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世界への神の希望 2
5. 石ころだらけの涙の道
この石ころだらけの道とは何でしょうか? それは神の摂理の道のことです。石ころだらけの道を躊躇なく自ら進んで歩もうとした人は、歴史上にも、今日の世界にも、だれ一人としていません。石ころだらけの道を歩むことが好きな個人も、家庭も、社会も、国家もなく、むしろ障害のない平坦な道を行きたいと願うのです。人は、砂漠を行くよりは、美しい景色に囲まれた高速道路をドライブするものです。東洋の概念では、人生を旅にたとえ、人々は、人生を幸福でもめごとのない旅行ととらえたり、逆に不幸な旅路として見たりします。なぜ人々の中には、石ころだらけの道を行くように運命づけられた人がいるのでしょうか? その理由はとても謎めいています。
用意周到な人生を過ごしたいというこの願望は、人間だけに限られたものではなく、自然の中にもあります。草は、陽光をふんだんに浴びながら、時に恵みの雨に降られるような、肥沃な土地に育ちたいと願っており、鳥たちは、平和に過ごせるような居心地のいいすみかを探します。すべての生きとし生ける物が、争いのない平和な環境にすみたがるのです。神もまた、平和的な存在を好まれるでしょう。苦痛と闘争の中で、このような自然から自らを引き離しているのは、人間なのです。
過去において、数多くの偉人や義人がいました。その人たちは、どのような人生を過ごしたのでしょうか? 大概、彼らは涙と労苦と虐待の中で生きました。彼らは、自ら進んでそのような人生を歩んだのでしょうか、それとも環境に強いられてそのようになったのでしょうか? 彼らは自ら進んでそのような道を行ったのではなく、環境が彼らに困難な人生をもたらしたのです。人類の不幸を克服するために、彼らは苦難の人生を生きたのです。歴史において正義の道を開拓した人々は、涙と汗の中でそのようにしたのです。
どこから真の幸福が始まるのでしょうか? 真の平和や理想というものはどこから始まるのでしょうか? 真の平和と正義は、苦労と涙の人生のあとに始まるのでしょうか、それともそれらの前に始まるのでしょうか? なぜそのような峠を越えたあとでのみ、それらは見いだされるのでしょうか? 何かが間違ったのです。その何かとは、人間の堕落でした。宗教は、人間の人生が本来のあるべき姿ではないという認識の中から誕生するようになりました。本然の世界から何らかの離反があったという認識なくして、宗教は存在することはできませんでした。人間の堕落が、人類を異常で不幸な状態へと引きずり降ろしたのです。宗教はそのような不幸な状態を克服して、人間を本然の状態に引き戻そうとします。それゆえ宗教は、人間の不幸な状態と衝突する道にあって、それをこなごなに粉砕しようとするのです。
神は悲しみの中でみ旨をなされる
宗教は、その指導者のカリスマ的人格に基づいているのでしょうか、それとも神に基づいているのでしょうか? 宗教は神に基づかなければなりません。人間を、このように不幸と衝突する道へと追いやらなければならない神は、幸福な神でしょうか? 人間は限られた寿命しかもっておらず、その短い期間に、自らの不幸な状態を克服するために多くの苦難と苦痛を通過しなければなりませんが、しかし神は、何千年もの間そのような藤を続けてこなければならなかったのです。そうしなければならない神の悲しみと惨めさを、皆さんは想像できるでしょうか?
人類の堕落は、神の悲しみと直接に結びついています。今日私たちは、快楽と娯楽を求めて日々を過ごしている人々を見ますが、もし彼らが真に幸福と正義を欲するならば、そのような生き方を続けることはできないでしょうし、彼らは環境とぶつかって、それを越えていかなければなりません。宗教生活の第一歩は、堕落の悲劇を認識して、その状態を改善しようとすることです。堕落は、人間に苦痛をもたらしたばかりか、神にももたらしたのです。神は絶えず苦悩と不幸の中で生き続けてこられたのですが、しかしだれもこのことを知らずにきたのです。
問題の解決は、人間から始まるのでしょうか、それとも神から始まるのでしょうか? もし堕落がただ人間だけの問題であるなら、私たちは、神のことを心配する必要はなく、またそれが神だけの問題であるなら、人間について心配する必要はないでしょう。しかし問題は、人間と神の両方にとって等しく深刻なものであるので、問題解決も両者を含むようなやり方でなされなければなりません。堕落は、人間と神の両者に悲劇をもたらしたので、解決を導き出そうとするならば、同じ脈絡の中で考えなければなりません。もし神が泣き叫んでおられるならば、人間は笑うことができず、もし神が峠を越えようと御苦労されているならば、人間は平坦な道を跳ね回ることはできないのです。
皆さんが悲しみの中にある時、だれかが慰めに来てくれるなら、その悲しみは自動的にどこかへ行ってしまうでしょうか? 皆さんは、夏の間ありがせっせっと働いている時に、きりぎりすはなまけて時を過ごしていたという「ありときりぎりす」の物語を聞いたことがあるでしょう。きりぎりすはありの体験を理解できたでしょうか? ありは腰回りが糸のように細くなるまで一生懸命働き、疲れてへとへとになっていました。きりぎりすはそのようなありを、自分自身全く困難を体験したことがなくて、慰めることができたでしょうか? しかしありの父親は、息子よりももっと苦労をしていたので、そのありがどのように感じているのかよく理解することができたのです。
この例え話は、人間と神にも当てはまります。神はありのように熱心に働いてこられましたが、人間はきりぎりすのように時を過ごしてきました。アメリカでは、人々は飲んで食べてディスコに行きます――それはきりぎりすの生活です。そのような人々が、神の苦しみが分かるとどうして言うことができるでしょうか? 神は彼らによって慰められるでしょうか? 真に神を慰める唯一の方法は、神のみ旨のために一生懸命働き、神が体験されたことを理解することです。そうすれば、神は皆さんによって慰められることでしょう。
神は宇宙創造を、喜びの中で始められたのでしょうか、それとも悲しみの中で始められたのでしょうか? 創造の過程で神は喜びを感じ、被造物は善であると言われたのですが、しかし神は、人間堕落の時、同じ喜びを感じられたでしょうか? 神の喜びは、人間が対象の位置で完成する時、完全なものとなるはずでしたが、それは決して起こりませんでした。したがって、人間の歴史は不幸の中で始まり、神の歴史も惨めなものとなってしまいました。そこには、喜びの笑い声はいっさい聞こえず、ただ涙のみがあふれているのです。この涙のこだまは、歴史を通じて今日に至るまで、何度も響き続けているのです。
涙の叫びは歴史を出発し、何世紀も続いてきましたが、私たちが完全な変革をもたらさない限り、未来の歴史的課題となるでしょう。これは私たちの生活を取り巻く宇宙的な環境であって、たとえ皆さんが自分の力だけで幸福になろうとしても、それは無駄な骨折りなのです。皆さんは不幸という海の中で泳いでいるのであって、自分の力でそこから抜け出すことは不可能なのです。神が悲しまれる理由があるのでしょうか、ないのでしょうか? 神の悲哀は、事が違った方向に運ばれていたならば喜びに包まれていたはずなのに、逆に悲しみに覆われるようになってしまったという認識から始まったのです。神のこのような状況を、人類は知っているのでしょうか?
