田端義夫 名曲
https://www.youtube.com/watch?v=HUoHgFDeYIg
1. かえり船 作詞:清水みのる 作曲:倉若晴生
2. 大利根月夜 作詞:藤田まさと 作曲:長津義司
3. 島育ち 作詞:有川邦彦 作曲:三界 稔
田端義夫 . 大利根月夜
昭和14年
作詞:藤田まさと 作曲:長津義司
https://www.youtube.com/watch?v=NmNLXy7jtn8
粗い映像は、ご容赦ください。
映画天城越えから来ました 。
唄は世につれ、世は歌につれ、日本人の心の歌、歌謡曲、民謡、童謡、音頭、日本国民が歌い続けてきた歌は、そのまま日本人の歴史と国民の心の歴史でもあり日本文化です。
人生の時は無常に流れ、聞きなれた歌も、口ずさんだ歌も今では聞こえず、時には悲しみを思い出し涙し、時には心を奮い立たせ夢に向かって頑張る心を持たせてくれた日本の歌、そんな日本の歌をいつまでも歌い継いでいきましょう。
大利根月夜 (오오토네츠키요) 田端義夫 (타바타 요시오)
作詞:藤田まさと 作曲:長津義司
1
아레오 고란토 유비사스 카타니
あれを御覧と 指差す方に
저것 보아요 라고 손가락 가르키는 곳에
토네노 나ㅇ가레오 나ㅇ가레츠키
利根の流れを ながれ月
토네강의 흐름따라 흘러가는달
무카시 와로오테 나가메타츠키모
昔笑うて 眺めた月も
옛날 웃으며 바라본 달도
쿄오와 쿄오와 나미다노 카오데미루
今日は 今日は涙の顔で見る
오늘은 오늘은 눈물어린 얼굴로 보네
2
구치자나케레도 요ㅇ가 요데아레바
愚痴じゃなけれど 世が世であれば
푸념 아니지만 세상이 세상다우면
殿の招きの 月見酒
토노노 마네키노 츠키미자케
영주님 초청으로 달구경 술
오토코히라테토 모테하야사레테
男平手と もてはやされて
남자다운 히라테라고 칭찬받았었지
이마쟈 이마쟈 우키요오 산도 카사
今じゃ 今じゃ浮世を三度笠
지금은 지금은 뜬세상의 삼도삿갓
3
모토오 타다세바 사무라이소다치
もとをただせば 侍育ち
근원을 밝힌다면 사무라이 출신
우데와 지만노 치바시코미
腕は自慢の 千葉仕込み
솜씨는자랑이라면 치바 수련생
난가 후소쿠데 오오토네구라시
何が不足で 大利根ぐらし
무엇이 부족에서 오토네 생활
코쿄오쟈 코쿄오쟈 이모오토가 마츠 모노오
故郷じゃ 故郷じゃ妹が待つものを
고향은 고향은 여동생이 기다리는 것을
걸이 기다리고 있는 걸
田端義夫 - 大利根月夜
https://www.youtube.com/watch?v=Gh4eXVVQxIg
https://www.youtube.com/watch?v=TiAAFZ1Lrmk
懐メロカラオケ 「大利根月夜」 原曲♪田端義夫
https://www.youtube.com/watch?v=5eyMDb9qj4g
田端 義夫(たばた よしお、1919年(大正8年)1月1日 - 2013年(平成25年)4月25日)は、日本の歌手、ギタリスト。本名:田畑 義夫(読み同じ)。第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍した。愛称はバタヤン。水平に構えて持つ、アメリカのナショナル・ギター社製エレキギターと独特の哀愁を帯びた歌声、「オーッス!」という威勢のよい挨拶がトレードマークで、広く国民に親しまれた。
経歴
三重県松阪市生まれ。
3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため慢性的な栄養失調であった。トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。
13歳より名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公]。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、みずから音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく(ベニヤ板の板切れで作った音の出ないギターを“イター”と呼んでいたという)。
昭和13年(1938年)、ポリドール・レコードの新人歌手北廉太郎の宣伝のため「伊豆の故郷」を課題曲とした新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールに出場することを姉から勧められ、優勝する。
ポリドールの勧めで上京し、鈴木幾三郎社長宅の書生となる。その時に知り合った同じ鈴木宅の書生が、「オースッ!」と挨拶することにヒントを得て、後にステージに出演する際に、田端義夫のトレードマークとも言うべき威勢のいい挨拶が生まれている。
昭和14年(1939年)、同じく新進作曲家の倉若晴生の手による「島の船唄」でデビュー。当時は同じ会社の先輩に倣って、眼鏡をかけ、いがぐり頭の新人歌手として登場している。デビュー曲が当時レコード販売会社の組合で制定していた《ぐらも・くらぶ賞》を受賞するという快挙に恵まれ、その後も「里恋峠」、長津義司昨曲「大利根月夜」、「別れ船」「梅と兵隊」とヒットを続け、同じ会社のスター東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を築いたのである。
昭和16年(1941年)、日本橋きみ栄らとともに中国大陸に戦地慰問にも赴くが、その後は主に国内の軍需工場や基地を中心に終戦まで慰問活動を続けた。
終戦後、レコード販売を止めていたポリドールを辞し、昭和21年(1946年)にテイチクに移籍。累計180万枚を売り上げた 「かえり船」のヒットを出す。戦前の流れを組むマドロス歌謡で人気を博し、「かよい船」「たより船」長津義司作曲「玄海ブルース」と昭和20年代を代表するスター歌手として岡晴夫、近江俊郎らとともに戦後三羽烏と呼ばれた。
スクリーンにおける活躍は早く、昭和15年(1940年)に松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」に旅人役として出演したのを皮切りに、戦後は、大映映画「淑女とサーカス」「肉体の門」、新東宝映画「底抜け青春音頭」「アジャパー天国」など、喜劇映画を中心に多くの出演作品を残している。
平成25年(2013年)4月25日午前11時45分、肺炎のため東京都世田谷区の三軒茶屋第一病院で死去。94歳没。