고성 이씨 (固城 李氏) /이로(李魯) 1544년(중종 39)∼1598년(선조 31). 의령 출신. 시호: 정의(貞義) 淸白守節曰貞。見義能忠曰義。고종 8년(1871)
고성 이씨 (固城 李氏) /이로(李魯) 1544년(중종 39)∼1598년(선조 31). 의령 출신.
시호: 정의(貞義) 淸白守節曰貞。見義能忠曰義。고종 8년(1871) 증시
청백하게 절조(節操)를 지킨 것을 정(貞)이라 하고,
의로움의로 충성을 다하는 것을 의(義)라 한다
시장: 김의순(金義淳) 찬
본관은 고성(固城). 자는 여유(汝唯), 호는 송암(松巖).
통례원인의(通禮院引儀) 이효범(李孝範)의 아들이다. 조식(曺植)의 문하에서 수학하였다.
1564년(명종 19) 진사시에 합격하고, 을사사화 때 피화(被禍)된 관원들을 신원하여줄 것과 간신들을 토죄할 것을 소청하였다. 봉선전참봉(奉先殿參奉)을 거쳐 1590년(선조 23) 증광문과에 갑과로 급제하여 직장이 되었으며, 그간에 최영경(崔永慶)의 신원을 소청하기도 하였다.
1591년에는 상소하여 왜사(倭事)를 논하였으며, 이듬해 임진왜란이 일어나자 조종도(趙宗道)와 함께 창의(倡義)할 것을 약속하고 귀향하여 삼가‧단성으로 나가 동생 이지(李旨)와 함께 의병을 일으키고, 인근 여러 고을에 창의통문을 내어 민중의 의분심을 환기시키는 한편, 경상우도초유사(慶尙右道招諭使) 김성일(金誠一)의 종사관(從事官)‧소모관(召募官)‧사저관(私儲官)으로도 활약하였으며, 1593년에는 명나라 제독 이여송(李如松)에게 서계(書啓)를 보내어 화의의 잘못을 지적하였다.
그 사이에 형조좌랑 겸 기주관‧비안현감‧정언 등의 여러 관직을 역임하였다. 뒤에 이조판서에 추증되었고, 낙산서원(洛山書院)에 제향되었다.
저서로는《사성강목(四姓綱目)》‧《용사일기(龍蛇日記)》‧《문수지(文殊志)》‧《송암문집》 등이 있다.
贈吏曹判書松巖李先生請諡狀 [金羲淳]
萬曆壬辰, 蠢彼島夷, 蛇豕我八路. 惟時有晉陽三壯士, 鶴峯金公誠一·大笑軒趙公宗道·松巖李公魯. 魯, 卽公也. 嗚呼! 國而無此三士, 其何以奮忠慮, 激義聲鼔. 民志於將萌, 鏟賊鋒於方逞, 基我重恢之盛烈也. 朝家酬報之典, 莫大於爵諡而先於金·趙二公, 公獨有待於今日. 遲速命也. 豈其有不期然而然歟? 公字, 汝唯; 松巖, 其號; 鐵城, 其貫. 上祖諱璜, 及第隱不仕. 有諱嚴冲·麟冲, 俱官侍中. 嚴冲, 卽公之先也. 自是世襲圭組. 有諱伯, 仕麗爲右軍棇制. 知國事日非, 棄官南下, 家于宜寧. 公之七世祖也. 生諱乙賢, 入我太祖朝, 拜少監不就. 諱文昌, 副護軍; 諱翰, 濟用監僉正; 諱孝範, 通禮院引儀; 公之曾祖以下三世也. 妣南平文氏, 判官垠之女, 忠肅公克謙之後也. 公甫踰弱冠, 中進士, 上䟽卞乙巳忠奸. 除奉先殿參奉. 釋褐之翌年, 島夷有悖書, 朝野洶懼. 公上書曰: “臣傳聞日本書, 有云: ‘要入大明國者,’ 厥言凶悖. 誠不可以泛然答之也. 峻急, 則觸犬豕之怒; 儱侗, 則傷倫紀之正. 殿下! 其以何說反之乎? 王孫正語, 楚使沮氣; 漢帝卑辭, 南越降心. 今此擧措, 機關甚緊, 爲今之計, 不過曰格虜心, 得民和而已.” 殿下! 命製復書, 曰: 事大交鄰, 有土之常道; 大, 固不可不事也; 鄰, 固不可不交也. 順此道者, 祥興; 違此道者, 灾生. 自古而已然, 焉可誣乎? 貴國之使, 颿檣織海, 而弊邦之人, 不耐水行. 故或時相報而不敢頻也. 頃緣, 諸島小酋作梗, 或侵逼我邊陲, 或搶擄我裔氓. 是雖貴國之所不知, 弊邦不能無纖芥于中, 亦慮其水賊剽掠也. 停廢信使, 垂百年矣. 然交鄰之義, 未嘗少替也. 今者, 大王以豪武之才濟雄傑之略, 殪殄僭猾, 削平諸島, 迅埽氛翳, 廓淸區域. 別遣重使, 申之以幣, 荐之以珍, 盡還我俘僄之民. 致語於寡人, 自今以後, 無相害也. 又曰, ‘國信使不絶, 而貴國久廢報禮, 其於交鄰何? 其於講好何?’ 寡人聞言以喜曰, ‘賴天之靈, 世世相腆, 毋或相猶, 俾我南洋, 永不揚波.’ 斯實二國, 幷受其福, 曷敢不卽詢于在庭? 在庭之臣, 咸不欲也, 唯一二臣與寡人同. 肆蕫儒臣, 冒涉鯨濤, 逖謝殊貺. 貴國於入海也, 護衛甚勤; 其屆都也, 舘待甚盛; 贐賚稠豐, 宴及徒隷. 敦回信船, 追慰颿風. 禮何隆也, 惠何恩也? 而後益知大王之鄭重也. 第於書中, 有不可曉者. 是王之左右, 欲以侈言夸語詫慢異國乎? 不然, 何其辭之汰耶? 寡人請爲大王, 陳其不可, 幸平心照察焉. 大明天王之國也, 不可犯也. 天地之肇判也, 中焉而爲中國; 外焉而爲外夷, 疆域各分, 種類亦異. 是天之所定也, 非人之所爲也. 是以中國自中國, 外夷自外夷. 舜·禹·湯·武之聖而不能易其俗, 單于·突厥之强而不能溷其地. 各以其國其醜, 自盛自衰, 迭興迭亡而已. 天可逆乎? 天不可逆也. 况貴國邈在灜海之外, 別一乾坤而爲大國焉, 稱王稱帝, 惟意之欲. 玆之不樂而將欲何爲? 昔, 秦始皇呑二周而鏖六國, 臨不測之淵, 據億丈之城, 卻凶奴數天里之外. 餘威振乎六合, 何其壯也? 雖然沙丘一夕, 鮑魚亂臭. 傳之二世, 竟無噍類, 威可恃乎? 威不可恃也. 後秦符堅, 養兵幾三十年而以符融·慕容垂督步騎二十五萬. 旌旗相望千里, 驅之南下, 拜呑吳會, 顧謂: ‘大江之流, 投鞭可渡.’ 何其盛也? 然而先折於劉牢之五千之兵, 終敗於謝玄·石八萬之卒, 顚頓奔北, 聞風聲鶴唳而自相蹈藉, 淝水爲之成血. 惡在其兵多乎? 矧中國無釁, 天子神明, 忠良在朝, 上下輯睦. 發號施令, 動合規度. 區外諸國, 悉臣悉妾, 雖古之聖世, 何以過此. 猶天之不可階而升也, 實夫易圖也. 大王若拂天輕擧, 盡一國之衆而載木板之上, 遡風浪於萬里, 撞蘇·抗之一隅, 始雖有憑陵蹂躪之快, 終必有灾. 何則? 手足一指之存與不存, 無加損於元氣之堂堂. 而天子震怒, 良臣協謀, 徵天下之兵, 聲大逆之罪而討之, 則懸軍老師, 決不能得志於中原矣. 是徒知侈心可逞而竆兵黷武, 不思邦本已搖; 徒知奇功可辦而無名非義, 不思主德爲狂. 不惟於中國孤人子寡人妻. 貴國之民, 獨非天民乎? 安保其肝腦不塗中原之草乎? 然則所得不能補其所失, 所獲不能保其所亡. 雖大王之國, 庸獨利乎? 且人心不測, 寧有彼此? 好生惡死, 人之常情. 大王若長驅入燕, 兩國相持, 勝負未易決, 聲息久未相傳, 則赴鬬之軍, 其父兄子弟之在貴國者, 其不日夜西望, 苦思之而爲之怨痛乎. 安知伏莽之奸雄因此不忍亦有圖大王之位者乎? 使其餘卒, 牢守境上, 以待大王, 則大王終何歸乎? 棄縛兔而逐走獐, 昔人所笑, 惟大王熟念之. 毋爲怨府, 毋爲禍梯. 大軍一動, 萬命懸焉, 師旅之興, 豈好事也? 誠出於不得已也. 大王之欲向中原, 不識何意乎? 中國不與朝貢, 應有其由. 安知諸島小酋攘竊塞徼以致上國之怒歟? 若以不得與諸國之會朝爲嫌, 則當輸誠納款, 以冀天子之感悟, 可也. 天子有包荒之量, 以胡越爲一家, 寧肯終絶之乎? 接待違舊例, 在於前時, 而不在今日, 則亦非大王之恥也. 貴國之與弊邦, 猶兄弟也; 大明之於弊邦, 猶父子也. 寧有兄弟謀害家父而不爲救解反造成逆亂者乎? 是大王不以人道責寡人, 寡人雖駑怯, 其無心乎. 昔, 南越王慰佗, 黃屋左纛, 自稱皇帝, 白首抱孫, 猶思事漢. 願大王毋爲盛氣所使, 靜而思之. 桑楡一覺, 應未一噱. 若大王欲嫁禍於弊邦而無言也, 誘侵上國, 惹成釁隙, 則是尢非相信之道也. 亦非仁者之心也. 方連信价, 而陰謀相賊, 則皇天之所厭也, 神明之所惡也. 雖大王之百姓, 其肯心服乎? 古人有言: ‘順德者昌, 逆德者亡.’ 大王, 其未之聞乎? 大王, 若不棄前好, 毋生事於弊邦, 則豈惟弊邦之民安? 貴國之民亦安. 倘不聽寡人, 謀動干戈於海上, 則弊邦雖區區, 令悉弊賦, 期於一波. 兩虎之鬬, 無俱生之理也. 大王, 其圖之, 毋貽後悔. 高麗之末, 僞姓尸居, 國內大亂, 戰伐相尋, 饑饉荐臻, 民之食麥, 甚於食玉. 且邊海無鎭堡營壘之備. 故阿只拔都, 恃其鷙悍, 捲都來侵, 若升虛邑, 厥銳莫遏. 然而大敗荒山, 隻船不返, 骨作虀粉, 魂爲旅鬼. 此其明鑑, 曷不戒哉? 寡人, 因使臣備聞: ‘大王威加海表, 風生區域, 龍驤虎視, 無當無逆, 自日本開國以來, 所未有之英君也.’ 雖然, 貴爲國王, 位已尊矣, 富有諸州, 財已阜矣. 翦除僭僞, 功亦崇矣; 混一東溟, 化亦覃矣. 名位旣符, 事業亦著, 志願已畢, 㪅欲何求? 月盈則虧, 器滿則傾. 此正大王持盈戒滿之秋也. 人壽幾何? 光陰若流, 繁華一時, 富貴須臾. 吾生也有涯, 而欲也無涯. 以有涯求無涯, 殆而殆而. 所求安樂, 柰何自苦. 毋干天險, 毋盪民和. 愼守封疆, 圖惟永寧. 外無寇敵之相侵; 內有夜戶之不閉. 桑麻千里, 雞犬相聞; 穉耋傲遊, 連手謳吟; 民頌至德, 國稱賢君. 其與犯分越境, 勞民傷財, 結怨於上國, 墜好於鄰邦, 相去豈不迥哉? 寡人不忍負與國之義, 敢敷心腹腎腸, 用圭以吿, 惟大王熟察之. 臣之如此云云, 只望明陳利害俾知順逆. 只欲吐露肝膈仰酬聖恩而已, 非敢以臣言爲可用也. 壬辰, 公在京, 聞邊報日急. 與大笑軒趙公, 間道南還, 約倡義同死生. 行到咸陽, 鶴峯以招諭使, 先已到郡. 鶴峯, 卽公知己友也. 公與趙公同入謁, 鶴峯大喜, 曰: “此天贊我也.” 時, 一路皆潰, 列邑已空, 士民奔竄, 塡滿山谷. 公立草通文, 諭以倡義之意; 鶴峯差公召募官. 公卽日發行, 奔走列邑, 尋見士類, 涕泣曉譬. 先是, 忘憂郭公再祐, 率義旅, 守鼎津而人無應之者. 及見通文, 又聞公之言, 莫不感激奮發. 於是, 金沔起兵於居昌, 朴思兼·朴思齊·權世春·全致遠·李大期等, 團結鄕兵, 相繼而起. 鶴峯褒聞功狀. 朴而文等又上疏: “以爲金沔·李魯·朴惺, 誓心白日, 期灑國恥, 奮起鄕曲. 倡率同志, 或截溯江之賊, 或勦據城之賊. 軍聲日振, 兵力稍强. 自江以西六七邑, 爲今日卽墨, 收復根基, 因此可立.” 