「うっかり赤信号を見落としそうになった」
「突然、車が飛び出してきてヒヤッとした」
車を運転していて、こんな経験をされたことはないでしょうか。
もしかしたら、原因は不注意ではなく、目の病気で視野が狭くなっているためなのかもしれません。
「視力には自信がある」
そう思って、ハンドルを握るあなたに知ってもらいたい「見え方」についての話です。
(科学文化部記者 安土直輝)
自覚乏しい“視野の異常”
「この交差点の赤信号は見えますか?」
運転外来の様子
車の運転席からの視界を映したドライビングシミュレーターを前にする男性。
隣の医師が、男性の左右の目をかわるがわる隠して、それぞれの目の見え方を確認していきます。
一見、自動車教習所のようなこの部屋ですが、実は都内にある眼科病院の「運転外来」です。
目や脳の病気で視野に異常がある患者が、医師から運転ができるかどうか、安全運転のためどう気を付けるべきかアドバイスを受けることができます。
視野の異常は、緑内障や糖尿病網膜症といった目の病気のほか、脳の病気などで起きることがあります。
見える範囲が狭くなったり、欠けたりして、見えるはずのものが見えなくなってしまうのです。
この日、病院を訪れた70代の男性は、数年前から車を壁などにこすることが増えたことから、地元の眼科を受診。
視野に異常をきたす代表的な病気のひとつ「緑内障」と診断され、この運転外来を紹介されました。
専用の医療機器で現在見えている範囲を計測した結果、視野の上半分が正常に見えていないことがわかりました。
次に、実際に運転にどの程度影響が出るのか、ドライビングシミュレーターを使って調べます。
視線を記録できる特殊な装置を使いながら、シミュレーター上のコースを5分間走り、信号機や一時停止、左右からの飛び出しに対応できるかどうか調べます。
走行後は、リプレイ映像を見返し、患者がどこを見ていたのか確認しながら、視野の異常が運転に影響しているかを調べています。
医師「赤い点を見ていると、信号は見えますか?(視点1)」
患者「見えないですね」
医師「この黄色い車を見ていると、どうですか?(視点2)」
患者「黄色い車を見ると、かろうじて見えます」
男性は、視野が正常であれば見えるはずの信号が、視線の向け方によって見えなかったり、見えづらかったりしていました。
医師は、まだ運転を続けることは可能だと判断したものの、なるべく知らない道は通らず、信号を通過する直前に青かどうかもう一度確認して運転するようアドバイスしていました。
「運転外来」を立ち上げた國松志保医師によると、この外来を訪れる患者の多くが、自分では視野の異常に気付かないまま運転を続けているといいます。
西葛西・井上眼科病院 國松志保副院長
西葛西・井上眼科病院 國松志保副院長
「視野の異常はとにかく自覚症状がないことが特徴です。実際に事故を起こしたり、同乗者に信号無視を指摘されたりしても、うっかりしていたとか、ぼーっとしていて信号を見落としたなどと思い込み、発見が遅れてしまいがちです」
なぜ自覚乏しい?
自覚症状がないとは、どういうことなのでしょうか。
「視野の異常」と聞くと、見えなくなった部分が黒く抜け落ちるような状態を想像するかもしれませんが、実際にはそうではありません。
視野の異常の進行のイメージ ※國松医師監修
上の画像は、「緑内障」で視野に異常が出た場合、どのように症状が進行するかを再現したものです。
症状の初期では、はっきり見えるはずの青色の道路標識が、薄くぼんやりと空に溶け込んで見えています。
さらに症状が進むと、はっきり見えるのは中心部だけになり、周辺部は広い範囲でぼやけています。
ただ、本人は「なんとなく見えている」と感じるため、異常に気付きにくいといいます。
國松医師
「脳には、視野の一部が欠けていても、正常に見えている部分の情報をもとに見えているように補う機能があります。このため、見えているつもりになっていても、視野の異常がある部分に車や信号機が来ると、道路や空の景色などと混ざってよく認識できず、見落としてしまったり、急に飛び出してきたりするように見えるのです」
こうした視野に異常が起きる病気の患者は、緑内障だけでも40歳以上の日本人では20人に1人いると推計されています。
見えにくさを自覚する頃には視神経の障害はかなり進んでいて、放置すれば失明に至るといいます。
國松医師
「緑内障の末期には、視野が極端に狭くなり、まともに歩けないほどになりますが、そこまでには20年から30年かかり、非常にゆっくり進行していきます。初期から中期、後期と進行しても、違和感なく見えているように感じているため、診察した結果を伝えると、『まさか視野障害があるとは思ってもみなかった』と話す患者がとても多いのです」
「視力」と「視野」どう違う?
