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日本統一教会の草創期の思い出
桜井節子
一九六〇年九月 入教
四十三双
トルコ共和国国家的メシヤ
統一教会に導かれて
私は一九六〇年九月、大学二年生のとき松本道子先生(通称、松本ママ)に導かれ、統一教会に入教しました。私は群馬県の安中というクリスチャンの多い町に生まれ、私の家も曾祖父母、祖父母の代からキリスト教の信徒でした。
私は幼いころから日曜学校に通い教会に親しんで育ちましたが、それでも当時の私は神様についてまったく分かっていませんでした。大学時代になって真剣に求道生活を始めたころ、統一教会に導かれたのでした。
当時は、まだ日韓の国交が回復していなかったので、韓国から日本にみ言を宣べ伝えようとしても、正規のルートでは入国することはできません。日本に最初にみ言を伝えてくださった西川勝先生(韓国名、崔奉春宣教師)は、一時は囚われの身となり、そこから逃れて追われる立場にありながらみ言を宣べ伝えてくださり、一九五九年十月二日に日本統一教会を創立されました。
私が導かれたのは、その一年後ぐらいのときでした。当時はまだ一般の人々にはみ言を宣べ伝えず、おのずから伝道対象はクリスチャンたちに向けられていました。今のような修練会というものはなく、西川先生が来教者に一通り「聖書原理」として原理講義をしておられたのです。今私たちが聞いている「主の路程」という真の父母様に関する特別講義もなく、「再臨論」で終わりでした。
しかしクリスチャンたちにとっては、このみ言は革命的な力を持っており、聞き進むにつれ夢を見たり啓示を受けたりするようになります。そのような受講者の状況に応じて、西川先生は真の父母様の証しをしておられたようです。しかし私には、幸か不幸か、夢も啓示もまったくありませんでしたので、一通り「原理」を聴き終えても、なお一か月くらい、真のお父様のことも再臨それ自体についても、何も証かされないままに過ぎていました。
そんなある日のこと、松本ママの家に初めて宿泊したことがありました。私は「再臨論」を聴いたとき、「主が来られたのは韓国ではなかろうか」と思ったのですが、口には出しませんでした。それでその晩何気なく、「ねえ松本さん、主は韓国にいらっしゃるのでしょう?」と尋ねると、松本ママは跳び上がらんばかりに驚き、「お嬢さん、よく分かりました。そのことが分かれば、もうあなたに何も秘密はありません」と言われて語り始めました。
それからの時間は、韓民族がどのような民族性を持ち、どのような歴史をたどってきたか、さらに韓民族は唯一神を拝し、クリスチャンの多い白衣の民族であるとか、昔から『鄭鑑録』などメシヤ的人物が韓国に現れるという予言書がある等々、また福音書やヨハネの黙示録に韓国動乱(朝鮮戦争)の預言があることなど、一気に話してくださいました。それまで私の周囲には韓国の人はいなかったので、韓国に対してはまったくの白紙であり、それらのお話はすんなりと私の心に入ってきたのです。
翌日、西川先生の所に行くと、先生はにこにこされながら韓国語版の聖歌を取り出して来られました。先生はそれまでよく、「黙示録にあるように私たちは新しい歌を歌うのです。みんないい歌ですよ」とおっしゃって、「東の勇士」や「復帰の心情」などの聖歌を歌ってくださるのですが、妙な歌詞付けと、ところどころ不思議なこぶしをつけて歌ったりするので、私は内心いつも「変な歌……」と思っていました。
私は大学では合唱団に入っていたので、この教会はみ言はこれほど素晴らしいのに、音楽性や芸術的センスはどうなっているのだろうかといぶかり、何度か西川先生に「楽譜はありませんか?」と尋ねたのですが、いつも先生ははっきりとした返事をなさらなかったのです。
ところが楽譜はあったのです。主は韓国に来られたという秘密を私が知るまで、西川先生はこんなにも慎重に導いてくださっていたことに初めて気がつきました。そして私に、「あなたは楽譜が分かるでしょう? 日本語に翻訳してあるのでこれを楽譜に当てはめて日本語で歌えるようにしてください」と言われました。ですから古い聖歌の大半は、私が聖歌に日本語で歌詞付けをしたのです。
こうして私は、教会に入教する決意を固め、松本ママの家から通学、通教するようになりました。当時はまだ、一人が伝道され、食口として復帰されていくことが、とても難しい時代でした。そのうえ教会はとても貧しかったのです。
西川先生は印刷のアルバイトをされながら、み言を宣べ伝えておられました。そのアルバイトも、既成教会の週報を印刷するくらいの仕事しかなかったので、やがて機械も壊れたのかほとんど入金も途絶えるようになりました。西川先生から言われて、夕食を作ろうと引き出しを開けてみても、十円か十五円しか入っておらず食事のない日が増え、松本ママが伝道に行ってもらったお茶菓子を夕食代わりにみんなで分けて食べたりしました。
松本ママも病気上がりの未亡人で、間もなく献身的に歩むことを決意したもう一人の婦人もクリスチャンの未亡人、あとは私のような学生たちばかりで経済基盤を持った人はいませんでした。それでも西川先生は、伝道を最優先され「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書第六章33節)の聖句を実践する生活でした。
待ちに待ったアパートでの共同生活
やがて寒い季節を迎えるようになりましたが、みすぼらしい西川先生の事務所にはストーブ一つなく、小さな練炭コンロを囲んでの生活でした。そのような状況下にあっても、伝道に燃える西川先生のお話や生活は、私たちに希望と力を与え寒さもひもじさも全然気にもなりませんでした。
そんな私たちにとってたっての願いは、みんなで一緒に住む部屋が欲しいということだけでした。神の子たちは、やはり一緒に住むべきであり、やるべき仕事が山ほどあるからです。そのような夢が実現したのは、その年(一九六〇年)の大晦日のことでした。
