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一、イスラムとは
イスラムとは、「自らをささげて神のもとに帰ること」を意味します。ですから「イスラム教」とは、日本流に言うならば「神に帰る道」とでも言えるでしょう。イスラム教のことを「回教」と言うこともありますが、これは中国から来たあまり感心しない呼び方で、なるべく「イスラム教」と呼んだほうがよいでしょう。
イスラム教の特徴は、宗教(儀式も含めて)が日常生活と一体化していることです。そのため、イスラム教はそれ自体の法律を持っています。これが「イスラム法」(シャリア)です。
二、イスラム教徒
イスラム教徒のことを、モスレム(ムスリム)と言います。
狭義では、「アラー以外に神はなく、ムハンマド(マホメット)は神の使徒である」(イスラム教の信仰告白)という信仰を持ち、「神に対する信仰とは、礼拝を行い、毎年の断食を守り、巡礼を果たし、献金を支払うことである」(マホメットの言葉)を実行する人のことをいいます。
しかし、広義では、イスラム教が誕生する以前の人であるアブラハムもモーセもイエスもモスレム(イスラム教徒)であると言っています。すなわち、正しい信仰を持つ人は皆、モスレムであるわけで、そのような意味では、私たちもイスラム教徒であるといえます。
三、アラー(神)
アラーがイスラム教の神様であるということは、よく知られています。ただ呼び名が違うだけで、宇宙の創造者であり、また唯一絶対の神であられるという点では、ユダヤ教やキリスト教の神と同じです。アラーの枕詞になる「慈悲深く、慈愛あまねく」に表される人格神でもあります。
しかし、キリスト教の「三位一体」の概念は強く拒否し、唯一性を強調します。
また、神は人間が同格になれない絶対的存在であると見、キリスト教のように神様のことを「天の父」とは見ません。これは、当時のキリスト教がイエスの神性を強調するあまり、神と人との関係が混乱してしまったことへの反省かと思われます。
四、人間
イスラム教では、「アラーが人間を産むわけがない」と考え、人間の神に対する立場は子供ではなく、あくまでも僕であり、神と人との絶対的な違いを強調します。これは、七世紀当時のアラビアの迷信を排除するためのようです。
神様のことを親(「天の父」)と信じる私たちも、神様が肉体を通して人間を産んだということは、もちろん否定します。ですから、私たちの神様とのつながりは、「心情を中心とした親子の関係」であるということを説明することが必要です。
五、イエス
イスラム教は、イエス様が神様ではなく、人であるという点を明確にしました。
『コーラン』は、イエス様をメシヤ(アダムと同様であるとも)といっていますが、メシヤという言葉自体の意味は不明確です。ただ、イエス様が普通の預言者以上の者であるということは、奇跡の権能などを通して理解できるようです。
イスラム教徒は、イエス様は十字架から逃れた(十字架上では死ななかった)と信じます。
六、マホメット(ムハンマド/モハメッド)
マホメット(五七〇―六三二年)は、預言者の中でも「神の預言の封印者」として特別な立場にあるととらえています。すなわち、マホメットは最後の預言者であり、彼の後には神の預言はないと信じられているのです(ですから、イスラム教徒に対しては、宣教的な配慮から、「統一原理が『神の預言』である」と紹介することは差し控えたほうが良いように思われます)。
それでも、「マホメットはあくまでも人間であり、救い主ではなく、警告者である」ということが強調されています。
七、『コーラン』
『コーラン』はイスラム教の正典です。『コーラン』は、マホメットが四十歳の時から約二十二年の間、継続的に神様から天使ガブリエルを通して啓示された内容を書き写させたものです。
『聖書』のように時代的に整理されてはいませんが、アダムからイエスまでの主な摂理の出来事が、『聖書』でおなじみの預言者たちとともに載っています。
イスラム教では、マホメットの言行録(『ハディース』)も『コーラン』と同じくらい重要なものとして扱われています。
