統合失調症を患う兄を周りから隠していた両親。ある日介護者になって分かった「受容」の重要さ
「姉は両親に、兄を精神科医に連れて行き、診断と治療を受けるよう強く迫った。しかし両親は拒否した。当時24歳だった兄が『その時期から成長し脱する』と、まだ望んでいたのだ。
Mimi Nichter, ゲストライター
2024年11月16日 8時21分 JST
|更新 数秒前
筆者の兄の若い頃
Photo By Mimi Nichter
7歳の頃から、私と姉はずっと母にこう言われてきた。
「お兄ちゃんがどうしているか聞かれたら、『元気にしています』と答えなさい」
兄のジョエルは、人が家に訪ねにきても自分の部屋に閉じこもり、家族で親戚に会いに行く時も一緒に来ることはなかった。
友達を家に呼ぶのも気が引けた。ランニング姿でソファにどかっと座り、宙を見つめながら1人で笑っている兄の姿を見せたくなかったからだ。
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夜ベッドに横たわり、兄がトイレで立てる謎めいた音に耳を傾けた。薄い壁を通して、兄のつぶやきと忍び笑いが聞こえた。兄は私が理解できない言語で架空の聴衆に語りかけ、ヘビと話しているかのようにシューっと音を立てた。私は枕で耳を覆い、布団に深く潜り込んだが、無意味だった。
兄が抱える問題は「家系的」なもので、私の中にもあっていつか顔を出すかもしれないと怖かった。
兄はなぜほとんど笑わないのか、なぜ「イギリス海峡を記録的なタイムで泳ぐ」と自慢するのか、両親に尋ねたことはなかった。聞いてはいけないと思っていたからだ。
父はひとり息子を、ユダヤ系アメリカ人にとって尊敬される職業である医者にしたかった。兄の成績の悪さに失望し怒った父は、「バカな奴め、なんで普通にもなれないんだ?」などたびたび叱った。
兄の病気を否定し続けた両親
1950年〜1960年代、統合失調症は母親の育て方(子どもの乳幼児期やその後の母親の拒絶的な態度)のせいにされるのが常だった。
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両親がひとり息子の病気を否定し続けたため、兄は20代半ばになるまで診断されなかった。その結果、兄に必要なセラピーや薬物療法、社会的支援を提供する方法を、私たちは誰も知らなかった。
現在では、統合失調症は遺伝要因や脳内の神経伝達物質のバランスの崩れなどによるものではないかと考えられている。最近の調査によると、アメリカでは約370万人の成人が統合失調症あるいは他の統合失調症スペクトラム障害の既往歴があるという。
統合失調症の典型的な発症時期は青年期後半から成人期前半だが、認知機能障害はもっと早い時期に現れることもある。私の兄は13歳で自分の世界に引きこもり始めた。
問題は、特に当人に自傷や加害行為などの明らかな危険がない場合、家族が愛する人の変化に言葉を失うほどに混乱してしまい、しばしば助けを求めないことだ。
利用できる支援があるのに使わないと、苦しむ本人にとってネガティブな結果をもたらしかねない。
兄の問題が何かを知ったのは、姉が大学に入ってからだった。ある日、心理学の教授が統合失調症について講義した際、症状として存在しない人と話したり笑ったりする、妄想や無秩序な思考をしているなどと説明されたという。
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姉は両親に、兄を精神科医に連れて行き、診断と治療を受けるよう強く迫った。
しかし両親は拒否した。当時24歳だった兄が「今の状態から成長し脱する」と、まだ信じようとしていたのだ。
兄を家系図から消していた
両親がやっと兄を病院に連れて行き診断を受けた時、私は家を出て大学に通っていた。ベトナム戦争に抗議し、マリファナを吸い、家系図から兄を消していた。きょうだいがいるか聞かれても、「姉が1人」と答えるだけだった。
両親は私の大学時代の恋人、マークにずっと会わずにいた。会うとなれば、兄のいる実家にマークが来ることになる。マークには兄のことを話していなかった。
大学卒業後、マークと私はアフリカとアジアを16カ月間一緒に旅した。アメリカに戻った時は、一緒にマークの実家に滞在した。
私の両親がマークの実家に夕食を食べに来た時、心外にも兄のジョエルを連れてきた。30歳の彼は、年老い荒れた男性のように見えた。オーバーサイズのTシャツが、180センチの痩せた猫背の肩にかかっていた。しわくちゃのカーキ色のズボンの裾はふくらはぎの真ん中まで無造作に捲り上げられ、履き古したビーチサンダルを引き立たせた。
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マークの母親は私の方を振り向き、困惑した表情を見せた。
そしてマークも困惑した表情で私を見た。
私の顔は、自分の赤毛と同じ色になった。「兄です」と呟き、この場から今すぐ逃げ出したいと思った。
恥ずかしさを隠すように、私はあわてて両親を抱きしめ、その次に兄を抱きしめた。「Hi、ミミ」と兄は言い、私に軽くハグをし、ぎこちなく頬をくっつけた。
「おかえり」の後、兄が何を言うか分かっていた。食べ物やレストラン、トイレなど、彼の限られたトピックからの質問攻めだ。兄はスポーツ刈りの髪を、親指ともう一本の指で虫を追い払うかのようにはじいた。「食べ物はどうだった?アメリカ料理は食べた?トイレはどうだった?」と旅について質問してきた。
兄は返事を待たず、質問を早口でぶちまけた。まるで忘れる前に全てを言おうとしているかのように。