一人の韓国の婦人が、四畳半一間に小さな台所がついているだけのアパートの一部屋を提供してくださったのです。初めはお正月の期間だけ、この部屋で生活しましょうということだったので、皆手荷物だけ持って集まったのです。その日、そのアパートに集まったのは確か七人の兄弟姉妹たちで、西川先生を中心に小さなこたつを囲みました。そんな貧しい生活の中で、さらに一か月ほど前から『原理解説』を出版するために全力投入してきた私たちは、明日お正月だというのに懐は空っぽで、その日の晩御飯を食べるお金もありませんでした。
しかし帰る時間を気にしなくていい、きょうは存分に語り明かせると思うと嬉しさでいっぱいでした。除夜の鐘とともに祈りで年越しをし、その後、明け方まで語り明かしました。イエス様や聖書のお話、西川先生の体験談などをお聞きしながら皆の心が高揚し、ピンク色に高潮した顔で互いに目と目が合うたびに、にこっとほほえみ合いました。
そうなるとお腹も空かなければ眠気も感じず、世の中に私たちほど幸せな者たちはいないという思いに満たされました。しかしお金はまったくないので、新年早々うちそろって断食だということで皆覚悟していたのです。ところが、元日の朝、アパートを提供してくださった婦人が、たくさんの食料を持って訪問してくださり、思いがけず美味しいお雑煮を頂くことができたのでした。
「なんだ、神様は半日も私たちをお見捨てにならないじゃないか」と皆口々に喜んで、神様の恩恵に心から感謝したのです。私たちがあまりにも喜んで生活しているので、初めはお正月の期間だけということでお借りしたそのアパートは、それ以後もそのまま使用できるようになりました。
アパートを提供してくださり、元旦に食料を持って訪問してくださった婦人の名前は、姜淳愛先生です。日本語も英語も堪能な美しい婦人で、当時息子さんが日本に留学しておられました。私たちは初め夫からの迫害を避けて、息子さんのいる日本で過ごしておられるとばかり思っていましたが、後日、姜先生の日本滞在の目的が分かったのです。
それは、その数か月後に予定されていた三十六家庭の祝福に、西川先生を参加させるために真のお父様から遣わされていた方だったのです。私たちに提供されたアパートは、姜先生の息子さんが使っておられた部屋で、彼が正月休みを韓国で過ごすその期間だけのつもりで提供されたのですが、あまりにも喜んでいる私たちを見て、息子さんは別のアパートに引っ越し、そのアパートはそのまま約半年間、私たちの活動拠点となったのでした。
姜先生は、日本が最も厳しかった草創期における約九か月間を日本で過ごされ、裕福で何不自由ない家庭の奥様でいらした方が、教会を支えるために都内の知り合いの旅館で働かれ、綺麗だった両手があかぎれだらけになったのを覚えています。
当時そんな貧しい生活の中でも、私たちは映画などをよく見に行きました。米櫃が空っぽであろうと、すべてにおいて足りないずくめの生活であろうと、少しでも入金があると西川先生は全員を新宿の百円映画館に連れて行ってくださったのです。人類歴史を象徴するような善と悪とが闘い、最後に善が勝利するといった筋書きの戦争映画や西部劇、スパイ映画などを通して私たちの志気を大いに鼓舞してくださったのです。
「原理」を知った私たちは、何を見ても原理的な観点に立って見詰めるので、映画一つ見てもたくさんの教訓を得ることができました。当時はまだあった「五十円ハウス」などで、映画を見終わってから五十円のカレーライスやお汁粉などをすすれば全身に力が漲り、「頑張りましょう!」と互いに声を掛け合い、大いに心霊を復興することができたのです。
伝道の始まり
西川先生は追われる立場で伝道しておられたので、何よりも自身の代わりに教会に責任を持つことのできる人物を探していました。そのようなとき、日本橋バプテスト教会の青年たち数名が入教してきました。中心格の男性とそのフィアンセは、全国大学弁論大会で一位と二位を取った優秀な方たちだったので、西川先生の彼らに対する期待は大きなものでした。
朝な夕なに彼らを特別に愛され訓練していましたが、一か月後、韓国の牧師から聞いた統一教会についての悪いうわさによって、彼らは手のひらを返したように変わり全員教会を離れて行きました。そのショックは大きなものがありましたが、西川先生は私たちを奮い立たせ、さらに徹底して伝道を行うため都内三か所における路傍伝道を開始したのです。
「救いとは、人間始祖の堕落により始まった罪悪世界を創造本然世界に復帰して、神の天宙創造理想を実現する事である」と書いたのぼりを立て、新宿、御茶ノ水、有楽町の三か所で、夕方の通勤時間に合わせて路傍説教を行ったのでした。
また来る日も来る日も教会の牧師をはじめ、キリスト教の指導者たちを訪問して回りました。しかし皆、若い私たちの話になかなか耳を傾けてはくれず、冷たくあしらわれるのが普通でした。そのような中でも私たちが力を落とさず、常に明るく楽しく幸福感に満ち溢れて生活することができたのは、幼い私たちを親のような立場で見守り育んでくださった西川先生の大きな愛があったからです。
私たちが伝道に行き、反対を受け攻撃されて帰ってきたときなどは、西川先生は自分のことのように義憤にかられ、み言で一つ一つ整理してくださりながら、常に幼い私たちの味方になってくださいました。深刻な内容も底抜けのユーモアで吹き飛ばしてしまわれるので、私たちにとっても「きょうの苦労はきょう一日で足れり」という雰囲気になり、翌日からはまた元気いっぱいに出発していくことができました。また西川先生は、朝に夕に北西の方向に向かって恭しく真の父母様に敬拝をささげられました。
忘れられない思い出
そうこうするうちに四月を迎えたものの、いつまでもこのような貧しい生活をしていては伝道がはかどりません。立派な活版印刷の本やパンフレットも作り、もっと合理的な伝道を考えようとして全員でアルバイトをすることになりました。
会社勤務などして終日、時間を奪われたくないし、それなりにお金にもなり、いろいろな人々に出会うことができ、若い世間知らずの私たちにとって訓練になる仕事ということで選んだのが廃品回収でした。それも午前中だけ全員で参加し、午後からの時間は全面的に伝道に充てました。
朝七時にアパートを出発し、しきり屋のある両国まで行って、もんぺに着替えリヤカーの準備をし、仕事に着手するのが午前八時でした。それからみっちり三時間半働き、十一時半にしきりをしてお金を頂き、着替えを済ませてそのすぐ近くにあった美味しいおそば屋さんに全員集合しました。そこで一杯三十円の焼きそばの昼食を取るというのが毎日の日課となったのです。
