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名優ロック・ハドソンのエイズ死で浮き彫りに……「強いアメリカ」を目指したレーガン元大統領の誤算
濱田篤郎・東京医科大学特任教授
2024年3月23日
第2回日米首脳会談終了後、新聞発表をするレーガン米大統領(左)と中曽根康弘首相=東京都千代田区の首相官邸で1983(昭和58)年11月10日、出版写真部員撮影
1980年代の米国は、ハリウッド俳優だったロナルド・レーガンが大統領に就任し、冷戦を終結させるなど「強いアメリカ」をアピールした時代でした。その一方で、エイズが米国を中心に世界流行を始めたのもこの時代です。この流行拡大の一因にはレーガン政権の初動対応の遅れがありました。今回はエイズ拡大時の状況を振り返るとともに、それが米国社会などに与えた影響を紹介します。
エイズ発生の第1報
1982年6月、米国の疾病対策センター(CDC)の週報に奇妙な病気が報告されます。80~81年にかけてロサンゼルスで5人の男性同性愛者が、カリニ肺炎を発症したというのです。カリニ肺炎は免疫機能が極端に低下した人に起こる病気で、これが世界で最初のエイズ患者の報告になりました。
この報告以降、米国内や西ヨーロッパから同様の病気の報告が相次ぎますが、患者のほとんどは男性同性愛者でした。このため、流行当初、エイズは男性同性愛者に限定された病気と考えられていました。
81年といえば、1月に共和党のロナルド・レーガンが米国大統領に就任した年です。それまでの米国は、ベトナム反戦運動の影響で社会に大きな変化が生じ、ヒッピー文化やフリーセックスなどの風潮が拡大していました。こうした変化を保守的な人間は道徳の崩壊と捉え、就任したばかりのレーガンも「強いアメリカ」を復活させるため、道徳の回復に力を注いでいたのです。
このような背景から、流行当初のエイズは「ゲイのように不道徳な人間がかかる病気」と認識され、レーガン政権も積極的な対策を取りませんでした。
ずっと前から流行していた
エイズはリンパ球に感染するHIVウイルスによって起こる病気で、患者の免疫機能が大きく障害されます。この結果、カリニなど通常は無害な微生物による肺炎を起こしたり、カポジ肉腫のような皮膚がんを発病したりして、治療をしないと、数年で死に至ります。
先に紹介したように、エイズが発見された当初は男性同性愛者の間で流行が拡大していましたが、83年までには異性間性行為や輸血での感染が数多く報告され、この病気が特殊な集団の感染症ではないことが次第に明らかになってきます。
また、その後の調査によれば、HIVウイルスは200年以上前にアフリカのサルの間で流行が始まり、それが奥地の人の間で流行するようになったと考えられています。やがて50年代にアフリカ諸国での開発が進むと、都市部でも患者が発生するようになり、それが60年代に欧米へ波及していったのです。
こうした時代に米国では前述したような社会道徳の変化が起こり、70年代からエイズが男性同性愛者の間で広がっていきました。そして、81年に最初の患者報告があったのです。なお、日本では85年に最初のエイズ患者が確認されています。
ロック・ハドソンの死
レーガンは大統領就任後、経済の再建や軍事力の強化に努めますが、エイズについては積極的な対策を取ることなく、1期目を84年末に終えます。
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85年からの2期目に入ると、レーガンはソ連との冷戦終結に向けて動きますが、エイズ対策にも取り組まなければならない状況になりました。まずは、この病気が男性同性愛者だけでなく、国民全体に拡大してきたことがあります。さらには、同10月に米国映画界を代表する俳優のロック・ハドソンが、エイズで死亡するという衝撃的な出来事が起こったのです。