イスラム教徒にとって、『コーラン』は疑う余地のない、絶対的なものです。『コーラン』やマホメットを軽々しくあげつらって論議したりすれば、反発を招くだけです。そのようなことは、絶対に慎むべきです。
八、『聖書』観
イスラム教徒は、「『聖書』がユダヤ人やキリスト教徒によって都合のいいように改造された」と主張します。そのため、神の啓示と『聖書』を区別して、『聖書』には信頼をおいていません。
ただし、『聖書』の故事は、ほとんどそのまま事実として信じます。
九、キリスト教徒との関係
最初、イスラム教徒は、キリスト教徒を唯一絶対神を信じ、偶像崇拝をしない「仲間」として見ていました。しかし、度重なる歴史的な対立闘争のために、その後は主要な敵になってしまいました。
また、布教(宣教)の点からも、現在イスラム教とキリスト教はせめぎ合っており、お互いに敵視しているのが現状です。
イスラム法では、(実際に実行されるかどうかは別として)イスラムを棄教した者への罰則は死罪とされています。そのため、イスラム教徒の信仰を惑わすキリスト教の宣教師(Missionary)は「サタンの手先」として憎悪されます。また、イスラム教徒は普通、決してキリスト教会には入ろうとしません。
十、イスラム教に関する偏見
イスラム教についての一般的知識といえば、「豚肉とアルコールを摂取しない」、「四人まで妻が持てる」、「『コーラン』か剣か」というものであり、「攻撃的な宗教」というイメージが付きまとっています。
これらのことは、すべてが全くのうそであるとも言えませんが、多分に仇敵の関係である西洋人による偏見が入っています。そこで、ここではイスラム教の結婚観を紹介したいと思います。
確かに、イスラム教では四人までの妻帯が許されています。しかし、「四人を平等に愛さなければならない」という条件が付いています。これは実際不可能なことです。ですから結局、妻は一人ということになります。
実は、この話には歴史的な背景があります。七世紀当時、イスラム勢力の拡大により各地で戦争が相次ぎ、多くのイスラム教徒が戦死したことによって、路頭に迷う家族がたくさん現れたのです。その社会保障として、戦争未亡人を第二夫人以下に迎える、ということが奨励されたのです。
イスラム以前のアラビアでは、無制限の妻帯が許されていたのですから、ここでは「四人までの制限を設けた」、ということに意義があるとみるべきです。
ところで、現在の中東では、経済的な理由もあり、一夫一婦が普通です。結婚するには、多額の結納金を夫が支払わなければならないからです。
また、結婚式のときに、離婚の際の慰謝料の額を決めるというのもイスラムの特徴です。
十一、礼拝
普通、イスラム教徒が「祈り」というとき、それは私たちの祈りとは違います。それは、私たちが行う「敬礼式」と似た儀式です。これをイスラム教徒は、一日に五回行います。
なるべく集団でするほうがよいといわれており、アラブの国では時間がくると、町中の道端でもこの「集団礼拝」が見受けられます。
この礼拝は、よく巷で「スキーのメッカ」などと、マホメットが聞いたらびっくりするような呼び方をされるメッカ(Mecca)に向かって行います(メッカは、サウジアラビアの都市の名前であり、アブラハムとその息子イシマエルが最初に造ったというカアバ神殿がある)。
もちろんイスラム教には、私たちと同じ様式の祈りもあります。
イスラム教の聖日は金曜日で、イマーム(指導者)の説教を聞くために、モスク(礼拝所)に行きます。そのことが理由で、中東のイスラム教国には、日曜日ではなく金曜日が休日(安息日)になっている国が多いのです。
十二、統一原理との比較
(A)創造原理
まず「二性性相」についてですが、これは、神を分解して調べるという不敬な目的ではない、ということを説明する必要があります。イスラム教徒にとっては、神は触れてはならない高貴な存在であるからです。重要なことは、「創造目的」を十分に説明することです。
神と人との親子の関係についても、肉体的な親子の関係を言っているのではない、ということを強調する必要があります。ここで家庭(家族)と本然の人間としての真の父母の必要性を強調します。