三時間半の働きで、おそらくベテランのくず屋さんの一日分以上の額を復帰したように思います。なぜなら、当時の私たちには希望があり、私たちの流す汗と涙が神の国実現の礎を築くことができるのだと思うと、心は喜びと誇らしさでいっぱいだったからです。
午後からは、西川先生がアパートに帰られ、私たちが伝道して連れて行く人々に原理講義をしてくださいました。聴講者がいない日は、先生がときどき夕食を作って私たちを待っていてくださいました。そのころの食事は、一つの鍋に魚や野菜を一緒に入れ、ぐつぐつ煮てそれをみんなでつついて食べました。これを称して「統一鍋」と言っていました。
食べるものすべてが美味しく、みな栄養分になるのか、やがて私たちの顔が皆まん丸くなっていきました。廃品回収を行うようになってからは、もうお腹の空く日はなくなり、わずか二、三か月でお金を貯めて、二つの部屋がある一戸建ての家に引っ越して行くようになるのですが、この飯田橋駅から徒歩六、七分の所にあった四畳半一間のアパートに、七、八人が生活した約六か月間にわたる生活は、語り尽くせないほどの楽しい思い出がたくさん詰まっています。
一九六一年五月十五日、韓国時間に合わせてこの四畳半の狭い部屋に食口たちがすし詰めになって、三十六家庭(三十三家庭)の祝福式が厳かに挙行されました。西川先生はその三十六家庭の一家庭として、夫人の申美植シク先生と日本と韓国に別々におられながら歴史的な祝福結婚式を挙げられたのです。
日本伝道初期に導かれた私たちは、修練会など何もありませんでしたが、この小さなアパートの一部屋で朝から晩まで、西川先生を中心にみ旨一筋に活動した生活そのものが、修練会のような日々であったと思うのです。
見るべきものも何もない、経済的にも極度に窮乏した日々であり、伝道してもなかなか受け入れてもらえない、そんな当時の厳しい環境の中で、私たちがあれほど希望に燃えて喜々として活動することができたのは、文字どおり血と汗と涙を流し、命懸けで日本教会を興してくださった西川先生の愛と犠牲ゆえであったことは言うまでもありません。
そしてさらに、ひと度この罪深い国を「エバ国(母の国)」に定められたがゆえに、いかなる国や民族にも増して常に思いを馳せてくださり、この国に一人、二人と誕生していく食口たち一人一人を覚え、絶えざる祈りと熱き心情を注ぎ続けてくださった真の父母様の愛ゆえに、かくも導かれていた日本教会であったのだと、今つくづく思うのです。
開拓伝道の始まり
当時、私たちの伝道対象者はまずクリスチャンたちでした。毎日教会を訪問したり、信徒名簿の中から影響力のある著名な人々を選んで伝道に行っていました。一般の人々に対する伝道は、夕方の路傍伝道の時だけでした。しかし、そのような街頭からも当時クリスチャンの自民党議員が導かれ、三回ほど西川勝先生の講義を受講されたこともありました。
思い出深いのは、その年(一九六一年)の三月から四月にかけて、東京体育館において四十日間連続で開催されたキリスト教会共同主催の「美しい音楽と素晴らしいメッセージの夕べ」という大クルセードの会場前で、大々的に活動したことです。
「すべてを知って実現する時が来た。科学的論理的実証的理論に耳を傾けよ」というパンフを手渡しながら、積極的にクリスチャンたちに呼びかけたのです。おそらく彼らの目には、二十名くらいのメンバーが活動しているかのように映ったかもしれませんが、実際は五、六名の食口たちで行ったことでした。しかし目に見える成果は特にありませんでした。
やがて六月を迎え、飯田橋にあった四畳半一間のアパートから待望の一戸建て住宅(とはいえ二間だけの殺風景な家)に引っ越した直後、いよいよ地方への開拓伝道が開始されたのです。最初は大阪、京都、名古屋、広島、仙台などの主だった都市に、開拓伝道者が派遣されることになりました。六月中旬に増田勝兄が大阪に、七月初旬に私が京都に、そして下旬には松本道子ママが名古屋にという具合に順番に出発して行きました。
当時の開拓伝道は韓国における伝統をそのまま引き継ぎ、単身で四十日という限られた期間に三人以上の霊の子女たちを伝道し、その地に神様が働く基台を造成するというものでした。その際、教会から支給されるのはその町に行くための片道切符と千円だけでした。聖書と『原理解説』とごくわずかの着替えを持参して、まだ新幹線もなかった当時、私たちの出発は決まって東京駅発の真夜中の鈍行でした。関西などへも十時間以上もかかって到着したものでした。
開拓者が出発する夜は、西川先生はじめ全食口が東京駅のホームまで見送り、人目もはばからず聖歌を歌い祈祷し、一人一人と固い握手を交わして列車に乗り込みました。見えなくなるまで手を振り合い、座席に戻った後は一人涙の祈祷をささげるのみでした。とにかく二、三日先の自分がどこで何をしているのか見当もつかない、あたかも戦場に赴く兵士さながらの出発でした。
その年、そのように出発した開拓者たちによって三、四か所に拠点が築かれ、その翌年はその倍の十か所くらいに開拓伝道者が派遣されて行きました。そうして、そこから一人、二人と伝道されたメンバーが本部に集められ、少しずつ食口たちが増えていきました。
やがて一九六二年の夏、故久保木修己先生が伝道されてからは爆発的に人材復帰が進むようになり、定期的な特別修練会も開催されるようになって、着実に教勢は広がっていきました。
私は一九六三年三月に、第一期特別修練会が開始されるまで地方で開拓伝道をし、修練会が始まってからは本部に上がり、当時復帰されたばかりの周藤健講師と共に原理講義を担当するようになったのです。特修以外の時は、新宿御苑の真ん前にあった白鳥ビル原理講義所で、一日十二時間以上にわたる、入門者のための原理講義に明け暮れる日々でした。
以後、教育畑で奉仕することが多かった私にとって、実際に開拓伝道に取り組めたのはたったの三か所だけでしたが、そのいずれもが忘れがたい貴重な思い出になっています。松本道子ママのように立派な実績は何一つ残すことのできなかった私でしたが、二十代を過ぎたばかりの何も分からない世間知らずの私が、伝道活動を通じて教えられ悟らせられ、育てられていった道のりであったと思うのです。
