「われわれは対空砲兵を配置していた。万が一にも、日本兵の襲来があるかもしれなかったからだ」
1945年9月2日、東京湾に停泊したアメリカ軍の戦艦ミズーリの甲板上で、日本は連合国との間で降伏文書に調印した。
このときの様子を、戦艦ミズーリの艦長が部下に命じて独自に撮影させ、証言を収めたテープとともに家族に残していた。
そこからは、日本の戦後の始まりとなった歴史的瞬間の新たな側面がみえてきた。
(ロサンゼルス支局長 小宮理沙)
艦長が残したフィルムとテープ
「降伏文書の調印式の様子を独自に撮影したフィルムが自宅にある」
終戦から80年となったこの夏、当時のことを調べていると、こう話す人を見つけた。私たちは、さっそく本人に会いにアメリカ東部コネティカット州に向かった。
マレー元艦長の孫 ジョン・マレーさん
温かく迎えてくれたのはジョン・マレーさん(68)。第2次世界大戦末期に戦艦ミズーリを率いたスチュアート・マレー艦長の孫だ。
背が高く、がっしりした体格は祖父似だ。祖父は威圧感がありながら、どこか親しみやすさもあったという。
戦艦ミズーリ スチュアート・マレー艦長(右)とトルーマン大統領
そのマレー艦長が残した16ミリフィルムと証言が収められたカセットテープをジョンさんは大切に保管していた。
16ミリフィルムとカセットテープ
玉音放送の後も続いた“日本軍への警戒”
テープには、戦後30年近くたってから、孫の1人に頼まれて録音したという、およそ2時間の回想が収められていた。
この中で、マレー元艦長は、調印式の数日前の状況を鮮明に語っていた。
マレー元艦長
「8月29日、われわれは東京湾までいき、降伏調印式が行われる横須賀沖に停泊した。東京湾の入り口に着くと、日本軍は丘の上に巨大な重砲を多数配置していた。彼らは砲口を空に向けていたが、砲口を下げてわれわれに向かって撃ち始めないとも限らなかった。だから、われわれは万が一に備えて、補給艦などを後方に待機させていた」
マレー艦長(マレー家提供)
昭和天皇が国民に終戦を告げた8月15日の玉音放送から2週間がたつ中でも、アメリカ側は警戒心を抱いていた。
横須賀には、戦艦「長門」の姿も。7月下旬に空襲を受け戦闘不能の状態になっていたが、そのことを知らなかったマレー艦長は、落ち着かない夜を過ごしたという。
そして、緊迫感は調印式当日も続いていた。
マレー元艦長
「9月2日、明るく澄んだ気持ちのよい日曜日の朝、われわれは対空砲兵を配置していた。万が一にも、日本兵の襲来があるかもしれなかったからだ。(連合国側の)人々が大勢集まっていて、またとない機会だっただろう」
戦艦ミズーリ(1945年)
よみがえる80年前の映像は
具体的な証言に満ちたカセットテープ。
一方、16ミリフィルムにはどんな映像が収められているのかは分からないという。
ジョン・マレーさん
「映写機がないから、フィルムをみたことがないんだ」
私たちが、古いフィルムも扱える映像技師がいると伝えると、ジョンさんは喜んで家族とともに技師を訪ねた。
フィルムが映写機にかけられると、モニターの画面には、白黒の映像が映し出された。
「すごい、思っていた以上にきれいだ」
ジョンさんは興奮気味につぶやいた。
調印式の前にロープを伝って戦艦ミズーリへ移動する関係者とみられる映像(マレー家提供)
繰り返したシミュレーション
フィルムには、調印式の前から、式の終わりまでの様子が収められていた。
そこには、日本の代表団が到着する姿も写っていた。
先頭にいたのは、当時の重光葵外務大臣。十数年前に起きた爆弾事件のため、右足は義足だった。
重光葵外相(マレー家提供)
式典の準備を任されていたマレー艦長は、対応に頭を悩ませていた。
式の進行には1秒たりとも遅れは許されない。足の不自由な重光大臣が、乗船し所定の位置に移動するのにどれくらい時間が必要なのか、予測できなかった。
そこで、若い船員を重光大臣にみたて、シミュレーションを重ねたという。
マレー元艦長
「重光氏の移動時間を把握するため、棒のような物を若い船員のズボンのすそに差し込み、ボートから出てはしごを上らせた。何度も繰り返させ、どのくらい時間がかかるのかを計った。
わたしの記憶では、ボートから出て、はしごを上り、甲板を横切り、さらにはしごを上って、降伏文書の署名が行われる甲板まで行くのに、およそ1分半かかった。
若い水兵たちは重光氏よりもはるかに活発に動けるだろうと考え、時間を2倍の3分としたうえで、念のため、さらに1分を追加して4分とした」