宗教生活とは神様の悲しい心を慰労してさしあげること
人々は不安で不幸な人生を送っていますが、どうしてそんなささいなことのために、それほど藤しなければならないのか分かっていません。神は、そのような状況に解決をもたらすのは容易でないことを御存じです。神が示される方向とは、石ころだらけの道を歩むことにより解決をもたらそうとするものですが、しかし今日の宗教人たちは、十字架を避け、その代わりに神に祝福と金銭を請い願っているのです。神の耳には、そのような祈祷は、怠け者のきりぎりすのような者を見るよりも、もっと悪いというのです。そのような人は、神を慰めることをしないばかりか、神から何か奪いたいと思っているのです。宗教的な人々は、そのような祈りをささげるごとに、神の背中にもう一つ新たな釘を打ちつけているのだということを悟らないのです。それは神に慰労を与えるどころか、神の痛みを増し加えているのです。一方、神の状況が分かると言うことができ、神の悲しみに責任をもとうとする一群の人々がいるならば、その人たちは神により近いでしょうか?
アメリカ人はペット、特に小犬が好きです。ある日夫婦の間で大喧嘩が起きて、夫が妻を家から追い出すとしても、ペットの小犬はただ奥さんの手をなめ、しっぽを振るだけで、夫以上に彼女を慰めてくれるでしょう。人間と神との関係も、それと幾分か似たところがあります。人間と神はずっと闘争状態にあって、人々は神を拒み続け、なぜ石ころだらけの道を行かなければならないのか教えてほしいと要求し続けているのです。神は、たとえ小犬ほどの慰めでも欲しいと、真実願っておられるのです。
本を読んで神を研究している知識人たちは、苦労することなしに神に近づくことは決してないでしょう。多分彼らは、十字架を背負うよりももっとなすべき良いことがあるだろうと考えているのでしょうが、そのように考える人はだれでも、どろぼうです。本の研究と十字架を背負う道と、どちらが神の心情により近いでしょうか?
皆さんがもし宗教生活に快適さを求めようとするならば、それはうまくいきません。皆さんは涙を流さなければならず、目が乾いてしまうことがあってはいけません。それは、涙なしの真の宗教などというものはあり得ないからです。皆さんは私が、小川が流れるごとく、いかばかり祈祷の中で涙を流したかを知りません。神と出会うために、皆さんはそのような涙の小川を越えなければなりません。皆さんが自分を哀れんで涙を流すとしたなら、神が皆さんと関係をもち得る道はないでしょうが、しかし人類と神の悲痛を思って涙を流すとしたなら、神は皆さんとかかわってくださるでしょう。
神は真の愛を熱望される
神が存在するならば、いったいどのような方であると皆さんは思いますか? 神の目標は何でしょうか? 神は、御自身がいかに力をもっているかを人々に示すために、アメリカの大統領選に立候補されるでしょうか? あるいは御自身がどのくらい金持ちであるかを誇示するために、ロックフェラーのように百万長者になろうとされるでしょうか? 神は、空腹で、おいしい食事にありつくために仕事をされるでしょうか、あるいは幼い子供のように、角の店でキャンディーを手に入れようとあくせくされるでしょうか? 神は、きっと何らかの情熱や目標、そして野心をもっていらっしゃるに違いありません。皆さんは、それがどのようなものだと思いますか? それは愛の実現です。神の目には、愛が最も高く、最も貴いものなのです。
神はどこに愛を見いだすことができるのでしょうか? 神はただ御自身だけで愛することができ、御自身だけで幸せそうに笑い、ほほえんで、冗談を言うことができるでしょうか? 神が、「私はここにいる。ああ、私の手と足と顔は、私をこんなに喜ばせる」と言われるでしょうか? それはなんと狂った考えでしょう! 自分自身だけで喜びを得ようとしている人は滑稽です。
女性の皆さんが鏡の前で化粧をしている時、「私はとても美しい。私は自分に恋している。私の耳と鼻は全くすてきだ!」と言いいますか? 皆さんは自分の美しさに完全に酔いしれているのでしょうか、それとも皆さんの美しさをだれか他の人が褒めてくれるのを望むのでしょうか?もちろん、皆さんは他のだれかがやって来て、「いや、あなたの顔は美しい」と言われることを願います。皆さんはなぜそうなのでしょうか? いったいその特有の欲望はどこからくるのでしょうか? そのような仕方は、皆さんが両親や友達に似ていることからくるのでしょうか? いいえ、それは神の特性であり、性質なのです。神は鏡の前に座って、御自身を褒めたたえることなどできないのです。
神は、いかに大きな手があったとしても、なお他のだれかの美しい顔に触れたいと願うのです。神は、御自身からではなく、対象からくる美を味わいたいのです。神の視野は無限であって、宇宙のすべてを見通すことができますが、しかし神はその視覚をもって、たとえそれがどんなに小さい者であっても、愛する者を見つめたいと願われるのです。神は無限の聴覚をもっておられ、宇宙の信じられないような微妙な音をすべて聞くことができますが、それでもなお、神は愛の音を聞きたいと願われるのです。神は、宇宙を創造することも破壊することもできる権威をもって話すことができるのです。神のみ言にはそのような力がありますが、それでもなお神は愛をささやくために御自身の口を使いたいと思われるのです。
神は五感をもっておられます。その霊的な目で、神は愛の美しさを見たいと思われます。神は愛のにおいをかぎたいと思われます。神は愛の味を味わいたいと思われます。愛の声と愛の音楽を聞きたいと思われます。愛の対象に触れたいと思われるのです。それは神の唯一の願望なのです。もし神がそのような神でなく、権力や金のみを願われるとするならば、神はなんと無味乾燥な神でしょうか。そのような神は、無限に広く力に満ちてはいても、全く美しさがないアフリカの砂漠のようです。
天国と地獄
天国と地獄の定義とは何でしょうか? 天国とは、神を中心とし、神に侍りながら、神と共に生きて、喜びに満ちる所です。地獄とは、サタンを中心として、悲しくて空虚な所です。天国の主人は神です。神とはいかなるお方でしょうか? 神は、金や、知識や、力をもってくる人を歓迎されるのでしょうか? いいえ、神は何か別のものを探しておられるのです。このようなものに頼っている人々は、天国では小石のようなものです。神は、愛の喜び、すなわち神が愛することができる、神に愛され得る何かをもたらしてくれる人を探しておられるのです。