さまざまな出来事を通して人間の弱さ醜さといったものを思い知らされ、このような存在を救済しようとされたイエス様をはじめとする義人、聖人たちの心情、そして何よりもそのような長い人類救済のための歴史路程を耐え忍んで来られた神様のお心に触れることができたのです。それによって自分のことしか考えられなかったわがままな自分自身が、少しずつ変えられていった、何ものにも代えがたい天の恩恵溢れる訓練期間であったと思うのです。
広島開拓伝道の思い出
そのような中でも、一九六二年八月からの七か月間、たった一人で過ごした広島開拓伝道の思い出は、自ら限界状況に追い込まれながら、神様によって生き残り、自分自身を大きくつくり変えることのできた忘れられない日々となったのです。その期間の出来事を少し記してみたいと思います。
前年の京都に続いて二度目の開拓伝道でしたので、その体験を踏まえて出足はすこぶる好調でした。八月四日早朝、広島駅に降り立ち、市内を見下ろせる比治山に登り、被爆後十七年目を迎えていた市内を眺めながら、ひとしきり祈祷した後、さっそく下宿を探して歩きました。
広島駅から北方に広がる開拓部落の一軒に空部屋があると聞き、見に行くと家主さんが「離れ」だというその部屋は、窓のない一坪くらいの大きさの天井の低いほとんど物置同然の小屋でした。しかし、専用の出入り口がついていて、当時でも安価な七百円という家賃が気に入って、さっそくそこを借りて手荷物を運び入れました。
その日の午後から伝道を開始したのです。京都の宗教者たちから紹介された方々を訪ね、間もなく開催される「世界宗教者平和会議」参加の資格を頂き、六日の被爆記念日に開催されたその会議では、何名かの先生方とも知り合いになることができました。
しかし、やっぱりクリスチャン伝道をするために月曜日の朝祷会に参加してみました。市内の主な牧師さんや信徒たち三十名くらいが、朝食を共にしながら広島の救いのために祈り合うのです。その日東京から一人開拓伝道にやって来た若い私に、皆の関心が集まりました。そして、次週の説教は何と私にやってほしいということになったのです。
思いがけないチャンスが与えられ、次週私が行ったのは「神の愛」というテーマの二十分くらいの短い説教でした。でも皆、口々に「とても分かりやすくて良かった」と感想を述べてくださり、工場を経営しておられるある長老さんは、「是非職場の朝礼に来てお話ししてほしい」と言い、また別の方は「毎日でもいい、自分に聖書の手ほどきをしてくれまいか」と依頼してきました。私は二つ返事で承諾し、その翌日から郵便局長さんをしておられるその方のお宅を訪問して、朝の一時間、聖書を解読するための勉強会として、さっそく原理講義を開始したのです。
また、前年四十日間だけ開拓伝道に来た兄弟が残していった名簿をもとに、広島大学の聖書研究会の学生たち数名を訪問してみると、彼らも皆講義を聞いてくれるというのです。私はいつも小さな黒板を携帯し、彼らの下宿先でそれを用いて講義をしたり、時には広島公園の涼しい緑の木陰で黒板講義をしたものでした。さらにある教会で出会ったクリスチャンの婦人が講義を聞いてくださることになり、そのお宅を訪問すると同じ教会の婦人三、四名が一緒に受講したいと待っていてくださいました。
十数日過ぎるころには、何と十一、十二名の人々が講義を聞いていたのです。このような調子でいくならば、四十日どころか三十日くらいで教会の礎を築くことができるのではと元気いっぱい歩んでいたのです。
しかし、神様はそのような順風満帆の道を私にお与えにはなりませんでした。保守的な地方の都市のことです。私がいろいろな教会で信徒たちを伝道しているといううわさが、すでに市内の他の教会に言いふらされていたのです。新しい教会を訪問すると「ああ、あなたですか! 東京からやって来て、異端の教えを流し信徒たちを惑わすのは。うちは結構です!」とけんもほろろな応対で、どこへ行っても私の歩みはことごとく閉ざされるようになっていったのです。
あれほど熱心に原理講義を聞いて感動し、「今の教会は力がなさ過ぎます。すべてのクリスチャンこそこのみ言を聞くべきです」と燃えていた婦人たちまで、所属教会の牧師さんから「統一原理の教えを信奉するなら教会を除名する」と言い渡されて、変わっていきました。「このみ言は素晴らしいので必ず広がって行くでしょう。申し訳ないけれど、私はその時まで表立った行動はさし控えて、いたずらに波風を起こさないほうがいいと思うのです」などと言い出して、一人去り、二人去り、全員がくびすを返してしまったのです。
聖書研究会の学生たちも教会からの影響なのか、あれほど興味を持って学んでいたのに急に受講を断ってきたり、最後まで講義したのに「しばらく考えさせてほしい」と言い出し、四十日が終わりに近づくころには何とそれら十数名の人々が、総倒れとなってしまったのです。信じられないことでした。
「人間って、こんなに弱いものだろうか……」あのように喜び燃えていた人々が、少しばかり風が吹きつけただけで、こんなにももろく簡単に崩れ落ちてしまうものなのだろうか。あまりのショックに、私自身の心の中も何かが音を立てて崩れ落ちていくような思いでした。
召命した人々が、皆失敗して去った時、神様もこのような恐ろしい空虚感を味わわれたのかと思うと、道を歩きながらも涙がこぼれました。これくらいのことでくじけてはならないと自分に言い聞かせながら訪問を続けましたが、それからというもの、歩いても歩いても善い人に巡り合うことができませんでした。
クリスチャンたちがあまりに難しいので、夏に出会った宗教者の先生方を次々に訪問することにしました。クリスチャンたちのように冷たくあしらわれることはありませんでしたが、壇上であれほど立派なお話をされる方々であっても、なぜか現実の活動になると熱意を示されず「偉いですね。ともかく頑張ってください」と感心して送り出してくれるだけでした。「天国実現、問題ではない!」というものの、伝えたくても誰もみ言に耳を傾けてくれず、お腹も懐も空っぽな日々が続いたりすると、いつの間にか弱気になりふっと溜め息が漏れたりしました。その都度、もう一人の私が自らを諌めるのです。
