「殺してほしい」男が狙ったのは、そんな人ばかりだった。元警視庁捜査1課幹部が見た、SNS時代の「嘱託殺人」
元警視庁捜査1課理事官・副島雅彦さんが自ら綴るシリーズ【「捜査の神様」が与えてくれたもの】。第1回のテーマは、「嘱託殺人罪」についてです。副島さんは、事件現場で何を見て、何に違和感を抱き、どんな葛藤を胸に捜査と向き合ってきたのでしょうか。
副島雅彦
2026年05月11日 7時0分 JST
|更新 2時間前
記憶に強く残っている事件がある。
2019年9月12日夜、東京・池袋のホテルの一室で、布団の圧縮袋とシーツに包まれた状態の女性が見つかった。
最初に異変に気づいたのは、清掃に入った従業員。「シーツに包まれた物体がある。遺体かもしれない」ーー。
この110番で事件が発覚した。
私は警視庁捜査1課の理事官(警視)として現場に臨場し、初動捜査の指揮をとった。
防犯カメラの回収や被害者が残した携帯電話の解析を急ぎ、逃走中の被疑者の特定を進めた。
次の犯行が起こらないとは限らない。一刻の猶予もなかった。
捜査は、回収した防犯カメラの映像をつないで足取りを追う「リレー捜査」によって大きく進展した。
映像には、12日午後にキャリーケースを持って入室した若い男が映っていた。その後、被害女性も同じ部屋に入ったが、夜に出てきたのはその男だけだった。
さらに、その男は、徒歩でJR池袋駅方面へ移動していた。追跡の結果、関東に住む大学生の男と判明。捜査員が交代で「行動確認」を続け、男の動きを監視した。
そして、事件発覚から6日後の9月18日。警視庁はこの男を、女性の首を圧迫して窒息死させたとする殺人容疑で逮捕した。
男の自宅からは女性の所持品が見つかり、携帯電話の解析などから、被害女性に“自殺願望”があったことも分かった。
逮捕後、男は「教員採用試験に失敗し、自殺を考えるようになった」と供述。その上で、こうも語った。
「自分と同じような自殺志願者を3〜4人殺した後、自殺するつもりだった」
女性の遺体が見つかったホテルに入る警視庁の捜査員ら(2019年9月13日、東京・池袋)
時事通信社
「嘱託殺人」の枠に収まるのか
この男の供述を部下から聞いた時、私の胸には強い違和感が残った。
携帯電話の解析などから、被害者に自殺願望があり、男に「殺してほしい」と自ら依頼していたことは事実だ。
その場合、検察は「殺人罪」ではなく、「嘱託殺人罪」での起訴を検討するだろう。実際、被害者から「嘱託があった」ことは否定できない。
だが、それでもなお引っかかる。
嘱託殺人の法定刑は、「6月以上7年以下の懲役または禁固」。一方、殺人は「死刑または無期もしくは5年以上の懲役」だ。(※現在は懲役・禁錮から拘禁刑へと移行)
この事件は、単なる「嘱託殺人」の枠に収まるものなのか。
男は「自殺志願者を3〜4人殺した後…」と供述している。つまり、「人を殺したい」という欲求が先にあり、その対象として“自殺願望のある人”を選んだ可能性がある。
言い換えれば、手っ取り早く殺人を実行するための“条件”として、自殺願望のある人に狙いを定めたのではないか。
この線は、これまでの男の行動とも一致する。
事件の約2カ月前、男はSNSで自殺願望のある複数人に対し、「自殺を手伝う」などとメッセージを送っていた。
この時は接触に至らず、未遂に終わったが、その約1カ月後、メッセージを送った相手の一人から「私を殺してくれませんか」と返信が届く。
それが、今回の被害者だった。
結果的に、迅速な逮捕によって連鎖は断ち切られた。だが、一歩間違えば、同様の事件が2件、3件と続いていた可能性も否定できない。
こうした経緯を踏まえ、私はこの事件を「嘱託殺人」としてではなく、「普通殺(通常の殺人罪)」で起訴できないか、と考えていた。
元警視庁捜査1課理事官の副島雅彦さん
Keita Aimoto / Huffpost Japan
「殺人」での起訴は困難
しかし、男の起訴罪名は結局、「嘱託殺人罪」となった。
東京地検は2019年10月9日、男を逮捕容疑の「殺人」ではなく、「嘱託殺人」で東京地裁に起訴した。
刑法理論上、殺人罪での起訴は困難だった。証拠を総合的に考慮し、「殺害の依頼があった」と認定された結果だった。
殺人も、嘱託殺人も、「人を殺害する」という行為自体は同じだ。だが、被害者の嘱託(同意)があれば、違法性は軽減されるということになる。