上下敎褒之, 除公典籍. 公感恩涕泣, 誓不與賊共生. 出募義旅, 入贊籌畫, 鶴峯多用公策. 鶴峯之初到晉陽也, 公與趙公從之. 空城寥寥, 絶無人影, 惟見江水沄沄. 徘徊瞻眺, 滿目悽慘. 公與趙公握手, 謂鶴峯曰: “晉陽巨鎭, 牧使名宦, 賊未入境, 事已若此; 前頭, 寧有下手處不如遄死而無知. 與其死於賊鋒, 無寧同沈於此江.” 將引與之赴水. 鶴峯笑, 曰: “一死非難, 徒死何爲? 幸賴諸君之倡義, 多士之相應, 恢復之功, 庶幾可望. 如其不幸, 死未晩也.” 遂相與痛哭而罷. 郭公再祐以斬馘爲危, 禁不得斬賊. 每遇賊, 軍士無直前厮殺者, 賊以此肆期長驅. 公謂郭公曰: “人孰無功名之心? 若禁斬無賞, 則軍士必懈意, 何以戰爲乎?” 郭公用其言, 許斬. 其後, 軍皆爭殺, 賊不敢逼. 金公沔之軍, 乏糧, 將有潰散之患. 公以私儲官巡往列邑, 曉諭士民. 宜寧得六百八十碩·咸安一百五十六碩·山陰百餘碩, 付縣監金洛, 送于金公軍. 時, 鄭仁弘幕下, 無參謀人. 朴公惺獨憂之, 請鶴峯, 送公. 鶴峯曰:“吾得汝唯, 天所助也. 君欲奪此與彼, 何也? 且彼豈能聽汝唯乎?” 公曰: “吾與令公, 起義同事, 誓共終始, 今豈可捨而之他乎?” 朴公謝之. 其見重於鶴峯如此. 晉州世家大族, 皆藏穀於智異山中而不納糴, 無以調給軍糧. 鶴峯大怒, 搜得十餘人, 將用重律. 公曰: “不然! 凡事急之益亂, 莫如以義曉之. 使自輸納.” 鶴峯曰: “君言良是.” 乃解其械繫, 開說義理. 又揭榜曉諭, 不閱月, 得穀數萬餘碩, 兵糧賴而不乏. 癸巳, 公以病入山中, 上鶴峯書, 曰: “觀此賊勢, 七·八年之間, 未有埽淸之期而諸鎭將, 不思遠慮, 用米如土. 軍無糧食, 雖有良將, 將何爲哉? 公之軍中, 亦多虛文, 軍官數十, 可減也. 營吏十餘, 亦可汰也.” 鶴峯從之. 咸陽郡守, 文報有言: “天兵討平壤賊, 殲殄殆盡, 餘黨散走. 連營海西者, 亦一時逃遁. 天兵乘勝追擊, 朝夕長驅南下.” 適, 傍邑守令, 來會相賀, 且曰: “宜急遣都事於列邑, 督辦軍糧, 以待天兵之至.” 公曰: “不須如是, 平壤雖拔, 漢陽尙有强寇, 必爲後圖. 天兵無緣速來, 孑遺創殘之民, 不宜侵撓騷動, 姑觀變善處, 可也.” 滿座大駭, 斥以狂生怪說, 獨鶴峯心然之謂, 曰: “君, 其往候西路. 師老糧盡, 天兵又至, 今日之勢, 正在危急. 農時已迫, 種子亦切. 一國危亡, 係于此行.” 具書及牒, 送于都體察使. 公行, 至礪山. 天兵寂無動靜, 急送一卒, 還報鶴峯. 時, 聞都體察使西厓柳公, 駐節臨津, 將向臨津. 至水原界, 逢副體察使軍官, 自都體察使所來, 言: “天兵姑無消息而龍仁·竹山·沙平屯賊, 出沒剽掠. 水原·衿川之間, 路塞不可往.” 還至公州, 見體察副使金瓚, 力請種子. 金題全羅都事所掌五百碩, 遂下全州, 搬運而來. 西厓見鶴峯書牒, 卽啓請給二萬碩於湖南. 公偕從事朴而章, 往湖南領來, 散糶列邑使之, 及時耕種. 癸巳, 移檄書于倭將. 其文曰: 天尊地卑, 乾坤定矣, 星分海隔, 區域別矣; 乾坤以定, 貴賤位矣, 區域斯別, 華夷判矣. 貴賤之位, 華夷之判, 皆天之所爲也. 天可逆乎? 天不可逆也. 是故, 莫貴於天子而普天下皆其臣. 莫尊於中華而率土濱皆其地. 君臣之義, 賓服之禮, 皆理之常然也. 理可泯乎? 理不可泯也. 人無勝天之理, 理無終剝之時. 自古凶逆, 萬不一全, 可不懼哉. 玆者, 關伯秀吉這厮, 以華種賊酋猖猘桀驁, 饕凶稔惡. 旣奪源氏之國而有之, 自爲長雄於無禮義之邦. 殺人無辜, 嗜甚豢芻, 臠人之膚, 剔人之骨, 貫人之胷, 一以殘㬥. 䝱制你國之人, 你國薰灼其虐焰. 疲於調發, 困於戰鬬, 嗷嗷怨讟, 上干穹蒼而環溟爲界. 乘木乃行, 有若鼎中喁魚, 逃無歸處, 從其號令, 豈其本心哉? 其勢必不能久長. 况今先張射天之弧, 妄興無名之兵, 敗與國之和好. 芟仁覆之赤子, 犯天人之殷怒, 陷萬古之大戮. 雖欲假息海島, 苟延歲月, 必不能待矣. 欽惟我聖天子, 高拱凝旒, 本置你國於度外, 貢之不許, 皆你國自取. 至誠請款, 期於格天, 可也. 不宜稱兵構逆至此無厭也. 以我國言之, 修好百餘年, 我無爽矣. 你國檣帆, 織于海洋, 迎送於蓬山, 賓接於東平, 宴慰於春官. 享無不備, 儀無不盛, 尙何負於你國乎? 而忘我大德, 反肆毒螫, 若是之酷歟? 凡我國含生食毛之類, 其忍共戴一天而苟活耶? 初之見刳, 只綠恬憘之久事出倉卒而然爾, 今則不然. 人孰無父母·妻子之愛·田園·産業之資乎? 痛切於人人, 怨結於家家, 皆思奮義而死, 孰肯蒙恥而生? 匹夫之怒, 猶不敢當; 擧國之怨, 其何可弭? 毋以前日之幸爲恃也. 堂堂我聖天子, 初出偏師於平壤, 一擧鏖之, 如摧枯拉朽之易. 若於其時, 乘破竹之勢, 長驅直擣, 則壓綽而擠之, 如反手也. 斂兵不進者, 是不過姑震之使你輩怚威自遁, 矧敢與之爭鋒角勝乎? 王者之師, 止戈爲貴, 仁涵罔外, 刃莫畢屠, 非力不足也. 你猶不悛, 夸謾求和, 出不遜語, 是何翅句萌傲霜雹鷧麛抗喬嶽乎? 多見其不自量也. 聖天子, 其肯許之乎? 屯據海岸, 終欲何爲? 古語有之, ‘師直爲壯, 師曲爲老.’ 謀犯天朝, 曲莫大焉. 不得已而應之, 復君父之讎, 何直若是? 天道助順, 人道助信. 出爾反爾, 往無不復. 天之亡你, 不占而知. 雖以你國言之, 吾知其所得不能補其所失. 是何我國之人, 無貴·無賤·無長·無少, 以至十萬天師, 皆佩你之刀劍乎? 以此益知你國之鰥寡孤獨將不勝其叫啼呼籲於蒼蒼也! 婦失壯夫, 母喪愛子, 子不見父, 則怨將何歸? 衆口銷金, 羣蚊成䨓. 民之所欲, 天必從之, 寧非惕歟? 你等旣有心肝脾肺之臟, 亦有食色好惡之念, 余言非誣, 其熟察之. 怒干上帝, 怒干兵民, 怒干鬼神, 怒干天子. 怒于隣國, 怒干四海之人, 擧天下而讎之. 若是而能保首領者, 吾不信也. 且你等, 其以秀吉爲爾之君歟? 秀吉, 其非簒賊之魁歟! 你等, 若以秀吉爲君而事之, 則是亦簒賊之徒也, 畢竟難逭於天誅, 豈不哀哉! 倘爲威使所迫, 雖忍聽命, 苟能知秀吉之惡, 將不容於宇宙之間, 則捨逆取順. 吉凶所在, 見機而作, 日其可竣. 去就之際, 禍福之間也. 人皆有心, 思之, 則得矣. 恭惟我國王事大之忱, 孚于天子, 荷天子之寵而蒙上國之授. 鄰國之援, 尙難易得, 况上國之援乎! 求賢之誠, 格于上帝; 帝乃默誘, 夢賚飛將. 勇可追風, 力能拔山; 手揮二十尺長劍, 肘掛一百斤鐵椎. 躍馬於千仞絶壁, 立腳於千丈竿頭, 兩腋㧖虎, 雙瞳閃電. 雖古之名將. 未有若此之神籌者. 主上得之, 特賜之忠勇翼虎將軍之號, 以爲先鋒. 此殆天之所以授我王也, 非人之所能爲也. 你等其未之聞歟? 千羊不能抗一彪, 百鶉不能當一鶚, 至則靡耳. 噫! 天之生材, 不以地而限. 你等之中, 亦豈無察天人審時勢識向背之豪傑乎? 苟能承天心, 順帝命; 因民願, 回戈渡海, 聲秀吉之罪而討之. 斷頭懸槊而來, 獻于天子, 則天子嘉你之績, 貰你之辜, 勒名於彝鐘, 圖形於麟閣, 策勳爲上柱國, 進爵爲開國伯, 封之爲日本國王. 許朝貢之路, 得齒於畿外諸, 世世稱孤. 永爲東藩, 騰于萬口, 天下誦之, 書于太史, 百世稱之. 其與贊賊爲虐, 甘犯天刑, 自就勦絶者, 相去豈不遼哉! 斯可與智者道, 難與昏迷者說, 勉思良圖, 毋貽後悔. 四月, 鶴峯遘癘, 證甚危劇. 公與朴公惺, 晝夜在傍, 竭誠救療, 及歿. 同主哭殮, 權厝于智異山麓. 相與失聲長慟而散, 入德山. 時, 天將與倭虜講和, 班師而歸. 公乃上書于天將, 請勿聽和, 仍畱勦滅. 其略曰: 痛惟島夷秀吉這厮, 以華種賊酋, 不辨菽麥而饕餮放橫, 好亂樂禍. 生心射天, 先張之弧, 哄我誘我, 責我嚮道. 我寡君戴天無貳, 罙忱事大. 嘗, 矢諸朝曰: “寧湛宗僨國而已, 其敢貳乎? 有赫其臨, 天威咫尺.” 日勑邊防文武將吏, 使之哨探戒嚴, 拱㧖截勦. 而乃於上年初夏, 乃敢遂其不逞, 擧國來寇, 瀰洋蔽日. 湊泊釜浦, 蜂駭蟻散, 大肆搶掠, 厥銳莫遏. 關防一壞, 突如其升虛, 遂刳嶺路, 蹂湖右, 蟠王京. 鏖松都, 赶據箕城, 毒機西括. 焚燒我宮闕, 夷轢我廟社, 芟刈我生靈, 汙衂我婦女. 係縲我王子. 奴隷我宰樞, 又分剽諸道, 恣行刦殺, 所過殘滅, 擧國靡彫. 自有此天地, 未有此劇變. 斯豈我寡君之故哉? 斯實地防守禦官, 不忠無勇, 有以致之. 我寡君何罪焉? 居王位二十五年, 無遊畂聲色之娛, 有宵旰憂勤之惕而畏天之誠, 亘如一日. 德無甚失而政無甚闕, 今忽至此, 咎無歸處. 雖曰, ‘人謀不藏’, 抑亦天意難諶. 當其凶燄之密邇燎原也, 我寡君不忍盡鬭其民, 以太王去豳之義, 親奉廟社之主, 左次龍灣. 聖天子聞之, 有衋于衷, 卽遣使慰之, 繼之以鄭重之問, 洊之以錫賚之豐, 隕自天也, 渥何隆矣? 欽惟, 我聖天子, 殷念我小邦, 粵自先代, 一心靡不嚮帝室, 是寵憐之. 爰赫斯怒, 乃命都督府提督, 出師征之; 申命兵部右侍郞, 領衆督之. 且念我小邦公私空匱無以犒軍供戰備也, 命地官出粟與銀, 命夏卿出兵仗器械. 惟其所用. 前後搬輸, 首尾千里. 於是, 提督大人, 銜奉天明, 恭行天討. 提將之符, 摠玆戎重, 裒兵大蒐, 豼貅如林, 長戟彗雲, 朱旗絳天. 朝, 辭魏闕; 夕, 至遼薊; 山移海轉, 䨓轟霆迅. 威聲所加, 草木變色, 未濟鴨江而兇膽已破. 師次關西, 嘬鋒箕城, 天威何可當也? 怒其鷇麛, 敢抗喬嶽? 澌血波江, 積馘崇觀, 海西松都之賊, 聞風錯愕, 逃遁不暇. 兩京旣收, 西路爲之肅淸, 直擣畿郊. 將迫王京, 乘破竹之勢, 殪其魁而掇其城, 猶風埽坌而也. 天將豈不知之兵家之筭? 自別有奇正, 而戰勇氣也. 勇氣至於三則竭矣. 姑休卒息馬, 將相機而擧也? 且愍我王子在賊中, 不忍傷之也, 試許降聽和? 蓋將不血刃而離王京, 用保我王子, 徐觀其所爲而圖之? 吾儕小人, 不識大君子所卜度逈出尋常, 其猶有欲速之望. 今者, 孼虜, 果智竆力蹙, 旣噤不得出氣, 盡其衆南下. 堂堂我天將, 仗我聖天子威靈, 協我賢侍郞籌策, 長驅而壓綽之, 若排浮萍卷飄蓬. 