「お前はこの町に旅行に来たわけではない。楽しみやレジャーを求めてやって来たわけでもない。初めからこの町の重荷を担い、この町に天国を築くために汗と涙を流しに来たはずではなかったのか。弱音を吐くな!」。
こう自らに言い聞かせながら、伝道に励みました。しかし、なかなかみ言を求める人に出会うことができません。信徒名簿を調べて新しい人々を訪問するには、やっぱり交通費が必要です。そのころになって生まれて初めて質屋の門をくぐったり、血液銀行にも三度くらい通いました。
その日暮らしのために自分の血を売りながら生活している顔色の悪い人々の列に加わりながら、実力がないばっかりにこんな所に通わなければならない自分が何とも惨めに思えました。そのころ大阪で活躍する松本ママの華々しいニュースなどが伝わってきたりする度に、こんな惨めな自分を見詰めておられる神様に申し訳ない思いでいっぱいでした。
伝道を通して出会った神様
そんなある日、かつて喜んでみ言を受講してくださった婦人に町中でばったり出会いました。懐かしさに思わず駆け寄って声をかけると、私と話すのを他の人に見られまいとするかのようにこそこそ逃げるのです。まざまざと人間の弱さを知らされる思いでした。「人間なんて信じられない」そう思うと、新しい人に出会い話しかけながらも「この人もいつ変わってしまうかもしれない」という不安や不信の思いを感ずるようになりました。
また、夏以来一日も欠かすことなく訴え続けてきた路傍伝道にも、そのころになるともう足を止めてくれる人もいなくなり、そのような自分が悲しいと思いつつも、心に愛が冷えていくのをどうすることもできませんでした。
目抜き通りにある大きなデパートの前での路傍伝道を終えて、賑やかな繁華街を歩きながら、前や後ろにおしゃれをして楽しそうに通り過ぎて行くOLや人々を見詰めながら、言いようのない孤独感に襲われました。「ああ、私はこの町でひとりぼっちだ。私には行く所も帰る所もない。私はこの町に福音を宣べ伝えに来たのに、誰も私を振り向かない。この町もこの人々も、私にとっては異邦の町であり異邦の人々なのか」そう思うと寂しさがひしひしと心にこたえました。
「一人でもいい、美しい真実な人に出会いたい!」。この時ほど、そういう思いに駆られたことはありませんでした。今、目の前にそのような人が現れたなら自分は存分に愛せるだろうと思いました。
みんな神様を知らず、罪の中にうごめいているのです。この町に真実の義人はいないのだろうか。そう思った時でした。「義人なし、一人だになし……」聖書のみ言が私の心を刺し貫いたのです。
ああ天の父ご自身が、今まで真実の人を求めて飢え渇いておられたのです。ご自身が見いだされ愛されなかった以上に、全き愛の根源であられるお方が真に愛することのできる対象を見いだし得なかったその寂しさは、どれほどのものだったのでしょうか? 今更のように神様の悲しいご心情が身に染みて感じさせられました。
そのように、来る日も来る日も神様を知らず自分本意に生きる人々ばかりを見るにつけ、当時まだ一握りにも満たない小さな群れでしかない教会の兄弟姉妹がむしょうに恋しく、どんなに欠点だらけで幼かろうともみ旨のためにすべてをささげて生きているその姿があまりにも尊く美しく、大声で呼んでみたいほどの衝動に駆られました。
しかし、それからはさらに厳しい試練の日々となったのです。一日中足を棒にして歩いても、善い人に巡り合うことができず、何の収穫もないあたかも一人広漠とした荒野を行くがごとき日々が続きました。心は渇きやがて神様すら、このような自分から遠のいてしまわれたように思える日がありました。
何を見ても次第に無感覚、無感動になり、「お父さま!」と呼びかける祈りさえ虚しく空に響くようで力のこもらないお祈りになりました。もはや神様に祈るというより、自分自身に言い聞かせるように、来る日も来る日も同じ祈りの口上を繰り返しました。
「天のお父様。あなたの道を歩んだ多くの人々が途中で脱落していきましたが、彼らがどういう時にあなたを裏切り、み前を去って行ったか私には分かるような気がいたします。しかしいったんあなたのみ前に捧げたこの娘の心は、すでにあなたのものです。サタンが今、私を襲い、たとえ全心情、全感覚を奪い取っているとしても、ひと度み前に誓った私の誓いはすでにあなたのものです。誓いを翻し、あなたを裏切るような卑怯な者にはなりません……」。
どのくらいの期間だったでしょうか。このようにして祈ったこの期間こそ、私にとっては最もつらく難しい荒野の試練の時であったと思うのです。正直言って、救いも天国も教会建設も、どうでもいいような気持ちになっていました。しかし一点だけ「原理」のみ言が、私の心に引っ掛かっていたのです。
私たちがこの道を歩む際、最も難しい試練は天から見捨てられるその時なのだと、いつも西川先生が語っておられたのです。最初の人アダムが神を捨てて堕落したため、人間救済の道においても神はひと度人間を見捨てざるを得ないような立場、すなわち神も干渉し得ないある段階があるのだという箇所でした。今まさにそのような段階に、自分自身が立たされているような気がしたのです。
そうであるとしたら、何が何でも乗り越えねばならない、そういう思いだけが心に残っていました。そういう状況下にあっても毎日機械のように出かけ、訪問して歩きました。そんなある日のこと、北欧から来られた二人の美しい女性宣教師が牧会している教会に導かれました。
最初は心から歓迎を受け、共に祈り合ったりもしていました。ところが、やがてその教会で信仰に行き詰まりを来たしていた一人の若い姉妹に、私が原理講義を始めたことから急に亀裂が生じ、二人から呼び出しを受け、とうてい主にある信仰者とは考えられないほどにひどく罵られたことがありました。
彼らの憤りが分からなくはありませんが、現にあれほど悩んでいた姉妹が信仰を深めることができたのですから、み旨ということを考えるなら理解し合える問題であったと思うのです。しかし、受け入れてもらえず、教会を出るともうすでにとっぷりと日は暮れていました。あまりのことに涙がとめどなく流れました。
罵しられたことが悲しいのではなく、神様のために海を越えて宣教のために命懸けで取り組んでおられる方々の内実が、天のみ意はおろか神様のみ名が汚されようが信徒たちが迷い出ていようが、それ以上に自分たちの信徒数が減ることを問題にしていたことが悲しかったのです。
