『前略おふくろ様』『北の国から』など数々のテレビドラマで知られる名脚本家、倉本聰さん。
およそ60年にわたり構想を温めてきた映画がこのほど公開された。絵画の贋作がテーマのこの作品には、倉本さんが長年抱いてきた社会への「憤り」が込められている。
ネット時代のいま、流されるままに、情報をただ「受信」するだけになってはいないか。89歳の倉本さんが問いかける。
(科学文化部 福田陽平)
老いるもいまだ健在
倉本聰さんが暮らす雄大な自然に囲まれた北海道・富良野を訪れた。杖をつきながら、姿を現した倉本さん。席に着くと、息を切らしている。ことしで89歳。耳も遠くなり、足腰も弱くなったという。
倉本聰さん
「頭の冴えが少なくなっているということはあります。年を取るのは、そういうものなんだろうなと思いますよ。だから、質問に反射的に答える、そのスピードは遅くなっています。それを衰えというんでしょうね。あまり深く考えないようにしているんですけれど」
そうはいうものの、社会への憤りを率直に語る「倉本節」は健在だ。
倉本聰さん
「生成AIでもSNSでも、便利なものというのは人間の今までの労力、つまり稼ぎのもとをどんどん奪っていますよね。それで社会がよくなっていると思うほうが違うんじゃないかという気がするけれど間違っていますかね?」
いまも1日80本のたばこを吸いながら、執筆活動に精を出している。
今回は「最後の映画」とも言われていて、失礼を承知で、事実を確認してみると…。
倉本聰さん
「宣伝文句で付けただけです。『もうこれで最後だ』とかそういう言い方は変わるから、あまり言いたくないんですよね。その後『最後だって言ったじゃないか』みたいな言い方をされるのも嫌ですから」
贋作だから美しくなくなる?
倉本さんがオリジナル脚本を手がけた映画『海の沈黙』。テレビドラマや舞台の脚本を中心としてきた倉本さんが映画を手がけるのは、36年ぶりとあって注目されている。
主演の本木雅弘さんをはじめ、小泉今日子さん、中井貴一さん、石坂浩二さんといずれも主役級の人たちが、集まった。
石坂浩二さん演じる画家
『これは、私の絵じゃない…贋作だ!』
物語は、ある著名な画家の贋作が見つかるところから始まる。
オリジナル以上の魅力を放つ贋作。この「事件」で、人々は翻弄されていく。
展覧会を終えるまで、隠蔽しようとする関係者。騒ぎ立てるマスコミ。誰が贋作を描いたのか。その謎に迫っていく。ミステリーそして、ラブロマンスの要素も含んだ作品となっている。
実際の壺
倉本さんがこのストーリーを発想したきっかけは、1960年の「永仁の壷事件」だ。
鎌倉時代のものとして重要文化財に指定されていた陶器が、贋作だと発覚。指定が取り消しになり、当時、大いに騒がれたという。
倉本聰さん
「要するに棚から降ろされてしまったわけです。僕は、なぜ昨日まで美しい、美しいと言っていたもの、そのものの美しさは変わらないはずなのに、どうして世の中がそれに一斉にそっぽを向いてしまうのか。昨日まで認めていた鑑定家とか識者の気がどうして変わってしまうのか。美とはそんなものなんだろうか?」
それまで絶賛されていた作品。その物自体は、何ひとつ変わらないのに、なぜ、人々は手のひらを返すのか。そんな憤りが、今作の原点だ。
「怒り」こそ源泉か
1980年代から大ヒットした代表作のドラマ『北の国から』。制作当初はバブル全盛期。大自然に生きる家族の人間模様を泥臭く描き、経済至上主義への疑問を投げかけた。
倉本さんは常に、そんな社会に対するさまざまな「憤り」を抱いてきた。
倉本聰さん
「怒りというほどオーバーじゃなくても腹が立つということはしょっちゅうですよね。何でこんなことをやるんだろう?何でこんなことがまかり通るんだろうということが。ウクライナとロシアの戦いを見ていても、トランプさんがこれからどうなるのか知らないけれど、あれを見ていてもやっぱりみんなの中に怒りってあるでしょう」
テレビドラマ出身で、今作でメガホンをとった若松節朗監督は「怒り」こそ倉本作品の本質で、その怒りを表現するのが“不器用な人たち”だといいます。
映画監督 若松節朗さん
「『北の国から』は、よいドラマですが、あの中にどれぐらいの怒りがあるか。強者に、お金持ちに、国に対する怒り、いっぱい含まれてますよね。すてきなのは、不器用にしか生きれない人たちがちゃんと描かれている。今回の映画に出てくる人たちも、はっきりいえば、敗者です。倉本さんは敗者の論理を、その生き方を描いている」
さらに若松監督は、人の描き方も倉本さんならではの「視点」があると感じている。
映画監督・若松節朗さん
「倉本さんは人を冷静に“冷たく”見ている。それでいて、笑いがある。実は非常にいじわるに見ている。それはほかのシナリオにもあって、おもしろいのだけれど、いじわる」
物語の鍵を握る、贋作を描いた画家、津山竜次。
若くして才能を開花させるものの、あるトラブルをきっかけに画壇を追放される。以来、孤独に贋作づくりに手を染めていく。いわば一種のアウトローとして、社会の「日陰」で生きながら、絵を描き続ける天才画家だ。
演じた本木雅弘さん。
倉本作品に参加したのは、これが初めてだ。竜次の贋作作りは、倉本さんの問題意識を反映させたものと感じている。
本木雅弘さん
「常に警鐘を鳴らしているのが倉本さんの本筋だと思うんですね。贋作を描く竜次は、ある種、人をだます詐欺まがいなことに手を染めているけれども、自分は画壇を追放された人間だけれども、自分が贋作を出すことによって世の中の人がまんまとだまされているというこの状況をみんなに問いかけているわけですよね」
他人に流されていないか?