不煩一兵而獺川以北·鳥嶺以南, 妖氛忽霽, 宇宙開朗, 國有生氣, 民回死脈. 信乎, 聖天子, 其眷佑我寡君乎, 其惠我東土之人乎. 信乎, 我天將, 其能用聖天子明命, 以無負推轂之寄乎. 蠢玆斯彌, 我小邦糞土賤氓等, 自分必死於鋒鏑, 將甘膏液之潤草. 豈意親望大將軍赳赳桓桓·盛德威武之儀容乎; 豈意親沐聖天子穆穆渢渢·生成再造之汪恩乎? 玆者秀吉之驕猾鷙悍, 與天爲仇者, 非天下古今非常之大變乎? 其貽虐於天下生民, 豈特洚水之湯湯乎? 帝舜氏, 旣命夏后, 免赤子於魚頭. 今我聖天子, 亦克命我大將軍, 解兩國之棼而息天下之兵. 其驅寇出海外廓, 淸區宇之功, 豈在於鑿龍門瀹濟·漯之下哉? 於是乎, 益仰聖天子知人之明·大將軍供職之忠也. 我寡君無國而有國, 無民而有民; 我小邦之人, 無君而有君, 無家而有家. 顒乎印乎, 伊誰之績? 乾坤之雨露, 其可謝乎? 日月之光華, 其可繪乎? 百姓, 夫何思何慮, 順帝之則而已. 嗚呼! 天道助順, 人道助信. 犯順干紀, 天方厭穢; 窮凶極惡, 鬼必陰誅. 君子曰: ‘苟信不繼, 盟無益也.’ 夷性孔姦, 詐黠難憑而何信之有? 伏願, 天將大人, 勿以謾語爲信, 勿以一去爲快. 益張皇嚴, 益硏神筭; 毋留天誅, 毋逋大憝. 永鞏我藩翰, 永存我宗社. 俾我東溟, 波不揚而塵不聳, 寔我孑遺東人之至望也. 竊恐, 天師一班之後, 每至侵暴而更無所扳援也. 籬撤而堂衝, 脣缺而齒冷. 我小邦淪喪, 亦豈大國之福哉? 重願天將, 其審圖之! 歷刑曹佐郞·比安縣監·司諫院正言. 卒於戊戌二月二十九日, 距生年爲五十五. 葬于本縣所山坤坐之原. 娶草溪鄭氏, 護軍渭之女. 莊襄公俊之曾孫也. 無嗣. 弟栢庵公, 只有一子曼勝. 承二父後; 主簿, 號槐堂. 側室有一女, 郭公再祐副室. 主簿, 生錫生·錫龜, 錫生奉栢庵公祀. 公在穉少, 超異穎秀. 及夫稍長, 慷慨有志節. 携二弟, 師事南冥先生, 肇軔於學. 弟兄以篤磋切. 師友以資討論, 敬義交修, 博約兩進. 洛閩諸書, 靡不硏賾. 易理兵術, 自能曉解, 深得函丈間印可. 而同門如寒岡·東岡, 同志如鶴峯·西厓, 相觀爲善, 許以知己. 其爲文章也, 簡妙宏肆, 菀有左氏之風. 其著於外者, 則疏而有卞忠奸·斥倭書焉. 書而有檄倭將·上天將焉. 此皆有數之文, 有足以明天常扶人紀識時務之大要也. 噫! 是豈無所以而然哉? 公於平日, 以『心經』·『近思』性理之編, 爲日用之茶飯. 雖危難之中, 戰闘之間, 不忘披於投戈, 常有誦於解鞍. 必以朝聞, 夕死爲期. 是以, 其所以發爲正見明識, 恢張大義者, 固可謂磊落光煒矣. 然而人皆知公之所以贊奇畫扶正義, 而不知公之淵源學術之有本有末. 嗟呼! 使公而遭遇平世, 展布其積蘊, 則事功之博茂敦大, 著于人耳目者, 必不止如是而已. 是不獨公之不幸也, 抑亦世道之不幸也. 豈非命也歟? 英廟乙酉, 贈禮曹參議; 當宁壬申, 加贈吏曹參判; 丁丑, 又贈吏曹判書, 仍命易名. 歷累朝而恩命相續, 酬大功而殷禮無憾, 可謂盛矣. 公之後孫觀華, 來謁羲淳, 爲狀. 羲淳於公, 竊有曠世之感. 旣以該堂回啓, 多士之呈文就. 許文正公穆所爲之狀曁本家追錄之語, 綴以爲文, 用告于有司. 崇政大夫, 行禮曹判書,判義禁府事金羲淳, 謹狀.
증 이조판서 송암 이선생 請諡狀(청시장) [김희순] 대명 신종 萬曆(만력) 임진(1592)년, 저 섬 오랑캐가 蠢動(준동)하여, 온 나라가 蛇豕(사시)가 되었다. 오직 이때 진양성에 삼장사가 있었으니, 학봉 김성일과 대소헌 조종도 그리고 송암 이노이다. 李魯(이노)가 바로 공이다. 오호라! 나라에 이 삼장사가 없었다면, 어찌 충성을 떨치고, 義氣(의기)를 격동하고, 북소리가 진동하였겠는가! 백성의 의지를 싹트게 하고, 한창때 적의 銳鋒(예봉)을 깎아, 다시 회복할 터전을 닦은 성대한 위업이 있었다. 朝廷(조정)의 보답하는 恩典(은전)은 爵諡(작시)가 가장 큰 것인데, 김성일과 조종도 두 공은 먼저 이루어졌으나, 공은 오늘까지 홀로 기다림이 있었다. 늦고 빠른 것은 天命(천명)이다. 어찌 기약하지 않음이 있어 그렇게 되었던 것인가여? 공의 자는 汝唯(여유)이고, 松巖(송암)이 그 號(호)이며, 鐵城(철성)이 관향이다. 시조 휘 璜(황)은 급제하였으나 은거하여 벼슬하지 않았다. 휘 嚴冲(엄충)과 麟冲(인충)은 모두 侍中(시중)을 지냈다. 嚴冲(엄충)이 곧 공의 선조이다. 이때부터 대대로 벼슬이 이어졌다. 휘 伯(백)은 고려 때 右軍棇制(우군총제)를 하였다. 국사가 날로 그릇됨을 알고, 벼슬을 버리고 남하하여 宜寧(의령)에 살았다. 바로 공의 7세조이다. 아들 乙賢(을현)을 낳았는데, 태조 때 少監(소감)에 제수되었으나 나가지 않았다. 휘 文昌(문창)은 부호군을 지냈고, 휘 翰(한)은 濟用監僉正(제용감 첨정)을, 휘 孝範(효범)이 通禮院引儀(통례원 인의)를 하였는데, 공의 증조 이하 3세이다. 어머니는 南平文氏(남평문씨)로 판관 垠(은)의 딸인즉슨 忠肅公(충숙공) 克謙(극겸)의 후손이다. 공은 겨우 弱冠(약관)을 넘었을 때, 진사에 합격하여, 을사사화 때 충신과 간신을 가려 줄 것을 상소하였다. 봉선전 祠官(사관)에 제수되었다. 대과에 급제한 이듬해, 섬 오랑캐가 패악스러운 글이 있어, 조야가 술렁이고 두려워하였다. 이에 공이 글을 올리기를: “신은 일본의 悖書(패서)를 전해 들었는데, ‘대명나라에 들어가기를 요망한다.’라는 말이 있다고 하니, 그 말은 흉악하나이다. 진실로 泛然(범연)하게 즉 데면데면하게 답을 해서는 아니 되옵니다. 峻急(준급)하면 곧 개돼지의 분노를 건드리게 되고, 儱侗(농동) 즉 논설이 정확하지 못하면 곧 윤리와 기강의 올바름을 해치게 되나이다. 전하! 어떠한 도리로 답을 하겠나이까? 주나라 王孫滿(왕손만)의 바른말은 초나라 관리들의 氣(기)를 막은 것이며, 한나라 文帝(문제)가 자기를 낮추어 겸손하게 한 말은 南越(남월)이 마음을 숙였다는 것이외다. 지금의 이 擧措(거조)는 心機(심기)가 매우 요긴하고, 지금의 계책을 위함은 오랑캐의 마음을 바로잡는 것에 불과하고, 백성의 화합을 얻을 따름이나이다.”라고 하였다. 전하! 답서를 짓도록 명하소서! 이에 가로되: 事大交鄰(사대교린)은 국토를 가진 나라의 常道(상도)이니, 대국은 진실로 섬기지 않을 수 없고, 이웃 나라는 실로 사귀지 않을 수 없습니다. 이 도리에 순응하는 자는 상스러움이 흥하고, 이 이치를 거스르는 자는 재앙이 생겨납니다. 이는 자고로 그러할 따름이니 어찌 속일 수 있겠습니까? 귀국의 사신은 돛을 달아 바다에 旗幟(기치)를 올리지만, 우리나라 사람들은 바닷길을 堪耐(감내)하지 않습니다. 그런고로 혹시 서로 알리는 것을 감히 자주 하지 못합니다. 지난날, 대마도 여러 섬의 추장들이 못된 행실을 일삼아, 혹은 우리 변방을 침략하여 핍박하고, 혹은 우리 여린 백성을 약탈하고 사로잡았습니다. 이는 비록 귀국이 알지 못하는 바이겠지만, 우리나라 심중에 부스러기가 없기는 불가능하니, 역시 해적의 노략질을 염려하는 것입니다. 통신사가 停廢(정폐, 하던 일을 중도에서 중지함)된 지가 백여 년에 이릅니다. 하지만 교린의 의리는 조금도 바뀌지 않았습니다. 지금에 있어서 대왕이 뛰어난 무사의 재기로서 雄傑(웅걸)의 지략을 이루어, 참람하고 교활한 자들을 섬멸하여 여러 섬을 빼앗아 평정하니 구역이 맑아졌습니다. 중요한 사신을 특별히 보내, 폐백으로써 진상하고, 보배로서 천거하여, 사로잡힌 백성들을 돌려보내기를 다하였습니다. 과인에게 致詞(치사)하기를 지금 이후로는 서로 해치는 일이 없을 것이라 하였습니다. 또 말하기를 ‘우리는 통신사가 단절되지 않았지만, 귀국은 보답하는 예를 오랫동안 없앴으니, 장차 交隣(교린)에 있어서 무엇이며, 講好(강호, 서로 화해하여 사이좋게 지냄)는 어떠합니까?’라고 하였습니다. 과인은 말을 듣고 기뻐하며 말하기를 ‘하늘에 힘입은 신령함은 대대로 서로 성대히 하고, 혹시라도 상호 圖謀(도모)하지 않는다면, 우리 남쪽 바다는 풍랑이 일지 않을 것이라 했습니다.’ 이렇다면 실은 두 나라가 함께 그 복을 받는 것인데, 어찌 감히 조정에 곧바로 묻지 않을 수 있었겠습니까? 조정의 신하들은 모두 하고자 하지 않았고, 오직 한 두 신하만 과인과 함께하였습니다. 드디어 유신들을 독촉하고 격려하여, 고래 같은 파도를 무릅쓰고 바다를 건너, 특별한 선물로 사례를 하고자 하였습니다. 귀국의 바다에 들어갈 때에 호위를 매우 부지런히 하였고, 그 도성에 다다랐을 때는 舘待(관대)가 매우 성대하였으며, 전별하는 물품은 풍성하게 하고, 연회는 노복들에게까지 미쳤습니다. 통신사 선박이 돌아온 뒤에 질풍마냥 더 위로를 해주었습니다. 예가 어찌 이처럼 융숭할 것이며, 은혜가 어찌 이처럼 크다는 것입니까? 이후에 더욱 대왕의 정중함을 알았습니다. 단지 편지 중에 이해할 수 없는 것이 있습니다. 이것은 임금의 측근이 꾸민 말과 과장된 언어로 다른 나라를 속이려고 한 것입니까? 그렇지 않다면 어떻게 그 말이 교만한 것입니까? 과인이 대왕을 위해 청하건대 그 불가함을 말하니, 平心(평심)을 가지고 밝게 이것을 살펴 주기를 바랍니다. 대명나라는 황제의 나라이니 침범이 불가합니다. 천지가 처음 창시되어 나뉠 때, 그 가운데가 중국이 되고, 그 바깥에 자리한 것이 外夷(외이)가 되어, 疆域(강역)이 각각 나뉘어 종류 또한 다른 것입니다. 이것은 하늘이 정한 바이니, 사람이 하는 바가 아닙니다. 이른 고로 중국은 저절로 중국이 되고, 오랑캐는 스스로 오랑캐가 된 것입니다. 