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世界への神の希望
6. イエス様と再臨
私は、すべてのクリスチャンが理解するために、非常に重要ないくつかの神からの新しい啓示について語ろうと思います。私はまた、選民イスラエルについてもたびたび言及するつもりです。聴衆の皆さんの中には、きっとたくさんのクリスチャンやユダヤ人の方々がいらっしゃると思います。私は、すべてのクリスチャンの兄弟姉妹を心から愛してしますし、ユダヤ民族を高く評価しています。私がこれから話すことには、決して私の個人的な感情は入っていないということを、最初に御理解していただきたいと思います。私はただ真理の証をしているだけなのです。
時として真理を証すことは苦しい仕事です。それでもそれは、成し遂げなければならない使命であり、私の義務なのです。今夜の私のメッセージの内容は、皆さんのこれまでの理解と食い違うかもしれません。ある事柄は皆さんにとって、とても新しいことかもしれません。時々、摂理の中において見られるように、神は人々が衝突するのを見て楽しんでおられるかのようです。イエス様は、人々を不敬の言を発する者、また蛇のような者だと非難した神のメッセンジャーであり、確かにある人々を怒らせました。もしイエス様がその当時の人々に、彼らは素晴らしい神の子だと言っていたなら、殺されたでしょうか? 例外なく、孔子やモハメットのような他の聖人たちも、何か聞きたくないことを世界に宣言しました。どうか、皆さんがこれから聞くことについて、真剣に考えてくださるようにお願いします。
もしイスラエル国家が、真心をもってイエス・キリストを受け入れていたとすれば、どうなっていたでしょうか? イスラエル国家がイエス様と一つになったことを想像してみてください。それは何を意味したでしょうか? 第一に、イエス様は殺されなかったでしょう。人々は、イエス様を生きた主としてたたえたでしょう。それから彼らは、生けるキリストと共にローマに進軍し、ローマは、イエス様が生きておられるうちに神の子を受け入れることができたでしょう。しかし、歴史の悲しい現実の中では、イエス様の弟子たちがローマを征服するのに4世紀もかかったのです。イエス様は一度もイスラエル選民に受け入れられず、彼が必要としていた彼らの支持を決して得ることができませんでした。彼は、神の国を地上に建設するために来ながら、実際は弟子たちに、自分がだれであるかを秘密にするように注意までしなければならなかったのです。なぜなら人々は、彼のメシヤとしての正統性を受け入れず、それゆえに彼は、王の王となれる力が得られなかったからです。
今日、私たちは多くの学ぶべきことがありますが、また盲目的に信じてはなりません。私たちは、聖書の背後にある隠された真理を知らなければなりません。イエス様が十字架についたのは御自身の意志によるのではなく、他の人々の意志によってでした。人類が彼をメシヤとして信じようとしなかったので、イエス・キリストは殺されたのです。
今、私は大胆な宣言を行っています。イエス様は死ぬために来られたのではありません。イエス・キリストは殺害されたのです。最も準備された宗教の指導者たちが彼を十字架につくよう引き渡したのです。ローマ総督のピラトはイエス様を許したかったのですが、彼はバラバを代わりに釈放するよう迫られたのです。何と残念なことでしょう! 何という悲劇でしょう!
このことは皆さんにとって衝撃的で、非常に驚異的なニュースかもしれません。しかし皆さんが単に驚くだけなら、私の目的が分かっていただけておりません。イエス・キリストの時代に生きていた人々は、恐ろしい間違いを犯しました。しかし、彼らは今日の私たちと比べて、そんなにも無知であり、無意識だったでしょうか? いいえ、全くそうではありません。彼らは旧約聖書を一字一句学び、モーセの律法を暗記していました。彼らの理解に基づけば、イエス様はメシヤとなるための資格にそぐわなかったのです。
その時点でイスラエル国家は、とても難しい立場にいました。もし律法と預言を成就しようとすれば、彼らは、自分たちが理解したモーセの律法を捨てなければならなかったのです。2000年間の伝統は、旧約聖書に基づいて行われてきたのです。人々がある朝目を覚まして、彼らの律法の解釈を完全に訂正し、イエス・キリストを神の子として完全に受け入れるということは、とても難しいことでした。目が律法の文字に縛りつけられていたそれらの指導者たちは、ただ律法の精神を見失っていたのです。
旧約聖書を開いて、マラキの預言を調べてみましょう。「……主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる……」(マラキ書4:5、6)。イスラエルの人々は神の約束をはっきりと知っていました。彼らはそれを暗唱していました。そして、彼らはメシヤが現れる前に、エリヤが来ることを予期していました。ですから、メシヤが正に来た時には、彼らは当然、「エリヤはどこですか?」と尋ねました。
エリヤは、イエス様より約900年前に、奇跡的な業を行った預言者でした。そして、彼が火の車に乗って天に昇ったということが書かれていました。エリヤが天に昇ったことから、彼は天から下ってくるものだと思われていました。そのような奇跡が、イエス様が現れる前に起こったでしょうか? 人々は、エリヤの到来について何かニュースを聞いたでしょうか? いいえ、聞きませんでした。彼らがある日聞いたのは、私は神のひとり子「神の子」であると宣言しているイエス・キリストの声でした。そしてイエス様は、弱々しくではなく、権威と力をもって語りました。そんな人間を無視することはできません。
これは人々に大変なジレンマをもたらしました。彼らは直ちに、「もしこのイエスがメシヤなら、エリヤはどこにいるのか?」と聞きました。彼らは当時、メシヤを待ち焦がれていたので、エリヤをも待望していたのです。彼らは、エリヤが空の真上の天からまっすぐ下ってくるだろう、そしてメシヤもそのすぐあとで、同じようにして降臨するものだと信じていました。
ですから、イエス様が御自身を神の子として宣言された時、それを聞いた人々は困惑しました。もしエリヤが来ていないのなら、メシヤが来るはずはありません。そして、エリヤが来たと彼らに告げる者はだれもいません。イエス様の弟子たちもまた、混乱しました。彼らが福音を宣べ伝えに出かけていった時、人々は、イエス様が神の子であり得ることを執拗に否定しました。なぜなら弟子たちは、エリヤが既に来たということを証明できなかったからです。彼らは、どこへ行っても、この問題に直面したのです。
イエス様の弟子たちは、旧約聖書について教育を受けていませんでした。彼らが伝道に出掛けていくと、多くの知識人たちは、「君たちは旧約聖書を知らないのか? 君たちはモーセの律法を知らないのか?」と質問して、彼らを非難しました。弟子たちは、律法や預言者の聖句を通して攻撃されると、困惑しました。ある日、彼らはイエス様のもとに帰ってきて、質問をしました。
イエス様によると、洗礼ヨハネがエリヤだったのです。
これは真実です。私たちは、イエス・キリストの言葉に従って真理を決定したのです。しかし、イエス様の弟子たちはこの事実を、長老や、祭司長や、律法学者たちに納得させることができませんでした。そのような考えを支持する唯一の権威は、ナザレのイエスの言葉だけだったのです。だからこそ、洗礼ヨハネの証言が非常に重要だったのです。でもどうでしょう、ヨハネ自身も質問を受けた時に、自分はエリヤではないと否定したのです! 彼の否認は、イエス様をうそつきのようにしてしまったのです。
聖書によると、
ヨハネ自身は「私はエリヤではない」と言いました。しかし、イエス様はその前に「彼はエリヤである」と言われたのです。
ヨハネは、人々がエリヤが既に来たことを認めることを、ほとんど不可能にしました。しかし、イエス様はとにかく真理を宣言されたのです。彼は、「……もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人(洗礼ヨハネ)こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ11:14)と言われたのです。イエス様は、大部分の人々は真実を受け入れることができないことを知っておられました。真実を受け入れる代わりに、彼らはイエス様の動機について質問したのです。イエス様がメシヤのように見えるためには、エリヤがまず最初に来ていなければなりません。そこで人々は、イエス様が自分を偉く見せる目的のためにうそをついていると思ったのです。神の子はますます人々から誤解されていったのです。
これは、非常に深刻な状況でした。あの当時、洗礼ヨハネの影響力はイスラエルの隅々にまで及んでいました。しかしイエス・キリストは、当時の社会の中で、世に知られない目立たない人物でした。だれが、イエス様の言葉を真理として受け取る立場にいたでしょうか? このヨハネの失敗が、イエス様の十字架の主要な原因となったのです。
