|
行くべき道と祈り
1971年9月17日
行くべき道と祈り。我々の行くべき道という・・・ この世の中の万民はどこに行くかという事をはっきりしておりません。その内の一人一人は我々でありました。しかし我々としては神の創造目的の世界、あるいは本然の世界をその土産として帰って行かなければならない復帰の道を今、辿っております。この復帰の道を行くにはその目的、目的というものは神の創造の世界でありますけれども、その道に行くまでには我々自体が努力しなければならない。戦わなければならない。そういうような運命圏に立っておるのが人間としての人類のあるいは我々としての苦労の道である。この苦労の道をいかに勝利して行くかという問題が重大な問題である。その道は我々から直接世界まで行くようになっていない。それは個人を中心として行くべき道。あるいは家庭を中心として行くべき道。あるいは社会を中心として行くべき道。あるいは国を中心として、それから世界を中心として天宙としてこういうようなたくさんの道が、これがつなげなければ我々は行かれないようになっておるのが蕩減の道であり、復帰の道である。
こう考えて見るというと、これはなぜこういうふうにならなければならないかと。この問題はこれは神様の前にある怨讐というものが我々として行くべき道を、すべて塞がっておるから行かれないようにこれを邪魔しておるから、今まで我々は個人を中心として戦わなければならないし家庭、あるいは社会、国家、世界までそういう戦いの道が残っておる。こうなるというと我々が苦悶して行くすべての動機というものは神によってなったんじゃありません。あるいは社会によってなったんじゃない。あるいは家庭によって個人によってなったんじゃありません。その動機たるものはいわゆる堕落のその本源の主となっておるサタンのためにそうなった。そこが問題だ。結局我々の行く個人の道。あるいは家庭あるいは国家、世界まで行くべき道を行かれないように塞がっている、その主人たるものは今まで歴史過程に我々先祖が犯した罪もあるけれども、それよりも第一のその主体者は何かというと神の怨讐であるサタンである。このサタンが問題である。こうなるというと、サタンはいかなる存在か。これをはっきり知らなければならない。サタンがあるからこそ我々の毎日の生活において思われるその道を行く事ができない。サタンがあるからこそ我々家庭、あるいは国家、世界がその願われるところを行く事ができない。
こうなっておるからそのサタンたるものが我々が戦わなければならない正体者である。サタンたるものを我々はいかにしても屈伏させなければならない。これが何よりも問題である。サタンとそれからサタンに反対になっている神様。その神様とサタンの間、それからサタンと我々の間。この三角形を中心として今まで摂理路程におきまして悲惨なるあるいは祭物とか、それにおいていろいろのその目的を果たそうとしたその目的が果たされないためにイエス様も来られて十字架につけられ、その十字架につけられた基準においてすべてのキリスト教の歴史は悲惨な歴史になった。そのイエス様が亡くなられたすべての動機というものも、それはイスラエル民族であり、あるいはイスラエルのユダヤ教であろうけれども、それはどこまでもそれは主体的立場であってそれはサタンがその中心であった。まあこう見て見るというと、神様の子供を殺した たるものは結局サタンに帰する。このサタンが問題だ。
そうするというとサタンと神様と我々。こういう三角形から見た場合には一体サタンは何だ? こういうふうに一言でつきつめて尋ねて見た場合にはサタンたるものは神の怨讐である。神の怨讐になった。神様において怨讐になった動機は何かというふうに聞いた場合にはそれは金でもなければ人でもない。何かというと愛の問題である。神の怨讐であり人間の人類の怨讐であるその大元のサタンたるものは、その怨讐の根源となったその動機は何かというとそれは愛の問題である。愛の問題であった。こういうふうに思いますと神様の前にサタンはどういうものであるか。愛の怨讐である。愛の怨讐でる。それで我々人間はどういう立場にあるかというと、神様の子供である。怨讐だね。神様どういうような愛の怨讐かというと、もともと人間の先祖たるものは神様の実体であった。実体であった。結局アダムが完成すればどういうふうになるか。それは神様の生きた実体を持った神様になる。そうなるというと実体の相対者のエバはその相対者になる。それが夫婦になる。夫婦になるというのはそれは人間ばかりの夫婦でなくして、神様を中心としての愛を中心として愛を中心としてのその一致した一体化される立場においては、その実体の父母であるその基準を通して神様も内的においては父母になれる。
こういうような立場に立ったそのアダム・エバを堕落させた。堕落させた結果において神様は愛の相対者を失ってしまった。アダムもそうであり、それからエバも神様が願っておる相対基準をなくしてしまった。こういうふうに堕落させた動機のものはサタンである。そのサタンが神様の怨讐になった。それは愛の問題である。こうなるというとある父母がある夫婦がその下に子女が。こういうようなある家庭があるとして仮定して見れば神様の家庭であるというふうに考えて見た場合にサタンというものはどういう事をなしたか。今理想的に生活している夫婦の仲を、あるいは子女と共に平和に暮らしているその親子の関係。こういうような立場をサタンはそれを盗み取りだ。誰より主人はあるのだけれども主人をさておいてその奥さんを盗み取り始めたのがそれが問題だった。そうしてその結果によってその子供はそれは母のところに引っ張られて行った。そうしてその自分の本当のお父さんを迎える事のできない、そういうあるいはお母さんの相対者に立っているそういうそのものはお父さんの怨讐である。愛の怨讐である。そうして怨讐の立場にあっておるそのものが仮のお父さんだという。こういうような夫婦関係の下に我々がその子女が引かれて行って生活するような立場が、これがちょうど正しく堕落した人間の社会と同じである。 だからサタンは一体何を中心として怨讐になったか、愛を中心としてなった。したがってこれは神様の前に姦夫である。姦夫知っているだろう? 姦夫の立場であった。我々人間はこの怨讐。その親なる父の姦夫の立場に立っている怨讐に引摺られながら主管されながら、あるいは蹂躙されながら今まで我々人類歴史を辿って来たのが今までの人類歴史である。今までの摂理路程である。こういうふうに思います時に我々もしもこれをはっきり知ったならば、はっきり知ったならば我々はどういうような立場から考えなければならないかというと、父の立場を考えなければならない。それから母の立場を考えなければならない。それから自分たちの立場を考えなければならない。本当にそういうようなその悲しい環境に自分が接ながれておる。そういうような怨讐圏に主管されてるとはっきり知ったならば、お父様と一緒におった母が、それが引摺られて怨讐に引かれて引っ張られて行く時のその悲惨さ。それを離してはならないお父様の立場。
自分も堕落した人間はその動機は知らないんだけれど、結局そういうような母に引摺られて子供ばかり、その父ばかり父親ばかりを残して怨讐に引っ張られてその動機を知らないでその怨讐を自分の父と思い、その母をもともとの原則に立った母と思いながら育てられたその子供とするならば、その内容を知らない子供たるものはいかに悲惨であるか。いかに可愛想であるか。そういうような立場に立ったのが人類である。しかしその父母を迎えながら立たせられておる子女の立場から考えて見たならば何かもそこで間違ってる。その怨讐を中心として父母の関係を、その夫婦の父母の関係を作っておる親というものは何気なしにそこには過ちを感じるような本当に自分の父だから、その父たるものがそれまでにもそれを博愛し、それまでにも我々を苛めるような立場に立たないにもかかわらず、そういうような結果になったという事を思いますときに何が誤ったかというと、何が誤っておる。それを気付くような立場に立った子供としておったとするならば、その背後を知りたい道はわかる道はどこにあるだろう。