み旨のために生きると言いながら、人間たちはあまりに自分本位であり、今日まで神様のみ意を行うために命懸けで伝道した人々も、その多くは神様のことを思うより天国における自らの栄光を目指していたのではなかろうか。み名を呼び求め神様を愛すると豪語する人々ですら、このような状況であるとしたら、今日まで一体誰が神様のみ意を知り得たのであろうか……。
誰一人、真実に神様のご心情に触れた者はいなかったのだという事実が今更のように理解でき、そのお可哀想な神様をどのようにお慰めすべきかと思うと、後から後から涙が溢れました。私が泣いているというより、私を通して神様ご自身が泣かれているような気がしたのです。
「お父様! どうぞお泣きにならないでください。今、あなたのみ意を知ったこの娘が、身代わりとなってあなたのご心情を宣べ伝え、お心を安んじ奉りますから……。どうぞお泣きにならないでください」。真っ暗闇の小径でいつまでも泣きながら祈り続けました。
その日から私の内に、再び祈りの力がよみがえって来ました。「ああ、この一、二か月間私は何をやっていたのであろうか」多くの人々が去ってしまったからといって、愛を失い勇気を失って、まったく死人同然にすっかり生気を失ってしまっていたのです。確かに多くの人々は去った。しかしそれは、彼らがもう一つ神様のみ意を知り得なかったからでした。たとえ人々は去ったとしても、み言を通じて神様のみ意を知った私だけは決して変わってはならなかったのです。
「もし私まで変わってしまったら、神様はこの大きな広島の町にひとりぼっちになってしまわれるではないか。何千年の間、たったお一人でやり切れない空しさと孤独に耐えて来られた神様を再び、そのような立場に追いやることができようか。この神様がいらっしゃる限り、私はこのお方から離れることはできない。お父様! この町の人々が皆去ったとしても私がいるではありませんか! どうぞ私を通してあなたのご心情を訴えさせ、あなたのみ旨を成就させてください」。
そのように祈りながら、私は生き返っていきました。去る者は去れ! しかし、私はこの神様と共に永遠に歩むのだ。新しい決意とともに、再び全身に力が漲ってきました。初めて広島に降り立った時のような新鮮な心情と情熱がよみがえってきたのです。
そのようにして、私自身が復活するや否や、それまで既成教会で求道中であった一青年に出会い、彼は順調にみ言を聞き進み難なくこの成約の信仰に立つことができたのでした。この青年こそ在日韓国人青年の初穂として伝道され、多くの兄弟姉妹を生み育てた星野一夫兄弟だったのです。難しい環境の中からすべてをささげて神様の召命に応えてくださり、続いて広島大学の女子学生ともう一人、YWCA(キリスト教女子青年会)で出会った勤労婦人が実っていったのです。
思えば広島での七か月間は、私自身の復帰のためにあった路程のように思われてならないのです。何一つ華々しい成果を上げることはできませんでしたが、自己の限界に挑み、その歩みのまっただ中から神様のご心情に触れ、それによって新しい私自身に復活することができたのです。
それ以後の私は、確かに何かが変わったと思うのです。もし広島のあのような歩みがなかったなら、私は今ここに存在していなかったのではないかとさえ思うのです。
講義に明け暮れた生活
一九六二年に久保木修己先生が入教されて以来、立正佼成会の人々にみ言が伝えられる道が開かれ、一九六三年三月から開始された第一期四十日特別修練会は、地方開拓伝道の実りとしての十人内外の人々以外は、全員立正佼成会の青年たちで占められていました。
初めはお数珠や法華経を持参して修練会に参加していた青年たちも、やがて十数日が過ぎるころには「統一原理」の内容をよく理解するようになりました。仏教の教えもさることながら、すべての宗教を包括して余りあるこのみ言の前に完全屈伏し、聖書の歴史やイエス様の十字架の贖罪に涙を流して、天地創造の父なる神に向かって「天のお父様!」と涙して祈るようになっていました。
改めてみ言の偉大さを実感するとともに、地方で一人の魂の救いを求めて汗し涙して来た者たちにとっては、一度に四十名の魂が、神様の愛に感涙し神様のみ前に忠誠と献身を誓うその姿は、あまりにも尊く美しくスタッフたちにとっても大きな心霊復興の場となったのでした。
引き続いて期間を短縮して二期、三期、四期と立て続けに修練会がもたれるようになり、わずか三か月余りの間に、何と百二十、百三十人の新しい兄弟姉妹が誕生していきました。
やがてその翌年、路傍伝道で導かれた人々がいつでも自由に講義を聞けるようにということで、新宿御苑前の白鳥ビル七階に原理講義所が開設されることになりました。西川勝先生からは、統一教会の玄関口として、いつ誰が来てもよいように真心と権威とをもって講義するようにというお言葉を頂き、それからの私はこの講義所に缶詰になって毎日、毎日原理講義に明け暮れるようになりました。
教会の映画会やピクニックも関係なく、盆も正月もありませんでした。唯一、私が講義所を留守にするのは日曜日の午前中、礼拝に参加する時のみでした。講義所には、実に様々な人々がやって来ました。クリスチャンをはじめいろいろな宗教者、霊能者たち、果ては議論のための議論をするためにマルキストたちや無神論者たちもやって来ました。
興味がなければ講義半ばでも、さっさと席を立ってしまいます。何とかみ言につなげるためにはいろいろな角度からの導入が必要でした。そのような環境は私にとっては、確かに貴重な良き訓練の期間であったと思うのです。
しかし、ある時は一日に「創造原理」だけでも三回も四回も講義しなければならない時もありました。最初は新鮮な喜びや感動をもって出発した講義生活も、やがて一年、二年と続くにつれ同じ講義内容をテープレコーダーのように語りながら、マンネリ化することへの闘いを乗り越えねばなりませんでした。事実、み言は語ってみなければ、その真髄を理解し得ないと言われます。
そのような時、自らの心と闘い神様にしがみつくようなお祈りをしながら、聴講しに来られた人々に真心の限りを尽くして自らを祭物として語る時、同じ内容を語りながら初めて学ぶような深い真理の世界に誘われ、み言の底知れぬ偉大さを教えられました。