地獄とは何でしょうか? 地獄とは、金と力がそれら自体で目的となるほど価値視される所であり、皆さん自身が権力の中心となる所です。私たちは、喜びを感じ得るように、愛の授受を求めています。そのような生き方に全く反対するのが地獄であって、そこでは人々は自分自身を王様にするために他の人々をたたきのめすのです。たとえ人は地獄に行き着いたとしても、愛を受けたいという本然の欲望を失うことはなく、その特徴は地獄にあっても残り続けます。地獄にいる者たちでさえも、何が真の願望であるのか知っており、そしてそこではそれを得ることができないため、彼らは苦痛と苦悶の中で生きるのです。
天国では、皆さんは愛を慕い求め、実際それを成就することができます。そこでは、何度も何度も際限なく、神の愛を受けることができ、神に愛をお返しすることもできます。これがまさしく天国です。天国は本当に素晴らしく良い所なので、皆さんがたとえ数千回ここは素晴らしい所だと言ったとしても、天国がどれほど素晴らしい所か、実際には言葉では表すことができないでしょう。天国で皆さんは、愛に酔いしれて生きることができるのです。その愛の波が皆さんを襲う時、突然皆さんは電気ショックを受けたようになるのです。うたた寝していた人が目覚め、その視覚も聴覚も臭覚も鋭敏になり、彼は何千年もの間愛の美しさをささやくようになるでしょう。愛の話には決して終わりがありません。体のすべての器官が十分に躍動して完全に機能していたとしても、皆さんは愛をもっと得たいと感じます。皆さんは、愛に酔いしれる人となることができるのです。
神が語られ、与えたいと願われる愛は、深遠で無限の愛です。神にとって価値のある愛は、ハリウッドの愛のような安っぽいものではありません。今日の世界に、何か素晴らしい愛があるでしょうか?
真の愛とこの世の愛のどちらを求めますか?
皆さんは生涯のうちで、きっと何度か人生の岐路に立たされたことがあるでしょうし、多くの異なった選択をしなければならなかったことでしょう。皆さんは多分一つの道を選んで行き止まりにぶち当たります。それで引き返して、もう一つの道を出発してみると、また行き止まりということもあったでしょう。この世界では、どの方向に向かったとしても、神の愛を味わうまでは、皆さんは満足感を得られませんでした。それと比較すれば、すべてのこの世的欲望は薄くなります。その愛を味わえば、皆さんは、神の真の愛を永遠に所有する価値のある真の人になりたいと願うのです。
人間の最大の願望といえば、おそらくハーバード大学で博士の学位を取ることでしょうか? アメリカは好機の地なのに、どうして億万長者になりませんか? それは皆さんの夢でしょうか、それとも皆さんは大きな権力をもって、皆さんの願いにだれもが従ってくれることを願うのでしょうか? 皆さんの真の願望とは何でしょうか? 私たちの目標は神の目標と同じであり――それは真の愛です。皆さんが探し求めている愛を見つけ出すまで、どのくらい皆さんは忍耐することができるでしょうか? それは得ることがたやすい目標でしょうか? 皆さんは何もしないでじっと座ったままで、愛が自分のもとに来るよう要求することができるでしょうか? 皆さんは安っぽい愛を求めているのでしょうか、それとも高貴な愛を求めているのでしょうか? 真の愛は、どこにでも見いだされ、今日アメリカでたやすく手に入るでしょうか? 真の愛は、無節操なセックスや、完璧な愛人を見つけるのに情事を繰り返す中に見いだすことができるでしょうか、それとも、婚前交渉を避けて、真の男性と女性に変わるように絶えず努力し続けるこのような場所に、真の愛を見いだすことができるでしょうか?
金持ちと貧乏人では、大概どちらのほうに真の人を見つけることができるでしょうか? 私たちの社会構造を見る時、上層、中間層、下層の中で、どの層に真の人と真の愛が、よりありそうだと思いますか? 真の愛は、最も高い所で王冠を受ける栄光の立場から始まるのでしょうか、それとも可能な限り最低の立場にいて、そこから一歩一歩上がっていくものなのでしょうか?
皆さんが可能な限り最低の場所にいて、可能な限り最高の愛を実践する時に、真の愛は存在するようになります。そこで皆さんは、最悪の人人と出会って、可能な限り最高の愛の基準を示しながら、その人々を最高の人物へと引き上げるよう努力するのです。そこに真の愛が見いだされるのであり、真の愛が始まることができるのです。
皆さんは、真の愛をもつことを望みますか、それとも安っぽい愛をもつことを好みますか? 自分が賢いと思っている人は、たやすい道を選ぶかもしれません。それゆえイエス様は、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しいと言われたのです。イエス様は、たとえその金持ちがすべての自分の富を失って貧乏に落ち込んだとしても、実際それは不可能であろうということを意味されたのです。貧乏人が容易に天国に入ることができるとしたら、なぜ金持ちはそうすることができないというのでしょうか? いったん人が自己中心で傲慢になると、たとえその人が衰えて無一文になったとしても、大抵自己中心のままでい続けるのです。その性質はすぐになくなることはありません。しかし貧乏人には柔軟性があります。何もないがゆえに、彼らは喜んでどこにでも行き、何でもすることができるのです。
私たちは涙の場で神と出会う
真の神とはどのようなお方でしょうか? 神は、真の愛を与えることができる真の対象を探し求めるお方です。神は御自身のことを全く忘れ、全被造物の繁栄のために働き続けておられるのです。この堕落世界を訪ねていかれる神を思い浮かべてみてください。神は喜びをもって来られ、毎日笑いながら、「さあ真の愛だよ。私の堕落したすべての子供たちよ、来なさい」と呼ばれるでしょうか? それとも悲嘆に暮れながら、涙で堕落人間を訪ねられるのでしょうか? なぜ真の神は、涙で子供たちを探されるお方なのでしょうか?