ロック・ハドソンは、エリザベス・テーラーとの共演作「ジャイアンツ」で一躍スターダムにのし上がり、それ以降も数々のヒット作に出演してきました。そんな大スターが、84年に入り慢性の下痢を起こし、体重がみるみる減少していったのです。この時期、彼は大統領主催の夕食会に招待されており、レーガン夫人から「なぜ、そんなに痩せてしまったの?」と質問されたそうです。そして、同5月にエイズを発病していることが判明します。
エイズの闘病を含め、その人生は評伝にもなった。ロック・ハドソン/サラ・デビッドソン著 荻昌弘・日本語版監修『ロック・ハドソン わが生涯を語る』(日本放送出版協会)=菊地香撮影
彼は少年時代から男性同性愛者でした。その後も病状は進行し、85年7月に彼は自分がエイズに感染していることをメディアに告白し、同10月に亡くなりました。
レーガンの方針転換
ハドソンの死はアメリカ国民にとって大きなショックでした。彼は理想的なアメリカ男性であるとともに、映画俳優だった大統領とも近い関係にあったからです。レーガンとしても、エイズ対策に本腰を入れなければならない状況になってきました。
87年5月、レーガンはワシントンDCで開催された国際エイズ会議に出席し、エイズへの積極的対応を約束する演説を行います。さらに議会でエイズ諮問委員会の設置を決め、エイズ関連の予算を86年の1億ドルから87年は16億ドルに増額したのです。
これは、それまでのエイズ対策からの大きな転換でした。しかし、81年に患者が初めて確認されてから6年の歳月が流れていました。この年までに全米では5万人近くがエイズにかかり、およそ2万7000人が死亡していたのです。米国はエイズの初動対策を怠ったと言ってもいいでしょう。
このように米国がエイズ対策に本気で取り組むようになってから、その治療は大きく進歩します。96年からは多剤併用療法が開始され、この効果により、エイズは完治こそしないものの、治療を続けていれば普通に生活できる病気になりました。
「フィラデルフィア」が解き放ったトラウマ
こうした治療の進歩とともに、90年代になるとエイズの予防対策なども明らかになり、この病気だけでなく感染症全般への偏見や差別が解消されていきます。
93年にはトム・ハンクス主演の米国映画「フィラデルフィア」が公開されました。エイズを発病したゲイの弁護士を主人公に、この男をめぐるさまざまな偏見とそれに立ち向かう姿が描かれており、全米で大きな反響を呼びました。トム・ハンクスは翌年にアカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。ようやくこの時期になって、米国映画界はロック・ハドソンのトラウマから解き放たれたように思います。
米俳優トム・ハンクス=米ロサンゼルスで2002年9月、勝田友巳撮影
さらに、エイズの流行は同性愛など性的多様性を社会が受容する契機にもなりました。このように、現代の社会規範となる差別撤廃や多様性容認といった考え方は、エイズの流行を経て深化していったと見ることができます。
その一方で、エイズはアフリカなど発展途上国で、いまだに多くの死亡者を出し、患者が差別の対象になることも少なくありません。これから先も、日本を含む先進諸国からのさまざまな支援が求められているのです。
特記のない写真はゲッティ
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はまだ・あつお 1981年、東京慈恵会医科大学卒業。84~86年に米国Case Western Reserve大学に留学し、熱帯感染症学と渡航医学を修得する。帰国後、東京慈恵会医科大学・熱帯医学教室講師を経て、2005年9月~10年3月は労働者健康福祉機構・海外勤務健康管理センター所長代理を務めた。10年7月から東京医科大学教授、東京医科大学病院渡航者医療センター部長に就任。海外勤務者や海外旅行者の診療にあたりながら、国や東京都などの感染症対策事業に携わる。11年8月~16年7月には日本渡航医学会理事長を務めた。著書に「旅と病の三千年史」(文春新書)、「世界一病気に狙われている日本人」(講談社+α新書)、「歴史を変えた旅と病」(講談社+α文庫)、「新疫病流行記」(バジリコ)、「海外健康生活Q&A」(経団連出版)など。19年3月まで「旅と病の歴史地図」を執筆した。