世界競争力ランキング1位、子どもの国際学力調査も世界1位。
国民1人あたりのGDPは日本の2.5倍と、東南アジア随一の先進国シンガポール。
しかし、そのいわば“成功の代償”ともいえる事態が人々を襲っています。
「燃え尽き症候群」です。
去年6月に発表された調査では、シンガポールで働く人のうち実に67%が「燃え尽き症候群」に襲われていると感じていることが明らかになったのです。
いったい何が起きているのか。現地を取材しました。
(アジア総局ディレクター 白水康大)
過酷なシンガポール競争社会
なぜシンガポールで燃え尽き症候群に襲われる人が多いのか。その背景にあるとされるのが過酷な“競争社会”です。
人口500万ほどで国土が狭く天然資源もないシンガポール。初代首相のリー・クアンユー氏が国を発展させるために重視したのが「能力主義」でした。
「人材こそが国の資源だ」という価値観にもとづいた教育制度が導入され、国を担うエリートの養成に力を入れてきました。
「私は能力主義のシステムを完全に信じています。家系や年齢、宗教や言語には興味がありません。しかしあなたが発揮する能力と、やる気に興味があります」
シンガポール初代首相 リー・クアンユー氏(1965年)
シンガポールでは能力のある人材をいち早く発掘するため、小学校卒業を前に実施される学力テストの成績によって進学する中学校が振り分けられます。
優秀な生徒は「特急コース」に進み、さらにその中で優秀な生徒がエリートとして国内に3つある大学に進んだり海外の大学に進学したりします。
こうした競争に勝ち残り、高収入が得られる仕事に就くことが“シンガポールの成功”とされ、子どもたちは幼少期から激しい競争にさらされるのです。
それでも周囲に弱音をはくことなく、親や親戚からの期待に応えるため努力することが「美徳」とみなされてきたのです。
その流れを大きく変えたのが新型コロナでした。
精神的に追い込まれる人が急増し、感染が拡大した2020年には自殺者が前年と比べて1割以上増加しました。
そしてコロナ後には企業の人員削減やインフレによる物価高騰もあり、働く人たちのメンタルヘルス不調が深刻な社会問題として浮かび上がったのです。
コロナ禍のショッピングモール(シンガポール 2020年4月)“燃え尽き”で仕事を失った
燃え尽き症候群に襲われたことで仕事を失った男性に話を聞きました。
シンガポールに住むチェン・シャオチュンさん(38)です。
チェン・シャオチュンさん
大学卒業後、金融業界を経て、2016年に大手IT企業に転職したチェンさん。IT業界の急速な成長に伴ってやるべき仕事は数多くあり、長時間労働が当たり前でした。
その支えとなっていたのは日本円にしておよそ2800万円の高収入と、誰もが知っている世界的な大企業で働いているという誇り。チャンスを逃したくないと、懸命に仕事に打ち込んだと言います。
チェンさん
「シンガポールは非常に競争が激しい社会です。ここで成功するためには、必死に働き自分自身を磨き続けなければなりません。自分の能力以上の仕事をするために長時間労働は当たり前でした」
チェンさんに異変が起きたのがコロナ禍の時でした。
企業の在宅勤務が広がったことでオンラインサービスの需要が急増し、仕事が大幅に増加。毎日10時間から12時間の勤務が続き、夜間や週末もオンライン上で絶え間なく連絡がくるため、自宅に帰っても常に仕事モードでいなければなりませんでした。
しかしコロナ禍が明けると一転してオンラインサービスの需要は減少し、競合他社との競争が激化。チェンさんの職場でも人員削減が始まり、解雇されるかもしれない不安に大きなストレスを感じながらの長時間労働が常態化しました。
その状態が数か月続いたある日、チェンさんは妻からの指摘で初めて、自分が「燃え尽き症候群」に襲われていると感じたと言います。
「気付いたのは妻でした。彼女は、私がイライラして食欲がなく、レストランに出かけることもなくなり、ジムに運動に行く気力すらないと心配していました。
私を気遣って『あなたは疲れ果てている』と言ってくれる人がそばにいたことはとても幸運でした」
しかしその後も食欲は戻らず不眠に陥ったというチェンさん。仕事へのエネルギーやモチベーションが低下し、同僚も心配するほど仕事のパフォーマンスが落ちました。
そして去年2月、会社から解雇を告げられました。
「仕事を失ったとき世界が終わったと思いました。とてもつらくて眠れませんでした。
会社から解雇されたことを他人に伝えることは自尊心を傷つけましたし、自分のアイデンティティーが大きく引き裂かれたように感じました」
67%が“燃え尽きる”社会
去年6月に発表された、シンガポールの様々な分野の労働者1000人を対象にした調査で「2週間以内に燃え尽き症候群に襲われていると感じた」と回答した人が67%に上りました。
理由は「業務量の多さ」や「評価の低さ」、「失業の不安」などでした。
「燃え尽き症候群」とは、それまで人一倍活発に仕事をしていた人がなんらかのきっかけで、あたかも燃え尽きるように活力を失ったときに示す心身の疲労症状を言います。
病名ではなく、あくまで心身の状態を表しており、医師の診断によって「うつ病」や「適応障害」などの病名がつくことがあります。
