界と共に全く何もなくなってしまうでしょう。これが神の方法です。神はその他の社会の審判の前に、そのような教会を審判されるのです。
私が初めてアメリカに来た時、本当に驚いたことは、アメリカの人々がイエス・キリストの名前や神を、決して賛美するためではなく、最悪の位置に置くための感嘆符として使っていることでした。彼らが「ジーザス・クライスト!」と言う時、何を意味しているのか、私は不思議でした。そして私は、彼らが何か悪いことを表現しているのだということに気づきました。このような習慣はどうしてできたのでしょうか? 想像できる最高の言葉が、人々に起こり得る最悪のこととどういうかかわりがあるというのでしょうか? 皆さんは時々、ある種のクリスチャンは、世俗世界の人々よりも悪いかもしれないと感じたことはありませんか? 神を信じていると宣言する人々が実際には、信じない人々よりも悪いかもしれないのです。彼らはより自己中心的で、人々を愛さず、与えることも少ないという具合です。
アメリカ国家は、ユダヤ・キリスト教の原理の上に建設されていますが、アメリカ人は非常に個人主義的になってしまいました。イエス様は、個人主義的な方でしたか? イエス様は自己中心的な性質は何ももっておられなかったのに、どうしてアメリカ人はそんなにも自己中心的で個人主義的になったのでしょうか? 私たちは、もし人々が本当にイエス様を信じているならば、そのようにはならなかっただろうという簡単な結論に至るのです。イエス様のために、そして神のためにイエス様を信じる代わりに、ある人々は、自分自身の利益のためにイエス様を信じているのです。言い換えれば、彼らはイエス様と神を自分自身のために利用しているのです。皆さんはこのことについてどう考えますか?
それでは終末とは何を意味するのでしょうか? いったい何が終わろうとしているのでしょうか? 悪が終わろうとしているのです。神がすべての悪に終止符を打つのです。神の新しい出発から、人類のための新しい機会が訪れるのです。そして、神がもともとの理想において望まれた善が実現され得るのです。イエス様が来られる時、何をされるのでしょうか? イエス様は、世界を消し去るために来られるのでしょうか? 「審判」という言葉は、しばしば神が怒ってすべてを消滅されるという意味に誤解されています。それは、メシヤが来られる目的ではありません。すべての目的は、エデンの園で成されないままになっている理想を成就することであり、個人、家庭、社会、国家、そして世界の完成のために働くことです。審判とは、この地上で神の国の完成を見るための、神の建設的な仕事なのです。
エデンの園でアダムとエバは、善を発展させる代わりに悪に陥ってしまいました。人間はサタンに征服され、罪の子供になりました。ゆえに聖書では、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であ」る(ヨハネ8:44)と言っています。もし堕落が起こっていなければ、真の支配者は神だったはずです。しかし神は今日、この宇宙の王様ではありません。なぜならば、サタンが神の玉座に座っているからです。神が本当に世界を治めるためには、その前に、神は人間の堕落から生じたすべての結果を取り除かなければならないのです。
さて、終末とは神がこの悪なる歴史を終わらせ、新しい神の時代を出発される歴史上の時点のことです。それは古い悪の歴史と新しい善の歴史とが、交差転換する時なのです。
この定義から考えて、なぜ聖書は、天変地異が終末の印だと預言しているのでしょうか? 預言されていることが実際に起こるのでしょうか? 聖書は次のように言います。
これは何を意味するのでしょうか? 何を私たちは予期すべきなのでしょうか?