洗礼ヨハネは、既にヨルダン川で、神の霊がイエス様の頭の上に下っているのを見ていました。その時、彼はこう証言しました。
なるほど、洗礼ヨハネは証を立て、その時、神が彼に意図された使命を果たしました。しかし、あとになって彼は疑うようになり、ついにはイエス様を取り巻く多くのうわさに負けてしまいました。あるうわさは、イエス様は父なし子、私生児だと言いました。洗礼ヨハネはもちろんそのうわさを耳にし、そんな人間がどうして神の子であり得ようかと疑いました。洗礼ヨハネは、イエス様の証をしたにもかかわらず、のちに疑うようになり、彼を裏切ったのです。もし洗礼ヨハネが、イエス・キリストと真に一体となっていたとすれば、彼は人々をして、イエス様をメシヤとして受け入れるよう動かすことができたでしょう。というのは当時、洗礼ヨハネがもっていた力と影響力は、とても偉大だったからです。
私は皆さんに、多くの尋常ならざることを話していますから、皆さんは、私が何の権威によって話しているのかと聞かれるでしょう。それは、啓示の権威が共にある聖書の権威です。さあ、聖書を一緒に一語一語読みながら、洗礼ヨハネがいかに振る舞ったかを見てみましょう。
これは、彼がイエス様を神の子として証してからずっとあとのことです。どうして彼は、「あなたが神の子としてきたるべきかたですか?」などと、聖霊の証を受けたあとで聞くことができたのでしょうか? イエス様は本当に悲しかったのです。彼は怒りを感じられました。イエス様は洗礼ヨハネに対して、「はい」とか「いいえ」と、明解に答えることを拒否されました。その代わりに答えて言われました。「私につまずかないものは幸いである」。イエス様が意味されたことを、言い換えてみましょう。「ヨハネよ、私はあなたが私につまずいたことを残念に思う。一度はあなたは私を認めた。しかし今は私を疑っている。あなたの信仰がそんなに弱かったことが明らかになって、とても残念だ」。
この出来事のあとで、イエス様はヨハネのことについて群衆に話されました。イエス様は彼らに修辞的な質問をしたのです。
ここでイエス様は、ヨハネこそ、人々をメシヤに向けるために神によって召命された人、エリヤであると主張したのです。イエス様はこのような観点からヨハネを称賛し、次の言葉で結んだのです。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイ11:11)。従来のキリスト教の解釈では、決してこの一節を完全に説明することはできませんでした。
長年にわたって、預言者の使命はメシヤのために備え、あるいは証をすることでした。預言者たちはいつも、ずっと前から証してきました。洗礼ヨハネは、預言者の中で最も偉大な人でした。なぜなら、唯一彼のみがメシヤと同時代の預言者であり、実体で生けるキリストを証言できる預言者だったからです。しかし、ヨハネはメシヤを認識することができませんでした。当時、霊界にいるどんな小さな預言者でさえも、イエス様が神の子であることを知っていました。ですから、最も偉大な使命を与えられたヨハネが失敗した時、最も小さい者よりも小さい者になったのです。
そして、イエス様はこう言われました。「ヨハネよ、あなたは、荒野に預言者の中で最も偉大な者として仕えるために、神の子メシヤを見つけに行ったのだ。あなたはすべてを見たが、あなたの使命の中核である重要なところを見逃してしまった。あなたは、本当に、私を認めることができず、神の期待に沿うことができなかった。あなたに『備えられた民を主のために準備する』ことを期待されたのは神なのだ。あなたは失敗してしまった」。
イエス様は言われました。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ11:12)と。洗礼ヨハネは神によって選ばれた器であり、「力」によってではなく、摂理によってイエス様の第一弟子になるよう運命づけられていたのです。彼は自らの責任を果たすことができず、シモン・ペテロが、彼の信仰の強さと力によって、自らのためにその中心的位置を獲得したのです。洗礼ヨハネよりも信仰の面でより強く、よりがむしゃらな他の人々が、イエス様の側で、地上における神の国の実現のためにひたすらに闘ったのです。洗礼ヨハネに忠実に従った篤信な人々は、本来なるべきであったキリストの十二使徒や、七十人門徒になれませんでした。もし洗礼ヨハネがイエス様の第一弟子になっていたとすれば、この二人は共にイスラエル全土を統一していたことでしょう。しかし、現実には洗礼ヨハネは、神の子に従わなかったのです。
ある日、ヨハネの弟子たちが彼のところに来て、尋ねました。「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」(ヨハネ3:26)。彼らは質問の中で、こう心配したのです。「イエスのところへ行っているたくさんの人々を見てください。あなたはどうされるのですか?」。洗礼ヨハネはこう答えました。「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)と。
通常クリスチャンはこの聖句を、ヨハネの謙遜な人格の証明として解釈しています。これは、彼の言葉の意味を間違って理解しています。もしイエス様とヨハネが一体となっていたなら、彼らの運命の盛衰は同じはずでした。そうすれば、ヨハネ自身の地位が下がっていく限り、イエス様は御自身の評価を高めることができなかったはずです! 自分の勢力の衰亡こそが、ヨハネが恐れたことなのです。ヨハネはかつて、メシヤは「……(私などには)そのくつをぬがせてあげる値うちもない……」(マタイ3:11)方であると言いました。しかし彼は、イエス様が神の子であると知ったのちでさえも、イエス様のあとに従うことができなかったのです。洗礼ヨハネは、どんな言い訳もできない人でした。彼は、イエス様に従うべきだったのです。
神はヨハネを、メシヤの先駆者として送られたのです。彼の使命は次のごとく、はっきりと定義されていました。「……整えられた民を主に備える……」(ルカ1:17)と。しかしヨハネの失敗によって、イエス・キリストには、彼の宣教を始めるべき基盤が何もありませんでした。人々は、イエス様を迎えるべく整えられてはいませんでした。それゆえにイエス様は、家を出て、人々が彼を信じることができる基盤をつくろうとして、たった一人で働かなければならなかったのです。洗礼ヨハネが失敗者であることについては、何の疑いの余地もありません。彼は、イエス・キリストの十字架について、直接的な責任を負っていたのです。
皆さんは、再び「何の権威によってこれらのことを語るのか?」と私に問われるかもしれません。私は、霊界でイエス・キリストと話をしました。そして洗礼ヨハネとも話をしました。これが私の権威です。もし皆さんがこの場で、私の言葉が真理であると決めかねるとしても、時がたつにつれて必ずそれが真理であると分かる時が来るでしょう。これらは、皆さんに新しい天啓として示された、隠された真理です。皆さんは、私が聖書によって話すのを聞きました。もし皆さんが聖書を信じるならば、私が話していることも信じてくださるに違いありません。
それゆえに私たちは、この厳粛な結論に到達しなければなりません。イエス様の十字架は、人間の不信仰の結果でした。最も言語道断な、破壊的な不信仰は、ヨハネに見いだされました。これは、イエス様が十字架上で死ぬために来られたのでないということを意味しています。もし、イエス様が死ぬために来たのだとすれば、ゲッセマネの園において、あのような悲劇的な、苦痛に満ちた祈りをされはしなかったでしょう。イエス様は弟子たちにこう言われました。
イエス様はこのように一度だけではなく、三度も祈ったのです。もし十字架による死が神のみ意の成就であったならば、イエス様は代わりに、きっとこう祈ったことでしょう。「父よ、私はあなたのみ意によって十字架上で死ぬことを光栄に思います」と。
しかし、イエス様はこの杯を自分から過ぎ去らせてくださいと祈ったのです。もしこの祈りが死に対する恐怖から来たとするなら、そのような弱さは、彼の神の子としての資格を失わせるでしょう。私たちはキリスト教の歴史を通して、多くの殉教者たちの勇敢な死を見てきました。そしてどこにおいても、人々は死の恐怖を克服しただけでなく、彼らの最後の犠牲を偉大な勝利にしたのです。そんなにも多くの殉教者の中で、特にイエス様の十字架が神のみ意を成就する栄光の瞬間だとするならば、どうしてイエス様だけが恐怖と弱さを見せる人であり得るでしょうか? イエス様は弱さのゆえにこのように祈ったのではありません。そのように信ずることは、イエス・キリストを侮辱することです。
ゲッセネマネの園におけるイエス様の祈りは、死の恐怖や苦しみから生じたものではありません。もし神のみ意を成就することができるのであれば、イエス様は喜んで1000回以上でも死ぬ準備ができていたでしょう。彼がゲッセマネの園で神と共に苦しまれ、神に最後の一つの訴えをされたのは、御自分の死が単に神の摂理を遅らせることになるだけだということを知っておられたからなのです。
