「“学会”が発表した内容だったので信頼できると判断し、生徒たちに知らせました」
去年、新型コロナワクチンをめぐって科学的根拠の不確かな情報が拡散しました。
きっかけのひとつは、ある学会が発表した文書。それを読んだ公立中学校の校長は「価値は重い」と全校生徒への配付を決めました。
しかし取材を進めると、引用されていた海外の論文やそれが掲載されていた学術雑誌の信頼性に疑問があることが見えてきました。
不確かな情報の“根拠”を追跡しました。
「フェイク・バスターズ2024」を元に記事化しました
再放送 1月28日(火)午前2:35~
国は否定も SNSで広がった “シェディング”
去年、新たに導入された「レプリコンワクチン」という新型コロナワクチンをめぐり、SNS上である言葉が拡散しました。
“シェディング”。ワクチンを打った人からその成分などが排出、他の人に感染して体調不良を引き起こすなどの主張です。
SNSには“ワクチンを接種した人と接触したため、体調不良が生じたのではないか”との投稿が相次ぎました。
シェディングの症状だと主張する内容の投稿(Xより引用)
国や日本感染症学会・日本呼吸器学会・日本ワクチン学会は、ワクチンのリスクはゼロではないものの「シェディングのリスクはない」と否定。
ワクチンを製造販売している製薬会社は新聞の全面広告を出し、デマに惑わされないよう注意を呼びかけました。
武見厚生労働相(当時)の記者会見 2024年7月全国で相次いだ「接種者お断り」
しかしそれにもかかわらず、シェディングへの懸念からレプリコンワクチン接種者の“入店拒否”を掲げる施設が全国で相次ぎました。
そのひとつ、都内の喫茶店が取材に応じました。店の壁には「NO!レプリコンワクチン」というポスターが、外からでも目立つように貼られていました。
都内の喫茶店 レプリコンワクチンお断りの掲示
店主に話を聞くと、レプリコンワクチンを接種した本人だけでなく、同居している家族の入店も拒否しているとのことでした。
喫茶店店主
「シェディングがあるかないかは私個人としては分からない。ただ “あるかもしれない” “必ずあるだろう”と思っている人が安心して入店できるお店づくり、ということで拒否しています。製薬会社のホームページなども拝見して、賛否両論だということは熟知していますが、リスクのあるものは採用しないというのが現在の判断です」
ほかにも美容院やネイルサロン、歯科医院など、レプリコンワクチン接種者の“入店拒否“を掲げる店の数は、確認できただけで数百にのぼりました。
拡散のきっかけとなった「学会」の緊急声明
なぜ “シェディング”という言説がこれほど広がったのか。
Xの投稿を分析すると、シェディングという言葉自体は、新型コロナワクチンが始まった2021年からたびたびSNSに投稿されていました。
それが急増したのは去年8月のこと。
きっかけとなったのは、日本看護倫理学会という団体が「レプリコンワクチンへの懸念 自分と周りの人々のために」と題した緊急声明を発表したことでした。
日本看護倫理学会「緊急声明」より
日本看護倫理学会のホームページによると、2008年に「看護倫理の知を体系的に構築することを目的」として設立され、2023年7月時点で看護の専門家など800名あまりの会員が所属しています。
緊急声明ではレプリコンワクチンの導入に関して「長期的な安全性のデータや同調圧力の排除が必要」だとして、5つの懸念が示されました。
<日本看護倫理学会が緊急声明で挙げた5つの懸念>
1:レプリコンワクチンが開発国や先行治験国で認可されていないという問題
2:シェディングの問題
3:将来の安全性に関する問題
4:インフォームドコンセントの問題
5:接種勧奨と同調圧力の問題
このうち 2:シェディングの問題 に、
▼接種者から非接種者に感染(シェディング)するのではないかとの懸念がある
▼望まない人にワクチンの成分が取りこまれてしまうという倫理的問題をはらんでいる
▼定期接種がシェディングの有無を確認するための実証研究になってはいけない
などと書かれています。
※当初この記事を公開した際、非接種者の漢字に誤りがありました。失礼しました。
「生徒の命と健康のために」全校生徒に配布した中学校長
公立中学校校長 本田さん
この緊急声明を全校生徒に配布した公立中学校があると聞き、取材を申し込みました。