순임금과 우왕, 탕왕과 무왕 같은 옛 성인이라도 그 풍속을 바꿀 수 없었고, 單于(선우)와 突厥(돌궐)과 같은 강자일지라도 그 땅을 어지럽히지는 못하였습니다. 각자 그 나라의 그 견줌으로, 스스로 융성하고 쇠퇴하였고, 번갈아 흥하고 망했을 따름입니다. 하늘이 어찌 거스를 수 있습니까? 하늘은 어길 수 없는 것입니다. 하물며 귀국은 아득히 바다 밖에 있어, 또 하나의 하늘과 땅이기에 그곳은 대국이라 할만하니, 왕이라고 칭하든 황제라 일컫던지 오로지 뜻대로 하면 됩니다. 이것을 즐겨이 하지 않고, 장차 무엇을 하려고 합니까? 옛날 진시황제는 西周(서주)와 東周(동주)를 삼키고, 나머지 六國(육국)을 멸하여 깊이를 혜량할 수 없는 연못에 임하여, 억만 길에 달하는 성곽에 웅거하여 흉노를 수천 리 밖으로 물러나게 하였습니다. 남은 위엄을 천지사방에 떨쳤으니 얼마나 장한 것입니까? 비록 그렇다고 하여도 沙丘(사구)에서 한날 저녁에 죽으니, 비린 생선으로 시신이 썩는 냄새를 어지럽혔습니다. 두 황제 호해와 자영에게 전했지만 필경 噍類(초류, 사람과 길짐승을 통틀어 이르는 말)마저 없어졌으니, 위엄이란 믿을 만합니까? 위엄은 믿을 수 없는 것입니다. 後秦(후진)의 符堅(부견)이 거의 30년이나 병사를 양성하여, 符融(부융)과 慕容垂(모용수)로 하여금 보병과 기병 25만 명을 감독하도록 하였습니다. 이에 旌旗(정기)가 천 리를 서로 바라보며, 군대를 몰아 남하하여, 吳郡(오군)과 會稽郡(회계군)을 집어삼키고, 돌아보며 이르기를 ‘큰 강의 물결도, 채찍을 던져 건널 수 있다.’라고 하였으니, 얼마나 성대하였습니까? 하지만 劉牢(유뢰)의 5천 병사에게 먼저 꺽이고, 謝玄(사현)과 謝石(사석)의 8만 병사에게 끝내 패하였습니다. 엎어지고 넘어졌다가 달려 도망하며, 바람 소리나 학의 울음을 들어도 적이라 여겨 서로 짓밟히니, 淝水(비수)가 피가 되었습니다. 어찌 병력이 많음에 달려 있겠습니까? 하물며 중국은 틈새가 없어, 천자는 神命(신명)하고, 조정에는 충성스럽고 선량한 신하가 있음에 상하가 화목합니다. 명령을 내려서 시행을 하면, 움직임이 법도에 합당합니다. 域外(역외)의 여러 나라는 모두 臣妾(신첩)이니, 비록 옛날 聖君(성군)이 있던 시대라고 하여도 어찌 이보다 낫겠습니까? 마치 하늘을 계단으로 오를 수 없는 것과 같은 것이니, 실로 생각을 바꾸지는 못할 것입니다. 대왕이 만약 하늘을 거스르고 가벼이 하면, 온 나라 무리를 다 하여 목선에 싣고, 만 리의 풍랑을 거슬러, 蘇州(소주)와 抗州(항주) 한 모퉁이로 돌진한다면, 처음에는 비록 세력을 믿고 침범하는 통쾌함이 있을지라도, 종국에는 필시 재앙이 있을 것입니다. 왜 그렇겠습니까? 손가락이나 발가락 하나가 있고 없고는 元氣(원기)가 당당함에 더하거나 덜함이 없습니다. 그러나 천자가 震怒(진노)하여, 어진 신하가 계책을 도우며, 천하의 병사를 徵集(징집)하여, 大逆之罪(대역지죄)를 聲討(성토)한다면 곧 원군이 없는 군대와 지친 병사로는 결단코 중원에서 그 뜻을 얻지 못할 것입니다. 이는 한갓 사치하는 마음이 가히 많은 것을 알겠고, 병력을 기울여서 전쟁 일삼는 것은 나라의 근본이 흔들린다는 것을 생각하지 못하는 것이며, 기껏해야 기이한 공로에 힘써 명분을 없이하여 의리를 저버리는 것은 군주의 적이 상규를 벗어났다는 것을 생각하지 못한 것입니다. 오로지 중국에서만 자식을 고아로 만들고, 아내를 과부로 만드는 것이 아닙니다. 귀국의 백성들은 유독 하늘의 백성이 아니란 말입니까? 어찌 육체와 정신이 중원의 잡초에 칠해지지 않는다고 보장하겠습니까? 그런즉슨 얻은 바로는 그 잃은 것을 채울 수 없고, 획득한 것으로 그 잃은 바를 보충할 수 없습니다. 비록 대왕의 나라라고 어찌 홀로 이로울 수 있습니까? 또한, 사람의 마음이란 예측이 불가하니, 어찌 이쪽과 저쪽이 있을 것입니까? 살기를 바라고, 죽기를 저어하는 것은 人之常情(인지상정)입니다. 대왕이 만약 멀리 燕京(연경)에 들어가서, 양국이 서로 고집하여 양보하지 않아, 승부가 쉽게 결정되지 못하여, 소식이 오랫동안 서로 전해지지 못한다면 즉, 전쟁에 나선 군사들의 그 부형과 자제가 귀국에 있으면서, 장차 밤낮으로 서쪽을 바라보지도 못하고, 고통스럽게 그리워하며, 그것을 원통해 할 것입니다. 덤불 속에 군사를 숨긴 奸雄(간웅)이 인하여 참지 못하고 역시 대왕의 지위를 도모할지 어찌 알겠습니까? 그 남은 군사들로 하여금 국경을 굳게 지켜 대왕을 기다린다면 곧 대왕은 끝내 어디로 돌아갈 것입니까? 잡은 토끼를 버리고, 달아나는 노루를 쫓는다면, 옛사람의 웃음거리가 되는바, 오로지 대왕은 이를 깊이 생각하십시오. 원한의 機關(기관)을 만들지 말고, 재앙의 사다리를 놓지 마십시오. 대군이 한번 동원되면 만 명의 목숨이 걸려 있으니, 전쟁을 일으키는 것이 어찌 좋은 일이겠습니까? 진실로 부득이할 때 일으키는 것입니다. 대왕이 중원으로 향하고자 하는 것은 무슨 의도인지 아는지 모릅니다. 중국이 조공을 허락하지 않은 것은 응당 그 연유가 있습니다. 諸島(제도)의 왜구들이 변방을 돌아다니면서 빼앗고 훔치기로 상국이 분노에 이르렀다는 것을 어찌 알았겠습니까? 만약 여러 나라와 함께 朝會(조회)하지 못한 것에 혐오를 하면, 당연히 성의를 바쳐 情誼(정의)를 통하여, 천자가 깊이 느껴 깨닫기를 바라는 것이 가할 것입니다. 천자는 포용하는 도량이 있어, 北胡(북호)와 南越(남월)을 한 집으로 통일하니, 어찌 끝내 마치기를 즐겨 하겠습니까? 접대가 예로부터 전해지는 慣例(관례)에 어긋나는 것은 예전에 있었으나, 오늘날에는 있지 아니한 즉 역시 대왕의 수치는 아닙니다. 귀국은 우리나라와 더불어 형제와 같고, 대명나라는 우리나라에 있어서 부자와 같습니다. 형제가 아버지를 謀害(모해)하는데, 도와서 화해시키지 않고, 도리어 逆亂(역란)을 조성하는 것이 어찌 있으리오? 이는 대왕이 인륜의 도리로 요구하지 않았으니, 과인은 비록 老鈍(노둔)하고 겁이 있지만, 어찌 이에 無心(무심)하리오. 예전에 南越王(남월왕) 慰佗(위타)가 황제가 타는 수레와 쇠꼬리로 장식한 큰 깃발로 황제로 자칭하였지만, 늙어서 손자를 안고, 오히려 한나라를 섬기고자 하였습니다. 원하건대 대왕은 왕성한 기운에 부림을 당하지 말고, 조용히 이를 생각해 보십시오. 인생의 노년에 한 번 깨달음은 응당 우스운 일이 아닙니다. 만약 대왕이 우리나라에 화를 전가시키고자 한다면 할 말이 없지만, 상국을 속이고 침략하여, 사이가 벌어지게 하여 불화를 야기하는 이것은 서로 믿는 도리가 더욱 아닙니다. 역시 어진 자의 마음이 아닙니다. 바야흐로 사신을 연이어 보냈지만, 음모하여 서로 마음을 훔친다면 곧 천신이 싫어하는 바이며, 신명이 미워하는 경우입니다. 비록 대왕의 백성이라도 기꺼이 심복하기를 즐겨 하겠습니까? 옛사람에게 말이 있기를 ‘덕을 따르는 자는 창성하고, 덕을 거스르는 자는 망한다.’라고 하였습니다. 대왕은 아직 이를 들어보지 못하였습니까? 대왕이 만약 이전의 우호를 버리지 않고, 우리나라에서 일을 벌이지 않으면 곧 어찌 우리 백성만 편안하겠습니까? 귀국의 백성 또한 편안합니다. 혹시 과인을 不聽(불청)하고, 해상에서 전쟁을 일으키기를 도모한다면 곧 우리나라는 비록 작지만, 모든 우리 군사에게 명하여, 한바탕 결전을 기약할 것입니다. 두 호랑이가 싸운다면 모두 살아남을 이치는 없습니다. 대왕은 그것을 잘 도모하여 후회를 남기지 마십시오. 고려 말에 僞姓(위성, 신돈의 아들이라는 우왕을 일컬음)을 가진 자가 尸童(시동, 제사 때 신주 대신 앉히던 아이)처럼 재위하였으니, 국내는 대란이고, 싸움이 서로 거듭되니, 기근이 연이어 잇따르고, 백성은 보리밥 먹는 것이 옥으로 밥을 짓는 것보다 심하였습니다. 또한 邊境(변경)의 바다에는 鎭堡(진보)와 營壘(영루)의 방비가 없었습니다. 그래서 나이 어린 왜구 추장인 阿只拔都(아기발도)는 그 사나움을 믿고, 기세 좋게 도시를 내침하니, 마치 빈 고을을 오르는 듯하여 그 예봉을 막을 수 없었습니다. 그러나 남원부의 荒山(황산)에서 대패하였으니, 한 척의 선박도 돌아가지 못하여, 뼈는 절여지고 가루가 되었으며, 영혼은 떠도는 귀신이 되었습니다. 이것은 마땅히 明鑑(명감)이 될 것인데, 어찌 경계하지 않습니까? 과인은 인하여 사신에게 자세히 들자니 ‘대왕은 위엄이 먼바다 밖까지 더하고, 구역에 바람을 일으키고, 용처럼 날뛰고 범의 눈으로 쏘아보면, 당할 수가 없고 거스를 수 없으니, 일본이 개국한 이래로 있지 않았던 뛰어난 군주인 바이다.’라고 하였습니다. 그렇기로서니 국왕이 되어 귀해졌으며, 지위가 이미 至尊(지존)이고, 부유하기로는 재물은 이미 산을 이루었습니다. 僭濫(참람)하고 거짓된 것을 잘라 없애버렸으니, 공덕 또한 숭고하고, 동쪽 바다를 混一(혼일)하여 교화 또한 미치게 하였습니다. 명예와 지위가 이미 부합하고, 사업 역시 뚜렷이 드러나므로, 뜻이 있어 지망하는 바는 이미 필하였는데, 도리어 무엇을 구하고자 합니까? 달이 차면 곧 이지러지고, 기물이 차면 즉 기울어집니다. 