NEWS第二次世界大戦東京大空襲
真っ黒焦げになった死体の山。母に守られながらも死んだ赤ちゃん。14歳の少年が見た、東京大空襲後の「地獄」
東京大空襲の翌日、焼け野原を歩いた14歳の少年は、真っ黒焦げになった死体の山を目にしました。今、伝えたい記憶と思いとは。
Sumireko Tomita
2024年08月15日 10時35分 JST
「真っ黒焦げになった死体が重なっていた」
東京大空襲の翌日、焼け野原を歩いた14歳の少年は、東京に「地獄」を見た。
79年経った今でも、脳裏から離れない東京の焼け野原の光景だ。
終戦記念日を前に東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)で8月14日、小林暢夫さん(94)が第二次世界大戦中の経験を、親子連れ約80人に向けて語った。
東京大空襲について語った小林暢夫さん
Sumireko Tomita
小林さんが育ったのは、現在の東京都文京区にあたる本郷区根津片町。
初めて地元を空襲が襲ったのは、終戦の年の1月。自宅から徒歩5分ほどの距離にあった根津神社に焼夷弾が投下された。
若い男性たちは出兵して地元に残っておらず、中学生だった小林さんも梯子をかけて屋根に登り、消火活動に当たった。
「北風で燃え上がった火の粉が降ってくる。極寒の1月、氷が張ってしまっている防火用水の氷を叩き割って、必死に水をかけました。
日本の木造家屋を効率よく燃やすようにと米軍が作ったのが焼夷弾でした。水なんてちょっとかけても消えるはずない。けれど一生懸命やりました」
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今も、人差し指を見るたびに思い出す「戦争」
陸軍の軍人が中学校に来て、軍事教練を実施した。ズボンの裾の上などに着用するゲートルの巻き方が下手だったり、歩いていて解けてきたりしても、すぐにビンタをくらった。
「三八式歩兵銃」を持って訓練をしたが、150センチ足らずの中学生の小林さんの身長より銃の方が長く、重かった。
「疑問なんて持たない。銃を持って、訓練することが当たり前だと思っていた」
中学2年生からは、学徒動員で上陸用舟艇などをつくる砂町の軍需工場へ。その時に負った怪我は、今でも小林さんの右手の人差し指に残っている。
上陸用舟艇の試運転の際に右手の人差し指を挟まれ、指先は骨だけが残った。血が吹き出たが、怖くて「痛い」とも言えない。病院へ行ったが、当時の病院には既に十分な治療ができる余力もなく、消毒液を塗って包帯が巻かれただけだった。
「今でも、指を見ると戦争を思い出してしまう」
指先が変形してしまった人差し指を見て、小林さんはそう話す。
学徒動員での怪我で、指先が変形してしまった人差し指を見せて話す小林さん
Sumireko Tomita