「お父さんはおおらかで優しくて、たまに家に帰ってきたら一緒に遊んでくれて、あまり食べられなかったお菓子もたくさん買ってくれました」
船員だった父は1971年1月6日、突然、消息を絶ちました。
それから53年。
残された家族は再会する日が来ることを願っています。
(ソウル支局 長野圭吾 / カン・ナヨン)
すぐに帰ってくると思っていた父親
ソウル市内に暮らすパク・ヨノクさん(朴蓮玉)(68)。
沿岸漁業の船員だった父・ドンスンさん(朴東順)を北朝鮮に拉致された被害者です。
パク・ヨノク(朴蓮玉)さん
ヨノクさん
「父は家に帰ってきたら私たちと一緒に遊んでくれて、普段あまり食べられないお菓子をいっぱい買ってくれました。
サツマイモ畑で一緒に水をあげたり、海辺で一緒に貝を採ったり、船に乗って近くの島に行ったこともありました」
ヨノクさんの父親で拉致されたパク・ドンスン(朴東順)さん
1971年1月の新聞です。
事件は、海上の境界線がある西部ペンニョン島付近で発生し、「北朝鮮の艦艇が韓国漁船2隻に無差別射撃を行った」とだけ、短く伝えられています。
当時14歳だったヨノクさんには、突然の父親との別れが理解できなかったと言います。
ヨノクさん
「その時はまだ子どもだったので、どんなことが起こったか正確に把握していなかったと思います。
事故に遭ったのは事実だけどもうすぐ会える、亡くなったわけではない、と。それがこんなに長く会えなくなるとは夢にも思わなかったんです」
被害者なのに監視の対象に?
一家の大黒柱を突然失い、生活にも困るようになったヨノクさんの家族。その状況を助けるどころか、さらに追い詰めたのが当時の政府の対応だったといいます。
当時の韓国は、パク・チョンヒ(朴正煕)大統領が率いる軍事政権でした。
共産主義の拡大を阻止するための「反共法」という法律があり、どんな理由であれ北朝鮮と関わること自体が捜査の対象となるような時代だったのです。
このため拉致された被害者やその家族に対しても、北朝鮮と通じたスパイだと疑いをかけて監視の対象としていました。
ヨノクさんの自宅にも私服の警察官がやってくるようになりました。
ヨノクさん
「警察官は幼い妹や弟にまでお金を握らせて、『もしお父さんが夜中に帰ってきたらおじさんに必ず教えてほしい』と言ったそうです。本当に悔しかったです。
私たち残された家族はスパイだと後ろ指を指されながら息をひそめるように生きていたんです」
韓国統一省は、朝鮮戦争の休戦後、本人の意思に反して韓国から北朝鮮に移動させられた人を「戦後拉致被害者」と定義しています。
1950年代から70年代を中心にその数は3835人に上り、ほとんどが漁業者や船員です。
当局の取り調べ後、数か月で韓国に送還された人がほとんどですが、516人はいまも戻れないままです。
“太陽政策”に問題解決を期待も…
1998年、南北融和を目指すキム・デジュン(金大中)大統領が誕生すると、拉致問題の解決への期待が高まりました。
北朝鮮 キム・ジョンイル(金正日)総書記と握手するキム・デジュン(金大中)大統領(2000年)
2000年には「拉致被害者家族会」が結成。ヨノクさんも加わり、被害者の送還を求める活動を始めました。
しかし韓国政府は南北間の経済協力や離散家族の再会などを優先して進め、北朝鮮に対して拉致問題の解決を強く求めることはありませんでした。
ヨノクさん
「拉致問題に対しては右派政権も左派政権も同じです。
『拉致は国民にかかわる問題だ、自国民の保護のために必ず連れて帰る必要がある』という意志が全く見えなかったんです。ただの『厄介な問題』という扱いでした」
一方、同じ時期に日本では大きな動きがありました。
2002年9月、当時の小泉総理大臣の北朝鮮訪問で日朝首脳会談が実現。被害者5人が帰国を果たしたのです。
日朝首脳会談(2002年)
2003年、横田めぐみさんの父・滋さんや母・早紀江さんと並ぶヨノクさんの映像が残されています。
韓国の被害者家族は、日本の被害者家族との情報交換や交流を重ねていました。そのたびに、日本と韓国での拉致問題への関心の違いにショックを受けたと言います。
日韓の被害者家族の交流会に参加したヨノクさん(2003年)
ヨノクさん
「当時日本に行くと政治家がブルーリボンを身につけていました。本当に羨ましかったです。
あんなに国民を助けるために努力しているんだ。なぜ私は韓国に住んでいるのだろうと思いました」
初めてもたらされた父の“消息”
2005年。父の消息に近づいた瞬間がありました。
北朝鮮から持ち出されたとされる拉致被害者の集合写真に、父親のドンスンさんと見られる人物が写っていたのです。
赤線で囲まれているのがドンスンさんと見られる人物
写真には1974年と記されていました。
ドンスンさんが拉致されてから3年目にあたります。
ヨノクさん
