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ある時、買い物の出先で低血糖発作を起こし、意識もうろうとなったかかりつけの女性患者が救急車で運ばれてきました。途中でブドウ糖を補充し、病院に到着するころには意識も回復。しかし、患者は対応した看護師に対し、「先生に指示されたインスリンの量が多かったから低血糖になったんだ!」と文句ばかり言ってきます。患者の娘さんも「医師から説明をしてください!」とすごい剣幕。これまで問題なかったのに、この患者はどうして低血糖の状態に陥ってしまったのでしょうか。
カルテには……
「先生(医師)の言う通りのインスリンの量を打っていた。それなのに低血糖になって死ぬほどつらい思いをしたのだから、指示した量が多かったはずだ」。患者はこう主張します。
そこで、改めて患者のカルテ(診療記録)を確認すると、説明した量は患者が投与した量より少なかったのです。
患者が自宅でつけていた血糖値の記録ノートを確認すると、ある日を境に急にインスリンの投与量が増えていることに気がつきました。それまできちんとできていたのに、どうして増やしたのでしょう? さっぱり分かりません。
「低血糖を起こす前日まで私が説明したインスリンの量をノートに記録されていますが、(低血糖を起こした日に)増やしたのはなぜですか」
こう尋ねると、患者ははっと気がついたようでした。どうやら、今は使っていないはずの、手元に残っていた別のインスリンを使い、多めに打ってしまったようです。引っ込みがつかなくなったのでしょう。その後も、患者は文句を言い続けていました……。
認知機能に陰りが
この患者は80代と高齢だったこともあり、血糖値を低くしすぎては危険であると繰り返し説明してきたのですが、なかなか理解していただけませんでした。また、診察室を出た途端、私が説明したことを忘れてしまうこともしばしばあったため、家族とともに診察していただくようにしていました。それからまもなく、今回の問題が起きてしまったわけです。
経緯を説明すると、娘さんは患者と一緒に診察したことを思い出し、こう言いました。
「母はまだ(認知機能の方は)大丈夫と思っていたのですが……。母の言うことをつい信じてしまいました」「きっと、本人は間違いを受け入れることはできないと思うので、私から説明しておきます」
実際、自分の親は「一人で診察を受けても大丈夫」と思い込んでいる家族は多いです。親が入院し、病院の医師から説明を受けて、はじめて親の認知機能の程度を知る家族もいます。親はいつまでも昔と変わらない――。そう思い込み、認知機能の低下を想像できていない家族は、実は多いのです。こうした場合、患者よりも、家族の健康リテラシーが重要となるのです。
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今まで状態が安定していたのに、急に低血糖が起きたのであれば、本当に服用している薬のせいなのか、薬の量を間違えていないか、食べ物に何か原因はないだろうか――。サポート役の家族が落ち着いて考えてみる必要があると思います。
毎日食べているものでも
私にも一つ、苦い思い出があります。
神経内科医の夫の母は重度の変形性膝関節症で、極端なO脚。このままだと歩行が困難になることが予想されました。手術を勧めたのですが、母は「まだ痛くないから」と言って手術から逃げていました。4~5年がたち、立ち上がるのに時間がかかり、トイレに行くのもままならなくなりました。自分で料理することもできなくなったため、夫が1日おきにデパートの地下で出来合いのおかずを購入し、実家に運び入れていました。
1年後のお正月、家族みんなが実家に集まった時のことです。母の呼吸がいつもと少し違うと感じました。足もむくんでいたので、尋ねたのですが、母はあまり気にしていない様子でした。心配しつつも、夫とともに帰宅したのですが、1週間後、心不全を発症して入院することになったのです。原因は、デパートで購入したおかず。塩分を取り過ぎていたのでした。
退院後、母は家に戻らず、私たちの家の近くの施設に入所しました。毎日減塩の食事を出していただけるので、足がむくんだり、心不全を起こしたりすることはありません。
「毎日口にする食べ物でもこんなことになるのか……」。頭で理解しつつも、どこか実感がなかったという夫。父を胃がんで亡くした小学6年の時から育ててくれた母のため、1日おきに夕食をともに過ごす生活を1年以上続けてきました。それでも、医師として健康リテラシーを発揮できず、食べ物に含まれる塩分の量を甘く見てしまい、食べ物で母につらい思いをさせてしまったと悔やんでいます。
家族の支えの大切さ
家族の支えが大切なケースをもう一つ紹介します。
「胃がんの手術をすることになったから、先生に伝えておいて」。ある時、こう言って自宅に帰ってしまった、かかりつけの70代半ばの男性患者がいました。
この患者は糖尿病のため、たくさんの治療薬を内服していました。近く、胃がんの手術をすることが決まったので、インスリン注射を自己投与する治療への切り替えを提案しました。血糖値の状態を表すヘモグロビン(Hb)A1cはほどほど良い数値だったのですが、手術で薬をやめるとこの値が上昇し、手術ができなくなる恐れがあったからです。
ところが、この患者は「そんなのいらん。今のままにしておいてくれ」と提案を拒絶。「それなら手術をやめとくわ!」と言い出す始末です。手術をすれば、がんを根治できる可能性があるのに、です。
高齢者の場合、この患者のように、自分の考えに固執する人が少なくありません。そんな時、助けになるのが患者の家族です。なかなか耳を傾けてくれない医療者の説明にも、家族からの言葉ならすんなり受け入れていただけることがあります。だからこそ、家族の健康リテラシーを高めておくことが重要になるのです。
この患者の場合、遠方に息子さんがいたのですが、残念なことに連絡先も分からないほど疎遠になっていました。そのため、医師や看護師が粘り強く、何度も説得を試みました。患者は一時、「インスリン一式を海に捨てる」と言い出すほどでしたが、最後はインスリン治療の大切さを理解し、受け入れてもらえました。手術も無事することになったのです。もし、家族が身近にいてくれていたら、これほど医療者が苦労することはなかったのではないかと思います。
以上、家族の支えや健康リテラシーがいかに大切かをみてきました。自分のことだけでなく、家族の健康を守るためにも、ぜひ健康意識を高めていただけたらうれしいです。
写真はゲッティ
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金子至寿佳
日本赤十字社 和歌山医療センター 糖尿病・内分泌内科部長
かねこ・しずか 三重県出身。医学博士。糖尿病医療に長く携わる。日本糖尿病学会がまとめた「第4次 対糖尿病5カ年計画」の作成委員も務めた。日本内科学会認定医及び内科専門医・指導医、日本糖尿病学会認定糖尿病専門医・指導医、日本内分泌学会認定内分泌代謝科専門医・指導医、日本老年病学会認定老年病専門医・指導医。インスリンやインクレチン治療薬研究に関する論文を多数執筆。2010年ごろから、糖尿病診療のかたわら子どもへの健康教育の充実を目指す活動を始め、2015年からは小中学校で出前授業や大人向けの健康講座を展開している。