이것은 정말 대왕이 꽉 찬 상태에서 자만을 경계할 때입니다. 사람의 수명이 얼마나 되겠습니까? 세월은 흐르는 물과 같고, 번화한 것은 한 때이며, 부귀는 잠깐입니다. 우리의 인생이야 한계가 있을 것이지만, 욕망이란 끝이 없습니다. 끝이 있는 것을 가지고 끝없는 것을 구한다면 위태롭고 위험합니다. 구하는 바는 안락함인데 고통을 자처하니 奈何(내하)오. 지세가 험한 곳을 범하지 말고, 백성의 화합을 흔들지 마십시오. 封土(봉토)를 지키기를 신중히 하여 오로지 길이 편안함을 도모하십시오. 밖으로는 떼도둑의 침범함이 없으니, 안으로는 밤에 대문을 닫지 않아도 됩니다. 뽕나무와 삼나무가 천 리에 무성하고, 닭과 개 짖는 소리 함께 들리니, 老少(노소)가 아무렇게 노닐면서 손잡고 노래 부르며, 백성은 지극한 덕을 기리면서 나라에 어진 군주를 칭송합니다. 장차 처지를 생각하지 않고 멋대로 국경을 넘어오면, 백성을 부려 재물을 축내게 하고, 상국에 원수를 맺음에 이웃 나라에 우호를 추락시키게 하여, 서로 차이가 나게 하는 것이 어찌 아주 다르다고 할 것입니까? 과인은 차마 나라의 의리를 함께 저버릴 수 없어, 감히 心腹腎腸(심복신장)을 펴고서, 信印(신인)을 사용하는 고하는 것이니, 오로지 대왕은 이를 자세히 살피기 바랍니다. 신이 이와같이 아뢴 것은 단지 이해를 분명하게 진술하여, 저들로 하여금 順逆(순역)을 알기를 바라는 것입니다. 다만 肝膈(간격)을 토로하여, 성은에 우러러 보답하고자 할 따름이지, 감히 신의 進言(진언)이 可用(가용) 하다고 한 것은 아니외다.
임진(1592)년 공은 한양에 있었는데, 하루가 급하다는 변방의 소식을 들었다. 대소헌 조종도와 함께 샛길로 남쪽으로 돌아오면서, 倡義(창의)를 하여 생사를 함께 하기를 약조하였다. 함양에 이르니, 학봉 김성일이 초유사로서 먼저 군에 도착해 있었다. 학봉은 곧 공의 知己之友(지기지우)였다. 공과 조종도가 함께 들어가 배알하니, 학봉이 크게 기뻐하며 말하기를 “이는 하늘이 나를 도운 것이다.”라고 하였다. 그 당시 상황은 온통 무너져, 列邑(열읍)이 이미 비었고, 士民(사민)들은 달아나 숨어버리니, 산골짜기가 가득 찼다. 공은 통문을 초안하여, 창의의 대의를 曉諭(효유)하였더니, 학봉 김성일은 공을 소모관에 차임 하였다. 공은 그날로 즉시 출발하여 여러 고을을 바쁘게 다니며, 선비들을 찾아가서 눈물로써 깨닫게 하였다. 이보다 앞서 망우당 곽재우가 의병을 거느리고, 鼎巖津(정암진)을 지켰으나, 응하는 사람이 없었다. 통문을 보기에 이르고, 또한 공의 말을 듣고서는 감격하여 분발하지 않음이 없었다. 이에 金沔(김면)이 居昌(거창)에서 기병하고, 朴思兼(박사겸)·朴思齊(박사제)·權世春(권세춘)·全致遠(전치원)·李大期(이대기) 등이 향병을 한데 뭉쳐 서로 연이어 일어났다. 학봉 김성일이 공적을 세운 상황을 들러 포상을 하였다. 朴而文(박이문) 등이 더불어 상소하여 이르기를 “金沔(김면)·李魯(이노)·朴惺(박성)은 온 천하에 마음을 서약하고, 맹세코 나라의 치욕을 씻기로 기약하며, 향리에서 분연히 떨쳐 일어났습니다. 동지들을 이끌고, 낙동강을 거슬러 올라오는 적을 무찌르고, 혹은 각 성에 웅거하고 있는 왜적을 죽였습니다. 군대의 위세가 날로 떨쳐 일어나고, 병력이 점차 강해졌습니다. 낙동강 서쪽 6, 7개 고을이 오늘날의 卽墨城(즉묵성, 전국시대에 유일하게 함락되지 않아 제나라 재건의 바탕이 된 성)이 되어, 수복의 터전이 이로 인하여 가능해졌습니다.”라고 하였다. 선조 임금이 교서를 내려 포장하기로, 공은 典籍(전적)에 제수되었다. 공은 은전에 감격하며 눈물을 흘리면서, 적과 함께 살지 않을 것을 서약하였다. 나가서 의병을 모집하고, 안에서는 계획을 세우는 것을 도왔는데, 학봉 김성일이 공의 계책을 많이 채용하였다. 학봉 김성일이 진양에 도착하였을 초기에 공과 조종도가 함께 하였다. 성은 비어 적막하고, 사람의 그림자도 끊어지고 없는데도, 오로지 강물만 소용돌이치며 흘렀다. 이리저리 배회하며 바라보니, 처참함만 눈에 가득하였다. 공이 조종도와 손을 잡고 학봉에게 일러 말하기를 “진주는 거진이고, 목사는 名宦(명환)인데, 왜적은 아직 쳐들어오지도 않았어도, 사정인 이미 이와 같으니, 다가올 날에는 어찌 손쓸 곳이 있겠냐고 하는 것은 빨리 죽어 모르는 것만 못합니다. 왜적들의 흉봉에 죽는 것보다 차라리 이 강물에 함께 빠져 죽는 것이 나을 것입니다.”라고 하였다. 김성일을 이끌고 강으로 향했다. 학봉이 도중에 웃으면서 말하기를 “한번 죽는 것은 어려운 일이 아니나, 헛되이 죽는다면 무슨 소용이 있겠소? 다행히 여러분들의 창의에 힘입어, 많은 선비들이 서로 호응하고 있으니, 나라를 회복하는 공적을 거의 바라볼 수 있게 되었소. 만약 불행하게 되었을 때 죽어도 늦지 않을 것이오.”라고 하였다. 드디어 서로 통곡하고 자리를 파하였다. 곽재우는 왜적의 머리를 베는 것은 위험하다고 여겨, 적을 참하는 것을 금지하였다. 매번 적을 맞이하였을 때 군사들이 곧바로 나아가 죽이는 자가 없으니, 적이 이 때문에 함부로 떼를 지어 멀리까지 쫓아 왔다. 공이 곽재우에게 일러 말하기를 “사람들은 누구라도 功名心(공명심)이 없겠는가? 만약 참수를 금하여 보상이 없다면, 곧 군사는 필시 나태해질 것이니, 무엇으로 싸우게 할 것인가?”라고 하였다. 곽재우가 그 말에 따라 참수를 허락하였다. 그 후 군사들 모두 앞다투어 왜적을 죽이니, 적은 감히 가까이 오지 못하였다. 金沔(김면)의 군대가 군량이 결핍하여 장차 潰散(궤산)될 우려가 있었다. 공이 私儲官(사저관)으로 여러 고을을 돌며, 士民(사민)들을 효유하였다. 의령에서 6백 8십 석, 함안에서 1백 60석, 산음에서 백여 석을 얻어. 현감 金洛(김락) 주어 김면의 군대로 보냈다. 그 당시 鄭仁弘(정인홍) 막하에 참모가 없었다. 朴惺(박성)이 유독 이를 걱정하여, 학봉 김성일에게 공을 보내기를 청하였다. 학봉이 말하기를 “내가 汝唯(여유)를 얻은 것은 하늘이 도운 바이다. 그대는 이를 빼서 저를 주고자 하니, 무슨 연유인가? 또한 저들이 어찌 여유를 받아들이겠는가?”라고 하였다. 공이 이르기를 “나와 영공은 의병을 일으켜 함께 일하며, 始終(시종) 함께하기를 서약하였는데, 지금 어찌 저버리고 다른 곳으로 갈 수 있겠는가?”라고 하였더니, 박성이 사과하였다. 공이 학봉에게 중하게 여겨진 것은 이와 같았다. 진주의 世家大族(세가대족)들은 모두 곡식을 지리산에 숨겨두고, 還穀(환곡)을 내지 않으니, 군량을 조달하여 줄 수 없었다. 학봉이 크게 노하여 10여 명을 잡아 무거운 형벌로 다스리고자 하였다. 공이 하는 말이 “아니 되오! 무릇 이 일을 급하게 처리한다면 더욱 혼란해져, 의리로써 이를 깨닫게 하느니만 못합니다. 그들로 하여금 스스로 실어 내도록 하십시오.”라고 하니, 학봉이 “그대의 말이 참으로 옳소!”라 하였다. 이내 그 刑具(형구)를 풀어주고, 의리를 들어 납득이 되도록 설명하였다. 또한 曉諭(효유)하는 방문을 붙이니, 한 달도 되지 않아 곡식 수만여 석을 득하였으니, 군량이 이에 힘입어 결핍되지 않았다. 계사(1593)년에 공이 병 때문에 산에 들어갔을 때, 학봉 김성일에게 편지를 보내 말하기를 “요즘의 왜적의 형세를 보건대, 7, 8년간에는 깨끗하게 소탕될 기대가 있지 않고, 여러 진의 장수들은 앞날을 헤아리지 않고, 쌀을 흙 쓰듯이 합니다. 군대에 양식이 없다면 비록 우수한 장수가 있다고 하더라도, 장차 무엇을 할 것입니까? 공의 軍中(군중)에 또한 쓸데없는 법제가 많으니, 군관 수십 명은 줄일 수 있습니다. 衙前(아전) 10여 명 역시 줄일 수 있습니다.”라고 했다. 학봉은 이를 따랐다. 함양군수가 보고서를 내어 말하기를 “명나라 군사가 평양의 왜적을 토벌하여, 섬멸하기를 거의 다 하여, 잔당이 흩어져 달아났습니다. 연이어 황해도에 진영을 친 자들도 역시 일시에 도주하였습니다. 명나라 군사가 승리한 바에 편승하여 추격하기로 朝夕(조석)으로 멀리 몰아 남하할 것입니다.”라고 적었다. 때마침 이웃 고을의 수령들이 와서 모여 서로 치하하며 또한 말하기를 “마땅히 급히 都事(도사)를 여러 고을에 보내 군량을 감독하게 하여, 명나라 군대의 도착을 대비하여야 합니다.”라고 하였다. 공이 이에 말하기를 “반드시 이와 같이 할 것은 아닙니다. 평양은 비록 수복하였으나, 한양에는 아직 강한 왜적이 있으므로, 반드시 뒷 일을 도모할 것입니다. 명나라 군사는 속히 올 까닭이 없는데, 약간 남겨져 견딜 수 없는 고생을 한 백성들에게 겁박하고 소동하는 것은 마땅하지 않은 것이니, 잠시 상황의 변화를 보고 선처하는 것이 가할 것입니다.”라고 하였다. 온 좌중이 크게 놀라, 미쳐서 생겨난 말이라고 배척하였지만, 유독 학봉 김성일은 마음속으로 옳다고 이르며 말하기를 “그대가 장차 가서 황해도와 평안도를 살펴보시오. 군사들은 피곤하고 군량이 다해가는데 명나라 군사가 또한 온다고 하니, 지금의 형세가 정말 위급한 데 있소. 농사철이 이미 임박하여 종자 또한 절실하니, 일국의 危亡(위망)이 이번 걸음에 달려 있다오.”