イエス様は、生きてその第一の使命を果たしたかったのです。イエス様が人間的な心の弱さから、地上でのもう少し長い生命を請うために祈ったと信じることは、悲劇的な誤解です。アメリカの独立戦争において、青年ナタン・ヘイルは、自分の処刑の際にこう言い得ているのです。「私は国のためにたった一つの命しかささげられないことが残念だ!」と。皆さんは、イエス・キリストがナタン・ヘイルよりも、小さな魂の持ち主だと考えるのでしょうか? 違います! ナタン・ヘイルは偉大な愛国者でした。しかしイエス・キリストは神の子なのです。
このことをよく考えてみてください。もしイエス様が十字架で死ぬために来られたとすれば、彼を引き渡す人物を必要としなかったでしょうか? 皆さんはイスカリオテのユダが、イエス様を裏切った弟子だということを知っています。もしイエス様が十字架で死ぬことで、神のみ意を成就したのだとすれば、ユダは、十字架を可能にした人物としてたたえられるべきです。ユダは神の摂理を助けたことになります。しかし、イエス様はユダについてこう言われました。「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ26:24)と。そしてユダは自殺したのです。
さらに、もし神が御自身の息子を十字架につけることを望まれたなら、選民を整えるための4000年間は必要でなかったでしょう。神はイエス様を野蛮人の一部族に送り込んだほうが良かったでしょう。そうすれば、イエス様はもっと早く殺されることさえでき、神のみ意はもっと早く実現したことでしょう。
私は皆さんに、もう一度申し上げなければなりません。人々がイエス・キリストを受け入れることが、神のみ意だったのです。だからこそ神は、メシヤという天の種のために豊かな土壌を準備するため、希望をもち、苦労しながら働かれたのです。これが神の選民イスラエルを立てられた理由なのです。このゆえに、神はイスラエルの人々が彼ら自身を主に備えるよう自覚させるため、次から次へと預言者を送られたのです。
神は彼らに警告し、また、懲らしめました。神は彼らを説得し、叱りました。無理やりに押し出したり、罰を与えたりしました。なぜなら、神は御自身の民が神の子を受け入れることを望まれたからです。ある日、イエス様はこう質問されました。「『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」(ヨハネ6:28、29)と。イスラエル選民は、神が防ごうと骨折られた、正にそのことをしたのです。イスラエル民族は、神が送られた方を拒否したのです。
イエス様は3年間の公生涯を通して、一つの目的をもっておられました。それは、受け入れられることでした。そうしなければ、彼は御自分の使命を全うできなかったのです。正に一日目からイエス様は、人々が真理を聞いて、御自分を神の子として受け入れてくれるように、あいまいな言葉を使うことなく福音を説教されました。神のみ言によって、彼らはイエス様を受け入れるべきだったのです。しかしながらイエス様は、人々が神のみ言だけでは御自分を受け入れそうもないことを知って、奇跡を行い始められました。イエス様は、人々が奇跡を通して御自分を認めてくれることを願われたのです。
イエス様は目しいの目を開け、癩病患者をきれいにされました。彼は足の不自由な者を治し、耳しいの耳を聞こえるようにされました。イエス様は死人をよみがえらせました。彼は人々に受け入れられるためにのみ、これらのことを行われたのです。それでも人々は、彼についてこう言いました。「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」(マタイ12:24)と。何と悲しい状況でしょうか! イエス様は間もなく、人々に受け入れられる望みがないことを知りました。怒りと絶望の中で、イエス様は彼らを叱りました。お前たち、「まむしの子らよ」(マタイ12:34)と。彼は憤怒を隠すことなく、怒りを爆発させられました。「わざわざいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう」(マタイ11:21)。そしてイエス様は、エルサレムに近づいてきた時に泣いて言われました。
だれがかつて、張り裂けんばかりのイエス様の御心情を理解したでしょうか? 彼は言われました。「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ19:42)と。この時までに、イエス様は、死を免れる希望は完全になくなったことを知っておられました。それでも、イエス様はゲッセマネで神にすがり、十字架上でも神に訴えられたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と。
このようにイエス様は、神の本然の御計画のゆえではなく、罪ある人々の意志によって、御自身の最終的な希望を成就されないまま、十字架上で亡くなられました。その瞬間から、キリストが再び来られることが決まったのです。キリストは、地上における御自分の使命を全うするために、再び来られます。人類は、世界の完全なる救いのために、彼の再臨を待たなければなりません。
ここで、多くの方々はこう聞かれるでしょう。「イエス様の十字架の死に関する旧約聖書の預言はどうなのか?」と。私も、例えばイザヤ書第53章にあるようなそれらの預言を知っています。私たちは、聖書の預言には二つの側面があることを知らなければなりません。一方は、イエス様の受難と死を預言しており、もう一方は、例えばイザヤ書第9章、第11章、第60章のように、人々がイエス様を神の子として、王の王として受け入れた時の、イエス様の栄光の統治を預言しています。例えば、
これが栄光の主の預言であり、イエス様を王の王として、平和の君として預言しています。一方、次のようにもあります。
これが、苦難のイエスの預言です。これは実際に、十字架の預言です。
それでは、いったいなぜ神は、聖書の中で、二つの矛盾する方法で預言をされたのでしょうか? それは、神は御自身の摂理の中で私たち、すなわち堕落した人間を相手にしなければならなかったからです。そして堕落人間は、邪悪で信用できず、裏切る可能性があるのです。
ある意味では、私たちが裏切る可能性のゆえに、神は私たちを恐れ、サタンもまた私たちを恐れるのです。神は絶対善ですから、御自身の立場を変えることは決してありません。サタンは絶対悪ですから、彼もまた、自分の立場を変えることは決してありません。この点において、神とサタンは類似しています。しかし、私たちは善と悪の混合体です。私たちは神とサタンの間に立って、変わる可能性をもっています。それゆえに、私たちは予測できないのです。ある日、ある人が神に対する変わらない信仰と、神に仕える願望を告白したとしても、次の日には、その同じ人が神を呪い、サタンと組んでその奴隷になるかもしれないのです。
神は、メシヤのための神の摂理に対して人々がどのように反応するか分からないので、二重の預言、人間の行為によってどちらともなり得る可能性として、相反する二つの結果を預言せざるを得ませんでした。このように人々の信仰が、この二つの預言のどちらを成就させるかを決定する要素だったのです。
イエス様の場合は、もし人々がイエス様と一体となることによって信仰を示したならば、彼は受け入れられたのです。その結果、栄光の主の預言が完全に実現したことでしょう。
ところが反対に、メシヤが来られた時に、もし人々が彼を信じることができず、拒んだとすれば、不可避的に受難のイエスの預言である、第二の預言が成就されるのです。そして歴史は、イエス様が来られた時、彼に対する信仰は十分でなかったことを示しています。それゆえに、栄光の主の預言の代わりに、苦難の主の預言が実現したのです。このようにして、十字架と受難のキリストの物語が歴史の過程となったのです。
旧約時代の宗教では、祭司が、供え物を殺し、祭壇に供え、神にその供え物を受け入れていただくよう頼む資格をもっていました。そこには供え物を二つに裂き、祭壇に供えるだれかがいなければならず、そうしてこそ、それは神によって受け入れられるのです。すべての祭司の中の祭司がイエス・キリストでした。彼は、イスラエル国家全体、すなわち選民国家を犠牲の立場に置くはずでした。彼は国家全体をささげなければならず、国家は供え物の立場にあることを不満に思うべきではありませんでした。しかし、彼らは不満に思い、彼らのイエス様への不信仰が、イエス様をして彼らの代わりに供え物として死ぬようにしてしまったのです。神は血を流すことを見たいと思われる方ではありません。しかし、堕落人間を救うために、神はそうしなければなりませんでした。人間としてのイエス様が御自身の血を流されたので、神は人類を復帰するための十分な条件ができました。それゆえに、神はイエス様を十字架に送らざるを得なかったのです。
聖書には、イエス様の公生涯以前の生活の記録が、御生誕と少年時代の少しの説明を除いては、あまりありません。皆さんは、どうしてなのか不思議に思ったことはありませんか?
