二葉 百合子(ふたば ゆりこ、1931年6月23日 - )は、日本の浪曲師、演歌歌手。日本浪曲協会名誉顧問。本名、大村 百合子(おおむら ゆりこ)
東京都葛飾区[2]堀切生まれ。浪曲師の父・東若武蔵に師事し、3歳で浪曲師として初舞台を踏む。日本ポリドール蓄音器商會(日本国内におけるポリドール・レコード。現:ユニバーサルミュージックLLC)所属となった後、9歳頃に父が二葉を座長にした「二葉百合子一座」を作り、以降地方公演で日本全国を周るようになった。その後、関東節を女流ながらこなす稀な存在として、名を上げる。
1957年には『女国定』でレコードデビューし、間奏に浪曲の台詞を入れる「歌謡浪曲」を確立させた。
1963年、歌手の大村忠と結婚し、長男を儲ける。結婚を機に夫は二葉のマネージャーに転じた。
1970年文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
2021年6月には満90歳を迎え、同年8月14日、『人生、歌がある』(BS朝日)に出演。同番組では弟子の坂本冬美、藤あや子らと共演、「岸壁の母」など往年のヒット曲を披露し、貫禄を見せた。
二葉百合子 - 岸壁の母
昭和46年(1971年)
作詞 藤田まさと 作曲 平川浪竜
https://www.youtube.com/watch?v=Zvu3MpL-k7Q
1)
母は 来ました 今日も 来た この岸壁に 今日も 来た
하하와 키마시타 쿄-모 키타 코노간페키니 쿄-모 키타
엄마가 왔단다. 오늘도 왔어. 이 부두에 오늘도 왔어
届かぬ 願いと 知りながら もしやもしやに もしやもしやに
토도카누 네ㅇ가이토 시리나ㅇ가라 모시야모시야니 모시야모시야니
이루지 못할 소원이라는 걸 알면서도 혹시나 혹시나 하고
ひかされて
히카사레테
마음이 끌려서
~~~ 台詞(세리후, 대사) ~~~
" また引揚船が歸って來たに
今度もあの子は歸ない
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか
港の名前は舞鶴なのに何故 飛んで來てはくれぬのじゃ
歸れないなら大きな聲で "
마타 히키아게센ㅇ가가에ㅊ테키타니
콘도모 아노코와 카에라나이
코노감페키데 마ㅊ테이루와시노스ㅇ가타가 미엔노카
미나토노 나마에와 마이즈루 나노니 나제 돈데키데와 구레누노쟈
카에레나이나라 오오키나 코에테 "
" 또 귀환선이 들어왔는데도
이번에도 아들은 돌아오지않아
이 부두에서 기다리고 있는 내 모습이 보이지 않니?
항구의 이름은 마이즈루인데 어째서 날아오지 않니?
돌아오지 않는다면 큰소리로 "
2)
呼んでください おがみます ああ~ おっ母さん よく 来たと
욘데쿠다사이 오ㅇ가미마스 아아~ 오ㅊ카상 요쿠 키타토
날 불러 다오! 간절히 바란다. 아아~ <어머니, 잘 오셨어요!> 라고!
海山千里と 云うけれど なんで 遠かろ なんで 遠かろ
우미야마센리토 유-케레도 난데 토-카로 난데 토-카로
바다와 산이 천리라 하건만 어찌 멀쏘냐? 어찌 멀겠느냐?
母と子に
하하토코니
모자간에
~~~ 台詞(세리후, 대사) ~~~
" あれから十年 あの子はどうしているじゃろう
雪と風のシベリアは寒いじゃろう つらかったじゃろうと
いのちの限り抱きしめて
この肌で溫めてやりたい "
" 아레카라 쥬넨 아노코와 도우시테 이루쟈로우
유키토 가제니 시베리아와 사무이쟈로우 츠라카ㅊ타쟈로우토
이노치노 가기리 다카시메테
코노 하다데 아타타메테 야리타이"
"그로부터 10년 그애는 어떻게 살고 있을까?
눈과 바람의 시베리아는 추웠지 괴로웠지 라고
이 생명 다하도록 끌어안고서
이 체온으로 따뜻이 해주고 싶어 "
3)
悲願十年 この祈り 神様だけが 知っている
히간쥬-넹 코노이노리 카미사마다케ㅇ가 시ㅊ테이루
비원 10년, 이 기도 하느님만은 알고 계실 거야
流れる 雲より 風よりも つらい さだめの つらい さだめの
나ㅇ가레루 쿠모요리 카제요리모 츠라이 사다메노 츠라이 사다메노
흘러가는 구름보다 바람보다도 괴로운 운명의, 쓰라린 운명의
杖ひとつ
츠에히토츠
지팡이 하나
~~~ 台詞(세리후, 대사) ~~~
" 杖 ひとつああ風よ心あらば傳えてよ
愛し子待ちて今日も又
怒濤碎くる岸壁に 立つ母の姿を "
" 츠에 히토츠 아아 카제요 고코로아라바 츠타에테요
이토시고 마치테 쿄오모 마타
도토- 쿠다쿠루 감페키니 타츠 하하노 스ㅇ가타오 "
" 지팡이 하나, 아아 바람아 마음이 있다면 전해다오
사랑스런 내 아들 기다리며 오늘도 또
성난 파도가 부서지는 부두에 서있는 엄마의 모습을"
がんぺき[岸壁] ① 안벽 ② 부두 ③ 물가의 벼랑
-. 岸壁(감페키, 암벽) :
선박을 대기 위해 부두 또는 항안(港岸)을 따라서 수직으로 구축한 축대 벽
-. 거리 환산 :
일본 1里 = 한국 10里 = 4km, (일본 千里 = 한국 萬里)
<岸壁の母>의 무대 舞鶴市(마이즈루 市)는
일본의 2차 세계대전 패전 후에 많은 병사가 귀환했던 항구도시로
1945~55년 시베리아와 중국으로부터 약 66만 5천 명이 귀환하였음.
