ま え が き
良く晴れた日、釜山から南の海を眺めると、肉眼で対馬を見ることがで
き、又対馬の南に行って見ると九州から余り遠くない距離にある壱岐の
島がはっきりと目に飛び込んでくる。
8世紀から19世紀に至るまで, 日本は外部世界から致命的と いえるほ
ど大きな衝撃を受けた敵がなく、自分たちの生活を営むことができた。
このような永い間の孤立が日本人を、自分たちの文化が大変優秀で、自分
たちの民族が血統的に純粋であると信じさせた。
特に明治維新以後からは、何が日本人を独特な民族にし、何が日本文化
を優秀な存在にしたかと自ら問い、自ら質問に対する答を求める研究は
日本国民が楽しんだ遊びであった。今世紀になって日本の歴史学者は当
時の政治指導者のそそのかしを受け、日本の歴史特に8世紀以前の韓日
関係に関する歴史を熱心に歪曲した。
このような歪曲が日本の一般大衆をして韓国人を民族的に蔑視させてし
まった。
第二次世界大戦以前の日本歴史学者と政治家は、韓半島南部には4世紀から
5世紀にかけて甚だしくは3世紀にも日本の植民地があり、韓半島北部
はかなり昔から中国に占領されてきたと一般大衆に信じ込ませた。
日本書紀を見ると、秦氏族の祖先である弓月君が応神16年(西暦40
5年)に120縣の人々を引き連れ百濟から日本にやって来たと記録さ
れている。
また応神20年にはヤマトアヤ(倭漢)氏族の祖先であるアチノオミ
(阿知使主)が17縣の人々と共に日本にやって来たと記録されている。
これら秦と倭漢の二つの氏族は、百済の部制度を見習って、大和朝廷倭の
財政支出の記録とか税金の徴収のようなすべての技術的なことを司るように
なり、そのおかげで大和皇族は国家としての機能を発揮することができた。
雄略6年(西暦463年)の記録を見ると,絵を描く人、織物を織る人、衣
服を作る人、鞍を作る人、通訳をする人などが百済から大挙やって来た。
これらの新たにやって来た人々を、応神代に既に渡ってきていた(倭漢氏族
の)技術者と区別するため、新たに渡って来たイマキアヤ(今来漢、新漢)
と呼んだ。
人類学者石田英一郎氏は、大和朝廷(倭)が韓国となんら関係もなく樹立さ
れたと信じたい人はそうしてもよいが、そうすると応神時代に韓半島から
そんなに多くの人々が日本にやって来た理由が説明できないと述べている。
ヤマト ワ
一方、日本書紀を見ると、百済の王室と大和倭の皇族が近しい親族関係
であったことが強く感じられる。百済王室と大和皇族の関係が大変親密
注1 であったと感じられる例を一つあげてみると、大和宮中には百済王
室の ア シン中の誰かがいつも逗留していたという事実である。
百済の阿辛王(在位392~405年)の太子は西暦397年から405
年まで応神と一緒に大和宮中に住んでいた。
彼は父王が死亡すると百済に戻り、その後を
チョンジ
ついで腆支王(在位405~420年)となった。応神39年には百済
王が自分の弟を侍女7名とともに応神に送った。
仁徳代には百済王の孫酒君が大和宮中に来て隼を操り、仁徳と一緒に狩りを楽
しんだりしてい ケ ロ コン シる。また蓋鹵王(在位455~475年は弟の
昆支(軍君)を倭に送 サンキンり雄略を助けた。
西暦479年に百済の三斤王(在位477~479年 トンソンが死ぬと、この
昆支の次男が百済に戻り東城王(在位479~501年)となったが、日本
書紀は雄略が帰る昆支の息子の頭をなでて惜別の意を表したと記録している。
嵯峨(在位809~823年)の後援のもと、西暦815年に完成した
新撰姓氏録は、大和の支配階級1, 182の姓氏を記録している。この
新撰姓氏録の序文を見ると、マヒト(真人)が皇族の中でも一番高い地
位にあり(皇別中上氏)、首都地域の眞人氏族を第1巻の初めに記録し
ている。
例えば、天武(在位672~686年)はヤマトヌナハラオキ
注1 ここで大和というのは、4世紀末から8世紀まで宮闕と首都
があった奈良盆地をいう。奈良は畿内の中心に位置しており
畿内とは皇室の直轄区域の意味で、その中に大和・山城・河
内・和泉・摂津など五つの国(当時の行政区域)があった。
大和は孝徳(在位645~654年)代までであるが、倭と
表記され「ヤマト」と読まれた。
(天渟中原瀛)のマヒト(真人)のスメラミコト(天皇)と呼んでいる
。そこでこの姓氏録に記録されている内容を検討してみると、すべての
眞人氏族を百済王族の後孫とみなすことができる。
西暦660年に百済の都が新羅・唐の連合軍により陥落した後、倭に戻
ヨ プンジャン ポクシン チュユウ