まず第一に、これらのことは文字どおりに起こることはありませんから御安心ください。神は宇宙の何ものをも破壊されたりはしません。神はたびたび、その真理を比喩や象徴で表現され、これらの聖句も象徴的に成就されるでしょう。第二に、神は宇宙を破壊する何らの理由ももっておられません。罪を犯したのは男性と女性であって、宇宙ではありません。私たちだけが、本来の神の創造の理想からそれたのです。なぜ神が、神が意図されたごとくに創造の目的を達成した動物や、植物や、他の被造物を破壊しなければならないでしょうか? 神は、そのような無実のものを破壊されたりはしません。
私は、「世の終わり」と言う時、それは目に見える世界の破壊ではなく、古い様式の終わりであり、新しい人間の時代の始まりを意味しているのだということを、皆さんに理解していただきたいと思います。それゆえに聖書は、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」(伝道の書1:4)と言っています。黙示録によると、「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り……」(黙示録21:1)とあります。その新しい天と新しい地というのは、神による新しい歴史と、新しい主権の時代が到来することを意味しています。皆さんが家を買ったなら、家族と家財道具をもって引っ越しませんか? そして、皆さんは新しい家をもったと言い、皆さんはその家の新しい主人なのです。それと同じように、神の子たちがこの宇宙を支配すれば、それは新しい天と新しい地になるのです。
冬が終われば春が来ることを、私たちは知っています。しかし正確にどの時点から春が始まるか、言えるでしょうか? いったいだれが、移り変わりの正確な一瞬を指摘できるでしょうか? それはできません。なぜなら、一つの季節から次の季節への移り変わりは静かに、また気づかぬうちに起こるからです。冬の終わりは春の始めと似ていますから、変化を識別できる瞬間はないのです。
いったいいつ前の日が終わり、新しい日が始まるのでしょうか? 変化は暗やみの中で起こりますが、私たちがある日から次の日に移ることは疑いの余地がありません。変化は、最初は気づきませんが、また必然的でもあり、変更することもできません。30億の人々が地球上に生活していても、そのうちのだれ一人として、どの瞬間に前の日が終わり、新しい日が始まるかということを正確に指摘することはできません。ですから人間的観点から見ると、物事が起こる正確な瞬間をいつも知り得るとは限らないということが分かります。しかし神は冬が春へと移行する時を知っていますし、夜が昼へと明ける時を知っておられます。そして、神は新しい時代への変化を指し示すことができるのです。
私たちが新しい歴史に一歩を踏み出すことは、真っ暗な夜の中から、明るい夜明けが生まれ出てくるようなものです。善と悪の交差点ははっきりとしていません。皆さんはそれが起こる時にはそれに気がつかないでしょう。しかし、太陽があす昇ってくるのと同じく、それは絶対に起こるのです。
それでは私たちはいかにして、終末が来る時を知ることができるでしょうか? 神はこの瞬間を、私たちに秘密にはされないでしょう。神は警告もなく、急に地上に裁きをもたらしはしません。神は大いなる恐るべき日の到来を、預言者を通して知らせます。アモス書第3章7節には、「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と記されています。神は御自分の代身者を選び、その人を通して計画を告げられます。聖書の歴史の中で神はいつもそうしてこられました。
神の預言者として選ばれる人は、この悪の世界に生きている人間の一人でなければなりません。しかし、その人は絶対的信仰を示して、神に使われる価値のあることを示せる信仰者でなければなりません。これをなすためにその人は、この世のすべての成功を捨て、完全にこの邪悪な世界を切り離さなければなりません。彼はすべての邪悪な関係を断ち切って、自分自身を清くしなければなりません。彼はこの邪悪な世界ではもてはやされないでしょう。神は絶対善であるがゆえに、悪の正反対に当たります。ですからいつも、悪の側は、神から遣わされた者を迫害するのです。
ノアはそのように、神によって選ばれ、悪なる世界で蔑まれた人でした。神はノアに舟を造るように命じました。神は、川岸や海辺に連れていく代わりに、ノアを山の頂上に連れていきました。神の命令は、悪の世界の目から見ればあまりにもばかばかしいものだったので、多くの人々がノアを笑い者にしました。彼がばかにされたのは、人々が彼を特別に変わり者だと思ったからではなく、ノアが神の命令にそれほどまで忠実に従ったからでした。世間の目からは、神のやり方は理解できなかったのです。このように、とても本当とは思えない命令を与えてこそ神は、御自身の闘士として選ばれた人間の信仰を試すことができたのです。これがノアの時代に起こったことなのです。