母が他界。突然兄の介護をすることに
兄のジョエルは人生の大半を両親と暮らし、1980年代には両親と共にニューヨークからフロリダに引っ越した。
父が亡くなって数年後、当時50代だった兄は母の近くに自分のアパートを借りた。兄は毎日母を訪ね、一緒に食事をした。
兄は友人も恋愛関係もなかった。
母は兄の精神疾患について決して話さなかった。
その後数年間、私は母と兄を毎年訪問した。
当時、兄は薬物療法を受けていたが、服薬しないことも多かった。
私の息子たちが10代半ばから後半になるにつれ、異常な行動を取るたびに、兄のようになるのではないかと心配になった。子どもたちが兄みたいになることはなかった。
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2001年に母が亡くなり、姉と私は突然、ほとんど関わりを持たずに過ごしてきた兄の介護をすることになった。何を期待されているのか検討もつかなかった。母は自身の死後に備えて兄のために計画を立てていたかもしれないが、共有されてはいなかった。
それから10年間、私はアリゾナ州からフロリダ州まで、頻繁に兄を訪ねた。彼の日々のルーティンは明らかだった。「歯磨き」や「新聞をとりに行く」など、長い「やることリスト」を作った。水を飲むことを忘れぬよう、折りたたみ式のテーブルに6つの赤いプラスチックカップを完璧に並べた。毎日バスで同じ時間にチェーンのビュッフェレストラン「ゴールデン・コーラル」に行き、必ず同じものを食べた。
Bicのペンのパッケージが新しくなった時には、もともとのパッケージを探して一緒に何時間もかけてお店を回った。彼の老眼鏡が壊れた時は、新たなメガネを買うことを拒み、代わりにテープで補修した。
兄への気持ちの変化
時が経つにつれ、私は兄の病気がもたらす彼の特異性が、彼のユニークな精神に寄与していると理解した。彼の風変わりな生活儀式は、日々の構造と安らぎを与えてくれた。
一方、どんな変化もストレスと混乱をもたらした。
しかし、介護する中で最も難しかったのは、兄の日常生活を助けることではなく、彼と適切にコミュニケーションをとることを学ぶことだった。
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私は兄に対して、両親のように見下した話し方はしたくなかったが、それ以外のお手本がいなかった。
兄が薬を飲むのをやめたと言った時、私は母が「薬を飲まないと施設に入れるよ」と言っていたことを思い出した。私は代わりに、薬を飲み続けることの重要性について、敬意を持って彼と話す方法を見つけた。コントロールしようとしないよう、どうにか会話を切り抜けていた。
著者のフロリダ訪問中の写真。兄のジョエル(左)と筆者(右)
Photo Courtesy Of Mimi Nichter
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何の変化も示さない兄と親密な関係を築くのは難しかったが、統合失調症を患いながらも「高機能」である兄に、尊敬の念を抱くようになった。
兄に近くに引っ越してもらうことも考えたが、それは彼に大きな混乱を引き起こすだろうと断念した。
珍しく兄がアリゾナ州を訪ねてくれた時、私の仲良しの友人も一緒に、兄の小さい頃からの趣味であるコイン収集の店を巡ったり、「ゴールデンコーラル」で夕食を食べたりした。
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友人は兄の奇妙な会話にも動じず、障害のある彼を、そのまま受け入れた。私が長年抱えてきた兄への羞恥心は、受容する心に変わり始めた。
兄のアパートを去るとき、彼は私を見て半笑いしながら「ミミ、会いにきてくれてありがとう。とても楽しかった。近いうちにツーソンに会いに行くよ」言った。きっと兄の中でも何かが変わったのだろう。今振り返るとそれが最後の訪問となった。
オープンな会話ができていたら...
兄のジョエルは67歳で眠るように息を引き取った。統合失調症を患う人にとっては長生きだった。新聞が取り込まれていないことに隣人が気づき、亡くなっているのがわかった。
母が亡くなった時、兄の介護をどうすればいいのか見当もつかなかった。アメリカの成人の約5人に1人は、両親や祖父母、配偶者やパートナー、慢性的な精神的・身体的問題を抱える兄弟姉妹など、家族の一員を無償で介護していると考えられている。そしてみな私と同じように、介護の複雑さを知らず、援助を提供してくれる可能性のある医療制度にたどり着くことができず、その責任の重さに押しつぶされそうになっている。しかし、そんな思いをする必要はない。
兄の将来のケアについて、家族がオープンで愛に満ちた話し合いができていたら、と思う。兄の障害に羞恥心がつきまとっていなかったら、私は質問をして、彼の病気について勉強し、介護者としての感情の浮き沈みについて学んだだろう。
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兄の介護は私にとってはチャレンジであり、苛立たしいことも多かった。でもそのおかげで、特に慢性的な精神疾患と共に生きる人々に対し、より思いやりを持てるようになった。
もし兄が今も生きていたら、彼は家族の「秘密」になんかならなかっただろう。彼は彼自身のままで、家族全員から愛され大切にされていることを感じられるようにしただろう。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。