涙が私たちの目にあふれるのは――全く幸福でうれしい時か、逆に全くつらく悲しい時かの二つの相反する場合であるのは、大事なことです。神は傷つき悲嘆に満ちた神として泣き叫んでこられました。突然完全な喜びを見いだす時、神は笑い出されるでしょうか、それとも泣き続けられるでしょうか? 戦争で引き裂かれ、お互いに再会することを願って、涙ながらに必死に探している恋人同士のことを想像してみてください。互いを失った悲しみで涙を流してきたのに、突然お互いを見つけ出して、その涙は喜びの涙に変わり、彼らはより一層激しく泣くのです。
それでは神は、どのような環境で、御自身が愛する者たちに出会いたいと願われるのでしょうか? 神は、涙に満ちた場所で、涙にあふれながら愛する者たちと出会われるでしょう。皆さんが悲しみに深く包まれてすすり泣いている時、涙が目からあふれるばかりか、鼻と口からも水が出てくるのです。今まで、それくらいまで慟哭したことがあるでしょうか? もしそのような涙を体験したことがないとするなら、皆さんはまだ真の愛を味わってはいないのです。悲劇的悲しみの表現があまりにも深刻で、おなかがけいれんし、息が詰まるほどになるその瞬間に、長い間失っていた愛する者を見いだすとすれば、いったい何が起こるでしょうか? 彼が帰ってきた衝撃があまりにも劇的なので、皆さんは気絶してしまうことでしょう! これは正に劇的な出会いです。それはすべてのうちで最も感激的な愛でしょうか、それとも、いまだ真の愛の中心にいるとはいえないのでしょうか?
神の本当の性質を知ってみると、玉座に腰掛け地上を見下ろされながら、幸福そうに祝福を授けられる栄光の神であられると思いますか? これまで、キリスト教界では、神をこの種の慈愛にあふれた神として描いてきましたが、統一教会にいる私たちは、そのような神を求めてはいません。私たちは、愛する者たちとの劇的な出会いを必死に探しておられる神を求めているのです。断腸の思いで悲しみに満ちながら、涙に暮れて神の家庭を探しておられるとき、神は御自身のことを考える時間などなく、明らかに御自身の名誉や体面について心配などされません。
真の愛を探される神はとても惨めに見えますが、しかしその神は、真に高貴で愛に満ちておられるのです。だれも神をそのような方法で見ることができず、「あなたはどういう神ですか? どうしてそんなに惨めで愚かにしていられるのですか?」とあざ笑うのです。そのような御心情でおられる神は、御自身の子供たちのために完全に犠牲的な方法で自分をささげきっておられるので、称賛されなければなりません。
無私の心で、互いに心からいたわり合っているカップルを想像してください。突然妻が死ぬならば、その夫は全く悲嘆に暮れて本当に泣き叫ぶのです。その人がたまたまアメリカの大統領だとすれば、国民は「あなたはなんという男ですか? 大統領として、あなたはどうしてそのような深い悲しみを人の前にさらけ出すことができるのですか?」と言うと思いますか? 人々は、彼が妻を失って心から痛んでいる姿を見せたことを、非難するでしょうか? いいえ。そうではありません。そのような愛の純粋な表現は、称えられるべきものなのです。
私たちはより良く、より高い目標に向かって働いていると言いました。それは何でしょうか? 最善の目標とは、真の愛が発見される所ならどこにでもいたいという願望です。しかし、私たちは栄光の場所では真の愛を見つけることはできないのですが、それは、神はそこで決して真の愛を発見されたことがないからです。私たちは、悲劇的状況の中にそれを見いださなければならないのです。
イエス・キリストは、どのような人生を過ごされたのでしょうか? イエス様は、十字架の人生を過ごされ、最後に十字架にかけられたのです。イエス様は、だれのために死なれたのでしょうか? ローマの皇帝やイスラエルの統治者になることを願って十字架上で死なれたのでしょうか? いいえ、イエス様は他の人々の救いを得るために死なれたのです。イエス様のすべての努力は人々を救うことだけだったのです。イエス様は、必死に神の愛する者たちを探して、神の生涯を過ごされたのです。人々のためにイエス様は、御自身の命そのものをささげられましたが、そのように生きることによって、イエス様は完全に神の真の愛を占領されたのです。
あらゆる可能な道の中で十字架の道を選びなさい
人生の岐路に立てば、多くの道があります。私たちは、ある道を行けば間違っていて、最終目的地にたどり着けないのかどうかを、どうやって見分けることができるのでしょうか? 私たちは、真の愛の観点からすべての道を見ます。もし真の愛が、ある一つの道で生き生きとしていないならば、皆さんは何らの満足も見いださず、それが間違った方向であることが分かるでしょう。
子供が水に溺れていると、親はその子を助けようと水に飛び込むでしょうし、子供に代わって自分が死ぬことさえあるでしょう。それはいったいどのような愛なのでしょうか? それこそ犠牲的な真の愛です。一人の友人が溺れているとして、もう一人の友人が彼を助けて代わりに死んだとしましょう。それは、どのような友人でしょうか? もちろん、それは真の友です。これは、国家次元においても同じでしょうか? もしアメリカが、ベトナムのような小さい国を救おうとして犠牲的であるとすれば、同じ理論が当てはまるでしょうか? アメリカはそのような基準を満たしたでしょうか?
