エスカレーターを使う時、思わず空いている方を歩いたり走ったりしてしまうことはありませんか?
「乗りたい電車がホームに来ていて」「約束の時間ギリギリで」
都内で働く私(記者)も、過去につい空いている右側を歩いてしまうことがありました。
でも、エスカレーターを使う人の中には「右側に立たないと危ない」という人もいるんです。
(おはよう日本記者 野中悠平 / 名古屋放送局ディレクター 杉浦雄樹)
左半身がまひ「自由がきく右側に立ちたい…」
都内でも地下深くを走っている都営地下鉄大江戸線。
この路線を使っている川瀬正広さんです。
左半身がまひ 川瀬正広さん
11年前に脳出血を発症し、一時は全身がほとんど動かない状態に。リハビリに取り組み外を出歩けるまでになりましたが、左半身にはまひが残りました。
川瀬さんが困っているのが、エスカレーターを使う際の「左側立ち」「右側空け」という首都圏の慣習です。
本当なら右側から、自由がきく右手で手すりをつかんで乗り込みたいところですが、混雑時には難しくやむを得ず左側から乗ることもあるといいます。
どういうふうに乗るのか、実際に見せてもらうと…。
体から遠い右側に手が伸びる
乗り込む時によろめいたあと、とっさに右側の手すりをつかもうとしてさらにバランスを崩してしまいました。
左半身がまひ 川瀬正広さん
「左側から乗ると、どうしても右手がどちらの手すりからも遠くなる。体にまひが出てからは動いている床の上でバランスを取ることだけでなく、乗り降りのタイミングもすごく難しくなりました。“乗る時にミスをしたらどうしよう” “降りる時に転んでしまうんじゃないか”と。エスカレーターの左側に乗る時には常に緊張感があります」
右側に立つと後ろからの“プレッシャー”が
川瀬さんはなぜ危険を冒してまで左側に立とうとするのでしょうか。
背景には過去の苦い経験があるといいます。
左半身がまひ 川瀬正広さん
「右側に立っていると、後ろから急いでくる人に“どいてくれ”と言われることが少なくないんです。真後ろまで来て舌打ちをされることもあって、やっぱりプレッシャーを感じます。中には右手でつかんでいる手すりと体の間をこじ開け強引に抜かしていく人もいました。なんとか踏ん張って転ばずに済みましたが、転げ落ちてけがをする恐怖が頭をよぎりました。そんな経験もあって、エスカレーターの右側に立ち続けるというのは自分の中で抵抗があるんです」
歩行者による事故頻発も変え難い“慣習”
エスカレーターでの事故のうち「歩く・走る人」によるケースは決して少なくありません。
業界団体の調査では、歩いてつまずくなどの「乗り方不良」が805件(51.9%)と最も多く、全体のおよそ半数を占めています。
鉄道事業者も事態の改善に取り組んできました。
都営地下鉄を運営する東京都交通局では、エスカレーターに立ち止まって安全に乗るよう、駅構内でのポスター掲示や繰り返し流れる構内放送などでの周知・啓発活動を進めています。こうした取り組みは全国のほかの鉄道事業者とも協力して行っています。
ただ長年の慣習を変えるのは一筋縄ではいかないといいます。
東京都交通局電車部 梶田武憲助役
「急いでいる人などはエスカレーターを歩いて利用するケースが多いと思います。ただ駅にはさまざまな事情を抱えたお客様がいるので、すべての人に対してエスカレーターでの歩行を禁止するという文言までは出しにくい。利用する際のマナーという形で呼びかけをしていますが、対応に苦慮しているところではあります」
実は歩かない方が早くつく?