(B)堕落論
人類始祖のアダムとエバが、傲慢な天使(イブリース)によって堕落させられた、というストーリーは、ほとんど『聖書』と同じです。ただ、その後、アダムとエバは神様から許されたので、「原罪はない」と信じています。
「一人ひとりの人間は、生まれてきたときは罪のない『ゼロ』の立場であり、その後、神様の教えを信じて守っていくかどうかで、天国に行くか地獄に行くかが決定される」と理解します。
(C)終末論・復活論・予定論
キリスト教の伝統的な教義と同様な理解ですが、特に文字通りの終末と肉体の復活を信じて疑いません。
(D)復帰原理
私たちの教えの中でイスラム教徒が驚くことが、私たちがよく口にする「神の苦しみ・悲しみ」という表現です。神様のことをあまりにも絶対的にとらえるあまり、「神様が苦しんだり、悲しんだりするわけがない」と信じるからです。前記の(A)と(B)で説明した内容を踏まえて、復帰摂理の目的を十分に説明する必要があります。
(E)イスラム教の再臨観
イスラム教には、教祖マホメットが終末に再び現れるという考えは全くありません。イスラム教の正典の『コーラン』は、「預言者マホメットは警告者であって、救い主自身ではない」ということを繰り返し述べています。
驚かれるかもしれませんが、イスラム教には「イエスが終末に再臨する」という考えがあります。このことは、『コーラン』にもそのように読み取れる箇所があるのですが、次の文献で、そのことがはっきりと分かります。
「末世になると、預言者の家系から一人の男が現れて、宗教を強化し、正義に勝利の凱歌を与えるであろうという考えは、いつの時代でもあらゆるイスラム教徒に流布していた。それによるとイスラム教徒は彼に帰依し、彼はイスラム教国全域を支配して、マフディーと呼ばれるであろう。『正伝』(注:預言者マホメットの言行録である『ハディース』のこと)に記されているように、彼の後から偽キリストが最後の審判の兆候とともに現れるが、マフディーののちにイエスが降って、偽キリストを殺すであろう。あるいはイエスはマフディーとともに降って、偽キリストを殺すのを助け、マフディーを礼拝の導師にするであろうというのである。」(イブン・ハルドゥーン著『歴史序説』〈岩波書店〉から引用)
イブン・ハルドゥーン(一三三二―一四〇六年)は、イスラム世界を超えて世界的に著名なアラブ人の歴史家・社会学者です。
英国の歴史家アーノルド・トインビーも、『歴史序説』を「時代と所を問わず……もっとも偉大な文献」とたたえています。
この文献の中で言われているマフディーとは、アラビア語で「正しく導かれし者」の意味です。一般には、乱れ、分裂した終末の世に現れ、神の教えを地上に実現する人物、すなわち「救世主」のことであると信じられています。
しかし、原理的観点からすれば、どうもマフディーとは、(特にイスラム世界での)洗礼ヨハネの再臨型人物、すなわち、「再臨主の道を備える使命を担った人物」のことのように思われます。
ともかく、イスラム教は、終末にイエス様が再臨するという預言を信じているのです。このように、イスラム教は元来、大変アベル的な宗教であるということが、お分かりになることと思います。
(F)まとめ
それでは、注意すべき主要事項について、以下に改めてまとめてみたいと思います。
「統一原理」は、文鮮明先生が霊界に入ってサタンと戦い、また、多くの預言者と問答し、最終的には神様ご自身から承認を得られた内容を体系づけた教えです。この「統一原理」という真理を、私たちはキリスト教の正典である聖書を用いて説明していますが、イスラム教徒には『聖書』は権威になりません。
「創造原理」では、しっかりと創造本然の世界を説明することが大切です。「家庭的四位基台」と「三大祝福」、そしてそれらの神様の理想を実現するためには、「人間の責任分担が絶対に必要である」ということ、などです。
ただし、「神様が○○することができない」という表現は控えるべきです。なぜなら、イスラム教徒は絶対的な神の全能を信じているからです。
