ちょうど70年前、太平洋のビキニ環礁でアメリカによる水爆実験がおこなわれ、日本の漁船「第五福竜丸」などが被ばくしました。いわゆる「ビキニ事件」です。
被害を受けた日本の漁船はのべ992隻。その約3割が高知の漁船でしたが、実態はあまり知られてきませんでした。
NHKでは約1年かけて元船員や遺族らを取材。当時、ビキニの海で何を見たのか、港に戻ってから何が起きたのか。知られざる70年目の告白です。(高知放送局記者 奥村敬子)
6回の水爆実験 のべ992隻が被害
今年のアカデミー賞で作品賞を受賞した『オッペンハイマー』でも描かれた、冷戦時代のアメリカと旧ソ連の核開発競争。
アメリカは1954年3~5月、日本から南東に4600キロ離れた太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁などで、6回にわたって水爆実験を行いました。
最初の3月1日に爆発した水爆「ブラボー」は、広島型原爆の1000倍の威力があったとされ、海域にいた静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」などが被ばくしました。
水爆実験が行われた期間、多くの日本の漁船が被害を受けました。帰港後に魚の廃棄を強いられたのは、のべ992隻にのぼります。その3割、約270隻は高知でした。
元船員たちの苦悩
今回、初めてテレビの取材に応じてくれた、高知県室戸市出身の柳原亨(86)さん。中学を卒業後、マグロ漁船「第七大丸」の炊事係になりました。
1954年2月23日、柳原さんら28人を乗せた船が日本を出発。そして、ビキニ環礁の東、約1200キロを航海中だった3月1日に水爆実験に遭いました。
柳原亨さん
「空を見ると、真っ黒い入道雲が散っていくようだった。船長が僕に『大型爆弾(の実験)があったから食器をきれいに洗っといてくれ』と言った。灰をかぶったかもしれないと思ったんじゃないのかな」
アメリカによる水爆実験。しかし、放射能の詳細な情報がもたらされないまま、航海は続きました。のちに危険区域に指定される海域も、知らずに通っていました。
ことの重大さを知ったのは水爆実験から1か月後、東京・築地の港に戻ったときでした。
ひと足先に日本に帰港した「第五福竜丸」の船員が健康被害を訴え、大学などの調査の結果、被ばくしたことが明らかになり、大勢の報道陣がほかの船も被ばくの影響はないのかと港で待ち構えていたのです。
そして、柳原さんらは帰港するや否や、厚生省の職員らの徹底した放射能検査を受けました。
柳原亨さん
「ガイガーカウンターで船員や魚を全部測りましたね。船の中、部屋もね。放射線量が高いところは、音と針が振れました。船のブリッジがちょっと高かったんですよ。顔を測った時も高くて」
漁船「第七大丸」
船員28人のうち19人から、通常より高い放射線の反応が確認されました。
柳原さんに大きな体調の変化はありませんでしたが、一部の人は体のだるさを感じたり、すべての歯が抜けたりしたそうです。
大量のマグロを廃棄
室戸市在住の元船員、小笠原勝さん(90)も帰港後に検査を受けた一人です。
19歳の時、機関士として別の漁船に乗り、ビキニ環礁近くの危険区域内で作業をしていました。
「第五海福丸」元船員 小笠原勝さん
「歯を磨いている時に一度だけですがたくさん血が出ました。今思えば、被ばくの影響だったかもしれないです。現場から日本の港に帰ってきた時に、白い制服を着た厚生省の役人がガイガーカウンターで放射線量を測りました。『操業中に着ていた衣類などを出してください』と言われました」
突然の検査に戸惑う船員たち。さらに追い打ちをかけたのが、マグロの廃棄でした。
当時、船は木造が主流で、往復1か月以上かけて命懸けでマグロを獲っていましたが、高い放射線の反応が出たマグロはすべて廃棄させられました。
マグロの放射能検査(築地市場)
その量は、全国で合計485トンとも言われています。
小笠原勝さん
「魚から放射線の反応が出たので『全部捨ててきなさい』と(厚生省の職員から)言われました」
当時の船員たちの給料は、売り上げに応じた歩合制。このため、収入は激減しました。補償も十分ではありませんでした。
被災した高知の漁船に分配された見舞い金
小笠原勝さん
「もらったお金は当時1万円か、そのくらいじゃなかったかな。本来なら数十万あったはずが、それ以上は何もない。今考えたら、ずいぶんと腹立たしいです。本当に許せないという気持ちですね」
少ない金額での政治決着
なぜ、十分な補償がされなかったのでしょうか。
ビキニ事件の翌年の1955年1月、日米両政府は、アメリカが見舞金として200万ドル、当時の日本円で7億2000万円を支払うという文書を交わしました。
公文交換の場で握手を交わす重光外相と米・アリソン大使
ただし、当時の漁業被害は24億円。3分の1以下の金額での政治決着でした。