「母はこの人がお父さんだと言いました。だいぶ痩せたと言ってすぐ泣き出したんです。あんなに大柄な人がこんなに痩せたのには理由があるんだろうと」
父の生存に希望を持ったヨノクさんは、すぐに北朝鮮でも受信できるとされるラジオ放送で呼びかけました。
北のどこかにいるはずのお父さんへ
長女のヨノクです
お父さんと別れた幼い娘がもうおばあさんになろうとしています
絶対あきらめずに私たちと会うその日までお体を大事にしてください
しかし北朝鮮から父の安否に関わる情報が示されることなく、53年が過ぎました。
「わたしを忘れないで」
最近、韓国のニュースで政治家や官僚が襟元にバッジを着けているのを見かけます。
「ワスレナグサ」のバッジです。
花言葉は「わたしを忘れないで」。
ユン・ソンニョル(尹錫悦)政権は、北朝鮮に拉致された被害者の存在を忘れることなく、解決への強い意志を示そうと、ことし3月から着用するようになりました。
去年9月には、韓国で初めて拉致問題の専属チームを発足させました。
韓国 ユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領
ユン大統領
「数十年の歳月が流れ高齢になった被害者の方々、そして家族の痛みがさらに深まっています。政府は全員が家族の元に戻ってこられるよう最善を尽くします」
そして、ことし5月。
ヨノクさんたち被害者家族にとって、大きな動きがありました。
北朝鮮の人権問題を担当するアメリカのジュリー・ターナー特使が韓国の拉致現場を初めて訪れたのです。
拉致現場を視察する アメリカ ジュリー・ターナー特使(右 2024年5月)
ユン政権が韓国の拉致問題を国際社会に訴えてきた結果でした。
現場では、海岸で遊んでいた当時17歳の息子を拉致されたという母親が訴えました。
ターナー特使に訴えるキム・スンネさん(91)
キム・スンネさん
「息子は北朝鮮で暮らしています。どうか生きているうちに息子に会わせてください。
会うだけ、見るだけでもいいです。息子の顔を一度だけ見て死にたいんです」
ヨノクさんの父ドンスンさんは、生きていれば94歳。
残された時間は長くないと感じています。
ヨノクさん
「望むことはいつも同じです。拉致問題について多くの人が知って、共感してくれて、閉ざされていた扉が開かれて家族に再会する日が早く来ることです。
私の住んでいるこの国から『拉致被害者』という言葉が消えるその日が1日も早く来ることを願っています」
韓国 拉致問題解決へのアプローチは
ユン政権が北朝鮮への圧力を強める一方で、対話の窓口は閉ざされています。
こうした状況でどう解決へとつなげていくのか。
国際法の専門家で北朝鮮の人権問題を扱う政府の委員は国際司法裁判所などへのアプローチで解決を目指す道を模索すべきだと指摘します。
ハンドン(韓東)大学 ウォン・ジェチョン(元在天)教授
ウォン教授
「重要なことは“今できること”をしていくことです。
北朝鮮との対話によって問題提起していくことももちろん重要ですが、利用できる国際刑事制度を利用することです。
拉致は犯罪行為で、国連には強制失踪条約というものもあります。北朝鮮は責任を負わなければなりません」
さらにウォン教授は、日米韓の強い連携が後押しになるといいます。
ウォン教授
「ユン大統領にとっては去年8月のキャンプ・デービッドでの日米韓首脳会談が非常に重要でした。
韓国と日本、アメリカで一緒にこの問題を積極的に解決しようと結束しました。日本と韓国が個別にアプローチするには限界があります。
人権犯罪への責任を追及する調査を、各国が協力・分担して行っていくことが重要です」
取材を終えて
私はソウルの前任地だった新潟局で2020年、横田めぐみさんの父・滋さんの番組を制作したことがあります。
その時、事件発生から北朝鮮の拉致だと判明するまでに20年近い時間を要したことに、多くの関係者が強い悔いをもっていることを知りました。
韓国の拉致問題にも、同様の長い空白の時間がありました。
この問題について町の人たちに聞いても「考えたことがありません」、「全然知りません」という声が多く、いまも人々の関心が高まっているとは言えません。
被害者の家族は、南北間に数々の問題が横たわる中で、拉致問題の解決が取り組まれる順番を待ち続けています。
高齢となった拉致被害者と家族には残された時間は長くありません。
ワスレナグサの花言葉「わたしを忘れないで」という思いは、被害者と被害者家族の切迫した思いを伝えています。
(6月13日「国際報道2024」で放送)
ソウル支局 チーフ・プロデューサー
長野 圭吾
1998年入局 21年7月にソウル支局に赴任
韓国の社会問題や映画などの文化を主に取材
ソウル支局リサーチャー
カン・ナヨン
2022年からNHKソウル支局
韓国の外務省・統一省を担当 南北関係などを取材