サタンを通しては絶対その道はない。もしもその道を捜し出そうとするならばそれはサタンが生命がけでこれをやっつけ これを捜す道というものは母を通す道。それから本当のお父様を通してそれを捜す道以外にない。また母というそのものを考えて見た場合には、もう偽りの親に怨讐圏の父に完全にこれは占領された。どうにもする事ができない。もしも自分が誤った場合には子供がやられる。この三角関係において、もしもそれを教えようとしたならばそれを先にわかるような、そういうふうになった場合には、もしもこれを教えた場合にはその母親自体が何よりも感謝しなければならない。自分の父親がやられるという立場に立った。その母の立場からしてそれを教える事ができるであろう。そういうような立場にそれがおい疲れた所が我々の立っている 。それで何か誤っておるその動機に対しては人類は解決する方法がない。こういうふうな立場においてそれを悔い、あるいは みながら捜そうとして今まで人類は努力して来た。
もしもそれを努力するのを見て神様がそれを見た場合には、神様はどういうような立場に立つであろうか。あの子供たち、あの女。その女が神の命令よって従って行った立場でなくして神の命令を犯して堕落してしまった。しかし堕落はしたんだけれども怨讐がその女を蹂躙した。それを見るときに怨讐があればこそ、神様は再びこれを捜しもってそれを取り返さなければならない。怨讐を迎える道は他にない。それを取り返す以外にない。こう考えて見た場合には神様の命令をそれを犯して行ったそのエバを取り返そうする神の内苦痛はいかばかりか。そうしてそのエバと怨讐と関係を結んで生まれた子供である。当然捜してくるにはその子供を愛さなければならない神の立場はいかばかり苦労の立場であるか。しかしそれが苦痛に辛いと思った場合には怨讐は永遠にその子供、あるいはその女を永遠に主管してしまう。だから怨讐を迎える、怨讐を敵打ちするのは道がない。道がないというのです。
だから神様はこれをどういうような犠牲、どういうような辛い事があっても元返して敵打ちをしなければならない。そうするにはそのエバなる者がそのサタンと戦う事があったなら、反対なる事があった場合には反対する事があった場合には、それを条件として神様の同情を得られる条件として満たしてやろうと。あるいはその人たちがサタンに対して逆らう、そういう立場に立った場合には、逆らうというようなその立場が神自身から見た場合にサタンに対して逆らっておるそういう立場と一致しておるから、その一致した基準を中心としてこれを復帰。それを捜してあげようというような考えをせざるをえない。その以外の道にはそれは復帰の道、捜すという。元返してくるという道は全然ない。こう考えて見るというと、我々人間、我々人類、我々人生というものはそもそもこの歴史上に生まれておりながら、この歴史すべては神の主管圏内にあるんじゃなくしてサタンの主管圏内になった。そのサタンを中心としての家庭であり、サタンを中心としての氏族であり、あるいは民族、国家、世界になっておる。そうなった場合には、そういう立場に我々は落ちている。この立場においてサタンに対して逆らう。反対する。そういう基準を満たさないというと神はどうにも手をつける事ができない。
それで我々本心の願いにおいてはいつでもその環境に対して反対されるような、そういう思いを感ずる事ができる。何か知らないけれども心の奥底からは環境を喜ばない。何か他のところから何か人間として行くべき尊い道があるに違いない。こういうふうに生活しながら生活環境を乗り越えようとする。乗り越えようとする。ここ以外に逃げて行きたいというような思いをする。それ自体がサタンに対して逆らう様子だ。その基準から神の摂理の道は出発することができなかった。こう考えて見た時に今まで宗教圏内に立っているあらゆる人たちは、この人生路程において満足を得ながら、それは自分なりにその死んで行くべきそれは本郷の道。あるいは本当の道と思えるようなそういうものを中心としては復帰する事ができない。これを不満に感じ不安に感じ、何か新しいものを求めるところにおいて神の御手をさしのばす事ができるのであって、その以外の道はない。それはそうならざるをえない。なお怨讐圏にあるから。逆らう自分を発見するところに神の摂理圏において迎える道が生まれて来なければならない。行くべき道が生まれて来なければならない。道はそこから生まれてくる。
そうするとある一点は自分が愛着心を持ってそのすべてを逆らおうとしても、その一点が最後には自分の首を締める事になるから、結局その愛着心をつけた世の中の何ものをも残した場合には、いくら神に逆らうそのサタンに逆らう周囲すべてのものを逆らったとしてもその一点の愛着心をつけた場合には、これがすべてを切ってしまう結果となってしまう。それで神様はサタン圏にある我々人類に対してあるいは人間に対してすべてを拒否し、すべてを認めないような立場を神様は人間に対して要求したのに違いない。これが堕落した人間。人類を救おうとしておる神様の立場ではありませんか。それは最もである。そうすると我々人間から見た場合には物の愛着心がある。物を愛する愛着心がある。その愛着心というものは全然人間として神様から授けられた性質であった。あるいは人を愛するその愛するのにおいて一番近いところは父母を中心として兄弟を中心として自分の子女を中心として愛するようになった。人を愛する。人に対して愛着心が生まれた。それはもともと神から人間の尊いものとして授けられた作用である。
だから物を愛し人を愛する。それから家庭を愛するとか国を愛するとか、こういう問題に変わった。こうなるというと物を愛する愛着心。人を愛する愛着心というものは神を動機として出発した環境圏内においての愛着心でない。これはどこまでもサタンを中心として出発したその結果的立場に立った愛着心である。そうすると神はこの愛着心までにも反対する。逆らうような立場を求めなければならない。その基準が最後に神が求めているところである。すべてを打ち切ったとしてもこの一点がある時にはどうにもならない。どうにもならない。これまでも切ってしまわなければならないという。その願いでなければならない立場が神の立場でありませんか。だから我々すべてを持っているものを否定しなさい。そのものに対して愛着心を持つのじゃなくしてそれを怨讐として排して、それから人を愛する愛着心というものは父母それから兄弟関係において、これは強力に結ばれている。これをこのままにしておいては何にもならない。これを何とかしてみんな払い除けてしまわなければならない。それは当然神として願う当然のものである。
それからもう一つ罪でいった場合は我々の生命というものも神から生まれたのじゃない。生命というものもサタンから生まれたのである。この生命までも神は否定する。怨讐の血統を受け継いで生まれたこの実体は否定するのは神はこれは当然になる。それがなぜそうなるか。神様の前にあるそのサタンたるものは、その神の愛の怨讐がその愛によって我々生命は授けられた。その愛の動機によってすべてのものはサタン圏に主管されている。主管されているその物、主管されているその人すべては愛の荷負うべき怨讐の愛によってそれは結びつけられたその物の相対主である。だからその物を見た場合には神様はいかにそれを悔しく思うか。その人を見た場合にはいかに神様は悲哀を感じるだろうか。そもそもそのものたるものは自分の主管系のものになるべきものだ。それから人間も自分の子女となるべく生まれた。あるの家庭あるの国すべては自分のものとなるべく生まれた。それが怨讐それ自体が自分のものとして、とんでもないものが自分のものとしてそれを主管しておるという。あるいは世界を眺めて見た神様の心はいかばかりであろう。それは直観的に直ちにその思い出なかった場合にはこういう事を考えれば良い。
今まで何千年も平和に過ごした国があった。主権者があった。その主権者を中心としてそして敵が攻めて来て自分の愛する奥さんを引っ張って行った。自分の子供はもちろん、自分の国あるいは自分の国民、自分の国土をみんな占領してしまった。そういうふうに追われた者がそういうような主権者が最後には行くところなくして亡命者になって行く。そういうような立場に立ったその亡命者の立場から考えて見た場合にはその国を思う時、自分が率いていた時の主権、その時の忠誠を尽くしておった君臣、あるいは平和郷に立って愛しておった奥さん。家族。平和に暮らしておった国民。平安圏に包まれた国土。すべてを思って見た場合に、その立場に立っておるその主権者はどういう思いをするか。涙を流す事あった場合にはこれ以上の涙を流せる何ものもない。悲しい事あった場合にもこれ以上譬えるものはない。悲惨とか、これは孤独とか悲しいその立場を中心として立たれる、すべての言葉におよびつかない程の苦痛の立場に立っておるのに違いない。それが正しく神様の立場である。それが正しく神様である。その神様が正しく我々の親であった。我々の父であった。この父の怨讐を誰がそれを敵討ちしてくれるか。神様自体はできない。ここにその亡命者の立場に立っている君主はそれは発令できない。問題はどこからしなければならないか。国民からしなければ。国からその運動はなさなければならない。それはどういうふうになすか。