30年間というもの、イエス様は大変な迫害と辱めの中に生きておられました。イエス様を悲しませ、苦悩させる、多くの出来事や環境があったのです。彼は本当に、社会の中でも、御自身の家庭の中でさえも、誤解された人でした。だれも、全くただの一人でさえも、彼に神の子として対応した人はいませんでした。彼には、だれにでも与えられる通常の敬意さえ、与えられませんでした。世間は、彼をばかにしました。神の御心情は、そのようなイエス様の生涯によって深く悲しませられました。皆さんに、あの目立たない人物、ナザレの男であったイエス様の生涯における痛ましい、悲しい状況のいくつかの一端でもお話しすれば、皆さんはびっくりして肝をつぶすだけでなく、悲しみのために泣き出されることでしょう。
神はイエス・キリストの悲劇、辱めの痛ましい現実を人類に知らせたくありませんでした。イエス様の死は彼の意志でもなく、彼の失敗でもありませんでした。イエス様の死は殺害だったのです。キリスト教における私たちの救いは、十字架から来るのではなく、復活から来るのです。復活がなかったとすれば、キリスト教は何の力もありません。復活されたイエス様は、新しい希望、新しい許し、そして新しい救いの力をもたらしました。ですから、私たちが復活のキリストを信じ、彼と一つになる時、私たちに救いが来るのです。
イエス様の最大の宣言は、彼が神のひとり子であるということでした。神のひとり子とは何でしょうか? 彼は、本幹であり、神の完全な愛の唯一の対象、あるいは受け皿です。イエス様は、全人類に対する花婿の立場で来られたと宣言されましたが、また、対等なレベルに御自身を置かれて、すべての人々に隣人、先生、兄弟、そして友人としても接しました。皆さんが聖書を読めば、イエス様が神の真理と愛の本幹であることは明白です。
イエス様は神の御心情を知っておられました。そして、十字架にかけられた時、彼は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と言われました。十字架は、神の御心情に途方もない悲しみをもたらしたのです。神は御自身の唯一の息子として彼を送られ、イエス様を御自身の唯一の家庭、唯一の社会、国家、そして世界の中心として御覧になりたいと深く願っておられました。それが神の希望でした。その希望が人々の反逆と不信仰によって破壊された時、もう一人のメシヤ、第二の息子をこの地上に送ることが神の願望になりました。神が一たび御自身のみ意をもたれたなら、地上の事情のゆえとはいえ、それを簡単にあきらめることができるでしょうか?
イエス様は、彼に対する強固な反対に憤慨されても、神のみ意をあきらめることはできませんでした。イエス様は、確かにあの時、人々を憎むことによって、御自身の使命を断念することはできなかったのです。彼は完全に神の生き方をされたので、真の人でした。彼は生きた神であり、神のロゴスである真理の実りでした。神とイエス様の間には何ら分離がありません。そして、だれも神を破壊できないがゆえに、だれもイエス・キリストを破壊できないのです。十字架は彼の破壊ではありませんでした。神は、イエス様は決して破壊されないということを世界が知り得るように、復活の力を現されたのです。
キリスト教は霊的な両親をもっています。イエス様は霊的父の立場におられ、聖霊は霊的母の立場におられます。私たちは、霊的な父と霊的な母に従うことによって新生されますが、ただ霊的救いを受けることができるだけです。それゆえに、キリスト教の伝統は、肉的世界を否定してきたのです。イエス・キリストと聖霊が共に働くことで、私たちは罪を清め、霊的レベルで新生されます。イエス様の十字架ののち、キリスト教の基台は、本来は神が肉的な基台をも計画されていたにもかかわらず、ただ霊的なものでしかなくなったのです。
今日、多くのクリスチャンたちは、イエス様の血による救いを全面的に主張しています。神の目から見れば、それはどんなに間違ったことでしょうか! 聖書には、死の宣告を受け、今にも石打ちされそうな一人の売春婦の話が記録されています。イエス様は、彼女の周りに集まっている人々にこう言われました。「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と。だれもが人目を気にしながら、持っていた石を落としました。皆が恥じて立ち去ったのち、イエス様は、非難されていた女性に向かってこう言われたのです。「あなたを罰する者はなかったのか? わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と。
これは何を意味するのでしょうか? 御自身の言葉で、イエス様は許しを与えられました。イエス様が一滴の血を流される前でさえ、罪の許しが既にあったのです。だれもイエス様が亡くなられるのを待つ必要はなかったのです。その時でさえも、イエス様の世界を受け入れるならば、救いへの道があったのです。それは聖書に書かれているのです。彼は、「私はあなたを許し、救ってあげましょう。しかし、私が十字架上で死ぬまで待ちなさい」と言って延期の券を与えはしなかったのです。イエス様は、神のみ言によって、すべての人々に救いの道を開けることができたのです。神の救いの御計画は、流血を不可欠のものとして要求されてはいないのです。救いとは、エデンの園が、生きた男性と女性、そして家族と共にこの地上にあることを意味しているのです。私たちに必要なことは、孤立や流血や死ではなく、イエス様がもたらされた愛を実現する、生きた完成なのです。
多くのクリスチャンが今日、本当に誤解しています。彼らは復活を説きますが、復活とは、死んだ体が再び起き上がることを意味するのではありません。それは誤った解釈です。死は、神の愛の誤用を通して、神から人間が離れた時、生じたのです。人間の肉体は、堕落ののちも生き続けたのです。復活とは、神のみ言を受け入れて、神の愛の所有者になることを意味するのです。イエス様がここに現れたとしましょう。皆さんは、血を流すことを通してもたらされた霊的な救いのみを得たいと思いますか、それとも、心と体の生きて働く救いを得たいと思いますか? 皆さんは、生きておられるイエス様によって、霊肉が共に復帰されることを願いますか?
それでは、私たちはどのくらいイエス様に似るべきでしょうか? 皆さんは、イエス様と肉と血の中で一つになる点まで到達しなければなりません。それゆえに彼は、聖餐式の条件を打ち立てられたのです。クリスチャンは、実際にイエス様の肉と血を食べているのだと感じなければなりません。彼らは、パンを食べる時、実際に他の何よりもっとイエス様の生命と愛を感じるべきです。そして、ぶどう酒を飲む時には、現実にイエス様の血を飲んでいると感じるべきなのです。そのような感覚がなければ、その時点において救いは始まることができません。これが、サタン世界から神の世界へ人類を移行させるためのイエス様の手段だったのであり、実際の現実的感覚を経験することを通して、信者にイエス様御自身を一体化させるのです。それは、サタンが切り離され、人類がイエス様に接ぎ木されることを意味しています。つまり、彼と共に、一つの肉、一つの血統、一つの人格を完成するのです。そして私たちは、この一体感を感じることができるのです。その時点から、その人は、神の愛と生命を受けるのです。しかし、キリスト教は、さらに人々が霊肉とものレベルにおける、完全な救いへ至ることを構想しています。現在のキリスト教では、私たちは両方のレベルで救われることはできません。それゆえに、イエス様は再び来られなければならないのです。そして、唯一再臨の使命の周りでのみ私たちは、栄光の主の預言を成就する、肉的救いを得ることができるのです。受難のキリストという預言がイエス様の時に事実となったので、栄光の主という預言は成就されないままになっています。そしてこれは、再臨主の時に成就される預言なのです。
どうか皆さんの祈りの中で、真剣にこれらの事柄について尋ねてください。イエス・キリストか、あるいは神御自身に尋ねてみてください。もしイエス様が生きて、地上に神の国を実現するという本来の目的を成就されていたなら、キリスト教は決して、今日のようなものではなかったでしょう。イエス様の降臨の目的は、世界の救済でした。選ばれた民族は、神の道具となるべきでした。しかし、救いは神の選民のみに予定されてはいなかったのです。イエス様は、地上のすべての魂のための、救い主だったのです。彼は全人類の救い主です。イエス様は、この世界を未完成のままに残されたので、彼は再臨の約束も私たちに残されたのです。
クリスチャンは第二イスラエルですが、メシヤはまだ来られていません。キリスト教世界において、肉的レベルで神が選び得る国は一国もないので、いまだ国家的基台のようなものは存在していません。第一イスラエルと第二イスラエルであるキリスト教世界を比較すると、どちらがより価値があるでしょうか? 第一イスラエル国家は、領土は小さかったにせよ、霊肉とものレベルで主権をもっており、その意味において、霊的レベルにおいては世界の大部分に及びながらも、いまだ肉的レベルにおいて真の国家となり得るような何ものも打ち立てることができていない第二イスラエルよりも、偉大だったのです。
メシヤはキリスト教世界にだけ来るべきでしょうか、それとも全世界に来るべきでしょうか? 神がクリスチャンたちと共にしなければならないことは、霊肉とものレベルにおいて全世界を覆うことです。そのようなことを考えてみると、皆さんはメシヤが肉体をもって来られるべきだと思いますか、あるいは霊的にのみ来られるべきだと思いますか?
私たちが建設しつつある理想世界において、私たちは、親としての神から具体的な指導を受けながら、霊肉とものレベルにおいて罪から解放されるのです。主は、肉的世界を救う使命を成就するために、肉体で再び来なければなりません。もし彼が霊的に天の雲に乗って来られるとすれば、霊肉とものレベルで全世界を復帰する使命を完遂することはできません。問題は、この世の罪と堕落であり、天の罪と堕落ではないのです。
再臨の時、主はどのように来られるのでしょうか? クリスチャンとしての私たちの立場は、イエス様の時代の長老や、律法学者や、祭司たちと、全く同じです。当時の人々は、エリヤとメシヤが天の雲に乗って来るのを待っていました。どうして人々はこのように考えたのでしょうか? なぜ、彼らはこのような信仰をもったのでしょうか?