統一教会はどこにいるのでしょうか? 既成教会はたくさんのお金と誉れと名声をもっていますが、そこへ突然統一教会が現れて、「私たちは全く異なった方向に進みたい」と言って、彼らすべてに挑戦してきたのです。大概教会では聖日礼拝に献金を集めますが、熱心なクリスチャンは、家庭の維持費や、必要な余分のお金は全部残して、収入の十分の一を献金します。しかし私たちには余分なお金などありません。私たちは外に出て、血と汗を流してお金を集め、世界を救うために働きます。イエス様とちょうど同じように、私たちは、世界の救いのために自分をささげたいし、その過程で、私たちは喜んで犠牲となり死ぬのです。私たちは、他の人々と同様にどうしたら安楽な生活ができるかよく知っていながら、そのような生き方をあきらめたのです。私たちは犠牲になるためにここにいるのです。私たちは最も質素な人生を生き、粗末な食事を頂くのです。私たちは無駄使いをせずに、一生懸命に働き、その労働の実りは世界のために使うのです。
皆さんはいかにしたら上手に生き、よく食べられるか知っています。私たちはみな、ぜいたくにふけるすべも知っています。この世には、そのような生き方をさせておきましょう。私たちはそうしません。なぜなら私たちは世界のために、喜んで犠牲になろうとしているからです。私たちは、イエス様が確立された犠牲的な生き方を受け入れるのです。私たちは、天が彼らを祝福するようにと祈りながら、自分のことを忘れ、他のために泣き叫ぶ人々なのです。私たちはそのような目的のために、自らをささげきるような立場に立ちたいと願っています。私たちは、そのような人生の道を選択します。
私たちの生活様式は、イエス様の生涯と相似しています。ですから私たちは、神の心情に感極まるほどの興奮を引き起こすことができるのです。既に述べたように、神は涙に満ち、悲痛な方法で、人間のもとに降りてきておられます。このような道を皆さんが行くならば、神が皆さんと出会う瞬間は、正に神が希望と慰労と激励を感じる瞬間なのです。神ははるばる訪ねてこられ、やっと御自身を理解してくれる人々に出会ったのです。ここに、神の真の同志と闘士がおり、神は慰労を感じられるのです。私たちは、神に喜びの衝撃を差し上げたいのです。神が皆さんと出会う時、苦労を積み重ねながら神御自身よりも悲しみを背負っているだれかを、神が見いだせるようにしてあげましょう。そうすれば、神は慰労されることでしょう。神は皆さんを擁護し慰労したいと思われ、そしてもはや悲しまれることもなくなるでしょう。神の心情を慰めてさしあげることによって、神を驚かせてあげましょう。
悔い改めの道
皆さんは祈りますか? どのように祈りますか? もし皆さんの祈りの大部分が個人的な要求を中心としたものであるならば、その祈りは、価値あるものでも効果的なものでもありません。あまりに自己中心的で、個人的な達成のみを願うとき、神はその祈りを全く聞くことができません。最初にすべきことは、正しい方向性を決定して、日々の信仰生活を悔い改めながら、その目標に向かって努力することです。神は、そのような人の要求にいつも耳を傾けられることでしょう。実際、皆さんも神も既に何をなすべきか知っているのですから、祈祷の90パーセントはあれこれすることについてではありません。祈祷の90パーセントは悔い改めです。これは、天国は近づいた、悔い改めよというイエス様の教えと同じです。悔い改めは、それが正しくなされるとき、とても価値があります。
皆さんの目標は既に非常に高く設定されているので、常に自分がそれを達成しない日のことを知っています。皆さんは、その日には、「神様、きょうのことは申し訳ありません。私はきょう、目標にもっともっと近づきたいと願っていましたが、それに失敗してしまいました。どうぞ許してください。あすはきっとそれを成し遂げます」と言って、悔い改めなさい。それが皆さんが祈るべき方法です。
皆さんはいつか、図体の大きい人が皆さんを困らせるためにやって来て、ネクタイをつかんで、「この愚かなムーニーのやつ」と叫ぶのに出遭うかもしれません。その瞬間、おそらく皆さんはその困難に、もはや耐えられなくて、「そうだ、私はムーニーだ。それがどうした?」と言い返してしまうでしょう。そして皆さんは戻ってきて、「神様、申し訳ありません。それはあなたが期待されたことではありませんでした。これよりももっと良いことをなすことを、あなたは私に願っておられるのに、そうでしょう?」と祈るのです。
次の日も、また悔い改めなければならないかもしれません。目標をとても高く掲げると、皆さんはそれになかなか到達できず、毎日が悔い改めとなるのです。それは美しいことです。毎日が新しい日であり、新しい出発になるのです。皆さんは人生の旅のなかにあって、毎日が悔い改めの日なのです。それは素晴らしい生き方です。これは、「今や私はリーダーであって、私がこの周りに命令を与えるのだ」と感じるよりも、はるかに良いことです。悔い改めの人生は、はるかにより素晴らしい生き方なのです。
神は、「私は全能の神であるから、お前たちは私の言うことを聞かなければならない」と自慢されたことは決してありません。それなら、悲痛な心情をもたれた神を慰労しようとしている私たちが、どうして私は大した者だと言うことができるでしょうか? 私たちはそう言えるところまでは、まだまだ至っていないのです。日々悔い改める人は、たとえそのことを悟っていなくとも成長しているのです。自分が基準の高いムーニーであって、他の人々の良き模範となっていると思う人はだれでも、既に成長が止まっているのです。皆さんは、悔い改めの道を行きたいと思いますか?
生涯をかけて悔い改めるとしても、だれ一人として自分の負債を清算していないということを、皆さんに悟ってほしいと思います。悔い改めの道においては、日々が新しい出発です。それは正に皆さん自身の十字架の道であって、その道では皆さんは上昇するのみであって、決して下降することはないのです。イエス様は何度も山に身を隠して、断食をし、涙ながらの祈祷をされました。イエス様でさえ、毎日が悔い改めの新しい日だったのです。それが、皆さんが成長し、決してつまずかないことを保証できる一つの確かな道なのです。
きょうの私の話題は、生死の岐路に関するものです。私たちはどの道を選ぶべきでしょうか? 多くの道を選択することができますが、ただ一つ、十字架の道だけを選びましょう。
アメリカの道は地獄に続く
もう一つの道は自己中心の道です。自分の家のためになる道もあれば、自分の国のためになる道もあります。アメリカ国民を次の三つのタイプに分けることができます。それは、自分自身のために生きようとする人人、自分の家庭の幸福のために生きる人々、そして国家の発展のために尽力する愛国者の人々です。アメリカの大部分の人々は、どこに属しているでしょうか? 多分90パーセント以上の人々が自己中心的でしょう。いったいだれが、そのような人々の家庭や国家に責任をもつのでしょうか?