そういうふうにして自分の子供と自分の奥さんを中心としてそれを捜す動機をなさなければならない。もう主権者は亡命してこの国にない。その国を捜す動機となるものはその奥さん。あるいは子供。その国民きりない。こういうふうに考えて見た場合にはその奥さんたるものは前々の自分の旦那さんであるその主権者に対して、サタンより以上、今怨讐よりいた以上何十倍も愛の力でもって慕う心でなければ、これはその怨讐圏を抜け出るその力は抜け出る道は全然ない。その子供たるものがもしもあったとするならば、子供たるものがいかなる平和、いかなる方向、立場としてもその環境を見抜きながらその父の怨讐であるその敵に対して誰よりも憎み、それから自分の父親に対して誰よりも慕う心がなければその環境を抜き出る事ができない。それから国民の中でその王様、あるいは主権者に対して慕う心をこの怨讐圏の誰よりも誰よりも慕う心がなければそれは帰る道、あるいは主権者を迎える道は全然ないのです。こういう立場において、その奥さんを動員しても子供を動員しても不可能である。問題は全体を動員しなければならないというような立場がその主権者として望みを適える道である。
こういうふうになったとするならば、その大衆が結合するその土台をいかに尽くして作るかという問題になる。ここにおいてその問題たるものはもともと自分の奥さんであったその奥さんが自分でもこの主権者に対して慕う愛の心をもってぶつかる。その怨讐に対して戦ったその実績、絶対服従して血を流し、あるいは殺される立場にいっても誓いながら殺されたというのがその前には子供は団結する。その子供はそこにおいて一つになる。また一つになったその子供がそれは自分の親のところに父親のところに帰ろうとする。それを知っておる怨讐は一つになった子供たちをそのまま送るわけにはいかない。そこにはいろいろな迫害を加える。その迫害をいかに辛い迫害であってもそれを乗り切りながら前の主権者のところに帰りたい。自分のもともとの国を捜したいという。ありったけの犠牲を払ってもそ道以外にはたったその道以外にはない。自分の生命もなければ自分の環境もない。すべてを捨ててそれを求めている。そういうような結果において初めてその主権者の妻が現われ子供が現われたとするならばそこにおいて初めて大衆は結束をするのが亡命者をしてこの怨讐を怨讐圏を敵討ちする道以外にはないという。
こう考えて見た場合に神様は今までどういう事をなさなければならないか。自分の相対者の立場に立っておるそのエバが神を否定して行ったのだけれども、そこに逆らって出るのを待ち望んでおった。もしも反対し出した以上は生命をかけても元のところに帰りたいという。いかなる苦労の立場にあっても、それを誓いながら絶対あなたには服従しないという誓いの立場に立って、それに反するその怨讐たるものが反対すればするほど、神様は悲しい事ではなくして喜ばしい条件になる。これは悲しい立場どころでなくして神を信頼する強烈な娘の孫となってくるというんだね。怨讐は生命を賭けてこれを離さないでしょう。しかし生命がけで耐え忍ぶ。そういうふうにしてとうとうやられなくなってしまう。それが正しくその子供の母である。親がそういうふうになったんだから子供がそこにおいて団結する。今まで我々が思ったように間違いなくこの今の現状において父を親みたいな立場に立っておるのはこれは本当の親じゃない。それを探るたった一つの道は親が逆らってくれる。母親がそこで反対してくれる道以外にないという。それからその発祥が何かなっておる。はっきり知らないところにその子供たる者がその偽の父親に対して反対するその結果においてああ! 何か間違ったその問題はここだという。
これを発見する道はその子供たる者が反対する以外にない。反対するんだから反対される。怨讐によって反対される道以外にはない。それで子供の立場とその白書、国民の立場が同じ立場にあったとする時にそれを知った時にその子供たちは迫害を絶頂に追われて死んでしまった。生命がけで戦って最後にその目的を果たして死んでしまった。生命を捧げてしまった。そこより国民は団結しあう。まあこう考えて見た場合に神様もちょうど正しくこういうような立場に立った神様である。それで神様自身はどういうような作戦をしなければならないか。愛する者より犠牲にしよう。もっと愛するものをより犠牲をさせるのがこれが怨讐に逆らう。怨讐の表面的に それは神としてその以外の最高の作戦となる。愛されるその者は怨讐圏に引っ張られて愛される。偽の立場の愛。相対者の立場に立っておる。その偽愛に対して神様を慕い合いながら生命がけでぶつかるというところに神様の心情が再びもり帰る道がある。それ以外に道はない。考えてみなさい。愛によって堕落し、その堕落の愛によって生命が生まれ、その愛の結果によって国を編成し、その愛の結果によって編成されたその国民によってそれは国が直って行くという。
こういうふうに考えて見た場合にはその愛の怨讐である怨讐を敵討ちする道というものは神直接打つ事ができない。打つには打ってくれればいいか。昔の旦那さんを思いながら生命を賭けて自分は非原理の立場に引っ張られて来た。その偽の旦那さんに対して生命を賭けてぶっつかるところに神の心情が盛上がる事ができる。その子供もそういう立場において初めて、その百姓もそういう立場において初めて神の心情圏が盛り上げるのが当然の道だ。だから神様は復帰世界におきまして愛するものを生命を捧げるようにしたのは怨讐に向けて最高のその復讐の敵討ちの一方の法則としてもそれを打ち出してそういう摂理の路程を引摺って来なければならないというのがこれは神の最もな立場である。だから宗教を信ずる。本当に信ずる者たちは生命を掲げて死の道を辿りながら神を愛し合うのを誓いながらサタンを憎まないという事を誓わなければ神の心情の因縁を盛り上げる何の道もない。だから神は宗教人を中心として愛されるべき立場に立って、そして愛するようになるにはそういう過程を通過せざるをえないというのがこういう地上から見た最もな世界。
こういうふうに考えて見た場合に宗教中の宗教は一体どういう宗教やと聞かれた場合、それはキリスト教だ。なぜか。キリスト教は今、時代を通過しながらもいつでも主権者においてやられて来た。その主権者によってやられておる。やられておるところが神が憎むところじゃなくして、神が愛し始めるところである。宗教中の宗教はキリスト教である。こうなるというとキリスト教の精神的、あるいは中心的神髄の主流は何なんや。こういうふうに聞いた場合にはまずもって神の子供であると誓うところこれである。自分は神の子供である。自分は神と一体であると誓う。そうして神と一体となってサタンにぶつかる。そういう基準。復帰の道といえばそれが復帰する一番最後の道である。神の前に子供として迎える道。それが何よりも神が何よりも悔やしむその中心点である。そうでしょう! 神が何よりも を感じる中心点である。中心圏に飛び込む相対者というものはなんじゃという場合には、それは僕でもなければ養子でもない。自分の実子圏だというんです。この地上に実子の立場においてサタンに対決し合う、そういうような一人者! そういうような立場に立った一人子たる者がイエス様だ。
だからイエス様は「自分は神様の一人子である。一人子である。それが神と一体である」。と主張したね。それは狙うところは何かというとサタンから相対者を奪い取らなければならない。その相対者たるものは子女の家庭ばかりじゃなくして最後には実体の相対者までつながっているというんだね。なぜかというと女たる者は一人しかない。エデンの園に男たる者は一人しかない。その大元から見た場合には実子女の立場を乗り越えて、そうしてこれは成長して夫婦になる。夫婦となって神の愛を中心として一体となった場合に、そこにおいて父母の愛の立場に立つべきであった。その基準が原則であるから、まずもってその神の心情圏の姿を蹂躙したサタン自らを第一の子供としての資格を神様は何よりも時代を経ながら摂理路程を進めながら望みの窓にあったに違いない。イエス様は自分は一人子であり、神の子だ。神と一体であるという事だね。そうして目的は何か。エバを取って来る事である。エバを取ってくる。それで新しい神の立場においてサタンは神の子供としての地上において新しい宣言をなしえた。その一点がイエス様によって生まれた。それを迎えた神様は四〇〇〇年辛い忍び切った怨讐圏を一挙に切ってしまう望みの一点が生まれたその真只中にそれをやられてしまった。