彼らは単に、ダニエル書第7章13節に記されている聖書の預言に従っていただけなのです。「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」。大預言者ダニエルのゆえに、イスラエルの人々が、メシヤが天の雲に乗って来ると期待するのは、もっともなことでした。クリスチャンたちは今日、同じように、主が天の雲に乗って来ると期待しています。
ヨハネは言いました。「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネⅡ7節)。聖書は、多くの人々がイエス・キリストが肉体で現れたことを否定しつつあった、と言っています。そしてヨハネは、彼らを反キリストだと宣言したのです。しかし、天の雲に乗って神の子が来臨するという旧約聖書の預言を忘れないようにしましょう。真理全体を知らない限り、私たちは、イエス様の時の人々と同じように、聖書の言葉の犠牲者となります。
2000年前、人々は主が天の雲に乗って来られると期待していました。それで、イエス様が肉体で現れた時、彼を受け入れることは非常に困難でした。ですから当時、イエス様の弟子とイスラエルの信心深い人々との間に争いが生じました。「さあ、あなたの主人であるイエスが神の子であるならば、肉体をもった人間として現れることがどうして可能か? それは不可能だ! 彼がどうして神の子であり得ようか? 我々は彼を知っている。彼はヨセフの息子であり、マリヤの息子だ。どうして彼が神の子であり得ようか? 神の子は天の雲に乗って来なければならないのだ」。
ですから、どうして彼らがイエス様を受け入れることができたでしょうか? その根拠は何でしょうか? 神霊ではなく、旧約聖書の文字を信じていた人々は、全体を見失ってしまったのです。では、終末の時、どのようにして主が来られるのでしょうか? 私たちは、イエス・キリストの時代の人々の立場と全く同じ立場に立っています。もし私たちが、新約聖書の「神霊」において自由になるのではなく、新約聖書の文字の奴隷になるならば、2000年前、長老や律法学者やパリサイ人たちが犯したと同じ罪を犯してしまうでしょう。
それでは皆さんにお尋ねしますが、もし主が雲に乗ってではなく、肉体をもった人間として地上に再臨されたら、どうしますか? さあ、どうしますか? 私は皆さんに、再臨主は人の子として、実際に肉と骨をもって現れるだろうということをお話ししているのです。皆さんは、まず第一にこう言いたいでしょう。「文師、あなたは異端者です」と。しかし、少しの間、耳を傾けてください。
重要なのは、どちらの側に神がおられるかということであり、神はいかにして、御自身の計画を成就されるのかということです。ある人物や、その考え方が異端と受け取られているかどうかということは、重要なことではありません。私が世界をどのように見ようと、皆さんが世界をどのように見ようと、それは関係ありません。神がどのように世界を見られるのか、それだけが問題です。そして神の目から見ると、再臨主の来臨に関して、またもや聖書の中に、預言の二面性を見いだすのです。黙示録第1章7節は、明確に雲に乗った再臨主の到来を預言しています。しかしながら、テサロニケ人への第一の手紙第5章2節では「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」と書いてあります。これでは相反する二つの預言があることになります。私たちはどうすればいいのでしょうか? 皆さんは単に、自分の都合の良いほうの預言を選ぶのでしょうか?
おそらく、主は天の雲に乗って大きな音をとどろかせながら現れるでしょう。そのように預言が言っているからです。しかし一方では、主は夜の盗人のように現れるかもしれません。もし主が雲に乗って来られるとすれば、盗人のように隠れてこの世に入り込むことは、もちろんできません。ものすごく大勢の人々が、雲による来臨の壮観に注目するでしょう。そのようなことが、どうして皆さんの目から隠され得るのか、私には想像もできません。
それではいったい、何が真理なのでしょうか? 私たちは目の前に困難な問題を抱えています。何が真理なのでしょうか? 皆さんが終末の様相を見る時には、暗い部屋に入って祈れ、と聖書は促しています。だれが終末の時を知らせることができるのでしょうか? 天使たちはその日を知りません。イエス様は、人の子でさえいつその日が到来するか分からないと言われました。ただ神のみが終末の時を知っておられるのです。ですから私たちは、神から答えを得るのです。私は、皆さんが私を信じなければならないなどと言っているのでは、決してありません。私は、私が真理であることを知っている事柄を公表しているだけであって、皆さんはこの真理を、神と共に確かめなければなりません。
今日のクリスチャンのほとんどは、自分たちが立っている立場を知りません。彼らはただ単にイエス・キリストを信じ、聖書の言葉を受け入れているだけです。彼らは、いつかイエス様が天の雲に乗って来て、すべての真のクリスチャンたちは空中に上げられると思っています。何とか、彼らはイエス様との会合をもち、天上である種の千年王国をもつでしょう。それは恐ろしく、空虚であり、無意味です。宗教は、どこか外の、成層圏にあるものではないのです。
私は、主がそのような超自然的なかたちで来られはしないということを証言しているのです。イエス・キリストは、神のみ業はこの地上でなされるべきなので、そのような方法で再臨されることはできませんでした。メシヤの使命は、肉的な、現実的なものです。人間として、メシヤは人間の悲しみの底から上がってこなければなりません。彼は、最も惨めな国に来て、この地上に天国を肉的にも共に置くことによって、人間の立場を奴隷の立場から僕の立場、養子の立場、そして実子の立場まで引き上げなければなりません。
終わりの時には、だれも簡単に信じてはいけないと聖書は言っています。私を信じてはいけません。そして、教会や社会での公的な立場があるからというだけで、だれかを信じてはいけません。有名な指導者が必ずしも、神が皆さんに望んでおられる指導をしてくれるわけではありません。天がとても近くなり、皆さんは聖霊によって非常に高く持ち上げられるので、もし非常に熱心であれば、皆さんは神と語り合えるし、直接神から答えを得ることができるのです。
アメリカには、たくさんの牧師や聖職者、多くの教会の長老たちがいます。彼らのうちのどれだけが、真実に神の声に耳を傾けているでしょうか? 私たちが霊的な耳と霊的な目をもたなければ、私たちのこの耳にはあまり意味がなく、この目も何の有用な目的にも使えません。イエス様はこう言われました。「耳のある者は聞くがよい」(マタイ11:15)と。そして弟子たちに「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(マタイ13:16)と言われました。イエス様は、肉的な感覚器官を指して言われたのではありません。
皆さんが霊感を使って、神のみ言に耳を傾ける時、神の方向性と導きを見いだすことでしょう。しかし、天国の住民となることは、生易しいことではありません。外国人にとっては、アメリカ合衆国の市民になることさえ、とても難しいことです。私たちがこの世の堕落した生活から抜け出して、天国へ自分自身を移籍させることは、それ以上にどんなに難しいことでしょうか。しかし私たちは、正にこのことを成し遂げることができるのです。
私たちは、アダムとエバがエデンの園で堕落したのちでさえも、彼らはまだ神と直接通じ合うことができたことを知っています。旧約聖書と新約聖書で話されて以来、神は何らかの理由で、耳しいと、おしになられたのだと思いますか? いいえ、神は非常に生き生きしておられ、今日私たちは、神と直接話すことができます。神は皆さんに話しかけることができますし、皆さんは神と直接対面することができます。使徒行伝では、終わりの日には「……あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝2:17)と言っています。私たちは真理を知らなければなりません。私たちは、いかにして天国への市民権を得るかを知らなければなりません。私たちは、いつ主が来られるのか、そしてどのように到着されるのかを知らなければなりません。
聖書を頼りにして、いかにして再臨主が来られるかを明らかにしましょう。ルカによる福音書第17章20、21節で、パリサイ人がイエス様に、天国はどのようにして来るのか尋ねました。イエス様は答えて言われました。「神の国は、見られるかたちで来るものではない……神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。それからイエス様は、弟子たちに言われました。「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」と。しかし、もし主が天の雲に乗って来られるのであれば、私たちはどうしてそれを見ることができないのでしょうか? なお、黙示録第1章7節では「……すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは……」とあります。これは何を意味するのでしょうか? なぜ私たちは、彼を見ることができないのでしょうか? 私たちがその日を見逃すことがあるとすれば、主がある方角から来ると思って待ち望んでいて、ちょうどイエス様の時のエリヤがそうであったように、全く予期しなかったかたちで、違った方角から現れるという場合のみです。これが、皆さんが再臨の時に主を見ることができないかもしれないという理由です。