その“ビキニ事件の解決”の裏で、第二次世界大戦で戦犯となった日本人の解放を求める密約が交わされていたことが、のちに明らかになっています。
町全体で事件を隠す空気も…
ビキニ事件で大きな影響を受けた高知。室戸の遠洋漁業はその後、漁場を変え、全国有数の港として発展をとげます。
1966年の室戸市の漁獲高は約90億円。高知県内の半分を占めるまでに成長しました。
1960年代の室戸市の室津港(1965年放送「新日本紀行 室戸」より)
その一方で、過去の被ばくに対する差別や、町全体で事件のことを隠そうとする空気があったと証言する人もいます。
「第二幸成丸」元船員 久保尚さん(87)
「漁から帰ってきて居酒屋に入ると、『水爆実験の時に船に乗っていた人だ』と後ろ指を指されて嫌な思いをしました。また、船の幹部から『(かつての)ビキニのことは口外するな』と言われました。室戸はビキニ事件を乗り越え、漁業の町として発展していたので、風評被害を心配していたのだと思います」
50年以上、妻にも打ち明けられず
一方、ビキニ事件から3年後、19歳だった柳原さんは進学のため上京します。体調に異変を感じたのは、その頃でした。
柳原亨さん
「専門学校に入ってね、頭をかいたんですよ。毛がばらばらと落ちてきました。船に乗ってビキニ実験に遭った時に、帽子を被っていなかったんです」
その後、同じ船に乗っていた船員の中には、40代や50代でがんを患い、亡くなる人も現れはじめます。
元船員らを支援している高知県の団体によると、ビキニ事件では、高知県の漁船だけでも約2000人の乗組員が被災したと推定しています。
一方、国は「第五福竜丸」以外の漁船員の被ばくによる健康への影響は、認められないとしています。
15歳のときに被ばくした柳原さんですが、それを周囲に語ることはありませんでした。
差別されることをおそれ、妻にさえも50年以上、打ち明けられなかったといいます。
柳原亨さん
「結婚するときに妻にビキニの話をしていなかったので、いまだに機嫌が悪くて。誰にも話すことができなかったです。やっぱり言いたくなかったですよね」
事件から70年が経過し、当時の船員28人のうち、生きているのは柳原さんだけになりました。今、核の恐怖を語らなければと感じています。
柳原亨さん
「一回、核の被害に遭ったらどうしようもないです。やっぱり核兵器はない方がいい」
風化させたくない 語り継ぐ遺族
ビキニ事件を風化させまいと活動を続け、国と闘っている遺族もいます。下本節子さん(73)。
父親の大黒藤兵衛さんは70年前、柳原さんも乗っていた「第七大丸」に無線士として乗船し、被ばくしました。
事件のことを一切語らないまま、藤兵衛さんは2002年、78歳の時に胆管がんで亡くなりました。
下本さんが被ばくの事実を知ったのは、その2年後でした。
下本節子さん
「父は本当に被ばくしたことを何もしゃべらなかった。漁業への不利益や、自身や子供への差別を心配して隠してしまったのだと思います」
下本さんが子どものころ、藤兵衛さんは一年中、毛糸の腹巻きをしていたといいます。当時、内部被ばくによる異変を感じていたのではないかとみています。
こうしたこともあり、下本さんは現在、被ばくで健康被害などを受けたとみられる船員の救済を、国に求めています。
遺族として初めてマーシャル諸島に
ビキニ事件からちょうど70年の2024年3月1日、マーシャル諸島の首都・マジュロに下本さんの姿がありました。
マーシャル諸島でも当時多くの島民が被ばくしていて、犠牲者を追悼する式典や核兵器の廃絶などを訴えるパレードに、漁船の乗組員の遺族代表として出席したのです。日本の遺族がマーシャル諸島を訪れたのは初めてでした。
下本さんは、高知の漁船の乗組員が受けた被害やその後の影響について、大統領主催の昼食会などでスピーチをしました。
「(核実験が)その人たちの人生を変えてしまった。このようなことは二度と起きてはならない」
また、現地の遺族らと話をする中で、マーシャル諸島にも被ばくした人への差別があったこと、被ばくを隠していた人がいたことを知りました。
「自分の国で核実験されたことを、マーシャルの人も子どもたちにあまり話していない。それだけやはり放射能、被ばくということは話せないと皆さん思うんでしょうね。父親とすごく共通したところがあるのかなと思いました」
ビキニ事件を風化させたくないという下本さん。日本では若い世代に向けて、歴史を伝える活動も進めています。
この日は高知大学の講師として、学生たちに話をしていました。
「私が体験し、勉強することで父親の人生もある意味、報われるのではないかな。黙っていたらダメだなと思います。言わないと、なかったことにされてしまうので。放射能の危険性を認め、核兵器をなくすことが大切で、もうこれ以上被ばく者を出させない運動に、これから自分の気持ちを向けたいなと思っています」
(6月21日「おはよう日本」で放送)