そしてアブラハムの時も何の違いもありませんでした。神は偶像商の息子であるアブラハムを召命し、「すぐに故郷を離れなさい!」と命じました。神はいかなる妥協をも許されません。神は悪が完全に否定される立場をとられます。それ以外のどんな方法でも善は出発できないのです。
神は、悪の一かけらも残らない新しい歴史を始めると言われました。神は人間から完全な応答を要求されます。神の命令に従う者は、悪の世界を完全に否定するところから出発しなければなりません。それゆえにイエス・キリストは、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ10:39)と教えられたのです。イエス様はまた、「……家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ10:36)とも言われました。
皆さんは、これはどういうメッセージだろう、と尋ねるかもしれません。これは、神が御自身の民族を選ばれ、彼らを、悪によって拒絶される位置に立たせるための神の方法です。さもなければ、神の闘士は神のために何もできないことになります。ですから、神の基準の観点から見ると、現在のクリスチャンたちはとても安楽な時を過ごしていることになります。これはとてもおかしなことです。なぜなら、キリスト教の教えの中には、安楽な道は何も示されていないからです。いったいどれだけのクリスチャンが、本当に神の道を歩もうと真剣になっているのか、私は疑問に思います。神の要求は絶対です。それは中途半端を決して許しません。
これから私の背景について話してみましょう。私は韓国でクリスチャンとして育てられました。キリスト教は、すべての宗教の中心です。その理由は、キリスト教では神との愛と生命の関係と、他のために自分自身を犠牲にする道を教えているからです。私はそのことのゆえにキリスト教を選びました。私は、キリスト教だけで、そしてキリスト教だけを通して、私たちは全世界を救うことができるという結論に至ることはあまりにも当然であると思いました。なぜならば、キリスト教では、イエス様の聖なる愛と生命を基盤として、神と私たち自身との関係をもつことを教えているからです。
若い青年時代、私は強制収容所、炭坑、物乞い、湾岸労働、農業、漁業など、人間生活において最も絶望的な、苦しい状況を経験しながら日々を過ごしました。私は、売春婦の世界でさえも、人間生活のあらゆる側面を見ました。私は、なぜ女性が売春婦になり、なぜ男性が売春婦の所に行くのか学びました。私は、人間生活のありとあらゆる惨めさを研究したのです。
私が東京で学生だったころ、私は最も苦悩している人々が生活している所を探して汽車に乗りました。雨の日も、私は汽車から降りて、不幸に見える人々のそばに行ってベンチに座り、彼らと友人になりました。私は常に、「この人が私の兄か父であるとすれば、そして私のことでこの人が苦悩しているのだとすればどうだろうか、私はこの人のために何をしてあげることができるだろうか?」と考えました。
私は、私の大学の学生を観察しました。彼らは常に笑い、話し、非常に騒がしくしていました。私は、自分自身を彼らと比較して、こう考えました。「あなたたちの笑いには意味がなく、何の重みもない。しかし、沈黙と祈りを通して、私は人生の問題の解答を求めているので、人々は将来希望を見いだすだろう」と。私は、愛すべき学友のつまらない陽気は、煙の一吹きのように消えてしまい、私が社会の虐げられた人々と分かち合っている不幸や悲しみは、世界のために新しい未来をもたらすだろうということを知っていました。
私はこのようにして、貧困で惨めな所に行き、坑夫や労働者の家を訪ねながら、青春時代を過ごしたのです。そしてまた私は、お金を節約して最高のホテルで一週間過ごしながら、中間層の人々や上層階級の人々とも知り合いになりました。私の村では、私は罪を犯したこともないのに、人々が私を疑い始め、自由に動き回ることも、また自由に生活することもできませんでした。私は国と世界について考えていたのです。それゆえに、私は完全に誤解されました。人々は私を笑い、私を指さしました。一度、私の生涯の使命を担ってからというもの、私はあらゆるレベルにおいて反対されたのです。私の村から反対され、社会から反対され、国から反対されたのです。最も激しい反対が、既成のキリスト教会から来ました。教会の牧師や長老たちが私を指さし、異端ということで私を非難して、彼らの会衆にこう告げたのです。「文師の近くにさえも行くな。彼には悪魔がついている!」と。私の親戚は、私の親族だということだけで虐待されました。私が旅館やレストランに行けば、歓迎されませんでした。私は何も悪いことをしておらず、罪を犯したこともありません。私がやっていたことは、彼らが理解できない、可能な限り最高の目的を追求することだけだったのです。