WHO=世界保健機関は「燃え尽き症候群」は仕事上の慢性的なストレスからくるとしていて、その特徴として、疲弊感や仕事への否定的な感情、パフォーマンスの低下などをあげています。
長年、労働者のカウンセリングを行う専門家は、シンガポールならではの競争社会が「燃え尽き症候群」の原因だと指摘します。
シンガポール・カウンセリングセンター ジョン・リム氏
リム氏
「シンガポールには“自分たちは国家としてぜい弱だ”という根深いメンタリティーがあり、“成功”や“達成”を非常に重視するので、多くの企業が従業員の幸福よりも生産性や収益性を優先してきました。
しかし、シンガポールにおける慢性的なストレスと燃え尽き症候群の割合は非常に懸念されるレベルになっていて、生産性にも深刻な影響を与えているのです」
「燃え尽きても大丈夫!」
社員のメンタルヘルスの異変を察知して、新たな対策に動き出した企業もあります。
従業員230人の中堅食品卸会社では去年12月、「人間第一」という方針を決め、社内ルールを大幅に見直しました。
コロナ禍が明けた後、会社を辞める人が後を絶たなかったため、この会社ではメンタルヘルスなどについての講習会を毎月のように開催するようになりました。
食品卸会社でのメンタルヘルスの講習会
オフィスのいたるところに休息を勧めるポスターやカウンセリングセンターの案内などを掲示しているほか、従業員が悩みなどを打ち明けやすいように従業員同士のつながりを強める工夫も始めています。
この日は月に1度の「フルーツデー」。
箱いっぱいのオレンジとブルーベリーが無料で全員に配られ、仕事の合間に和気あいあいと味わっていました。
さらに週に1度はオフィスにあるキッチンで数人の社員がランチを手作りします。お昼どきに希望者が集まり、一緒に食べて楽しい時間を過ごすのです。
社長は従業員のメンタルヘルスケアに特効薬はないとしながらも、大切なことはこうした仕掛けを通じて従業員が同僚や上司に助けを求めやすい環境を作ることだと言います。
食品卸会社「カントリー・フーズ」テリー・タン社長
タン社長
「重要なのは自分たちはスーパーマンではないと認識することです。従業員にはいつも『燃え尽きても大丈夫だ』と伝えています。泣きたい時は泣けばいいし、距離を置く必要があると感じたら数時間でも1日でも休む必要があるのです。
社長の私も『きょうは調子がよくないので1日休みたい。強くなってあす戻ってきます』と言えるのです。まだまだやるべきことはありますが人間を第一に考えることで成果につながるでしょう」
“燃え尽きた”後に気づいた幸せ
「燃え尽き症候群」に襲われたことをきっかけに大手IT企業を解雇されたチェンさん。
いま、職を失う前に始めた大学の非常勤講師の仕事を週に1回続けています。さらにユーチューブのチャンネルを開設し、自身の経験を話す活動も始めました。
大学で講義をするチェンさん
収入は5分の1以下にまで減り、貯金も使いながらの生活を送っています。しかし、大企業を解雇されて気付いたことがあると言います。
チェンさん
「かつての成功の定義はどれだけ肩書がよいか、家はどこにあってどれだけ大きいか、どんな車に乗っているかといったものでした。
しかし私にとって新しい成功の定義は自分の時間をコントロールできるかどうか、つまり疲れた時に一休みする自由を持っているかどうかになりました。自由を手に入れるとストレスが軽くなり、周りの人たちに優しくなれることに気付きました。
シンガポールの競争社会は一夜にして変わるものではありません。より大きなことを成し遂げたいと勤勉に仕事をするのは良いことです。しかしシンガポールも変わらなければなりません。新しい成功の定義はより多くの人が人生の選択肢を持てることだと思います」
「過剰な“ラットレース”に巻き込まれないように」
シンガポールはいま、国を挙げて「燃え尽き症候群」などの問題に向き合おうとしています。
メンタルヘルスへの対策は国家の優先課題だとして、政府は精神科医や心理学者の増員、専門職の育成、診療所のメンタルヘルスサービスの拡充を決定しました。
そして去年2月には、ウォン首相がシンガポールの「成功」のあり方について異例のメッセージを発しました。
ウォン氏
「われわれは人生で何を成功と考えるかという意識を変える必要がある。勤勉と卓越性を重視し、誰もが向上心を持って努力することを奨励する文化がシンガポールにあるのはよいことだ。
しかし他者に勝つためだけに知らず知らずのうちに過剰な“ラットレース”と終わりなき競争に巻き込まれ、社会を悪化させるべきではない」
60年前の独立後、シンガポールは唯一とも言える資源“人間”に負荷をかけ続けることで“シンガポールの奇跡”と呼ばれた驚異的な経済発展を成し遂げました。
しかし国が成熟して低成長の時代に入り、同じやり方を続けることが難しくなっています。
働く人たちの健康や幸福に向き合いながら、どうやって国の“競争力”を保っていくのか。シンガポールがひとつの曲がり角を迎えていると思います。
(2024年12月11日 国際報道2024で放送)
アジア総局ディレクター
白水 康大
2002年入局 主に報道番組のディレクター プロデューサーとしてニュース番組
クローズアップ現代 NHKスペシャルなどを制作 2023年9月から現所属