これは神いかばかりか寂しい。いかばかり苦しんだであろう! そうして女たるものは子供たるものの立場においてサタン圏の女たるものとして、それはマリヤが立場にある。マリヤはそういう宣言をしなければいけない。君と我は同じ運命である。こういうサタン圏において迎えられないような、そういうもともとの因縁を持っているものである。そこには自分の相対者であったヨセフという者も今は関係ない。そこに引きづられて行くんじゃなくして反対の立場に立って打ってかかったとするならばどうなったんだろう! イエス様はその家庭内で育てられずして、その母親と子供が二人で家出をしたんじゃありませんね。もしもヨセフとそういう立場でそういう信念を持って神はこういう摂理の道を立たせて来るんだという内容自身を何か、わしに心において慕い思う心があったとするならばヨセフと一つになって子供を生むのが問題じゃない。イエス様を抱えるのがイスラエルのためであり、世界のためであるという事をもしも知ったとするならばイエス様を完全に愛さなければならない親の立場である。
そこにまた別の子供が生まれた場合には完全に愛せずして自分の子供を愛する立場に立っているが自分としてはこれは情け無いという。辛い立場であるという事を思ったとするならばヨセフとマリヤは当然別れるに違いない。そうなるというとマリヤとイエス様は若い時、生まれた途端に母に抱かれてどこかにそのヨセフと別れなければならなかった。そうして女ばかりの立場に立って子供を育てたとするならばイエス様はどうなったんだろう。反ってヨセフの家庭において未来を望みながらそういうふうに忍んで来てある一面を迎えるよりは、もしもこういうふうになったとするならば神様は三〇年間においていかなる事でも再びそれを援助して基台を作ったのに違いない。そうなったらならイエス様は死なずして御旨を果たして道が残ったじゃありませんか思いますね。もしもマリヤがこの世のすべてを反対して出たとするならば、それは神様の寂しくあるいは悲しくなるところじゃなくしてサタンの世界はそこにはいろいろな問題が起こるだろう。
それが問題じゃない。問題が起これば起こるほどそれは神様の方においては反って心情的その基準を爆発させる動機になる。こうみた場合にイエス様は自分の親を捨て、父親を捨て母親を捨て兄弟を捨てて、それを怨讐視した。ガリラヤのそのある結婚式にイエス様は辿りついた。家出をしているから自分の親戚の家である。ひもじい立場に立ったんだから何か食べものを求めて行ったのかも知れない。こういうところにおいて母とぶつかったね。それで宴会の末になって酒がなくなってしまったと事を言いだした。その時イエス様が言った事は「女よ、君とわしは何の関わりあるか!」そういう言葉が。これは神の心情圏から見た場合にイエス様として堂々たる言うべき神の子供として言うべき当然の言葉である。こういう心情圏から見た場合、当然言うべき言葉である。イエス様の前にイエス様の弟子たちが来て言うのには先生の母親と兄弟が来て、それをしておる。訪問に来ておる。その時にイエス様の言葉はこういう事を言ったね。「自分の母や兄弟は神の御旨のままに従う者が自分の母であり兄弟である」。みんな拒否してしまった。兄弟、あるいは親戚関係すべてを捨てて、すべてを捨ててイエス様が家出をするときの神様の心は、もちろん 一地方においてはユダヤ教、イスラエル民族を中心として準備したその基台が崩れると思った場合には神様は寂しくなる。
しかしそれが反対された場合にはそれに向かって未練を持って引摺られて行くようなイエス様じゃなくして、端然としてそれを打ち切った時のイエス様は頼もしい。神の信頼する立場。まあこういう事を我々ははっきりと知らなければならない。サタンという。これを口に慣れていうような言葉になっては絶対いけません。このサタンたるもの、このサタンたるものがこういうような動機によって我々の本当のお父様の愛の怨讐だったからだ。それに心情的に汚された母親の内心の痛みはいかばかりであっただろうか。我々の兄さん姉さんのその心の痛みはいかばかりであっただろうか。これを思う時に堪り切れない。この怨讐を自分が責任持って敵討ちしなければならない。そのものはどこに行っても我々は尋ねて行って我は退治しなければならない。結末をつけなければならない。そのものが国を持ったら我々は国を作って攻略する。世界を持った場合は世界を作ってこれを攻めてしまう。それをなすにしたがって我、本当の親の子供としてのなすべき使命ではないか。それが最もである。
こう思った時に我々が立っているこの地上というものは神様の心情圏に歴史過程を通過しながら涙ぐましい痛みを積み重ねた基台である。人類を眺めて見た場合にその人類たるものは神様の内心、心情内において悲哀の塊を積み重ねたものがこれ人類である。この主権たるものがそれをなして来た。それを解いてやる。それを解決してやって、そして怨讐を敵討ちしてしまうその道たるものはその主権よりもその国民の始祖、その主管しえるすべてのものは我々の思い通りに動き出す主権なり、国民私情であり、ものの行くべきところでなければならない。そをなさなければ生ける甲斐がない。こういうような信念を持って立つべき者として神が望んで来ながら宗教の道を神自体が開いて来た。神がそれを求めるために宗教の道を尋ねて来た。我々人類はそれをなすためにそれを迎え、その一点を迎えてそれを解決するために人類は宗教の道をしがみつきながら、あるいはやられ迫害され、あるいは生命を捧げながら今まで死に切ったその道である。神様の命令によってその子供として、その女としてサタンを神様の正面の前にこれを一遍に打ち、そうしてそれを屈伏させてしまう。屈伏どころではない。切ってしまうようなその現場を迎えなければ我々として生き、生命をもって生まれたその目的を果たされない。それが宗教人として行くべき道ではないか。
こういうふうに考えて見た場合にはこの世の中にはそういう考える者は一人もいない。一人もいない。今まで宗教とたるものはこの地上の基台をそのまま引き継いで、ここに幸福を願い、ここに平和を求めて来たようなそういう宗教思想をみんな持っている。それを眺めて見た神様の心情的辛さというものはもっと辛い事である。歴史過程を通過した苦労した結果があの結果にしかなっていないという場合にはそれは堕落圏だとして、それまあそういう を断念してしまった立場じゃなくして希望の一端を求めて数千年の苦労をなして来た。その結果たるもそうなったとならば神様は堪りきれない程、苦痛を感ずるほかはない。こういう歴史的背後関係を持って見た場合に我々はわからないから知らないから、ああいう立場に立った。もしもわかった場合にどうなるか? もしもわかった場合においてあんたたち同志の愛に何か不満がある。感情的対立自体それが問題でない。一家一家の通じないそういうような平面的この世的な内容でもって区切られている。条件がそれが問題じゃない。一国同志の国境を中心として逆らうようなそれが問題でない。それよりももっと根本的問題が我々の生命の底に潜んでいる根本的問題がある。これが神様、怨讐圏を絶やしてしまう。それ以外にはない。
こういうような道を行かれる一人一人として、同じ立場に立って不満を感じ合い、不平を言い合い、そういう事を絶対に死んでも言われない。その横にいる者は自分の敵じゃない。同じ方向に進んでるその者を抱き合って何よりも強固に一つにならなければならない。怨讐たるものは世界圏をなしておる。これを掴み取り処分してしまわなければならないのは自分の使命であり、生まれながらの目的であると言う。それを果たさなければ死なれないと言うような決意に立った者とするならば、その横にいかなる者があってもそれを総合しながらそれを自分の方に引きつけなけりゃあならない。それを生命がけで環境を治めるような立場でなければ。世界的怨讐を全体が総合して生命がけでそれを敵討ちする道が生まれてこないということをはっきり知ったならば、あなたたちは環境にぶつぶつとそういうような現象は絶対に起こらない。いろいろな不満とか何か癪にさわるとか、そういうような話しは絶対に言うことはできない。それを言うよりも、もっと切迫なる内的怨讐を持っているんだ。
それは自分一人ではできない。君が必要である。この家庭が必要である。この国が必要である。。そういうふうにしてこれは浸透作戦、浸透的な先進教育をしなければならない。そこにおいて自分の話しを聞いてくれれば神様が六〇〇〇年の路程において求めて来た子供を求めるより以上の迎えるような、より以上の立場に立たなければ神様は現実より未来の大きな怨讐圏をそれを責任持ってたそれを処分してくれるような、そういう責任者として希望を持つ事ができないんじゃないか。今だに希望の見解の立場に立ったとしたならばそうい