そのような環境のもとで、真の友人を得、小さな組織を創立することは容易ではありませんでした。しかし、イエス様と霊界が常に私の味方でした。統一教会の草創期、だれも教会を証す者はいませんでした。メンバーたちは聖霊に触れ、導かれて来たのです。
韓国動乱の時、私は、北韓から釜山まで歩いて旅するのに4カ月かかりました。韓国では、男性はある種の白い服を着ます。4カ月も着れば、それがどんなに汚れてしまうか、皆さんは想像もできないでしょう。非常に汚れたので、私はそれを裏返しに着ました。眠る場所はなく、空き地があっただけです。それは12月のことであり、私が釜山に着いた時は、非常に寒かったのです。この夜の寒さを逃れるために、私は軍隊のタンク集積場へ行って働きました。なぜならば、働くほうが、眠るよりも容易だったからです。
昼間、私は山へ行き、木々の間で眠る場所と、私自身の時間をもちました。私はそれを楽しんだのです。私は働きに行けば、おもしろい話をし、労働者たちが私の所に食べ物を持って集まってきました。しかし、私は常にそのように生活できたわけではなく、小さな小屋を建てましたが、それは、壁と屋根が土と石でできた非常に簡単な住まいで、犬小屋よりましだとも言えないほどでした。私が家を建てようとしていた所には全く平地がありませんでした。それで坂に建てたのです。私が小屋を建てた所には、床の中央を通って流れる泉がありました。私は箱で一時的な屋根を造りました。部屋の大きさは、約1.8メートルの長さです。私はまだ4カ月着古した服を着ていました。それを洗濯するような場所はどこにもなかったのです。そのような悲惨な状況の中で、霊的に導かれた人々が私を見つけたのです。私がそのような服を着ていたにもかかわらず、彼らは来たのです。
それでは、いかにして私たちは、神の道を明確に知ることができるでしょうか? それでは、神の摂理の歴史を調べてみましょう。今日私たちは、終末を予期しています。神は以前にも悪なる世界に終末をもたらそうと試みられたことがありました。例えば、ノアの時です。この時は神が悪なる世界に終わりをもたらし、善の世界を始めようとされた歴史の交差点でした。ノアは、神の摂理の中で選ばれた中心人物でした。ノアの使命と、終末をよりよく理解するために、私たちはいかにして悪の歴史が始まったかということを、もっと十分に知りたいと思います。
エデンの園で神は、アダムとエバに戒めを与えられました。その戒めは神のみ言でした。そして、サタンが彼らに近づき、うそで彼らを誘惑しました。そしてそのうそは、悪の言葉でした。アダムとエバは、その二つの言葉を選択しなければならない立場にありました。真理が一方にあり、偽りが他方にありました。彼らは偽りのほうを選んだのです。
これが人間堕落の経路だったので、世の終末に神は、人類に真理を与えられます。神のみ言は、その預言者を通して来るでしょう。もし人々が神のみ言を受け入れるならば、彼らは死から命に移るでしょう。なぜなら、真理は命へ導くからです。人間は偽りによって死に、真理によって私たちは生き返るのです。
それゆえに、裁きは言葉によって来ます。これらの神の裁きの言葉は、神によって選ばれた預言者によって明らかにされるのです。これが終末の過程です。新しい真理の言葉に耳を傾け、これに従う者は命を得るでしょう。この言葉を否定する者は、死の中で生き続けるでしょう。
神はみ言を宣言するために、ノアを選びました。ノアの宣言は、「洪水が来る。救いは箱舟だ」というものでした。人々は、ノアの言葉に耳を傾けていれば助かることができました。しかし、人々はノアを気違いのように扱い、彼らは滅びました。なぜなら、彼らは神のみ言に逆らったからです。聖書によると、ノアの直接の家族である8人だけが箱舟に乗ったのです。この8人だけが信じ、この8人だけが助かったのです。