こうして二年六か月、来る日も来る日も講義に明け暮れる生活は、確かに試練と闘いの連続であったかもしれませんが、また天の恩恵と愛とが最も豊かに注がれた恵みの日々であったと思うのです。
そんな当時の生活の中で、生命のオアシスともいうべき存在は、何といっても西川先生ご夫妻でした。しかしビザ問題解決のために、韓国にお帰りになって以来、韓国で過ごされることの多くなった西川先生に代わって、兄弟姉妹の心の拠り所はそのお留守を守られる申美植先生でした。
美植先生は、韓国教会において早くからこの道を先駆けて歩まれた大先輩として、日本にいらしてからも西川先生を助けながら、名実共に教会の母親的存在として全信徒たちの尊敬と愛情とを一身に集めておられました。美しく聡明であられるだけでなく、み言を深く体恤しておられるがゆえの優れた信仰生活指導は、それまでのどちらかといえば戦闘的気分の漲った教会の雰囲気を一変させました。
美植先生の何よりの魅力は、その透徹した説教にありました。語られる一つ一つのみ言が兄弟姉妹の心を潤し、聞く者をして神様が願われる本然の世界の素晴らしさや喜ばしさを感じさせる、清冽な響きをもっていました。気がついてみると、自らが求めた以上の喜びの世界に誘われている自分自身を発見したものでした。まさに説教によって育てられ、培われた嬉しい一時をもちえたのでした。
さらに、もう一つ美植先生に対して忘れることができないのは、この方あってこそ私たちに真の父母様の偉大さと尊さが教えられたことでした。遠く韓国と日本に隔てられ、一度も真の父母様にお会いしないままに過ごしていた私たちに、お側で近しく侍って来られた美植先生を通して真の父母様のお人柄やご生活が初めて紹介され、真の父母様に対する本質的理解と心の姿勢とが示されたことでした。そのような世界を教えられるにつれ、兄弟姉妹たちは心から真の父母様を慕うようになり、海を越えてお迎えできる一日を待ちわびるようになったのです。
真のお父様にお会いして
そのようにして迎えた一九六五年一月の末、いよいよ待ちに待った真のお父様のご来日が決定されたのです。前年の秋からお迎えのための準備が内外共に進められ、本部も下北沢から広い芝生の庭がある二階建ての白亜の殿堂(渋谷区南平台町)に移転しました。
そして一月二十八日の夕刻、夢に見た懐かしい真のお父様ご一行を羽田にお迎えできたのです。み言を聞いてから満四年余り、こうして初めて真のお父様にお会いする機会が訪れたのです。満面に笑みをたたえられた真のお父様が、空港の正面玄関を出て来られると、待ち受けた兄弟姉妹の間から期せずして聖歌「園の歌」の大合唱が湧き起こりました。どの顔も喜びと感激に輝いていました。
その夜は、渋谷の南平台の本部にて歓迎夕拝が持たれ、神様の愛をテーマとする深い内容の説教は二時間に及び、悲痛な神様のお心を訴えられながら、真のお父様の目からは幾筋も涙が流れました。
それからの日々は、まさに天宙に立たれる真のお父様を中心に、兄弟姉妹は一つになって静じ動ずる日々でした。二週間のご滞在期間を通じ、全国八か所に聖地をお決めになられ、その他の時間は時を惜しんでみ言を語ってくださいました。今日残っている名説教「イエス様の最期と我々の覚悟」「我々は中心を求めて一つになろう」「万民に必要とされる人」などは、この時、延々数時間をかけて、そのご心情を吐露されたものなのです。
真のお父様のご来日は、あまりにも大きな恩恵を日本の地にもたらしてくださいました。同時に私個人においても聖地決定の後半路程であった北海道、東北の旅にもう一人の兄弟と共に食口の代表としてお伴させていただいた忘れることのできない恩恵の日々となったのです。
その年(一九六五年)の九月末、真のお父様は世界四十か国を巡回されて、再度日本にお立ち寄りくださいました。主な地区を巡回されたほかは、本部教会にて連日連夜、熱心にみ言を語ってくださいました。相変わらず原理講義所で入門講義を担当する私は、それらの半分くらいしか参加することはできませんでした。
やがて、真のお父様のご帰国が近づいたある晩のこと、私を気遣ってくださった美植先生が、お話を終了されお部屋に引き取られたお父様のもとに私を案内してくださったのでした。すでに十二時を回り、他の人々は皆引きあげお部屋にはお父様と崔元福先生のみがいらっしゃいました。
そのような場所に案内され、胸がわくわくするほど嬉しい反面、何か身がすくむような思いがしました。確かに地方巡回にお伴をさせていただいたり、何度かお近くでお話を伺ったことはありましたが、このようにたった一人で真のお父様の前に立つのはこの時が初めてだったからです。
しかし真のお父様は、お優しい笑顔をされて私を迎え入れてくださり、その日の聴講者たちの様子などを尋ねてくださった後、「ところで、節ちゃんは日ごろどんなことを考えるの?」などと問いかけられるのです。初めは遠慮がちに受け答えしていた私でしたが、「それで?」「それから?」と、まるで私の話を聞くことが一番の楽しみであり、そのことのために自分は生きているのだといわんばかりに、全神経を集中して私の話に聞き入られる真のお父様のご様子に、ついつい引き込まれて自分でも不思議なくらい緊張がほぐれ、次第に子供のような気分に立ち返っていきました。
そして「ああ、このお方になら、自分の何もかもをお話ししてみたい。このお方だったら、どんなことでも、どんな醜いことも恥ずかしいことも、すべてを受け止めてくださるに違いない」自分の心の秘密をすべて吐き出して、重荷を下ろしたいような思いに駆られました。しかし、その場は楽しい話題で終始し、なおも真のお父様はいろいろお話ししてくださった後、「先生はね、早く節ちゃんを祝福して幸せにしてあげて喜ぶ顔が見たいな」などと、父親が幼い子供に語りかけるような慈しみ深い眼差しで優しくお話ししてくださったのです。私は幸福で胸がいっぱいになり、まさに天国に昇ったような心地でした。
お部屋を出て自分の部屋に戻りましたが、眠るどころではありません。使徒パウロの「わが恩恵汝に足れり」(コリント人への第二の手紙第一二章9節)の聖句が思い出され、今後いかなる恩恵に浴さずとも、天の私に対する報いは足りて余りあるという満たされた思いでした。