テープ切換え
少数の者しかない。これは悔しい事である。神は六〇〇〇年の苦労のそのまた苦労の結果の結実として求めるものはこの数じゃない。世界半分の数になるべき以上の数になるべきものを求めて来たにも関わらずこういうようになった。その自体は悲しい。何によってそうなったか。キリスト教によってそうなったか。それかといってそれをぶっこわすわけにはいかない。我々行かれるべき は再び失ったそのものを尋ねて求めて行かなければならない道だから、我々は心を忍び切って心の痛みを乗り越えて再びそれを求めながら再び迫害をされに行っているのが統一協会だ。そうかといってそれを切ってしまう訳にはいかない。それかといって後退するわけにはいかない。わからないからであってこれを再び幾つかの問題を教えたら簡単に解決する。その道というものは我々は他にはない。
神はエデンの園においてその個人個人を失ってしまった。これは愛されしイスラエルにおいて民族と宗教を失ってしまった。国家的基準において民族と民族的なユダヤ教宗教、国家的な宗教と国を失ってしまった。それを基台としてより大きい親の愛の心情でもってキリスト教を引摺りながら世界的基準において世界的国家、世界的キリスト教圏を作っておいた。それは何のためか。最後の怨讐圏を倒す。それを地上において整理するために整理させるために立たせたにも関わらずそれが果たせずしてこういう反対の道をまた迎えるようになった。神の立場というものは堪り切れない。苦しい立場にある。そういう立場をわからなければならない。神様を慰める時にならなければならない。そればかりでなく神様の未来の希望の実体者にならなければならない。そればかりでなく我々は現実においてサタンと戦って勝利の実績を神に帰せるような責任を持たなければならないのが我々統一協会の使命だ。こういうのがわかった場合にはそれこそ世界にない慎重な立場である。キリスト教を立たしてサタン世界を倒し、それを退けて旗上げしてそれを誓いあって一つになって全世界あてにサタン圏を攻略するような立場をそれを神様が願ったものかどうか。それはその方向にまだ一本指で引っ張られて行ったような神の前に逆らったとするならばこれはどうか。これは余りにもエデンの園においてのアダムとエバの堕落の心情は痛みの心情であったであろう。イエス様の亡くなられた心情も忘れられない苦痛の心情であったであろう。
しかし第三回目に求めて来た世界的基盤においてこれをまた追われ迫害される立場に立った神様の方からの悲惨たる内心の思いはいかばかりであろうか。それを思い返しながらそのすべての責任を負い、次の心情圏において神様を慰めサタン怨讐と戦い、天地を抜いて勝利圏を獲得しなければならないようなそういう世界的な天宙的な基台が統一協会だとするならば大変な事だ。神の願うのはここに負いてすべてを拒否する心情の絶頂に立つそういうものとならなければそれは サタンの足場は一番近い足場はどこだと聞いて見たら自分が住んでおるその部屋だ。誰でもがその食堂である食べるそのものである。それを喜んで食べる自分実体を思いまする時に、ここにあらず。
こういう悔しい見解をこういうためにこういうために神は苦労したにもかかわらず、その中にあるものを喜んでそのままむさぼり食べるか。その中にあるものを喜んでそのまま着やがるか。そのものをそのまま喜んで これは一切を切る。一切を違う。一切に下げて戦う。一切を拒否し否認してしまう。そういう決意を固めてしかし捨てる事はできない。だから蕩減条件を我々立たして、その勝利の蕩減条件というものは自分が立たせる事はできない。父母として立たせなければならない。父母の心情と神の心情が公示されてその基準を満たして、それを神の愛の表示であり神の勝利の条件物として立たせるものを造らなければならない。
それが我々現在使っておる聖塩である。それが聖塩だ。この食べ物を食べる。全部か。違う。より分けて神の愛情圏を条件として因縁を結んで食べるんだ。着る物もそういうふうにして着るんだ。住むところもそういうふうにして。徹底したそういう神に立っておって環境に対して無慈悲なワシの事を聞けば生命を賭けて愛し合い反対するならば である。だから反対した場合には切らなければならない。もう時間がない。この御旨は最後の御旨であるから、ここに切ってしまった場合に永遠に迎える道がない。切る事もできない。だから自分としてその内心によって起こりあるいはこれを打とう。そのものを呪った場合には救われる道がない。それは一方は切りながら言葉によってサタンがエバを誘因して行ったんたから言葉によってそれを克服する。その言葉たるものは偽りの言葉ではない。真実の言葉である。サタンの言葉。偽りの言葉によってそれをやってしまったんだけれど、我々は真実の言葉によってそれを打ち壊して再び再創造の価値を盛り上げて行く。
そういう場合には一人一人ものに対して神様がその理想の実体者を造るために愛を愛するかたわりや。みずを賭けてそれを見る。そういう立場を思って見た場合に神様より以上の真剣な心情でもって一人を再創造しなければならないという立場が自分の立場であり、百万責任持った立場において言葉が無く真実の実体の立場に立って そこには愛情心がこもっておる。その愛情心と言葉と実体者がそこにおいて生まれるという信念でもって語らなければならない。それが我々の統一協会の指導者として役割りを果たすべき立場である。自分によっていかなるものが創造されて来たか。それが一人なり家庭なり氏族なり民族なり、神は世界を復帰の基準まで上げて来るまで六千年苦労してきたんだから、我は六〇年を捧げてこの基準まで上げさせる事ができるかというと、各自誓って、自分はこの見解まで行く時より誓って出なければならない道がこれが統一協会の現実立っている我々の立場である。世の中を愛し、今までやってきた情的関係、生活質的な物的関係。そこに愛着心を持っておるという。神の心情圏においては神の怨讐を敵討ちしなければならない立場から見た場合は許さない。徹底した観念に立たなければならない。
それで我々統一協会は先生がやられたサタン世界にここでは切らなかったけれど向こうでやる。ここで攻めたんじゃなくして向こうで攻めて来た。ただ攻めて来たのは結局敵だという事がわかったね。統一協会の敵だ。既成協会が攻めて来た。それも敵だ。すべてを総合して攻めて来た。攻めて来る事によって神は一遍に統一協会の食口たちを吸収した。切らなければならない統一的な環境を作ってしまった。こう考えて見た場合、絶対な神の愛である。一歩これは踏み間違った場合には逆に打たれる道だから打たれるなら一人一人打つよりも一遍に打ってそれを蕩減したいのが神の心情である。それが我々統一協会である。だから前に言ったようにその盗まれて行った、取られて行ったその女からそれは子供から反対しなければならない。向こうから攻めて来たというのは、もうすでにここではそういう内容を知っておる子供たちだ。何も知らなかったらそんな事ない。すべてを知っておる。サタン圏は総動員して来た。もしも我々が残った時には大変な事になるから、それを防備するために今まで神は垣根をつくってその圏内になそうとしてキリスト教を中心として再臨主を残してきたんだけれど、それが旨くとりつかなかった場合にはとんでもない。それはそれた場合には針先があり、このようにね一点においてつくようになっている。
人口衛星のドッキングみたいにね。それは一つ 針の先みたいのが一人一人がつくようになっている。その以外にはこういう格好で攻めて来た場合にはとんでもない事でそうするにはこれはぶつかった場合にはメチャクチャになるんだね。メチャクチャに。全部がやられてしまうんだね。誤った場合には共に戦いあっている場合には一遍に両方ともメチャクチャになってしまう。神はメチャクチャになったら大変だね。サタンはメチャクチャになってもいいよ。それから人類の誰も残らなくてもいいよ。そうすると最後には神様と天使長。そうなった場合には神様もどうにもならないよ。永遠と あるだろう。そうしたら再び他の方面において人間を造る道以外には神様考えざるをえないよ。ここまで考えるというんだね。天軍が降りてつかり合ってそうして迎える 一人でもって引っ張り出した場合には全部が生きてなくちゃ 。