もう一つの不可思議な預言が、イエス・キリスト御自身によって与えられました。彼は、再臨の主についてこう宣言されました。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17:25)と。もしキリストが再臨の時に天の雲の栄光の内に現れるなら、だれが彼を否定するでしょうか? だれも彼に、苦難と痛みを与えたりはしないでしょう。この預言が成就する唯一の場合は、人々が彼は雲に乗って再臨すると期待していて、突然に肉体をもった卑しい人間として現れる時です。今日のキリスト教指導者たちが、イエス様の時代に祭司や、律法学者や、長老たちが犯したと同じ過ちを犯すかもしれないとは思いませんか? そうです! 彼らはきっと、主を否み、拒むでしょう。なぜなら彼の現れ方は、キリスト教指導者たちにとって、とても受け入れ難いものだからです。しかしながら、このようにして聖書は成就されるでしょう。彼はまず、苦しみを受け、この世代によって捨てられるでしょう。
イエス様はかつて、最も重大な質問をされました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)と。キリスト教の信仰が、地球上をあまねく覆っている今日、この質問は私たちとどのようなかかわりがあるのでしょうか? それは、私たちは確かに信仰をもっていますが、それが主が天の雲に乗って来なければならないと期待する信仰、すなわち誤った信仰かもしれないからです。人の子が肉体をもって現れることを受け入れられるような信仰をもった人は、地上にほとんどおりません。もし、このとおりでないとすれば、私たちがここで討論している聖書の預言は成就されないでしょう。イエス様は、一人も信仰者がいないだろうと言われたのではなく、信仰がないだろうと言われたことに注目してください。
イエス様は、またこのようにも言われました。
この預言は、もし彼の再臨が天の雲に乗って来るのであれば実現されるはずはありません。
再臨の時に人々は再び、「主よ、主よ」と叫ぶことでしょう。それと同時に、メシヤが自分たちの期待とは違ったかたちで現れたなら、彼らはメシヤを十字架につけようとする過程にあるかもしれません。そうすれば、彼らは最悪の悪者になります。
これが聖書です。本当に目をもっている人々は見るでしょう。本当に耳をもっている人々は聞くでしょう。歴史を通して神は、成就の時の前に預言者を送られました。神は御自身の計画について、人々に警告を与えられます。どれだけ今日のキリスト教の信仰が篤く、何百万の人々がキリスト教会に属していようと、彼がどのように現れても、いったん再臨の主を受け入れられなければ、彼らも、彼らの教会も、彼らの世界も没落するでしょう。これが、イスラエルとローマ帝国が、他の面では信義に篤いのにもかかわらず、イエス・キリストを否んだ時に味わった悲劇の運命だったのです。
ですから私たちもまた、新しいメッセージに心を開いていなければなりません。イエス・キリストは、モーセの律法を繰り返すために来られたのではありません。ちょうどイエス様が、新しい表現の真理で御自身を証されたように、再臨の主も、私たちの時代にふさわしい神の真理によって御自身を証されるでしょう。その真理は、ただ単に新約聖書を繰り返すことではないのです。
人類始祖は、地上の神の国を失いました。サタンが世界を支配してエバを横取りし、そしてエバはアダムを堕落させ、神をたった一人にして御自身の子供たちから離してしまいました。それゆえに、すべての人類は、悪の拘束のもとに苦しんできました。したがって神は、新しい歴史を始めるために、新たな人類始祖を送らなければなりません。神のみ業は復帰であり、いつも、最初に失った経路と反対の方向に進みます。つまり、神は最初に、神を裏切る代わりに、神と一体となる完成したアダムを見つける必要があるという意味です。そしてアダムは、エバの立場にあたる彼の花嫁を復帰しなければなりません。完成したアダムと、完成したエバが一体となればサタンを克服し、世界から追放することができるでしょう。このようにして、最初の正しい人類の祖先が、新しい歴史を始めるのです。
神の最初の始まりはアルファでした。これが悪に侵入されたので、神はオメガにおいて世界を復帰するのです。イエス様はコリント人への第一の手紙第15章45節で、最後のアダムとして言及されています。神はアダムとエバが完成した時に、祝福して結婚させたかったのです。天の夫婦として、彼らは神の子供を生むことができたはずです。この生活は、エデンの園では実現されませんでした。だからこそ、イエス様はアダムの位置に来られたのです。神は真の花嫁を見つけて、イエス様を結婚させようと計画されていました。人類の真の父母は、イエス様の時代に出発しているべきでした。そして彼らは、世界の悪の歴史を克服し、転換させることができたはずでした。その希望がイエス様によって全うされなかったので、2000年を経て、部分的にのみ達成された使命を完全に果たすために、彼は人間として地上に再び来られるのです。地上天国はその時、築かれるでしょう。
クリスチャンたちは、ただ自分の考えで、非常にあいまいに、霊的なレベルでのみ神を求めています。彼らは霊界で生きることに希望を抱き、肉的世界に留意せず、それのみを賛美しています。もちろん、真の地上天国は、霊肉両面のレベルです。イエス様がゲッセマネで祈った時、彼はその杯を彼から取り去ってくださいと、何度も懇願しました。なぜならば、彼は、もし十字架で死ぬことになれば、霊肉両面のレベルでの神のみ意が未完成のまま残ってしまうことをあまりにもよく御存じだったからです。旧約時代、神によって選ばれたイスラエル民族がメシヤを迎える準備をしていた時、彼らは霊肉両面のレベルで国家を形成しました。しかし、イエス様が来られた時、彼はその使命を霊的レベルで成就できただけなので、肉的レベルは、霊肉両面のレベルで地上に神の国を実現するために、主が再臨して成就すべく残されているのです。
問題は、だれが肉的レベルで神のみ意を成就しようとしているのかということです。イエス様を代理して来る再臨主は、ちょうどイエス様がアダムを代理してメシヤとして来られたように、当然、その使命を完成すべきです。イエス様は、第二のアダムであり、再臨主は第三のアダムです。このメシヤはイエス・キリストの基台の上に働かなければなりません。ですからその方は、イエス様が霊的レベルで成されたことを、肉的レベルで成されるのです。
善の新しい歴史は、このようにして始まります。神の真理と、人類の真の父母と共に、神の歴史の新たなアルファが始まり、永遠に続くのです。神の理想は、最初の完成した神中心の家庭を地上に復帰することです。この一つの模範を中心にして、他のすべての世界はこの家庭につながることができます。私たちは彼らのようになるでしょうし、最初の天の家庭は広がって、氏族的、国家的、そして世界的な地上天国へと繁殖するのです。
天国は文字どおりに、目に見える形ででき上がるのです。イエス様はペテロに天国へ入る鍵を預けて言われました。「……あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)と。ですから、地上における完成が、天国での成就よりも先に来なければなりません。天国は、まず最初に地上で完成されるのです。今は、霊界の中間地点だけが開かれています。そこは「パラダイス」と呼ばれています。イエス様と弟子たちはパラダイスにいますが、彼らでさえ、天国が地上に完成されるまでは、実際に天国に入ることはできないのです。その理由の一つは、天国は個々人のために準備されているのではなく、父と母と神の真の子女たちによる、神の家庭のために準備されているからです。
もしキリスト教世界において人々が古い伝統に執着するならば、彼らは新しい次元の世界へ、メシヤと共に行くことができるでしょうか? 今日まで人々は、キリストを信じることで安心していました。つまり信じるだけであり、彼らは信仰に甘んじているのです。しかし、イエス・キリストが再び来られる時には、彼らはただ彼を信じるだけでなく、彼に従わなければなりません。皆さんがイエス・キリストを受け入れるならば、彼は皆さんに、ただキリストとして受け入れられ、彼を信じてもらうことだけを願われるでしょうか、それとも、彼は皆さんに御自身のことを知ってもらい、その心情を理解してもらい、彼に従ってくれることを願われるでしょうか? 彼は私たちに、御自身を知り、理解し、その心情を理解してほしいと思われるでしょう。そして彼は、彼が皆さんにしてほしいと思うことを皆さんがして、彼の代わりに行動することさえも願われるでしょう。主は、天の雲に乗って奇跡的に現れるのではありません。なぜならば、神は、その息子を、地上で失われたものを復帰するために送られるからです。人類は、何の教えもなく、イエス様の時にあったことが何もなく、雲に乗って劇的に来られるメシヤを受け入れることを好むでしょうか、あるいは、普通に来られながらも、そのような貴重な理解を伝えることができるメシヤを受け入れることを好むでしょうか? 明らかに、私たちは後者のようなメシヤに価値を置くでしょう。