이 노래는 舞鶴市에서 돌아오지 않는 자식을 기다리는 <단야이세>라는
노부인의 애절한 마음을 노래한 것으로 그녀는 1950년 1월부터 귀국선이 입항할 때마다 6년간
안벽에서 그녀의 외아들 <신이>를 계속 기다리고 있었다고 함.
아들 <신이>가 쇼와 1945년 8월 15일 전사하였다는 통보를 1956년에 정부로부터 받았는데도
아들이 반드시 돌아온다는 신념으로 안벽에서 계속 기다리다가
1981년 7월 1일 향년 81세로 세상을 떠났음.
作詞 : 藤田 まさと(후지타 마사토)
作曲 : 平川 浪龍(히라카와 나미류-)
原唱 : 菊池 章子(키쿠치 아키코) <1954年(昭和 29年)>
「岸壁の母」二葉百合子、92歳歌声健在なり
https://www.youtube.com/watch?v=qbNknECiUJo
Nov 5, 2023
島津亜矢 ★岸壁の母
https://www.youtube.com/watch?v=n3R-5rAUMZA
2013.4.25
流行歌
菊池章子版
昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード「岸壁の母」が大流行(100万枚以上)した。
作詞した藤田まさとは、上記の端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜(ひらかわ・なみりゅう)は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聴いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。
歌手には専属の菊池章子が選ばれた。早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も、ずっと涙が止まらなかった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語っている。
二葉百合子版
この曲は、二葉百合子が昭和46年(1971年)に発売したカヴァーアルバム『二葉百合子の涙の歌謡劇場』で初めてカヴァーした。白石十四男の編曲、また大衆作家の室町京之介の作による台詞を入れ、「歌謡浪曲」として生まれ変わった。その後、昭和47年(1972年)にシングルカットされた。また同年には室町京之介の作による浪曲版もリリースされている。
二葉百合子版はリリースされた1972年よりロングヒットとなり、昭和49年(1974年)には続編の『続・岸壁の母 岸壁に祈る』もリリースされた。『岸壁の母』はその後も人気が高まり、昭和51年(1976年)にはオリコンヒットチャート年間5位にまで上り詰める。最終的に、LPレコード、シングル、テープを合わせて(250万枚)の大ヒットとなり、昭和51年(1976年)には中村玉緒主演で映画化された。さらに二葉自身、同年末の『第18回日本レコード大賞』では審査委員会奨励を受賞し、そして『第27回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たす。
菊地章子 岸壁の母
昭和29年 (1954年)
https://www.youtube.com/watch?v=M0KKXVHXeSE
岸壁の母(昭和29年)菊池章子
https://www.youtube.com/watch?v=SkpNLnK_qNE
藤田まさと 作詞、平川浪竜 作曲 菊池 章子 唄 *写真は横浜です
菊池 章子(きくち あきこ、1924年1月28日[1] - 2002年4月7日[2])は、東京市(現東京都)出身の歌手である。本名は菊池 郁子[1]。妹は歌手の多摩幸子。義子に大久保直彦、孫にcaminoのKIKUとBREATHのメンバーだった菊池一仁がいる。
経歴
1924年(大正13年)1月28日(月曜日)、東京市の下谷に生まれる。1927年(昭和2年)畑秀水の門下生となり琵琶を習う。1930年(昭和5年)6才で免許皆伝となり、菊池錦祠を襲名する。のちに菊池祠水となる。
その後、歌謡曲に興味を持ち、九段にあった「大村能章歌謡学院」に入った。日華事変が起こった後は、学院の生徒と共に軍の病院などで慰問活動を行う。女学校の低学年にもかかわらず、彼女が唄うと、アンコールの声が鳴り止まなかった。1937年(昭和12年)コロムビア入社し、翌年「アイアイアイ」でデビューするも、同作は発売中止となる。1939年9月「お嫁に行くなら」で本格デビュー。「相呼ぶ歌」や「愛馬花嫁」がヒット。その中でも、松竹映画『湖畔の別れ』の主題歌「湖畔の乙女」は大ヒットした。
2000年(平成12年)、勲四等瑞宝章を受章。
2002年(平成14年)4月7日、心不全で死去。78歳没。墓所は小平霊園。