対応してくれたのは本田校長。気さくな人柄で、私たちが訪ねたときは生徒と笑顔で立ち話をしていました。生徒には「自分自身で判断できる人になってほしい」と考え、校長室には「自分の命は自分で守る」「考えて行動する力を」という手書きのスローガンが貼られていました。
新型コロナワクチンについても、「みんなが打つから打つ」ではなく、さまざまな情報を知った上で納得のいく判断をしてほしいと考えてきました。
本田校長
「一般的にワクチンは開発するのに10年くらいかかると聞いているのに、これほど短期間でできるというのはいったいどうなっているのかなという不安感もありました。実際どうなのかなと思っている保護者の人も多いと思います」
SNSで緊急声明を知った後、本田校長は自分でもレプリコンワクチンの情報を調べました。すると厚生労働省などがワクチンの有効性を伝える一方で、SNSでは「シェディングの被害があった」とする投稿がいくつも見つかりました。本田校長の身近にもシェディングの症状を訴える人がいたといいます。
本田校長は夏休み明けの職員会議で提案し、校長個人の責任で緊急声明を全校生徒に配布することを決めました。
決断を後押ししたのは「学会」が出したものに対する信頼感でした。
本田校長
「葛藤はありました。後から『なんでこんなことをしたんだ』と責任を問われることもあるかもしれない。『本当にそうなのか?』と聞かれたら、科学者じゃないから分からない。そういう怖さはあります。
でも国や多くの人が“正しい”というものに対して批判覚悟で“おかしい”と勇気を持って言う人の覚悟というのはやはり違うのではないか。
しかも医療に従事している専門家が、客観的な根拠に基づいて声明を出していると判断していますから、この内容は価値が高くて重いと思っています」
「シェディング」の根拠とされた海外論文
国などが否定しているシェディングについて、日本看護倫理学会の緊急声明は何を根拠に「懸念がある」としたのでしょうか。
緊急声明にはある海外の研究論文が引用されています。
日本看護倫理学会「緊急声明」より (下線はNHK)
コンピューターサイエンスを専門とする、アメリカ・マサチューセッツ工科大学のステファニー・セネフ教授らが2021年に発表したものです。インターネットで公開されていて誰でも読むことができます。
シェディングの根拠として引用された論文
論文では新型コロナウイルスのmRNAワクチンについて、安全性への懸念が42ページにわたって述べられています。このうち本文で「シェディング」に言及しているのは1か所。
「ワクチンの成分が肺から放出され、近くにいる人が吸い込むことは想像に難くない」とだけ書かれ、それを裏付ける実験データは示されていません。
この論文の科学的信頼性をどう評価すればいいのか。免疫学が専門でワクチンに詳しい宮坂昌之さんに見てもらったところ、厳しい言葉が返ってきました。
ワクチンに詳しい免疫学者 宮坂昌之さん(大阪大学名誉教授)
免疫学者 大阪大学名誉教授 宮坂昌之さん
「コロナのワクチンを打った人たちの体から何かが飛び出して、ほかの人に悪い影響を及ぼすということは科学的に証明されていません。もしもそういうことがあるというならば実験ができるはずです。
実験データなど証明がまったくないにも関わらず、あたかもこのワクチンで起きているかのように書かれている。
言い方はなかなか難しいですけれども、この論文は噴飯物に近い内容だと思います」
「深刻な違反」を発見 論文を掲載した学術雑誌を調査
学術論文は通常、「査読」と呼ばれる専門家のチェックを経た上で学術雑誌に掲載されます。査読は研究の正確性と発展を担ってきた、現代科学の根幹とも言われるシステムです。
シェディングに言及した論文が掲載されていたのは、タイトルに“ワクチンの理論と研究”を掲げる雑誌でした。
なぜこの雑誌に科学的根拠の不確かな論文が掲載されたのでしょうか。
論文が掲載された学術雑誌「IJVTPR」のホームページ
その理由を探るため、私たちはアメリカの調査会社に分析を依頼しました。世界中の3万以上の学術雑誌を分析し、研究者に情報を提供している会社です。
学術雑誌専門の調査会社Cabells
“ワクチンの理論と研究”と題した雑誌の信頼性について、会社が独自に設けた指標に基づいて評価したところ6つの項目で違反が見つかりました。そのうち2つが「深刻な違反」に該当していました。
深刻な違反
・複数の編集委員が所属や肩書きなど学術的な立場を詐称
・明らかな疑似科学など学術的でない論文を掲載している
中程度の違反
