懐メロ 吉永小百合 Yoshinaga Sayuri
https://www.youtube.com/watch?v=__n6QYYWiZE
いつでも夢を
/1962年
橋幸夫+吉永小百合
https://www.youtube.com/watch?v=YlvwnjqCNvU
1)
星より ひそかに 雨より やさしく
호시요리 히소카니 아메요리 야사시쿠
별보다 은근히, 비보다 부드럽게
あの娘は いつも 歌ってる
아노코와 이츠모 우타ㅊ테루
그녀는 언제나 노래하고 있어요
声が きこえる 淋しい 胸に
코에가 키코에루 사비시이 무네니
노래가 들려와요 외로운 내 가슴에
涙に 濡れた この胸に
나미다니 누레타 코노무네니
눈물에 젖은 이 가슴에
言っているいる お待ちなさいな
이ㅊ테이루이루 오모치나사이나
말 하고 있어요 <가지세요!>
いつでも 夢を いつでも 夢を
이츠데모 유메오 이츠데모 유메오
언제나 꿈을, 언제나 꿈을 !
星より ひそかに 雨より やさしく
호시요리 히소카니 아메요리 야사시쿠
별보다 은근히, 비보다 부드럽게
あの娘は いつも 歌ってる
아노코와 이츠모 우타ㅊ테루
그녀는 언제나 노래하고 있어요
2)
歩いて 歩いて 悲しい 夜更けも
아루이테 아루이테 카나시이 요후케모
걷고 걸어서 슬픈 깊은 밤에도
あの娘の声は 流れくる
아노코노코에와 나가레쿠루
그녀의 소리는 흘러나와요
すすり泣いてる この顔 上げて
스스리나이테루 코노카오 아게테
흐느껴 울고 있는 이 얼굴 들고서
きいてる 歌の 懐かしさ
키이테루 우타노나츠카시사
듣고 있는 노래의 정겨움!
言っているいる お待ちなさいな
잋테이루이루 오모치나사이나
말하고 있어요 <가지세요!>
いつでも 夢を いつでも 夢を
이츠데모 유메오 이츠데모 유메오
언제나 꿈을, 언제나 꿈을 !
歩いて 歩いて 悲しい 夜更けも
아루이테 아루이테 카나시이 요후케모
걷고 걸어서 슬픈 깊은 밤에도
あの娘の声は 流れくる
아노코노코에와 나가레쿠루
그녀의 소리는 흘러나와요
(후렴)
言っているいる お待ちなさいな
이ㅊ테이루이루 오모치나사이나
말하고 있어요 <가지세요!>
いつでも 夢を いつでも 夢を
이츠데모 유메오 이츠데모 유메오
언제나 꿈을, 언제나 꿈을 !
はかない 涙を うれしい 涙に
하카나이 나미다오 우레시이 나미다니
덧없는 눈물을 기쁜 눈물로
あの娘は かえる 歌声で
아노코와 카에루 우타고에데
그녀는 바꾸어요 노래소리로
あの娘は かえる 歌声で
아노코와 카에루 우타고에데
그녀는 바꾸어요 노래소리로
作詞 : 佐伯 孝夫 (사에키 타카오)
作曲 : 吉田 正 (요시다 타다시)
原唱 : 橋 幸夫 (하시 유키오) + 吉永 小百合 (요시나가 사유리) <1962年 発表>
吉永小百合
생애
도쿄도 시부야구 출생. 아버지 요시나가 요시유키(가고시마현 출신)는 영화 팬 잡지 <시네마 로맨스>를 간행했지만 사업에 실패했었다. 어머니의 카즈에는 야마노테의 상류가정에서 태어났으며 가인이었다.
사유리의 첫 데뷔는 라디오 드라마 아카도 스즈노스케로 1957년 방송되었고 1960년대 부터 일본의 연예계 스타가 되었다.
엄친딸로도 유명한데, 1965년 와세다대학 문학예술과학 제2대학에 서양사학 전공으로 입학해서 1969년에 졸업하였다. 바쁜 스케줄 하에서도 차석 졸업했다고.
1973년, 사유리보다 15세 연상인 후지TV의 디렉터 오카다 타로와 결혼했다. 결혼 후에도 결혼전 성인 요시나가를 그대로 연예계에서 사용했다. 당시 오카다는 유부남이었고 사유리와의 불륜 결과, 전부인과 이혼 후 사유리와의 결혼에 골인했다. 슬하에 자녀는 없지만 부부 관계는 좋은 편이라고 한다.
1980년대 텔레비전 드라마에 히로시마 원폭 피해자인 게이샤 유메치요로 출연한 후부터 반핵운동에 참여하기 시작했다. 대표적 활동은 20년 이상 원폭에 관한 시를 읽는 것과, 히로시마 평화기념관에서의 개런티 없는 음성 안내 녹음.
일본프로야구 사이타마 세이부 라이온즈의 열렬한 팬으로도 유명하다. 원래는 요미우리 자이언츠의 팬이었지만 에가와 스구루의 입단을 둘러싼 일명 '공백의 1일(空白の一日)' 사건을 계기로 탈덕했고, 요미우리에서 지명 받지 못하고 세이부에 입단한 기요하라 카즈히로 때문에 세이부를 응원하게 되었다고 한다. 기요하라가 FA로 요미우리에 입단하자 '요미우리와의 일본시리즈에서 흘린 눈물은 무엇이었냐' 며 일갈한 건 유명한 사건.