利他的な道は神の道であって、この方向に行くことによってのみ、皆さんは神にたどり着くことができます。自己中心のために、神とアメリカの間には壁があるのです。アメリカ人は神を発見することができますか? ではこの国は天国でしょうか、それとも地獄でしょうか? 論理的な結論は、アメリカ人の90パーセントが地獄に住んでいるということになります。今日のアメリカ人は、その文明を誇っていますが、しかし皆さんはいったいどのような文明をもっているのか分かりますか? それは、あらゆる種類の犯罪と不道徳の渦巻くジャングルです。私たちは必死に、そのジャングルから抜け出そうとしています。そこでは、時としてそのような邪悪なジャングルでさえ、生きるためにとても快く、親しみを感じるほどに、だれの心も汚染されてしまっているのです。
皆さんは、どこに住みたいと思いますか、このアメリカですか、アフリカですか? アフリカには自然のジャングルがあるかもしれませんが、しかしアフリカの人々は、おそらく自分自身のことよりも家庭や部族や民族のことをもっと考えながら、とても簡素で利他的な生活を送っています。もしこれが正しいとするならば、アフリカはアメリカよりも良いのでしょうか、悪いのでしょうか? アフリカがより良いとするなら、皆さんは当然アフリカに住むことを願うでしょう。
皆さんは汚染された世界に洗脳され、それに慣れてしまいました。自己中心はすべての場所――すなわち、家庭にも、国家にも、そして宗教の中にさえも見受けられます。宗教でさえも純潔性を保つことができませんでした。アメリカは、偉大な信仰をもった人々によって建設されましたが、今日の教会のほとんどが衰退しています。アメリカには正義の国を築き上げた堅固な家庭がありましたが、そのすべてが破壊されつつあります。もし国家がこのように傾いているとすれば、その運命はどうなるでしょうか? その最終的帰結は、破滅と絶望のみであって、何の希望的将来もありません。もしアメリカがこのような道を歩み続けるならば、この国のみならず、世界の他の国々も傾いていくでしょう。さらに、このような生き方を続けていくなら、アメリカは神のみ旨を失敗させてしまうでしょう。アメリカは絶壁に向かっているのであり、だれかがブレーキをかけて、それを止めなければなりません。
私たちは、神がブレーキをかけるために召命した者たちです。私たちは、この国の支柱である宗教を活性化させ、新しい伝統を打ち立てなければなりません。私たちは、大きな潮の流れに逆らいながら、それをもとがえそうとしているのです。この国は、異常な方向を追い求めてきました。それで私たちは、それにブレーキをかけて、180 度ひっくり返すためにここにいるのです。
これは生死の岐路なのです。命の道は実は死の道であり、死の道は実は命の道なのです。実際に死の場所を命の場所に転ずることは不可能であって、ただ生き残るだけでも必死の闘争が必要ですが、しかし私たちはあきらめず、死にもしません。私たちは苦労しながらも死を克服し、それを命に変えるでしょう。
神への道は自己否定が必要
ここにいる者の中で、祈祷しながら涙を流した体験のある人がいますか? どのような涙を流したのでしょうか――疲れて、もうこれ以上歩むことができないと感じて、悲しみの涙を流したのでしょうか? 神のために涙したのでしょうか? 神が涙を流してこられたということを、どうすれば知ることができるのでしょうか? 皆さんの神体験はこれまで間接的なものでした。どうすれば神と関係をもつことができるのでしょうか? 自分を変えて、神と直接的な関係をもつには、どのようにすればいいのでしょうか?
神に関してのキーワードは、お父様という言葉です。アダムとエバの時でさえ、神は無形でしたが、しかしアダムとエバは神の見える形に創造されました。彼らは神の体のようであり、神は彼らの心のようでした。霊界においても、アダムとエバは神の見える形だったことでしょう。神は、御自身を見える形で現すことができるように、アダムとエバを創造され、神は通じ合う有形の姿をもちたいと思われたのです。二番目に、神は愛を成就するために男性と女性を創造されました。神は私たちの父です。人間は神の宮であり、宮の内側に無限の神の縮図である心が住んでいるのです。
神は、皆さんからどれほどの距離におられるのでしょうか? 神は皆さんの心と同じくらい近い所にいらしゃるのであり、それは、そこが神の住まわれる所だからです。神は善悪を御存じであられ、皆さんの心も何が善であるか、何が悪であるかを知っているのです。皆さんの心は、皆さんが天国か地獄の、どちらに向かっているかを知っています。皆さんの心は正しい案内人ですが、しかし問題は、皆さんの心が皆さんの体を目標に向かって引っ張っていくほどに十分に強いものであるかどうかです。もし体が従うことができないなら、皆さんは地獄に行きます。皆さんは、そのような神のすべての要素を所有しているので、この無限の神に似ているのです。神の子女になるために、皆さんは神のようにならなければなりません。
アダムとエバが決して神の住まわれる所になれなかったがために、歴史のすべては一つの言葉――復帰――にかかっているのです。今現在、皆さんの体は常にサタンの方向に引っ張られているのです。ですから皆さんの心は、神と堅くつながっていなければならず、体を克服できなければなりません。皆さんの小さな心が、その仕事をなすために大きくならなければなりません。今現在、両者には競争がありますが、皆さんの心が体を圧倒しているときは、皆さんの体が誤った道に行くような機会は全くないのです。自分の体を最も修養できる人が、最も早く成長することでしょう。皆さんは体を心に従わせることを習慣にしなければならず、その過程は約3年から7年はかかるのです。
したがって、皆さんは皆さんの体が嫌がることをすべきです。体はいつでもサタン的な方向に行くのですから、皆さんは体がしたがらないことは何でもすべきです。それゆえに、私たちは体が喜ばない多くのことをするのです。私たちの体は万物復帰も断食も伝道も好きではありませんが、しかし、それが私たちのやることなのです。
アメリカはとてもみだらな社会であって、そこでは男性も女性も自分勝手な生活様式をもっていて、何でもすることができます。誘惑でいっぱいのこの社会で、皆さんは自分を清く保たなければなりません。その一つの努力だけでも、生死を懸けた闘いのようです。30歳までに、大概のアメリカ人は3、4回は結婚したことがあるでしょうが、しかし、皆さんは誘惑を退け、その年まで純潔を守っています。日常の世界では一晩で女友達をつくることができるし、全くの赤の他人と、夜通しであらゆる気違いじみたことをすることができます。しかしここでは、夫婦でさえ時として一緒にいる機会がほとんどありません。このような自己抑制は、徹底した努力を必要とし、実際死ぬような思いをするのですが、私は皆さんが本当に永遠のために生きていることを知ってほしいと思います。
皆さんは平坦な道を行きますか、それとも石ころだらけの道を行きますか? 皆さんは、石ころだらけの道はいかに困難か想像したことがありますか? 女性の皆さんは、ハンサムですてきな男性と結婚したいと思いますね? 皆さん、急に静かになりましたね! 皆さんの目は、ある男性がハンサムで背が高いときには気づくのですから、ある意味では抜け目なく周囲を見ており、その彼が自分の夫になってくれはしないかと期待するのです。しかし皆さんは、皆さんの目が見るものと、体が欲しがるものを否定しなければなりません。その人を神の似姿として見ることができ、仕えることができるよう、できるだけ醜い男性を神に求めなさい。人々はいつも、一つのことを除いては、「はい、はい、はい」と言います。その「除いて」がいつも問題となります。
私の体験では、神は偽装のチャンピオンです。神は皆さんに最高の愛を与えようとされますが、しかし皆さんがそれにふさわしいことを確かめるために、神はその愛する人を最も醜い人の姿に偽装されるのです。皆さんが本当に、その人に対し神を愛するように愛し、神に感謝をささげるならば、神はしだいにその人を通して御自身を現すようになるでしょう。美しい顔の背後には、いつも誘惑があるので、気をつけなければなりません。善は、醜い外見の背後に潜んでいて、さらに、皆さんを除いてはだれもその人を見ようとしないでしょう!