それまでの二十数年間の生涯が思い浮かびました。無邪気だった幼年時代の思い出、しかし、中学、高校、大学と成長するに伴い、自らの中に罪の思いが頭をもたげ、次第にそのような思いに振り回されるようになっていった自分自身の姿が思い浮かびました。
やがて求道生活が始まりました。しかしこの道に導かれてからも、相も変わらず後から後から芽ばえて来る堕落性と闘いつつ、自らの汚れと醜さに胸を打って泣いた日々のことなど、それまでの生涯の歩みが走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。
どう考えても今晩のひとときは、私には身に余る光栄なのです。何度も真っ暗な天井に向かって「お父様。なぜ今晩あなたは、こんなにも私を愛してくださったのですか?」と問いかけた瞬間でした。にわかに大きな力が私に臨み、その力の奥底から一つの澄んだ思いが私に向かって降り注がれてきたのです。
「なぜ私がおまえを愛するのか。それはおまえが私の子であるからだ。……おまえは今でもよく自らの幼い日を恋しがり、『あのころは清かった、美しかった』と言って懐かしむんだね。しかし、そのころの清さや美しさが比較にならない、私のおまえの中に埋めた神の似姿としての真の生命は、私自身が慕わざるを得ないほどに清く尊く美しいものなんだよ。しかし、生まれながらに罪の子としての運命のもとに生まれざるを得なかったおまえには、成長とともに罪が芽生え、次第にその罪がおまえを支配するようになっていった。おまえは悩んだね。
やがて私に救いを求め、信仰の道の門を叩いた。しかし、このみ言を知ってからも自らの罪と汚れに胸を打って泣いたね。しかしそういうおまえを私が一度でも責めたと思うか。そういうおまえが醜いからといって、顔を背けたことがあったと思うか。おまえが苦しむ前に悲しむ前に、私自身が苦しみ悲しんでいたんだよ。なぜなら、それが本当のおまえではなかったから。なぜ私がおまえを愛するのか。それはおまえがかけがえのない私の子であるからだ……」
激しく、強く、魂を揺さぶるそのみ声を聞きながら、私は初めて神様の真実の愛に目を見開かされる思いがしたのです。それほどまで神様の愛が、深く切実なものであったとは考えてもみなかったことでした。神様は深い憐れみによって人間を愛しておられるけれど、私のような見苦しい者を心から愛することなどおできになるはずがないと考えていました。
しかし神様は、そのような私をご覧になっておられたのではなく、神の子として私にお与えになった本当の生命、神様の似姿としてつくられた私の本質を信じ愛しておられるゆえに、現実のまだ醜い泥だらけの私をそのままみ胸に抱いてくださったのです。
それほどまでに貴い生命を宿した、神の子ゆえに大きくはかり知れない愛によって愛されていた私だったのです。ああ、そうであるとしたら、何という長い期間、私は自らの本質でないものに悩まされてきたのであろうか。私が今日まで苦しみ、悩み続けてきた罪は悪魔が私の内に植えつけた、やがては跡形もなく消え去っていかざるを得ない偽りの私だったのです。
しかもそのような私に関しては、私が悩み苦しむ以前から神様ご自身が悩まれ、心配されてこられたというのです。人は自らの重荷を理解し、共に背負ってくれるそのような存在を見いだす時、救いを得る思いがするものですが、全能なる神様がこの私の悩みを悩まれ、共に歩んでいてくださったということを知った以上、ほかに何を悩むことがありましょうか。あとはただ一日も早く、古い偽りの自分自身を脱ぎ捨てて、神様がそれほどまでに愛してくださる本来の私自身を発揮するためにのみ生きるべきなのです。
平安が臨み、限りない希望と感謝の思いが心に溢れました。「さあ、今までの一切のことを忘れて、これからは未来の本当の目的に向かって力いっぱい前進するんだよ」、神様がそう言ってくださっているように思えました。思えばこれまでの私は、自らの罪を背負いつつ必死になって歩んで来たのです。そのような歩みが、私にも初めてけなげなものに思われてきました。自虐的なまでに自己に対する責めと嫌悪感を持ち続けてきた自分の姿が、何とも痛々しく感じられました。
しかし、今晩からは違うのです。愚かなことに拘泥してきた私は、すでに過去の自分であり、これからの私は喜び勇んで目的の世界を目指して邁進するのみなのです。かくして、とうとう一睡もしないうちにその素晴らしい夜は明けてしまったのでした。
それから二、三日後、いよいよ真のお父様を羽田空港にお見送りする日がやって来ました。その日美植先生が私と並んで歩きながら言われました。真のお父様が私のことを「あの子はいい子だよ」と褒めておられたというのです。「えっ、私がいい子」。思わず涙が溢れそうになりました。
私はいい子などではあり得ない。自分のことは誰よりも自分自身がよく知っているのです。しかし次の瞬間、これは真のお父様が本来の私に対しておっしゃってくださったのだということに気がつきました。本当の私はいい子に違いないのです。そう思うと真のお父様のお言葉が素直に嬉しく、私のような者をそのように見つめてくださるお父様の愛に私は力いっぱいお応えしていこうと心から思いました。
すでに機上の人となられた真のお父様に向かって、きっとこの恩恵に報いる真の子女になりますと心で叫びながら限りない感謝と新しい決意を込めて、機体が青空の中に消えていくまで手を振り続けたのでした。
真のお父様のご来日によって、神様の真実の愛がいかなるものであったのかを懇切に教えられた私は、碓かにその日から大きく変わっていきました。そして、それから幾日もたたないある日のこと、お部屋で真のお父様にお会いしたあの晩、神様が私に語りかけてくださったみ言こそ、同時に実体のお父様が私に与えてくださった愛のみ言であったのだということに気づかされたのです。
あの日、惨めな幼い娘を前にして、真のお父様がお心のうちに抱かれた思いが、霊界を媒介として私に注がれてきた恩恵であったと知った時、私は改めてしみじみとその恵みをかみしめたのです。
まさにこのお方こそ、罪の中に呻吟する私たちを罪の世界より救いあげ、贖いのみ業を成就される救い主であられるとともに、かつての自分自身とは違うまったく新しい人格と心情に、万民を新生させてくださる永遠なる生命の父母様であられることを、心の内にはっきりと見る思いがしたのでした。