って来た餘豊璋は福信と共に軍勢を集め、周留城(州柔)で新羅・唐連
合軍に抵抗する戦いを続けた。
大和朝廷はこれらを支援しようと万余名を送ったが、倭軍は白村江の
戦闘で全滅し、周留城は唐軍により陥落してしまった。
日本書紀ではこの時の大和の人々が見せた反応を次のように記録している。
この時国人相語りて曰く、「州柔したがいぬ。事如何にといふこ
となし。百済の名、今日に絶えぬ。丘墓の所、豈能く復た往かむ
や。」(州柔は陥落してしまった。もう祖先の墓には行けなくな
注2
った)
日本の古墳時代の墳墓の構造的特徴と埋葬物の内容を綿密に調査した江
上波夫教授は、4世紀末に大陸から侵攻して来た騎馬民族が原住民を征
服し大和倭を建設したという内容の騎馬民族征服説を1948年に発表
した。
江上氏によれば、その騎馬の征服集団は東アジアの遊牧民であり
韓半島の南まで下って来て日本を侵攻したのである。しかし江上氏はこ
のような仮説を発表しながらも、中央アジアに住んでいた遊牧民、さら
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注2 隅田八幡神社に保存されている人物画像鏡には次のように
解釈できる文が残っている。「大王年未已年(西暦503
年)に斯麻は長寿を祈るために意紫沙加宮にいた時に、二
人の男に白銅200旱をもってこの鏡を作るよう命じた。」
百済の武寧王陵で発見された誌石を見ると、武寧王(在位
501~523年)の名前が正に斯麻であった。「男弟」
という表現は魏志の倭人伝にも見られる。すなわち、「卑
弥呼には男弟がいて、彼女が国を治めることを助けた」と
記録されている。日本書紀は百済新撰から、百済の蓋鹵王
が兄王の友宜を確認させるために(以脩兄王之好)西暦4
61年昆支君を雄略に送ったという記録を直接引用してい
る。武寧王は蓋鹵王の息子である。したがって男弟という
のは継体(在位450~531年?)かさもなければ、も
っと可能性が大きいのは、武烈(西暦489~506年?
)であろう。
キョウド トッケツ センピ タクバツホクギ ウガン
にいえばスキタイ、匈奴、突厥、鮮卑、拓跋北魏、烏桓、モンゴルなど
の歴史をくどくど並べ、その内容を曖昧模糊にしてしまった。そして最
後になって初めて、この騎馬民族が扶餘と高句麗人のような、遊牧は一
時的でむしろ農業を主にしていた民族であったという結論を示している
このような主張を述べながら、江上氏も『韓国』と書かなければなら
ない所を『大陸』とか『中国』という表現を使うことで、以前から行わ
れてきた日本の学者の慣行をそのまま踏襲しているのである。
しかし最近、コロンビア大学のレドヤ-ド(Gari Ledyard)教授は、4
世紀の韓国と日本に関して記録されている史実に立脚し、修正される騎
馬民族征服説を発表した。彼の仮説は江上教授の主張に見られた色々な
(考古学的側面から見たとき時代錯誤的な要素を取り除くことができた。
Ledyard 教授は特に、騎馬民族が正にどこからやって来たのかとい
う点について曖昧に紛らわさず主張している。Ledyard 教授によれば、
日本を征服した騎馬民族は扶餘人であったのである。
江上氏の騎馬民族征服説は、たとえ日本のほかの考古学者や歴史学者か
ら大きな支持は得られなかったにしても、歴史時代直前の日本に現れた
大和倭の起源を一番はっきりとさせたモデルであったといえる。
魏志の倭人伝は、西暦239年から248年の間に九州に派遣された中国
使臣が提出した報告書を元に、280年から297年の間に記録された
ものである。
魏志は、九州地方に100を越える部落国家で構成された当時の 日本の
分散した政治構造を叙述している。特記される事実は、魏志によれば日本
には馬がいなかったことである。
江上教授の騎馬民族征服説は、おおよそ西暦375年以後のものと推定
される日本の古墳から思いがけず馬具が出土し、それがまた時期的に大
和平原に統一国家が形成されたのと一致する事実からヒントを得たもの
といえる。
彼は韓半島南部、すなわち任那(任那、伽耶)の馬に乗った人々が、4世
紀初めに辰王すなわちミマキ(美麻紀伊理毘古、崇神の引率のもと 海を
渡り九州を征服し、それから1~2世代ほど経って,神武の引率下で畿内
地域に進出して大和倭を建てたものと主張している。
Ledyard 教授は江上教授の騎馬民族征服説の基本的枠組みをそのまま受
け入れているが、その騎馬人は伽耶から来たのではなく、扶餘の戦士た
ちであったと主張している。
扶餘は西暦346年に鮮卑族により滅亡した。