アダムとエバの神様への不従順によって生じた堕落によって、神様の創造理想であった人間の家庭(中心は真の愛)が崩壊したことを強調すべきです。そして、カインのアベル殺害の根本原因が、アダムとエバの堕落にあることで、原罪の説明を行うのです。
そのことによって、三大祝福の実現(真の人間と真の世界の復帰)のための真の父母の必要性も訴えることができます。宗教者は、本然の世界が分かれば罪が分かります。
メシヤの認識が不明確なイスラム教徒には、直接に真の父母のことを説明したほうがよいでしょう。
イスラム教徒は特別の預言者観を持っています。預言者の絶対無謬性をも信じているのです。すなわち、彼らにとって、預言者が使命に失敗することはあり得ないのです。
彼らには、完成人間と堕落人間との違いを説明しなければならないのですが、ともかく、「神様が○○することができなかった」とか、「アブラハムが失敗した」という点を強調し過ぎないほうがよいと思われます。
これは、決して「統一原理」をいいかげんに説明するようにと言っているのではありません。私たちが、イスラム教徒に対して「統一原理」を最初に説明するときに、親のような心情で配慮すべき点、また知っておくべきセンシティブな点について述べたものです。
十三、イスラム教の歴史的意義(私見)
(A)神のアブラハムへの祝福の約束
マホメットの当初の目的は、アブラハムの信仰していた一神教の再興であったといわれています。
彼の属するアラブ民族は、アブラハムとその長子イシマエルの子孫です。ところが、アブラハムの献祭の失敗によって、イシマエルは摂理の中心から追い出されてしまい、神様の祝福は弟のイサクとその子孫のイスラエルに向かってしまったのでした。
しかし、神様は、再臨の摂理にあたり、祝福の約束をイシマエルの子孫にも実現させてあげたかったのではないでしょうか。そのために、イスラム教をアラブ民族に授け、再臨の準備をさせたのであると、私には思われます。
(B)再臨のための世界的準備
再臨の最初の機会は、キリスト教を基台として、現在の西ヨーロッパをまとめてフランク王国を築いたチャールズ大帝を中心に、九世紀初めにやってくるはずでした。
ところが、当時のキリスト教は、イエス様の本来の教えからはだいぶずれてしまい、フランク王国も東西に分裂してしまいました。特に東方教会は、教義論争で四分五裂しており、神霊が働くことができないような環境にありました。こうして、キリスト教の一時の教勢拡大の勢いは衰えていきました。
そのような状況下でイスラム教は、多神教に陥ったアラブ民族を一神教に立ち戻らせ、再臨の準備をさせるだけでなく、キリスト教の誤った教義に警告を与える一方、キリスト教が宣教できなかった世界での布教を成功させました。
このようにイスラム教は、キリスト教が十分に果たすことができなかった再臨への備えを成したのではないでしょうか。
マホメットが布教を始めて四十年後の西暦六五〇年には、ヨーロッパ以上の広さのイスラム帝国ができ上がっていました。これは、ただイスラム圏の武力が優れていたためだけであるとは思えません。八世紀半ばには、フランク王国との交渉もあったのです。当時、キリスト教世界が再臨摂理に成功していたら、イスラム教世界を通して、救いが瞬く間に世界に広がったのではないかと思われてなりません。
(C)摂理の中心としてのキリスト教へのアンチテーゼ(対立要素)
中世において、キリスト教が神様から離れたとき、キリスト教の十字架を懲らしめるために「神の手」として用いられたのがイスラム教であったのではないでしょうか。それだけでなく、神様の本来の摂理ではなかったイエス様の十字架の死によって、キリスト教が極端に霊性だけを重んじたり、その神学が混乱に陥ったとき、その混乱をイスラム教が、いわば矯正するような役割を持っていたと考えられるのです。
実際に、アラビアやアフリカなどでは、キリスト教よりもイスラム教のほうが、その神学が分かりやすく、実践もはっきりしていて受け入れやすいようで、キリスト教の反省材料となっています。