神はノアに、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」(創世記6:13)と言われました。これが実際に起こったでしょうか? 確かに悪い人々は滅びましたが、その過程で物質世界がなくなったでしょうか? そうではありません。この聖句は、文字どおりに成就したのではなく、神は地球を滅ぼされはしませんでした。神は、ノアの家族という善なる人々のみを残して人々を根絶し、悪の主権を打ち壊しました。これが、ノアを通して、本来の善なる世界の復帰を始めようとされた、神の方法でした。
もし神がこの時に復帰を完成していたなら、私たちは終末についてもはや聞くことはなかったでしょう。いったん善なる完全な世界が実現されれば、もう終末は必要ありません。何ものも、神の完全な王国の永遠の統治を妨げることはできないのです。
しかし、私たちが今日終末を予期しているという正にこの事実こそが、ノアの時に摂理は成功しなかったということを証明しています。洪水のあとで何がノアに起こったかを、一部始終お話ししなければなりませんが、私は今夜はそのことについてあまり時間を割けません。簡単に申しますと、またもやノアの息子ハムを通して、ノアの家庭に罪が入り込んだのです。これによって神の洪水審判は無に帰し、邪悪な人類歴史はイエス・キリストの時まで続いたのです。
キリストの降臨によって、神はもう一度終末をもたらそうとされました。イエス様は、天国を地上に出発させるために来られました。ですからイエス様が最初に言われた言葉は、「悔い改めよ、天国は近づいた」でした。確かに、イエス・キリストが歩まれた時は終末でした。その大いなる恐るべき日の到来は、イエス様が生まれる約400年前に、預言者マラキによって預言されました。
イエス・キリストの裁きは、文字どおり火によって行われたでしょうか?イエス様の時に、すべてのものを文字どおり灰にしてしまう日が訪れたでしょうか? いいえ、私たちは、そうではなかったことを知っています。これらの預言されたことが当時そのごとく起こらなかったので、ある人々は、それらのことは再臨の時のことを指していたに違いないと言います。しかし、そんなことはあり得ません。
洗礼ヨハネは、最後の預言者としてこの世に来ました。イエス様は言われました。「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」(マタイ11:13)と。洗礼ヨハネが来ることによって、預言とモーセの律法は終わりを告げるべきだったのです。これが、イエス様が起こるだろうと言われたことなのです。イエス様以前のすべての預言の目的は、イエス様を迎える準備をすることであり、そして、イエス様が来られるまでに何を成就すべきかを知らせることでした。これらの預言は、キリストの再臨の時のためではありません。神は霊肉ともの完全な救いを成し遂げようと計画されて、神の息子イエス様をこの世に送られたのです。最初の降臨の時に救いが成就されなかったので、初めて再臨が必要となったのです。
それではなぜ、イエス様の時が終末だというのでしょうか? 私たちは既にその答えを知っています。イエス様は悪主権を終わらせ、地上に神の主権をもたらすために来られたからです。これは旧約時代の終わりであり、新約時代の始まりでした。イエス様は新しい真理のみ言をもたらされたのです。
イエス様がもたらされた福音を、人々はどのように受け止めたのでしょうか? 彼らは、イエス様の教えを受け入れず、賛美しませんでした。彼らは旧約聖書の文字にとらわれていて、新しい啓示の中に、神の霊が宿っていることを感じることができませんでした。イエス様を神の子として証すべき、正にその預言のゆえに、イエス様が犠牲となられたということは皮肉なことです。モーセの律法の文字によって、彼は罪人にされたのです。盲目的に、彼の教えと愛は拒絶されたのです。
イエス様の時代には、多くの有識者、多くの宗教指導者、そして律法と預言者によく通じた社会の多くの著名人たちは、メシヤを待っていました。もしメシヤが来て、旧約聖書をそっくりそのまま一言一句まで正確に繰り返したとしたなら、彼らはどれだけ喜んだでしょうか8 しかしイエス・キリストは、モーセの律法をそのまま繰り返すために来られたのではありません。彼は新しい神の律法を宣言するために来られたのです。人々は全く見当外れだったのです。そしてイエス様は訴えられました。イエス様に反対する人々は彼にこう言いました。「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としている」(ヨハネ10:33)と。
聖書にはこう書いてあります。「そこで彼らは彼(イエス様の弟子の一人)をののしって言った、『おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ』」(ヨハネ9:28、29)と。人々はイエス様を、このように見ていたのです。モーセの律法に従順に従った者たちは、イエス・キリストに背いたのです。宗教指導者の最も信仰深い人々が、イエス様のみ言と復活によって裁かれた最初の人々だったのです。