라고 하면서, 서첩을 갖추어 都體察使(도체찰사) 유성룡에게 보냈다. 공이 행차하여 礪山(여산)에 도착하였다. 명나라 군사의 동정에 관한 소식이 없어, 급히 병사 한 명을 보내 김성일에게 보고를 하였다. 이때 도체찰사 서애 유성룡이 臨津(임진)에 주재하고 있다고 들어, 장차 임진으로 향하려고 하였다. 수원에 이르러 부체찰사의 군관을 만났는데, 도체찰사로부터 왔다고 하면서 말하기를 “명나라 군사는 무소식이고, 龍仁(용인)·竹山(죽산)·沙平(사평)에 주둔한 적이 출몰하여 겁박하고 노략질을 하고 있어 수원과 衿川(금천) 사이는 길이 막혀 왕래가 불가합니다.”라고 한다. 되돌아 公州(공주) 도착하여, 鄭澈(정철, 1536~1593)의 체찰부사 金瓚(김찬, 1543~1599)을 만나, 곡식의 종자를 극력 청하였다. 김찬은 전라도사가 장악하는 오백 석을 주라고 글을 써 주었으니, 드디어 전주로 내려가서 운반하여 왔다. 서애 유성룡은 김성일의 서첩을 보고, 즉시 호남의 2만 석을 공급하도록 계청을 하였다. 공이 종사관 박이장과 함께 호남으로 가서 실어와 열읍에 나누어 주니, 때에 맞추어 논밭을 갈고 씨를 뿌려 가꾸게 하였다. 계사(1593)년에 왜장에게 격서를 보냈다. 그 글에 이르기를: 하늘은 높고 땅은 낮으니, 온 세상이 정해진 것이고, 별은 벌려 있고 바다가 가로막혀 있으니 구역이 구별되었다. 乾坤(건곤)이 정해짐에 귀하고 천한 것이 자리하였다. 구역이 쪼개져 구별되니 華夷(화이)가 판가름 되었다. 귀하고 천한 품위와 화이의 판가름은 모두 하늘이 하는 바이다. 하늘을 거스를 수 있는가? 하늘은 거스를 수 없는 것이다. 이러한 까닭으로 천자보다 귀한 것은 없고, 하늘 아래 모든 것들이 모두 그 신하이다. 존엄하기로는 중화보다 더한 것이 없으니, 거느린 땅과 물은 모두 그의 땅이다. 군신의 의리와 조공하는 예법은 모두 이치에 보편적인 것이다. 이치가 없어질 수 있겠는가? 이치는 민멸되지 않는다. 사람이 하늘을 이기는 도리는 없고, 이치는 다하여 없어지는 때가 없다. 자고로 흉악한 역적은 만에 하나라도 온전한 것이 없었으니, 두러워하지 않을 수 있다던가! 이 작자 關伯(관백) 豐臣秀吉(풍신수길)이라는 저 사내는 호사스러운 종족의 적추장으로, 미친개처럼 성정이 거세어, 흉악함을 탐하여 악행이 여물었다. 이미 源氏(원씨, 미나모토(源) 성씨를 갖는 씨족의 총칭)의 나라를 탈취하여 자기 것으로 만들어, 예의가 없는 나라에 영웅을 자임하였다. 무고한 사람을 죽이고, 온갖 동물을 매우 즐겼으며, 사람의 살을 저며내고, 인간의 뼈를 발라내고, 가슴을 관통하였으니, 오로지 잔인하고 난폭하였다. 너희 나라 사람조차 위협하고 제압하여, 너희 나라 그 학정의 화염이 불타올랐다. 징발에 지치고, 전투에 곤궁하여, 원망과 질시의 왁자지껄한 소리가 위로 하늘을 아득한 바다를 둘러 경계를 이루었다. 목선을 타고 와서 솥안에서 입을 벌름거리는 물고기와 같이 되었으니, 도망가서 돌아갈 곳이 없다. 그 號令(호령)을 쫓는 것이 어찌 본심이겠는가? 그 기세는 반드시 오래 갈 수가 없다. 하물며 지금 하늘을 쏘는 화살을 먼저 당겨, 망령되게 명분 없이 군사를 위법하게 일으켜, 이웃 나라의 우호를 깨뜨렸다. 갓난 아이까지 죽여 인의를 베어버렸으니, 하늘과 사람의 가멸한 노여움을 범하여, 만고의 공개처형에 빠졌다. 비록 바다 가운데 섬에서 잠시 쉬면서, 구차하게 세월을 연장하고자 하지만 절대로 기대할 수 없을 것이다. 경건히 생각하건대, 우리 성스러운 천자는 높이 팔짱을 끼고 면류관을 엄정하게 하였는데, 본래 너희 나라는 법도 밖에 두어, 朝貢(조공)을 허락하지 않았으니, 모두 너희 나라가 자초한 것이다. 정성을 다하여 情誼(정의)를 청하면, 하늘의 감동을 기대하면 가할 것이다. 擧兵(거병)하여 역모를 얽어 이 지경에 이르고서도 부끄러움이 없는 것은 마땅하지 않다. 우리나라로서 말할 것 같으면, 修好(수호)한지 백여 년에 우리는 마음이 맑고 즐거운 적이 없었다. 너희 나라가 돛을 올려 바다를 누비고 오면, 蓬山(봉산)에서 맞이하고 보냈으며, 손님 접대는 東平館(동평관)에서 하고, 연회를 베풀기는 禮曹(예조)에서 하였다. 누리는데 불비함이 없었고, 儀禮(의례)가 융성하지 않음이 없었기로서니, 오히려 너희 나라에 무엇을 잘못하였다는 것인가? 그럼에도 우리의 크나큰 은덕을 망각하고, 도리어 방자하게 독으로 쏘다니, 이다지도 혹독할 수 있다는 것인가? 무릇 내 나라에 함께 사는 모든 衆生(중생)일지라도, 차마 하나의 하늘을 이고, 구차하게 살 수 있다는 것인가? 개전 초기에 갈가리 찢김을 당한 것은 다만 직무에 게으른 것이 오래되어 일이 倉卒之間(창졸지간)에 일어난 까닭일 뿐일 것이나, 지금은 그렇지 않다. 사람이라면 누구라도 부모와 처자의 사랑이 없고, 전원과 산업의 재물이 없겠는가? 痛切(통절)한 것은 매 사람마다 그러하고, 맺힌 원한은 집집마다이니, 모두 奮義復讎軍(분의복수군)이 되어 죽을 것을 생각하니, 누구라 치욕을 당하며 기꺼이 살고자 하겠는가? 필부의 노여움도 오히려 감당할 수 없건만, 온 나라의 원망을 어찌 그치게 할 수 있겠던가? 전일의 요행을 믿지 말지어다. 당당한 우리의 성스러운 천자께서 처음 일부 군사를 평양에 출동시켜, 일거에 모조리 무찔러 죽이니, 摧枯拉朽(최고납후) 즉 마른 나무 꺾기와 썩은 나무 부러뜨리기의 쉬움과 같았다. 만약 그 때에 破竹之勢(파죽지세)를 타고, 멀리 내몰아 진중으로 곧바로 달려가서 마구 쳐부수었다면, 손바닥 뒤집는 것과 같았을 것이다. 병사를 거두고 추격하여 나가지 않은 것은, 잠시 너희를 놀라게 하여, 너희들로 하여금 위엄에 놀라 스스로 달아나게 하고자 한 것에 불과하였는데, 하물며 감히 칼끝에서 함께 싸워 이기려 했겠는가? 왕자의 군대는 싸움을 그치에 하는 것을 귀하게 여겨, 인의가 바깥을 적시니, 차마 屠戮(도륙)을 죄다 하지 못한 것은 力不足(역부족)이 아니었던 것이다. 너희는 여전히 改悛(개전)하지 않고, 교활하게 화의를 요구하며, 불손한 말을 내뱉으니, 이것은 어찌 초목의 싹이 서리와 우박을 업신여기고, 가마우지와 사슴 새끼가 태산에 대항하는 것뿐이겠는가? 참으로 스스로 헤아리지 못함을 많이 볼 수 있도다. 성스러운 천자께서 장차 기꺼이 허여하겠는가? 해안에 웅거하여, 끝내 무엇을 하려 하는가? 옛말에 ‘명분이 바른 군대는 사기가 왕성한 반면, 명분이 없는 군대는 쇠하기 마련이다.’라는 것이 있다. 天朝(천조)를 침범할 모략을 하였으니 명분이 없는 것이 이보다 더 큰 것은 있지 않다. 어쩔 수 없이 응전을 하였지만, 君父(군부)의 원수를 갚는다면 무엇이 이와 같은 名分(명분)이겠는가? 天道(천도)의 도움을 따르고, 人道(인도)의 도움을 신뢰하라. 너희에게서 나온 것은 너희들에게 돌아가는 것이라 했으니, 가서 다시 오지 않은 것이 없었다. 하늘이 너희를 멸망하게 하는 것은 점치지 않아도 알 수 있다. 비록 비록 너희 나라 입장에서 말해도 나는 너희가 얻은 바로써 너희의 잃어버린 바를 보충할 수 없다는 것을 안다. 어찌하여 우리나라에 귀하지 못하고, 천하지 않으며, 어른도 아니거나, 젊지도 않은 사람들과 10만에 이르는 임금의 군사까지 모두 너희들의 刀劍(도검)을 차게 하는것인가? 이것으로써 너희 나라의 鰥寡孤獨(환과고독, 홀아비와 홀어미, 고아, 늙어서도 자식이 없는 사람)이 장차 그 울부짖음이 창창한 천자에게 아뢰도 이길 수 없다는 것을 익히 알겠도다. 아내는 굳센 지아비를 잃고, 어미는 사랑하는 아들을 보내고, 자식은 아비를 보지 못한다면 원망은 장차 어디로 돌아갈 것인가? 사람들의 말이 많으면 쇠도 녹이는 법이고, 모기가 떼를 지으면 우레 소리를 낼 수 있다. 백성이 하고자 하는 바는 하늘은 반드시 따르는 법이니 어찌 두렵지 아니한가? 너희들에게도 이미 심장·간장·비장·폐장의 장기가 있고, 또한 식욕과 색욕, 좋고 싫은 생각이 또한 있을 것이니, 내 말이 거짓이 아니라는 것을 아마 깊이 살펴볼 지이다. 화냄으로 하늘을 범하고. 나무람으로 병사와 백성을 범하고, 노여움으로 神命(신명)을 범하고, 노여움으로 천자를 범하였다. 이웃 나라에 성냄으로, 온 천하 사람들을 화나게 하여, 온 천하가 원수로 삼고 말았다. 이와 같이 하고서도 수령을 보전한다는 것은 나는 믿지 못한다. 더불어 너희들은 이 풍신수길을 너희 임금이라 하는가여? 수길은 나라를 찬탈한 도적의 수괴가 아니던가! 너희 들이 만약 수길로써 임금으로 하여 섬긴다면 곧 이것 역시 簒賊(찬적)의 무리일 것이라서, 필경 천벌을 피하기 어려울 것이니, 어찌 애처롭지 아니한가? 멋대로 사신을 위협하여 핍박을 하는 바, 비록 명령을 차마 주의 깊게 듣지 못하더라도 진실로 수길의 패악은 알 수 있어, 장차 온 宇宙(우주) 사이에서도 용납되지 않을 것인 즉 逆理(역리)를 버리고 順理(순리)를 취하거라. 길흉이 소재한 기미를 보고 일어나야 날로 끝낼 수 있다. 물러남과 나아갈 때는 禍福(화복)의 사이가 된다. 사람은 모두 마음이 있으니, 생각해 보면 얻을 수 있을 것이다. 삼가 우리 국왕의 事大(사대)하는 정성을 생각하건대, 천자에게 믿음을 주어, 천자의 총애를 입어, 상국의 구원을 받았습니다. 