皆さんの中には、私には既に美しい妻がいるから、このように私が語るのだと思う人がいるかもしれません。しかし実際、私は世界の中で最も醜い女性を与えてくださいと神に本当にお願いしたのです。私は神が私に御自身の大きさを感謝するように願っておられるのではないかと思って、110 キログラムの妻を受け入れる準備がすっかりできていたのです。皆さんに小さな妻がいるとすれば、神は御自身の魅力的な側面を享受することを願っておられるのだと考えることができます。
皆さんは、自分の目が自分に語りかけるものを克服することができますか? 世俗的な方法で世界を見ることができるように、皆さんに目が与えられたのではなく、神の涙を流すことができるように、目が与えられたのです。それが皆さんの二つの目を使う、最も価値ある方法なのです。皆さんは甘い言葉を聞きたいでしょう、そうではないですか? 皆さんは、耳の峠も越えていかなければなりません。多分皆さんの夫は、不格好であるばかりか、毎日ぶつぶつ不平や不満をこぼすでしょう。皆さんは何と言うのでしょうか? 皆さんの考えをサタン分立するために、その不満の声を神からの心地良い音楽であると思わなければなりません。皆さんの夫が、小言を言ったり、がみがみ言ったりするときは、まず朝食を準備して、あとで小言を言うように告げるのです。夜には、休んで、あす小言を言うように告げるのです。それを40日続けなさい、すると夫は、皆さんから何の返答もないから小言を言っても全くおもしろくないと言うでしょう。
皆さんの鼻はとても敏感です。だれもある種のにおいが好きであったり、嫌いであったりしますが、しかし皆さんは、嫌なにおい――例えばトイレのにおいや夫の体臭も、好きになるように訓練すべきです。皆さんのすべての感覚の峠を克服しなさい。皆さんはいくつの試験を合格したことがありますか? 皆さんはいつも口実を見つけ出すことができます。ある人々は、お尻があまりに小さくて、そして背中が強くないので、朝早く起きられないと言うかもしれません。他の人は、お尻がとても大きくて、朝早くそれを運ぶことができないと言うかもしれません! 皆さんの肉体はいつも口実をつくるのです。
皆さんの手は、肉体が欲するものを知っているので、その手はだれか他の人が一番おいしそうな食べ物を取る前に、それに手を延ばします。皆さんは自分の手に、他の人々が好きではないものに延ばすように言うべきです。女性の体は、ある種の誘惑を引き起こしますし、触れられたいという願望をもっているので、女性は、お尻と胸の峠を越えなければなりません。男性にもまた越えるべき男性自身の峠があります。皆さんは誘惑を超越して、肉体が欲することをしないようにしなければなりません。
越えるべき七つの試練があり、それは――目、耳、口、手、鼻、足、そして胸とお尻です。表を作って、各試験を合格するごとにそれを棒引きにするのです。しかし誘惑を否定することは、ほんの始まりにすぎません。それから皆さんは、神を分かって慟哭するために、これらすべての器官を用いなければならないのです。祈祷で泣くときに、涙が顔を流れ落ちるだけではなく、よだれが流れ、鼻水が流れるのを体験したことがありますか? その時だれかが皆さんに話しかけようとしても、皆さんはそれが聞こえないでしょうし、彼らが皆さんに触れたとしても、それを感じないでしょう。さらにそのような心情で、皆さんは血の一滴一滴を人々のために流したいと願うのです。神は、皆さんの体が人類のために活動しているとき、その体全体から汗が流れ落ちるのを見たいと思われるのです。
私は神をその涙から解放するために生きてきた
神はこの期間すべてを、御自身のためではなく、人類と世界のために涙を流してこられました。ですから、私たちは自分自身のためではなく、神と人類のために涙を流すのです。世俗世界でも涙を流しますが、しかし天の涙はそれよりも偉大であるべきです。摂理的な道を歩まなければならないと知っているので、私は決して自分や家族や親のために泣いたことはありません。私は神と人類のために泣きました。私の涙は、厚めの冬物の服であっても、服全体をぬらしたのです。
それが、私が神の国を相続することができ、統一教会の基盤を築くことができた唯一の方法なのです。その涙が統一教会の原点です。私は、自分のために悲しむ人々の涙を、神の事情を思って流す天的涙に変えたいと思うのです。近所の人々や同僚たちは、囚人たちが働きながら、だんだんと飢えて死んでいく牢獄に私を投獄して、私を殺そうとしました。しかし私は涙を流しながら、死を克服しました。牢獄にあってさえも、私は決して不平を言いませんでした。神に向かって、私の痛みを和らげてほしいと請うことは決してありませんでした。私の唯一の心配は、私の血と汗が神のために流されたかということだけでした。
私の道は、惨めさと、多くの涙と、多大な困難の道以外の何ものでもありませんでした。皆さんは、私が鈍感であるか、おしだと思いますか? 打たれたり、あるいは悲しみに出遭ったりするといつでも、私は神のために涙を流さなければなりません。このような状況が私に押し迫ると、私はいつも神のことを最初に考えて、私は神を解放すべき人間だと思うのです。すると私は神を慰労せざるを得ないし、私は大丈夫ですと言わざるを得ないのです。私はまた、神が私のゆえに多くの涙を流してこられたことを知っており、それだからこそ神は統一教会を忘れることができないのです。
