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私が在宅医療を始めた30年近く前、千葉県の南房総地方では、多くの患者さんは家族に愛され、家族は「私がこの人を見てあげるんだ」という気持ちを持ち、愛情あふれる介護環境が成立していました。ところが今、私が診ている患者さんたちの中には、家族関係に行き詰まり、社会から孤立し、行き場を失って頼るべき場所を持たない人が少なくありません。最近、そのような患者さんの中でも特徴的な人を診察しました。
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ある日の夕方、帰宅準備をしていると地域のケアマネジャーから連絡がありました。「今日初めてうかがったお宅の患者さんの状態があまり良くないので、先生に診てもらえませんか」
もう2週間ほど何も食べておらず、褥瘡(じょくそう=床ずれ)もできているというのです。もしそうなら危機的な状況です。すぐ往診に向かいました。夜でしたがケアマネジャーも同席してくれました。
患者は80歳の女性。5年ほど前に大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)骨折の手術をしてから寝たきりになりました。娘夫婦は介護サービスをまったく利用せず、自分たちだけで介護を続けていたとのこと。ここ1~2年は認知症が進行し、大きな声を上げることも多かったそうです。
8月末から急に食事を取らなくなり、困った家族は市医師会の在宅ケア連携室に相談し、ある訪問医を紹介してもらいました。しかし彼は「何でこんな状態で入院させないの? とにかく紹介状を書くから病院に行くように」と言うだけ言った後、「私は今日、頼まれて来ただけだから今後は訪問しない」と言い残し、紹介状を書して帰っていったというのです。
「家族で面倒を見る」という規範
家族が紹介された病院は「予約を取ってから来てくれ」と言うばかりで、結局受診したのは訪問医の往診から1週間後。しかも、皮膚科の外来で褥瘡の処置法を教えられただけでした。認知症の症状があるという理由で入院もさせてもらえなかったといいます。次の外来予約もできず、困り果てた家族が地域包括支援センターに連絡し、ケアマネジャーさんが決まり、私たちの訪問診療につながったのです。
訪問したとき、女性は常に「あー、あー」と大きな声を出している状態。極端にやせ、お尻の周囲に褥瘡が複数あり、いくつか皮下出血も見られました。鎖骨が折れている疑いがあり、手足の先は循環不全で紫色に変色していました。家族によると「食事らしい食事はまったく取れない状態」とのこと。ここ数日で大声を出すようになり、ベッドからも何度か落ちたといいます。経験上、入院してもおそらく救命が難しいことが予想される状況でした。
私は家族に、これまでなぜ医療機関を受診しなかったのか、入院させなかったのかを尋ねました。すると「認知症があるので入院させてはいけないと思っていた」と答え、これまでの経緯を話してくれました。家族は、できれば女性を入院させたいと言います。私は、ここまでの状態になってからではたとえ入院しても、救命は難しいと思うと説明し、そのことを承知してもらった上で入院先を探すことを伝え、了承してもらいました。
本人の状況から、虐待も否定できないと考えた事案でした。家族を分離するためにも入院が最善と判断し、近くの病院の地域包括支援病床の看護師さんに連絡し、翌日には受け入れてもらえることになりました。女性はその2週間後、病院で亡くなりました。レントゲン撮影で骨折が複数箇所あることもわかり、虐待が疑われるため警察が介入したとも聞きました。
家族のSOSに見て見ぬふりをした医療システム
今回のケースでは、医療システムがうまく機能しませんでした。容体が悪化した後、女性の家族は何度か医療、介護関係者に助けを求めています。そして一度は医師が往診しましたが、「なぜ入院させなかったのか」と家族を責めるだけで、継続フォローすることなく、入院を勧めながら積極的にかかわろうとはしませんでした。
また病院受診時には、明らかに容体が悪いのに皮膚科の医師が内科への紹介や入院ベッド確保に動かず、ただ自宅に帰しています。助けを求める家族のSOSがあったのに、医療システムが本腰を入れて患者と家族の救済に向かうことはありませんでした。
家族にとってもう一つの悲劇は、彼ら自身が「認知症の親は自分たちが責任を持って介護しなければならない。入院させてはいけない」と思い込んでいた節があることです。もしかしたらお金の問題だったのかもしれませんが、思い込みの影響は大きかったのだろうと考えています。
高齢者虐待や児童虐待報道を見ない日はありません。私は今回のような認知症高齢者のケースを見て、子どもを虐待する親の問題とつながっているように思えてなりません。どちらにも「子育てや介護は家族の責任」という考え方が根底にあり、生活力に欠ける家族が子どもや要介護者を抱えて孤立し、そのひずみとして虐待やネグレクトにつながることが多いからです。
私は最近、多くの人に「家族は自分のできる範囲で介護にかかわればよい、もしかかわれないなら無理してかかわらなくてよい」と話すことが増えました。その人がその人らしく過ごせるよう支援するのは、援助を生業とする私たちのようなプロフェッショナルの責任と考えるからです。なぜなら、少子高齢化が進む私たちの社会ではいや応なく、以前は機能した「家族という制度」が成り立たなくなりつつあることが明らかだからです。
「家族という機能」に代わる新しい仕組みを
30年近く前、私が千葉県鴨川市で在宅医療を始めた当時、要介護の人の子どもは平均4人ほどでした。今、私がクリニックを開く神奈川県相模原市で介護を受ける人の子どもは、その半分の2人ほどに過ぎません。2000年以降に結婚した夫婦の子どもの平均人数は2人を切っています。
それ以前に、45歳までの男性の3人に1人は未婚なので、彼らが80歳を迎える50年には、80歳の男性の3人に1人が生涯未婚の可能性が高いのです。家族を持たない高齢者が社会の中で増えるということです。
憲法改正を打ち出す自民党は、「家族は助け合わなければならない」と訴えます。私も心情的には家族は助け合った方がいいと思います。でもそれは心の問題であって、社会制度として取り扱うべきではありません。なぜなら、家族という単位が今後急速に縮小し、希薄化することが人口学の視点からは明らかだからです。
過去機能していたように見える「家族」は今後さらに脆弱(ぜいじゃく)になるでしょう。今構築しなければならないのは、家族に代わる、あるいは家族機能を補完する新しいシステムです。以前も書きましたが、身体的健康だけではなく、今回私が経験したような社会的な不健康状態の改善に、もっと予算を振り分けるべきです。社会や私たちの心の中にある「家族が見るべきだ、家族が責任を持つべきだ」という「古い規範」を捨てるべき時が来つつあります。
もし、仲間を支える責任は社会全体にあり、私にもその責任の一端があるのだと関係者みんなが考えていたら、今回のような悲劇を防げたかもしれません。専門家や政治家が「家族が見て当たり前だ」と考えている限り、悲劇は繰り返されます。今後さらに少子高齢化が進むなか、国は社会的健康を守る制度と予算をきちんと担保すべきでしょう。