それをされた場合にはこれはとんでもない事になる。とんでもない事になるんだから戦い合うような立場に立ってはいけない。それは向かい合いながら死力でかける。それ以上の清い反対の思いでもって防備しながら行く。こういう作戦をしながら今まで我々は神の歴史はそういうような戦法をやって来たんですよ。そうなるというとあんたたちサタンというものはサタンというものは第一の父母をやってしまったし、第二の人類の父母をやってしまったし、第三の父母として来られるすべてを攻め絶やした。降臨者第一のアダムよ。イエス様、再臨だ。再臨第三回も降臨した。それでもアダムなくすための攻略をやって来た。そういう怨讐が今にも残っている。観念的じゃありませんよ。観念的じゃありませんよ。実にそうだ。統一協会に対して反対しているだけじゃなくしてまだ残っている。協会まだ残っている。そうかといって鉄砲かついで戦うわけにはいかない。その戦法たるもの、より愛によって堕落したんだから、より神に帰る愛の力がなければならない。その神に帰る愛の力。より強い愛の力がなければ愛によって堕落したその根源をどうにもする事ができない。これはくっついていたものを引き裂く事できない。
だから愛の道を表示するその道は、その行くなりはどういう道なんだろう。それは犠牲になる。けんのう以上にある基準 まで押しつけられる。それで敗れなかった場合には反動でもって他においとくんだね。より以上に押し付けられた場合にはそれで敗れなかった場合には、それに比例して基準を越えたそれ以上の圧力で押しかけるという。こんなもので見た場合にね。ある基準以上に押し付けられた場合には、それに敗れなかった場合にはそれに比例して反動力。神はそういう作戦を作戦をやった。それを 神、破裂するときの方向を知って定めを蹴って破裂する。サタンの場はそこでやられてその基準において神の勝利圏として正しく求めて来たのが歴史的の摂理圏である。だからいつでもやられているんだね。いつでもやられている。一人犠牲にして三人。こういうような具合に発展 ああこういうように思いました時に我々はどうせ世界が統一協会を反対した時に、韓国が反対した。日本も反対した。アメリカも反対した。ドイツも反対して反対するのが我々においては一挙に一体となる。愛にむけて我々準備しなければならないから数が少なければそれでいかにして絶対的責任を持ったとするならば何一〇倍も努力して早いうちにその数を乗り越えなければならない。それを求めるのである。こういうような立場に立っておるのが絶対的心情圏を責任持ったとする統一協会の立場ではありませんか。
ここには我々は国とか何思想とか何ものもない。もともとその極限とは何か。真の親、真の父母以外にはない。真の父母を売って何買いいるものありや。すべてのものを売って真の父母を買うや。どっちだ。我々はすべてのものを売ってもすべてのものを犠牲にしても真の父母を求めなければならない。それを中心として神の永遠の望みであった。本源の心情を結びついた愛の基準によって新たに生まれて来た。自分のその本源の子女たるその基準を我々は八人で一〇人 その清い基準に立つにはこの汚れた我々の堕落圏に立ったそのものがその矛盾した今、神にそれ立っては苦しい立場に立つことでないか。もしも神が一〇 すれば一〇〇やって自分なりに神の前に立つ時恥かしさを感じない。その立場があった場合に、いかなる犠牲でも我々かまいません。一回死ぬどころじゃない。一〇〇〇回一〇〇〇〇万回もその汚されない神の本心の前に喜びの心にただ満たされて、その子供を愛する故に本然の子女の立場にいかにして帰るのであろう。
いかに考えてもそれをいかに空想的に考えても本質の堕落の愛によって生まれた自分としてはそこに追いつけない。絶対的、追いつけないという自分だけを発見した場合に、もしもここにおいて自分を子供として神の本然の子供として迎えてくれるような、そういう言葉というものがあったならば神の心情内に追いては、これは何か自分に対してまだ足らない分を知っておる者の代わりとしてそう願ったならば、これは神に対して心情的反逆ではないか。我としては死ぬところで尻を叩かれるところあったら叩かれ、あるいは迫害される。それっきりで神の本然の心情の基準を我、何一〇〇〇代何一〇〇代の後孫において迎えるとしたなら、それで自分は耐えるというような思いで一点でも足らないというその境地まで我々は体恤しなけばならない。それが我々のとこではないか。そういう思いついた場合には神様を前にして天のお父様という、子供が死んでも口を開ける事のできないようなその体験。もがみもがんでいつかはこの良心のそういうような思いを思い出されながら神様を余程、あるいは万年の規則を思いつつ、そうして神に迎える自分を発見するだろう。それは一点の何の陰もない。
喜びに始まり喜びに満たされる。喜びに終わるというようなその境地に立つべき子供は一体どういうようものか。それを願い願って自分の一切の存在 意識はもちろん。あるいは環境のすべてを忘れてその境地を慕い求めるような、そういうような道もあるべきである。それが人間として最後になすべき道である。それは我々の力してはとうてい果たす事がない。いかなる苦労を払ってもそこに取りつく事のできない自分たるものを発見した場合に、サタンの血統を受け継いだこの悲哀なる自分を、いかに慰める思慕の情。それにもみ合いながら苦悶する苦悶のその状態が神様が求めて神様がそれをとめされて、これ以上悲しく思わなくていいから慰めるようなその一点の立場はないだろうか。そういうところまで我々行くべき道は残っているんじゃないだろうか。悲しみ続けて を知らない。自分の過去より現在のその血統的汚れたその基準をいかに乗り越えるのか。その境地を神様眺めて、それが正しく自分の歴史課題において自分より反って悲惨だったとするならば、今までに実際にせきしょうに流せなかった最初の慰めの涙を流す、初めのその基準が生まれたであろう。
その基準に立つべきその子女の価値はどこまで行けばいいか。そこを求めて行くべき道がまだ我々の行くところに残っているんじゃないか。こう思いまする時に、今我々の天のお父様というその立場に立っておるとするならば、その基準から見た場合にどのくらい不安でそれを知らないで今まで呼び、訴えて来たという自分の罪の恥ずかしさを再び戻らない。これは顔を上げる事もできなければ自分なりに生きようとして箸を持ち上げて御飯を食べる事もできないような恥かしさを感じなければならない。実体を出さなければならない。それで行くべき目的を知っておりながら行くところのその場所を知りながら、これを行く事のできずして立って涙ながらにそれを眺めながら六〇〇〇年以上神様がその実子を求めて来ながらその苦しんだの、それより以上の苦しみをこの現場に立って対すそれを道を失った場合には、それを自分に授けてもらいたいのが神に最後の願いである。こういうような極致に立って祈りを上げるような境地まで我々の行くべき道があるという事を、我々はもう一回考えなければならない。
あんたたちがそういうような基準を思いながら祝福だ! 祝福の基準。祝福の基準。それが神の本心の願いの心情が湧きうる何の汚されない純然たる愛の本質の相対圏において結ばれる。神の創造本然の祝福基台がそれを思って見た場合に、昨日見る事もできない相対者に新たに向きあって愛する、その心情を持つ事もできない自分である。夫であり奥さんは旦那さんに対してそういう本然の心情を求める事のできない自分を発見しなければならない。会う度毎に涙をくみあいて神様を呼ぶような父母心情圏を持っていなければならない。本然の理想の基盤である家庭を求めている統一思想の行くべき道じゃない。そうして自分が愛すべきその子供、その子供を抱合うその。六〇〇〇年の苦労の果てに切った。その最後の勝利の一点を求めてすべてを忘れ合って抱合う親子心の結びつきは、果たして自分の生涯圏においてなされたなら永遠になされない。夢みたいな事である。しかしこれが可能ならばこれ以上の栄光は自分にはない。もしもそれが神が歴史上において摂理基準を通して、それを可能ならしめなかった場合には本然の世界は生まれてこないという事は基準であるから。