そのほかにも、イスラム文化がヨーロッパのルネサンス(文芸復興)の源となったことなど、イスラム教が歴史上に果たしてきた意義は、いろいろとあるようです。
十四、イスラム教徒との接し方
私たちが持つべき、一番重要な姿勢は、相手の持っている信仰であるイスラム教に対して敬意を払うことです。私たちが、イスラム教とイスラム教徒に対して十分な尊敬の姿勢を持ったとき、初めて本格的な友好関係が始まると思うのです。
まず、私たちが知らず知らずのうちに西洋キリスト教徒から受けた悪影響、あるいは洗脳ともいえる「イスラム教は恐ろしく、いかがわしい」という偏見とイメージを払いのけなければならないと思います。もっとも、すばらしいイスラム教徒に出会えば、この先入観からはすぐに解放されます。
イスラム教徒と長い間、仇敵関係にあったキリスト教徒とユダヤ教徒によって、世界中にイスラム教の悪いイメージが広まりました。そのことによって、イスラム教徒は一種のコンプレックスを持っています。ですから、イスラム教徒は他教徒が接触してきた場合、イスラム教についてどのような理解を持っているのかということに対して、非常に敏感です。
たとえば、他教徒からよく繰り出される、イスラム教圏の「四人の妻の問題」などに関する表面的な質問に対して、多くのイスラム教徒は、実は飽き飽きしています。
私たちがもし、このようなことで彼らに論争を挑んで、たとえ勝ったとしても、イスラム教圏の人々とは距離をつくるだけであると思います。良識あるイスラム教徒は、すでに、良心を通して一夫一妻制がベストであると知っています。
ですから、親の心情で彼らに尽くしてあげ、相手の気持ちを大切にしながら彼らと付き合うことが、何より大切です。イスラム教徒の「他教徒はだれも、イスラム教の本来の良い面を分かってくれない」という、やるせない心情を正しい理解で満たしてあげることができれば、そこから初めて復帰が始まると思います。
ちなみに、一九九二年にニューヨークで開催されたイスラム教徒の四十日修練会の際、真のお父様がスタッフに注意されたことは、「絶対に論争しないように」ということでした。
イスラム教徒が多い中東の人々は、一般的に感覚的であり、彼らと接するうえでは、第一印象がとても大切です。身だしなみを整えることはもちろんのこと、態度も重厚さが尊重されます。特に女性は、肌や体型を露出しないように注意しなければなりません。男女共、ノースリーブやジーンズは避けるべきです。
また、彼らは冗談が好きですが、宗教(神・マホメット・イスラム教)を種とした冗談は絶対に避けるべきです。
イスラム教徒を導こうとするとき、私たち自身について変に隠し立てする必要はないと思いますが、キリスト教用語はなるべく避けたほうがいいかもしれません。それは、「キリスト教に改宗させられる」という印象を彼らに与えないようにするためです。この点は、本当に注意が必要です。
なぜなら、私たちの目的は、改宗することなのではなく、真の父母を紹介して、共に天の住民となることだからです。
たとえば、私たちの教会は「ファミリー」、そして、教会(建物)のことは「センター」とか「ホーム」と呼んだほうがいいかもしれません。
教会長などの聖職者のことを、牧師を意味する「レバレンド(Reverend)」と呼ぶことも感心しません。「宣教師(Missionary))」と呼ぶことは絶対に避けたほうがいいでしょう。私たちが神様のことを「アラー」と呼ぶ必要はありませんが、「天の父(Heavenly Father)」というよりも、「神(God)」と呼んだほうがよいでしょう(このことは、イスラム世界の中に住む私たち教会員と手紙などで交流するときにも、彼らの安全のために大切なことですので、ぜひ覚えていてください)。
もちろん、イスラム教入門として、私たち自身が『コーラン』(日本語で可)を学ぶことは絶対に必要です。
現在の社会の道徳の退廃を嘆いているのは、私たちだけではありません。イスラム教徒も、大いなる憤りを覚えています。世界的規模での道徳の向上(真の家庭・真の愛運動)を考えると、イスラム教は真のご父母様の最大の協力者になる可能性があります。大切に付き合っていきたいものです。