作中では、竜次が、ゴッホの贋作を手がけたことをうかがわせるシーンがある。竜次は、贋作を通じて、社会に問いかける。
本木雅弘さん
「あなたが今見ている絵は、ゴッホの絵であってゴッホの絵ではない。あなたはゴッホを見ているのではなくて、他人が言った価値にただ触れてぬくぬくとしている。それはおかしくないかと。あれは自分が描いたんだ。決してゴッホが描いたものではないということを、ある種、冷ややかに俯瞰しているわけですよね」
世間の評価に左右されず、自身が本当によいと感じたものを見失わない。
本木さんは、演技を通じて、そんなメッセージを感じている。
本木雅弘さん
「本当に自分の心につき合わせて自分が好きなものを声高に言える人は、なかなかいないじゃないですか。10人のうちの9人は支持していないものを自分が好きだとは言いづらい。どうしても集団になるとそうなってしまうんでしょうね。その“危うさ”みたいなものを常に倉本先生はのぞいているんだと思います」
物語の後半、病に冒され、余命幾ばくもないことを悟った竜次は、贋作ではない、自分だけの作品の完成にすべてをかける。
自身の思い描く「美」に向き合う。映画はクライマックスへと進んでいく。
本木雅弘さん
「自信を持って自分の心の中をのぞいたことがあるかなと改めて感じ直しましたよね。もう余命が分かったから最後には自分の美の追求をしたい。自分にとって美しいということはどういうものなのか。それは物理的なことで何を描きたいかというだけじゃなくて、自分と向き合わないと出てこない」
贋作作家を責められるのか
竜次が最後に描いたのは「迎え火」。亡くなった人を弔うため、海岸などで大きな火をたく日本の風習だ。
実は、これは倉本さん自身の体験がもとになっている。実際に北海道で、漁師たちが仲間の死を弔う場面に出くわしたことがあったという。
そこには、倉本さん個人が感じた「美」のひとつとして、脚本に投影されている。
倉本聰さん
「(脚本には)自然と出てきたんです。迎え火をたくのを5時間くらい見ていたんですよ。あの炎の色というのをちょっと忘れられない。正直に美しいものは、いつまでたっても、美しいですね」
倉本さんは、あらゆる場面で、現代のあり方に懐疑的な見方を示す。
倉本聰さん
「美とは、主観のものだと思うんですね。食事も同じで、″3つ星″の店が流行る。ああいう風潮はとても僕は嫌いなんだけど、なぜ全世界の人がそれを認めなくちゃいけないのか。そんなことよりも、そこらへんのラーメン屋で実にうまいラーメンって感じるものがある。僕なんか終戦直後に食堂でご飯の上にバターを乗っけて、そこにソースをかけたものが一番うまかったですね。それはもう貧しかったから。僕にとっては、″5つ星″ぐらいの価値があった。でも今は″3つ星″だというと店の値段がめちゃくちゃに高くなる。美というものが値段で評価されていいんだろうかっていう疑問もすごくあるんですね」
さまざまな情報がたやすく得られ、時には、創作までも、ボタンひとつでできてしまう現代。だからこそ、今回の映画が私たちに問いかけるものは重い。
倉本聰さん
「今、電子機器で偽物・フェイクを作ることが可能じゃないですか。その可能を許している社会が贋作を描いた主人公を責められないんじゃないかと思うんです。みんなが『美』を主体的に探していないんです。誰々がきれいだと言うから、人気が出るという。人間の美意識は昔に比べて衰えてきていると思いますよ」