이웃 나라의 구원을 쉽게 받기도 오히려 어려운데, 하물며 상국의 원조임에야! 현인을 渴求(갈구)하는 정성이 상제에 이르렀으니, 상제가 곧 묵묵히 인도하여, 꿈과 같이 飛將(비장)을 보내 주었다. 용기는 바람을 쫓을 만하고, 힘은 능히 산을 뽑을 수 있으니, 손에는 스무 척 장검을 휘두르고, 팔꿈치는 백 근의 철추를 걸쳤다. 천길 절벽에 말로써 跳躍(도약)하고, 천길 竿頭(간두)를 발판으로 해서, 양 겨드랑이에는 두 호랑이를 잡았고, 두 눈동자는 번갯불이 번쩍였더라. 비록 천고의 명장이라도 이와 같은 영묘한 계책은 아직 있지 않았다. 주상이 이를 얻어 특별히 忠勇翼虎將軍(충용익호장군)의 호명을 내어 선봉장으로 삼았다. 이것은 거의 하늘이 우리 임금에게 수여한 까닭이지, 사람이 능히 할 수 있는 바가 아니다. 너희들은 아직 듣지 못한 것인가여? 천 마리의 양은 한 표범에 대항할 수 없고, 백 마리 메추라기는 한 마리 물수리를 당할 수 없다는 것을? 이른다면 곧 滅(멸)하고 말 따름이다. 아! 하늘이 인재를 내는 것은 지역으로 한정하지 않는다. 너희들 중에 또한 하늘을 살펴서 알고, 사람을 보살펴 시세의 향배를 아는 호걸이 어찌 없다고 할 것인가? 참으로 천심을 받들어, 상제의 명에 순응하고, 백성들이 원하는 바에 인하여, 창을 되돌려 바다를 건너, 풍신수길의 죄를 성토하여, 그자를 토벌하여라. 머리를 베어 창에 걸고 와서, 천자에게 바치면 곧 천자가 너의 공적을 嘉(가)히 여겨, 너의 허물을 용서하고, 彝鐘(이종, 공신의 봉호를 받는다는 의미)에 이름을 새기고, 麒麟閣(기린각)에 얼굴의 형상이 그려지고, 공훈은 서책에 기록되어 上柱國(상주국, 전국시대 초나라 벼슬, 명나라 때 최고 관직 명칭)으로 삼으니, 작위가 내려져 開國伯(개국백, 고려 시대 봉작(封爵)의 한 등급)이 되어, 일본의 국왕으로 봉해질 것이다. 조공의 길이 열리고, 경기 밖의 제후의 반열에 들게 되어, 대대로 왕으로 호칭될 것이다. 영원히 東藩(동번, 동쪽의 신하국)이 되어, 만 사람의 입에 올라, 천하가 이를 칭송하여, 사관이 기록하여 백세토록 일컬어질 것이다. 장차 적을 도와 함께 해치고, 천형을 범하는 것을 예사롭게 한다면, 스스로 끊어 없애는 데에 나아가는 자와 서로 차이가 나는 것이 어찌 멀지 않다고 할 것인가! 이는 지혜를 가진 자와 함께 말할 수 있어도, 혼미한 자와 더불어 말하기는 어려우니, 좋게 도모함을 힘써 생각하여, 후회를 남기지 말지어다.
(계사1593년) 4월에, 학봉 김성일이 역질에 걸렸는데, 증상이 매우 위독하였다. 공이 박성과 함께 주야로 곁을 지키며, 정성을 다해 구원하여 치료하였지만 끝내 졸하였다. 함께 곡하고 염습하는 것을 주관하고, 지리산 자락에 임시로 매장을 하였다. 서로 목소리를 잃어버리도록 길이길이 통곡하고, 서로 헤어져, 德山(덕산)으로 들어갔다. 그 당시, 명나라 장수와 왜적이 강화를 하고, 군사를 거느리고 돌아가고자 하였다. 공은 이내 천장에게 편지를 보내, 강화를 불청하고, 인하여 계속 주둔하여 모조리 쳐서 무찌르기를 청원하였다. 그 대략을 이르자면: 통분하게도 섬 오랑캐 풍신수길이라는 저 사내는 호사스러운 종족의 적추장으로써, 菽麥(숙맥)을 구분하지 못하며, 饕餮(도철, 재물이나 음식 따위에 욕심이 많음)하고, 종횡으로 放縱(방종)함에 혼란을 좋아하고, 災禍(재화)를 즐겨합니다. 하늘을 쏘려는 마음이 동하여, 먼저 활시위를 당겨 우리를 거짓으로 꾀어, 우리를 속여 우리나라의 嚮導(향도)를 요구하였습니다. 우리 임금께서는 하늘을 이고 두 마음이 없이 더욱 더한 정성으로 사대를 하였습니다. 일찍이 맹세코 조정에서 이르기를 “차라리 삼족을 멸하여 나라를 무너뜨릴 따름이지, 어찌 감히 두 마음을 가지겠습니까? 밖에 임하여 있어, 천자의 위엄이 지척에 있나이다.”라고 하였습니다. 날마다 변방의 문무 관리들을 위로하고, 그들로 하여금 망보고 염탐하여 엄중히 경계하게 하여, 길목을 지키고 끊어 모조리 剿滅(초멸)하였습니다. 마침내 지난해 초여름에 반역적으로 생각한 것을 감히 따르니, 온 나라에 왜적이 들어오기를 바다가 가득 차고, 해를 가렸습니다. 부산포로 몰려와 벌떼처럼 소요하고, 개미처럼 흩어져, 제멋대로 재물을 약탈하니, 그 예봉을 막을 수가 없었습니다. 변방의 방어가 한 번 무너지니, 별안간에 그 빈틈을 타고, 마침내 영남의 길을 갈라, 충청도를 유린하고, 서울에 똬리를 틀었습니다. 개성을 鏖殺(오살)하고, 평양으로 달려가 占據(점거)하니, 독한 心機(심기)가 서쪽으로 몰려들었습니다. 우리 궁궐을 불사르고, 우리의 종묘·사직을 함부로 짓밟았으며, 우리 생민들을 풀을 깎듯이 베어내고, 우리 부녀자를 더럽히고 모욕을 하였습니다. 우리 왕자를 볼모로 잡고, 우리 고관대작들을 노예로 삼았으며, 또한 여러 道(도)를 나누어 노략질하고, 겁박과 살육을 자행하여, 지나는 곳마다 衰殘(쇠잔) 하여 다 없어지니, 온 나라가 쓰러져 시들었습니다. 이 천지가 있은 이래로, 이렇게 극심한 변고는 있지 않았습니다. 이것이 어찌 우리 임금의 탓이겠습니까? 이는 실로 지방의 방어를 맡은 관리가 불충하고 용기가 없어, 이 지경이 있게 된 것입니다. 우리 임금이 이에 무슨 죄가 있겠습니까? 왕위를 지낸 25년간, 밭두렁에서 놀거나 음악과 여색의 오락은 없었으며, 새벽에 일어나서 해가 져야 밥을 먹어, 憂勤(우근, 임금이 재난을 근심해 정무(政務)를 부지런히 살피는 것)의 惕念(척념, 재난을 두렵게 생각하는 것)을 가졌으니, 하늘을 경외하는 정성은 온종일과 같이 뻗치었습니다. 德(덕)에는 심히 잘못된 것이 없고, 정사에도 심하게 闕(궐)함이 없거늘, 지금 갑자기 이곳에 이르렀으니, 허물이 돌아갈 곳이 없습니다. 비록 말하기로 ‘사람의 智略(지략)은 감출 수 없다.’라고 하지만, 또한 역시 하늘의 뜻은 믿기가 어렵습니다. 그 흉한 불길이 임금에게 썩 가까이하여, 큰 들불이 일어남을 당하자, 우리 임금은 그 백성들을 차마 전투에서 죽게 하지 못하여, 太王(태왕, 주나라의 조상)이 豳(빈) 나라를 떠난 뜻으로, 친히 宗廟社稷(종묘사직)의 신주를 받들고, 龍彎(용만)으로 물러났던 것입니다. 성스러운 천자께서 이를 들으시고, 衷心(충심)으로 애통해하여, 즉시 사신을 보내 위로하였으며, 그를 이어 정중하게 위문하고, 연거푸 錫賚(석뢰)를 풍성하게 내려 주었으니, 하늘에서 떨어진 듯 은혜가 어찌 이리 융성하답니까? 공경히 생각하건대, 우리 성스러운 천자께서는 우리 작은 나라를 많이 염려하기를, 선대로부터 한마음으로 황실을 대하지 않음이 없음을 총애하고 가련히 여겼습니다. 이에 赫然(혁연)히 노하여, 곧 都督府提督(도독부 제독) 이여송에게 명하여, 군사를 내어 왜적을 정벌하게 하고, 거듭하여 兵部右侍郞(병부 우시랑) 宋應昌(송응창)에게 명하니, 군사들을 領率(영솔)하여 이를 감독하게 하였습니다. 또한, 우리 小國(소국)에 공사 막론하고 재물이 비어, 군사를 먹이고 전쟁물자를 공급하는 준비를 할 수 없음을 염려하여, 지관(호조)에 명하여 군량과 은을 출납하고, 工部(공부)에 명하여 병장기계를 내어 주었으니, 오직 그 사용하는 대로 하였습니다. 실어 나르는 앞뒤가 천 리에 꼬리를 물었습니다. 이에 제독대인은 천명을 받들어 물고, 천자의 토벌을 삼가 행하였습니다. 제독의 병부는 군권을 총괄하는 중임을 맡아, 병사를 모아 크게 검열하니, 豼貅(비휴, 표범의 일종)같이 용맹한 군대는 밀림과 같아, 긴 창은 구름을 쓸어, 붉은 깃발은 하늘을 짙붉게 하였습니다. 아침에 대궐문을 나서서, 저녁에 요동의 薊州(계주)에 도달하니, 산이 이동하고 바다가 옮겨진 듯, 우레 소리가 요란하게 천둥처럼 빠릅니다. 위력 있는 명성이 더하는 곳마다, 초목마저 變色(변색)이 되니, 아직 압록강을 건너지 않아도, 흉적의 간담을 이미 남김이 없었습니다. 군대가 다음에 關西(관서) 쪽으로 가서, 평양의 鋒鋩(봉망: 창, 칼 따위의 뾰족한 끝)을 물어버리니, 황제의 위엄을 어떻게 감당이 가능했겠습니까? 성난 저 어린 새와 사슴 새끼가 감히 喬嶽(교악)에 항거하겠습니까? 피를 다 쏟아 강 물결을 만들고, 목을 베어 쌓아 높게 보이게 하니, 황해도 개성의 적은 바람에 성급하게 놀라는 소리를 듣고는, 달아나 숨을 새도 없었습니다. 개성과 평양은 이미 수복이 되었고, 평안도와 황해도는 肅淸(숙청)이 되니, 곧바로 경기도 외곽을 공격하였습니다. 장차 서울에 이르러 破竹之勢(파죽지세)를 타고, 그 괴수들을 다 없애고 그 성을 다시 탈환하는 것은 바람이 먼지를 쓸고, 서리가 풀을 시들게 하는 것과 같습니다. 천장께서 어찌 병가의 셈법을 모르겠습니까? 자고로 기습과 정공의 구별이 있지만, 전쟁은 용기입니다. 용기는 (첫 번째 북소리로 기세를 올리고 나면)세 번째 북소리에 이르다 보면 고갈되어 버립니다. 잠시 병사들을 휴식시키고 말을 쉬게 했다가, 장차 기회를 보아 거병하려고 합니까? 또한 우리 왕자가 적중에 잡혀 있어, 차마 이를 다치게 하지 못하여, 시험 삼아 항복을 허락하고 화의를 들어 주는 것입니까? 