松原智恵子さん、吉永小百合さん、和泉雅子さんの お三方は日活三人娘として人気でした 。
日活三人娘の人気 吉永小百合
吉永 小百合(よしなが さゆり、(1945年〈昭和20年〉3月13日 - )は、日本の俳優・歌手・ナレーター・司会者・タレント。本名:岡田 小百合(おかだ さゆり)。旧姓:吉永。
1960年代を代表する人気映画女優。10年間で、70本以上の映画に出演。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。ファンは「サユリスト」と呼称される。
桃園書房 - 『小説倶楽部』1963年5月特大号。発行所:桃園書房。
来歴
1957年(昭和32年)、渋谷区立西原小学校6年生の時、ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビュー。同年4月、渋谷区立代々木中学校に入学。同年10月、ラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビュー。1959年(昭和34年)に松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。
1960年(昭和35年)3月、渋谷区立代々木中学校卒業。同年4月、東京都立駒場高等学校全日制普通科入学。同時に日活撮影所に入社。駒場高校では一週間のみ卓球部に所属し、素振りしかやらせてもらえない環境に耐えられず放送研究会(偶然にも副部長が一学年先輩の加藤登紀子だった)に転部[3]。1961年(昭和36年)1月、精華学園女子高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)に転入学。
1962年(昭和37年)4月8日、『キューポラのある街』が公開。第13回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞する。同年4月20日、主演映画『赤い蕾と白い花』の主題歌「寒い朝」をシングルとしてビクターからリリースし、レコードデビュー。50万枚以上[4]のヒットを記録した。同年9月に発表した橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」も300万枚の大ヒットとなった。
「日活の看板女優」として、浜田光夫と1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こす。男性アクション映画路線を主軸としていた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。また、ブロマイドがあまりの売れ行きに店頭から姿を消すなどの現象も起き、松原智恵子と和泉雅子の3人で「日活三人娘」と呼ばれた。また、浅丘ルリ子、芦川いづみ、中原早苗らと合わせて「日活パールライン」とも呼ばれた。
俳優業多忙のため精華学園女子高校は中退していたが、1965年(昭和40年)には、大学入学資格検定に全科目合格は出来ていなかったものの早稲田大学より高卒同等以上の学力があると認められ、早稲田大学第二文学部西洋史学専修に入学。
『映画情報』1966年9月号の表紙
国際情報社 - 『映画情報』1966年9月号。発行所:国際情報社
1967年(昭和42年)10月、株式会社吉永事務所を設立。
早稻田文學部西洋史學專業第二名的成績畢業
1969年(昭和44年)、早稲田大学を次席で卒業。同年、年2本以上の日活作品に出演する代わりに他社の作品や自主制作映画は日活側の諒解を得れば自由に出演が出来る条件で日活と契約更新する[5]。しかし当時はヤクザ映画が全盛で、吉永向けの純愛・青春系の作品を制作するのは既に困難であった[6]。1969年に吉永事務所により『あゝ野麦峠』の映画化が計画され、内田吐夢監督、吉永主演(政井みね役)自主制作するも実現しなかった[7]。野麦峠に何回か訪れていた吉永は現地に「政井みねの碑」を寄贈している[7]。なお、『あゝ野麦峠』は10年後の1979年)に山本薩夫監督、大竹しのぶ主演で映画化された[7]。
1973年(昭和48年)8月3日、当時フジテレビのディレクターだった岡田太郎と結婚。挙式は岡田の会社の同僚であった千秋与四夫の高輪の自宅で行われた。出席者は新郎新婦の他、立会人兼仲人として挙式の場所を提供した千秋とその妻で歌手の畠山みどり、吉永側の介添人として女優の奈良岡朋子の5人のみ。同日午後から京王プラザホテルで披露宴を執り行われた。挙式の際、吉永の両親は欠席し、確執が噂された。
1988年(昭和63年)映画『つる -鶴-』に主演し、映画出演は通算100作品となる。
1990年代以降の女優活動は映画のみであるが、CM出演・ラジオパーソナリティ、原爆詩の朗読などの平和への訴えや反原発について意見を述べるなどの活動を続けている。
《映画女优》(1987)
国際情報社 - 『映画情報』1965年2月号、国際情報社
「潮騒」
収録された5作品は、吉永が15歳から19歳までの出演作で、女優として輝きを増していく彼女の魅力はもちろんだが、目を見張るのが浜田の達者な演技。吉永が演じるのは、自分の気持ちを相手にぶつけていくヒロインが多いが、その想いを受け止める浜田のぶれない在り様が、どの作品でも印象的。65周年企画に寄せたコメントで、吉永は《不器用な私の直球を巧みなインサイドワークで受け止めてくれた浜やん》と浜田のことを言っているが、浜田光夫という存在がいたからこそ、吉永も感情のままに生きる女性を演じられたことがよくわかる。