そこにおいて自分の美徳なる愛はその永久なる存在の立場として、そういうところからそうか、これが神の求めて来た本然の足場じゃないか。その天国を造るその最初の基盤ではありませんかというように、ただ行くようなそういう者には、なるにはこれは夢みたいな立場だ。相対共に見ながら涙を見ながら六〇〇〇年の神の心情の恨みの一点を払い下げて、そうしてそのすべてを一ちゃくにこれをみんな打ち破ってしまい、そうして自分なりに勝利を果たしえたというような歴史的勝利者にはなれないだろうかと考えて見た時に、全部不可能である。先祖たちはみんな生命を賭け、あるいは血を流して戦って来たその道は自分と別個の道だ。そうなったらそれを可能ならしめる事があった場合、苦労のどん底に落ちて何回まわっても何回踏みにじられてもそれは当然の事として迎え、自分に同情しえる神の立場に立ってはいけません。自分に近寄ってはいけません。神に対して心情的敬遠の心を思いながら自分を打って打って余りある、悲しい極のその極致を求めて行かなければならなのが我々復帰の路程に立っている人類ではありませんか。
こういうように思って見た場合に統一思想だ。統一協会だというその根拠地は一体どこや。今まで我々が作ったような統一協会の根拠の拠点じゃありません。神の心情圏においては祈り求めて祈り尽くして祈ってそれを清めなければならないその蕩減を残しておるその基準において統一協会を求めて来たから、それは悲しい陰がそこに潜んでいる。そうならばそれは最も神の願った理想世界にはなれない。悲しい神様を今も潜ませたその世界である。そういうように思って見た場合には、そういう絶対的な勝利圏を求め統一基準を願うという立場の責任者があったとすれば、それは悲惨極まるその立場である。望みうるものは天宙すべてのものだけれど自分に立ち返って考えて見た場合、何も持ちうる資格のないこの身を思いながらすべてをなくした悲しみ、すべてを不可能なるその境地に落ちいって悲しむようなその圏まで我々は祈り続けなければならない。到着しなければならない。その立場が正しく神のすべての他にある見地心情的に立った神と通ずる一点が結ばれるであろう。
もしも統一協会が心情的世界を統一圏を願っているとするならば神様を絶対としたならば絶対的結び合うその基準は一体どこだろう。踊り合うところじゃないよ。笑いこげているそういう関係じゃありません。涙と血と涙とすべての生命とすべての感覚は一体となって悲しみ悲しみ切って を忘れすべてを忘れてもうこれでもしも、むの生命の価値を認めて神が再創造する道があった場合はそれを最上の御旨がないとしても、よう、そういうような本質の堕落圏を逃れた本質のあるいは土なり水の一固まりになったものと認める。そこまで行かなければならないんじゃないか。統一協会は心情的の一致協会はその奥地から始まらなければそれは未完成ではありませんか。それで悲しくて泣けて泣けて泣けてその立場において神様がわしの慰める事があった場合、そのくらいやったらいいじゃありませんかという。手を上げても顔を上げても体を上げても上げる事のできない、そういう悔しかったら悔しいところ悲しかったら悲しいところ。
それが神様自体がそこに近付いて「君なら!」そういう言葉をかけたいけれど神は近寄って来る立場でありません。抱合って神が共に自分と同じより以上に悲しむ、悲しみの極致において共に慰め合いながら向かい合う事のできないその極致から、その極の極致から神は清められたい思いを持つに違いない。そこまで我々ははからなければならないのが本当の我々として行くべき道であり、それが不可能だったらそれを求めて行かなければならない道を残しておるから、それを希望として祈る道ではありませんか。こういうふうに考えて見た場合には、それは一代ばかりでなくして三代も続けて怨讐に攻められてそして悲哀を受けた神の心情においてその敵討ちをなんでその継承しなきゃ。こういうのを見た場合に我々統一協会というものは深刻な協会である。それ自体は死よりも深刻である。また強い事にはいかなる原爆よりも強い。慕い慕う心たるはものは何ものにも負けること出来ない。因縁の関係というものはどういうものか。それは ができない。神様自体もどうにもできない。
これが愛の問題じゃありませんか。愛というものは神様引っ張られて行った。神様どうにもできない。神様どうにもできない。神様が自由になれるものだったら理想を神様がやり神様の理想になれなければいけませんよ。自分の気ままにやるんだったら何の理想になるや。それに理想圏によって引っ張られる。満足のえられるようなそういう相対的な位置に立つからこそ、それが絶対的基準に立つのであって神様が絶対的基準に立つには愛の基準を先立って立たなければ立たれないという結果になる。こう思って見た場合に我々統一協会の歴史という問題を中心にして見た場合に、ある時に先生は迫害された。その迫害されたのは統一協会を結集する動機になっている。サタンの世界へ打って打たれて、それを引きられる真剣な者がそれは光を受ける。それが悲惨なものじゃない。それによって国民はその光の環境その状態は各国を結束する。迫害の群れの中に結束する原動力になっている。それが神を中心として果たした摂理の道だから我流す涙は世界を泣かせる。我迫害されたすべてのその痛みは世界の心の痛みのようだ。残された距離を越えて国を越えて感情を越えてそれを平面的可能ならしめなければ天宙復帰はできません。
あんたたちは先生を求めて先生という先生というそういう人は、どういう歴史を辿ってきたんだ。あんたたちの話しを聞いて見るというとそれは簡単な内容である。この内容が今まで神とサタンの間に横たわっていた秘密の言葉で秘密の希望である。それを行き来し解決し求めて来た。それをわかってそれを実行して、その溝を埋めるまでの神の苦労はいかばかりであっただろうか。先生はどうでもいい。先生は何でもない。それを埋めていった溝のその上を頼りにその基盤の上に統一教という足場を作った。要はサタン圏である。これは三八度線の非武装地帯と同じようなそこに我々は巣を作って夜は国家を昼は向こう両方向け合いながら作戦を練って、ここを広げて国を求めなければならないし世界を求めなければならない。悲惨な立場である。それを一点を眺めている神様の心情はいかばかりであったろうか。世界を一遍に主管してしまいたい心が湧き上がる心情を押しきりながら愛すべき一人の子供を望んで、その数の家族としてその名のっているその者たちのために再び我慢しなければならない神の立場は悲しみである。それが神の持つ統一協会圏である。 それを個人より全体的国家的環境に影響を及ぼし世界の一点までそれを子に覚えて心情圏を埋めるまでには統一協会の先生は無駄でありません。神様はいかばかり苦労したか。何回、何一〇〇回の慰めの一点を求めつつそれを引っ張りながら苦しみの只の中において苦しみの悲哀の声を上げずして、これは当然の重いべき道で当たり前の道であれば自分に対しては心配してはいけません。子を敬ってはいけません。何の寂しい心を持ってはいけませんというような文字付きの路程をこれを保って行かなければ神いかにして喜びの統一協会として迎えるか。それが現実的に我々立っている統一協会の歴史であり、その歴史過程の上に立っている現実の立場であるということを、少なくての日本の責任者としては立ってしまった。そして我々どうして運命が逃げられない。我々が共にあって共に喜び合い、そして交われば運命の限りでない。
その交わりの因縁を拡大して怨讐圏を占領するのが我々交わりのその目的である。動機は越えなくっちゃ。我々同志だったら神は今まで苦労しない。怨讐を 怨讐を処理してしまう。これが世界を眺めて見た場合たまり切れない。四方において武装されたサタン圏は二倍になって来るようになっている。弱い弱々しい体でもって何の武装を持たないそういうような孤児の立場である。正しくにゴリアテの前に立ったダビデの立場である。だから神を信ずる信念において制覇しなければならない。神を愛する愛情において制覇しなければならない。勝利の道はない。一切の世的愛着心を乗り切って父母において父母が反対だから父母を切る。それが問題じゃない。 である。切ってそういうような完全に否認したある一人の男が生まれて来なければ世界は神の世界は希望を持つ事はできない。そういう伝統的な基盤がなければならない。その基盤によって我々は武装し基盤を中心として結束したその実体者とならなければ。その勝利圏をその勝利基盤を世界化されない。そういう立場から見た場合にはあんたたち、神の怨讐圏はそう簡単なものではありませんよ。