艦長の読みは甘かった。日本の代表団は、午前8時55分に乗船を開始し、甲板に整列し終わったのが午前9時2分。想定を3分、オーバーしたのだ。
マレー元艦長
「彼らはまるで心の中でうめき声をあげているかのように、重光氏とともに、はしごを上ってきた。重光氏は、心ここにあらずという感じだった。はしごをゆっくり上り、甲板を横切り、もうひとつのはしごを上ってきた。彼らの動きは本当に遅かった」
日本の代表団(マレー家提供)
調印用のテーブルは急ごしらえ
重光大臣をめぐるエピソードは、これだけではない。降伏文書に署名する際、ハラハラする瞬間があったという。
マレー元艦長
「マッカーサー元帥が、重光氏を署名のために呼ぶと、彼はやって来て、義足をテーブルの下に突っ込んで動かした。義足は、折りたたみ式のテーブルの下の支え棒にあたった。われわれは、テーブルが崩れすべての文書が床に落ちるのではないかと、息をのんだ。そうはならず、大丈夫だった」
降伏文書に署名する重光外相(マレー家提供)
実はこのテーブル、式の直前にあわてて戦艦の食堂から持ってきたものだった。
当初、イギリス側が、マホガニーでできた美しいテーブルを用意したが、当日になって、小さすぎることが判明。
艦長が部下とともに、艦内で使えるテーブルを探し回り、急場をしのいだと明かしている。
日本と連合国に“差をつけない”演出
もうひとつ、マレー元艦長は印象に残っている場面を語っている。
それは、各国の代表団が乗船する際のことだ。
敬礼する人々(マレー家提供)
マレー元艦長
「日本人も含めて、乗船する人々への敬意を表する際に、一つ特筆すべきことがあった。彼らを迎え入れたのは、脇に並んだ兵士たちと、敬礼だけだった。戦艦ミズーリの軍楽隊が軍楽を演奏していたが、どの国に対しても行進曲や国歌は演奏されなかった。つまり、誰が乗船してきても、(扱いに)差はなかった」
80年の時を経て、初めて重なりあった映像と証言。
ジョンさんは、祖父が残してくれたフィルムをみて、これまでになかった思いを抱いたという。
ジョン・マレーさん
「実際に(映像を)見て、日本の代表団が感じていた痛み、恥辱、屈辱感を想像してみた。日本の代表団がどんな気持ちだったかを想像し、敵の巣窟に足を踏み入れ、歴史的な文書に署名することに対して共感と哀れみの感情を抱いた。子供の頃、連合国側から語られる、その瞬間の喜びばかりを聞いて育ったが、映像を見ながら、ふと相手側について考える自分がいた」
「公式記録に出にくい“裏方”の回想」
ジョンさんにとっては、ファミリーヒストリーの一部であり、思い入れの深いこれらの資料。歴史的にはどれだけの価値があるのか、専門家に話を聞いた。
軍事史に詳しい明治大学の山田朗教授によると、調印式についての資料は多くないため、映像や証言があること自体が貴重だという。
明治大学 山田朗 教授
証言テープについては、家族に向けて録音されたことから、艦長にとって印象に残っている出来事や苦労したことなどを肩ひじ張らずに語っている点でも価値があると評価している。
山田教授
「裏方準備をした人たちがどういうことに気をつかったかなど、今までとは違った角度の回想だと思うので、非常に興味深い。重光外相の義足のことなど、ひょっとしてテーブルがひっくり返ってしまうのではないかというのは、まさに準備をした裏方の心配。こういうのは、なかなか公式の記録には出てこないことなので面白い」
また、日本の代表団を戦艦に迎え入れるときには、連合国と扱いに差をつけなかったという証言については、こう分析している。
山田教授
「非常に儀式を簡素にして、逆に言うと強烈な屈辱感を日本に与えないようにしている。降伏文書の調印式というのは、負けた側からすると、どうしても屈辱的な場になりやすい。これから占領統治しなければいけないという、アメリカ側の思惑、日本側を刺激するのは得策ではないという思いが、セレモニーのあり方にも込められているのではないか」
ジョンさんは、祖父が残した記憶を、自分の子どもや孫にも、次の世代へと伝えていってほしいと話していた。
当事の人たちがどんな思いを抱き、どう行動したのか、その結果はすべて現在につながっている。
戦後80年がたち、当時のことを直接知る人が少なくなるなかで、一つ一つの資料をひもとき、歴史を見つめ直していくことが大切なのだと改めて感じた。
(9月6日 おはよう日本などで放送)
ロサンゼルス支局長
小宮 理沙
2003年入局
金沢局 国際部 シドニー支局などを経て2025年から現所属
アメリカ社会を中心に取材
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