・多くの著者が短期間に複数回論文を掲載している
・被引用数を増やすため意図的に物議を醸す論文を掲載している
・編集委員や査読委員が、学術雑誌の分野における出版ゲートキーパーとなるのに十分な学術的専門知識を有していない
軽微な違反
・編集委員が執筆した論文を掲載している
学術雑誌調査会社Cabells ヤスミン・モス分析官
ヤスミン・モス分析官
「この学術雑誌は「ワクチンは有害だ」という見解を広めることを目的としています。コロナ禍以降、こうした特定の主張を広めるための学術雑誌は増加しています。こうした学術雑誌の知名度が上がると、一般向けの科学記事にも論文が引用され、それがSNSでシェアされて誤った情報が拡散されてしまうのです。これは科学に対する人々の信頼を損なうものです」
この調査結果を受け、論文の著者と学術雑誌の編集委員会に取材を申し込みましたが、いずれも回答はありませんでした。
「論文の第一義的な責任は著者に」日本看護倫理学会の回答
では緊急声明を出した日本看護倫理学会は、引用した論文の信頼性をどのように判断したのでしょうか。
学会に問い合わせると、去年12月、文書で回答がありました。
日本看護倫理学会からの回答文書
質問
学会内でこの論文や掲載誌について信頼性を精査するようなプロセスはありましたか?
日本看護倫理学会
「ご指摘の論文では2つの文献をもとにワクチンへの二次曝露の可能性が示唆されており、論文内で述べられているシェディングという現象が倫理的な問題の一つとして検討するに値する情報であると判断し、引用いたしました。なお、論文の信頼性を担保する第一義的な責任は、著者にあると認識しております」
質問
学会としてこの声明を出したことについてどう振り返りますか?
日本看護倫理学会
「声明を通じて多くの方々が倫理的視点を持ち、自律的な判断を考慮するきっかけとなった点では一定の役割を果たせたと認識しております。一方で、社会的影響や情報の受け止め方について、さらなる配慮が必要であった点は学会内でも反省事項として認識しております。今後は、声明内容について検証に努めて参ります」
緊急声明を配付した中学校の校長は
私たちは一連の取材結果を、緊急声明を配付した公立中学校の本田校長に伝えました。
本田校長は少し表情を曇らせたあとに、次のように話しました。
本田校長
「自分が出した情報が正しくなかったということが証明されるのであれば、『不備な情報を提供してすみませんでした』ということは、表明しなければいけないと思います。正しいことを知るのが大事だけれど、すぐにどれが正しいかなんてわからないと思います。難しいですね、どういうふうに情報をとっていくかというのは…」
大切なのは「心のクセ」を知ること
様々な情報が飛び交う中、その出典や根拠を確認することの重要性は言うまでもありません。しかし学術論文の信頼性を専門外の人が見極めることは難しく、ましてや研究者ではない一般の人にそれを求めることは現実的ではありません。
私たちにできることはあるでしょうか。
フェイクや陰謀論などを信じる心の動きを分析する心理学者の久保(川合)南海子さんは、大切なのは自分の「心のクセ」を知ることだと話します。
心理学者・愛知淑徳大学教授 久保(川合)南海子さん
久保(川合)南海子さん
「私たちはあいまいなものにずっと触れていると非常に不安で居心地が悪いため、因果関係が整理された”物語“に無意識的に惹かれる傾向があります。
例えば、よくわからないけど体の調子が悪くなったときに、ワクチンのせいではないかなどと仮説を立てます。そんなときにSNSで似たような症状を、『ワクチンのせいだ』と訴える画像や投稿が出てくると、『やっぱりそういうことなんだ』と因果関係が自分の中でひとつの物語になります。ただの仮説だったものが確証的なものとして受け止められてしまうわけです。
人間の判断はまったく合理的ではありません。自分が正しいと思うことを支持する情報を無意識に集めてしまう“確証性バイアス”や目立つ代表的な例を正しいと思ってしまう“代表性ヒューリスティック”など、合理的でない判断で集めた情報で仮説が形成され、整合性をもった“ような”物語になっていきます。
こうした心のクセを知り、偏りのある情報の中にいる自分を俯瞰して見ることが大切だと思います」
(2024年12月26日 フェイク・バスターズで放送)
社会番組部ディレクター
田淵奈央
2014年入局
松江局、首都圏局、あさイチなど経て現所属