だからあんたたちは日本に帰っても何だね。ゴムの紐でもって彼らを縛って、そうして先生は韓国だから、そうして引っ張ってなす引っ張りつける力がその環境 。ぶつかるすべてのものより強い。そうした場合にはその環境は攻めていって それは動機だ。動機なくして結果は生まれない。いかに強い心をもっていかにその慕い焦がれる力といううものは一億すべてが結束してもそれを引っ張られて行く、機関車みたいな引っ張られて行くそのこの紐は絶対切れません。そいつに 世界をくっつけるんです。これをあんたたちがはっきりにわかるように。行くべき道。結局我々の行くべき道はどこまでだろう。統一協会が言って出たその極致はどこであろう。それはあるだろうね。自分という現在の立場がどこにあるか。わかっていない場合、喜びも苦しみも喜びと思い。生命賭けるのを喜びと思って神の怨讐圏をそれを自分が責任をもって神に認める自分を発見するまでに戦わなければならない。それで神は信頼される自分として立ってからこそ、神の世界に向かってそれは出発する事ができるじゃないか。何のその気になっていない者がそうになった場合、とんでもない事になる。
これを古い面との立場からこういうようなサタンというものをその同じ に ん。自分の父母。自分の兄弟もそこにくっついている。それを片っ端から切っていく。片っ端からやって夜も昼も休まない。サタンも休まない。神様も休まない。神の子供として休まれるや、もっともっと時間 我々の行くべき道であり、求めて求めてその極度に達する道を乗り越えなければならない祈りの道が残っているということを、はっきりと覚えなければなりませんよ。だからそういう嬉しい事があった場合には一端迎えたならば涙ながらに喜ぶ。そして喜びつつ神に返す。辛い時があった場合にはちょうど迎えかいして迎える。当然の事ではないか。我はこれを喜んで迎えなければ神はいかばかりなるだろう。悲しきっておった神様は蕩減は自分の前において悲しい顔をしなければならない神様だ。僕の辛さは我によってそれをおしきる。打ちきる。それは当然の親子の心でもって迎えるようなあるべき事があって尋ねて来たと同じように迎えるような堂々たる姿勢でもって向かって迎えて行くような決意をなして行きながら、神様はあんたたちが涙を流す前に涙を流して、あんたたちを援助し、あんたたちが頼らなくても神様ちゃんと周囲を守って戦って来られた。
こういう心境に立って行くならばあんたたちのなす事、行くところには勝利であり、なすすべては勝利の結果として期待される道はない。これをはっきり覚えて本部会員の 統一協会の伝統。伝統とは今と明日! その伝統は歴史を変えた。過去伝統もそうであり、現在の伝統もそうであり未来の伝統もそうである。歴史の神様を慰める。歴史的希望である自分をそれを復帰、完全復帰させる事である。こういうような立場で伝統を延長して行かなければ神の願われる国は生まれて来ないという事をはっきりわかってもらいたい。祈りましょう。
<祈祷>
神様、統一協会を 統一という言葉は実に我々の慕う言葉であり、願い求めて来た言葉であるという事を今だにわかりました。その統一の基準が世界の果てにおいて、あるいは日本の全国においてなすのを我々願って来ました。それは最もな言葉であります。しかし、それをなす動機の基盤におきましてはいかばかり神様、苦悶しあい、惨めであり苦痛であり悲惨な立場をまぬがれえない歴史的続け様の責任を果たして来た天のお父様がいらっしゃるという事を我々は忘れる事が多うございました。今だに許して下さる事をお願い申し上げます。
我々として行くべき道。その道がどういう道であるという事を今、概略でありますけれども大体わかりました。この生き残っている怨讐世界を引きまくこの怨讐圏。我周囲をちょうど建てるこういう怨讐の環境。これを凝視しながら我々は毎日の生活圏において武装を練って行かなければなりません。その武装たるものは外的な武装でありません。心情的武装であります。それを見るために神様の苦労を思いつつ我々は涙ぐまざるをえない。こういうような心情的生活圏を相続して行かなければならないという事も今だに改めて体験体恤する事ができるように導いて下さいませ。最後に神が苦痛を続け様に注いで神が泣きながら自分を離れて行くような立場に立っては絶対いけません。泣き続けながら慰め、誰もいない。そういう神の思いに記憶される、そういう子供たちになれるように祝福して下さい。日本から韓国に来られるその期間において、前後左右、あるいは上下関係において何を求めて来ましたか。
何を自分と結び合う因縁を固めるために来ましたか。それは何もありません。親子関係の心情を固めるために来ました。親はいかなる親であるという事を我々はもう一度こういう悲哀な涙ぐましい歴史過程を思いつつ、神の心情で求めて来たその実体であるという事をもう再びつきつめて、それ示された時にみんな聞くところを忘れて今の時代を悔いつつ自分の足らなさを思いながら、限り無い涙と共に悲しみを続ける事ができるような自分となるようにならなければならないという事をはっきりわかりました。今だに自分たちというものは堕落圏におきまして、その生命のサタン圏の心情において受け継いだところであります。その生命の大元なる基準は神に逆らう怨讐。すなわち神の姦夫の愛の刺激を基準として生まれ来たという事を思いまするに、自分の存在すべてを否認したい自分を発見せざるをえません。この肉たるものをいかにして取ってしまい、この骨の中にある骨随までいかに我を沈めてしまうや。神の力あれば神の愛情あれば神の満たされる名の恵みの水があれば。血より何よりも生命よりも強いものでもってこれをみんな「はいはい」するのを願わなければならない。実体たる事をはっきり我々はわかりました。
今だにこのものは名に愛着をもって残したいというような実を取って食うような愚かな者にならないように違うこの違いになるように神励まして下さいませ。一回どころじゃなく、千遍万遍死んでもその価値を求めざる、そういう実体の根拠の基盤を無視しながら永遠の生の一滴でも永遠に残さなければならない価値を認めつつ、その境地に我心をきゃんぺんさせるために苦労も何も喜んで迎えるような、そういう行きなりを取って行かないというと次の子供におよびつかない事がはっきりわかる時に自分の現在持っているすべてのものは自分に対して怨讐圏であるという事を新たに発見する事ができました。我々は自分の環境あるいは家族、習慣の国、すべてのものに爪先 おく世界は現在の立場を中心として批判の基準を立たせやすいのが習慣的我々でございますから、それを惨めな基準に立っている国を眺めた場合にはそれが同情、それの兄弟を我々は慕って行かなければならない。惨めな生活をやっておる者があった場合には、その立場を我々は味方の立場としてそれを取り変えて行かなければ、反対の道を辿って行く復帰の路程の道に近付く道がない事を思います時に、心情まで神の心情内的心情まで遡るにはいかばかり苦労を重ねても行かなければならない運命の道であるという事をわかりました。
打って捨てて、無視してこれを踏みにじって行かなければならないこの世的なものと我々ははっきり見分け、残さなければならない神の心情的環境、同情的毎日の生活環境をそれを遅くしながら毎日において戦って行くような、そうして未来の怨讐を敵討ちするための自覚者として全体を代表した代表者として恥ずかしくない準備と訓練をなさして下さる事を願い求める者となるように祝福して下さい。今回を切っかけとして日本の地に塞がっておるこの怨讐圏は一挙に絶やしてしまい、日本全土を中心として神の勝利の旗を上げ喜びの子女と共に永遠の勝利の歌を歌い上げ満点の喜びを思いつつ、その環境すべてを抱きあって踊る事のできる勝利圏となるように。我々が動機となり神様が動機となって引っ張る共通のあいづちの動機となってこの全国を動かさなければならないという事を思いまする時に、その中心的立場に立っているのは我々統一の勇士であり、その中心の立場に立っている地区長であるという事を思います時に立っても立っておられない。寝てもいられないような立場に立っておるのが自分の現在の立場であるという事をはっきり見分ける事ができるように自覚するこの時間となるように祝福して下さいませ。
以後何日も残っておりませんけれども、この期間におきまして神の願える基準に適えるそういう勝利的な子女として日本に帰れるように、あるいは心情的あるいは外的環境に訓練をなさいまして、神すべての我らの因縁の下すべてをその捨てる事もできないし、それを因縁として神のものとして保管し、そうして勢力圏と成しうる事ができるようになさしてくれたならば、我々として今までのこれ以上のかつれる一点がない事が今、誓って自覚したものでございますからその現場に立つまで神はわしは動かない。死しても帰らないというような自覚の実体として神の前に堂々たる勇士となるように責任持つその実体となるように神守って下さる事をお願い申し上げます。今後のすべての時間毎に神のみ恵みの中において、これは率いられる事ができるように祝福して下さる事をお願いしつつ、すべての祈りを真の父母の名を通してお祈り申し上げます。アーメン
|