「よく気がついたよね」というママ友の言葉。それこそが自閉症の息子の困難の原因だった
4月2日は世界自閉症啓発デーです。小学校に入学してすぐ発達障害の1つであるASD(自閉スペクトラム症)の診断を受けた息子。小学校では「問題ない」ように見えていたけれど…。
朗子
2022年04月02日 9時0分 JST | 更新 21時間前
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息子は、小学校にあがってすぐに発達障害のひとつであるASDの診断を受けた。小学校では「問題ない」ように見えていた。だが、「みんなと同じようにする」ことをサポートしようとしていた時、息子はずっと苦しんでいた。
かわいいけれど、難しい
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0歳代~1歳の息子。いつも何かに夢中になって、じっと観察していた
公園で外遊びをするようになった1歳の頃から、マイペースな子だなと感じていた。
“おともだち”にはあまり関心を示さず、いつも遊具やおもちゃしか眼中にないようだった。せまい砂場のすぐとなりで、同い年の子どもたちが大騒ぎをしていても、もくもくと一人で遊び続けていたこともあった。
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小児科に行くとき、なんとなくいつもよりひとつ手前の角を曲がって行こうとしたら、子どもを乗せる自転車の前シートで泣きわめいて、家の前に戻って再スタートするまでおさまらなかったことがあった。
一方で、よく笑いよく歌うおしゃべりな息子は本当にかわいかった。ほかのお母さんたちと同じように、あれこれ悩みながらも「わが子に合ったやり方」を探り、日常を過ごしていた。
3歳になって幼稚園に入園するころになると、マイペースなせいか子ども同士のあいだでは少し敬遠されている様子もあった。その時は悩んで幼稚園に相談したりもしていたが、「この子はそういう子」と思って接していた。
だが、6歳になりいよいよ小学校入学が近づいてきて、私は焦ってきた。
「もう少し、集団生活になじめるように“しつけ”なくてはいけない」
息子が小学校にあがる頃、生理が止まった
すると、息子が一気に「難しい子」になっていった。
正直、このころの記憶はあいまいだ。ただ、当時の日記を読み返すと、私はかなり弱っていたようだ。息子は毎日ちょっとしたことで癇癪を起こし、家の中での暴力や暴言がひどかったと記されている。次第に私は食欲がなくなり、体重が減ったり生理が止まったりしていた。
友人の助言もあり、区の発達相談を予約した。そこで医療機関を紹介された。
そして小学校にあがってすぐ、自閉スペクトラム症(ASD)の診断を受けた。しばらくして注意欠如多動症(ADHD)の傾向もあると言われた。その後、14歳になって書字障害の診断も加わった。
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工作やジオラマ作成も得意だった。小学校低学年のころのもの
知的障害には該当しない。能力によってはむしろ高い数値が出ているものもある。言葉を扱うことは得意で、読むのも話すのも上手だ。聞いて理解する力も集中力さえ保てればほとんど問題はないように見える。
書字についても、まったく書けないわけではない。時間をものすごくかけ、見本を見ながらなら、文字は書ける。
「よく気がついたよね」。同級生のママ友に打ち明けた時に感心したように言われたこともある。だが、それこそが息子の困難の大きな要因のひとつだった。
「軽度の障害なので、配慮はできません」
「ちゃんと受け答えはできるし、問題ない」
「危険なことをする子どもがいたら、そちらを優先することになる」
すべて息子が在籍していた小学校の校長(当時)に言われた言葉だ。
「ほかの障害や問題行動と比べて息子さんは軽度です。だから配慮は出来ません」とシャットアウトされていると感じた。
似たようなことを、親同士のやりとりでも感じたことはある。「そのくらいなら大丈夫よ」といわれ、うまく伝えられないもどかしさが残った。消化しきれなかった気持ちは、ぎゅっと圧縮されたかたまりになって何年経ってもみぞおちのあたりに残り続けている。
発達障害は脳機能の障害と言われる。外からは見えない、脳の働きの差異からくる障害だ。
おそらく脳の中で、ものごとの受け取り方や感じ方が、息子の場合は多数派とは異なっている。
よく観察して、息子を知ろうとした
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こんなことがあった。
息子が小さいころ、好きだった鉄道によく一緒に乗りに行っていた。
例えば「小田急線に乗りたい」と息子が言ったとする。そしていざ、小田急線のホームにつくと「違う」と言い出し、乗ろうとしない。よくよく聞いてみると息子の希望は、「小田急3000型の急行小田原行きに、新宿から小田原まで乗りたい」ということだったりする。