霊界と通信する人々は、時として私について知りたいと尋ねますが、その答えは、日夜慟哭している姿をもって彼らに来るのです。涙なくして私のことを描写することはできません。もし皆さんが涙なくして統一教会にいるとすれば、この道を成功裏に行くことはできません。涙の味も知らない人々に、私は親しみを感じることはできません。涙を知る人のみが私を理解することができるのです。
堕落人間は、血と汗と涙の負債を背負ってきました。もし皆さんが神に、堕落の時からの体験のいくつかを語ってくださいと頼むならば、神は血と汗と涙の話以外に話すことのできるものは何もないでしょう。神には、それ以外に何の歴史もないのです。今日のクリスチャンたちは、神がいかなる方なのか本当に知りません。彼らは、神が栄光の玉座に座して生活を楽しんでおられると想像していますが、それは全く真実ではないのです。
だれかが神を解放しなければなりませんが、神御自身ではそれをなすことができないのです。親の苦しみや、夫婦の苦しみは、彼ら自身だけでは解決することができません。親の苦しみは子供によってのみ解くことができます。夫の苦しみは妻によってのみ解かれます。妻の苦しみは夫によってのみ解かれるのです。神を悲しみから解放する唯一の道は、神の苦悶を引き受ける孝行息子になることによってのみであり、あるいは夫の苦悶を引き受ける妻のようになることによってのみなのです。
たとえ皆さんが、ある両親の子供でないとしても、あるいはある男性の妻でないとしても、皆さんが実の子供や妻がするよりも、その人たちにもっと仕えていくとすれば、実際に皆さんはその人たち自身の家族よりも彼らと親しくなるでしょう。役に立つ唯一の道は、その人たち自身の子供や妻がする以上に、もっと孝行と純粋な献身とを示すことです。同様の真理が、神との関係においても当てはまります。もし皆さんが、私がするよりももっと神に犠牲的愛をささげるならば、皆さんは私よりももっと神に近くなるでしょう。私は生涯を通して神のために苦労してきましたが、皆さんのうちでだれかがより良くできるならば、確実に神は皆さんにより近くなるでしょう。神が皆さんをより一層愛されるとすれば、皆さんが私よりもどれほど良くしているのかということに、私が嫉妬するでしょうか? いいえ、私はそのような人々に従っていくことをうれしく思うでしょう。
神は、そのような愛をもつ人なら、だれでも一緒にいたいと思われるのです。皆さんが生涯を通して神のために、汗と涙と血を流すならば、皆さんのゆえに、神は初めて幸福と希望の涙を流すことができるでしょう。これ以上の何の誉れを求めることができるでしょうか? 皆さんは天国に行けるかどうかと心配する必要はありません。神御自身が、個人的に皆さんを最も高い所へ連れていってくださるでしょう。歴史において最も偉大な道は、神をその悲しみから解放してさしあげる道なのです。
真の孝行息子は、その親の心を涙するほどに感動させるものです。真の忠臣は、その王を涙するほどに感動させるものです。もし多くの臣下が、その王と王妃のために生命をささげることができるなら、彼らはきっと感動して涙することでしょう。それが私の目標です――すなわち、悲しみの涙から神を解放してさしあげ、幸福の涙を流すほどに神を感動させてあげるために、私はすべてをささげて献身しているのです。それが統一教会の原点なのです。
私たちの涙は歴史の涙を復帰する
アダムが涙を流し、カインとアベルが血を流し、セツが涙を流して、彼らはこの涙を、歴史を通して伝えてきました。原状を回復するために、ノアは120 年間、真に犠牲的献身をもって汗と血と涙を流しました。それゆえ神は、涙と汗と血の世界を一掃するために、その信仰を使うことができるのです。アブラハムが故郷を離れる時、涙を流しました。彼の息子イサクが祭物としてささげられる時、条件的に血を流しました。孫のヤコブは本当に汗を流しました。これが摂理を開拓する見本なのです。
モーセはパロの宮中から追い出され、何度も涙を流しました。イエス様は十字架上で血を流されました。再臨主は最終的に天国を建設するに際して、最も多くの汗を流すでしょう。それはアダムとエバの時に蒔かれたものであって、歴史を通してこのような方法で収穫されるのです。
だれかが歴史の悲しみの血と、悲しみの汗と、悲しみの涙を清算し、それから神の国のために働く、新しい喜びの歴史を打ち立てなければなりません。再臨主の来られる時に、原状の回復が完全になされなければなりません。ですから再臨主は、すべての歴史の負債を清算する、汗と涙と血の王者でなければならないのです。
涙のまっただ中で、皆さんは天に対して希望を抱くことができますか? イエス様は33歳で十字架を背負われました。私たちの決意は十字架を背負うことですが、しかしそうする代わりに、生きた十字架を背負うのです。しかし、皆さんはだれのためにそれをするのでしょうか? 神と人類のためです。悲しみの涙と共に、アダムとエバは堕落をもたらし、数千年間人類が苦しんできた涙と悲劇をもたらしましたが、しかし、神と人類のための涙は、皆さんを天国へと導いてくれるだけでなく、神をも解放するでしょう。
私たちは、死の石ころだらけの道を克服して、生命を見いだすでしょう。このことゆえにイエス様は、自分の命を救おうとする者はそれを失い、自分の命をささげようとする者はそれを得るであろうと言われたのです。私たちがその涙の道を越え、この世の人々が幸福の涙を流すことができるとき、神はついに幸福の涙を流すことができるでしょう。神は、親子としての喜びと希望の涙を流しながら、一つの共通の目標のために、一つの共通の愛の中に集まった五色の人種がいるこの部屋を眺めておられます。そしてその情景が、神に喜びと希望の涙をもたらすのです。
神様の祝福が皆様にありますように。祈祷しましょう。