さて、ここまで読んでくださった方の中には、ふだん検査する「視力」と「視野」はどう違うのか、視力検査で視野の異常は見つからないのか、と疑問に思う方も多いと思います。
視力とは、ものを細かく見分ける能力で、離れたところにある2つの点を1つではなく2つと区別できる能力を指します。
よく行われるのは、アルファベットの“C”のような「ランドルト環」と呼ばれる輪の切れ目を見分ける検査での測定です。
視力検査を受ける患者
一方で「視野」は、視線を1点に固定したときに、上下方向と水平方向に見える範囲のことを指します。
視野の中心には形や色を見分けるタイプの視細胞が密集し、細かくものを識別することができますが、視野の周辺の部分はこのタイプの視細胞が少ないため、ぼんやりとしか目に映りません。
「ランドルト環」を使った検査では、視野の中心さえ見えていれば「視力」は良好となります。
緑内障などになっても、症状が進行して視野の中心に異常が起きるまでは長い時間がかかるため、視力検査ではわからないのです。
運転免許の取得や更新の際には、「視力検査」を行いますが、視力が一定以上あれば「視野検査」は行いません。
このため「視野に異常があっても、気付かずに運転を続けているドライバーも多いはずだ」と國松さんたち眼科医は指摘しています。
職業ドライバーの調査 約1割が視野の病気やその疑い
こうした指摘を踏まえ、バスやトラックなど、運送業界で働くドライバーの病気や体調不良による事故の対策を進めていた国土交通省が調査に乗り出しました。
全国のトラックやバス、タクシーなどの事業者に協力を呼びかけ、日常的に仕事でハンドルを握るドライバーに対し2021年度から3年間にわたり眼科検診を受けてもらい、その結果を分析しました。
2376人が視力検査や眼圧検査、それに眼底検査を受けた結果、全体の11.2%、267人で緑内障や糖尿病網膜症など、視野に異常が出る病気やその疑いがあったことがわかりました。
調査には、國松さんたち眼科医も専門家として、分析に関わりました。
運転できないほど症状が進んだ人は見つかりませんでしたが、放置すると失明につながるおそれがあるなど、早期の治療が必要だった人が複数、見つかったということです。
さらに、眼科検診で視野の異常を指摘されたあと、精密検査を受けたドライバーの割合はおよそ4割にとどまりました。
精密検査を受けなかった理由について、業務が多忙なことや自覚症状がないことを挙げるドライバーが多かったということです。
こうした声を受けて、國松さんたち眼科医は運送事業者が集まる各地の集会に出向き、早期の受診の必要性について訴えています。
國松医師
「視野の異常は視力検査だけでは見つからないので、現役の職業ドライバーの方でも少なくとも1割で視野の異常をきたす病気やその疑いが見つかったことは想定通りでした。むしろ、運転に影響がない初期の段階で病気が見つかり、“運転寿命”を延ばすことにつながった人もいて、早期の受診はドライバーの皆さんにとても意義が大きいと考えています」
“通院しなければ職を失っていたかも”
実際に、視野の異常が早期に発見できたため、仕事を続けられているという人もいます。
32歳のタクシー運転手の男性は、コンタクトレンズを作るための検査で異常を指摘されたことをきっかけに、國松さんの眼科病院を受診したところ、緑内障と診断されました。
視野検査の様子
視野の状態を詳しく検査すると、左右の目でわずかに視野が欠けていたことが分かりました。
欠けた部分の視野は両方の目で補い合っているため、両目で見た場合には異常がなく、今のところ運転に支障は出ていません。
しかし、今後ゆっくりと症状が進行し、いずれは視野に影響が出てくる可能性があるため、検査や治療を続けるよう國松さんから指示を受けました。
ドライビングシミュレーターを操作する男性
男性は治療によって、緑内障の症状の1つである「眼圧」を下げられたため、進行を抑えられているといいます。
加えて、定期的に視野の検査を受けることで、自分の視野の状態を正確に知ることができ、安心して運転できているということです。
タクシー運転手
「見え方に関しては、いまも違和感がありませんが、病院を受診したことで視野の異常に気付くことができました。もし通院していなかったら職を失っていたかもしれないので、受診して本当によかったです」
眼科検診 新たに始めた運送会社
視野の病気の有無を定期的に調べ始めた運送会社もあります。
松江市のこの会社では、去年から会社が費用を負担して運転手に眼科検診を受けてもらうことにしました。
眼科検診を受ける運転手
会社の近くにある眼科クリニックと連携し、毎年の健康診断の一環として、眼底検査や眼圧検査など視野の異常につながる病気を発見するための検査や、医師の問診を行います。
去年は会社の運転手47人全員が受診。
運転に支障がある人はいませんでした。
運転手
「若い頃と比べると、夜間の運転では自転車や歩行者が見えづらくなっている自覚があり、もしかしたら視野も狭くなっているかもしれません。その異常の有無を調べられる機会があるのはとても安心で、ありがたいです」
富士見物流 田部紀幸所長
富士見物流 田部紀幸所長
「運送会社にとって、事故をゼロにするためには従業員の健康を守ることがなにより大事で、その手段の1つとして、眼科検診を始めました。検査で異常がなければ本人も安心だろうし、会社も安心して仕事を任せられます」
目の健康への意識 どう広げるかが課題に
國松さんは、仕事で運転する人たちの視野を守るためには、松江市の会社のように、従業員が負担を抑えられるような形で眼科検診を受けられる仕組みが必要だと考えています。
しかし、各地の運送業界の団体を取材したところ、眼科検診の費用を助成する支援を開始したものの「ほぼ使われていない」と答えた団体が複数あったほか、会社側もドライバーも、脳や心臓、睡眠時無呼吸症候群などとの病気と比べて、視野の異常に関しては対策の必要性を強く認識していないと話す団体もありました。
西葛西・井上眼科病院 國松志保副院長
「職業ドライバーの方々は人手不足で時間を取れないことも多いと思うので、例えば、眼底検査を健康診断の項目として定めるなど、眼科の受診につながりやすいシステムを社会が作っていくことも大事だと思います」
「視力には自信がある」と思っていても、視野には知らないうちに異常が起きているかもしれません。
国松さんは「安全運転を続けるためにも、定期的に眼科検診を受けることで視野に影響が出る病気がないか、見え方は正常なのかを調べてほしい」と呼びかけています。
(2024年7月14日「おはよう日本」で放送)
科学文化部 記者
安土直輝
2011年入局
医療取材担当
看護師と保健師の資格をいかして病棟や保健所の密着取材も