そして、両者が競合する場合、嘱託殺人が優先される。この理論を突き詰めるとどうなるか。
極端な話、被害者の同意さえあれば、100人を殺しても死刑にならないのではないか。
前述の通り、嘱託殺人は「6月以上7年以下の懲役または禁固」。複数の嘱託殺人で併合罪が適用されたとしても、上限は10年6月にとどまる。
それは果たして、社会の感覚と一致していると言えるだろうか。
近年の「嘱託殺人」事件(一部)※ハフポスト日本版が作成
ハフポスト日本版
「座間事件」嘱託殺人を主張していたら…
本来、嘱託殺人とは、事件の経緯を鑑みて、「通常の殺人罪で裁くのは酷である」という発想から生まれたものであると認識している。
例えば、重い病に長年苦しむ家族から「頼むから殺してくれ」と嘱託され、介護疲れの中でそれに応じてしまった。そうしたケースである。
しかし、池袋で起きた事件では、男が自ら「自殺を手伝う」とメッセージを送っている。自らの都合で対象を選び、実行した殺人である。
実際、男に懲役5年の判決を言い渡した東京地裁の判決(2020年4月6日)も、「人命を軽視した反社会的な犯行」「軽々しく自殺に関与することが人助けであるはずはない」と指摘している。
このような事件を、「殺人」ではなく、法定刑の軽い「嘱託」という枠組みで裁くことに、被害者遺族や社会が納得するだろうか。
2017年10月30日に発覚した「座間事件」では、SNSに自殺願望を投稿するなどした人たちが被害に遭った。
男女9人を殺害した男は、「死にたがっている被害者は1人もいなかった」と供述。殺人罪が適用され、死刑判決を受けた。
もし仮に、男が徹底して嘱託殺人を主張していたらーー。同じ結論に至ったのだろうか。
私は疑問を拭えない。
9人の遺体が見つかった座間事件。アパートの前に集まる警視庁の捜査員ら(2017年10月31日、神奈川県座間市)
時事通信社
「尊属殺人」の規定は削除された
かつて、日本の刑法(旧200条)には、「尊属殺人」という規定があった。
尊属というのは、親や祖父母らを指す。つまり、親などを殺害した場合に適用されてきた。
その法定刑は「死刑または無期懲役」に限られ、たとえ被害者側にDVや性暴力など深刻な落ち度があった場合でも、死刑または無期懲役以外の選択肢がないという極めて重い刑だった。
しかし、最高裁は1973年、この規定について、「法の下の平等」を定める憲法14条に反すると判断。その後、検察は尊属殺人を普通殺人として扱うようになり、1995年には規定自体が削除された。
これは、社会の感覚と乖離した法が見直された一例と言えるだろう。
では、現代はどうか。
テクノロジーの発達により、加害者と被害者は容易に接触できるようになった。
嘱託殺人も、介護など家族内にとどまるだけでなく、池袋で起きた事件のように、SNSなどを介して見ず知らずの他者との間でも起き得る時代になっている。
私が担当した事件は、そうした現実を突きつけた。
尊属殺人がそうであったように、嘱託殺人もまた、見直しの時期に来ているのではないか。
通常の殺人罪として扱えるように法改正を行うのか。あるいは、「刑法202条」(自殺関与及び同意殺人)の量刑の幅を広げるのか。
いずれにせよ、国民感情と乖離した制度は、長くは持続しない。
「100人殺しても死刑にならない」ーー。
そうした極端な話すら、現行制度の延長線上では決して、「荒唐無稽」とは言い切れない。
(執筆・副島雅彦、編集・相本啓太)
※事実関係はいずれも当時時点
【あわせて読みたい】【元警視庁捜査1課理事官】シリーズ「『捜査の神様』が与えてくれたもの」を始動。「私に残された唯一の役割」
◆副島雅彦さんプロフィール
福岡市生まれ。1985年、警視庁に入庁。刑事警察に25年携わり、うち16年は殺人や強盗などの凶悪犯罪を扱う捜査1課に在籍した。
警視としては、警察署の刑事組織犯罪対策課長や、知能犯を担当する本部捜査2課の管理官を歴任。
2016年から捜査1課管理官(殺人・庶務)。2019年から捜査1課ナンバー2の理事官として、捜査1課長を支えた。
2020年に退職。
これまでに、「ルーシー・ブラックマンさん失踪事件」や「船戸結愛ちゃん虐待死事件」など、数多くの重大事件の捜査に携わってきた。