西暦369年頃、生き残った扶餘人たちの一部が満州から漢江流域
を経て任那を通って九州に、そして最後には大和地方に移住して来たと
Ledyard 教授は主張する。
彼は騎馬民族の日本到着は4世紀初めから4世紀末と推定し、江上教
授の主張に見られる深刻な時代錯誤的(考古学的)な要素を取り除く
ことができた。
しかし彼は扶餘人を主人公にしてしまったため、当時の韓国の歴史的事
実だけでなく、古事記や日本書紀に記録されている百済と大和倭との関係に
ついての膨大な量の史実をほとんど完全に無視してしまった。
この本では今、百済と大和倭との関係に正面から焦点を当てながら、古
事記と日本書紀に記録されているすべての資料を正しく分析することで
、更に論理的に一貫性があり、かつ今まで発見された色々な事実と符合
するモデルを示そうとするものである。
筆者の理論では江上教授の騎馬民族とLedyard 教授の扶餘戦士を、百済人に
変えたのである。この本は筆者が1988年に出した『The Relationship
between Korea and Jap an in the Early Period:Paekche and Yamato
Wa(古代韓日関係:百済と大和倭)』の増補改訂版といえる『Pekche of
Korea and the Origin of Yamato Japan 』(Seoul:Kudara Internatio
nal,1994) の韓国版である。
筆者は1991年12月19、20両日、東京大学で開催された「韓国と
日本の交流と比較-歴史と現在」を主題にした第1回ソウル大学-東京
大学シンポジウムでこの本の草稿を発表した。
当時討論者として論評をして頂いた東京大学史料編賛所の石上英一教授に
謝意を表したい。特にウォルスリアン大学のベスト(Jonathan W. Best)
教授とノ-トンイリノイ大学の権鎮均教授に感謝を捧げたい。
お二人はこの本の原稿を読んで、有益な論評と建議をして頂いた。
1994年1月1日 著者
目 次
第1章 古代韓日関係
1.この研究が目的とするもの
2.古代韓日関係についての日本人たちの固定観念
3.古代日本についての西洋学者たちの書いたもの ヤマト ワ
第2章 大和倭の形成に関する諸説: 原史時代の日本についてのモデル作成
1.4世紀末の大陸文化の急激で大規模な流入: 江上波夫氏の騎馬民族征服説 ・・考古学的接近方法
2.大和倭の出発時点: 創建者ホムタワケ(応神) ・・古事記、日本書紀の内容分析 に重点を置いた接近方法
3.5世紀の百済人の大規模な渡来: 万一大和倭が百済と関係がなく成立したならば、
このような大規模な渡来を説明ができない ・・文化人類学的な接近方法
4.征服勢力の指導者: ミマキイリヒコ(崇神)、扶餘の将帥たちないし は百済の王族 ・・江上、レドヤ-ド、
洪 元卓の 仮説の展開過程
5.大和王族の根源: 新撰姓氏録の内容を見ると、その根源を百済王族 に求めることができる
6.百済人の日本征服と大和倭の創建: 記録されている資料による再構成
第3章 百済と大和倭:モデルの一貫性の検証
1.大和皇族に関する日本神話の根源 2.百済王族と大和皇族間の近親関係: 心にかかる記録
3.6~7世紀にも続いた百済からの渡来: 百済から倭への文化・技術移転
4.百済の統治制度: ウジ(氏)-カバネ(姓)とベ(部)制度
5.飛鳥地域の百済文化: 一番目立つ支配的な影響
6.スサノオ(須佐之男)、ミマキイリヒコ、卑弥呼時代の 韓国
7.大和皇族時代の韓国
第4章 史実と解釈:新たなモデルに立脚した解釈
1.広開土王碑文: 百済が兄弟国の大和倭から助けを受けた記録
2.任那日本府説: 百済-倭-伽耶連合と倭に向かう海路出発点 の港口地域
3.日本の天皇家の神性: 韓半島内で百済が滅亡した後、皇族が取った 自己防衛措置と象徴的統治者の位置への転落
第5章 背景を成す記録
1.新羅からやって来たスサノオ(須佐之男): 歴史的記録がほとんどない弥生時代の支配者
2.伽耶からやって来たミマキ(美麻紀伊理毘古、崇神): 歴史的記録がほとんどない弥生時代のもう一人 の支配者
3.魏志東夷伝に記録されている卑弥呼: 歴史的記録が少しづつ現れ始めた弥生時代 の支配者
4.七枝刀: 百済王が倭王に与えた贈り物
5.倭の五王: 中国の正史に現れた5世紀大和倭の王
6.応神系の百済王族 中断と回復
第6章 要約と結論
1.この研究が追求したもの
2.古事記と日本書紀の隠れた意図を理解すると
3.古代韓日関係についての新たな視角
첫댓글 좋은글 잘 읽었습니다.