장차 칼에 피를 묻히지 않고, 왜적더러 한양을 떠나게 하여, 이로써 우리 왕자를 보호하고, 천천히 그 행하는 바를 관찰하고 이를 도모하려는 것이 어찌 아니겠습니까? 우리네 소인들은 대군자의 점치고 따지는 것이 보통보다 월등한 바를 다 알 수 없지만, 오히려 빨리하였으면 하는 바램이 있습니다. 오늘날, 오랑캐들은 과연 지혜가 궁박하고 힘이 줄어들어, 이미 입을 다물고 기운을 펴지 못하고, 그 무리가 남하하기를 다 하였습니다. 당당한 우리 천장께서는 우리 성스러운 천자의 위엄있는 神靈(신령)에 의지하여, 우리 어진 宋侍郞(송시랑)의 籌策(주책)에 힘입어, 왜적을 멀리 몰아내고 진압하여 평정하니, 마치 부평초를 없애고 나부끼는 쑥을 거두는 것과 같았습니다. 한 병사도 번거롭게 하지 않고, 獺川(달천) 이북과 鳥嶺(조령) 이남은 요망한 기운이 홀연히 걷히고, 우주는 탁 트이고 밝아지니, 나라에는 생기가 돌아, 백성들은 죽을 뻔한 약한 맥을 회복하였습니다. 진실로 성천자께서는 우리 임금을 친절히 보살펴 도와주었으니, 우리 동국의 사람들에게 그 은혜였습니다. 정말이지 우리 천장께서는 성스러운 천자의 밝은 명을 사용하여, 推轂(추곡, 출정하는 장수에게 全權(전권)을 주는 것)을 부탁한 것에 저버림이 없었습니다. 어리석은 이 斯彌(사미, 송암공 자신을 일컬음)와 우리나라 더러운 땅의 미천한 백성들은 스스로 분명히 창끝과 화살에 죽는다는 것을 알아, 장차 피와 살이 풀을 윤택하게 하는 것을 달게 여겼습니다. 어찌 대장군의 헌걸차고 굳세고 굳센 盛德(성덕)과 威武(위무)의 儀容(의용)을 직접 볼 줄을 생각이나 하였겠으며, 어찌 성스러운 천자의 화목하고 온화한 큰 목소리, 生成(생성)과 再造(재조)의 汪恩(왕은)이 직접 적실 줄도 생각이나 하였겠습니까? 이 사람 풍신수길은 교활하고 맹금과 같이 사나워, 하늘과 원수를 맺은 것은 천하고금에 비상한 대 변고가 아니겠습니까? 그가 천하의 백성들에게 가혹함을 끼친 것은 어찌 다만 큰물이 세차게 흐르는 것이라 할 것입니까? 순임금께서 이미 夏禹(하우, 夏(하)나라의 우임금)에게 명하여, 백성들이 물난리에서 면하게 하였습니다. 이제 우리 성천자께서 역시 우리 대장군에게 명하여, 양국의 棼雜(분잡)한 것을 풀어 천하의 병사를 쉬게 하였습니다. 이 왜적을 바다 밖으로 몰아내어, 구역을 깨끗이 한 공로가 어찌 우임금이 龍門(용문)을 뚫고, 濟水(제수)와 漯水(탑수)를 터서 흐르게 한 것에 머무를 따름입니까? 그리하여, 성스러운 천자의 사람을 알아보는 지혜와 대장군의 직무를 아우르는 충정을 더욱 우러러보았습니다. 우리 임금은 나라를 잃었다가 나라를 찾았으며, 백성을 잃었다가 가지게 되었으며, 우리나라의 사람들은 임금이 없다가 임금을 가지게 되었고, 가정을 잃었다가 가정을 찾게 되었습니다. 엄숙하게 각인된 것이니, 저것은 누구의 功績(공적)입니까? 乾坤(건곤)의 雨露(우로)를 어찌 감사할 수 있습니까? 일월이 아름답게 빛나는 것을 마땅히 그려낼 수 있겠습니까? 백성들은 무릇 무슨 생각을 하고 무엇을 헤아려 보더라도, 황제의 법칙에 순종할 따름입니다. 오호! 하늘의 도리는 따르는 자를 돕고, 人道(인도)는 믿는 자를 도우는 법입니다. 순리를 어기고 기강을 범하는 자는, 하늘은 마침 더러운 것을 싫어하고, 흉함을 다하고 극악하면, 신이 반드시 아무도 모르게 벌을 주는 것입니다. 군자가 이르기를 ‘진실로 믿음이 이어지지 못하면, 同盟(동맹)도 무익하다.’라고 하였는데, 오랑캐의 성정은 매우 간사하고 교활하여 기대하기 어려운지라, 무슨 신의가 있을 것입니까? 삼가 바라노니, 천장 대인께서는 속이는 말을 믿지 말 것이며, 한번 퇴각한 것을 기뻐하지 마십시오. 더욱 황제의 지엄함을 펼치고, 더욱 신묘한 계책을 연구하여, 하늘의 벌을 붙잡지 말고, 크나큰 원한을 滯納(체납)하지 마십시오. 우리의 변방을 지켜 길이 鞏固(공고)이 해주시고, 우리의 종묘사직을 길이 보존하여 주십시오. 우리의 동쪽 바다가 파도가 일지 않고, 먼지가 일지 않게 한다면, 이것은 우리의 하나 남은 동국 사람들의 지극한 희망입니다. 두려운 것은 명나라 군사가 한 번 돌아간 이후에도 왜적이 매번 침략에 이르게 되면, 끌어주는 바가 다시는 없다는 것입니다. 울타리가 철거되면 대청이 움직이고, 입술이 없어지면 이빨이 시린 법입니다. 우리나라가 멸망하게 된다면 어찌 역시 대국의 복이겠습니까? 거듭 천장께 원하니, 이것을 살펴 圖謀(도모)하소서!
刑曹佐郞(형조좌랑)과 比安縣監(비안현감) 그리고 司諫院正言(사간원 정언)을 역임하였다. 戊戌(1598)년 2월 29일 졸하니, 태어난 해로부터 55년이었다. 의령현 所山(소산) 坤坐(곤좌) 언덕에 장례 하였다. 草溪鄭氏(초계정씨) 護軍(호군) 渭(위)의 딸에게 장가들었다. 정위는 莊襄公(장양공) 俊(준)의 증손이다. 후사가 없어, 아우 栢庵公(백암공)의 유일한 아들 曼勝(만승)이 두 아버지 뒤를 이었다. 主簿(주부)로 호가 槐堂(괴당)이다. 공의 측실에게서 딸 하나가 있는데, 郭再祐(곽재우)의 부실이다. 주부 만승이 錫生(석생)과 錫龜(석구)를 낳았는데, 錫生(석생)이 栢庵公(백암공)의 제사를 모신다. 공은 어려서부터 뛰어나 남달리 영특하였다. 점점 자라면서 慷慨(강개)하고, 志節(지절)이 있었다. 두 아우를 이끌고 南冥(남명) 선생을 스승으로 삼고 가르침을 받아 처음 학문에 바탕을 이루었다. 형제 간에 돈독하게 切磋琢磨(절차탁마) 하였고, 師友(사우)들과 바탕으로써 토론하여, 敬義(경의)를 서로 갈고닦아 지식은 넓게 가지고 행동은 예의에 맞게 두 갈래로 나아갔다. 程子(정자, 程顥(정호)와 程頣(정이)와 朱子(주자))의 모든 서책은 심오하게 궁구하지 않음이 없었다. 易理(역리)와 兵術(병술)은 스스로 깨달아 터득하였더니, 函丈間(함장간, 선생이 제자를 가르치는 자리)에서 印可(인가, 대상이 옳음을 소상하게 밝혀 인정함)를 깊이 얻었다. 동문으로는 한강 정구와 동강 김우옹이 있고, 동지로는 학봉 김성일과 서애 유성룡인데, 서로 살펴보면서 좋은 방향으로 발전하여, 知己(지기)로 許與(허여)하였다. 그 문장을 생각하자면 쉽고 간단하지만 오묘하고 거창하여, 『春秋左氏傳(춘추좌씨전)』의 기풍이 무성하였다. 외면으로 나타난 것으로는 곧 상소문인 즉 충신과 간신의 변별과 왜적을 배척하는 글이 있다. 서간문으로는 왜장에게 보낸 격문과 명나라 장수 이여송에게 쓴 것이 있다. 이는 모두 손꼽히는 글들로써, 하늘의 상도를 밝히고, 사람의 기강을 바로잡고, 時務(시무)의 大要(대요)를 알기에 충분함이 있다. 아! 이것은 어찌 까닭이 없이 그러하겠는가? 공은 평소에 『心經(심경)』이나 『近思錄(근사록』과 같은 성리학 서책을 날마다 보는 것을 茶飯事(다반사)로 하였기 때문이다. 비록 위급한 재난 중이거나, 전투지간에도 병장기를 내려놓았음에 펼쳐 보는 것을 잊지 않았고, 말안장을 풀었을 때도 항상 암송하였다. 반드시 아침에 도를 깨우치면, 저녁에 죽어도 된다고 기약하였다. 그러므로 이것이 발현되어 正見(정견, 모든 편견을 버리고 세계의 참모습을 바르게 판단하는 지혜)과 밝은 識見(식견)을 이루어, 대의를 크게 확장시킨 것은, 진실로 磊落(뇌락, 마음이 활달(豁達)하여 거리낌 없음)하여 榮譽(영예)가 盛(성)하다고 이를 만한 것이다. 그렇지만 사람들은 공이 기이한 계책에 도움이 됨으로써 正義(정의)를 부양한 것을 모두가 알았겠지만, 공의 淵源(연원)과 학술이 근본이 있고, 지엽 또한 있다는 것은 모두 알지 못한다. 아하! 공으로 하여금 태평한 세상을 만나, 오래도록 연구하여 쌓은 학문을 陳述(진술)했더라면, 일의 성취가 광대하고 두텁고 클 것이었으니, 사람들의 耳目(이목)에 드러난 것이 반드시 이와 같은 데에 머물지는 앖았을 따름이다. 이는 유독 공의 불행일 뿐 아니라, 아울러 역시 세상 道義(도의)의 불운이 되고 말았으니, 이 어찌 운명이 아닌가여? 英祖(영조) 을유(1765)년에 禮曹參議(예조참의)에 증직되더니, 當宁(당저) 純祖(순조) 임신(1812)년에 吏曹參判(이조참판)으로 加症(가증)되어, 정축(1817)년에 더하여 吏曹判書(이조판서)에 추증되었으니, 인하여 諡號(시호)를 내릴 수 있게 되었다. 여러 조정을 지나면서 임금의 은전이 계속 이어짐에, 큰 공로에 보답이 되었으니, 성한 예우에 서운함이 없을 것이라, 가히 隆盛(융성)하다고 이를 만하다. 공의 후손 觀華(관화, 송암공의 8세 胄孫(주손) 진사 賢楫(현즙)을 말함)가 羲淳(희순)을 來謁(내알)하여 諡狀(시장)을 부탁하였다. 희순은 공에게 있어서, 마음속으로 曠世(광세, 당대에 견줄 만한 바가 없음)한 감회가 있었다. 이미 該堂(해당, 당상관을 말함)으로서 回啓(회계, 신하들이 임금의 물음에 대답하는 것을 이름)를 하였고, 많은 선비들이 呈文(정문)을 지었다. 文正公(문정공) 허목(許穆, 1595~1682)이 행장을 지은 것과 함께 本家(본가)가 추록한 이야기를 엮어서 글로 지어, 이로써 有司(유사)에게 알린다. 崇政大夫(숭정대부) 행 禮曹判書(예조판서) 判義禁府事(판의금부사) 金羲淳(김희순) 삼가 시장을 쓰다. |