では、なぜエスカレーターで歩いてしまうのでしょうか。
利用する人に聞いてみました。
50代男性
「本当は立ち止まらないといけないんですけど、急いでいる時はつい歩いてしまいますよね。東京とかではそれが当たり前のような感じになっているので」
「両側立ち」と「片側を歩行」する場合を比較したシミュレーションでは興味深い結果が出ています。
長さ20メートルのエスカレーターを450人が利用すると想定。一方は「全員が1段間隔で両側に立つ」。もう一方は「40%の人が2段間隔で片側を歩行」という条件でした。
全員が「両側に立った」場合、最後の人がエスカレーターを降りるまでにかかった時間は7分9秒。そして「片側を歩行」する人がいた場合は8分21秒でした。「両側に立った」ケースの方が1分12秒速く運び終えることができました。
「片側立ち」は急いでいる人は早く行けるかもしれませんが、立ち止まる人にとっては行列が長引くことにつながり、よけいな時間がかかることになるというのです。
ただ、空いている方には立ちにくいという声もあります。
業界団体が行ったアンケートでは「片方だけ長い列でも反対側に立ちにくい」と答えた人が79.9%にのぼりました。
街頭で話を聞いてみると、こんなことを話す人もいました。
40代女性
「後ろからせかされて、嫌な気持ちになるくらいなら左に乗ってしまう」
30代女性
「押されたら力で負けてしまうので、右には怖くて立てない」
エスカレーターの安全利用について研究している専門家は「エスカレーターのどちらか一方にしか立てない人がいることがまだまだ浸透しきっていない」としたうえで、次のように指摘しています。
エスカレーターの安全利用を研究 筑波大学医学医療系 水野智美准教授
「エスカレーターは時間短縮のためにつくられた乗り物ではなく、階段を歩くことに支障が生じる方などが楽に移動するためにつくられたものです。列を分けるという文化は以前からありましたが、今はみんなが安全に乗れるということを考えないといけません」
“右左を問わず立ち止まって”を条例で制定 浸透の秘けつは?
名古屋市営地下鉄伏見駅
どうすればエスカレーターの両側に人が立ち止まるようになるのでしょうか。
地下鉄を運営する名古屋市では去年10月、「右側か左側かを問わず、エスカレーターの踏段上に立ち止まって利用することを義務付ける条例」を施行しました。
1日およそ9万人が利用する名古屋市営地下鉄の伏見駅では、かつて乗り換えに使われるエスカレーターで多くの人が右側を歩いたり走ったりしていました。
ところが、条例施行から1年でそうした人が9割も減ったということです。
現場で取材を進めていると、注意のアナウンスが“あるタイミング”でだけ流されていることに気が付きました。
エスカレーターで歩いてしまうと…
構内アナウンス
「条例違反です。エスカレーターは歩かないでください」
立ち止まるよう呼びかけるのは、歩いている人がいる時だけ。
実はこの場所では、アナウンスを流すタイミングを「AI」が決めているんです。エスカレーターの近くに取り付けられたカメラと三次元情報が取れるセンサーからの情報をAIがリアルタイムで計測し、適切なタイミングで利用者に呼びかけをしています。
AIシステムが歩行者を検知
さらに呼びかけ方にも工夫をこらしているといいます。
AIシステムを開発した企業 眞野千輝さん
「注意された人の居心地が悪くなるような呼びかけ方にしています。アナウンスがあると実際立ち止まってくれる人がいるのを見たりして、役に立っているのを感じます」
取材中 左側に行列が…
左側に乗ろうとする人で行列ができると…。
AIによるアナウンス
「2列で立ち止まってご利用ください」
改善された時には、お礼のアナウンスも忘れません。
AIによるアナウンス
「ご協力ありがとうございます」
このシステム、名古屋市と民間企業が協力して開発・実験を進めていて、市は昨年度と今年度でおよそ450万円を負担しています。
今後、カメラの性能を必要最小限にするといったコストダウンなどの検証を進め、市はほかのエスカレーターにも導入していきたいとしています。
名古屋市消費生活課 渡邉弥里課長補佐
「手をつないだままお子さんとお母さんが並んでエスカレーターに乗っている光景も見たことがありまして、これは条例をつくって非常によかったなと思っています。習慣を変えるのは条例ができただけでは難しいし、簡単に変わるものではないと思いますので、これからも粘り強く働きかけをしてく必要があると思います」
取材後記 “右側に立つには理由がある”
生活に根付いているエスカレーター。取材中には「左に立てないならエレベーターを使えばいい」という声を聞くこともありました。
ですが仮にエレベーターがあったとしても、エスカレーターに安全に乗るため右に立つことを否定する理由にはなりません。
左半身まひの川瀬さんは「右側に立っている人を見かけたら、何か理由があるかもしれないと想像してもらうきっかけになれば」と話し、今回の取材に協力してくれました。一方で誰かが立ち止まればほかの人にも連鎖していくことは名古屋市の事例で実証されています。
AIの呼びかけをきっかけに、ゆくゆくはAIがない場所でも「両側立ち」が浸透していけば、エスカレーターはより使いやすいものになっていくと感じます。
(2024年10月10日「おはよう日本」で放送)
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おはよう日本記者
野中悠平
2014年入局
高知局、ニュース7などを経て現職
取材後、どんなに急いでいてもエスカレーターでは立ち止まるようになりました
名古屋放送局ディレクター
杉浦雄樹
2024年入局
愛知県出身
地元である東海地方の魅力探しに日々奮闘中
名古屋市からエスカレーターの安全利用が広がることを願っています