それでは、今度は「火の裁き」の意味を明確にしたいと思います。新約聖書には、「……天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」(ペテロⅡ3:12)と書いてあります。この途方もない預言はいかにして実現するのでしょうか? それは文字どおり起こるのでしょうか? そうではありません。この表現には象徴的な意味があります。神は、地上に御自身の理想を実現せずして、地球や、星や、すべての被造物を滅ぼすはずはありません。もしそんなことをすれば、神は敗北の神になってしまいます。そうすれば、だれが神の征服者になるでしょうか? それはサタンです。こんなことが神に起こるはずがありません。
私たち人間のレベルでさえ、いったん何かをやると心に決めたなら、それが成就するまで見届けます。全知全能の神がそのみ意を成就されようとするなら、もっとそうであるに違いありません。聖書の中で、火の裁きについて神が話されていることは、文字どおりの炎によって裁きをもたらすという意味ではありません。重要な意味は、象徴的な意味なのです。
それでは、火について語っている他の聖句を考察してみましょう。イエス様はこう宣言されました。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ12:49)と。イエス様は文字どおり燃え盛る火を投げられたでしょうか? もちろん違います。
聖書の中の火は、象徴です。それは神のみ言を意味しているのです。ですからヤコブの手紙第3章6節では「舌は火である」と記しているのです。舌は言葉をしゃべり、そして言葉は神から来ます。イエス様御自身も「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ12:48)と言われています。
現代の社会では、裁判所の言葉が審判を下します。その言葉が法律です。この宇宙の中では、神が裁判官の立場におられるのです。イエス様は、人間を訴えるサタンに対抗する権威をもって、弁護士として来られました。サタンはその言葉で人間を讒訴しますが、これらは偽りの訴えです。イエス様は、信仰者たちの主張を擁護し、彼の基準は真理の言葉です。神が判決を下されます。神の愛が基準となり、そして愛は神の言葉です。地上の法廷も天上の法廷も、何ら変わりがなく、共に火ではなく言葉によって裁判を行います。
ですから審判が下される時に、世界は火で焼かれてしまうのではありません。聖書はこう言います。「……この者(邪悪な者)を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケⅡ2:8)と。神のみ言はイエス様の口の息です。イエス様は神のみ言によって邪悪な者たちを根絶するために来られたのであり、そして「……その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(イザヤ書11:4)のです。それでは「口のむち」とは、何でしょうか? 私たちは、この象徴はイエス様がそれを通して神のみ言を語る舌を意味していると見ます。
この点を、完全に解明しましょう。イエス様が人々に、こう教えている箇所を見てください。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5:24)。私たちは、真理の言葉によって死から命に移行するのです。神は、皆さんを焼き尽くしてしまうためにメシヤを送られるのではありません。神は、皆さんの家に火を投じるためや、皆さんの社会を破壊するためにメシヤを送られるのではありません。しかし、もし私たちが主によって語れる神のみ言を拒否すれば、私たちは裁きによってとがめられるほかは何の選択もありません。その理由はこうです。
初めに神は、人間と宇宙を、その言葉――ロゴスによって創造されました。男性と女性は神のみ言を否定し、そして堕落しました。霊的な死が、それ以来支配してきました。救いのみ業を通して、神は私たちを再創造してこられたのです。私たちは、神のみ言への不従順によって堕落したので、同じ神のみ言に従順することによって再創造されるのです。神のみ言は、主によって与えられます。み言を受け入れることは、死から命をもたらします。そのような死とは、私たちが住んでいる地獄のことです。このように、神のみ言は裁きであり、そしてそれは皆さんに、真っ赤な炎よりも、ずっと深い影響をもたらすことでしょう。