今日まで、大抵の人々はキリスト教を、自分自身の団体とか自分自身の国に関して考えていましたが、今からは、私たちの視野はそれよりも広がって、全世界を包含しなければなりません。私たちの思考の領域は、全世界が含まれるところまで拡大されなければなりません。キリスト教会内において私たちは、新しい次元の物事を受け入れるために国境を越えて、世界の問題まで取り扱わなければなりません。私たちは、新しい次元の文化さえも創造しなければなりません。再臨主は全世界のために、全世界の救いのために来られるのです。そして彼に従う者たちは、その方の考えを受け入れ、個人についてではなく、世界について物事を考えなければなりません。もしイエス様がここにおられるとすれば、おびただしい数の教派が生まれたのを御覧になって、喜ばれると思いますか? キリスト教は、多くのものではなく、ただ一つの彼の教えから出発したのです。ですから、多くのキリスト教教派がお互いに不和であるのを見いだす時、神はそのことについてうれしく思われないし、イエス・キリストもまたそのことについて不幸せに思われるでしょう。神はそのように多くの教派をつくるためにイエス・キリストを送られたのではありません。ですから、イエス様が御自身のあとにそんなに多くの教派がつくられたのを御覧になれば、その事実について責任を感じられるに違いありません。ですから、もし、世界全体の救いについて考え、その目的のために働く一団の人々が現れたならば、イエス様はその事実を喜ばれ、彼らを助けに来られるでしょうし、神もまたその団体を助けに来られるでしょう。人々は、その団体の特徴や詳細について知らないかもしれませんが、しかし、その団体に神のみ意が働いているがゆえに、神とイエス様の双方がその団体を通して、またその団体の中に働かれるでしょう。
私のメッセージはとても明瞭で、単純だと、私は信じています。神は、アダムとエバから善の歴史を始めようと意図されていました。しかし、彼らは堕落しました。神は歴史を復帰し、イエス・キリストにおいて新たに始めるために働かれました。しかし、当時の人々は信仰が足りず、イエス様に機会を与えませんでした。ですから、イエス様の再臨の約束は成就されるのです。メシヤは肉体をもって、人の子として、地上に来られるよう運命づけられています。彼は第三のアダムとして来られます。彼は花嫁をめとり、黙示録に「小羊の婚宴」として書かれている天の結婚式という最も喜ばしい日をもたらすでしょう。彼らは真の父母としての役割を果たすでしょう。神の真の祖先が打ち立てられ、その時、地上天国が文字どおり完成され得るのです。
メシヤのための基台はキリスト教でなければなりません。なぜならばキリスト教は、神の真の性質は父親の性質だということを理解する唯一の宗教だからです。イエス様は、御自身のことを神のひとり子と呼んだ唯一の人物でした。他のどのような宗教も、そのような教えに基づいていません。イエス様は本当にメシヤでした。なぜならば、神が彼の父であり、彼は神のひとり子だったからです。このように、彼が設立した宗教は、神の本然の愛が成就される時、メシヤの再臨のための基台になるに違いありません。本然の愛を中心としてキリスト教は、父と子とキリストにおける兄弟姉妹という神の家庭をつくるのです。――この家庭概念は、最終的な成就の時まで、神の摂理の主流でなければなりません。
神がその中に大きく関与されているのですから、キリスト教は世界中で最も大きく広がった宗教にならなければなりません。神は、キリスト教を通して御自身の摂理を成就する御計画なのです。不幸なことに、伝統的キリスト教は、誤った神学に迷わされたのです。例えば、イエス様がただ死ぬために来られたというような、誤った多くの考え方があるのです。同様に、多くのクリスチャンたちは、自分自身の小さな天国のために、この世界の事柄を軽視して、自分たちの個人的な救いのみを心配することで満足しています。信仰だけで救われるという概念は、非常に部分的な観点です。信仰をもつと同時に人は、天国へ行くために愛を完成しなければなりません。愛の力なしには、人は決してサタンの束縛から離れることはできないのです。
この理由のために神は、サタンの束縛からの解放をもたらすために、御自身の本然の愛の代身として、再臨のメシヤが来られることを人類に約束されました。皆さんはどうやって再臨のメシヤを認識できるのでしょうか? メシヤはこの原理を正確に、それをポイントごとに書き記して教えるでしょう。聖書は、終末が来る時、私たちはもはや象徴やたとえで教えられる必要はなく、父について明瞭に学ぶ(ヨハネ16:25)だろうと約束しています。それが統一教会が教えている内容のすべてであり、それは皆さんが今お聞きになっていることです。
キリスト教の中心は花婿と花嫁の関係です。霊的な意味においてキリスト教会は、花嫁の態度で自分たちを準備するようになっています。終末にメシヤが来られる時、彼は全人類によって受け入れられる生きた花婿になるのです。既にこの概念を理解していたかもしれないにもかかわらず、私たちはこの責任に従って生きてはいません。イエス様のみ意と神のみ意は、2000年の間に非常に誤り伝えられてきました。教会は神のみ意から外れて堕落してしまいました。それゆえに、メシヤの降臨の準備をするために、新しいキリスト教が起こらなければならず、神のみ意から外れてしまった現在の教会は生き返らなければなりません。その真のキリスト教が来なければならないのです。その新しいキリスト教は、どのようなかたちを取らなければならないのでしょうか?
新しいキリスト教は、神の真の宗教の基準に完全にかなう、宗教の最高のかたちでなければなりません。クリスチャンは、メシヤの願いと神の願いの双方を成就しなければなりません。そうするために、彼らはメシヤの位置まで彼ら自身を高め、文字どおり世界を救わなければなりません。彼らの態度は、「世界の救いのために私は犠牲にならなければならない。神のために私は自分のキリスト教会を犠牲にすることができる」というものでなければなりません。絶対的従順とは、神を中心としたものであり、私たちクリスチャンは、この地上で現実において神と人類の間に統一をもたらさなければなりません。復帰されたアダムとエバとして、私たちはエデンの園で成就された基準を越えていかなければなりません。彼らの失敗を復帰するために、私たちは、従順において、信頼することにおいて、愛することにおいて、より秀でなければなりません。それゆえに私たちは、自分の生命の限界を越えなければならないのです。
イエス様が天に昇られた時、霊的な母である聖霊をもたらされました。エバは罪の子供を生みましたが、聖霊は私たちに霊的な再生をもたらすために来られるのです。
愛の力を通して、父と母は新しい生命をつくり出しますが、それは再生の過程でも同じです。各々は根源に帰って再生しなければならず、天の父の肉と血と骨として出発するのです。ですから皆さんは、罪のない犠牲的な生き方の中で、イエス様の体へ帰っていかなければなりません。もし皆さんがイエス様を愛し、彼が皆さんの霊的な父であるということを知るなら、その時皆さんは、自分自身がイエス様の心情の中へ入ることを願い、イエス様の肉と血として再生しなければなりません。それが、皆さんがもたなければならない願望です。
犠牲的な愛を通して、皆さんは根源、つまり正に皆さんの生命の源に戻ることができます。かつて皆さんは、皆さんの両親の肉であり骨でした。もし皆さんが、世界中の他の何ものも自分に関係がないほどイエス様を愛するならば、皆さんは完全に心と魂を彼にささげることができます。その時点で、聖霊が皆さんのところへ来て再生をもたらすのです。このようにして、皆さんはイエス様の霊的息子、娘として再び生まれるのです。それがキリスト教における再生の全過程です。それがキリスト教の本質ですが、しかし、それは人を養子あるいは養女の立場まで高めるだけでしょう。
私たちは、霊的にのみ創造されたのではなく、肉体をもって創造されました。なすべきものとして、残されている最終的な段階は、霊的にだけでなく、霊肉共に再び生まれ変わることです。その目的のために、イエス様の体が必要であり、彼は肉体をもつ生きた人物として再び来なければなりません。今日まで、キリスト教は霊的な再生の可能性のみを与えてきました。新しい時代である今日、イエス様が第二のメシヤとして再び来られる時、私たちは肉的にも同様に生まれ変われる力を与えられるでしょう。すべての人は霊界へ行く前に、この肉的再生が必要です。さらに、天上天国に入るための要件は、皆さんが、神が世界を愛するように世界を愛して、神の息子、娘として高められることです。
今日のキリスト教が、明らかな危機の中にあることは疑う余地がありません。これは、既成の宗教機関が神の子を退けた時の、イエス様の時代に匹敵する危機なのです。今日の世界では、伝統が足かせとなってしまい、宗教には発展する道がありません。それぞれの宗教の古い秩序や伝統は、小さ過ぎて世界を包容できないのです。それゆえに若者は、より開かれた環境を求めて、非常に反抗的なのです。私たちが世俗世界と宗教世界との間に不均衡と矛盾を見る時、もし神がこの世界にすべて関与されているのであれば、神が宗教の形態を完全に変えるために、ある種の驚くべき、革命的行動に取りかかる時が既に来ているだろうと結論せざるを得ないのです。