そのうちのひとつでも条件に合わない場合は、彼のその日の「小田急線に乗りたい」思いはかなえられないことになり、受け入れるまでにかなりの時間を要する。せっかく出かけても、親子で不満足なまま、ただ疲労してしまうようなことにつながる。
一見わがままのようにも見える、現実と彼の頭の中の不一致はきっと日常にたくさんあったと思う。学校でのことは全てはわからないが、似たようなことはきっとあったのだと想像している。
帰宅した息子が「先生に“ずるいよ”と言われた」と泣いているのだが、ことの経緯を聞いても、何がどうなって息子がそのように受け取る事態がおきたのか、よくわからないこともあった。低学年のころは学校に確認して双方の真意を把握し、私が橋渡しをしていた。しかし、だんだん本人も「先生には言わないで」と言うようになった。
脳の中で起きていることはブラックボックスだ。
自分の脳内と他者の脳内を並べて比べることはできない。だから、言葉を尽くしてよく観察して、私は息子を知ろうとした。しかし、多くの先生にはきっとそんな余裕はなかった。
型にはめようとし、息子の笑顔が減った
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中学生になって書いた、電話を伝えるメモ。三枚書き直して残してくれた。漢字を確認しながら書いた様子がうかがえる
ソーシャル・スキル・トレーニング(SST)といって、一般的に望ましいとされるふるまいを、知識として身につける勉強がある。診断が出てすぐのころから、塾や通級指導教室(※1)で何年間か続けた。
「友達と一緒に遊びたいときどうやって声をかける?」「いやなことがあったとき、どうする?」といったことを、すごろくやカードゲームを通して学んだり、自分の怒りや悲しみを「温度計」に例えて感情をコントロールする練習をしたりしていた。
当時はよかれと思って学ばせていたことだったが、「あなたはこれが苦手でできないよ」と突きつけているだけだったのかもしれない。
休み時間の喧噪、給食や掃除用具から漂うにおい、微妙に遠周りになる通学路、書くことが苦手なのに作文やテストでしか評価されない活動…。
小学校は息子にとって、予測不能の恐怖と緊張の連続だっただろうと、今ならわかる。
けれど、私は息子が他の子どもたちと同じようにふるまえるようサポートするのが親の役目だと思っていた。四方八方から「みんなと同じように」という型に息子をはめこもうとしていた。本当に申し訳ないことをしたと思う。今も思い返すと胸が苦しい。
10歳になる前には息子から徐々に無邪気な笑顔が減った。どちらかといえば目立ちたがりで人を笑わせていた息子は、小学校3年生で学校に行き渋るようになり、4年生にあがってまもなく不登校になった。
私たち親は、ここからやっと、少しずつ世の中の「普通」を手放すことができるようになった。息子が息子らしく育つことのサポートに舵を切っていった。
見えないからこそ強いられる「普通」
息子は見えない障害だったからこそ「みんなと同じようにする」ことを、より強いられたのだと感じている。
車いすの人に歩けとは言わないだろう。メガネが必要な人に裸眼で文字を読めとは言わないだろう。見えない障害がある人たちは、それと同じことを日常的に求められ、本人も自分の努力不足だと思ってしまう。
今も見えない障害で毎日毎時間苦しみ、自分が自分らしく考え学ぶことを無理な形で曲げられ押さえられている子どもが、きっと全国にたくさんいることを知ってほしい。
そして、普通を手放すことはとても怖いけれども、自分らしくいられるなら普通を手放した先にも道はあることを多くの保護者に知ってほしい。
私たち親子は、より自分らしく息子が過ごせるように、息子にあった学び方、育ち方を選択した。今は伸び伸びとしている。友達もできたし、毎日楽しそうに過ごしている。
小さいころ心配していた暴力や暴言は、型にはめようとするのをやめたことで落ち着いた。そして成長とともに困難は目立たなくなり、過敏な部分や苦手な事は自分で対処するようになった。
発達障害に限らず、目に見える障害も含めて、あらゆる障害のサポートにはまだまだ足りない部分が多いのだと思う。障害ではなくても、生きづらさを抱えている人もたくさんいる。
みんなが「つらい」と言える世界で息子は生きていってほしいと思う。そして誰かの「つらい」は比較されることなく、その人はそれが今つらいのだと認め合える世界であってほしい。そんな未来に息子が生きることを望んでいる。
※1…小学校又は中学校の通常の学級に在籍している軽度の障害のある児童生徒に対して、主として各教科等の指導を通常の学級で行いながら、障害に応じた特別の指導を特別の指導の場で行う指導形態。
息子の場合は、週1回午前中4時間、別の小学校の通級指導教室に通いました。
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(文:朗子 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)