神は御自身の心の中に、ある世界的な宗教をもっておられるに違いありません。世界は準備できているので、神がそのような宗教を鼓舞される時が、すぐそこに来ています。この宗教がなければ、現代世界は将来に対する何の希望もありません。神は、宗教世界と世俗世界の双方に責任をもたれるので、双方のための解決の方法があるに違いありません。私たちはどちらの方法を取るのでしょうか? 私たちは、世俗世界をまず先に変えなければならないか、それとも宗教世界を先に変えなければならないか、そのどちらかです。明らかに、今日の宗教が、新しく世界的な宗教の起こりを通して道を開かなければならないでしょう。
この宗教改革に直面している第一の問題は、宗教の分裂と対立の解決です。神はすべての宗教人たちが共に一つになることを願われるでしょうか? 人類の世界的目的は、人類家庭としての世界的兄弟姉妹の愛です。そのようなビジョンと目的をもった新しい宗教運動が起こるべきです。
宗教人たちは、時の権力者たちにとって常に問題です。神が常に宗教人たちの目的です。したがって、彼らは国境や人種的、文化的壁を越えていくことができます。従来どおりの審判は彼らに適合しないのですから、彼らは正に取り扱うことのできない人々なのです。歴史を通して主権者は、常に新しい宗教団体によって脅威を感じてきました。彼らは支配され得ないので、扱うのが非常に難しい人々なのです。「お前たちを殺すぞ!」と言うことは、彼らにとって脅威ではありません。彼らは「さあ、そうしなさい!」と答えるのです。
それゆえに、歴史を通して新しい宗教が起こるたびに、政府は大抵それに反対しました。彼らは常に、それらが大きくなり過ぎる前に、その宗教を廃止したいと思いました。主権国家は、それ自体の領土の完全性について心配するだけですが、宗教人たちは、国境を越えていくのです。宗教人たちは、敵が隣にいても気にしません。彼らは敵陣のためにドアを開けることさえするかもしれません。これが政府の人々を心配させるのです。国の支配者たちは大抵、宗教人たちを非常にやっかいな問題として見るのです。
そして、なおも今日、若者たちは霊的価値を求めています。彼らが求めるものを見いだす道は、ほかには絶対にありません。さらに、宗教に対するますますの関心は、教会が経営する学校の数の増加に反映されています。これは、世俗的な解決を見いだすことができなかった人々が、宗教生活を求めて帰ってきつつあるという一つの表示でもあります。随分前に、私はこういうことが起こるであろうということと、1976年という年がアメリカ歴史において転換点になるだろうということを予告しました。今からは、この国の問題に対して、物質的解決よりも、むしろ霊的解決を追求することのほうが強くなるでしょう。私たちは、今日のこの危機を認識しています。そしてまた私たちは、もやを通して、新しい希望に輝く一日をかいま見ることができるのです。
私たちは人類歴史において実に非凡な時代に生きています。私たちはイエス・キリストを救い、解放し、その苦悩を終わらせてあげる立場にいるのです。私たちは、神でさえも解放してあげる立場に立ち得るのです。私たちは神に幸福と喜びと平和を保証してあげることのできる人々なのです。私たちは神の心情と苦悩と悲しみを解放してあげようとしているのです。そして、そうすることによって、私たちは全人類と、その重荷と悲しみを解放しつつあるのです。最終的に私たちは、すべてのサタン的世界をこの世から追放することができるのです。
私たちは生きた存在として自分の十字架を負っています。私たちの現状において不平を言うことも可能です。しかし、私たちはそれを乗り越えなければなりません。私たちは奇跡を起こさなければなりません。それは死なずにこの目的を成就することであり、これが奇跡です。もし皆さんがこの信仰と、この責任をもつならば、皆さんが行く時、神が共におられるのです。神の力は、皆さんのものです。神は、私がこの目的と、この信仰と、この愛をもっている時、私と共にいてくださいました。神は私の道の各段階で、私と共にいてくださったのです。その同じ神が、皆さんと共におられるでしょう。
現代は、かつてなかったような霊的覚醒の時代です。私は、皆さんが自分の目と耳を開き、真理を悟ってほしいと思います。これが私の希望です。つまり、皆さんとこの福音を分かち合うことによって、私たちは主の来臨の栄光の日に備えて一つになれるかもしれないのです。歴史の神を見てみましょう。摂理の神を理解しましょう。そして私たち自身の生涯の中で、生ける神を抱き締めましょう。
クリスチャンたちがもっている主な批判は、私が再臨主としての態度を取っているという、彼らの主張です。しかし私は、一度もそう言ったことはありません。彼らがそのようなうわさを立てたのです。クリスチャンたちは今日まで再臨を切望してきたので、私たちのメンバーがそのようなうわさを広めるだけの確かな理由があるのかどうか、自分自身で来て、それを見いだすだけの礼儀をもつべきだったでしょう。もし彼らが熱心にそうしたのであれば、今日のキリスト教は全く違ったものになっていたでしょう。あるクリスチャンたちは、私たちを異端だと言いますが、しかし私は、これはただ平凡な異端ではないということを皆さんに申し上げます。私は彼らの目には超異端ですが、驚くべきことには、神はこの超異端がお好きなのです。
イエス様の死後、子供たちが世界中に生まれてきました。彼らが罪ある子供だとしても、彼らはなおも神の子であり、復帰される必要があります。しかし、彼ら自身を肉的に接ぎ木すべき命の木は存在しなかったのです。終末は、単にクリスチャンだけではなく、世界中のすべての人々に差し迫っています。神の新たな歴史は、主の来臨と共に始まります。彼を見、かつ受け入れる人は幸いです。再臨の時、主を認め、迎え、そして受け入れることがキリスト教の希望です。機会は私たちすべての前に来ています。すべての人間の人生の中で、最も偉大な機会が、私たちの扉をたたいています。どうか謙虚になって、偉大なる新しい希望に対して、心を開いてください!
知識も、立場も、富も、何もかも、神お一人に対する皆さんの愛の心以外には、何も神を喜ばすことはできません。その愛は神を泣かせるでしょうし、それのみが神の心情を感動させることができるのです。もし皆さんが、神の御心情を和らげるために、神のために全く何でもする用意があるならば、つまり、もし皆さんが自分自身を否定し、犠牲にすることができ、神の御心情と神の悲しい心を慰める用意があるならば、その時にのみ、目に涙をためながら神は、皆さんを信頼し、皆さんを愛されるでしょう。もし皆さんが死ぬ用意ができており、もし神に向かって、「あなたが私たちのために用意しておられる死ぬべき所ならどこへでも、私はその場所へ行きましょう。そして、私はいつでも喜んで自己否定し、あなたの目的のために他の人々の代わりに喜んで死にましょう」と絶叫するならば、そしてもし、皆さんが自分自身を喜んで犠牲にするその地点まで本当に突進するならば、その時、神は皆さんを信頼することができるかもしれません。その場合、皆さんは、ゲッセマネの園で、「わが神よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたイエス様の立場と似た立場にいることになります。そしてもし、皆さんが神のみ意のためにこのことを完全に行おうとしているならば、その時にのみ、神は皆さんを信じてくださるでしょう。神は、非常に多くの人々によって裏切られてきましたが、イエス様が神の前に、「あなたの喜ばれることを何でも行ってください。そして、私はあなたに従いましょう」と言いながら祈られた時、神はイエス様に向かって泣き叫ぶことができたのです。「あなたは私に似ている。あなたは私の似姿、形象としてあなた自身を復帰したのだ」と。そのような場合においてのみ、神はその人を信じることができるのです。
神はたとえ全世界、全国家、全氏族、全部族、全家庭を失わなければならないとしても、もしそのような態度をとって、神の愛に対して献身し、そして神と一心同体となる一人の人が残り、神の愛の中に基台をつくるならば、神はその人と共に喜ばれるのです。その人から直ちに出発して、神は御自身の愛の領域と、愛する範囲を拡大することができ、全世界に再び到達するのです。
言い換えれば、私たちは最大限に神に似なければならないということです。もし私たちが神を分析するか、あるいは神を分解するならば、そこには一つのものが残るでしょう。そして、それが愛、神の愛なのです。私たちは、この偉大な愛のために自分自身を犠牲にする準備をしなければなりません。たとえ海の中で死ぬとしても、山で死ぬとしても、暗やみの深い谷間で死ぬとしても、私たちはどこででも死ななければなりません。あるいは、もし私たちがこの偉大な目的のために、他の人によって殺されるとしても、私たちは、そうする準備がなければなりません。そして、これが私たちの決意となるのです。それゆえに、聖書の中でイエス様は、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」と言われたのです。
私は、皆さんがこれらの考えを真剣に考慮し、かつ神に祈ってくださるよう希望します。神は皆さんに答えてくださるでしょう。